<私が私でいられる時>・5

 

 

こつん。

額と額が当たる。

伝わってくる、新治君の体温。

熱はない。

汗も引いている。

よかった。風邪じゃないみたい。

でも、私は、新治君の瞳の中に違和感を感じ取った。

動揺、後ろめたさ、恐怖感。

それは、新治君が女の子に抱いている根源的な感情。

私にはそれがわかる。

昨日、新治君からその理由を聞いたから。

ううん、それよりも、私は新治君の目を見つめるだけで、この男(ひと)の心を覗ける。

なぜって?

それは――私が新治君のことを大好きだから。愛しているから。

犬って、飼い主の感情が読み取れる。

飼い主のことをいつでも見ているから、いつでもその姿を探しているから。

私も同じ。

新治君をいつでも見ているし、いつでも探している。

いつもは一日に五分しか会えないけど、あの日からずっと、私は新治君のことしか考えてない。

だから、私は新治君の心が読めるようになった。

彼が私の心を読めるように。

新治君はまだ私のことを恐がっているけど、心と心はもうつながっている。

後は、身体をつないでしまえば、いいんだ。

そして、私はそれをすることで、新治君を治療することが出来るということも知っていた。

私だけがそれを癒すことが出来るという事も。

だけど、今日の新治君のその感情は、昨日よりももっと大きく異質だった。

だから、私は聞いた。愛しい人の瞳と心を覗き込みながら。

「……新治君、私に何か、隠してるでしょ?」

 

(な、なんでわかるの?)

新治君の心の叫びが、聞こえる。耳で聞くよりも確実に。

至近距離。

おでことおでこが触れ合っている。

吐息がかかる。

新治君は、可哀想なくらいにうろたえている。

大丈夫。

私は、味方だから。

どんなことがあっても、貴方の味方だから。

だって、私は貴方がいなければ私でいられない。

生きていくことさえ、出来ない。

石岡綾子は、貴方の中でしか存在できない女だから。

私は、それをわかってもらう手段を知っていた。

新治君の火照った頬を、両方の手のひらで優しく挟む。

唇を寄せる。

舌を入れる。

唾液を混ぜ合わせる。

昨日よりも、舌は巧みに動いた。

丁寧に、優しく。

執拗に、強引に。

ディープキスで新治君の脳髄をとろとろにとろかせる。

うん、落ち着いてきた。

私はもう一度、新治君の瞳を覗き込んだ。

「――ね、教えて。何か、あったんでしょ?」

新治君は、息を飲んだ。

震える体が、弱々しくもがこうとする。

私は身体を密着させた。

もっと近く、もっと深く。

新治君のもがきと震えが小さくなっていく。

そして、新治君は、告白を始めた。

 

「……そう。あの女が、来たの……」

私は、静かに言った。

あの女、――龍ヶ崎彩。

私の<妹>。

昨日の晩のことを思い出した。

私は、今日の準備を整えていた。

たくさんの心の準備と、少しの品物の準備。

両方とも、楽しい作業。

たぶん、私はにこにことしていたのだろう。それをあの女は見咎めた。

「――ご機嫌じゃないの。男でも引っ掛けたのかしら?」

ふん、と鼻を鳴らすのは、テレビカメラの前では絶対見せない、この女の正体。

「え、楽しそうに見える?」

私は、笑顔を崩さずに聞き返した。

<妹>の皮肉や嘲笑は、飽きるほどこの身に受けてきた。

だから、私は強くなった。

砂漠を彷徨う旅人が、熱や乾燥した空気に耐えられるように。

微笑を保ったまま、顔を向けると、<妹>の顔が憎しみに歪んだ。

「別に──。しょせん、売女(ばいた)の娘も、売女ってことね」

心の中で渦巻く怒りのせいか、言おうとしていることが意味を成していない。

ただ、私を罵倒したいことだけは伝わった。

私はことさらに微笑んで見せた。

言葉ひとつもまともに使いこなせない<妹>に対する、成熟した寛大な<姉>の表情で。

「……いい気にならないでよね、オネエチャン」

それが伝わったのだろうか、<妹>は歯軋りさえしていた。

「何が?」

「あなたは……しょせん、私のニセモノってことよ」

ようやく自分の中から取り出そうとしていたものを掴んだ<妹>は、

その言葉の固まりを思いっきり投げつけてきた。

 

「……なぁに、ニセモノって?」

私は、不穏当なその単語を聞きとがめた。

「なんでもないわ。……あなたにも、明日、わかるから」

<妹>は、にやりと笑った。

「人間ってね、本物を目の前にしちゃったら、

ニセモノには目もくれないのよ」

「ふぅん」

なぜか勝ち誇った笑みを浮かべて、あの女は部屋から出て行った。

あれは、――そういう意味だったのか。

石岡綾子と龍ヶ崎彩。

同じ日、同じ時間に、同じ男の子にデートを申し込む。

どちらかを、男の子に選ばせる。

自分が<姉>よりも優れていると思いたがっている、

そして、それを証明したがっている<妹>の取りそうな策(て)。

だけど、私は取り乱したりしなかった。

なぜって?

だって、その勝負は、私の勝ちだったから。

──新治君は、ここにいる。

あの女との約束を破り、私との約束を守って。

 

「──でも、新治君は、私を選んでくれたのよね」

私は、世界を手に入れた女王のように自信に満ちていた。

新治君は、ちょっと身じろぎした。

そうだ、とは言えない。

ちがう、とも言えない。

だから、何も言えない。

(僕ハ、タダ、流レサレタダケ。何モ、選択シテナイ)

新治君のおびえた目は、そう言っていた。

でも、私はその目に優しく微笑んだ。

なぜなら、それこそが新治君が私を選んだ証明だったから。

「ふふふ。やっぱり、私、貴方のことがよくわかるのね」

「……え」

私が微笑むと、新治君は、びくり、と肩を震えわせた。

大丈夫。

貴方は、自分の意思で、ちゃんと私を選んだの。

たとえ、それが無意識のうちの出来事だったとしても。

それを教えてあげる。

「私が、デートの待合場所を、あの女のように他のどこかではなく、

ここ──貴方の家にしたのは、なぜだと思う?」

「……」

新治君は、ちょっと戸惑ったような表情になった。

「ここが、一番貴方が好きな場所だとわかっていたから」

「!!」

きっぱりと言い切る。そして、微笑む。

龍ヶ崎彩よりも傲慢に、だけどこの世の誰よりも新治君には優しく。

「何かあったとき、貴方はどこかに逃げるより、きっとこの部屋にいる。

私はそれがわかるから、ここを待ち合わせの場所にしたの。

そして貴方は、私がここに来ることを承知で、それでもこの部屋から動きたくなかった。

それは、私のことがあの女より必要だったから」

私と同じことをしようとしながら、<妹>は、致命的なミスをした。

それは、新治君のことをわからない女の犯す間違い。

新治君に、選択の逃げ道を作ってあげなかったこと。

女の子が怖い男の子に、優しい逃げ道を与えようとしなかったこと。

新治君をわかっていれば、自分という選択肢を選ばせるという傲慢が

この男(ひと)をどれほど怖がらせ、萎縮させるか想像がつくはずだ。

だけど、<妹>は、気がつかなかった。

新治君を、理解していなかったから。

彼を、わかろうとしなかったから。

この男(ひと)を、愛していないから。

 

だけど、私は、違う。

私は、新治君の選ぶ選択肢にこだわらない。

私は、新治君に無理やり私を選ばせようとはしない。

新治君は、自由に、何を選んでもいい。

どこに逃げてもいい。

何も望まなかったり、何も選ばないという選択でさえもかまわない。

その先には、必ず私がいるから。

新治君にとって、一番楽で、一番好ましくて、

一番良い選択肢の先には、常に私がいるから。

新治君が動く必要はない。

私のほうが、そう動けばいいのだ。

私にはそれが出来る。

私は、新治君を理解している。新治君を愛している。

だから、新治君が「選ぶ」前に、その答えが分かる。

新治君が動かない、選ばないならば、私のほうがその場所に行けばいいのだ。

新治君にデートを申し込んだあの時、私は<妹>の挑戦のことを知らなかった。

あの女のやったことは、いわば不意打ちだ。

だけど、結果はやっぱり私の勝ち。

戦う前から、それは決まっていた。

 

「ふふ、もう16:45ね。さっき私が入ってきたときも、もう16:20だったわ。

無意識かもしれないけど、新治君は最初から、あの女とデートする気がなかったのよ。

そして、私のこと、待っていたの。最初から、私のことを選んでいたのよ」

私は、新治君自身が意識していなかった深層心理を解き明かして見せた。

新治君は、息を呑んだ。

図星を指されたように。

「……貴方は、私の<妹>を選ばなかったし、

二人ともから逃げることも選ばなかった。私が昨日言った約束を守りたかったから。

私が、貴方のお母さんとはちがう女だ、ということの証明を目にしたかったから。

……ね、そうでしょ?」

催眠術にかかったかのように、新治君がゆっくりとうなずく。

私は微笑をいっそう濃くした。

「ふふふ、いいわよ。教えてあげる。

石岡綾子が、貴方のことを裏切らない女だってこと。

貴方にとって、一生必要な女であるってこと」

そろそろと手を伸ばし、持ってきたバッグの口を開けた。

小さな箱を取り出す。

コンドーム。

最も手に入りやすくて、避妊効率も高い、学生の性行為には一番頼りになる避妊具だ。

ごくり。

目を見開いた新治君が、唾を飲み込む。

「ね。……私と、セックスしましょう。新治君もそれを期待していたんでしょ?」

私は、新治君の身体の中に湧き上がっている性欲を咎めることなく、

むしろいっそう優しい声でそれを肯定した。

「……いいよ。私、貴方のはじめての女になる。

貴方は、私のはじめての男になって。

そして、最後の相手になりましょう。

お互いがお互いの、最初で最後の、唯一の相手に。

私と貴方は、初恋同士の人。それも、お互いが心を読みあうことが出来る。

心でもつながっているのだから、身体でもつながったら、もう一生離れられないわ」

新治君は、がくがくと震え、おびえたように私を見た。

私は、優しく笑いかけ、うなずいた。

……新治君は、こくん、とうなずき返した。

 

「うふふ。じゃあ、新治君、お風呂に入ってくる?

私は、家でシャワー浴びてきたんだけど、いっしょに入ってもいいよ?」

「いいい、い、いや、ひ、一人で入ってくるっ!」

顔を真っ赤にした新治君は、あわてて部屋から飛び出した。

これも、予想通りの展開。

新治君が戻ってくる前に、私は「準備」しておくことがある。

……私は、バッグの奥を探って、「それ」を取り出した。

「……」

「準備」を終えた後、私は、階段を上ってくる足音を聞いた。

足音は、部屋に近づくにつれ、音が小さく鈍くなる。

部屋の前で、それはぴたりと止まった。

「……」

くすり、と笑って私は立ち上がった。

勢いよくドアを開ける。

「!!」

びっくりした新治君に、私は明るく声をかけた。

「おかえりなさい。……さあ、セックス、しましょ」

 

有無を言わせない。

でも、その手の中に押し込むようにして与える物は、

いつも新治君の望んでいるもの。

女の子におびえる男の子は、それでも女の子と仲良くしたい。

できれば、エッチなことも。

私は、手早く洋服を脱いだ。

「新治君も、脱いで」

「え、あ……ああ」

勢いに飲まれて、新治君は、身に付けたばかりのTシャツを脱いだ。

脱いでから、ちょっとあわてる。

私は、かまわず、ブラとショーツだけになった。

ぎゅっ。

下着姿のまま、抱きしめる。

抱きしめる。

抱きしめる。

……新治君は、おずおずと抱きしめ返してきた。

 

 

 

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