<私が私でいられる時>・8

 

 

ガラス越しに見る街の雑踏は、見慣れたものとは違う雰囲気に思えた。

それは、曇り空のせいだったからかも知れないし、

店内に流れる洋楽のせいかも知れなかった。

カン・ナム・エクスプレス・カフェ。

カナダ人とアメリカ人の二人が作り上げて日本にも進出したカフェは、

私の密かなお気に入りだ。

あまり来ることができないけど。

テレビ局や、雑誌のインタビュアーには、先入観があるらしい。

取材は、駅の反対側にある英国風喫茶店ブリティッシュ・ブルドック・カフェでされることが多かった。

紳士と淑女の国から来た本格的なカフェで、気品溢れる紅茶の一時。

――それが、龍ヶ崎彩のお茶の時間に思えるらしい。

でも、私は、こっちの、紙コップに入ったコーヒーも嫌いではない。

このカフェは、全面禁煙ではないというところも。

私自身は、もちろん煙草は吸わない。

吸わないけど、煙草の匂いはそんなに嫌いではない。

特に、服に着いた程度の残り香なら。

それは、パパの匂い。

スーツの、広い広い背中の、匂い。

ほっとする、匂い。

私は、それを嗅ぎに、この店に来る。

普段と違う服を来て、普段と違う髪型にして、色の薄いサングラスまでかけて。

やりすぎかな、と思わなくもない。

でも、こないだは、写真週刊誌にほとんど隠し撮りに近い写真を取られた。

体育祭の、スパッツ姿。

さすがにそれは世間さまから叩かれて、出版社はおわびをしたけど、

私の生活は、私の自由になるものではなくなっていた。

そして、週刊誌も、テレビも、みんなも、龍ヶ崎彩と言えば、

英国風カフェに行くもの、と思いたがるだろう。

 

「……」

時計を見る。

17:00。

デートは、すっぽかされたらしい。

私は、ため息をついた。

不思議と、あの男の子に怒りは沸いてこなかった。

あの日、自分の家の前で立ち尽くしていた男の子は、<姉>の恋人。

ボーイフレンドというような軽い関係でないことは、一目見ただけで分かった。

彼女の人生を、丸ごと変えてしまうような、関係。

この一ヶ月、いいえ、三週間? くらい前から、私の<姉>は変わった。

私の住む家に怯え、悩み、恨む。

私と言う存在が心の半分を覆い、それがどうしようもないくらいそれが苦しくて、憎む。

そんな娘が、突然堂々と振舞い、艶やかに笑い、そして私を見なくなった。

私が、目の前に立てば、彼女は前と同じく挑戦的な瞳で睨みつけてくるが、

そうでなければ、前のようにわざわざ探し出してまで睨むことはなくなった。

その異変を、私は敏感に察知した。

<姉>が私を見ずにはいられないように、私も<姉>を見ずにはいられない。

二人は、互いを、互いの傷口のように思っていた。

痛みと苦しさの源。

だから、触らずにはいられない、確かめずにはいられない。

醜い傷がそこにあるということを、確認せずにはいられない。

龍ヶ崎彩と、石岡綾子。

両親の再婚で双方が望まぬのに<姉妹>になってしまった二人は、

互いが互いを、心の傷として認識していた。

だけど、石岡綾子は、私の傷口であることを止めようとしていた。

突然に。

唐突に。

そして、私は、その事実に、戸惑っていた。

 

(オネエチャンがいると、私は私でいられない)

それは、ひとつ年上の<姉>ができた日に思ったことだった。

理由は、はっきりしていた。

彼女と、彼女の<母親>が、パパを取ったから。

ママが死んでから、私一人だけを見つめてくれていたパパが、

突然、他の人のことも見るようになってしまったから。

そして、その女が、ママに似ていたから。

そして、その娘が、私に似ていたから。

それは、私の心をかき乱した。

(――どうして、なぜ?)

疑問は、その答えを知っていたからこそ消えなかった。

 

パパには、ママが必要だった。

パパにとって、世界中で一番必要なのはママ。

でも、それは、別に変なことじゃない。

パパは、男と女としてはママが一番だけど、こどもとして、私は別格。

ママは、男と女としてはパパが一番だけど、こどもとして、私は別格。

毎日キスをして、毎日いちゃいちゃする両親は、

産まれたときから見慣れていれば、別に気にはならない。

もちろん、こどもだから、時には二人の仲に嫉妬したりすることもあったけど、

こどもにとっては、両親が不仲よりもずっとずっと好ましい。

父親と母親の仲が良く、互いに愛し合っていること。

それは、そこから産まれた自分が無条件で愛されることの下地になる。

こどもは、家庭で育つ。

小さなときは、世界の全てがそこにあった。

幼稚園に行き、小学校に通うようになって少しずつ世界が広がっても、

その中心は、父親と母親と自分が生活する家庭だ。

だから、家庭と言う基盤が揺るぎないもの、と疑いもなく信じられるこどもは、

とても幸せだった。

とてもとても、幸せだった。

だから、パパが再婚したとき、私は、私の世界が崩れてしまったように思った。

本当に崩れてしまったのかもしれない。

パパがいて、ママがいて、私がいて、

一生懸命にピアノを習って、ママが誉めてくれて、パパが誉めてくれて。

……私は、そんな私でいられなくなった。

 

ママに良く似た名前の、ママに良く似た感じの女の人は、ママじゃない。

その女の人と一緒にいるパパは、私のパパなのだろうか。

わからない。

わかっているけど、わかりたくない。

パパが、ママと一緒に寝ていた寝室で、その女の人とセックスしていた。

白くて大きなお尻。太腿、胸。

私の何倍もボリュームのある、熟れた女体。

ママのような裸の女の人の上にのしかかり、夢中でそれを貪るのは、

私の大好きなパパだった。

父親が、母親以外の女の前で男になる。

それは、私にとって何よりもショックだった。

パパが、ママの前で男の人でいるのはいい。

ママが、パパの前で女の人でいることを望んでいたから。

パパが、ママとセックスするのは全然構わなかった。

でも。

パパが、ママ以外の人とそれをするのは、私にとって

吐き気がするくらいに嫌悪感のあるものだった。

そして、私は、昔の私でいられなくなった。

義母になった人をののしった。

義姉になった人をののしった。

意地悪をした。

傷つけた。

追い出そうとした。

優しい、いい子でいられなくなった。

ママが可愛がってくれた、優しい、いい子でいられなくなった。

 

「彩ちゃんは、いい子ね。ママはとっても嬉しいわ」

ママは、いつもそう言って私のことを誉めてくれた。

頭を撫でながら。

家の中――こどもにとって世界の半分以上の存在──で、「そういう子」でいられるということは、

そのこどもの中身が本当に「優しい、いい子」ということだ。

そして、ママのいない家の中で、「そういう子」でいられなくなった私は、

中身が「優しい、いい子」でなくなってしまったのだ。

きっと。

「オネエチャン」に嫌味を言うたび、意地悪をするたびに、私は私でいられなくなる。

ママが頭を撫でてくれた、いい子の彩ちゃんが、どんどんなくなっていく。

それを、止められない。

「オネエチャン」を見るたびに。

長い髪。上品な雰囲気。優しい笑顔。

一つ年上の女の子が持っていたのは、私が持っていたはずの「優しい、いい子」だった。

だから、私は──。

 

「……」

ずずっ、という音にびっくりして私は我に返った。

ストローが、紙コップの底を吸ってしまった音。

ミルクとシロップをたっぷりと入れたアイスコーヒーは、いつの間にかなくなっていた。

ぼうっとしていたのだろう、それに気がつかなかった。

まわりの人が笑ってないだろうか、と恐る恐る見渡す。

誰も私のほうを見ていない。

ほっとため息をついて、私は立ち上がった。

帰ろう。

いつの間にか、あたりは暗くなっていた。

時計は、20:00を過ぎていた。

4時間も、ここに居たことになる。

(帰ろう)

私は立ち上がった。

振られたことは、新鮮だった。

男の子には興味がなかったけど、<姉>の恋人は、

ほとんど反射的に誘惑をした自分よりも、<姉>を選んだ。

それが、不思議と嬉しかった。

「……オネエチャン」

言葉にして、心の中の傷に、そっと触れる。

痛い。

だけど、我慢できなくはない、と思う。

少なくとも、<姉>は、私という傷以外のものに目を向け始めた。

それは、良いことなのだろと思う。

冷静に考えれば。

「優しい、いい子にならなきゃ」

不意に出たつぶやきは、私を驚かせた。

「……そうね」

自分で自分に答える。

帰ったら、――祝福してあげよう。

<姉>とあの男の子との恋は、きっと素敵なものなのだから。

ママが生きていたら、きっと微笑むような。

だから、私は、それを祝福してあげたい。

昔の「優しい、いい子」だった私だったら、きっとそうしたから。

「……いいお休みだったかも」

学校から帰ってから何もなかった4時間。

その何もない、カフェでコーヒーを二杯飲んでぼうっとしたことの贅沢。

ちょっと穏やかな気持ちになれた時間だけで、私はとても満足だった。

<姉>に対する気持ちが、何か、変われるきっかけになったような気がするから。

 

──でも、やっぱり駄目だった。

家に帰ったとき、私は、やっぱり私でいられなかった。

 

「――お帰りなさい。今、卵サンド作ってるけど、食べる?」

帰宅したとき、姉はキッチンで言葉どおりのことをしていた。

卵のサンドウィッチは、私の大好物だった。

好き嫌いは多いというつもりはないけど、食欲がなかったり、

コンクール前の緊張したときは、それしか喉を通らなかったりする。

<姉>は、何度もそれを作らされていて、

実際、料理上手の彼女が作る物は絶品だった。

ママが作ったもののように。

私は、ちょっと息を止めて心の中で十数えた。

<姉>の作ったサンドウィッチが、ママの味がするのは、

彼女が私の思い出に挑戦しているわけではない。

私が、味の好みにうるさく注文と駄目出しをしたから、

必然的にママが作ったものにそっくりになったからで、つまりは、私の為したことだた。

そして、私は、いつもそのことさえ気に入らなくて<姉>を怒鳴りつけていた。

優しい、いい子じゃなかった。

十、数え終えた。

言わなきゃならないことは、わかっていた。

「……ありがと。夕御飯、食べてなかったの。ありがたくいただくわ」

はじめて言ったかもしれないお礼の言葉に、<姉>が驚いたように振り向いた。

私は、思わずそっぽを向いた。

でも、耐え切れなくて、ちらりと上目遣いで相手を窺った。

しばらくして<姉>は、小さく微笑んだ。

優しい、穏やかな笑顔で。

誰かから愛されているから、世界中を愛したいと思っている人の優しさで。

誰かから優しくされているから、世界中に優しくなれる人の穏やかさで。

「――ん。ちょっと待っていてね。もうすぐ卵が茹で上がるから」

「うん……」

私は、まぶしい物を見るように<姉>のことを眺め、テーブルに着いた。

てきぱきと動く<姉>の後姿をぼんやりと見つめ、何か声をかけようとした。

 

「……オネエチャン……」

「何?」

「……なんでもない」

<姉>は何も言わなかった。

何も言わないことで、彼女が恋人と充実した時間を過ごしたことはわかった。

私が衝動的にあの男の子のことを誘惑したことさえも、

今の<姉>にとってはささいな出来事なのだろう。

(ごめんなさい、って言わなきゃ)

ありがとう、が言えたのだから、それも言えそうな気がした。

でも勇気がちょっと足りなかった。

もう一度心の中で十を数える。

うん、きっと大丈夫。

<姉>は、絶対に許してくれる。

それには確信に近いものがあった。

あ、謝るときは、椅子に座ってちゃ駄目だ。

立たなきゃ。

そう思って私はテーブルの上に手をかけて──それに気がついた。

 

なんだろう。

何かを包(くる)んだティッシュの包み。

無意識のようにそれに手を伸ばしたのは、好奇心と言うよりも、

<姉>に謝るという、はじめての行為に戸惑い、

それをほんの数秒でもいいから後回しにしたいと思ったからだろう。

臆病な心が、その包みを開けさせ、――そしてもっと自分を傷つけた。

「な……に、これ……」

それを目にしたとき、私は、思わず声をあげていた。

薄いピンク色のそれは、見たこともある

用途も、知識として知っている。

使用済みコンドーム。

私は、悲鳴を上げた。

避妊具。

男性が精液を女性の膣内に射精しないために使う。

あの日、パパの寝室のごみ箱に入っていたもの。

パパが義母とのセックスで使っていたもの。

義母の女性器に入っていたパパが、

性欲を満たしても子どもは作りたくないので使ったもの。

成熟した男女が、性愛を楽しむための道具。

じゃあ、このゴムの中に入っている大量の粘液は……。

どろりとした、ゼリーみたいな白濁の汁は……。

──男の人の、あれ、だ。

精子、精液、ザーメン。

<姉>とセックスした、あの男の子の、あれ、だ。

それが四つも。

私は呼吸さえ忘れて絶句した。

「なぁに、どうしたの、アヤチャン?」

<姉>が振り向いた。

穏やかな笑顔で。

成熟した女の顔で。

セックスに満足しきった女の顔で。

義母に良く似た、私のママに良く似たその顔を見たとき、私は金切り声を上げた。

「あ……それは……」

驚いたような表情で何か言いかけた<姉>に、私は我を忘れた。

<姉>に謝ろうとした私を。

<姉>と仲直りしようとした私を。

優しい、いい子の私を。

「このっ! 変態っ!! 色キチガイっ!!!」

私は、コンドームを掴んで投げつけた。

怒りのあまり、叩きつけるような感じになったそれは、

狙った<姉>の顔へではなく、キッチンコンロの上に落ちた。

 

「あっ!!」

<姉>が狼狽しきった声を上げた。

避妊具は、サンドウィッチ用の卵を茹でている鍋の中に落ちた。

ぐらぐらと煮立つ、お湯の中に。

「あああっ!!」

<姉>の悲鳴は、切羽詰っていた。

まるで、愛する人が傷つけられたかのように。

いや。

しぶきが撒き散らされるのも構わず、鍋を掴んで流しの中にぶちまけた<姉>は、

大切な人が重症を負ったときの必死さを持っていた。

もうもうたる湯気の中、私は、呆然と突っ立っていた。

水道の栓がひねられ、鍋の中身に冷水がかかる。

湯気が収まるまでの数十秒、いや一分ほどの間、私は何をしていたのだろう。

気がついたとき、<姉>が目の前にいた。

鬼のような──と言ったら、鬼が怯えるだろう──表情で。

「死んじゃったっ!!」

「……え?」

「新治君の、精子、死んじゃった!!」

姉の手のひらの上でくたくたになっているコンドームの中身、

透けて見えるそれは、先ほどとはまた違った白濁色に染まっていた。

卵の白身が、熱を加えられて白く固まるように。

それは、好物の卵サンドのイメージと重なり、私は強烈な吐き気を催した。

「――このっ! 人殺しっ!!」

そんなことを口走ってしまうくらいに、

<姉>にとって、恋人の精液は、とても大事なものなのだろう。

性的に成熟した牝にとっては。

私は、世界がグルグルと回るのを感じた。

ふらつく足を踏みしめ、吐き気を押さえながら、私は必死でそれに抵抗した。

「そうしてやるわよっ! ……あんたの大切なものなんか、何度だってそうしてやるわよっ!!」

<姉>が身体ごとぶつかってきた。

私たちは床に転がって互いをののしりながら掴みあった。

義母が帰ってきて、叫び声を上げて二人を分けるまで、それは激しく続いた。

 

 

 

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