<年上妻・美佐子>1
時計を見る。──そろそろだ。
夕食を終え、会計を済まし、外に出た頃だろう。
その後の行動を意識し、躊躇し、逡巡しているところを、相手がモーションを掛けてくるタイミング。
鋭く研ぎ澄まされた勘が、何十キロも離れている光景を、時間も空間も完全に脳裏に映像化させる。
私は電話を取った。
もちろん短縮ダイヤルにも登録してあるが、こういう時は使わない。
指先が覚えている。──夫の携帯の番号は。
呼び出し音は二回でつながった。
私からの電話を無視したり、切らないところに、夫のスタンスがわかる。
家庭を──私を裏切るつもりは、ない。だが、相手はそれを知って仕掛けてくるしたたかな敵だ。
だが、夫もまだ飲み込まれきってはいない。これも予想通りだ。
「──もしもし?」
「あなた?」
「美佐子か。……うん、どうした?」
「早く帰ってらっしゃい。……私が焼きもち妬いてあげてる間にね。
今すぐ戻ってきたら、いっぱい、いい子いい子してあげるわよ。
でも、これ以上、香織といちゃついて遅くなるようだったら、……私にも考えがあるわ」
「──!」
「お夕飯はいらないわよね。<煉瓦亭>のフルコースでお腹いっぱいでしょうし」
「──!!」
「そこからまっすぐ帰ったら、10時半には家に着くわよね。門限はそうしておくわ」
返事を待たずに電話を切った。
普段はもちろん、夫に門限など切りはしない。
が、金曜の夜に定時に上がって、女に誘われるまま夕食を取った男には、多少きつめの対応が必要だ。
私は時計をちらりと見た。
残り一時間半。──自分の夕食と水周りの片付け物は終わっている。
少し掃除をしておくかな。メイクも直しておこう。
──午後10時25分。
おもむろにガムを取り出して口の中に放り込む。
ミント味は私の趣味ではない。夫の好みだ。
鏡をちらりと見る。何度か軽く微笑んでみる。すぐに納得できる微笑が作れた。
気持ちが浮つきかけた夫への妻からの特効薬は、嫉妬と怒りではなく笑顔だ。
十分に噛んでからガムを吐き出し、紙にくるんで捨てたときに電話が鳴った──夫からだ。
「はい?」
「あ、ああ、お、俺だけど、今、バス降りた。──これから走るから!」
玄関の時計を見る。10時29分。バス停からでは絶対に10時半には間に合わない。
「そう、──気をつけてね」
わざと感情をこめない声で答えた。夫は私の心中を読めずに焦っていることだろう。
まあ、バス停から家までの走って3分の距離は、車の通行もほとんどない安全な道だ。
この僅かな時間は、不安に駆られてもらうことにしよう。
私はくすりと笑って時計に手を伸ばした。
操作をし終え、元の位置に戻したときに、チャイムが鳴った。鍵とチェーンを開けて出迎える。
汗だくの顔は、ハンサムとは言いがたいが、それなりに魅力的だ。
私より二歳年下の夫だが、某大手企業で、年齢なりの仕事が勤まるくらいの能力と人間性は掛け値なしに、ある。
もっとも、そのどちらも内助の功あってのものだ、ということは、本人も十分承知しているはずだ。
それは上ずった第一声にしっかり反映されていた。
「──たっ、ただいま!」
「はい、お帰りなさい──10時29分、ぎりぎりセーフね」
わざとらしく時計を見つめてからジャッジを下すと、夫は蒼白な顔に驚きの表情を浮かべた。
本当の時間は10時32分。間に合わなかったことに動揺しきっていた顔に、安堵が広がる。
──門限の時間に間に合うかどうかは、実のところどうでもいいことだった。
動転しきった夫は、駅からタクシーに乗ることも思いつかなかっただろうが、別に10分早くつこうが
あるいは10分遅れてこようが、私の電話から全速で帰ってきたならば、私の反応は同じだった。
妻の、「敵」に対する勝利条件は、門限の遵守で得られるものではない。
と言うよりも、まさにこの瞬間から、この場にいない「浮気相手」と私との、女の戦いが幕を開けるのだ。
「門限、守ってくれたのね。──うれしいわ」
言うなり抱きついた。
いきなり怒られるのかと身を硬くしていた夫がびっくりする暇を与えずにキスをする。
ミント味の「お帰りのキス」は、日課だ。
だが、たっぷりと押し付けた後、唇を離してから至近距離で顔をじっとみつめてからの展開は、いつもと少し違う
「やっぱり、<煉瓦亭>ね。仔鴨のソテー。香織も趣味が変わらない子だこと」
「!!」
メニューまで特定されて、夫は可哀想なくらいうろたえた。
別に、夫が悪いわけではない。
香織──私の妹は、子供の頃から、私のものをなんでも欲しがるのだ。
相談に乗ってくれませんか……。
お食事でもしながら……。
少し飲みすぎちゃったみたい……。
ちょっとそこで休憩していきませんか……。
──香織の描くシナリオは恐ろしく幼稚でワンパターンだ。
──だが、私と瓜二つの顔と身体を持つ女なら、それで大抵の男を落とせる。
「い、いや、香織君が、相談に乗ってくれって言うから……」
無邪気な夫は、困惑しきった表情で弁解し始めた。
夫は、私が妹と仲が悪いのも知っている。私が嫉妬深いのも身に染みてわかっている。
私が電話を掛けたのも、それほど深刻な背景があるとは夢にも思ってはいない。
香織が本気で不倫するつもりで誘いをかけていた、ということを知れば、仰天するだろう。
だが、それは、夫が知らなくてもいいことだ。
私に黙って他の女と食事をしたことの罪悪感のレベルで全てを処理する。
それが一番賢いやり方だし、香織の自尊心にも一番ダメージを与えられる。
私はあくまで、「私に黙って義妹と二人で夕食を取ったこと」だけを問題視すればいい。
小心者の夫は、それだけで十分罪悪感を感じているだろう。
──押しどころと、引きどころは心得ている。
顔を近づけたまま、至近距離で軽く睨んで、押しの部分は終わり。
あとはたっぷりと引いて、「男」を立ててやればいい。
私は玄関にひざまずいた。
「美佐子…さん。何を? …ちょっと……」
ズボンに手をかけた私に、夫はうろたえた声を上げた。敬語まで使っている。可笑しいこと。
新婚時代から何百回としていることだ、私が何をしようとしているかは分かったらしい。
「──かぼちゃのサラダと、けんちん汁と、菜の花のおひたし」
「……え?」
「今日の私の夕御飯」
「──そ、それは」
一万円のコース料理を食べてきた身としては、つつましい食事を取った妻に責められると思ったのだろう、夫は身を硬くした。
「ふふ、別に怒ってないわよ。──ただ、たんぱく質が足りないなあ、と思って」
「──え?」
「ご馳走食べてきた人に、埋め合わせしてもらってもいいわよね」
言い終えると同時に、パンツを引き下ろす。夫は玄関で下半身をむき出しにされた。
「わわっ──!」
ちぢみあがっているモノを口に含むと、夫の動揺は激しくなった。
激怒しているとばかり思っていた妻が、いきなり玄関先でフェラチオを始めたのだ、さぞかし不意を突かれただろう。
「汚いよ、まだシャワー浴びてないし──」
「そんなこと気にする仲じゃない、でしょ?」
たしかに私はそういうことを気にしない。
二年前に夫が事故で大怪我をしてしばらく入院したときも、看病のかたわら、毎日口で慰めてやったものだ。
風呂に入れないので、濡れたタオルで身体をぬぐうのだが、男根は拭く前に口に含んだ。
汗と恥垢ですえた匂いがするモノをしゃぶられるたび、夫はすまながり、恥ずかしがったが、
同時に男として、妻の従属と奉仕に興奮し、満足しているのも手に取るように感じた。
その証拠に、あの時の私の口の中への射精は、普段より量が多く、味も濃かった。
夫は、痛い思いをしている自分へのいたわりと思っていただろうが、実のところ、理由としては半分だ。
後の半分は、<○○社の若手エリート>の肩書きを知った看護婦が、夫の部屋周りをうろちょろし始め、
そのうちの一人が患者とすぐに寝るタイプの女だということを、友人の女医から忠告されたからだ。
その女の巡回時を見計い、わざとカーテン細めに開けてフェラチオに励んで、口でいかせる瞬間を見せつけ、
精液を飲み込みながら睨みつけてやると、淫乱なナースもやっとあきらめた。
夫のペニスは小さく縮こまっていた。
もともと気が小さいタイプだ。
その代わり、妻がたっぷりと愛情を示し、励まし、おだてて自信を持たせると伸びる。
──私が一番扱いやすいタイプの男。
精神と同様、男性器も扱いやすい。
いったん口の中から吐き出し、優しく息を吹きかけながら指の腹でなでつけると、おそるおそる、と言う感じで大きくなり始める。
「今すぐ戻ってきたら、いっぱい、いい子いい子してあげる」──そう約束してあった。
夫は匂いを気にしていたが、実際にはほとんど匂いはなかった。
夕食に行く前に「万が一を考えて」というよりも、「なんとなく」トイレでウェットティッシュで汚れをぬぐったのだろう。
夫のペニスは綺麗なものだった。
息せき切って走ってきた証の新しい汗と、ごく微量の先走り汁の匂いしかしない。
香織が食事中に、夫が勃起するほどきわどい会話を織り交ぜてモーションを仕掛けたことが手に取るようにわかって
私は笑い出したいのを堪えるのに苦労した。
先端を改めて口に含み、鈴口を吸ってやる。ペニスはぴくんと反応してたちまち硬度を高めた。
「玄関、鍵閉めなきゃ」
「んんっ──そう言えば、今日くらいに回覧板回ってくるかも」
「そ、それはまずい」
夫は背後のドアに施錠していないことが気になるらしい。
横目で見ようとするが、50センチ後方のドアにはこの体勢では手が届かないし、視線も届かない。
「──あら、何がまずいのかしら。自分の家で自分の奥さんにフェラチオされて何か困ることあるの?」
「い、いや、そういうことではなくて……」
夫はうろたえたが、ペニスは大きく固くなる一方だ。
羞恥のスパイスは男にも有効である。
実際には、誰かが来たとして、門のインターフォンを押さないでくることはまずありえない。
お盛んなご夫婦として無責任なご近所さんたちの評判になるのは、私とて遠慮したい。
完全に勃起した──ここからは二分で済む。
指と舌と唇を総動員する。いつものテクニックに、普段使わないテクニックを程よく混ぜるのがコツだ。
(あなたの奥さんは、今日はちょっと本気だぞ)
言葉に出さなくても、夫にそう伝えることはできる。
「あ……いきそうだ…」
夫がスーツのままの上半身を震わせた。
「いいわよ、……出して」
容認の言葉を投げかけてから再度口に含むと、夫は私の頭を両手で軽く掴んだ。
されるままに固定されると、夫のほうから腰を激しく降り始める。フィニッシュはイラマチオになった。
「ううっ!」
口の中でペニスが力強く脈動してはじけた。
大量の精液が私の中に吐き出される。舌の上に降りかかるおなじみの感触と匂い。
最初に射精したものはゼリー状で、だんだんと粘液に変わる。
今日始めての射精に間違いない。──おまけに体調はベストだ。
いや、それはわかっていたことだが。
最後の脈動が収まった。夫は余韻に身を浸している。
精液を口の中に溜めながら尿道に残った分を吸いきるのはなかなか難しいが、何度もやったことだ。失敗はしない。
十分に間を取って、私は立ち上がった。
「あ……」
何か言おうとする夫に、にっこりと笑いかける。
「んふふっ──」
口を閉じたまま笑うと、口の中の精液の匂いが鼻に抜けた。今日は一段とまた濃厚のようだ。
私は夫に抱きついた。耳元に顔を寄せる。
くちゃくちゃ。
ぐちゃぐちゃ。
口の中の精液をどう扱っているのか、音をたてて耳元でたっぷりと聞かせる。
生臭い男の汁を、目の前の女が、唾液と混ぜ合わせ、舌の上で転がし、よく味わっている音を。
夫はびくっと身体を震わせた。
──ごくん。
飲んだ音も聞かせる。ためらいもなく、一滴残さず、全部。
「──ふう、ごちそうさまでした──美味しかったわよ、あなた」
耳元でささやく。顔を見なくても、夫が完全に陥落したのは背中に回した手の感触だけでわかった。
「また汗かいちゃったわね。──お風呂入りましょうか、一緒に?」
玄関の鍵を閉め、チェーンもしっかりかけてから振り向いて笑いかける。
すぐに頷くかと思ったが、夫は複雑な表情でこっちを見つめている。
ああ、このタイミングで来るか、随分素直だな。──心の中の夫メモを修正する。
「美佐子さん、その……ごめん」
夫は、頭を下げた。もう弁明も言い訳もない。本気で謝ります、のモードだ。
予想では二人でお風呂に入って洗いっこしたくらいで来るかな、と思っていたが、不意を突かれた。
──ああ、可愛いな、私の旦那様は。
──一生この男だけでいいや、私は。
これからするつもりのサービス、全部二割増しにしてあげよう。
まあ、言うべきことは言っておかなければ。
「……悪いと思ってる?」
「うん……ごめん──ごめんなさい」
「ふうん。そう。……じゃ、約束して」
「約束?」
「──あきらめる、って」
「え?」
「他の女の子と仲良くしたり、メールしたり、二人でご飯食べたり、デートしたり、あわよくばエッチしたりすること。
たくさんの女にちやほやされたり、いちゃいちゃしたり、個人的な好意を持たれたりすること、全部あきらめるって」
「──」
「世界には30億くらい女性がいるけど、私以外の29億9999万9999人からは好かれようと思わないで。
でも、それができたら、残りの一人は、30億人分たっぷり貴方を愛してあげる」
「──」
「貴方は、一生、私ひとりにちやほやされていればいいのよ」
「──はい」
夫は神妙な顔で頷いた。こちらはこれで万事完了だ。──香織のことは、後日きっちり片をつければいい。
「よろしい……お風呂、入りましょ。──その後は、ベッドでたっぷり<仲直り>してね」
「あ、ああ!」
こくこくと頭を振る夫の手を引いて、部屋の中に入った。
今夜は金曜だ。<仲直り>にたっぷり時間を掛けられる。
──今晩だけでなく、土曜と日曜を丸々ベッドの中で過ごすのも悪くないかも知れない。