<私が私でいられる時>・11
「――ぴ、ぴ、ピラルクー、ぴっくるんるん♪」
突然携帯が鳴り、僕はびっくりして振り返った。
<恋のピラルク伝説>の着メロは、綾子ちゃんからだ。
というより、こんな時間に僕に電話をかけてくるのは、彼女しかいない。
僕は、慌ててパンツとズボンを履きなおした。
「……」
どぎまぎして、手を伸ばす。
頬っぺと耳たぶが真っ赤になり、心臓がバクバクいっている。
今、頭の中でいやらしい格好をさせて犯したばかりの綾子ちゃんからの電話。
僕は、混乱しきっていた。
お、落ち着け。
し、深呼吸だ。
今、僕が、綾子ちゃんでオナニーをしたことは、言わなければわからない。
綾子ちゃんは、僕の考えていることがよく分かるけど、
それは、顔色や、ちょっとした仕草をもとに敏感に察知するということで、
それはエスパーとか、そういう類のものではない。
……最近は、ちょっと自信がないけど。
まあ、それは、ともかく。
僕は深呼吸をして、携帯に出た。
「も、もしもし」
「あ、新治君。こんばんは」
「あ、ああ、こんばんは……」
「ひょっとして、寝てた? だったらごめんなさい」
「い、いい、いや、お、起きてたよ、すぐに出れなくてごめん」
自分で分かるくらい、声が裏返っている。
「……も、もしかして、あの……その……お、オナニーとか、してたの?」
僕は、盛大にむせこんだ。
「ちょっ! な、な、な、なんでっ、わかっ……」
日本語になってない声は、それでも綾子ちゃんには意味が伝わったらしい。
「だって、その……後ろで私の声が聞こえたから……」
「え?!」
「私の声。……こないだビデオに撮ったやつ、……だよね?」
僕は振り返った。
……電話が掛かってきた動揺のあまり、パソコンの映像ソフトを止めていなかった。
僕の家は、新築で窓は二重ガラスだし、遮音効果はかなりすごい。
雨戸とカーテンを閉めると、テレビやステレオを大音量にしても全然外に音が漏れないのだ。
だから、普段、ヘッドフォンでそういうのを聞く僕も、
ちゃんと戸締りしていると、けっこう大きな音で聞くことがある。
今日は、パソコンにヘッドフォンをつなげるのももどかしく、あれを始めちゃったから、
必然的にビデオの音はスピーカーから聞こえる形になり、
つまり、かなり大きな音量で──ビデオの中の綾子ちゃんの声が聞こえていた。
(――綾子は、一生、新治君以外の男の子とエッチしません。
こうやって、ここを見せるのも、新治君一人だけです……)
モニターの中では、綾ちゃんが、顔を真っ赤にして宣言していた。
上半身にまとっているのは、私服ではなく、ネームプレート付きの学校の制服だ。
それは、他の人に見せられない物になるように、つまり、
「もし、私が新治君のことを裏切って、
新治君がこの映像をどこかに流しちゃうときに、
これが、私のことだと皆にはっきり分かってしまうように」
下半身はソックスだけの姿で、女の子のあそこを僕の撮るカメラに晒している。
ことばとポーズを色々と変えて、何度も、何度も。
そして、綾ちゃんは、僕によくその「誓約」が聞こえるように、
カメラと僕の目を見つめながら、大きめな声ではっきりと喋っていた。
その声は、わずかながら、携帯の向こうの綾ちゃん本人に聞こえていたのだ。
「……あっ、いっ……こ、こここっ……」
日本語どころか、人間の声の範疇を軽く逸脱するくらいに裏返った声。
「あ、あのっ……ちがっ……」
綾子ちゃんが、くすり、と笑った。
「――うふふ、オナニーしてたんだ、新治君。私の裸で」
「あああ、おおお……」
「嬉しい」
「えええっ!?」
綾子ちゃんが、携帯の向こうで微笑む気配が伝わった。
「私の裸で、そういうことしてくれてたんだ。……よかった」
「えええっ」
混乱している頭にも、綾子ちゃんの声にとりつくろった響きが全く含まれていないことは分かる。
小さな吐息は、ほっとしたような気配を確かに運んできていた。
「お、怒らないの……綾ちゃん」
僕は、恐る恐る聞いた。
身体を重ねあった間柄とはいえ、自分の穢(けが)れた妄想と性欲の標的に、
綾子ちゃんのビデオを使ったことは、軽蔑されるべきものだ。
このビデオは、綾子ちゃんから差し出された人質。
それは、取引が終わるまで、大事に保護されていなければならない。
僕は、その人質を欲望のまま犯している。
「なんで、私が怒るの?」
綾子ちゃんが聞き返す。
こちらも、恐る恐るという響きがあった。
「だって、僕は、綾ちゃんのビデオで、お、オナニーしてたんだよ……?」
「うん。……それで、なんで私が怒るの?」
「……」
「……」
かみ合わない話。
黙ったまま、お互い、深呼吸を一つする。もう一つ。もう一つ。
呼吸を合わせて十秒間。
二人は、唐突にお互いの言っていることを理解した。
「もしかして、新治君、あのビデオ、エッチなことに使っちゃいけないと思っていたの?」
「もしかして、彩ちゃん、あのビデオ、そういうつもりで僕にくれたの?」
「……うん」
「……うん」
僕は、真っ赤になった。
携帯電話の向こうの、綾ちゃんも。
立ち直りは、綾ちゃんのほうが早かった。
「だって、女の子が男の子にああいうものをあげるっていうことは、
……そういうこと、でしょ?」
「う、うん」
「だから、その……あのビデオ、新治君の自由にしていい、って言ったのは、
そういうの……も、含めてのことだったのよ?」
「綾ちゃん……」
背中がぞくっとした。
久々の感覚。
忘れていた。
綾ちゃんは、「怖い」女の子。
自分の恋人がどんな覚悟で僕と向かい合っているか、あらためて思い知った。
綾ちゃんは、自分の人生を丸ごと差し出すつもりで僕と相対(あいたい)している。
それはわかっていた。
でも、最近、なんとなく互いが互いに安心して触れ合うことが多くなってきて、
僕は、綾ちゃんのそうした「恐さ」を忘れていた。
だけど、それは──。
「私、……もう、新治君の女、なんだよ。新治君だけとしかエッチしない女の子。
だから、新治君は、わ、私のビデオで、お、オナニーしても……いいんだよ!」
言い切って、微笑む気配。
背筋のゾクゾクが止まらない。
ああ。
綾ちゃんは、こういう娘(こ)だった。
綾ちゃんは、――怖い女の子。
目的のためなら、なんでもする。自分の裸をビデオに撮らせたりもする。
目的のためなら、何でも捨てられる。自分の人生さえも。
でもそれは、──僕を安心させるための覚悟の恐さだった。
僕は、綾ちゃんと普通に喋られるようになった。
いや。
普通に、だけじゃなく、安心して喋れるようになった。
彼女に安心して話しかけ、安心して触れ、安心してそばにいられるようになった。
──それは、綾ちゃんが、「強くて怖い女の子」だから。
本当は、誰よりも「強くて怖い女の子」だから。
綾ちゃんは、僕を安心させるために、自分を縛って差し出した。
普通の女の子では絶対出来ないくらいの固さ、絶対逃げられない固さの鎖で。
綾ちゃんは、その鎖を自分で作って僕に結びつける覚悟を持っている。
そうしなければ、僕が安心できないと知っているから。
僕は弱くて臆病だから、強くて怖い綾ちゃんは、そうやって僕を安心させる。
だから、僕は、綾ちゃんとお話が出来て、綾ちゃんと触れ合うことが出来て、
綾ちゃんのそばにいることが出来るようになったのだ。
そして──。
僕は、ズボンの前が固く盛り上がってきたのを、唾を飲み込みながら見つめた。
綾ちゃんが、そうしてくれているおかげで、僕は──。
綾ちゃんに、欲情することが出来た。
綾ちゃんと、セックスすることが出来た。
僕は、僕がとうてい手に入れられないような「強くて怖い女の子」が好きだった。
僕の母親のような。
そして、その女の子が、僕だけを好きになってくれるのを望んでいた。
そんなことはありえない。あっても、きっと僕はそれを疑う。
僕より強くて怖い女の子は、いつでも僕から逃げられるから。
「逃げない」と言われても信じない。信じられない。
だから、綾ちゃんは、自分が僕から「逃げられないこと」を証明し続けている。
自分で自分を縛って、僕に差し出して。
「……新治君?」
耳元で綾ちゃんの声がした。
「……な、何……」
かすれた声。
何分くらい、僕は黙っていたのだろう。
その間、綾ちゃんは何を話していたのだろう。
いや。
きっと、綾ちゃんは何も言わなかったのだろう。
僕の息遣いをじっと聞いて、そして、僕が何を考えているのか、考えていたのだろう。
僕が、綾ちゃんにそうしてきたように。
だから、綾ちゃんの口にした次のことばは、唐突だったけど、
僕には意味が良くつながって聞こえた。
「私も、新治君のこと考えて、……オナニーしてるよ」
「綾ちゃん……」
──鎖で縛られた人質の姫君は、花嫁のように微笑む。
彼女は、はじめから逃げるつもりも、帰るつもりもない。
だから、鎖の端を自分から陵辱者に与えるのだ。
「……私ね、オナニーするとき、新治君のこと考えながらするの
新治君にキスされたり、おっぱいを触られたり、
セックスしているときのこと、思い出しながら……」
「綾ちゃ……」
「今日も、しちゃった。……ついさっき。この電話をする前……」
僕が綾ちゃんの事を考えながらオナニーをしていたとき、
綾ちゃんも、僕の事を考えながら自慰に耽っていたのだ。
頭の中と、あそこが、かあっと燃え立つ。
「いやらしい、よね。私……」
「そ、そんなことない……よ」
僕は、また唾を飲み込んだ。
「ううん、きっと、私、すごくいやらしい女の子なんだと思う。
<妹>はそんなことしないって言ってたし、母さんもそういう感じじゃないから」
「ぼ、僕だって、綾ちゃんのこと考えて、オナニーしてる」
突然、口をついてでてきたことばに、僕は驚きかけ、そしてすぐにそれを受け入れた。
「新治君のエッチ……」
「あ……」
「でも、それ、すっごく、うれしい」
「綾ちゃん」
「……うふふ、二人とも同じなんだね。同じくらいエッチなんだ」
「うん」
「二人とも、同じくらいにエッチっていうのは、
……きっと、すごく幸せなことなんだと思う」
「綾ちゃん……」
「私ね、あれから、母さんと何度か話をしたんだ。いろんなこと。
……母さん、今のお義父さんと離婚を考えてるんだって……」
綾ちゃんの言う「あれ」というのは、僕とのセックスと、
そしてそれが<姉妹>喧嘩の騒動の中で両親に知られたことを指しているだろう。
「離婚……」
トラウマになっているくらいに嫌いな単語が出てきて、僕はぎょっとした。
呼吸の音が、わずかに乱れる。
それだけで、綾ちゃんは気がついたようだった。
「あ……ごめんなさいっ、私……」
心の傷跡は、恋人の声で瞬時にふさがった。
二ヶ月前には、想像もつかなかった癒され方。
僕は、確実に何かが変わりつつある。
「いや、大丈夫。いいんだ、話、続けて……」
僕は、綾ちゃんを促した。
「う……ん。ごめんね。
それで……母さんは、私を連れて、もう一度二人でやり直すって言ってくれたの。
パートでも何でもいいから、二人だけで暮らそうって。
……本当のところ、私はどうすればいいのか、よくわからない。
母さんのこと、今、好きでも嫌いでもないの。一緒に暮らしたいかどうかもわからない」
綾ちゃんの声は、冷静だった。
「誰かと一緒にいたい、っていうのだったら、私、新治君と一緒にいたい」
「……綾ちゃん」
「あ……」
綾ちゃんは、慌てたように口ごもった。
それから、今までよりもっと明るい口調で続けた。
「……それでね、色々話してて、なんだか、そんな話になっちゃんたんだけど、
母さんは、……今のお義父さんの愛され方がいやなんだって。
もっとちがう形の愛され方をされたかったんだって」
「……」
「母さん、言わなかったけど、それって、きっとエッチのことを言っているんだと思う」
「……え、エッチ?」
「うん。でも母さんは、色々良くしてくれている今のお義父さんをこれ以上困らせたくないから、
だまってそれを受け入れてたみたい。でも……どうしてもダメになったんだって」
「綾ちゃん……」
「だからね、エッチって、すっごく大切なことなんじゃないかなって、思う」
「……」
「私ね、男と女の結びつきって、この世で一番強いものだと思ってるんだ。
だって、家族って、最初、男の人と女の人がくっついてできるんだよ」
それは、僕の考えとまるっきり違っていて、まるっきり同じ考えだった。
「それでね、男の人と女の人って、何が特別かって、結局、エッチするのが特別なの。
親子って、エッチしないもん。兄弟姉妹もエッチしない。でも、夫婦や恋人は、エッチする」
「……そう、だね……」
僕のベッドで、僕の下になってうねる綾子ちゃんの裸体を思い出して、僕はまた唾を飲んだ。
「だから、新治君が私のこと考えてオナニーしてくれてるの、とってもうれしい。
私と同じだから。……二人が、同じだから。……私たち、すっごくお似合いなんだよ」
「綾ちゃん……」
「うふふ……。ねえ、新治君」
「な、何?」
「一緒に、オナニーしちゃおうか、今?」
「ええええーっ!?」
綾ちゃんの提案に、僕は、盛大にむせこんだ。
だけど、背中に、これ以上はないくらいのぞくぞくが走りぬけたのも感じていた。
ズボンの中で、おち×ちんが硬く硬くそそり立つ。
女の子と──それも、大好きな女の子と一緒にオナニーをする。
くらくらするほどの陶酔が僕を襲った。
「私は新治君のこと、考えて……。新治君は私のこと、考えて……。
いつもしてるオナニーを、相手に聞かせるの。
ううん、いつもいつも考えていたこと、相手に伝えて、するの。
きっと、きっと、すごく気持ちいいよ……」
綾ちゃんの微笑を、僕は携帯電話越しに「見た」。
僕の彼女は、まるで息を吸って吐くのと同じくらい自然に、
僕に自分の全てをさらけ出す覚悟を決めていた。
その強さと恐さ──僕は彼女に抗えない。
「……うん」
戦慄にも似た感覚の中、僕はそれを受け入れ、
そして二人は、互いをもっと知るための自慰をはじめた。