<僕の夏休み> 三女:陽子 その3
部屋に戻った僕の心臓は、爆発寸前なまでにドキドキしていた。
酸素が足りない。息苦しい。
はあはあ、と、何度も深呼吸をしたが一向におさまらない。
みんなで食べた夕飯も、どこに入ったのかわからなかった。
久しぶりに顔を合わせた美月ねえや星華ねえとの挨拶も、まぼろしの中の出来事のようだった。
「彰ちゃん……?」
「……」
僕の顔を見て首をかしげた二人は、しかし、何も言わなかった。
陽子だけが、普段と変わらぬ調子で、御飯を平らげていた。
よく食べ、よく動き、よく笑う──いつもの陽子。
お前、こんなときに、よく平気でいられるな。
美月ねえに声を掛けられるたび、星華ねえが無言でこちらを見るたび、
僕は「お定め」のことを思い出して、箸を取り落としそうになるのに……。
美月ねえの作ったご馳走は、そりゃもうすごく美味しいのだけど、
今日ばかりは、砂か灰でも飲み込んだじゃないだろうか、という夕飯だった。
食事の後で、僕は、三姉妹の後に続いてお風呂に入った。
身体中をいつもよりもゴシゴシと丁寧に洗う。
おち×ちんを洗おうとして、僕は、それが固く膨らんでいることに気付いて狼狽した。
僕の性器は、アダルトビデオの中の男の人のように、獰猛に跳ね上がっている。
それは、これから女の子と性行為におよぶことへの期待に充血し、準備を整えていた。
「……お前、こんなときに、よくそんなになれるな……」
僕は、僕の意思とは無関係にそそり立った自分の性器を睨んだ。
ただただ性欲に忠実な器官が、従姉妹相手にも劣情を抱いていることは、僕にとって少なからずショックだった。
そう。
──陽子が、あんなにあっさりと僕との性交を口に出したことと同じくらい。
「……」
僕は、おち×ちんを刺激しないようにしながら、それでも、それをいつもの倍くらい丁寧に洗った。
湯船に入る。
なめらかなお湯の中に身を浸せば、いつもはリラックスできるのに、今日ばかりはダメだ。
身体は解きほぐれても、心のどこかが硬く凝り固まったように圧迫感がある。
何も考えないようにしよう。
そう思いながら、僕は、ふと目をあげて、どきりとした。
湯船の縁(ふち)に、髪の毛が一本。
誰のものだろうか。
お手伝いさん用のお風呂は、別にあるから、このお風呂には志津留の家族しか入らない。。
お祖父さんは今日も街から帰ってこないから、ここに入った人間は僕以外では三姉妹だけ。
その黒々として艶やかな髪の毛は、生まれて一度も髪を染めたことがない彼女たちのものだ。
そして──。
この長さは、美月ねえや星華ねえのものでは、ない。
僕よりもちょっと長い、この髪の毛は──。
(よ、陽子も、このお風呂に入ったんだ……)
考えたら当たり前の話だ。
今まで何百回も繰り返された日常。
でも、今日の僕にとって、それは、生々しい想像をともなって脳裏にはたらきかけてきた。
全裸の陽子が、いま僕のいるお風呂に入っているさまを。
ついさっきまで、陽子がここにいた。
陽子は、僕と同じように身体を洗ったのだろうか。
この湯船に浸かって、何を考えていたのだろうか。
湯船……?
今僕の浸かっているお湯に、陽子も入ったんだ……。
陽子の裸の胸や、あらわになった性器も、このお湯の中に──。
僕は、ふいに、自分の周りのお湯に陽子の体温が溶け込んでいるような錯覚を感じて過呼吸になった。
なまめかしい匂いをかいだような気さえする。
あわてて浴槽から立ち上がると、僕のおち×ちんは、下腹に張り付かんばかりの勢いでそそり立っていた。
馬鹿──この変態。
ぼくは、下卑た劣情しか詰まっていないそいつを切り落としたくなる衝動に耐えながら、お風呂を出た。
部屋に戻っても、ドキドキは収まらず、さらに増す一方だった。
──いつまでも考えても、らちがあかないだろうから、今夜、しちゃわない?
──じゃ、決まりね。お風呂入ったら、彰の部屋に行くからっ──!!
陽子の声が、何度も木霊する。
同時に、幼い頃に「上の神社」で見た吉岡さんと千穂さんのセックスが、生々しい映像として脳裏に浮かぶ。
汗まみれで絡み合う牡と牝は、あられもなく交わり続け、蕩けていく。
僕の頭の中で、白い裸身をさらす女の人は、いつのまにか、
千穂さんではなく陽子に変わり、吉岡さんは僕自身に変わっていた。
「うう……」
僕は、無意識のうちに自分の性器を握り締めていることに気付いて狼狽した。
陽子のことを考えてオナニーしていたなんて──。
そして、僕は、それが、今日はじめてのことではないことに深い自己嫌悪を抱いた。
射精への欲望に膨れ上がったおち×ちんから、無理やり手を放す。
「……」
いっそこのままオナニーを続けてしまおうか。
身のうちに溜まった獣欲のままに、陽子と交わることに僕は違和感と嫌悪感を抱いていたからだ。
(セックスって、もっと真剣で神聖なものなのではないか)
吉岡さんと千穂さんの交わりが、あんなに真剣で激しいものだったせいか、
僕は漠然とそう考えていたのだ。
ましてや、陽子と僕との間のセックスには──子供を作るという、
これ以上真剣で神聖なものはない行為がつながっている。
「……どうすりゃいいんだよ……」
僕は、一向に萎える気配のない男性器を眺めながら、途方にくれていた。
その時――。
「彰、入るよ」
ふすまの向こうから陽子の声がした。
「ちょっ、ま、待って……!」
僕はあわててパンツとズボンをあげ、真っ赤になりながらふすまを開けた。
「にっししー。志津留陽子、夜這いに参りました〜!
ふつつかものではございますが、よろしくお願いいたします〜!」
ことばとは裏腹に、元気一杯で飛び込んできた陽子に、僕は戸惑った。
どこまでもいつもの調子の陽子と、その話している内容とのギャップに。
陽子は、上下ともに長袖のパジャマ姿――これも見慣れた姿だ。
昼間や風呂上りはともかく、夜寝るときはTシャツに短パンというような格好はしない。
(――なんで陽子たちって、夜はそんなの着て寝るの? 暑くない?)
(――うーん、慣れてるから暑くないよ。
それに、婆ちゃんが、女はお腹を冷やしたら駄目だって言ってたもん)
いまどき逆にめずらしいかもしれない「年齢相応の格好」には、
旧家に脈々と続いている教えが溶け込んでいるのかもしれない。
「……」
僕が黙って立っていると、陽子はちょっと首をかしげて、部屋を見渡した。
「あー。彰ったら、全然準備してないー」
「あ、ああ、ご、ごめん……」
「お布団敷かなきゃ、ダメでしょ?」
「あ、う、うん……」
僕の部屋は、散らかりきっている。
リュックサック一つ、手提げ袋ひとつの中身でよくもまあ、というくらいに。
「しょーがないなー。ほら、ちょっと、そこ、どいて」
陽子は勝手知ったる我が家という感じで(実際、陽子の家なんだけど)部屋の中に入り、
さっさと荷物を片付け始めた。
意外だけど、陽子は、こうしたことが得意だ。
美月ねえと星華ねえという、二人の家事の達人に仕込まれたせいか、
料理以外にも、家事全般でできないことはないし、本人も好きだ。
「陽子は、世話女房になるわい」
とは、婆(ばば)さま──お祖父さんのお姉さんで、僕にとっては大伯母──のことばだ。
(……女房……?)
どきん、と僕の心臓が脈打った。
陽子と……その……セックスして、子作りしたら、当然、陽子と僕とは夫婦になる。
僕は自分の頭に浮かんだ単語が導き出す想像に狼狽した。
それは、四つん這いになって床に散らばったものを拾う陽子の、
パジャマに包まれた──形がくっきりと浮き上がったお尻が目に飛び込んできて、いっそうひどいものになった。
「着替えは風呂敷にまとめとくよ」
「あ、ああ、頼む……」
「彰ってば、あいかわらず風呂敷包み作れないんだ」
「う、うん……」
僕は「風呂敷に下着を包み、上できゅっと縛る」ことがどうしても出来ない。
母さんが包んでくれた風呂敷を一回あけてしまったが最後、
二度と同じようには包み直せないのだ。
いや、絶対に、中に入っているものの容量は、風呂敷の内部に納まるはずがない、
と僕はいつも思っているんだけど──陽子はなんでもないもののように見事に片付けた。
「はい、一丁上がり。……どうしたの?」
「い、いや……」
片付けものをしている間中、僕の視線が陽子のお尻に注がれていたなんて言えない。
パジャマに包まれた陽子のお尻は、昼間見るよりも、ずっと大きくて形がよかった。
黄緑色のパジャマ――特に取り決めたことではないだろうけど、三姉妹は、
美月ねえが白やピンク、星華ねえが青や水色、陽子が黄色や緑のものを揃えることが多かった──は、
色気も何もあったものじゃないデザインのはずだけど、陽子の胸やお尻は、
そんなものを突き破って僕に「女」を感じさせるものだった。
「……へんな、彰……」
陽子は小首をかしげて僕を見ると、最後に残ったリュックを部屋の片隅に持っていこうとした。
──その動きが、途中でぴたりと止まる。
「彰……これは何?」
陽子が、こっちを見た。
──陽子の手にあるのは、「明るい家族計画」。
従姉妹相手に子作り、という話に、どうしても納得いかない僕が、
新幹線に乗る前に駅前の薬局でこっそり買ってきたものだ。
それを使ってどうしようとか深く考えたわけではない。
準備と言うよりは、お守りのようなものだ。
でも、それを目にした陽子は、一瞬で状況を理解したようだ。
きりりとした眉が、つりあがった。
「……いや、あの、その、な?」
僕はしどろもどろに、訳のわからないことばを発して陽子をなだめようとする。
僕を見つめる陽子の瞳が、怒りに燃え上がっていた。
普段はどんなに喧嘩しても、殴られても、「じゃれあい」で済む。
お転婆で乱暴だが、三人の中である意味、性格的には一番普通かもしれない。
だけど、こういう目をしているときの陽子は、だめだ──僕の手に負えない。
もっとも、陽子とそんな状態になったのは、過去に二回だけだが。
一回目は、バレンタインにもらったチョコのことで、からかった時。
──あれが、陽子が朝四時から奮闘して作った手作りとは知らなかった。
二回目は、陽子がクラスメートからもらったラブレターについてからかったとき。
──これは今でもわからない。
「この先、そんな奇特な奴など現れないだろうから、いっそ、そいつと結婚しちまえよ」
と言っただけなのだが、陽子はなぜか激怒した。
陽子の最大級の怒りは、いちど沈黙してから一気に爆発する。
俗に言う<嵐の前の静けさ>というやつだ。
「……彰?」
そう、ちょうど今みたいに。
冷たく沈んだような声は、内面の怒りを隠しきれない。
「な、何かな?」
「……あたしと……するのに、これを使う気だったの?」
陽子の声と視線は、僕に(返事をしろ)と言っていた。
「あ、いや……その、だな……」
僕は舌をもつらせながら、やっと声を出した。
「……」
陽子はうつむいた。
僕は、次に来るだろう爆発の瞬間を予想して身体を縮ませた。
──だけど、爆発は、いつまでたってもこなかった。
「……」
──爆発するかわりに、陽子はぽたぽたと涙を落としていた。
「よ、陽子……?!」
「……嫌いなんだ…」
「……え?」
「彰は、あたしのことが嫌いなんだ……」
「……ええっ?」
「彰は、あたしのことが嫌いだからこんなもの買ってきたんだ……。
あたしに、彰の子供を産ませたくないから、こんなもの買ってきたんだ……」
「……えええっ?!」
「う……」
「――?」
「ううっ……」
「――??」
「うわああああ〜〜〜っ!!!」
「――!!??」
突然、飛び上がるようにして立ち上がった陽子は、ふすまをばしーんと開けると、
ものすごい勢いで飛び出していってしまった。
「あ……ちょ、ちょっと、陽子――」
残された僕は、呆然とそれを見送るしかなかった。
「――」
一分も、突っ立っていただろうか。
我にかえった僕は、あわてて陽子を追いかけた。
陽子の部屋は、二階にある。
「――よ、陽子……?」
「……」
部屋のカギは堅く閉められ、中からは何の返事もない。
僕の記憶にある限り、この部屋のカギが閉められたのも、
陽子が僕の呼びかけに応えなかったのも、初めてのことだった。
「……陽子……」
僕は、そこで二時間も途方に暮れていた。
──翌朝。
一度、部屋に戻ったけど、僕はなかなか寝付かれなかった。
明け方にうつらうつらする僕は、夢を見た。
たわいのない、思い出。
春にお花見をしたり、
夏に川遊びしたり、
秋にどんぐり拾いをしたり、
冬に雪遊びをしたりする、夢。
思い出の中の小さな僕には、いつだって相棒がいて、
そいつといっしょに思いっきり笑い、泣き、遊び、学んだ。
日に焼けた顔をくしゃくしゃにして、毎日をいっしょに飛びっきり楽しんだ相棒の名前は──。
……僕は、汗びっしょりで目が覚めた。
荒い息をついて起き上がる。
「……」
パンツを突き破らんばかりの勢いで自己主張している股間を僕はにらみつけた。
陽子の夢を見て、なんでこんなことになるのだろう。
これは、生理現象だ。
そうにちがいない。
朝食に陽子は現れなかった。
呼びに行った美月ねえは、小首を傾げて「あの子、風邪ひいちゃったみたいね。寝てるって言ってた」
と言ったけど、僕はそれが本当のことではないことがわかっていた。
「……」
「……」
「……」
美月ねえと、星華ねえと、僕の三人の朝食の場は、静かだった。
昨日の晩よりも、さらに味気ない食事。
陽子のいない食卓は、実家ではいつものことのはずなのに、
今日は耐えられないくらいに寂しいものだった。
朝食が終わり、僕は、母屋を出て中庭とぶらぶらとした。
なんとなく、家の中には居辛かったし、かといって外に出る気にもならない。
そんな気持ちだった。
お屋敷の中庭は、むちゃくちゃ広い庭園になっていて、
ここを管理する植木屋さんだけで何人もいるくらいだ。
どこかの観光地の日本庭園にもまけないくらいに整備された庭をぼんやりと歩く。
刈り揃えられた植栽たちも、鯉がいっぱいいる池も僕の興味を引かなかった。
……いつもは、それはたくさんの魅力に満ち溢れたものだったはずだけど。
──不思議な形の木の実や蔓を取っては、新しい遊びを考え付く相棒がいない。
──ひとつまみのえさで、どちらが多く鯉を呼び寄せるか競争する相棒がいない。
僕は、僕の世界が、急に色あせてしまっていることを知った。
中庭の端にきた僕は、そこに置いてある物置の扉が少し開いていることに気付いた。
これは、職人さんたちの使う物置ではない。
美月ねえたちが「外の物置」と呼んでいる、家族がめったに使わなくなったものを入れておくやつだ。
なんで開いているのだろう。
僕はふらふらとそれに近寄って、扉を開けてみた。
「……あれ?」
僕は、入り口近くの棚に、見覚えのあるものを見つけた。
──陽子のスポーツバッグ。
昨日、あいつが僕の出迎えに来た時、しょっていたやつだ。
毎日使うものが、なんでここに──?
僕は、それを手に取ろうとして、その中が空っぽだということに気がついた。
「新しいバッグでも買ったから、物置にしまったのかな?」
そう呟いた僕は、しかし、そのバッグの中身が、となりのダンボール箱に入っているのも見つけてしまった。
ソフトボールで使う、グローブと、バットと、それらの手入れ道具。
それに、洗濯され、きちんと折りたたまれたユニフォーム。
陽子が、部活で毎日使うはずのもの。
「……これがなんで、「外の物置」に……?」
僕は、先ほどの問いをもう一度繰り返した。
答えてくれる人がいるわけがなかったが、別の声が聞こえた。
「――えっと……、玄関って、こっち?」
「わ、私に聞いたってわからないわよ、……」
「うわあ、すごいお庭。……入っちゃって本当によかったのかな……?」
「見つかったら、怒られそう……」
「正面から行ったほうがよかったんじゃないの?」
「あ、あんなすごい門から入れないわよう……」
「ど、どうします、キャプテン……?」
小声だが、しかしわいわいと喋っている声が耳に入って、僕は我にかえった。
「――?」
陽子のバッグを棚に戻して、物置を出る。
「わっ──人だ……」
「ご、ごめんなさい、あやしいものじゃないんです!」
突然現れた僕に、驚いた声を上げたのは、十人くらいの女の子だった。
僕と同じか、一つ二つ上の子。つまり、高校生──。
みなお揃いのユニフォームを着込んでいる。
──先ほど僕が見たばかりの、陽子のユニフォームと同じものを。
「……陽子の友達ですか?」
ちょっとしたパニックになった女の子たちに声を掛ける。
「あ、そ、そうです。こちらの家の方ですか」
「まあ、そうかな」
志津留の中では、僕は本家の人間扱いだけど、世間一般的にはただの親戚だ。
だから、あいまいな答えをしたけど、女の子たちは少しほっとした様子だった。
「あの──陽子……ちゃんに会いたいのですが……」
「え……?」
昨日の晩と、朝食のときのことを思い出して、僕はことばにつまった。
「――」
無言になった僕を見て、女の子たちが首をかしげる。
「……ひょっとして、あなたが──陽子の従兄弟って人?」
女の子たちの真ん中から、ひときわ背の高いがっしりした感じの子が一歩前に出た。
「え?」
なぜか強くにらみつけてくる女の子の視線に、僕は狼狽した。
「――まあ、まあ。陽子の部活の方たちでしたか。ようこそ、いらっしゃい」
十三人もいる女の子たちを入れても、まだだいぶ余る広い和室は、さすが本家のものだった。
にこやかに応対する美月ねえも。
「……」
はじめはきょろきょろしていた女の子たちも、しだいに気おされたように静かになる。
この部屋に来る前は、大変な騒ぎだった。
キャプテンだという娘からの、陽子の従姉妹かどうか、と言う問いに、
「そうだ」と答えた僕への返事は、悲鳴と非難の洪水だった。
「――あんたがっ!?」
「――陽子のっ!?」
「――この変態っ!」
「――陽子を返しなさいっ!!」
わけもわからずにその罵詈雑言を受けていると、美月ねえが顔を出した。
とにかく、屋敷の中へ──というわけで、今に至る。
「麦茶でも召し上がってください」
にこやかな笑みを絶やさない美月ねえは、
それだけで、火のついたような勢いの十三人を圧倒していた。
お茶の類を持ってきたお手伝いさんたちにも驚いた様子だった。
十五人分の麦茶を持ってくるのに、お揃いの和服の女性が五人も出てきたのだから当たり前かもしれない。
僕でさえ、たまに「ここはどこの旅館ですか?」と言いたくなるようなことがある。
この辺一帯を旧くから支配していた一族は、一切の示威を行なわなくても相手にそれと気付かせることができる。
三分と立たずに女に子たちは借りてきた猫のように大人しくなった。
一人を除いて。
「突然押しかけて申し訳ありません。陽子ちゃんのことで、お聞きしたいことがあります」
キャプテンの女の子が、美月ねえと僕とを交互に睨むようにして、ことばを発した。
「はい、なんですか?」
美月ねえが、(私に任せて)というように、僕を目で制した。
「――陽子が、部活を、いえ、学校を辞めるというのは本当なのですか?」
僕は、所在無さのまま手で弄んでいた麦茶のコップを取り落としそうになった。
「本当です。夏休み明けに、休学願いか、退学願いを出すことにしていますわ」
美月ねえは、あっさりと答え、キャプテンや女の子たち、そして僕は絶句した。
「なっ──そんなっ……」
キャプテンの反応は、僕の反応でもあった。
「当然です。陽子は、これから結婚して子供を作りますので、高校のほうはお休みか退学することになります。
学校のほうには、もう話は通してありますよ」
「そんな……子作りなんて……。よ、陽子ちゃんに会わせて下さいっ!
直接本人から話を聞かせてください!!」
「……申し訳ないけど、あの子、今日はひどい風邪で、誰とも会いたくないそうなんです」
「嘘っ! 昨日はあんなに元気だったのにっ!!」
食い下がるキャプテンを、美月ねえは静かな目で見据えた。
「……」
キャプテンが、息を飲んでことばを失う。
「――いずれにせよ、これは陽子本人が決め、保護者である私とお祖父様が了承したことです。
いくらお友達でも、口を挟む問題ではないと思いますわ」
穏やかだが、取り付く島もないという拒絶をはっきりとさせた口調に、キャプテンがうつむいた。
「……そうですか。……お邪魔しました」
「キャ、キャプテン……」
美月ねえは黙ってうなずくと、廊下に控えていたお手伝いさんを呼ぶ。
「みなさんは、これから学校で練習ですか?」
「……はい。練習前に、来ました」
「それでは、学校まで、お車をお出ししましょう。
マイクロバスなら、全員が乗れるはずですから乗っていってくださいな」
「……歩いて帰ります。それと──」
「それと?」
「陽子ちゃんに、伝言をしていただけますか?」
「はい」
「――今日の夜のお祭り、みんなで下の神社の境内で待ってるって……」
「承りました。必ず伝えますわ」
キャプテンは頭を下げると、僕に一瞥も与えずに立ち上がった。
ほかの部員たちもぞろぞろと従う。
美月ねえは玄関まで見送りに行ったけど、僕は麻痺したようにその場に座ったままでいた。
「――うふふ。いい娘さんたちだったわね。陽子も友達づきあいが良くて嬉しいわ」
ソフトボール部の女の子たちを見送ったあと、戻ってきた美月ねえは、麦茶を入れなおしながら笑った。
自分や家族だけが飲む席のために入れる分は、さっきのようにお手伝いさんたちに任せずに自分で入れる。
こうしたところは、三姉妹が決して譲らないこだわりだ。
「美月ねえ……」
僕は、コップの麦茶を一口飲んでこちらを見ている女(ひと)に何て言えばいいのか分からなかった。
「びっくりした? ――ああいうふうに敵意を持った人たちに囲まれたときは、
まず、弱みをみせずに自分のペースに引き込むものよ。
まあ、あの娘さんたちは、本当の敵意を持っていたわけじゃないけれど」
「え……」
「ふふふ、今みたいなことは、これからたくさん起こるわよ。
本当の敵意――どころか殺意に満ちた、もっともっと手ごわい敵に囲まれることも。
志津留の本家──その当主となる子の父親は、当主が十分に育つまで、
その座を代行しなければならないから……」
「……!!」
僕はびっくりして美月ねえを見た。
「――大丈夫。そうした時に、自分と、自分の奥さんと、子供を、守れるように色々教えてあげる。
敵と味方の見分け方、接し方。本当の弓の使い方。本当の術の使い方。
お金の増やし方、使い方。お手伝いさんたちの使い方。――力の……「志津留の本家」の、使い方。
星華と二人で、これから全部彰ちゃんに教えてあげるわね」
「み、美月ねえ……」
僕が絶句したのは、うすうすは感じていた、志津留という家の特殊性や、それと表裏一体の<闇>のことではなかった。
それについては、これもうすうすではあるが、もう覚悟は決めていた。
お祖父さんや、亡くなったお祖母さん、それに僕の母さんや美月ねえたちが、
僕や陽子の目に触れないところで、人間と、人間以外の何かと渡り合い、戦い、
そして僕らを守ってくれていること。
僕らも大きくなったら、大人になったら、当然、もっと年若な一族の人間のために
同じようにして志津留を守っていかなければならないこと──それは覚悟していた。
だけど、さっき、女の子たちに向かって言ったときのように、
美月ねえが、陽子と僕との子作りや結婚を、もう決まっていることのように扱い、
それに対する準備をどんどんとすすめていることに対する覚悟は、全然ついていなかった。
陽子が僕と交わって子供を作るためには高校をやめなければならない、
ということにさえ、今の今まで頭が回らなかったのだ。