<僕の夏休み> 次女:星華 その5
夕闇の中を、シロを駆って走る。
お屋敷から山の頂上へ至る道は、舗装されていないけれど、
土の道はシロの蹄(ひずめ)のためには、かえってよかった。
とっ、とっ、とっ。
かなり急な勾配もあるけれど、シロはそれをものとしないで登って行く。
小さな頃から乗馬は習っているので、僕の腕前もそれなりにあるけど、
滑らかな動きの大部分は、シロの協力によるものだ。
この優しい白馬は、人を乗せて走ることに慣れているだけでなく、本当に賢い。
乗り手が未熟でも、どう動けばいいのか自分でちゃんと考えてくれる。
――小さな頃、興奮のあまり手綱をめちゃくちゃに動かす僕や陽子を乗せても、
何事もなかったようにゆっくりと牧場を一周していたシロは、
乗り手に気を使いすぎる性格のせいか、競走馬としては成功しなかった。
だけど、今の僕にとっては、最高の協力者だ。
「――」
林を抜けた瞬間、つぃーん、と耳鳴りがする。
世界が反転する、久々のこの感触。
僕が自分でコントロールできていた<世界>の影を、強制的に「見させる」。
<挑戦者>の力だ。
開けた草原が一瞬で真っ黒に染まる。――うじゃうじゃとはびこった「この世ならぬもの」で。
月が隠れた。――巨大な髑髏の影にさえぎられて。
五感のすべてと第六感が、僕とシロ以外の「存在」をひしひしと伝える。
はぁぁ……。
僕は目を閉じ、息を吐いた。
シロの変わらぬ蹄の音に、心を合わせる。
目を開けた。
そこには、普段と変わらぬ世界があった。
「――お前の術は通用しないよ、今の僕には」
そう。
僕は、もう恐怖におびえる小さな子供ではない。
どこかで見ているに違いない<挑戦者>に対して呟いた僕は、馬上でぐっと背を伸ばした。
霧が出てきた。
シロの歩みを止めた僕は、目の前で濃く渦巻く白い塊を見つめた。
御山の頂上を包み、早朝、吉岡さんたちの探索を拒んだ霧だ。
「行ける?」
僕は、シロの鬣をそっとなでながら聞いた。
ぶるる。
シロは小さく鼻を鳴らした。
その意思を感じ取った僕は、手綱を取った。
ただ持っただけで、何の力も加えないのに、シロは霧の中を走り始めた。
僕が、<挑戦者>を倒したいのと同様に、シロはアオを助けたがっている。
そして、この霧の結界の力は、そうした、想いに強化された霊力に弱い。
はたして、十メートルも進まないうちに、霧は薄れていった。
いや、それは、実際は1キロにも及ぶ分厚い結界だったのかもしれない。
霧を抜けたとき、僕らは山頂にいた。
二十メートル四方くらいの草地と、そこからなだらかに下って行く坂。
――ここが決戦場だということは、向こうに見える影を見るまでもなく分かった。
闇に映える白い巫女装束に身を包み、アオにまたがったマサキマキ――<挑戦者>の影を。
(――ほ、ほ、ほ。よう来た、志津留のヒコよ)
<挑戦者>の声は、お屋敷でのときのように直接僕の頭の中にひびいた。
(ヒメのほうではなく、ヒコのほうが来るとは思わなんだが、これは好都合。
――おぬしのほうが「力」は弱いから、のう……)
「マサキマキとアオから離れろ!」
<挑戦者>の挑発に乗らず、僕は声を出した。
(――ほ、ほ、ほ)
<挑戦者>の笑い声が大きくなった。
(――そうかえ、そうかえ、この娘の名はマサキマキと言うのかえ。
真名を教えてもうろうたぞ。わらわの術が強くなる、礼を言うぞえ……)
「……」
僕は、<挑戦者>のことばを無視した。
――これは、ただの挑発だ。
直感がそう告げていた。
たしかに、対象者の「真の名」を知ることで効果を増加する術式は存在する。
だが、昨晩、<挑戦者>は僕らがマサキマキのことを話していた場に現れたし、
すでに身体をのっとっている<挑戦者>が、マサキマキの所持品から名前を割り出すことは簡単だ。
何より、ここまで自由に身体を使う術式を使う前に、すでに憑依対象の本名くらい知っているほうが普通だ。
つまり――今のは、はったり。
こちらの動揺を誘うための罠だ。
それを見破った僕は、同時に<挑戦者>の戦法を理解した。
どうしてだろうか。
身体はカッと燃え立つように、頭の中は冴え冴えとしている。
高らかに嗤う<挑戦者>を前に、僕は冷静そのものだった。
昨日までの僕には、けっしてできなかった芸当。
――戦いは、能力の高低ではなく、それを使いこなす精神の比べあい。
僕に、そう教えてくれたのは誰だったろうか。
すっ。
僕は、ためらいもなく矢筒に手を伸ばした。
(ほ、ほ、ほ。この娘を射る気かや? ヒメの友人ではない……っ!!)
余裕たっぷりの<挑戦者>の声は、途中で悲鳴じみたものに変わった。
僕が、無造作に取り出した矢を、これも無造作に引いた弓で放ったから。
(……!!!)
アオの馬上で慌てて身をひねって避ける。
(こ、この娘を傷つける気かやっ!?)
「大丈夫。昨日の美月ねえのように鏃(やじり)は抜いてある。
けど、今日の僕の力は強いぞ。お前でも美月ねえの矢のように簡単には防げまい」
(な、何を馬鹿なことを……。ほ、ほ、ほ……)
馬上で<挑戦者>は取繕うように笑い出した。
だが、先ほどの慌てぶりと、僕の放った矢を、とっさに「防ぐ」よりも「避け」た様子に、
僕は、僕の力が<挑戦者>に十分通じることを確信していた。
<挑戦者>は、たしかに強い。
単純な力なら、美月ねえや、今のお祖父さん、あるいは昨日までの僕より上。
でも、星華ねえや、今日の僕ならば、互角に戦える。
そして、<挑戦者>は、この戦いに、星華ねえが出てくることを予想して策を練っていた。
マサキマキに憑依したのは、その最たるものだ。
――両手を広げた<挑戦者>が呼び出した黒い霧がその証拠だった。
二の矢をつがえる暇もなく、黒い霧が僕を襲う。
そいつは――過去の記憶だった。
おそらくは、マサキマキの。
憧れ。
好意。
感謝。
尊敬。
愛情。
僕の周りで高まるそれらの感情が負に転化し、
自分の無力感。
嫉妬。
そして憎悪。
そうしたものが、マサキマキの記憶から引き出されて僕に叩きつけられる。
脳裏に伝わるめまぐるしく変わる風景や声や映像は、それらの記憶を共有したことがある人間ならば
きっと耐えられないくらいの効果を引き出したことだろう。
――もし、これがマサキマキに近い人間ならば、きっと術に囚われ飲み込まれてしまったにちがいない。
クールに見えて、優しすぎる星華ねえだったら、なおさらのことだ。
でも、僕にとっては、それは、十分に冷静さを保つことが出来る「距離感」にあった。
たしかに、僕もマサキマキを助けたい。
だけど、それは、人の心の裏を巧みに突く<挑戦者>が利用できるほどに深い「縁」をまだ持っていないものだった。
僕が頭を振ると、黒い霧はあっさりと飛び散った。
(ちぃぃっ!)
もはや笑うことすら忘れた<挑戦者>が背を向けて駆け出す。
山の頂上から下って行く坂から逃げようと言うのだ。
「待て!」
逃がすかとばかりに僕が追う。
――その頬を、矢がかすめた。
振り向き様に、<挑戦者>が放ったものだ。
「!!」
頬を伝う、生ぬるい感触。
(ほ、ほ、ほ、そちらは鏃を抜いた矢だが、こちらは本物の矢ぞえ。
――術が効かぬのならば、力で殺してしまえばよいこと)
アオをぐるりと駆けさせながら、<挑戦者>が邪悪に笑った。
「――このっ!!」
(――この娘、なかなかの使い手。騎射だけなら、お前にもひけはとらぬぞ)
「……だろうな。感じが悪い子だったけど、流鏑馬(やぶさめ)の努力は本物だよ」
たった一回会ったきりだけど、アオをみごとに駆ってみせた腕前は、天性のものだけで身に付くものではない。
さっき垣間見た記憶を「探る」までもなく、マサキマキの積み重ねた修練はたいしたものだった。
それを見越して<挑戦者>は彼女の身体をのっとったのだ
(ほ、ほ、ほ――この技、わらわが存分に使ってつかわす)
<挑戦者>は余裕を取り戻して走り出した。
僕も、シロを駆って追う。
狭い山頂のポジションを奪い合う争いは、すぐに坂の下へと場所を移った。
草と土を跳ね上げ、二頭の馬が併走する。
互いに弓を射るタイミングをはかりながら坂道を駆け下る。
まさしく、命がけの流鏑馬だ。
がっ!
道の途中で、アオが反転した。
坂を戻って登ろうとする。
「!!」
あわててこちらも馬首を返そうとしたら、そこを射られた。
今度は肩を掠める。
(ほ、ほ、ほ――)
耳障りな笑い声を上げながら<挑戦者>が再度突撃してきた。
「くっ!」
馬上で体勢を立て直すと、シロが猛然と走り出した。
――僕の指示ではない。シロ自身の判断だ。
(――!!)
まさかこちらが突っ込んでくるとは思わなかったのか、<挑戦者>が絶句する。
ぶるるっ……。
すれ違い様、シロが首を振ってアオの横面をはたいた。
(――あっ!)
アオがよろけ、<挑戦者>はずるずるとすべるような感じで馬から落ちた。
足から落ちて尻餅をついたので、マサキマキの身体は怪我もしていない。――少なくとも大きな怪我は。
「ナイス! シロ!!」
乗り手を落としたアオは、慣性の法則にしたがって十メートルくらい先まで進んで立ち止まった。
今のショックで<挑戦者>の呪縛が解けたのだろうか。
アオが戸惑ったように振り向く。
ひ、ひーん!!
シロが怒ったように鳴く。アオは慌てたように坂を下り始めた。
――シロは本当に賢い。
<挑戦者>に再度の騎乗と支配のチャンスを与えず、アオを安全な場所へ逃がした。
「あとはお前一人だ」
僕は尻餅をついたままの<挑戦者>に狙いを定めながら言った。
(ほ、ほ、ほ……)
うつむいた<挑戦者>の口から笑い声が漏れる。
(……わらわ一人じゃと? ――甘いわ、小童っ!!)
巫女服の袖が翻った。
「――!!」
<挑戦者>に矢を放とうとした僕の右手が抑えられたのは次の瞬間だった。
「うわっ!!」
慌てて振り向くと、銀色の光が僕の腕に絡み付いていた。
ひ、ひーん。
シロが悲鳴を上げる。
その首筋に、金色の光が巻きついている。
いや。
銀と金の光は、光そのものではなく、月光をてらてらと反射する毛皮だった。
この世ならぬものが身にまとう毛皮。
(けーん!)
(けーん!)
そいつらが、吠えた。
「狐っ!?」
僕の腕と、シロの首に巻きつき、締め付けているのは、妖しの狐だった。
(――ほ、ほ、ほ。わらわの切り札、わが娘・稲風(いふう)と、わが子・稲空(いくう)よ)
闇の中で、<挑戦者>がにやりと笑った。
「――卑怯だぞ、一騎打ちじゃなかったのか!?」
(なんとでも言え、この娘の「縁」が使えぬとあって慌てたが、伏せておいた甲斐があったわ)
<挑戦者>は立ち上がりながら嗤った。
マサキマキの顔立ちを借りながら、ぞくぞくするほど酷薄で美しいその笑いは、
歳を経た妖狐の表情そのものだ。
「くそっ!」
(ほ、ほ、ほ。解けぬぞえ。隙を突いた霊撃じゃ。おぬしの力を遮断しておる)
<挑戦者>に指摘されるまでもなく、僕は、今まで無意識に汲み取っていた御山からの力が
僕から切り離されてしまったことを悟っていた。
今まで重さすら感じなかった<当主の大弓>がずっしりと手に負担をかける。
取り落としそうになって慌てて握り締めるが、きりきりと巻きつく銀狐に邪魔されて力が入らない。
いや、右手ばかりか、全身が金縛りにあっている。
霊力の戦いは、準備していないところを叩かれると、一瞬にして動きが取れなくなるのだ。
ひ、ひーんっ。
シロも金狐に絡み付けられて苦しそうに鳴いた。
(ほ、ほ、ほ。良いざまじゃ。――さて、とどめを刺してくれる)
歯をむき出して嗤う<挑戦者>。
僕は、ぎりぎりと歯軋りをした。
(ほ、ほ、ほ。睨んでも、なにも起こらぬわえ。無力な自分を呪いながら、死ね)
<挑戦者>が、矢を番え、僕に向かって構える。
狙いは――心臓。
それも宍戸さんの時のように、わずかに外すということはない。
一撃で絶命させられる場所を、ぴったりと狙っている。
「――!!」
「――!?」
僕が、声にならない声を上げたとき、――<挑戦者>も、また愕然とした叫び声を上げた。
ざざざっ!!
ざしゅっ!!
僕の左右で、突然地面が持ち上がった。
そいつらは十メートルもある首を伸ばし、空中で反転すると、下へ向かって一気に突っ込んできた。
――僕とシロを押さえつける銀と金の妖狐にむかって。
「――!?」
(な、なんじゃっ、これはっ!?)
<挑戦者>の慌てたような声を聞くまでもなく、新しく現れた存在
――土で出来た大小二匹の蛇……あるいは龍?――が、僕のほうの味方であることはわかっていた。
厳しく、荒々しく、冷酷な力――だけど、どこかにはっきりと感じる優しさ。
「星華ねえ……」
僕は、御山からその力を引き出している女(ひと)の名を呼んだ。
僕の右手に絡みつく稲風――銀狐を振り払った大きなほうの土蛇に、
僕は、はじめて会ったときに僕の背に乗った妖しを払ってくれた星華ねえを感じた。
これは――星華ねえの力。
大きな土蛇は、銀狐をたたきつけると、一たん地にもぐった。
(ひっ――)
<挑戦者>が悲鳴を上げる。
その声が弱々しくなっているのは、今まで使っていた御山の力を遮断されたからだ。
不意打ちによる一瞬の逆転は、今度はこちらのほうだった。
いや――この逆転は、不意打ちだからではない。
御山は、もう中立を守る事をやめていた。
あきらかに、一方に加担している。――すなわち、僕らの側に。
それは、僕のためでもなく、星華ねえのためでもなく――。
(ひ、卑怯じゃぞっ! 妻子の助太刀を呼ぶなど――!!)
<挑戦者>が、わめいた。
そう。
もう一匹の土蛇、今、金色の狐をシロから引き離した小さなほうは――僕と星華ねえとの間の子供。
身体は小さいけど、御山の力をいっぱいに受けて、それを自在に操っているのは、
星華ねえの子宮の中で、まだ着床さえしていない受精卵。
僕は、星華ねえの土蛇より不器用な動きで地にもぐったそれを、唖然として見送った。
(――は、はなせっ! 馬鹿ものっ!!)
<挑戦者>の耳障りな声に、僕ははっと我に帰った。
再び土中から現れた大きなほうの土蛇が、マサキマキの肢体を捉え、持ち上げているところだった。
じたばたと手足を振ってもがく<挑戦者>は、いっそ哀れみをさそうくらいに無様だ。
御山の力を絶たれた妖狐本体は、悪知恵はともかく、力そのものはそれほど強くなかったのかもしれない。
(一騎打ちじゃぞっ、恥を知れっ、馬鹿ものっ!!)
嘆かわしいというも愚かな言い分に、こんなときなのに、思わず僕は苦笑してしまった。
「……三対三だろ?」
(……一人多いではないか、卑怯者っ!)
「え……?」
泡を飛ばしながら言い立てる<挑戦者>のことばに、僕は首をかしげた。
けーん!
けーん!
銀狐と金狐が鳴いた。
地に伏せた二匹の妖しは、それぞれが再び地上に現れた土蛇に組み敷かれ、泣き声を上げている。
――双頭の蛇に。
「……双子なんだ……」
ほとんど呆然とした僕が、しばらくして我に返ったとき、
<挑戦者>も、その子供たちも、すっかり戦意を喪失しており、僕らに降伏を申し出ていた。
それから、数時間はあっという間の出来事だった。
戦いが終わると同時に駆けつけたお祖父さんや、婆さまや、美月ねえや「郎党」の人たちの力を借りて、
<挑戦者>たちの降伏の<儀式>が行なわれた。
力を失い、観念した三匹の妖狐を<契約>で縛る作業を、僕は最後まで見届けなかった。
シロを駆って、お屋敷に戻る。
飛び込むようにして離れに行く。
――星華ねえは、眠っていた。
留守番の陽子に聞くと、僕が戦っている間に<KURARA>の効果が切れて目覚めた星華ねえは、
事情を知り、また今から山頂に向かっても決戦に間に合わないと悟ると、
機織小屋にこもって御山に「呼びかけ」をはじめたらしい。
それは、どういうものか陽子にもわからなかったのだけれど、僕はそれがもたらした結果を僕は知っている。
星華ねえと、子供たちの力を借りて<挑戦者>を退けることが出来たから。
僕は、戦いが終わって眠っている美しい妻の唇に、自分の唇を重ねた。
深い眠りの中にいる星華ねえは、そのキスで目覚めることはなかったけど、僕は満足していた。
――星華ねえは、眠り姫よりずっとずっと美しいから、眠り姫の物語を踏襲する必要はない。
僕は、怪我の治療のために階下に下りてくるように声を掛けられるまで、
星華ねえの寝顔をずっと眺めて飽きなかった。
「――いてっ、もうちょっと優しくしろよな、このぶきっちょっ!」
「文句言うな!」
頬と肩の傷は浅かった。
冷蔵庫で冷やした黄色い液体が染みる。
子供の頃から、陽子ともどもお世話になっている強力な消毒液だ。
爪にかかると染まっちゃって色が抜けないのが珠にキズなんだけど、効果はバツグン。
陽子のようなガサツな奴が使っても、十分な治療効果をあげられる。
「だ〜れが、ガサツ女だって?」
どげし!
陽子の拳骨が僕の頭をはたく。
前言撤回、陽子じゃ、治療する以上に怪我をおわされてしまうや。
「――やれやれ、ひと段落じゃの……」
山頂から戻った婆さまたちが、腰をたたきながら部屋に顔を出した。
<挑戦者>のことはひとまず片付いたらしい。
一歩間違えれば危なかった<敵>も、いったん御山が主を選んでしまえば、どうということはない。
しばらくは、志津留は安泰じゃな――婆さまのそのことばに、皆の顔が明るくなる。
僕は、生まれてくる子供のことで頭が一杯だった。
星華ねえといっしょに、僕を救ってくれた愛しい子供たちに会えるのが、
まだ十ヶ月も先のことだというのが、本当に残念でしょうがない。
僕は、わくわくする気持ちを懸命に抑えた。
そうでもしないと、喜びと興奮のあまりにどこかへ走りだしかねない。
その様子を、美月ねえや、陽子たちがにこにこして見つめている。
――戦いが終わった後の、家族のなごやかな団欒。
――非常事態の中、一致団結した絆を平和な空気の中で再確認できる幸せ
――それが平穏な日常にゆっくりととけていく、穏やかな時間。
……だけど、そうなるまでの間に、もう一つ、事件が起こってしまったんだ。
――ぱあぁんっ!
突然、ふすまがものすごい勢いで開けられた。
それが、「それ」の始まりだった。
「……せ、星華ねえ……?」
ふすまを開け放った状態で立っているのは、――星華ねえ。
でも、様子がおかしい。
「ふぅっ……ふぅっ……ふぅっ……」
突然のことに、皆が唖然として声もない広間に、星華ねえの荒い息遣いだけが聞こえる。
「ど……どうしたの……星華ねえ……」
僕は、黙ったまま僕を睨んでいる星華ねえに、おろおろとした。
「――ま、まさか、<挑戦者>が憑いた……の?!」
別人のようにおかしい様子に、僕は先ほどまで戦っていた相手の能力を思い出した。
慌てて立ち上がる。
――めきゃ。
星華ねえが、伸ばした腕――開け放したふすまの端をまだ掴んでいる――に力をこめた。
めきゃ、めきゃ、めきゃ。
星華ねえが掴んでいるふすまの端っこが、広告の紙かティッシュかのようにくしゃくしゃになっていく。
お屋敷のつくりは、地味なようでいて、お金をかけるところはちゃんとかけているから、
このふすまも、枠がしっかりした、下手な板戸なんかよりはるかに丈夫な奴だ。
その縁がぐしゃぐしゃになっていく――ものすごい力だ。
「せ、星華ねえっ、しっかりしてっ!」
僕は、星華ねえに駆け寄った。
どうすればいいのか、何をすればいいのか分からなくて、頭の中はぐるぐると回っていた。
「せ、せいかね……」
ばしーんっ!
星華ねえの前に立った瞬間、世界が反転し、ぐらついた。
「!!??」
何が起こったか、一瞬分からなくなる。
びたーんっ!
反対側から、もう一度同じような衝撃。
……僕が、星華ねえに往復びんたをもらった、ということに気がついたのは、
それからたっぷり十秒たってからだった。
「ふぅっ……ふぅっ……ふぅっ……」
「あ、あの……」
「ふぅっ……ふぅっ……」
「せ、星華ねえ……?」
「ふぅ……」
「……」
「ばか……」
「……え?」
「馬鹿……馬鹿……」
「……せ、星華ねえ?」
「……彰の馬鹿っ! 大馬鹿っ!! 死んじゃったらどうするつもりだったのっ!!」
それは、その場の誰もが見たことがない、星華ねえの爆発だった。
いつも冷静沈着な<志津留のヒメ>がはじめて見せる感情の奔流。
星華ねえ自身でさえ、自分でわからないほどの狂おしい想い――それを、僕は理解できた。
もし立場が逆だったら、僕は、星華ねえのことが心配でならなかっただろう。
結果的に、最後は圧倒的な勝利に終わったけど、戦いはどちらに転ぶか分からないものだった。
あるいは――こちら側の死によって終わっていたかもしれない。
僕が死ぬ分にはまだ諦めがつく――でも、もし星華ねえが死んでしまったら――。
そう考えて、僕は気がついた。
それは、星華ねえにとっても同じことだった。
<KURARA>の睡眠効果から目覚め、僕が戦いに赴いたことを知ったとき、
星華ねえはどれだけ困惑し、また不安に思ったことだろう。
「……ごめん」
僕は、僕の胸元に顔をうずめ、嗚咽している星華ねえに謝った。
「……ゆるさない……」
小さな、くぐもった声が聞こえた。
「……え……?」
「……ゆるさないから……」
想像の範疇にない声とことばに、僕は狼狽した。
それは、星華ねえが顔をあげ、涙の溜まった、だけど、強く光る瞳で僕を見つめたときに最高潮に達した。
「――彰が私のものだと思い知るまで、私が彰のものだと思い知るまで、ゆるさない。
――だから、彰がわかってくれるまで、おしおきする」
星華ねえは、そう言って僕の手を掴んで勢いよく走り出した。
「うわわっ――」
ぐいぐいと引っ張る星華ねえに引きずられるようにして、僕は部屋の外へ連れ出された。
ちらりと見た部屋のみんなは――。
お祖父さんと婆さまは目をそらし、美月ねえは真っ赤な顔を伏せ、陽子だけはにやにやと笑っている。
吉岡さんや小夜さんたち「郎党」の人たちは表情の選択に困っていた。
……ただ、部屋の誰もが、星華ねえを止める気はないのだけはわかった。
と言うより、今このお屋敷に、星華ねえを止められる存在は、いない。
僕は引きずられるまま、星華ねえについていった。
――お風呂の中へ。