<私が私でいられる時>・7

 

 

目が覚めたとき見えたのは、白い天井だった。

記憶にない、模様。

(ああ、そうだ。○×市のホテルに泊まったんだっけ)

自宅から電車で数時間のところにあるそこは、夫のコンサートツアーの会場がある街だった。

昨晩、準備のためにここにやってきて、夫と合流し、

ホテルで彼の世話をして、一緒に泊まった。

午前中、打ち合わせをする夫に秘書役として付き添い、雑務が終わった後で分かれた。

ホテルに置いてきた自分の荷物を回収しに戻り、疲れを感じてベッドで横になったが、

そのまま少し眠ってしまったらしい。

時間は、正午を過ぎていた。

(帰らなきゃ)

スーツについた皺に眉をしかめた。

身体が鉛のように重い。

疲労感がどうしても取れなかった。

特に何をしたと言うわけでもない。

逆だ。

何もしていないから疲れる。

そんなことがあるなんて、思っても見なかった。

今の夫と結婚して、この生活に入るまで。

 

娘──綾子が小学生の頃、最初の夫が死んだ。

病気とわかって、すぐに。

闘病生活さえほとんどなかったあっけない死は、

しかし、私と娘の生活を変えるには十分すぎる出来事だった。

最初の夫とは見合い結婚だったが、私はあの人のことを愛していたし、

あの人と、あの人との間に授かった娘との三人の生活も愛していた。

だがそれは、一瞬にして崩れ去ってしまった。

私、石岡美和(いしおか・みわ)……いや、今は龍ヶ崎美和の幸福は。

 

私は、戸惑い、悲しみ、焦った。

ピアノの教師をしていたが、それで食べて行くのは無理だった。

夫の収入と理解があってはじめて成り立つ程度の奥様芸は、

せいぜいが、娘を近所で一番のピアノ少女にしてあげるくらいが関の山だった。

その夫が天国に召されてしまうと、私はたちまちに窮した。

私に浪費の癖はないつもりだったし、夫もかなりの高給取りだったが、

今のご時勢、双方の親が資産家でもない限り、娘に普通の教育を施し、

マンションのローンを払い続ける生活に、さらに親への援助などが重なれば、

余裕などは、ないものだ。

マンションだけは、かけていた保険のおかげでローンが終了したが、

残された貯金は生命保険も含めてわずかなものだった。

私は仕事を探したが、それは、自分の無能さとキャリアのなさを思い知らされるだけの作業だった。

娘のためには、慣れないパート生活も耐えられもした。

しかし、一日一日、目減りして行く預金通帳の数字は、私の心を必要以上に蝕んだ。

そしてその頃に、私は、今の夫、龍ヶ崎八郷と再会したのだった。

 

八郷は、私のピアノの先生だった。

先生と言っても、当時から日本を代表するピアニストだった彼は、

本当は私が教えてもらえるような相手ではなかった。

しかし、私の祖父が面識があったおかげで、

年に何度か、ピアノを見てもらったり、教室のイベントに参加させてもらったりしていた。

私よりも二十も上の八郷は、まったくの偶然の再会を喜び、

喫茶店で話を聞いたのち、数日して交際を申し込んできた。

あちらのほうも、配偶者を亡くして、娘との二人暮らしだった。

彼は忙しい生活の中で、自分をフォローしたり、家庭を守る役目の女が必要だったし、

私は、娘と自分の生活基盤を守ってくれる人が必要に思えた。

そして、かつての師弟は、再婚相手に互いを選んだ。

 

ベッドに横たわったまま、ぼんやりと手を動かす。

何を掴もうとするわけでもなく、

だが、その手が、放り出したままのバッグに触れ、

その中に入り込み、――小さなビニールの包みを探り当てる。

無意識にそれを取り出し、私は眉をしかめた。

毎日用意していて、昨日も使わなかったもの。

コンドーム。

八郷とは、昨晩、一緒に寝た。

このホテル、このベッドで。

性交渉、いわゆる<夫婦の営み>というものもした。

私を裸にして長い愛撫。

ピアニストの繊細な指先は、高校生の娘を持つ年増女の熟れきった身体を何度も絶頂に導いた。

クンニリングスもされた。

丁寧で執拗な舌は、二番目の妻を喜ばせるべく、

女性器やアヌスの中にさえも入り込み、女体を悶えさせた。

私は何度も達した。

前夫、つまり綾子の父親とのセックスでは経験のなかったことだ。

そして、その何度も女の絶頂に導かれる感覚は、私に疲労と絶望とを与えた。

八郷のセックスは、ペニスの挿入と、射精と、そして愛がなかった。

 

龍ヶ崎八郷。

今の私の夫が、この再婚を自分から望んだのではない事を、わたしはすぐに察した。

天才ピアニストには妻が必要だったし、娘の母親も必要だった。

だが、それは別に私でなくてもいい。

それなのに、何のとりえもない、三十後半の女を再婚相手に選んだのは、

私が、彼の最愛の妻、龍ヶ崎美浦(りゅうがさき・みほ)に、私が似ていたからに過ぎない。

綾子と、彩は似ている。

それは、母親同士が、よく似ていたから。

そしてそれは、二人を親の再婚という形で引き合わせ、互いを憎悪させた。

それは、八郷と私の罪だ。

美浦とは、子供の頃から何度も会ったことがある。

その頃から、すでに日本屈指のピアニストであった八郷は、

私のように年に何度か教わるだけのお義理の弟子のほかに、

日常的に指導している直弟子が何人もいた。

その愛弟子の中でも、秘蔵っ子中の秘蔵っ子こそ、美浦だった。

美浦は、私より数年年下のその少女は、本当の天才だった。

あえて言うのならば、今の龍ヶ崎彩以上の。

彼女の才能は、あるいは八郷自身さえも凌ぐものがあったのかも知れない。

八郷は、彼女を溺愛し、そして、そのうち二人は男女としても愛し合うようになった。

二十も違う、親子ほどの年の差も、当時は、

三十代後半の日の出の勢いのピアニストと、二十歳前の実績のない少女のこと、

誰もがその結婚を祝福した。

「本格的なデビューは、子育てがひと段落してからになっちゃったわ」

結婚してすぐに妊娠した彼女は、龍ヶ崎門下生の同窓パーティで、そう言った。

その一言を、私は、傲慢とも思わなかった。

彼女の才能と努力は、多くの天才にとって致命的になるだろう数年のブランクを以ってしても

色あせさせることが出来ないものに思えたから。

すでに結婚し、前年、綾子を産んでいた私は、素直に彼女を祝福した。

こんな運命が待ち受けているなんて、

その時、自分なりの幸福に浸っていた私には想像もつかなかったから。

だが、運命は、私を、彼女の後釜へと導いた。

中身のない、後釜へ。

 

「――美穂さんと美和ちゃんって、似てるね」

それは、同門の一同が抱いていた感想だった。

私たちは、顔立ちも似ていたし、体型や雰囲気まで似ていた。

決定的に違ったのは、中身──ピアノの才能。

アルバイトレベルのピアノ講師がせいぜいの私と、まぎれもなく日本一の天才。

だが、その天才を失った師にして夫たる人物は、その偽者を欲した。

龍ヶ崎美和。

再婚すれば、名前さえも、一字ちがいになる女を。

八郷は、美浦という支えを失い、

私は、夫という支えを失った。

互いは、互いを、偽者と知りつつ求めあい、

結婚と言う過ちを選んでしまった。

それが、自分の娘にどれだけの地獄を与えたのか、私たちはすぐに思い知った。

綾子は、彩を憎んでいる。

彩は、綾子を憎んでいる。

互いの親が、互いの親を奪ってしまったから。

そして、皮肉なことに、その親同士は、そこまでして手に入れたものから

何の幸せも掴むことができないでいた。

 

八郷が、私と普通のセックスをしなくなったのは、彩にそれを見られたから。

再婚当初、八郷は私を抱いた。

五十を半ば過ぎているとはいえ、若々しく体力もある男は、精力に満ち溢れていた。

その年齢の夫婦にしては、なかなか盛んだったセックスは、

しかし、ある日、彩が夫婦の寝室の前で泣いていたことに八郷が気がついたときに終わりを告げた。

以来、彼は、私を指と舌とで愛撫はしても、性器同士の交わりはしなくなった。

あるいは、それは、彼なりの<妻>への気の使い方であるのかも知れない。

だが、それは私にとって苦痛以外の何者でもなかった。

セックスは、もともと好きでも嫌いでもない。

綾子の父親は、それほど好色でもなかったが、淡白でもなかった。

小学生の娘を持つ夫婦は、子どもに影響がないように気をつけながら、

ごく一般的な頻度で交わった。

前夫は、八郷のような繊細な指先とテクニックを持っているわけではなかったが、

それは、私にとっては、むしろ相性がよかった。

私の身体はどうも感じすぎる体質のようで、

不幸なことに、それを楽しみ尽くすほどの体力は備わっていなかった。

 

「お前は、男で言うなら、早漏だな」

前夫はそう言って笑ったが、その当人も私の中に入ってからは数分も持たないで射精する似た物夫婦だった。

そして、一晩で十分もかからないセックスは、私にとって一番安心で楽しめるものだった。

唇へのキス。

首筋へのキス。

どこのハウツー本で覚えたのか、耳に息を吹きこむ。

それから胸を揉み、乳首を吸う。

指で、私の女性器をなぞり、何度か指を出し入れして濡れ始めた事を確認する。

気が向けば、二分か三分か、クンニリングス。

同じくらいの頻度で、やはり二分か三分のフェラチオをせがむ。

それから、ペニスを挿入する。

体位は、正常位がほとんど。

たまに私に隠れてみていたアダルトビデオに興奮するのか、後背位を。

騎乗位は、私が下手なのと、互いの骨格や肉付きの相性のせいか、気持ちよくない。

その他の体位は、試したことがなかった。

射精までは、五分もかからない。

普段はコンドームを。

安全日には、二人の気分によって膣内射精を。

隣の部屋で寝ている娘に気付かれる間もなく終わる、短い営み。

だけど、私も、夫もそれで十分満足していた。

お互いの愛情は疑いもなく確認できたし、

互い以外の男や女を欲しがることも皆無。

私は、私と前夫は、それでよかった。

それで十分だった。

そして、二番目の夫、龍ヶ崎八郷は、それを理解してくれない人間だった。

 

「君を、もっと気持ちよくさせたい、愉しませたい」

私との初夜に、八郷はそう言った。

再婚同士だ。

処女と言うわけでもない私は、それに頷いて応えた。

しかし、八郷の愛撫は、私の想像を超えて巧みだった。

それを悦ぶ女は多いだろう。

龍ヶ崎美浦は、きっと全身でそれに応え、夫にしがみついたにちがいない。

だが、私は、八郷たちに比べれば、ほんのねんねのセックスで満足する女は、

その丁寧で執拗な技巧に戸惑い、身体がついていけないことを感じた。

美浦は、一晩に何十回も自分を絶頂に導く夫を喜んだろうし、

夫の前で快感のあまりに失禁することも厭わなかっただろう。

私の前夫の倍もある大きさのペニスを嬉々として受け入れただろうし、

生理の日でさえ欠かさずに毎晩自分を求めることを、夫の愛情の証と信じて疑わなかっただろう。

だが、私には、無理だった。

私は、夫がいくときに一緒に一回いければ満足だったし、

ドライブ先の山などで用を足すところを見張ってもらうのは大丈夫でも、

セックス中にベッドの上で失禁するのは嫌悪感がある女だった。

ごく標準的な大きさだという、前夫のペニスが性に合ったし、

生理の前後や、娘がぐずかる夜は、ごく自然にセックスを我慢してくれる男(ひと)に感謝の念を抱いた。

それでも。

それでも、八郷が、性器のつながりと射精で終わる普通のセックスを続けていたのなら、

これほどまでの嫌悪感は持たないで済んだのかもしれない。

だが。

義理の娘、彩が泣いた次の日から、八郷は、私を愛撫だけになった。

その理由もいわず。

娘が拒むから、<妻>としては扱えない。

それでも、<夫>の義務として、満足はさせる。

指と舌は、そう言っていた。

そして、私は、私が望まぬやり方で、何度も絶頂に導かれる。

昨晩のように。

 

「んくっ……」

いつの間にか、私は、ショーツの中に手を差し入れていた。

綾子の父親と結婚していたときは、三十を過ぎた既婚女が自慰などするとは思っても見なかった。

ましてや、どんな形でも一晩に十回以上も達している女が。

だが、事実は逆で、私の自慰は、八郷が私とセックスをしなくなってから激しくなった。

皮肉なことに、技巧に慣れた身体は、自慰の指先も巧みになる。

私は、自分の性器の隅々までをまさぐった。

八郷がそうするように。

そして、何度か細かい絶頂を味わった後に、最後に大きな波を迎えて仰け反った。

「……さんっ……!」

最後の瞬間に、唇から漏れた名は現在の夫の名前ではなく、

その時、脳裏に浮かんだ、精液を噴き出したペニスも八郷のものではなかった。

それが、今の私に出来る精一杯の復讐だった。

 

「……」

自己嫌悪に身を焦がしながら、私はのろのろと起き上がった。

女の粘液に汚れた指が、何かに触る。

昨日発売の、写真週刊誌。

<娘>が載っている。

龍ヶ崎一家の写真も。

今着ているのとは、また違う、だけど同じくらい値の張るスーツを着て、

髪型も、メイクもプロにきっちり仕上げてもらった<母親>も写っている。

でも、それは、誰なんだろう。

龍ヶ崎美和?

龍ヶ崎美浦?

私は、それがわからなくなっていた。

鏡を見る。

美浦にも、彩にも、そしてもちろん綾子にも似ている顔が写っている。

でも、それは、その三人と違ってひどく疲れた年増女の顔をしていた。

「……」

不意に、鈍痛が襲い、私は唇をかみ締めた。

そういえば、そろそろ生理になる頃だった。

PMS(月経前症候群)。

ここ数年、私は、ずっとそれに悩まされていた。

たぶん、これも、八郷とのセックスのせいだろう。

私と八郷は、不幸なことに、とことん相性の悪い夫婦だった。

「……」

痛みは少し治まった。

不快感を抑えながら、私は鏡をもう一度見た。

「……綾子……」

不意につぶやいた自分に動揺を覚える。

なぜ、実の娘の名前が唇から漏れのか、は、すぐにその理由に思い至った。

昨日の出掛けの、会話。

 

「機嫌いいわね、……お姉ちゃん」

ここ数週間、別人のようににこにことしている綾子に、私はとまどいながら声をかける。

腫れ物にさわるように。

「ん。そう、ね」

くすくすと笑いながら、綾子は<妹>のカバンの準備をしていた。

一ヶ月前なら、どんよりと濁った怨恨しか映さぬ瞳でしていたその作業を。

「……そう」

なんとなく気おされるものを感じながら私は返事にならない返事をした。

「……今週は、なんか生理もすっごく軽かったんだ」

私より少し早めに周期が来る娘は、確かに今月、そうしたところをまったく見せなかった。

「……」

不意に私は、息苦しくなった。

それが、一体何を意味するのかが、唐突に分かったような気がしたから。

 

上機嫌。

女性ホルモンの大量分泌と、安定。

なによりも、自信と幸福感に溢れた笑顔。

 

それが恋をし、その恋が順調に

──女としての肉体に影響を与えるほどの精神性を与えるほどに──

すすんでいる、ということが、女親の目にははっきりとわかったから。

 

チェックアウトを済ませて、ホテルを出る。

特急のチケットを買って乗り込む。

グリーン車。

私は、こんな贅沢をしたかったのだろうか。

ただ、パートでは娘を満足に育てられない、と思っていただけのはずなのに。

二時間弱の移動。

地元駅に戻ったときは、もう夕方だった。

なんとなく、すぐ家に帰る気がせず、行き付けの美容院に寄る。

少し乱れた髪を整えてもらう。

店を出るときは、もう夜になっていた。

携帯で、家に電話をする。

誰も出なかった。

なんとなく胸騒ぎを覚えた。

タクシーを拾って、家に戻る。

玄関の扉を開けた。

 

──とたんに、金切り声が聞こえた。

キッチンのほうで。

 

「――このっ! 人殺しっ!!」

「あんたの大切なものなんか、何度だってそうしてやるわよっ!!」

 

飛び込んだ私が見たのは、――ののしりあいながら床の上で掴み合いをしている二人の娘の姿だった。

 

 

 

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