<私が私でいられる時>・3
ぴりりり。
小さな電子音がして、胸ポケットの携帯が鳴った。
誰かから電話が掛かってきたわけではない。メールでもない。
時間設定をしておいたアラームが鳴ったんだ。
17:00。
まっすぐ学校から帰ってきて、30分あるかどうかという微妙な時間帯は、
ともすれば、無自覚に過ごしてしまう。
僕は慌てて読んでいたコミックを机の上に開いたまま伏せた。
<ギャンブル・ウィッシュVSブラフ喰>の最新刊。
帰りに買ってきてすぐに読み始めたそれは、ちょうど佳境に入ってきたところだ。
女子高生ギャンブラー・腋野さんと、大年増女博徒の範馬うららの、脱衣丁半博打。
ヒロイン同士の対決は、掲載本誌でもまだ決着がついていないけど、
この巻には、最近すっかりヨゴレ役が板についてしまって逆に大人気の腋野さんの、
伝説的なブレイクシーン、「ブラウスを脱いだら腋毛を剃っていなかった回」と、
作者が腐女子なんじゃないかと思うくらい男しか出てこない漫画の紅一点の大年増・うららの
「対戦相手が挑発をかけた<髪の毛と同じくらいものすごい量とヘアスタイルの陰毛>説に大激怒の回」
の両方が載っているはずだ。
正直、読み続けたいという気がするけど、そうはいかない。
このところ、僕には日課が出来たからだ。
3週間前から、僕の生活はがらりと変わった。
有り体に言うと、彼女?……ができたのだ。
正直、<もてない男・○○市代表候補>の僕、石岡新治に
そんな機会がめぐってくるとは、産まれてこの方考えたこともなかった。
しかも、相手が、小学校の頃のクラスメイトの綾ちゃん──石岡綾子だったとは。
なんだか、すごく不思議だ。
石岡新治と石岡綾子。
苗字は同じだけど、親戚関係とかは全然ない。
同じクラスだったけど、接点はあまりなかった。
小学生のクラスは先生が交流にすごく熱心で、
クラスで放課後にみんなで遊んだり、休みの日にどこかに遊びに行ったりしてたけど、
綾ちゃんとは全然別のグループだった。
……というより、僕はどこのグループにも入っていなかった。
母親がいない、内気でマンガ好きの子どもは、
クラスの中にあまりうまく溶け込めなかったし、
クラスで人気者だった綾ちゃんと同じ苗字と言うのは、からかいの対象にしかならなかった。
綾ちゃんは、……いわゆる<高値の花>の女の子だった。
美人で、大人しくて、頭が良くて、ピアノが上手な、いわゆるお嬢様。
特にピアノは、お母さんがピアノの先生なだけあって、
本人も県のコンクールで何度も賞をもらっていた。
だから、小学校の頃、僕のクラスは綾ちゃんのピアノのおかげで、
合唱コンクールとかではいつも校内で一番だった。
そんな綾子ちゃんが引っ越していっちゃったのは、小学四年生のとき。
お母さんが再婚するってことだった。
クラスでお別れ会を開いたのを覚えている。
それが、今になって再会するとは思わなかったし、
再会してその日のうちになんだか付き合うような感じになるとは、
もっと思っても見なかった。
あ。
綾ちゃんは、もう石岡って苗字じゃないんだっけ。
たしか、お母さんが再婚して、今は龍ヶ崎さんって言うらしい。
でも、そっちの名前で読んだら──彼女はきっと怒る。
そして、僕が彼女のことを、あの頃と同じように
「綾ちゃん」と呼んであげると、彼女がものすごく嬉しがるということも。
誰にも言ったことはないし、誰にも悟られたことはないから、
僕のクラスメイトや知り合いは誰も信じないだろうけど、
僕は、女の人の心を読むのがかなり得意だ。
何の自慢にもならないけど。
小さい時に、母親が「幼馴染で初恋の人」にもう一度心を奪われ、
五年間の葛藤の末に、最後は夫と小学生の息子を捨てて去っていった家庭で育った子は、
母親──自分の身近にいる女性――の顔色を常に窺って生きるようなった。
どう振舞えば母さんが喜ぶんだろう。
何をしてしまったら母さんの機嫌が悪くなるのだろう。
僕はいつも憂い顔の母親を必死に観察していた。
でも、結局。
何をしても、どんな努力をしても、
「いい人だけど、ときめかない男(ひと)」と、「その息子」は、
彼女にとって何をしようと、最後は「一生の中で一番好きになれた人」には敵わなかった。
そして、僕は女の人のことが、恐くなり、嫌いになった。
一分見れば、その女(ひと)が何を欲しているのか、わかる。
どう振舞えば喜ぶか、わかる。
だから、僕は彼女の事を「龍ヶ崎さん」ではなく「綾ちゃん」と呼ぶ。
そう呼ぶと、彼女はものすごく嬉しそうな表情になる。
そういうことはすぐにわかる。
だけど、――本当は、わからない。
だって、女の人は、母さんのように、あんなに僕の事を誉めてくれた次の日に
黙って家から出て行ってしまったから。
そして、いつもあの人を悲しませていたはずの「一番好きな人」のもとに嬉々として身を寄せたから。
売女(ビッチ)。
僕は、女の人の心の表面だけは読めるけど、奥底までは絶対に読めない。
だから、恐いし、好きになれない。
あの娘――石岡綾子も。
……石岡綾子、も……?
……綾ちゃん、も……?
僕は、無意識に唇に手をやった。
キスをした。
はじめて女の子とキスをした。
ファーストキスってやつだ。
僕には一生縁のない物だと思っていたものだ。
一週間前、つまり、綾ちゃんと会ってから2週間後、
あの自販機コーナーで、僕らはキスをした。
どういう流れで、どんな会話をしていてそうなったのか、
頭が沸騰して、全然覚えていない。
ただ、綾ちゃんは、いい匂いがして、唇は柔らかくて、キスはとても気持ちいいものだった。
あれから、毎日、綾ちゃんはキスを求めてくる。
僕はとまどいながら、それを受け入れる。
この間の土曜日は、デートをした。
デートと言っても、綾ちゃんのところはすごく家が厳しいから、
高校の地域ボランティア活動をいっしょに行った、というだけのことだけど。
僕らが住んでいる学区は、高校のボランティア活動が盛んで、
ちがう学校の生徒がいろんな場所でいっしょに同じ活動をすることができる。
「学校公認の合コン」のつもりで参加している連中も結構多い。
僕は、そんなことには全然興味がなかったら、あまり真面目に活動してはなかったけど、
何かの折に、子どもたちの施設で遊び相手になる活動をしているサークルに入っていた。
自販機でジュースを飲みながら、そんな話になったとき、
綾ちゃんは、目を輝かせてそれに参加したいと言い出したんだ。
結果は、上々だった。
施設には古びたピアノが一台あって、綾ちゃんは子どもたちにそれを弾いて聞かせた。
最初は戸惑いながらだったけど、すぐにカンを取り戻した綾ちゃんは、色んな曲を弾いてくれた。
「練習なんかしてないから、もう、難しい曲は弾けないんだけど……」
そういいながら、綾ちゃんは、簡単なピアノ曲の中に
アニメやゲームのテーマをまぜて弾き、
子どもたちは大喜びでそれを歌ったりしていた。
いままでどうすれば良いのか全然わからなかったボランティアが大成功に終わり、
そして、僕と綾ちゃんはもっと仲良しになった。
「綾ちゃんも、ゲームとか、アニメ見てたんだ」
その帰り道、僕はそっと聞いてみた。
「ううん。全然。曲覚えたのは、今週になってからかな」
綾ちゃんは、笑顔でそう答えた。
「え?」
「新治君のケータイの着信、あれだったでしょ。ええと、<らき☆なな>だっけ?」
……登場人物が聞き取り不可能の歌詞にあわせてポップに踊りまくるOPが大人気のパチンコアニメは、
たしかに僕の携帯電話の着メロだった。
「あと、<アッコアコにしてあげる>とか、<エアーウルフが倒せない>とか、
新治君がよく口ずさんでいたから、覚えちゃった」
……番組の中で不当に貶められた人工音声ソフト会社が、激怒のあまり、
その番組の司会者でもある老女性歌手の全盛期の声を100%合成音のみで作成し、
すっかり声量の衰えた<芸能界の女帝>と赤白歌合戦で直接対決、圧勝した記念曲とか、
……悪魔的天才博士が生み出した超音速攻撃ヘリが倒せない悲哀を歌った曲とかは、
僕の鼻歌レパートリーの筆頭だった。
「それって……」
耳コピー? と聞こうとしたら、綾ちゃんのほうが先に答えた。
「新治君の好きな曲、私も好きだから」
「え……?」
先回りされた、でも予想外の返答に、僕は戸惑った。
そして、僕は、僕が予想していたよりもはるかに、
彼女が僕の事を好いてくれていることに気がついて――戦慄した。
女の子は、怖い。
だって、それは、母さんと同じだから。売女(ビッチ)だから。
今日は優しく笑っていても、明日も同じとは限らない。
親子だからって、家族だからって、安心は出来ない。
そんなものは、<一生で一番好きな人>の前では何の意味のない絆だったから。
だから、僕は、やっぱりあの娘のことも怖い。
だって、彼女が僕の事を一生で一番好きだなんて思えないから。
時計を見る。
17:12。
いけない。
17:20頃にあの自販機コーナーに着くに、もう家を出なくちゃ。
僕は部屋を出て、階段を下りた。
玄関で靴を履き、扉を開ける。
そこで、僕は凍りついた。
「……えへ。来ちゃった」
買い物籠を下げた綾ちゃんがそこに立っていた。
「な、なんで……」
僕の家を知っているのか、と聞きかけて、こないだボランティアの時に
帰り道の途中だったから教えた事を思い出した。
だけど、わざわざ来るなんて。
そうも言いかけて、にこやかな笑顔の綾ちゃんを見て言葉を飲み込む。
綾ちゃんは、僕の彼女だ。
僕自身はいまひとつ踏み切れないでいるけど、彼女や世間一般的なものの見方で言えば、
僕と彼女の関係は、もうそう呼んで差し支えないものなのだろう。
一日後五分か、十分の逢瀬だけど、あれから、毎日キスをしている。
土曜日のデートの帰りは、手もつないだ。
それは、彼氏彼女の関係以外の何物でもない。
だから、「彼女」が「彼氏」の家に遊びに来てもなんらおかしくはないだろう。
だけど、僕はパニックに陥った。
「ね。……中に入っても、いい?
新治君のお部屋、見てみたいの」
上目がちに僕の顔を窺う綾ちゃんと、その瞳と言葉の中にあるものに、
僕の「女の人の気持ちを読み取る」能力は、さらに戦慄した。
「ああ、あああ、あの……」
散らかった部屋に通したのは、綾ちゃんの笑顔に押されたからだ。
一週間前、キスをしたのも、この笑顔のせい。
僕の丸ごと全てを肯定し、受け入れてくれる微笑。
それは今まで誰にも向けてもらえなかったものだ。
母さんからでさえも。
でも、この微笑みは、同時に、僕の丸ごとすべてを要求するものである。
僕は、もうそれに気がついていた。
「うわあ、いいお部屋ね」
嬉しそうにそう言った綾ちゃんは、床の上に散らばっているお菓子の袋とか、
漫画本とか、アニメのDVDとかに眉をしかめない。
貴方は、それでいい。
貴方は、そのままでいい。
と細めた目が語っている。
でも。
その瞳の奥にある光は、こうも言っていた。
(ダカラ、ソレハ、他ノ人ニ、ホンノ少シデモ、アゲチャ、ダメ)
「お、お茶、持って来るね!」
僕は自分の部屋を飛び出した。
心臓が、どきどきしていた。
それは、興奮なのか、恐怖なのか、それともまったく別の感情なのか、全然分からなかった。
分かるのは、彼女が僕の家の中に、いや、
僕の心の中に入りこもうとしてやって来たということだけだった。
「あ、あの……」
「なあに、新治君?」
「いや……」
淹れてきた紅茶をテーブルに置いてベッドに腰掛けると、
当然、というように綾ちゃんが隣に座った。
自販機コーナーのベンチではいつものことだったけど、
こうして自分の部屋でされると、心臓が破裂しそうだった。
綾ちゃんの、甘い、いい匂いは、いつものように外の風に散らされることない。
部屋の中で動きのない空気の中で、それは濃密に僕の鼻腔の奥を叩いた。
(なんでこの娘がここにいるのか)
今までの五分ちょっとの時間を反芻しても、
ちっともその答えにたどり着けない。
(この娘は、何をしに僕の部屋に来たのか)
それも、僕に誘われてではなく、自分から。
僕のパニックは収まらなかった。
なぜなら、僕の洞察力は、なんとなくそれを感じ取り、
そして僕の理性と経験がそんなはずがない、とその可能性を否定していたから。
「あの……」
「え?」
「新治君は、こういうの、……好きなの?」
いつのまにか彼女の手の中にある、数冊の本。
<ギャンブル・ウィッシュVSブラフ喰>の脱衣丁半博打は、
僕が読んでいたところよりだいぶページが進んでいて、
腋野さんも、うららも、どちらもあとショーツ一枚というところまでストリップしていた。
他にも、こないだ買ったばかりでベッドの下に隠しておいたエロ漫画も
お気に入りの裸のシーンが開かれて彼女の視線にさらされていた。
「ど、ど、どうして!!」
後にどういうことばを続けようとしていたのか、わからない。
どうして、見つけたの?
どうして、見ているの?
どうして……?
だけど、僕がどんな問いを発せようとしていたとしても、
彼女の答えは決まっていた。
「新治君の好きなもの、私も好きになるから」
問いになっていない問いに対する、答えになっていない答え。
でも、
僕のことを覗き込む美少女の瞳の光は、あまりにも強かった。
だから、僕は気おされて、彼女の次の言葉を待った。
それは、予想していた通りのものだった。
「でも、こういうの、見たかったら、私のを見せてあげる。
こういうの、好きだったら、私がしてあげる」
背中に稲妻をまとった蛇が走った。
彼女は、自分の身体を使って、僕を取り込もうとしていた。
「だめだよ……そんなの……」
恐怖と、別の感情にしびれる脳が、無意識でことばを出していた。
「どうして? なぜ?」
綾ちゃんがゆっくりとにじり寄る。
彼女の体温、彼女の体臭、彼女の息遣い。
あたたかい。いい匂い。ぞくぞくする音。
「……漫画とか、ゲームとか、アニメとかの女の子のほうが、いいの?」
問い。
こわいくらい真っ直ぐな問い。
「だって、生身の女の子は……裏切るもん」
今まで生きていて、誰にも言えなかったことば。
それが、あっさりと引き出されていた。
そこからの十数分間、僕は魔法にかかったように、言葉と感情を引き出されていた。
母親の不倫。
捨てられた子ども。
学校の成績とか、仕事とか、家事を手伝うこととか、
僕や父さんが努力すればできることは、本当は全然意味がなくって、
結婚とか子供を作ることとかには何の価値もなくって、
ただ母さんが選んだ、かっこよくて女の人をどきどきさせる男(ひと)だけが幸せになれる。
僕みたいな男には、そういう力がないから、
生身の女の子に近づいてはいけないということ。
紙やモニターの上の、裏切らない女の子にだけ関心を向けていればいいこと。
気がつけば、そんなことを全部吐き出されていた。
彼女の、強い強い、粘っこい光をたたえた瞳に見据えられて。
自白剤を打たれたかのように、僕が問われるまま答えさせられていたのに気がついたのは、
綾ちゃんがその瞳を閉じたからだった。
「そう……そうだったの……」
綾ちゃんの桜色の唇の端が、すうっと吊り上った。
形のいい、柔らかい、僕が何度もキスした唇。
それが、微笑みの形をとる。
獲物を捕らえて、満足した猛獣の笑み。
優しい、優しい笑み。
その二つを矛盾なく含んだ唇が、怯える僕の顔に近づく。
「むぐうっ!?」
キスは、いつものキスでなかった。
僕の唇を割る、優しくて柔らかくて、強くて怖いもの。
綾ちゃんの舌は、ためらいもなく僕の口の中を犯した。
甘い唾液が僕の舌にからむ。
「!?」
彼女は僕の唾液を舌先ですくい取り、代わりに自分の唾液を流し込んだ。
「ふぁ……ぷぁっ……!!」
身体全体がしびれるような口付けが終わる。
ゆっくりと顔を離す綾ちゃんと僕の唇の間を、
互いの唾液が入り混じってできた銀の糸が長く伸びた。
「これ、ディープキスって言うんでしょ。……新治君は、はじめて?」
「そりゃ……」
僕は綾ちゃんがファーストキスの相手だ。
「私も、はじめて」
「綾ちゃん……」
「ん」
そう呼ぶと、綾ちゃんは嬉しそうに微笑んで、今度は自分の唇を付きだした。
僕はためらいながら、もう一度キスをした。
今度は、僕の舌が綾ちゃんの唇を割って入る。
二人の舌は、再び互いの唾液にまみれた。
「うふふ。私ね、――貴方のお母さんとは違うよ」
二度目のディープキスの後で、綾ちゃんはささやいた。
「私、裏切らないから。私、貴方と離れないから。どんなことがあっても」
「え」
「貴方が、私を綾ちゃんと呼び続けてくれるなら、私、なんだってするから」
「え……」
「明日、貴方の不安、全部取り除いてあげる」
「あ、明日?」
「うん。明日、<妹>いないんだ。練習もコンサートもないから、どこかに遊びに行くって。
家の人も誰もいないの。だから、明日は、夜まで新治君といられるの。だから、証明してあげる」
「しょ、証明?」
「そう。貴方に証明するの。私が、新治君を絶対裏切らない女だって。
貴方のお母さんとか、他の女の子とは違うんだって、貴方が納得するくらいに証明してあげる」
「あ、綾ちゃん……」
「うふふ。もう一回、呼んで」
「え……?」
「もう一回、綾ちゃん、って」
「あ、綾ちゃん」
「うん。素敵。とっても素敵よ、新治君……」
綾ちゃんは、もう一度唇を重ねてきた。
貪られる。
綾ちゃん、と彼女を呼ぶ僕の唇を。
「……明日、ここで待ってて。絶対よ」
そう言って、彼女は名残惜しそうに身体を離した。
僕は、どろどろに溶けたような疲労感と虚脱感と、そして快感に、
ベッドの上で動けないでいた。
「ね……最後に……」
猛獣か、魔物のように僕を蹂躙した唇が、甘えるような声を上げた。
彼女の要求は分かっていた。
「……綾ちゃん……」
僕がそう呼ぶと、彼女はもう一度幸せそうに微笑んだ。
「明日――楽しみにしていてね!」
そういうと、買い物籠を掴んだ綾ちゃんは、ぱっと駆け出していった。
「……」
彼女が去ってから、何分が経っただろうか。
あるいはほんの一瞬後のことかもしれなかったけど、
僕には、時計を見る気力もなかった。
(夕飯の買い物、しなくちゃ)
今日は久しぶりに父さんが帰ってくる日だった。
母さんが出て行ってから、父さんは仕事にのめりこむようになり、
家事は僕が全部やっている。
別にそれは苦痛でもなんでもなかった。
料理は得意だし、好きだ。
だから、たまに帰ってくる唯一の家族のために、
今日はカップ麺で済ませるという気にはなれなかった。
甘い虚脱感と戦慄にしびれた脳髄と身体を引きずるようにして外に出る。
冷たくなってきた風が、火照った頬に気持ちいい。
夜の空気を胸いっぱい吸い込んで、吐き出す。
玄関のドアにカギを閉め、門から一歩踏み出して、僕は立ち止まった。
さっき、家を出ようとしたときと同じように。
そこには、さっきと同じように女の子が立っていて――。
「あ、綾ちゃん?!」
ずっとそこにいたのか、と僕は言いようのない恐怖に立ちすくんだ。
でも、そこにいたのは――。
「アヤチャン? ……そうよ、私が、アヤチャン」
明るい家の中から出たばかりの薄暗がりで、それはさっき別れた女の子によく似て見えた。
同じような、シンプルでおとなしめなブラウスとスカート。
同じような、長い髪。
同じような、上品な美人。
でも、彼女は、僕の知っている綾ちゃんよりちょっと小柄で、
その美貌は……テレビの中でしか見たことない顔だった。
「ふうん。……あの女、最近浮かれていると思ったら、
彼氏が、いたんだ。……気に食わないな」
誰もが知っている<天才少女>は、僕の顔を覗き込むようにしながら、そうつぶやいた。
「あ、アヤチャン……」
綾ちゃんじゃ、ない、と言おうとして、僕はそれを最後まで言い切れなかった。
アイドル歌手より美人だから、絶大な人気を誇っている女の子が、
にっこりと、魅力的な、そして、怖い笑顔を浮かべたから。
「そうよ。私が彩。アヤチャン。私だけが、そう呼ばれるべきなの」
「……」
そのことばを、僕は傲慢とは思わなかった。
この街で、僕以外の人間は、そう言われても、ただただ頷いて肯定するだろう。
一億人の人間が名前を知っていて、
数千万の人間が顔も知っていて、
数百万の人間がファンになっている少女。
その実績と自信は、彼女の周りにオーラのように渦巻いていた。
瞬間、僕は、薄闇の中で彼女が輝いているようにさえ、思えた。
僕の生きる世界とは全然次元が違うところで生きている、天使。
その天使――龍ヶ崎彩は、僕に声をかけてきた。
「あの女、明日、貴方とデートでもするの?」
「!!」
デート、というより、僕の家に来る。
僕の沈黙をどう取ったのか、龍ヶ崎彩は、その微笑をもっと「怖い」ものにした。
「……ふうん」
たっぷり十秒くらい沈黙してから、吐き出すように続ける。
「妙に私のスケジュールを聞いてくると思ったら……」
それから、彼女は僕をしげしげと見つめ、――やがて、にたり、と笑った。
国民的美少女がこんなにも恐く笑えるのか。
でも、それは、やっぱりそこらのアイドルなどよりもずっと美人で可愛かった。
その笑顔のまま、彼女、龍ヶ崎彩は僕に提案してきた。
「ね。明日、あの女とじゃなく、私とデートしないかしら?
明日、私、夕方からは、オフなの。16時半にK・N・エキスプレスカフェで、ね」
答えを待たず少女は駆け出した。
僕は、その後を追うことも声をかけることも出来ずに、ただ立ちすくんだ。
怖かった。
ものすごく怖かった。
そして、僕の麻痺した脳は、二人の「アヤちゃん」のどちらのほうが
より恐くて、そして魅力的なのか、答えを出せずにいた。