<私が私でいられる時>・9

 

 

私は、きっと、思いつめた顔をしていたのだろう。

いつもの坂を上がって行くとき、すれ違った子どもたちが怯えたような顔をした。

一瞬ひるみかけた心を、だけど私はどうにか立て直すことが出来た。

(新治君に会いたい)

その想いが何よりも強かったから。

それでも、新治君の家に着いたとき、私は玄関前で躊躇した。

躊躇は、罪悪感と後ろめたさで出来ていた。

 

昨日の夕方、私は世界を手に入れた女王のように幸福だった。

その数時間後、私は牢獄につながれた罪人のようにみじめになった。

きっかけは、<妹>との喧嘩。

外から帰ってきた<妹>と私は、最初、不思議な空気に包まれていた。

本来なら、顔を合わせた瞬間、取っ組み合っていてもおかしくなかった。

<妹>が、私への当てつけで新治君に言い寄ったのを私は知っていたし、

新治君が家にいることを選択することで、<妹>が振られたということも事実だった。

龍ヶ崎彩。

誰もが知っている天才美少女が、そのことに対してどれだけの屈辱を感じたのだろうか。

新治君の家からの帰り道、私の頭をちらっ、とそのことが掠めた。

ちらっ、と。

ほんのちょこっと、だけ。

私の頭の残りの部分は、新治君と、新治君と先ほど交わした行為のことでいっぱいで、

少しだけ浮かんだ<妹>のこともすぐに忘れ去って、その隙間も新治君のことですぐに埋められたから。

(私、新治君と、セックスしたんだ)

そのことを思うたびに、私は幸せになった。

股の間に何かが挟まったような鈍い痛みも、気にならない。

それは、新治君に私の「はじめて」を捧げた証だから。

痛みや異物感は、むしろ誇らしくさえあった。

帰り道、私はその痛みと、バッグの中に持ち帰った新治君の温もりを感じることで、

自分が世界で一番幸せな女だということを反芻していた。

 

バッグの中のティッシュの包み。

それには、使用済みのコンドームが入っていた。

新治君が、私とセックスしたときに使ったもの。

精液が詰ったゴムの袋。

そんなものを大切に持ち帰るなんて、どんな変態女の所業なのだろう。

でも、それは、私にとって宝物だった。

大好きな人と、私の「はじめて」の証。

新治君のエッセンス。

新治君が自分の子どもを作るときに生産する、新治君の遺伝子が凝縮されたエキス。

それを考えると、コンドームに入った精子を持ち歩くことで、

私は新治君といっしょにいるような気持ちになれた。

もちろん、それは錯覚だ。

本当の新治君は一人だけ。

明日になったら、また会える。また声を聞ける。またおしゃべりができる。

でも、冷たい家への帰り道に、新治君の一部と一緒に「いる」ことは、

私の心をとても温かくした。

そう。ゼリーのように濃い粘液が入った避妊具は、

指先に触れると、まだあの男(ひと)の体温を伝えてくれる。

それが嬉しくて、私は帰り道、何度もバッグの中をまさぐった。

薄いゴム膜越しに触れる新治君の体液は、私の心の中を新治君への想いでいっぱいにし、

<妹>とか、家のこととかを、みんな追い払ってくれた。

だから、私は、石岡綾子という人間にとって敵地に等しい

龍ヶ崎の家の玄関をくぐったときでも、とても心穏やかだった。

<妹>はまだ帰ってきていなかった。

拷問を待つ時間は、拷問そのものよりも苦しいという。

でも、私は、その時間さえ、微笑んで過ごした。

宝物をキッチンの机の上に置いて眺め、時々指先で触れることで温もりを確かめながら。

だんだんと精液が冷えていってしまうのは悲しかったけれど、私の心は穏やかだった。

戻ってきたら私を責めるにちがいない<妹>のために

好物のサンドウィッチを用意してやる余裕さえあったのだ。

 

そして、<妹>が帰ってきた。

私の様子にとまどったような感じになった<妹>は、

サンドウィッチを作っていることに対して、

珍しく──はじめてかもしれない──私にお礼を言った。

そして、さらに何か言いかけ──私をののしり始めた。

テーブルの上に置いてあった、コンドームを見つけて。

ののしりながら、<妹>はそれを掴み取り、コンロの上に投げつけた。

私は悲鳴を上げた。

コンドームは、卵を茹でている熱湯の中に打ち捨てられ、

新治君の精子は、煮殺された。

「人殺しっ!!」

私は、そう叫んだのかもしれない。

叫んだ、自分の言葉に、私は戦慄した。

新治君の、エッセンス。新治君の、一番濃密な分身。

それは、熱湯の中で、白く固まったたんぱく質に変わった。

それは──新治君の死骸。

恐怖と罪悪感に染まりきった私は、その「殺人」を犯した<妹>に掴みかかった。

でも、それは──その状況を作ってしまった自分への怒りと後悔の衝動に過ぎない。

 

人殺しは、私だ。

新治君の精子を、温もりを、ただのたんぱく質の塊に変えてしまったのは、私。

私の行為と、選択。

それが<妹>にその行動を取らせてしまった。

少し考えれば分かっていたことなのに。

最初、そうしようと思ったように、冷凍庫の奥に深くしまいこんでしまっていれば、

料理なんてしない<妹>や、母さんに知られることなく

大事な思い出は生きたまま保存することが出来た。

あるいは、帰り道に思いついたとおりに、

まだ温もりが残っているうちに、その精液を飲み込んでお腹の中に収めてしまえば、

大事な思い出は、私の身体の中に溶け込んでずっと消えることがなかった。

でも、私はどっちも選ぶことが出来なくて、テーブルの上に乗せたまま躊躇して、

その大事な思い出は──<妹>に殺されてしまった。

それを認めるのが恐くて、私は、<妹>に罪をかぶせた。

掴みかかり、ののしり、思い出を、温もりを殺したのが相手だと自分に納得させようとした。

<妹>はののしり返し、私を否定し、そして二人は相手につかみ合ったまま転げまわった。

母さんが帰ってきて、金切り声を上げて二人を引き離すまで、

私たちは互いを憎み殺さんばかりの勢いでわめき散らした。

 

「……」

チャイムを鳴らすまで、何秒かかったのだろう。

私は、新治君の家の玄関で立ち尽くしたままだった。

無意識の間に、チャイムは鳴らしたのかもしれない。

昨日の晩、あの後、部屋に帰って寝るまで記憶がないように。

母さんは、私に何か言ったかもしれないし、いつものように何も言わなかったのかも知れない。

娘が──出来の悪いほうの娘が──処女をなくしていようが、男とセックスをしてこようが、

日本中に誇れる義理の娘を持った母親は何も気にしないだろう。

私だって、母さんに気にかけてもらえなくたって、構わない。

私には、もっと大事な人がいるから。

でも、私は、その人の一部を殺してしまって……。

どの顔を下げて、私は新治君に会えばいいのだろう。

ドアが開いた瞬間、私は涙をこぼしていた。

「……あ、綾ちゃん……?」

びっくりしたような新治君の顔。

それが、視界ごと歪んだ。

涙で。

そして、その涙がこぼれる前に──私は温かく包み込まれた。

「ど、どうしたの? と、とにかく、中に入って──」

肩を抱いた手から伝わる本物の新治君の温もりは、

スキン越しに触れたそれよりももっと温かくて、優しくて、私は泣き出した。

そして、私は新治君に、私の罪を告白した。

 

「えっと、その……」

新治君は、最初、戸惑ったような表情で私を見つめた。

それから、あちこちに視線をめぐらして何か考えているようだった。

当然だ。

私は、心臓が鷲づかみにされたように怯えた。

血が凍る。

全身の産毛が逆立つ。

歯の根がかみ合わない。

自分の肩を抱いたのは、寒さに耐えられなくなったから。

砂漠の遭難の果てに見つけたオアシスに、拒否される感覚。

足元の大地が腐り果て、なくなる感覚。

世界に見捨てられて、私一人しかいない感覚。

でも、嘘はつけなかった。

新治君を騙すことはできなかった。

それは、新治君を裏切ることだから。

新治君に、自分の都合のいい嘘をついたり、

都合のいいことだけを喋ることは、新治君を一番傷つけることだから。

私は、新治君を絶対に裏切らないと誓った。

それは、きっとこういう時に嘘を言わないことや、隠し事をしないことも含まれる。

だから、私は、私が新治君の精子を殺してしまったことを、彼に伝えた。

「ええと、その……」

新治君は、しばらく考えて、それから、勢い良く何かを言った。

「……え?」

「……だ、だからさ、その、膝枕してよ、綾ちゃん……」

私は、混乱した。

「ひ、膝枕?」

「うん……だめ……?」

勢い良くそういった新治君は、聞き返されて声が小さくなった。

「あ、あああっ、大丈夫よ、新治君! するわ、するわよ、膝枕っ……!」

何を言われているのか、分からないまま私は慌てて頷いた。

 

「……ごめんなさい。新治君の精子は……飲んだわ。

土に埋めてあげればいいのか、他に何か出来たのか、わからなかったから、

部屋に戻った後、全部、飲んだの。お腹の中で暖めれば、火傷した精子君もきっともう痛くないと思って……。

ごめんなさい……本当に、どうしていいか、分からなかったの……」

罪の告白は、覚悟していたよりもずっと穏やかに口にすることが出来た。

太ももの上、スカート越しに伝わる新治君の体温が、そうさせていた。

膝枕。

今は、それに耳かきが加わっている。

新治君が、突然言い出したのは、その「お願い」だった。

混乱、と言っていいほどに戸惑っていた私は、

ベッドに腰掛けて、新治君の頭を膝に乗せたときに、嘘のように気持ちが落ち着いた。

大好きな人と、触れ合っている。

そして、細かな手作業。

新治君の耳の中を傷つけまいと手元に集中すると、雑念は綺麗に消えた。

新治君は、向こう側を向いて、右の耳を私に預けている。

その耳たぶは真っ赤だ。

(そうか、……そうなんだ)

不意に私は、新治君が、私を落ちつかせるために膝枕と耳かきをねだったことを悟った。

臆病で、照れ屋で、傷つきやすい男の子が、

拒否されるかもしれない、という怯えを抑えて求めたことは、自分のためのものではなかった。

(どうして、この男(ひと)は、こう……)

私の心が分かってしまうんだろう。

「あ、あの、僕、全然気にしてない…から……」

むこうを向いたまま、新治君がつぶやく。

「ありがとう……」

心の奥を見透かされていることが、すごく、気持ちよかった。

不意に私は、小さな頃、両親になんでも言えたことを思い出した。

いたずらはあまりしない子だったけど、優等生でもできないことや失敗はたくさんあった。

それを、父さんや母さんには包み隠さず言えた。

怒られたけど、嘘をつかなかったことは誉められた。

正直に言えた自分が、大好きだった。

父さんが死んでしまって、母さんに全てを正直に言えなくなった。

ずっと忘れていた感覚。

新治君は、その大好きな私を思い出させてくれた。

胸の中のつかえが、半分くらい、なくなってしまったことに私は気が付いた。

新治君は許してくれた。

コンドームを持ち帰った変態女も、

その精子を殺させてしまった罪深さも、

結局その精子の死骸を飲み込んださらに罪深い変態女の私も、許してくれた。

──後は、私の心の問題。

 

とげのように引っかかっている悔悟の念は、自分一人で溶かすしかない。

それでも、鉛のように重かった心は、随分と軽くなっていた。

何よりも、先ほど感じていた世界の消失感が、今はもうない。

それだけで、今の私には、十分だった。

「……」

私の膝の上で、新治君が一瞬固まる。

そのことさえ、伝わっているのかもしれなかった。

「……ん……反対側も、……お願いしていい?」

「うん、いいよぉ」

返事と同時に、新治君は、身体をころんと反転させた。

「え、えっ……えええっ!?」

逆側と言うと、てっきり、一回起き上がって逆側に寝そべるのだと思った。

けれど、新治君は、身体はそのまま、向きのほうを変えた。

つまり、私の太ももの上で、私のほうを向いたのだ。

「……」

「……」

二人は、時間が止まったように動かなかった。

すうっ。

新治君が深呼吸をした。

私の膝の上で、私のほうを向いて。

「あっ……」

私の背筋に、電流が走った。

新治君の顔は、私のお腹のほうを向いていて、

つまりそれは、私の二本の太ももとお腹の合わさる接点に近くて、

もっと言えば、私の股間──性器のすぐそばにあった。

新治君の深呼吸が、ふたつ、みっつ。

スカートは、冬服であっても、数ミリしかない、ただの布切れ。

その下のショーツだって。

「……し、新治君」

「綾ちゃん……いい匂いがする……」

それは、体臭そのものや、香料入りの制汗スプレーのことを言ったのかもしれない。

でも、私の耳には、それが薄い布越しに、

新治君が私の奥をかいで言っているように聞こえた。

嗅がれている。

自分の女性器の匂いを。

大好きな男(ひと)に。

私の牝の本能は、たちまちのうちに燃え上がった。

熾き火のように胸の奥を焼くとげの痛みを、つかの間忘れるくらいに。

性器の匂いをかがれていると思ったのは、錯覚ではないのかもしれない。

新治君の耳はさらに真っ赤になっていた。

私の耳も、きっとそれ以上に赤いだろう。

新治君が、顔をうずめたまま、つぶやいた。

「……あ、綾ちゃん」

「な、何、新治く…ん……」

「見て……いい?」

「……うん!」

 

ベッドの上に横たわり、スカートをまくられる。

蜜に濡れたショーツを見られるのは恥ずかしかい。

けれど、それを脱がされるともっと恥ずかしくなる。

新治君が、ためらう様子もなく、そこに顔を近づけて、

唇と舌で愛撫を始めたときは、もっと。

「ひあっ……んっ……」

濡れた舌が、もっと濡れた粘膜を這う。

舐められてる。

新治君に、私のおま×こを。

女の子が、最後まで隠しておかなきゃならない大事な場所を。

私の、牝の中心を。

無抵抗で、受け入れて。

その事実が、私の身体と心を熱く甘く支配する。

経験も技巧もない愛撫は、信じられないくらいの快感を生み出していた。

昨日まで童貞で女の子が恐くて仕方なかった男の子のクンニリングス。

はじめて異性の性器を舐める、というその作業に新治君は夢中になっている。

そして、私は、自分の女の部分を貪る男(ひと)の愛撫に、

声も上げることも出来ずに悶えた。

「ひあっ……!!」

昨日まで処女だった、敏感な女の子は、二分もしないで絶頂に達した。

オナニーとは違う、ものすごい刺激。

身体の底が抜けてしまったように、私はベッドの上でぐったりとした。

「あ……綾ちゃん……」

「し……んじ……君……」

汗まみれの顔を上げた新治君の顔を見て、私は衝動的に起き上がった。

「え……」

「……新治君にも、してあげるね」

ズボンの前をまさぐる。

ベルトとチャックは簡単に解けた。

「あ、そんな……」

焦ったような、新治君の声。

でも、それは欲情も期待も含んでいて……。

「新治君も、して欲しいんでしょ?」

「……う、うん」

 

私は、新治君のしてほしいことがわかる。

だから、私はためらいもせずにフェラチオを始めた。

男の子のおち×ちんを舐める。

そんなこと、もちろん、したことない。

昨日まで私は処女だったし、昨日は、性器と性器の普通のセックスだけで精一杯だった。

でも、こういうことをする、というのは私の中で自然だった。

さっき新治君にしてもらったクンニリングスと同じくらいに。

生殖器は、自分の身体の一部だけど、自分だけのものじゃない。

自分の相手のために使用する器官でもあるのだ。

だから、ヒトは、愛しい相手の性器を愛撫する。

こういうふうに。

唾液にまみれた舌と口の粘膜は、固くて熱い性器に良くなじんだ。

お湯と石鹸の匂い。

新治君は、私を待つ間、お風呂に入っていたのだろう。

私が、家を出る前にシャワーを浴びてきたのと同じように。

こういうことをすることを、二人とも望んでいたのだ。

だから、未経験のクンニリングスもフェラチオも、二人の間では自然な行為だった。

「うあっ……、あ、綾ちゃん、僕、もうっ……」

新治君がうめいた。

「……っ!!」

新治君の手が、私の頭を抱え込んだ。

「んっ、んむっ……!?」

突然のことに、私はびっくりしたけど、かろうじて口は離さないですんだ。

「あ、や……ちゃん、いくよっ、僕、もう、精子、出るっ!!」

新治君が興奮しきった声をあげた。

ああ、新治君、いくんだ。精子、出すんだ。

私の頭を固定して、腰を振り始める。

「あっ……」

乱暴なそれが、男の子のいく瞬間の衝動的なものということを私は理解した。

女の子と違って男の子の性欲は、刹那的で、支配的で、乱暴なものだ。

私のことをいつも優しく気遣ってくれる新治君も、射精の時は、どうしようもない衝動に襲われるのだ。

だから、目を閉じて、私はそれを受け入れた。

 

「うあっ、いくっ! 精子出るっ!

――飲んでっ、綾ちゃん、飲んでっ! 僕の精子飲んでっ!!」

甘い悲鳴を上げて、新治君が私の口の中に射精を始めた。

その横暴さも、私は喜んで受け入れた。

熱い塊が、口の中を満たす。

新治君の射精は、長かった。

生臭い、男の子のエキスが私の唇と舌を犯す。

新治君の精液の味は、知っている。

昨日、自分の部屋で泣きながら、死んでしまった精子を飲み込んで、お腹の中に収めたから。

でも、熱湯で固まっていた白い粘液と、今、口の中に出されているものとは全然違っていた。

「んんっ……」

私は、必死でそれを嚥下する。

新治君が、「飲んで」って言ったから。

新治君は、自分の女に精液を飲んでもらうのが好きだから。

新治君が、それを望んでいるなら、それがどんな乱暴なことでも受け入れる。

熱い粘液が、喉の奥を通っていく。

お腹の中が焼けそうな、感覚。

でも、それは──。

私がはっとして目を開けるのと、新治君がぐったりと力を抜くのは同時だった。

「……はあっ……はぁっ……」

荒い息をついて、新治君が離れる。

私は、口の中に残った粘っこい汁を飲みこもうとした。

「んっ……んくっ……」

新治君は、濃い精液がたくさん出る体質なのだろう。

喉の奥にひっかかるそれを、私はようやく飲み下した。

「あ、綾ちゃん……」

新治君が、我に返ったような声を上げた。

「ご、ごめ……は、吐き出してもいいよ……」

私は首を振った。

 

「ううん。もう、全部飲んじゃった。新治君の……」

「ご、ごめん、綾ちゃん、僕、調子に乗って……」

「ううん、美味しかったよ、新治君の精子」

私は、くすりと笑って新治君に返事をした。

新治君の、今の行為の意味が分かったから。

「……新治君、今、わざと私に精子飲ませたでしょ?」

新治君が、固まった。

図星を指されて。

「え……、あ、うん。マンガとかで、そういうの見てたから。

ごめん、ごめんなさい。そういうつもりじゃなくて……」

新治君は、しおしおとうなだれながら、謝ろうとした。

「ううん。そうじゃなくて、……私のために、そうしたんでしょ?」

「……!!」

「あはっ、やっぱり」

私は、口元に手を当てて笑った。

精液を無理やりに飲まされる。

女の子にとっては、屈辱だ。

たとえ、それを受け入れる覚悟のある女の子でも、

ああいうふうに、動物的な衝動を受け止めるのは、悲しい。

まるで、自分が男の子の射精のための道具のように扱われるから。

そして、新治君は理由もなしに、そんなことをする男の子じゃ、ない。

それは、私のための乱暴だった。

「うふふ。今ので許した、って私に伝えたんでしょ? 私、というより、私の身体に……」

「……」

この沈黙は、肯定。私も、新治君の心が読める。

新治君は、私が、私自身でも溶けないで苦しんでいるトゲに気がついた。

自分でも説明がつかない罪悪感。

それは、新治君の死骸──正確には昨日の精子の死骸――を死なせて飲み込んだことの罪悪感。

謝って、許してもらった。

それ以上は、誰にも望めない。新治君にも望めない。

 

でも、私は、自分自身が許せなかった。

トゲは、飲み込んだ精子の死骸の形を取って私の身体の奥にひっかかっている。

誰も、それを溶かせない。

私自身が、時間をかけて溶かしていかなければならないトゲ。

でも、新治君はそれに気がついた。

そして、わざと乱暴に、私に精子を飲ませた。

それを受け入れ、耐えるという代償行為は、贖罪だ。

そして、新しい精液を新治君の意思のもとに飲まされることは、昨晩の私の行為を上書きする。

「新治君……私のお腹の中、あったかいよ」

私は服の上からお腹をそっとなでた。

今飲み込んだ新治君の精子は、温かい、生きてる精子。

それは、私の体の奥にささったままの、自分の仲間の死骸を溶かして流し去った。

ことばだけではできない、対処法。

代償行為。

それは、ものごとの解決につながらないという人もいるけど、それはきっとちがう。

こういう代償行為でしか解決できないこともあるんだ。

私はそれを知っている。

新治君も。

だから、私は、私の大好きな人に抱きついた。

抱きついて、甘えた。

私が、新治君を傷つけないようにしているのと同じくらい、

新治君は、私を傷つけないようにしてくれている。

私が、新治君を新治君のまま好きになっているのと同じくらい、

新治君は、私を私のまま好きになってくれようとしている。

それが、何より嬉しかった。愛しかった。

──だから、私は、何があっても大丈夫だった。

新治君の温かい塊をお腹の中に収めたまま、30分遅刻して、

児童施設のボランティアに着き、リーダーの人に怒られても。

そのまま慌しい準備にこき使われても。

そして、――<妹>が、龍ヶ崎彩が来ていて、

今日は彼女がピアノを弾くと言い出しても。

 

「――すごいわ、本物の彩ちゃんよ」

ボランティアリーダーは、近くの女子大の生徒だった。

興奮気味に、<妹>を眺めている。

「昨日、大曾根さんから電話があったのよ。

彩ちゃんが、ボランティアでピアノ弾きたいって」

大曾根さんは、<妹>の同級生で、このボランティアにも不定期で参加している。

その伝手を使って、<妹>はここに来た。

たぶん、私に意地悪を、復讐を、するために。

「すごいよね、あの彩ちゃんだよ。近所で見かけるけど、

生演奏は市のコンサートのときくらいしか聞いたことないわ」

「これから、ずっと参加したいって。うちらがピアノ弾かなくてもよくなったわね」

「彩ちゃんが固定メンバーで参加してくれるサークルなんて、すごいよね」

別な子も、テレビの中で見る美少女に興奮気味だ。

調律まではいかないが、弾こうとするピアノの音を丹念に確認し始めた<彩ちゃん>に

普段と違った雰囲気を感じ取ったのだろう、子どもたちも、少し騒がしい。

そのうちの一人が、私のもとに走って来た。

「綾子お姉ちゃん、今日はピアノ、しないの?」

「そうね、今日は、アヤチャンが弾くわよ」

「アヤチャンが?」

「うん。私よりずっと上手いから、聴いてごらん」

「はぁい」

子どもたちのざわめきと、学生たちのささやきが頂点に達したとき、

日本中のミーハーと、世界中のピアノ関係者が<ホワイトプリンセス>と絶賛する少女は、

にっこりと笑って顔を上げた。

「――リストの<超絶技巧練習曲>を弾きます。一曲だけですが」

おお、と息を飲むのが聞こえた。

ボランティアのメンバーには、私のほかにもピアノが弾ける人間が何人もいて交代でピアノを弾く。

そして、そういう人間にはわかる。

その曲が、どんなものなのか。

それを弾ける娘が、どれほどの技術を持っているのか。

 

<超絶技巧練習曲>。

ピアノ曲としては最高難度の曲の一つだ。

史上最高の天才ピアニスト、リストがその神がかり的な演奏技術を磨くために

自ら作曲したという練習曲。

当時、全曲を原曲のまま弾きこなせるのはリスト本人のみ。

何現代においては何名かのピアニストがレコーディングに成功したが、

それは、十分に調律したピアノを使い、何回もトライしたものだ。

こんな古びたピアノで弾くものではない。

「では──」

しかし、天才少女は、その難曲も楽々とこなした。

白い指が、魔術のように動く。

安物のピアノが付いていけない音さえ、上手くカバーした。

その曲が終わった後、私はため息が漏れるのを自覚した。

周りの学生たちも。

「――いかがでしたか。次は、第九第四章を演奏します」

<妹>は、確かに私のほうを見ながら、そう言った。

勝ち誇って。

私は目を閉じて、小さく頷いた。

ピアノでは、勝てない。

それは分かっていたことだった。

目の前で聴いてみて、それがよく分かった。

でも、私は、不思議とそれを悔しいとは思わなかった。

彼女が──龍ヶ崎彩が、どれだけの才能と努力との上で存在するのかが改めて分かったから。

そして、今、新治君が隣にいる石岡綾子は、それを素直に認めることができる女の子だったから。

私は、拍手をしようとした。

呆けたような学生たちも我に返って拍手をしようとして、

「つまんなーい」

という子どもたちのことばに、拍手は、そのタイミングを失った。

 

 

「え……?」

思いがけないことばを耳にして、<妹>は戸惑ったような表情を浮かべた。

「つまんなーい。おうたの曲、まだー?」

「おうたー!」

「アッキアキにしてあげるー、はー?」

「やー。エアーウルフがたおせない、が、いいー!」

子どもたちが騒ぎ始める。

無理もない。

最高峰のピアノ曲は、それを理解できる人間が少ないのだ。

そして子どもは残酷だ。

わからないものは、わからないという。

全身で、遠慮なく。

「そ、そうね、みんなが分かる曲がよかったわね。何にする?」

強張った笑顔で、龍ヶ崎彩が聞く。

「――ぴくるー!!」

誰かが叫ぶ。

「ぴくるー!」

皆が、わっと同意した。

「ぴ、ぴくる……?」

聞いたこともない単語に、<妹>が困惑した。

「――ぴ、ぴ、ピラルクー、ぴっくるんるん♪」

男の子たちが歌い始めた。

「――ぴ、ぴ、ピラルクー、ぴっくるんるん♪」

女の子たちも歌いだした。

<恋のぴくる伝説>。

第二期放映も決定した、大人気の変身魔女っ子アニメの主題歌だ。

恐竜とともに塩漬けになっていた古代魔法王国のプリンセスが、

「魔法」と「腕力」と「野性」でご近所の事件を解決する単純明快なストーリーは、

少女アニメとは思えない蛮勇を奮ったアクションシーンと、

作中で自分は鯉(=恋)だと言い張る魚のマスコットキャラ・ピラルクー君のおかげで、

女の子のみならず男の子にも人気だった。

 

「ぴくる……」

<妹>は、呆然としている。

無理もない。

私だって、新治君に教えてもらうまで知らなかった。

覚えてしまえば、いい曲だ。

何より、男の子も女の子も同時に満足させることができる。

男の子に受けのいい曲は、女の子がつまらないし、

女の子の人気の曲は、男の子が退屈する。

その点、どちらも熱心に見ているこのアニメの主題歌は、お遊戯にうってつけだった。

「ジュラ紀かーらー、やあってきた、おしゃまなビューティー♪」

「いつもみんなにー、肉をはこぶーのー♪」

「かもん、れっつばとる、かもん、れっつばとる、べいびー!!」

「はなーぢーをふいてー、走りだしたらー」

子どもたちはご機嫌で歌いだした。

もう、彩ちゃんを、見てもいない。

そこかしこで「ぴくるごっこ」を遊び始めてしまった。

「あの……」

学生の誰かが、声をかけようとして、息を飲んだ。

<妹>は、うつむいて、肩を震わせていた。

「彩ちゃん……」

私は声をかけようとした。

<恋のぴくる伝説>は単純な曲だ。

私でさえ、新治君から借りたCDで耳コピーできる。

<リストの超絶技巧練習曲>を弾ける龍ヶ崎彩にとっては、

息を吸って吐くくらいに簡単なことのはずだった。

でも、<妹>は──。

「帰る」

一言だけ言って、立ち上がった。

「ちょっ、あやちゃ……」

ボランティアのリーダーが慌てて声をかけようとするのを無視し、

止めようとする学生たちを突き飛ばすようにして、龍ヶ崎彩は、その場を立ち去った。

そして、この日が、龍ヶ崎彩の運命を変えてしまう一日だったことを、

<妹>も、私も、新治君も、まだ知らなかった。

 

 

 

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