<剣術指南・上>

 

 

「甘いっ!」

容赦のない一撃が、僕の横っ面に打ち込まれる。

かろうじて、目の辺りは避けたが、頬骨が砕けたかと思うような衝撃に目がくらんだ。

「まだまだ──」

完全に勝負があった一撃の後なのに、兵馬は、さらに喉に突きを入れてきた。

(がはっ!)

僕は血を吐いてもんどりうった──らしい。

床に倒れこむ前に失神していたから、よくわからない。

 

──気がつくと、僕は道場の隅っこに転がされていた。

頬が、火のように熱い。手で触れると、血がにじんでいた。

水が欲しい。

よろよろと立ち上がり、壁伝いに廊下に出ると、葉月が通り過ぎるところだった。

「──あら、辰之助さま。気がついたのですか?」

口調は丁寧だが、針のような視線に、僕はうつむいた。

その針は氷のように冷え冷えとしていて、しかも毒がたっぷり塗りつけてある。

「うん」

「また兵馬様に負けたそうで。──いい加減、みっともないと思わないのですか」

「……すまない」

「こんな弱い殿方が許婚とは、私の立場も考えてくださいませ」

「……悪い」

「それも聞き飽きました。──どいてくださいませんか。そこに立たれると邪魔です。

お客人──でもないですが、一応そうしておきましょう──にお茶をお出ししますので」

慌てて脇に寄ると、葉月は汚い物でも見るように僕を一瞥して奥へ入っていった。

実際、今の僕は見も心もボロ雑巾のようだが、その視線が傷口に塩を塗りこまれるように痛い。

惨めな思いで縁側から降り、裏手の井戸へ向かう。

冷たい水を頭からかぶり、ごくごくと喉を鳴らして飲んでやっと息がつけた。

幸い、骨は折れていないようだ。

夏にアバラを折られて寝込んだばかりだから、軽傷なのはありがたかった。

隣藩までも知られる同年代の麒麟児・兵馬には全然かなわない。

たとえ僕が家老の跡取り息子であっても情けないものは情けなかったが、それが現実だ。

兵馬の取り巻きとか、口さがない連中は僕のふがいなさをののしるけど、

──あいつは剣の天才だ。僕なんかが敵うわけがない。

それでも、地元の名門道場の娘である葉月が許婚の僕は、兵馬に勝たなくちゃ結婚もままならない。

それはいつになることやら。

葉月が痺れを切らして僕に冷たく当たるのも、こんなザマじゃ仕方ないかな。

もっとも葉月は、初めてあったときから僕に冷たかったような気がするが。

よろめきながら中庭に戻ると、離れに入っていく葉月が見えた。

なんとなく、そちらのほうに足が向かった。

葉月が離れに茶を運んで行くということは、

そこに、葉月の父でこの道場の主である一牙斎先生が客人と会っているということだ。

盗み見する気はなかったが、ぼうっとしている頭ではそこまで考えられなかった。

ふらふらと近寄った僕がぴたりと止まったのは、離れから凛とした声が聞こえたからだ。

 

「──では、どうあっても立ち合いはしていただけぬと」

「当たり前じゃ。親子で立ち合う道理などなかろう」

「出立前は、私が望まぬとも何度も立ち合いをいたしましたが」

「……あ、あの頃は、そなたも修行中の身じゃ。今とは違う」

「今も修行中の身でございます。一手ご指南を」

道場破り? 一牙斎先生のうろたえる声は珍しい。

でも、……親子?

立ち合いを望んでいる人の声は──女の人のようだった。

僕は離れの裏に回った。

窓からそっと伺って、あっと声を上げそうになった。

 

 

 

 

(弥生さんだ──)

一牙斎先生の前に座っているのは、葉月の姉・弥生さんだった。

先生の長女で、僕や葉月の四つ上だから、もう二十歳になるはずだ。

剣の腕はめっぽう立って、道場にいる頃から天才の名をほしいままにしていた。

今年十八になる先生の跡取り・宗太郎師範よりもずっと上だと噂されている。

──僕も、そう思う。

三年前に女だてらに回国修行に出て行く前は、兵馬や宗太郎師範もまるで子ども扱いだったから。

女でなければ、そして「もう一つの理由」がなければ、きっと道場の跡取りになっていただろう。

(帰ってきてたんだ)

僕は心臓がドキドキしているのを感じた。

葉月も美人だけど、弥生さんはもっと美人だ。

柳のようにすっとした眉をしかめる様子さえ、美しい。

ん?

眉をしかめる?

──そう、弥生さんは、一牙斎先生を睨みつけていた。

今更ながら、僕は、離れにただよう重苦しい空気を感じてたじろいだ。

そうだ、立会い──。

さっき、弥生さんは、先生に立会いを望み、先生がそれを断ったんだ。

ぼんやりと思い出した僕の目と、弥生さんの眼がふと合った。

(まずい──)

盗み聞きする気なんかなかったけど、結果として、これは申し開きのないような盗み聞きだ。

しかも、先生親子の間の微妙な問題を。

弥生さんが騒ぎ立てたら──先生に怒られ、葉月に虫けらのように軽蔑されるだろう。

僕は目の前が真っ暗になった。

だが、弥生さんは、何事もなかったように視線を戻して先生を見据えた。

「では今日のところは諦めましょう。いずれは立ち会っていただきますが」

「む──」

先生はあいまいな返事をした。こころなしか、その背中が小さく思えた。

「──お茶が冷えます」

冷たい声で、葉月が言った。

また重い沈黙が離れを支配し、僕はそっとその場を後にした。

 

(──弥生さん、先生と立ち合いたくて戻ってきたんだ)

それは、先生に勝てる自信と実力が付いたということだ。

近隣諸国に知られた剣豪・鳴神一牙斎先生に。

僕には到底届かない、世界。

弥生さんは、女の人なのにその世界に届いている。

兵馬に打ちのめされたことや、自分の無力さを覚えた僕は、

まっすぐ屋敷に帰る気にならなくて、夕暮れの河原に下りた。

冷え始めた空気が、熱を持って腫れあがった肌に気持ちいい。

床にぶつけた衝撃のせいか、頭はぼんやりとして、耳鳴りがひどかった。

今日は色々なことがあって考えがまとまらない。

帰ろうと思って立ち上がった僕は、ふと、土手のずっと向こうに見慣れた人影があるのに気がついた。

(──葉月?)

きょろきょろと辺りを見回して河原に降りていく許婚の様子に

ただならないものを感じた僕は、その後を付けていった。

(今日は覗き見ばかりだな)

心の中で苦笑した瞬間、僕の心臓が凍りついた。

「遅かったじゃないか」

葉月にかけられた声は、兵馬のものだったからだ。

 

 

 

 

「ごめんなさい、弥生が居座っていてなかなか抜け出れなかったの」

葉月の華やいだ声が聞こえる。

四つ年上の姉を憎憎しげに呼び捨てたことよりも、声の甘さが僕を愕然とさせた。

思わず近づいて、茂みの中から向こうを伺う。

「──?!」

葉月は、兵馬に口を吸われていた。

街娘たちがうっとりと見送る美丈夫と、町奴たちが振り返る美少女が

唇を合わせる姿は、旗から見れば一幅の絵のようだったかもしれないが、

無論のこと僕は、そんな感想をもてなかった。

葉月は、僕の許婚だ。

──それが何故?!

頭の中が真っ白になる僕の目の前で、口付けは長く続いた。

二人が口付けを終えたときも、葉月と兵馬の唇は唾液の銀色の糸でつながっていた。

口を吸っている間よりも、葉月が、その糸を舌でぺろりとなめ取ったのを見た時のほうが

僕の受けた衝撃は大きかった。

だが、二人は、もっと破廉恥な事を始めるつもりだった。

「葉月、口取りをしてくれよ」

兵馬がにやにやと笑いながら言った。

「ふふふ、いいわよ」

葉月が楽しそうに笑いながら、兵馬の前にしゃがみこむ。

慣れた手つきで袴を下ろし、下帯を緩める動きを見ながら僕は、

葉月の笑顔を見たのは幾月ぶりだろうか、と馬鹿な事を考えていた。

下帯から解放されて、ぶるん、と勢いよく飛び出た兵馬の男根に、葉月が愛おしげに唇を這わす。

口を開いて先端を受け入れた。──僕の婚約者が。

じゅぷじゅぷという湿った音は、まだ性交経験がない僕が離れて聞いていても

はっきりと分かるくらいに巧みで熱心なものだった。

「ふふ、相変わらずしゃぶるのが上手いな、葉月は。

──辰之助に嫁いだら、あいつにもしてやるのか?」

「まさか。──あんな愚図にしてやるわけないじゃない。

手を触れられるのも気持ち悪いというのに」

「そりゃ、残念だ。お前の口取りは最高なのにな」

「他の男のものならともかく、辰之助のだけは嫌よ」

憎々しげに言い放つ葉月の声は、どこか遠くから聞こえるようでいて、

そのくせはっきりと、僕の頭の中に響いた。

(あいつ、そんなに僕のことが嫌いだったんだ……)

家に帰って、葉月との仲を破談にしよう、あの娘を解放してやろうと

ぼんやりと考えた僕の耳に、それをぶち壊す会話が入ってきた。

「で、辰之助との縁談は進んでいるのか?」

「ええ、父はとにかく話をまとまらせたがっているわ。

最近体調も悪いみたいだから、気力も弱って母の言いなりよ」

「はは、あの爺い、そろそろくたばるか」

「家老家との婚姻だ、目の黒いうちに決めたいよな。お前ももう少しでご新造さんか」

「ふふふ」

葉月はにやりと笑って兵馬の男根の先をじゅるりと吸い上げた。

美丈夫の端正な顔が快楽に歪む。

「おおっ、出すぞ」

兵馬が、葉月の頭を抑えつけ、眉をしかめた。

腰の辺りが小刻みに震えている。

精を放っているのだ。──僕の許婚の口の中に。

葉月は当然のように、兵馬に口内への射精を許した。

ため息をついて兵馬が男根を抜くと、葉月の唇との間を精液が糸を引いて伸びた。

「ふふ、相変わらず、すごい量ね」

葉月は口の中の兵馬の精を固めて吐き出した。

ねっとりとした塊が河原の砂の上に落ちる。

「はは、さすがに飲まないか」

「今はちょっとね。──でもあの愚図と結婚したら貴方の飲んであげるかも。

兵馬の精を飲んだ唇で、あいつの口吸いに応じてやろうかしら」

「そいつはいい」

兵馬はケラケラと笑った。

 

 

 

 

川の水を口をすすぐ葉月の尻に、兵馬の手が伸びる。

「──じゃあ、縁談を決めるために、一度だけ辰之助に試合に勝たせてやるか」

「そうね。兵馬に勝てたら結婚してもいい、という感じになっているから」

「まぐれ勝ちでも何でも、御家老家と爺いにとってはそれで格好が付くだろう。

十日後に、爺いの前で立ち合いをしてやる。あの愚図の、最初で最後の晴れ舞台だ。

ま、俺にも体面があるから、傍から見て八百長というのがはっきり分かる形にはするがな」

「ふふふ、けっこう負けず嫌いね」

「あの愚図にもわからせてやるのさ。次代の家老殿に、この先一生の貸しだ」

「悪い人ね」

「ふふ、そこに惚れているんだろ。──人妻になった葉月を抱くというのも愉しみだな」

「ええ、ちょくちょく来てよね。まあ、私は何も変わらないけど。

あ、でもこれからは私の中で出しても良くなるわね」

「俺の子を産むか?」

「ええ。あいつとは、赤さんのできない日に我慢して二、三度やって、

あとは兵馬から精をもらうわ。──愚図の子はいらないもの」

「家老家の跡取りは、他の男のタネか」

「ふふ、兵馬の子が家老になったほうが、よっぽど藩のためになるわよ」

「それじゃ、それまでは葉月の中に出すのはご法度だな。

花嫁がでかい腹を抱えてたんじゃ洒落にもならん」

まるで芝居か何かのように、すらすらと流れるやり取りを、僕は観客のように聞いた。

 

葉月は帯を解いて白い太ももをむき出しにした。

河原の大石に手を着いて、兵馬に尻を捧げる。

兵馬が背後からかぶさった。

僕の婚約者が僕の敵と交わる様子は、涙でぼやけていたはずけど、

なぜか、これ以上ない、と言うくらいにはっきりと見えた。

葉月の股間から聞こえる粘液質な音も、続いている二人の会話も頭の中に執拗にとどろいた。

「……ふふ、兵馬のほうの縁談も進んでるわよ」

「ああ、弥生とか。──お前の母親は、よっぽどあの姉弟のことを嫌っているらしいな」

「もちろん。メカケ腹の宗太郎に道場の跡を継がせるなんて許せないらしいわよ、母上は。

同じメカケ腹だけど、弥生の婿に兵馬を迎えて跡を継がせたほうが何倍もマシだって。

もっとも父が死んで落ち着いたら、弥生のほうも追い出すつもりでしょうけど」

「あの女は、あの女で味がよさそうだがな」

「まあ、憎たらしい」

葉月はあだっぽく笑いながら腰をひねった。

兵馬が軽くうめき声を上げる。

二人の交わりはいっそう激しくなっていった。

ぐちゅぐちゅという粘液の立てる音と、ぱんぱんと肉と肉がぶつかる音が響き、やがて──。

「ううっ、出すぞ。顔を出せ──」

兵馬は、女陰から男根を抜くと、ひざまずいた葉月の顔の前に突き出した。

「ああ……」

葉月の顔──女が一番気を使って綺麗に見せようとする部分に、兵馬の精がかかる。

僕の許婚は、僕の敵の精液を喜んで顔に受けた。

その様子に、僕は、不思議と衝撃を受けなかった。

もう心が乾いて、麻痺してしまったからかもしれない。

ただ、僕はしびれきった頭で、

(──弥生さんまで、騙され、利用されそうになっている……)

そのことだけを申し訳なく思った。

僕が弱いから、僕が情けないから、──こんなことになっているんだ。

兵馬と葉月。

お似合いの、力のある二人。

僕の人生は、彼らの餌でしかない。

僕は怒りよりも、脱力感でいっぱいになっていた。

息をすることすら億劫になっていた。

いっそこのまま、呼吸を止めて、ここで朽ち果てたかった。

──膝を付きそうになった僕の肩に、そっと手を置いた人がいた。

のろのろと振り返って、僕は息を飲んだ。

弥生さんが、悲しい目をしてそこに立っていた。

 

 

 

 

「……とりあえず、ここを離れましょう」

弥生さんは、僕の肩を抱きかかえるようにして河原から去った。

一緒に歩く僕は、もう頭の中が真っ白で、どこをどう行ったのかすら分からない。

気がついたとき、弥生さんと僕は、僕の家の近くにあるうらびれたお堂の前にいた。

「ここは──?」

「私の今夜のねぐらです」

弥生さんはちょっと笑った。

ねぐら、というちょっと乱暴な言葉が、弥生さんの口から聞けるとは意外だった。

「……弥生さん、道場に帰ってきたんじゃないんですか?」

「そう……ですね。どうするか、決めかねているところです。家は、居心地が悪いですから」

弥生さんは目を伏せた。

先ほどの事を思い出して、僕も押し黙った。

「何もありませんが、少し休んでいってください」

お堂の中に入って、僕は弥生さんから水を貰った。

竹筒の水を飲み干すと、先ほどの光景が頭の中に浮かんでくる。

麻痺していた感覚が戻り、乾いた心に水気が与えられて──痛みがぶり返した。

「──葉月……」

小さい頃から、仲が良いわけではなかった。

許婚に決められてからは、ことさら僕に意地悪で冷たかった。

それが愛情の裏返しなのだ、なんて思い違いはしていなかったが、

いずれ妻に迎える以上、たとえ愛情がなくても、お互い誠実に家を守ろうとは思っていた。

それが、あんなふうに裏切られていたなんて。

しかも、葉月は、これからも僕を裏切り続けるつもりだった。

情けない。

僕はぼろぼろと涙をこぼした。

飲んだ水が全部涙になるようだった。

「葉月のこと、姉として申し訳なく思います。──あの子は、父が育て方を間違えました」

弥生さんが目を伏せながら言葉をかける。

「妾腹の私や宗太郎と違い、正妻の義母から生まれた子なので、父はあの子を甘やかしすぎました。

私が家を空けた三年間で、これほどまで心の冷たい我儘な女に育っているとは思いませんでした」

弥生さんが家に戻らないでこんなお堂に寝泊りしているのも、葉月と何かあったんだろうか。

頭の中を圧迫する葉月への怒りと絶望感の隅っこで、ふとそんな思いが浮かぶ。

眼を伏せていた弥生さんが、ふと顔を上げたので、僕はどきりとした。

弥生さんは、まっすぐに僕を見つめた。

「──勝ちたいですか? 兵馬どのに」

「それは──」

その名を聞いて、頭の中に葉月の隣に兵馬が並んで浮かび、僕は身もだえした。

葉月を抱き、僕を馬鹿にし、陥れようとしている男。

僕が絶対に敵わない事を分かっているのに、ことさら挑発してくる男。

怒りと絶望感に、嫉妬と悔しさとが加わり、僕は発狂寸前になった。

誇りまみれの床に突っ伏し、拳でどんどんと木板を叩く僕に、天から静かな声が降ってきた。

「立ち合いは十日後、と言っていましたね。──勝たせて差し上げましょう」

「……え?」

意外な言葉に、僕は思わず、息を呑んだ。

弥生さんは静かに頷いた。

「兵馬どのに、勝たせて差し上げます。向こうの思っているような片八百長ではなく。

──正真正銘、誰もがわかるような本当の勝ち方で」

「そんな……無理だよ」

あの麒麟児に、僕なんかが勝てるわけがない。

「一牙流。父が衰え、弟も未熟な今、その正統な剣理は私にあります。それを辰之助様にお授けしましょう。

流派の名誉を穢した葉月と兵馬どのを、討ってくださいまし──」

弥生さんの瞳から、すうっと涙がこぼれるのを僕は見た。

葉月と兵馬が不貞をはたらくあの光景は、

弥生さんにとっても、信じ、全てを掛けていたものが壊れた瞬間だったのだ。

「──勝ちたい」

僕自身の悔しさより、弥生さんの涙がその言葉を引き出した。

「──ありがとうございます。きっと、あの悪逆の徒を討てる力をお授けします」

弥生さんは涙をぬぐって立ち上がった。

 

 

 

 

──決心したつもりでいたけど、お堂の前で弥生さんに対峙した瞬間、覚悟が萎えるのを感じた。

静かに青眼に構えるだけの弥生さんに、腕も膝もぶるぶると震え、打ち込みはよろばうようだった。

こんなんじゃ、こんなんじゃ──。

必死になればなるほど、身体が動かない。

兵馬と葉月の嘲笑う声が聞こえた。

僕は、臆病者だ。それも、そこから這い上がる努力すらもできない。

それがどんどんと僕の気力を奪っていった。

受け太刀をする弥生さんが、いつため息をついて木刀を投げ出すか、僕は恐かった。

やがて──。

体力はあまっているのにもう打ち込む気力さえなく、

ただ突っ立っている僕に、弥生さんがすっと木刀を降ろした。

ああ、せっかく協力してくれようとしている弥生さんにまで愛想をつかれた。

僕は情けなさでいっぱいになってがっくりと膝を付いた。

「──なかなか筋がよろしゅうございます」

「……え?」

「私の見るところ、兵馬どのはおろか、宗太郎よりも随分上でございます。十日あれば、十分」

「そ、そんな馬鹿な」

「──ただ、剣理をものにするには、辰之助様が閉じ込めているお心を開く必要がありますが」

弥生さんは、僕が予想だにしなかったことを言ってから、しばらく考え込んでいた。

やがて、弥生さんは小さく頷いて、僕を真正面から見て声を掛けた。

「そろそろ、夜になります。今はこれ以上続けても、辰之助様のお家の方が心配するでしょう。

一旦、お戻りくださりませ。……そして今宵、子の刻(午前零時)にもう一度ここに来てくださいまし。

私のほうも、準備をしておきます」

「あ、ああ、うん。……ね、子の刻だね」

弥生さんの静かな気迫に気おされ、僕は逃げるようにしてお堂を後にした。

 

屋敷に戻った僕は、湯を使い、床に入ったが、子の刻までもんもんとして過ごした。

稽古をつけてもらうのに、少しでも体を休めておかねばならないとは分かっていても、

今日あったいろいろなことを思い出すと、布団の中で身もだえして苦しむ以外になす術がなかった。

すっかり疲れきったころ、子の刻に近づいた。

悄然として身を起こす。

屋敷を抜け出して弥生さんの泊まっているお堂に行った。

「あれ?」

戸をあけてみると、お堂には誰もいなかった。

弥生さんはどこかへ行ったのだろうか。

やっぱり僕に愛想をつかして家に戻ったのかもしれない。

うつむいた僕は、お堂の中の雰囲気が、先ほどと違うことに気がついた。

なんだろう。──あ、床だ。

先ほど来たときは埃だらけだった床が、きれいに拭かれている。

古い木床だからぴかぴかとは言えないけど、塵一つないくらいに丁寧に掃除がされている。

「道場では掃除が最初の修行だと思いなさい」

弥生さんが回国修行に出る前、よく言っていたのを思い出した。

僕はけっこう守ってきたつもりだけど、

弥生さんが出て行ってからは道場の掃除はあんまり丁寧じゃなくなった。

宗太郎さんは師範になったし、兵馬たちはあんまりそういうことをしたがらなかったからだ。

最近では僕が掃除する姿は、連中のからかいの格好な的になっている。

「お待たせしました──」

ぼんやりとそんなことを考えていると、後ろから声をかけられた。

「弥生さん……」

「申し訳ありません。掃除に思いのほか手がかかりまして。

その後に友人の家で残り湯を貰っていたら、すっかり遅れました」

弥生さんの頬がほんのり桜色に染まっている。

こんなときなのに、僕はどぎまぎとした。

「では、中にどうぞ」

弥生さんはお堂に入って僕を手招きした。

てっきり先ほどと同じように、外で稽古するものだとばかり思っていた僕は、

ちょっと意外な感じがしたが、招かれるままにお堂の中に入った。

 

 

 

 

弥生さんは、綺麗になった床にきちんと正座した。ぴしっと背筋が伸びている。

僕も相対して正座したけれど、体が痛いので背筋はあまり伸びていない。

「先ほどの件、あの後、父に問いただしてきました。──父もうすうすは知っていたようです。

兵馬どのに私をあてがうことも事実だそうです。……情けなくなりました」

黒い瞳が揺れている。──こんな弥生さんは、初めて見る。

「みんな、グルって言うことか」

「父は、ずいぶんと気が弱くなりました。もう誇りも気概もなく、義母や葉月の言いなりで

事を荒立てることなく道場を残すことしか考えておりません。

……いいえ、ずっと以前から、鳴神一牙斎は剣人の誇りを失っておりました」

弥生さんの、美しい唇がぎゅっとかみ締められた。その端がぶるぶると震えている。

一牙流剣術──鳴神家に全てを捧げてきた女(ひと)にとって、

先生や葉月の背信や、それを知って正さない態度は絶望的に悔しいのだろう。

血を吐くような告白に、かける言葉すらなくて僕は押し黙ったままだった。

「……辰之助様」

弥生さんは、小さな声で呟いた。

「何? 弥生さん……」

「勝ってくださいまし……兵馬どのと、葉月に、勝ってくださいまし」

「む、無理だよ。あいつとは、実力が違いすぎる……」

僕は自嘲の言葉を吐いた。

兵馬がたくらんでいる通り、僕は当日さんざんなぶりものにされたあげく、

誰から見てもお情けと言う形で勝ちを譲られるのだろう。

「──」

うつむいた僕の前に、何か暖かくていい匂いのするものが近づいていた。

「──大丈夫です。この手を見れば分かります……」

弥生さんが僕の手を取っていた。

「稽古を怠っていた人は、こんな手をしていません。

それに、道場の掃除、辰之助様が一人でやっておられたのでしょう?」

「な、なんで分かるの?」

「裏に干してある雑巾、全部二つ折りのまま干しておりましたもの。

あれは、辰之助様の悪い癖です。──乾くのが遅くなります」

「あ……」

そう言えば、昔そのことで弥生さんに怒られたことがあった。

「でも、絞る手はずいぶんと強くなられました。よく繕ってありますが雑巾はみなボロボロです。

知っていますか。竹刀を握る手は、雑巾を絞り上げるようにして持つのです」

「……あ」

弥生さんは僕の手をぎゅっと握った。

「掃除だけではありません。辰之助様が誰よりも基本稽古を積み重ねたこと、

このお体を見ればわかります。兵馬どのなどよりずっと上。

後は、自信を持って、この力を閉じ込めている弱気な子供の心を開いて、大人になるだけ。

──弥生はそのお手伝いをいたします」

弥生さんが立ち上がった。

僕は竹刀も取って立ち上がろうとしたが、弥生さんは首を振ってそれを止めた。

「今は竹刀は必要有りません。──お堂の扉を閉めて、閂をかけてください」

竹刀を使わない稽古? 口伝? 無刀取りの練習?

僕は混乱しながらも、弥生さんの言う通りにした。

「閉めまし──!?」

──振り向いた僕の前には、全裸の弥生さんがいた。

「──弥生が、辰之助様を、大人の男にして差し上げます。

今までに蓄えた力を全て使える、強くて立派な大人の男に……」

 

 

 

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