<私が私でいられる時>・4

 

 

カチ、カチ、カチ。

時計の音が異様に大きく聞こえる。

大きく。

大きく。

その音が僕を飲みこんでしまうような錯覚を覚えて、がばっと跳ね起きた。

生ぬるい汗が、全身にまとわりついている。

はぁはぁ、はぁはぁ。

荒い息をついて、僕は恐る恐る時計を見た。

13:27。

学校は、休んだ。

休みの連絡は、父さんから電話をしてもらった。

あまり家に帰ってこないから最近はめったに顔を合わせないけど、

父さんは、僕のことを信頼してくれている。

母さんが出て行った日々の中、僕ら父子は、

取り残された人間同士で力を合わせて、なんとかそれ以上「家庭」が壊れることを防いだ。

それは、二人のよく似た父子に同志的な信頼関係を与えてくれた。

僕は、あまりよく出来た子どもじゃないけど、嘘をついたり、

親が家に帰ってこないのをいいことに好き放題やったりなんかはしない。

父さんはそれが分かっているから、「体調が悪いから学校を休む」というメールを疑うことなく、

会社から学校に連絡を入れてくれただろう。

その、信頼が、今日は心苦しい。

……実際、体調は悪い。

夕べから頭はがんがんと痛いし、目の前はくらくらとしているし、

嫌な汗はかきっぱなしだし、何より背筋が寒い。

でも、僕は、自分で分かっていた。

それが父さんに報告した、風邪とかの病気によるものではない、ということを。

 

僕のこの変調は、精神的なパニックによるものだ。

二匹の蛇に狙われた、無力な小動物が陥る恐慌。

アヤチャン。

石岡綾子と、龍ヶ崎彩。

どうして彼女たちは僕の前に現れたのだろう。

はじまりは、小学生のときのクラスメイトを見かけたことだった。

綾ちゃん──石岡綾子は、お母さんが再婚して「石岡」ではなくなっている。

そして彼女は、新しい家で居場所がないということは、僕にはすぐにわかった。

だから、彼女は僕に好意を抱いた。

彼女の、一番幸せな、輝かしい時を知る、僕に。

綾ちゃんは僕の瞳の中に、かつての自分、石岡綾子を見つけ出した。

龍ヶ崎彩の義理の姉、龍ヶ崎綾子ではない自分を。

それは、たぶん、彼女にとって何よりも大事なもの。

だから、綾ちゃんは、僕を好きになった。

砂漠で遭難した旅人が、オアシスの泉を見つけたときに抱く感情。

世界の他の部分は、見渡す限りの砂。

彼女は泉から離れられない。

泉から離れようとしない。

離れたら、死ぬから。

死しかない、と思うから。

一度逃れられた砂漠に、もう一度踏み出すことが出来ないから。

……僕は、それに気が付いていた。

彼女は僕が好きなんじゃなくて、「石岡綾子」の存在を認めてくれる人が好きなだけだと。

土曜日のデートを、児童施設のボランティアに選んだのには、

そこしか彼女が家の了解を取れそうになかったということの他に、それも理由がある。

あそこでは、ピアノを弾くことができる。

彼女の幸福な少女時代は、おそらくはピアノを習っていたあの頃につながる。

何か、いいきっかけになるかもしれない。そう思った僕は、彼女をそこに連れて行った。

 

ある程度、それは成功したのだろう。

子供たちの拍手を浴びた綾ちゃんは、小人たちにかこまれた白雪姫のようだった。

遠い昔、講堂のステージでクラスメイトの拍手喝采を受けていた時のように。

でも、子供たちの、悪気のない一言が、彼女を現実に戻した。

「オネエチャンって、アヤチャンに似てるね」

「ほんとー」

「そっくりー!!」

同じような雰囲気の、同年代の少女。

昔のように髪の毛を伸ばし始めた綾ちゃんは、

その黒髪がトレードマークのテレビの中の天才少女によく似ている。

その少女が、彼女に嫌悪感を抱くくらいに。

そして、子供たちにとって「アヤチャン」と言えば、テレビの中のその少女のほうだった。

石岡綾子がこの世でもっとも嫌う存在。

彼女の砂漠を生み出すもの。

龍ヶ崎彩。

綾ちゃんの微笑が凍りついたとき、僕もまた凍りついた。

しかし、綾ちゃんは、僕が思っているよりもずっとずっと強靭だった。

「そうねー。名前も似ているかなー。

でもね、私はアヤはアヤでも、下に子が付くんだよ。綾子。石岡綾子って言うの……」

戸籍上では、もう二重線で消されている名前を、綾ちゃんはためらいもせず名乗った。

「綾子……お姉ちゃん?」

最初に、龍ヶ崎彩に似ている、と口走った子が、

何かを感じ取ったのだろう、おそるおそる、といった感じで尋ねた。

「そう……ね」

妥協にも似た光をたたえて、暗い瞳がうなずいた。

そこから先、アヤコオネエチャンと呼ばれた女(ひと)は何曲もピアノを弾いた。

だけど、それは、あきらかにそれ以前よりも、

楽しさや心浮き立つ様子が減じたものだった。

それでも、綾ちゃんは、子供たちが知っていたり、喜びそうな曲を丁寧に弾いていった。

最後のほうは、僕が、彼女はすっかりそのことを忘れてくれたのか、と思ったくらいに。

でも、やっぱり、綾ちゃんは……。

「ありがとう、楽しかった。……<新治君と一緒なら>、また来たいな」

帰り道、彼女はそういって微笑んだ。

 

子供たちは、――「湿った泥」とわずかに生えた「雑草」。

砂ではないけど、彼女に必要な「泉」ではない。

泉の周辺にある、付属物。

泉の周りにあれば好ましく思うけど、そうでなければまったく無価値なもの。

静かな、穏やかな声はそう告げていた。

それでも、ボランティアは行かなかったよりはずっとずっと良かったと思う。

彼女にとっては。

今は無価値に思えても、世の中には砂漠と泉の他のものがあることを知ってもらったはずだから。

でも、僕にとってはどうなのだろうか。

僕は、彼女がますます僕にのめりこんでくるのを感じた。

昨日。

彼女は、自分がこの世の他の女とちがうと証明する、と宣言した。

──オアシスを見つけた遭難者は、その泉が枯れることを何より恐れる。

泉に見捨てられ、水を出してもらえなくなることを。

だから、彼女は泉の弱っている部分を見つけて狂喜した。

それは、彼女にチャンスを与えるものだから。

水脈をふさぐ石を取り除き、流れを滞らせる藻を掻き出す。

泉にとって必要な仕事の担い手は、泉から見捨てられることはない。

遭難者は、その奉仕によって、泉の管理者になれるのだ。

彼女は、それを求めていた。

あの長いキスは、

僕の中に入り込もうとする儀式。

自分の中に僕を取り込もうとする儀式。

あの娘(こ)はもうすぐ、ここに来る。

もっと僕の中に入り込もうとするために。

もっと僕を自分の中に取り込もうとするために。

ぶるっ。

全身が震えた。

彼女の狙いと、そして取るであろう行動を予想できないわけではない。

でも、それは──。

僕は、パジャマの中でおち×ちんが固くなるのを感じていた。

 

(こういうの、見たかったら、私のを見せてあげる。

こういうの、好きだったら、私がしてあげる)

 

エッチなコミックを指差しながら、彼女は確かにそう言った。

それは、今日、見せてくれるということなのだろうか。

掛け布団をしっかりかぶった暗闇の中で、僕は唾を飲み込んだ。

現実の女の子には、興味がない。

……この間までは。

すぐ近くに、理由はどうあれ、僕に好意を抱いている女の子がいて、

その娘(こ)は、小さいときすごく憧れた女の子で、

今はあの頃よりずっとずっと綺麗になっていて、

髪の毛も長くて、おっぱいも大きくて、美人で、優しくて、毎日キスをしてくれて。

そして、――怖い。

読めるけど、読み通せない執念。

わかるけど、わかりきれはしない執着。

その行動原理に突き動かされている女(ひと)は、僕にとって恐怖の対象だ。

だが、蛇に睨まれた蛙のように、それゆえに彼女に惹かれている自分がいる。

綾ちゃんは、今日会えば、間違いなく身体を使って僕を捕らえようとする。

どこまでするつもりなのだろうか。

下着を見せてくれるんだろうか。

おっぱいを見せるつもりなのだろうか。

全部を脱いで、女の子のあそこまで見せるなんてことは――。

それとも、まさか、その先まで……。

目をつぶる。

彼女の迷いのない笑顔が目蓋の裏に浮かんだ。

がたがた震えながら、僕は体中から熱い汗がにじみ出るのを感じていた。

おち×ちんは、痛いくらいに張り詰めていた。

思わずそこに手を伸ばしかけたとき、時計の針がカチっと大きな音を立てた。

「!!」

僕は跳ね起きた。

やましい想像にとらわれていた自分を、誰かから目の前に突き出されたように、自己嫌悪感が沸く。

15:30。

駅前のKNエキスプレス・カフェに行くには、もう支度をしなければならない時間。

「……」

龍ヶ崎綾。

世界的ピアニストの愛娘は、今やアイドル以上の知名度と人気を誇る。

その少女が、昨晩、僕の家の玄関先にいた。

そして、僕をデートに誘った。

一時間半後に。

明らかに、それは、僕と石岡綾子を会わせまい、

そしてその仲を引き裂こう、という意思によるものだった。

僕の元クラスメイトと、天才ピアニスト少女。

義理の姉妹の間にどんな確執があるのか。

僕は、先ほどとは違う寒気を感じ、もう一度身震いをした。

龍ヶ崎彩は、石岡綾子がそれを望まない、という一点だけで、

さえない男の子とデートを申し出てきた。

一方的な言葉。

自分の価値を微塵にも疑わない、傲慢な取引。

でも、一生に一度あるかどうかのチャンス。

 

このままここで待っていれば、自分のために僕を捕らえようとする女の子がやって来る。

駅前に行けば、誰かを傷つけるために僕を利用する女の子が待っている。

どちらからかも逃げれば──いや、多分、僕は逃げられない。

女の子は怖いから。

もう五年も顔を見ていない母親は、今なお僕を痛めつける。

彼女たちは、きっと、それと同じくらい怖い女(ひと)たちだ

そして、――時計の針は進む。

 

ピン、ポーン。

玄関のチャイムが鳴る。

僕は文字通り、飛び上がった。

選択の機会は、もう失われた。

僕は動けず、逃げられず、そして──。

意思を奪われた人形のように、僕は玄関のドアを開けた。

家人に招かれなければ獲物の家に入ることが出来ない吸血鬼が

なぜ標的を必ずしとめることが出来るのか、今の僕には良く分かった。

そして、僕は、僕の巣穴に、僕を食らう猛獣を招きいれた。

 

「どうしたの、汗びっしょりよ」

綾ちゃん──石岡綾子は、僕の顔を見て驚いた表情になった。

「あ、あ、うん。ちょっと、体調が悪くて」

わずかな望み。

このまま彼女に帰ってもらえれば──。

「大変。寝てなきゃ。お部屋に行きましょう」

当然のように家に入ってくる綾ちゃんを止める手立てを僕は持っていなかった。

「……ん。シャツとか、どこ? 着替えなきゃ」

僕の部屋に入るなり、てきぱきと動き始めた彼女は、

あっという間に僕の上半身を裸にし、タオルでぬぐい、新しいシャツとパジャマを着せた。

僕の格好を見て、くすり、と笑う。

「上下、色違いね。下も着替える?」

「い、い、いや、いい」

別途に腰掛けた僕は、あわてて手を振る。

「熱は……?」

あっと思うまもなく、綾ちゃんは僕のおでこに、自分のそれを押しあてた。

「……下がってるみたいね。あれ……?」

僕は、息をするのを忘れた。

至近距離で、綾ちゃんの瞳が僕を覗き込んでいた。

「……新治君、私に何か、隠してるでしょ?」

 

 

 

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