<僕の夏休み> 次女:星華 その2

 

 

夕飯が終わり、お風呂に入る。

その間の二、三時間のことは、まるで幻の中にいるようだった。

街から帰ってきた美月ねえ──三姉妹の長女、や、

学校から戻ってきた陽子――三姉妹の末っ子、との再会の挨拶も、どんなものだったか覚えてない。

 

(これから、星華ねえとセックスをする)

 

僕の頭の中は、それだけがぐるぐると渦巻いていた。

夕飯の最中、たぶん、僕は何度も星華ねえのほうを見たと思う。

あるいは、逆に、顔も上げられなかったのかも。

見ていたとしたら、そこにはきっと、いつもと変わらない静かな星華ねえがいたと思う。

どんなときでも冷静で我を忘れない、志津留のヒメ。僕の尊敬する心の師。

その人と交わる。

──渡り廊下を通って、星華ねえの離れに来た時、僕の心は期待よりも不安でいっぱいだった。

 

震える手で、ドアをノックする。

「入って」

間髪いれずに返事がかえってくる。

僕はドアを開けた。

星華ねえの部屋は、もとは「ばっちゃの機織(はたおり)小屋」だった。

「ばっちゃ」とは、つまり僕らのお祖母さんのこと。

──意外にお祖母ちゃんっ子だった星華ねえは、その人をそう呼んでいた。

お祖母さんが亡くなられたときの形見分けで、星華ねえは裁縫道具とかを全部譲り受けた。

小さい頃から、星華ねえは、お祖母さんが機織部屋で機を織ったり、繕い物をしているのを

傍でみているのが大好きな女(ひと)だったから、当初、壊すことになっていた小屋は、

星華ねえの部屋に改造され、母屋と渡り廊下でつなげてもらうことになった。

機織の機械は、お祖母さんの晩年のころから壊れて使われなくなっていたのでさすがに処分したけど、

丈夫な小屋は、当時のままの雰囲気をずっと残している。

その中に、その雰囲気の部屋の中央に、黒い大きなテーブルが置いてある。

そこには、理科室においてあるようないろいろな実験器具や薬品やらが置いてあって、

──その向こうに、白衣姿の星華ねえがいた。

「……二階に行こう」

なにかの薬品を試験管から、小皿の上の脱脂綿がしみこませている作業をしていた星華ねえは、

それが終わると、椅子から立ち上がって声をかけた。

器用な指先が、薄緑色の液体を操る様に見入っていた僕は、びっくりして、それからうなずいた。

星華ねえは、部屋の奥にある階段を上り始めた。

途中でちょっと立ち止まって、こちらを見る。

「ドア、閉めといて」

僕は、星華ねえを見つめるのに心を奪われ、後ろのドアを閉めることも忘れていたことに気がついた。

あわてて閉めて、星華ねえを追う。

機織小屋は、小屋と言っても、二階――というか屋根裏部屋──のあるかなり大きな建物だ。

星華ねえは、階下を丸々実験室に使い上の階を私室にしている。

ベッドと、本棚と、ソファ。

それに自作のパソコンが何台も置いてある机。

──女の人の部屋にしては殺風景だけど、不思議に優しい感じがするのは、

それらにまじって、古風な桐の箪笥が置いてあるからかもしれない。

お祖母さんの嫁入り道具だったそれは、形見分けの時、真っ先に星華ねえに譲られたものだ。

「……」

何度も来たことのある部屋だけど、僕は思わずあたりを見渡してしまった。

「……座って。……ベッドのほう」

声を掛けられて、思わず普段のようにソファのほうに行こうとした僕は、あわててその声に従う。

ぽふっ。

座ってから、それが、星華ねえが毎日寝ているベッドだということに思い至ってどぎまぎする。

「……」

何か言おうとして、――何も言えなかった。

星華ねえは、折りたたみ式の小さなテーブルを引っぱり出してきて、

その上にさきほどの小皿を置いた。

白衣のポケットから、アルコールランプに火をつける道具を取り出して、火をつける。

ふわ……。

優しい香りが当たりに漂った。

「これは……?」

「香油。気分が楽になって、あそこが元気になる」

星華ねえは大真面目な顔で答え、僕は思わず咳き込んでしまった。

 

星華ねえの言ったとおり、火がついた香油の出す甘い匂いは、

なんだか気持ちを楽にしてくれるような気がした。

「裸になって」

「えっ……えっ?」

小皿の上でちろちろ燃える火から視線を戻すと、

星華ねえは、脱いだ白衣を壁のハンガーにかけるところだった。

白い手は、一瞬の遅滞もなくブラウスのボタンを外して行く。

タイトなジーンズがするりと脱ぎ落とされたとき、思わず僕は目をそらした。

薄い水色の、下着姿の星華ねえから。

それは、神聖なものをまじまじと見る不信心を、精神がとがめたのかもしれない。

震える手で、僕は自分の服を脱ぎ始めた。

シャツとパンツだけの姿になったとき、さすがに手は止まった。

思わず星華ねえのほうを伺って、――息を飲んだ。

星華ねえの白い裸体が、目の中に飛び込んできたからだ。

「どうしたの? 全部脱いで」

僕を真っ直ぐに見つめながら、星華ねえはそう言った。

「あ、ああ、う、うん」

言われるままに、脱ぐ。

最後の一枚は抵抗があったけど、目をつぶって、脱ぐ。

「そこに腰掛けて」

目をつぶったまま、僕はうなずいた。

尻餅をつくようにして、ベッドに腰掛ける。

素肌のお尻に、星華ねえの使っているシーツのすべすべした感触がくすぐったい。

「……」

その時、僕は、不思議と目を開こうと思わなかった。

星華ねえが、今、目の前で裸になっているというのに……。

そのことの意味を考える前に、すうっと、気配がした。

誰かが、僕の前でしゃがみこんだ気配。

──誰かということはない。それは、星華ねえだ。

僕が目を開けた時、星華ねえは、ベッドに腰掛けた僕の腿のあいだに顔を近づけていた。

「……彰、元気ない」

うなだれたままの僕の股間を見つめ、星華ねえは、さらに顔を近づけた。

「――私が元気にしてあげる」

星華ねえが、僕のあそこに唇を寄せる。

呆然とそれを眺めていた僕は、おち×ちんに、星華ねえの温かな息がかかって我にかえった。

「せ、星華ねえ、だめ……そんなこと」

僕だって、星華ねえがしようとしている「それ」が何かくらいは知っていた。

フェラチオ。

女の人が、男のあそこを口や唇で愛撫する性戯。

年頃の男子のたしなみとして、アダルトビデオや、小説から、そうした知識は得ている。

でも、それを自分がされる──星華ねえにされるとは、夢にも思わなかった。

遠い昔から、ずっと尊敬し、信奉してきた相手から。

 

そう。

僕にとって、星華ねえは、女神様だった。

 

「……彰も、見えるの?」

僕が覚えている、星華ねえとのはじめての会話はそれだった。

 

二歳の頃から、「本家」にいられる時間はできるだけ「本家」で過ごす。

それが、家に決められた相手ではなく、僕の父さんと結婚するために家を出てしまった母さんが、

交換条件に定められた僕の育成方針だった。

産まれたばかりの子供。夫との愛の結晶を、半分よこせ、と言うような無茶な要求に、

母さんが従ったのは、志津留と言う血族の掟だからではなく、僕の身にかかる危険を察知したからだ。

僕は、見えないものが見える。見えてはいけないものが見える。

人間には、見えないはずのものが。

人間には、見えてはいけないはずのものが。

それが鬼と呼ぶのか、妖しと呼ぶのか、陰陽の気と呼ぶのか、

あるいはもっと根本的な力の流れと言うべきものなのか。

とにかく、僕はそれが見えた。

庭の隅にわだかまる黒い影や、夜の虚空から、じいっとこちらを見下ろす巨大な髑髏や、

僕をあやす人々の肩に止まるどろどろとした塊が。

それは、そうしたものも含めて「力」の流れを見切り、操ることができる志津留の「血」が濃いことの証だった。

生まれた時から見ていれば、触れていれば、慣れるというものではない。

それは人間ならば、本能的な嫌悪感と恐怖心を持つ対象だ。

僕がはじめてしゃべったことばは、――周りに見えるものへの恐れだった。

「恐い──恐い──」

幼い舌を懸命に動かして話しはじめた僕に、母さんや他の人たちは真っ青になった。

志津留の血を引くものなら、そうした物が「見る」ことができる。

家伝の修行によって、その力をコントロールし、「見えなく」することも、

それを操るようになることもできる。

しかし、僕の力は誰よりも強力で、敏感すぎた。

僕が見える物は、<志津留のヒメ>、

すなわち「次代の当主か、当主となる子を産める女」とされた母さんにも、見えなかった。

それは、現在の当主であるお祖父さんも、全盛期ならば見えただろうが、

年老いて弱まった今では見えないレベルのものだった。

僕が悲鳴を上げて這いずって逃げようとする対象を、まわりの人間は誰一人として感知することができなかった。

──感知しなければ、守れない。

僕は、世界に満ちた正負の力、そのもっとも濃い影の中でひとりきりだった。

背中にのしかかり、肩口から顔を覗きこむどろどろとした「存在」に金切り声をあげても、

それが見えない周りの人たちは手の施しようがなかった。

恐怖に狂気が混じる寸前──それが白い小さな手で振り払われた。

 

「……彰も、見えるの?」

 

それは、僕より少し──三つ──年上の女の子だった。

振り払った先で、どろどろの闇が消滅したのを見届け、僕のほうを向く。

「――私も、見える。だから、安心して。

……すぐにこれから身を守る力も、備わる。――私がそうだった」

五歳の女の子とは思えぬ静かな声と瞳は、その時、僕にとって世界の中心だった。

僕と同じものが──いや、僕よりも強くそれが「見える」星華ねえは、

僕がそれに対する「免疫」を備えるまでのあいだ、ずっと僕を守っていてくれた。

「見える」星華ねえは、僕とまわりの大人たちに、「何がどうなっているのか」をことばで教え、

僕は、はじめて自分を取り巻く状況を母さんたちに伝えることが出来た。

「世界で一人きり」ではなくなった僕は、もっとも弱い時期を、それに飲み込まれることなく過ごし、

成長と同時に自然と「免疫」をつけることに成功した。

「見たくなければ見ないようにする方法」を覚えた僕は、幼稚園に上がる頃には、

美月ねえや、陽子、あるいは一族のほかの人間と同じくらいのレベルで

それを感じられるくらいに、自分をコントロールすることが出来るようになっていた。

──それは、星華ねえ以外の人間とも「世界」を共有することが出来るようになったことでもある。

幼児期を脱した後も、星華ねえは、僕の女神様だった。

 

成長と同時に、今度は「力」自体も強くなりはじめた僕は、

まわりの大人たちに指導されて、その「力」を支配していく術を覚えた。

──160キロのスピードボールを投げられる素質のある選手に指導できるのは、

それ以上の速い球を投げられるピッチャー、とは限らない。

そんな速球は投げられなくても、さまざまな配球を駆使して、

長年マウンドで戦ってきた経歴を持つコーチの投球術は、

ストライク一つ定められない若者の力を引き出すのには、最適の教科書だ。

僕は、母さんや歩かの志津留の一族からいろいろなことを学んだけど、

心の中にある、一番の師は──常に星華ねえだった。

音何位鳴るに連れ、星華ねえは、<志津留のヒメ>として「本家」の本職にかかわるようになり、

僕に直接何かを教えてくれることは少なくなったけど、

僕の中には、いつでも星華ねえがいた。

あの日、僕にまとわりついた闇を振り払ってくれた、美しい女神が。

 

──その星華ねえが、僕の前にひざまずき、僕の性器に舌を這わす。

神聖なものを穢す感覚に、僕は恐怖を抱いた。

「だ、だめだよ、星華ねえ……そんなことをしたら……」

「なぜ?」

「な、なぜって……」

「男の子が元気なかったら、相手の女がこうしてあげるもの。

彰の子作りの相手は私だから、私がこうする。――どこもおかしくない」

星華ねえのことばに僕が絶句しているあいだに、僕の女神様は、それを始めてしまった。

 

薄桃色の唇が、わずかに開き、僕の生殖器を含む。

同じ色の舌が、なまめかしく動いて、僕の男性器を這う。

ぴちゃぴちゃという、小さな音が耳に入っても、僕はそれを現実のものとは捉えなかった。

僕の分身も。

星華ねえの奉仕を受けても、僕のそれは、まったく反応しなかった。

しばらくして、星華ねえはフェラチオを中断した。

「……」

大きくも堅くもならないでいる僕のおち×ちんを眺め、つ、と立ち上がる。

立ち上がった星華ねえは、棚に並ぶ薬瓶のひとつを手に持って戻ってきた。

瓶の蓋を開け、中の液体──というより粘液──を手のひらにこぼす。

「……それ、何……?」

「ローション。柳町の人たちが使っている」

柳町とは、街の駅裏にある繁華街……いや風俗街のことだ。

普通の飲み屋さんや、巫女さんバーみたいな怪しい飲み屋などもあるけど、

代名詞になっているのは、いわゆる「風俗のお店」が立ち並ぶ一角。

巫女流鏑馬のおかげで「下の神社」が有名になるまでは、

街の有名どころといったら、県下一の店ぞろいといわれる柳町のことだった。

「え……」

「もらったのを見本に、階下(した)で作ってみた。うまく出来たと思う」

手のひらに載せた粘液を僕の股間に塗りつけながら星華ねえが答えた。

「……」

予想もつかない返事の連続に、僕はまた絶句してしまった。

ひんやりとしたジェル状のそれは、つまり、エッチな事をするお店で使うもので、

それを星華ねえは、どこからか貰ってきて、自分で作ってみたらしい。

……どこからって、どこで?

ぬるぬるとした感触は、――僕は経験がないけど、お店で使う本物と同じなのだろう。

「……」

にちゅ、にちゅ。

ちゅく、ちゅく。

ローションの付いた手で、星華ねえは僕のおち×ちんをしごき始めた。

僕が自分でオナニーする時と同じような手つきで、男性器を扱う。

ぬるぬるが僕の生殖器を包み込み、すべすべとした手が愛撫する。

──生理的な興奮を誘うはずの触覚に、僕は身をゆだねることができないでいた。

先ほどのためらいもないフェラチオといい、このローションといい、

まるで何でもないことのように振舞う星華ねえに、僕はうろたえきっていたからだ。

ほかの誰かにしたことがあるような、手馴れた動きは、

女性とはじめて交わる僕を困惑させた。

主人の動揺に連動した股間の分身は、大きくなるどころか、さらに縮こまってしまった。

やがて──。

「今は、だめみたいね……。また、明日にしよう」

星華ねえは手を止めた。

「……ごめんなさい」

「謝ることはない。できるようになったら、すればいいから」

タオルで僕の股間と自分の手を丁寧に拭きながら星華ねえが答えた。

愛撫してもらいながら、男として全然役に立たなかった自分に嫌悪感を抱いて服を着る。

星華ねえが、せっかく「お定め」をしようと協力してくれたのに──。

……「お定め」。

僕は、不意に息苦しくなった。

星華ねえは、それを喜んでやっているのだろうか。

階段を下りながら、僕は先を行く星華ねえに思わず声を掛けた。

「……星華ねえ……」

「何?」

星華ねえが振り向く。

「な、なんでもない……」

「そう……」

表情を変えることない星華ねえが、今、何を考えているのか、

──いつもは読み取れるのに、それができないことに気が付いて、僕は狼狽した。

「……」

ドアの前に行きかけて、星華ねえはフラスコ瓶がずらりと並んだ棚の前で、足を止めた。

「──これは強すぎるか……」

一度手に取った瓶を棚に戻す。

<KURARA>

とラベルが付いた薄青色の瓶には見覚えがあった。

クロロホルムを何倍も強くしたような麻酔作用のあるその薬は、志津留の家伝にある同名の薬を

化学が得意な星華ねえが、お祖父さんと一緒に合成化したものだ。

副作用もなく、眠るように一定時間意識を失うそれは、

小学生の頃も時々闇におびえて眠れなくなることがあった僕の

「最終手段」として使われていたから、僕にはなじみが深い。

それを使わなくなってから、だいぶ経つが、見忘れるはずはなかった。

<KURARA>の瓶を戻した星華ねえは、別のフラスコ瓶を手に取った。

「これ──さっきの香油。火をつけなくても、蓋をあけて部屋に置いとくだけでいい。

気持ちが落ち着いて、よく眠れるから──」

フラスコを手渡された僕は、ふらふらしながら星華ねえの離れから立ち去った。

 

「……」

電灯の下で、僕は天井を睨んでいた。

気力の萎え切った中では、布団を敷くのが精一杯で、

敷き終わるや否や、僕は布団に身を横たえ、でも眠れないでいた。

「星華ねえ……」

声に出して、呟く。

星華ねえは、志津留のお定め──僕と交わって子を為すことを、どう考えているのだろう?

<志津留のヒメ>、すなわち「次代の当主か、当主となる子を産める女」である星華ねえにとって、

それは──義務だ。

千年続いた血を絶やさぬための義務。

そこには、好きとか嫌いとかいう感情の入る隙間はなくて──。

「……」

当たり前のことをこなすように口と手の行為で、僕を愛撫した星華ねえを思い出して、

僕はごろごろと布団の上を転がった。

星華ねえは、もうセックスをしたことがあるんだろうか。

──他の男の人と。

もしかしたら、母さんが父さん以外の人と子作りさせられる予定だったように、

星華ねえは星華ねえで、誰か好きな男の人がいて、もうそうしたことは経験があるのではないか。

母さんの時は、まだお祖父さんの力が全盛期で、

次の当主を作るタイムリミットが迫っていなかったから

志津留のための子作りを拒否することが出来たけど、今は、もうそんな余裕がない。

だから、ひょっとしたら、星華ねえは義務のために自分を犠牲にしているのかもしれない。

「……!!」

僕は、そうした想像に思い至って、息が詰まるくらいに動揺した。

──だとしたら。

だとしたら、僕はどうすればいいんだろう……。

 

「あーきらっ、起きてる?」

その時、ふすまの向こうから、陽子の声がした。

 

「お、起きてるよ……」

「ちょっと入っていいかな?」

「あ、ああ」

僕は動揺しながら返事をした。

返事が終わるや否や、ふすまが、すぱーんっ、と音を立てて勢いよく開けられる。

「――あっはっはっ〜! <魔法の美少女ソルジャー・陽子マン>、

なやめる男子高校生のために、ただいま参上〜〜っ!!」

「……な、なんだ、そりゃ……」

飛び込んできた陽子を見て、僕は間抜けな声を上げた。

寝巻き姿の陽子は、アニメチックな女の子の顔を描いたプラスチックのお面をかぶってポーズを決めていた。

お面は、夜店で売っているような子供向けのやつで、ちょっと前まで放映していた作品のものだ。

たしか、お手伝いの千穂さんの息子のケン坊とよく遊んでいる女の子が大ファンで、

一時期ケン坊は、敵役の怪人に見立てられて追い掛け回されていたっけ。

「……あ、あれっ? ノリ悪いなあ……」

呆れて固まっている僕を見て、お面を上にずらし上げた陽子が文句を言う。

「……古いぞ、陽子。だいたい女のくせに、陽子マンってなんだ、陽子マンって」

「あ、それは適当に言ったから……。そっか、あたし女だから……陽子ウーマン?」

「名前の後に付けてどうする」

「うーん……」

「だいたい美少女っていうところからして間違いだ」

どげし。

みごとなキックが決まって、僕は悶絶した。

「源龍天一郎直伝、試練の顔面サッカーボールキック!」

僕と同い年の従姉妹は、女子高生のくせにプロレスの大ファンだ。

「いてっえぇ〜。なんなんだよ、そのお面は……」

「あ、これ? 明日、「下の神社」の夜店で、部活のみんなで売るの。

お面を色々集めたんだけど、古くて売れそうにないやつ、二つ三つもらってきちゃった。

ケン坊の彼女にあげようと思って」

「なんつーか、その……」

「今となってはある意味レアもんなんだぞ。冥王星、今年から惑星から格下げになっちゃったし」

「……なんじゃ、そりゃ」

ケラケラ笑う陽子に、つられて僕は笑い声を上げた。

 

「……ありがと、な」

「え……」

「元気付けにきてくれたんだろ……?」

何も言わないけど、僕には、陽子がなぜここにきたのかが分かった。

「あ……やっぱりわかった? さっき、渡り廊下を暗ぁーい顔して歩いてたから、さ……。

こりゃ、「お定め」に失敗したかなーって思って……」

「なんでもお見通しってやつか」

「そりゃ、そうだよ。あたしは、星華ねえの妹で、彰とは五分の「兄弟」だもん」

陽子は屈託なく笑ってそういうと、勉強机

――こんなものまで用意してもらっているけど、正直ほとんど使ってない──

の前にある椅子にぽんっ、と座った。

普通に座らないで、背もたれを前にしてそこに頬杖を突くのがいかにも陽子らしい。

「まあ、あれだ。最初はみんなうまくいかないものよ、気にしない、気にしない。にしし……」

おかしそうに笑う男女は、実体験どころか、彼氏もいないことを断言できる。

この耳年増め。

どかっ。

布団の上に座ったままの僕の脳天に、踵落としが振ってきた。

「いってえっ……なんで僕が考えていることが分かるんだよ、お前は?」

「だって家族だもん。わかるよ」

陽子は当然、と言うように答えた。

「……家族か……」

僕は、さっきの星華ねえの離れでのことを思い出した。

星華ねえの無表情から、僕は星華ねえの考えていることを感じ取ることができず、ただただ戸惑っていた。

……僕は、星華ねえの家族ではないのかも知れない。

いつのまにか、親しい人ではなくなっていたのかもしれない。

「……なあ、陽子……」

「何さ?」

僕は、思わず、同い年の従姉妹に心の中に澱(おり)のように沈んでいる問いをぶつけてしまった。

「星華ねえって、――好きな人いるのかな?」

「はあ? いるに決まってるじゃない」

これも当然のように答えた陽子に、僕は息を飲んだ。

 

「そ、そうか……」

「そんなこともわからないなんて、彰はほんと、鈍感ね……」

「――そう、だよな……」

星華ねえには、恋人がいたんだ。

その事実は、僕に猛烈な痛手を与えた。

ショックと、星華ねえへの罪悪感で、僕は頭がぐらついた。

「……どんな人、なんだ……?」

気がつけば、そんな馬鹿なことを僕は呟いていた。

「え……。馬鹿だよ、すごい馬鹿。あたしと同じくらい。ううん、もっと馬鹿」

「……そ、そうなんだ」

「すけべで、食いしんぼうで、甘えんぼうで、まあ、イケメンではないなあ」

「……星華ねえ、そんな奴が好きなんだ……」

「ん。――でも、色々かっこいいよ。やればできる奴だし。星華ねえのお婿に認めてやってもいいわね」

その人から、僕は、星華ねえを引き離してしまうんだ。

「……陽子」

「何?」

「なんとか、僕と星華ねえが「お定め」をしないで、その人と星華ねえがいっしょになる方法ないかな……?」

「……」

陽子は、唖然とした表情になった。

「彰って、ひょっとして、本当に馬鹿?」

「……馬鹿なのは分かってるさ。でも何か方法が──」

どげし。

脳天にすごい衝撃を受けた。

ギガント木場直伝の脳天唐竹割りチョップ──いや、陽子は素手ではなく、何か堅いものを振り下ろした。

「痛ってぇ〜、陽子、お前、何しやがる!」

さっきのサッカーボールキックや踵落としのように冗談ではすまない痛みに僕は立ち上がりかけ、止まった。

陽子が、僕の脳天に振り下ろして、今は目の前に突きつけているものを見て。

「ほれ、見てみ。――この中に星華ねえが好きな人がいるから」

突きつけられているのは、机の上にあった小さな置き鏡――映っているのは……。

「――志津留彰。こいつが星華ねえが世界で一番、と言うより、たった一人好きな相手だよ」

陽子は、あきれ返った声でそう言った。

 

「え……だって……その……」

僕は、混乱して、何を言えばいいか全然分からなかった。

鏡を戻した陽子が、くすくすと笑う。

「まあ、星華ねえってば、完璧超人に見えて、色々ズレてるからねえ。

キスとかすっとばして、いきなり真っ裸で相手にせまりかねない勢いがあるよ。

一生懸命考えたあげく、「好きです」って言う前に「子作りしよう」とか口走っちゃうタイプだね」

「……そうなの……?」

全くその通りだった流れを思いだして、僕は呟いた。

「ん。お祖母ちゃんとか、美月ねえとか、星華ねえのまわりで年上な女の人も、かなりズレてるしね」

「……そうなんだ……」

「特にお祖母ちゃんって、美月ねえをもっとすごくしたような人だったらしいから」

「……そうなんだ……」

拍子抜けしたような声で、僕は繰り返した。

「……でも、さ。僕は、星華ねえが何を考えてるか、分からなくなっちゃったんだ……」

「え?」

そう。だから、僕は星華ねえに、誰か他に好きな人がいるのか一瞬でも疑ってしまった。

「家族なら、何を考えてるかわかるはず、だろ。お前が、僕の心をなんとなく読めるように」

でも、僕は、離れでの愛撫の間中、星華ねえが何を考えているか、全然分からなかった。

そのことは、僕にとってショックだったけど……、

「んんー。ま、それが<男と女の仲になった>って奴じゃないの?」

──陽子は、屈託なく答えた。

「え……?」

「あたしらの父さんと母さんも、子供の頃からいっしょに育ったんだって。

だから相手が何を考えてるか、いつでも分かったけど、ある日突然わからなくなったんだって」

「……」

「後から気が付くと、それがお互い異性として好きになった瞬間なんだろうって、母さんは笑ってた。

まあ、そういうのから始まって、結婚して子作りしたあとは、そりゃもう以心伝心で、

子供の頃以上に相手のことが分かるんだって、のろけてたけどね」

陽子は、くすくす笑いを抑えきれない、といった感じで口元を押さえた。

「……」

呆然とする僕の背中を、陽子がばしぃんっ、と叩いた。

「だから、彰、明日がんばってみ! あ、別に今晩再チャレンジしてもいいんだけどね、にしし……」

──陽子の笑い声に満ちた部屋に、美月ねえが血相を変えて飛び込んできたのはその時だった。

 

 

 

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