<僕の夏休み> 次女:星華 その3
「彰ちゃんっ! 陽子っ! ……よかった。無事なのね……」
部屋に走りこんできた美月ねえは、手に短弓を持っていた。
志津留の家伝の武器。
でもそれは、妖し、すなわちこの世ならざるものと戦うためのもので──。
「美月ねえ?!」
僕は、美月ねえが、和服の上に襷(たすき)掛けをしているのに気がついて驚いた。
陽子も顔色を変えて立ち上がる。
――以前にもこんなことがあった。
この世ならぬ「敵」が、お屋敷を襲った記憶。
「とにかく、二人とも本館のほうへ。――お祖父さまと婆(ばば)さまが来ているわ」
めったにこの屋敷に戻らない「本家」の当主と、その姉の名に、僕らは息を飲んだ。
正真正銘の、緊急事態だ。
「……馬場で、梅久が襲われました。病院に運びましたが、意識不明の重態です」
本館の一室に集まっていた一堂に、事態を説明しているのは、お祖父さんの秘書をつとめる吉岡さんだった。
いつもと変わらぬスーツ姿のこの人は、僕や陽子と親しい小学生・ケン坊のお父さんだけど、
志津留の「郎党」を束ねる頭の一人でもある。
志津留は、直系の人間、つまり「一族」のみの集団ではない。
遠い昔に分かれた傍流や、代々使えてきてくれた人々からなる「郎党」によって支えられている。
吉岡さんに「梅久」と呼ばれた、馬場の管理をしている宍戸さん
──宍戸梅久(ししど・うめひさ)という──も、郎党頭の一人だ。
日に焼けたスポーツ万能なお兄さんで、僕や陽子は、この人から乗馬を教わった。
吉岡さんと同じく、志津留の本職──妖しを相手にする仕事にも加わっている人だ。
それが──。
「心の臓の脇を、矢で貫かれていました。あと一センチでも寄せられていたら、即死でした」
吉岡さんは、眼鏡をくっと、上げながら言った。
ずれているわけでもないのに、何度もその仕草を繰り返すのは、――苛立っているから。
緊急事態に、表情も声も判断力も変わらない冷静な郎党頭は、後輩が襲われたことへの激怒を押し殺している。
「だ、誰がそんなことを──」
「……<挑戦者>、だ」
僕の問いは、上座から答えが返ってきた。
和服を着た背の高い老人は、僕が久しぶりに見るお祖父さんだった。
「<挑戦者>……?」
「この御山を自分の棲家に狙う、妖しのいずれか、じゃよ。今、志津留には力のある当主が不在で、
御山にためこんだ力が支配しきれずに放置されているからの。――連中にとっては宝の山、食い物の山。
ここの主になることに挑戦しようとするから、<挑戦者>、じゃ。
何度かちょっかいを出してきていたが、本腰を入れてきた、の」
お祖父さんの隣にちょこんと座る小さなお婆さんは、婆さま、と呼ばれている一族の最長老。
僕らにとっては大伯母さん、つまりお祖父さんのお姉さん、だ。
「……それと、もう一つ。馬場からアオがいなくなっています」
「え……」
「現在、小夜(さや)以下数人を街に放っております。何かつかめたら、すぐに連絡を――」
語尾を言い終わる前に、吉岡さんの携帯が鳴った。
お祖父さんに目礼した吉岡さんが、それに出る。
「小夜か。――正木真紀は家に帰っていない、流鏑馬用の巫女装束がなくなっている?
……わかった。瀬戸と辻を残して、有馬とともに引き上げて来い」
吉岡さんは、携帯を切るとそれをポケットに戻した。
「マサキが……行方不明……?」
それまで無言でいた、星華ねえが顔を上げて質問をした。
「はい。おそらくは、アオとともに――<挑戦者>に関わることかと……」
「マサキマキが……」
今日の午前中に会った、あの生意気な――と言っても僕より年上だけど――娘の顔を思い出して、僕は呆然と呟いた。
「妖しの中には、人を操ることができるものもおる。御山を狙うような力の持ち主なら、なおさらな」
「……」
星華ねえが眉根を寄せた。
どんな感情も、瞳や唇のごくわずかな反応でしか表さない星華ねえの、はっきりとした感情表現。
つ、と立ち上がった星華ねえは、座敷を出て行こうとした。
「待て、星華――どこへ行く?」
お祖父さんが呼び止める。
「マサキを、探しに行く」
「ならぬ。その娘、おそらくは――<挑戦者>の手に落ちている」
「だったら、なおさら」
星華ねえは、ちらりと振り返って答えた。
その美貌が、もう一度前を振り向いたのは、次の瞬間だったけど、僕は最後までそれを見られなかった。
僕も同時に、同じ方向――中庭に視線が釘付けになっていたからだ。
(……ほ、ほ、ほ)
それは、女の人の笑い声――に「聞こえ」た。
闇の中で。
(……さすがは、志津留のヒメ――とヒコ。当主よりも、早く、気が付いたわ)
「何者っ!?」
吉岡さんが振り返って叫んだ。
「……おぬしらが今言った、<挑戦者>様よ……」
するすると、白いものが闇の中から浮かび上がってきた。
巫女服を着た女の人。
それが庭から見てずいぶんと高い位置にあるのは、馬に騎乗しているからだ。
マサキマキと、アオ。
どちらも、今日の昼前に見た姿と同じで――中身は別物だ。
「憑いたか――」
お祖父さんが、ぐっと睨みつける。
(ほ、ほ、ほ。強い情念を持つ人間は使いやすい。女の身体なら、なおさらわらわに好都合……)
「離れろ」
星華ねえの、短い声。
(ほ、ほ、ほ。――誰が離れるか。この女、実になじむ。この姿で、わらわはこの山の主になるわえ……)
「――悪霊、退散っ!」
美月ねえが、鋭い掛け声とともに矢を放った。
いや。
短弓からはなったそれは、鏃(やじり)を抜いた神矢だ。
小さな弓から放たれた先のない竹の棒は、妖し相手には、射手の「力」に応じた破壊をもたらす。
それが、空中で止められた。
マサキマキ――を操る妖しが、手をかざしただけで。
(……ほ、ほ、ほ。その程度の力で、当主の直系かえ。――この山の主にはふさわしからぬ一族よ)
「……」
二の矢を番えようとする美月ねえの袖を、星華ねえが無言で押さえる。
マサキマキに憑いた<挑戦者>は、狂女のように哄笑した。
(……ほ、ほ、ほ。――一人を、選べ、無力な一族)
(……ほ、ほ、ほ。――明日の夜、この山の、頂で)
(……ほ、ほ、ほ。――主を、決めようぞ……)
こだまする笑い声が消えたとき、すでにマサキマキもアオも闇の中から消えていた。
「……一騎打ちの誘いか。古風なことをする」
お祖父さんが渋い顔で立ち上がった。
「祭りの夜にかえ。――念の入ったことじゃの」
婆さまのことばの意味は、わかった。
御山――このお屋敷がある、志津留一族の<根拠>地は、いわゆる地脈の焦点だ。
志津留はその力を使ってこのあたりに君臨しているけど、その力は、常に一定ではない。
それは自然にこのあたり一帯を潤し、影響を与えているが、
そうしたエネルギーは、周期的に強くなったり弱くなったりする。
そして、四季折々の祭りは、そうした力がもっとも強まる時期だった。
昔の人が、祭り――祭典をその時期に選んだのは偶然ではない。
あたりに満ちた「力」があふれる夜、人々は何かをせずにはいられない。
そして人々が祭りに瞳を輝かせる夜は、地脈もそれに呼応してより一層の力を噴き上げる。
力が音叉のように共鳴しあう時に、その支配者の戦いが行なわれれば、
その「勝者」の御山への支配力、影響力は、より強力なものになる。
簡単に言えば、地脈へのはたらきかけが楽になるのだ。
<挑戦者>は、それを狙っているにちがいない。
「……一騎打ち……」
星華ねえがつぶやいた。
「手ごわい相手だな」
マサキマキが消えた庭の闇を睨みながら、お祖父さんが言った。
「……子は、まだできぬか……」
――唐突に婆さまがそう言い、星華ねえは、傍からみても分かるくらいに動揺した。
「……まだ……」
「はやく、作っておけ。これから――明日、事がどうなるかはわからぬが、
――後悔せぬように、な」
婆さまのことばに、星華ねえは返事をしなかった。
その夜、僕たちは、本館の大部屋で固まって眠った。
婆さまは、「明日の夜まで、<挑戦者>は、手出しはしてこないだろう」と言っていたけど、
万が一を考えて、お屋敷にいる志津留の一族、
つまり、お祖父さんと婆さま、美月ねえ、陽子、そして僕と星華ねえの六人が、
布団を並べて眠ることにしたのだ。
婆さまは、意味ありげに僕と星華ねえを見たけど、僕らは何も言わず、
みんなといっしょに眠ることにした。
隣で、お手伝いさん――の中でも妖しとの戦闘訓練をつんでいる「郎党」が交代で寝ずの番をしてくれている。
もちろん、何かあったら、いっせいに起きだして対応するのだけど、
それ以前に、僕は全然眠れなかった。
いきなりのことに、頭が整理できていない。
――<挑戦者>が、いつか現れるだろうことは、「お定め」の説明の中にあった。
そうしたことを防ぐためにも、星華ねえと交わって、力のある当主を作る必要があるとも。
明日の「一騎打ち」は、どうなるのだろう。
誰が<挑戦者>と戦うことになるのか。
お祖父さんは、あのあと、自分の――当主専用の大弓を持ってきて、それを抱くようにして眠っている。
たぶん、当主として自分が「代表」に出るつもりだろう。
だけど、力が弱まったお祖父さんで、美月ねえの一撃を簡単に防いだ妖しに勝てるのだろうか。
何でも知っている婆さまも、戦いのための力は、弱い。
じゃ、誰が――。
不意に、ぼくは、「その人」が誰か思い至ってどきりとした。
――さっき、<挑戦者>の出現を真っ先に感知したのは、僕と、星華ねえ。
当主に必要な様々な力のうち、たぶん、そうした方面での力は、今、一族の中で僕たち二人が最も強い。
一族を代表すべきは、僕らのうち、どちらかだろう。
「……」
闇の中で、自分の体の毛が逆立って行くのがわかる。
久しぶりのこの感覚は――恐怖。
幼い頃、何もできない僕の上にのしかかってきた、この世ならざるものたちへの、恐怖。
「……」
ごくりとツバを飲み込んだとき、隣の布団から、静かな声がかかった。
「……大丈夫」
「せ、星華ねえ……」
僕が思わず横を向くと、同じように横向きの星華ねえが僕をじっと見つめていた。
「大丈夫。明日は、私が行く。彰を守る」
星華ねえは僕をみつめたまま、そう言った。
何の昂ぶりもない静かな声。
でも、そこには、さまざまな感情がこめられているはずで、
そして僕は、それを読み取ることが出来ないでいた。
――昨日までなら、きっと分かったのに。
陽子は、それが、家族の間柄から男と女の仲になった第一歩だ、と言ったけど、僕は――。
何を言えばいいのかわからなくて、あえぐように呼吸をする僕を見て、
星華ねえはすっと起き上がった。
枕もとの小さな袋を開ける。
「これ、嗅いで……」
中から取り出した小瓶からこぼした液体をハンカチにしみこませ、僕に手渡す。
この懐かしい香りは――<KURARA(くらら)>。
闇におびえる小さな僕を寝付かせた、優しい薬。
渡されたそれをどうしようかと迷う僕に、星華ねえは、
「嗅いで――ゆっくり眠って……」
そのことばに、反射的に僕の手が動いて、従ってしまった。
あっ、と思ったとき、僕はその薬を吸い込み、たちまち眠りに陥ってしまった。
子供の時のような、安らかな眠りに。
――翌朝。
目が覚めると、僕は星華ねえの姿を探した。
僕が眠っているあいだに、星華ねえがいなくなってしまっているのではないか、という思いに駆られたからだ。
――星華ねえは、僕の隣にいた。いてくれた。
「星華ねえ……」
旧家特有の古びた高い天井を見つめるように布団の中でみじろぎもせずにいる星華ねえに、
僕は思わず声を掛けた。
「何?」
すっと、星華ねえが横向きになって僕を見つめる。
「……い、いや。おはよう」
「おはよう」
星華ねえは、そのまま起き上がった。
衣擦れの音に、僕はなぜかどぎまぎとした。
「――山頂が、<封鎖>されています。おそらくはあやつか、と」
「夜明けを待って登ってみましたが、――霧で道に迷わされました。結界を張られています」
「……夜の闇の中ならともかく、朝になっても衰えぬとは予想外でした」
起きるとすぐに、吉岡さんたちが戻ってきて報告にきた。
吉岡さんの右隣に座る、長巻(ながまき)を持ったきりりとした感じの女性が小夜――双奈木小夜(ふたなぎ・さや)さんで、
左隣に座っている木刀を抱えた男の人が、有馬――有馬法胤(ありま・のりたね)さんだ。
どちらも、志津留の「郎党」の人たちだ。
三人は、昨晩から<挑戦者>の動向を探っていたらしい。
「今夜の一騎打ちに余人は入れぬつもりじゃな。それくらいは用意してきておるじゃろ」
位置は確かめられたのだがその場所にはいけない、という報告に、
婆さまが、さもありなん、といった表情になる。
「一族郎党でいっせいにかかれば、あるいは、と思いましたが……」
「無駄じゃ。死人が増えるだけよ」
あっさりと言い切った婆さまに、小夜さんと有馬さんが絶句し、ついで唇をかんだ。
郎党頭に迫る腕前で、強気なことで知られる二人が反論しないのは、
――山頂へのアタックの中で、<挑戦者>の実力を垣間見ただろうから。
「どうにも、向こうの思うようにしか動けんな。
もっとも、御山の主決めはつまるところ、そんな形の争いで当たり前なのだが。
――ご苦労。三人とも下がって休め」
お祖父さんはそう言った後、吉岡さんたちをねぎらった。
「いえ、我々は――」
「休んでおけ。どの道、夜まで何も出来ぬ。――わしらも、朝餉じゃ」
婆さまがそう言って手を振ると、三人は座敷を退出した。
入れ替わりに、お手伝いさんたちが朝ごはんを運んでくる。家族だけの、食事が始まった。
……こんな時なのに、僕はなんだかすごくお腹が空いていて、運ばれてきた御飯をぱくぱくと平らげた。
「よく入るね、二人とも……」
いつもはそこらの男子よりもよっぽど大食いな陽子は、緊張とショックであまり食べられない様子だ。
お祖父さんや、婆さまでさえも。
「そういや、そうだな……」
僕は首をかしげた。
お手伝いさんの作ってくれる料理は、たしかに美味しい。――旅館並みだ。
でも、普段、美月ねえが家族用に作ってくれるごはんは、もっと美味しい。
それなのに、いつもよりずっと食が進む。
というより、味うんぬんの前に、一族の大事を前に、
みな目の前のものを飲み込むのがやっと、と言う感じなのに、
僕だけは、何かに取り憑かれたかのような勢いでそれを片付けていった。
いや、僕のほかにもう一人。
「……ごちそうさま」
僕よりずっと上品にだけど、僕と同じか、それ以上の健啖ぶりを見せた星華ねえが箸を置く。
僕は、あわててお椀に残った御飯をかきこんだ。
陽子が、あきれたような表情で僕と星華ねえを交互に眺める。
当然かもしれない。
六人がそれぞれお代わりしても十分な量の御飯が入っているおひつは、
ほとんど僕と星華ねえだけで空になっていた。
「ご、ごちそうさま」
別に星華ねえにあわせる必要はないはずだけど、
なんとなく、そうするべきだという意識が働いて、僕は食事を終了した。
それは、正解だったようだ。
僕が箸を置くとすぐに、星華ねえは立ち上がった。
「……彰、病院に行こう」
「宍戸さんの、お見舞い?」
「うん」
「――行く」
立ち上がった僕らに、「危険だから外には出るな」という声がかかるか、と思ったけど、
お祖父さんも、婆さまも何も言わなかった。
僕たちは歯磨きや身支度をすばやく済ませて、僕らは車に乗り込んだ。
星華ねえは自分で運転しようとしたけど、郎党の小夜さんが運転手に入った。
「大丈夫なの? 疲れてない?」
御山を夜通し探索していて明け方戻ったばかりの小夜さんに、心配になった僕は聞いた。
「心配無用です。さっき、一時間ほど横になりました。……それに」
「それに?」
「……梅久の様子を見に行きたいのです」
「……」
「……」
車内に沈黙が落ちる。
小夜さんは、もとからの志津留の「郎党」ではない。
双奈木(ふたなぎ)という姓は、七篠の支族のひとつで、僕らのお祖母さんの実家の人だ。
七つの支族のうち、志津留が「四ノ弦(弓)」を現すのなら、双奈木は「二ノ薙刀」を現す支族。
小夜さんは、その直系の人間だった。
だから、本来、他の支族の元に出てくることはないのだけど、
向こうの家で何かがあったようで、双奈木から嫁いで来たお祖母さんのもとに身を寄せた。
はじめは客分ということだったけど、「修行のため」と自分から言い出して、今では志津留の郎党に加わっている。
最初にこっちに来た時は、ものすごくぴりぴりしていて、今もかなり恐い感じの女(ひと)だけど、
今日はいつもにまして、その雰囲気が強い。
もし触れたのならば、こちらの手が切れてしまいそうなくらいに。
宍戸さんは、心臓の脇を射抜かれて、今も意識が戻らない。
病院に話を通して――もともとが志津留家が自分たちや「郎党」の人たちのために資金を出して作った病院だ――、
治療室をガラス越しに覗ける部屋――そんなものまで用意されている――に通された。
「傷は深いですが、そちらのほうの施術は成功しております。ただ――霊障が……」
「<挑戦者>の力ですか?」
「いえ、……おそらくは、御山の力が悪い方向で流れ込んだかと」
「……治りますか?」
「今の段階では、なんとも……。七篠の<再生病院>にも連絡を取っております」
「……そこまでひどいのですか……」
きりきりと唇をかむ小夜さんと、院長先生との会話を、僕らは遠い音のように聞いた。
覚悟はしていたつもりだけど、あらためて目の前にすると、その現実はショックだった。
「……行こう」
身じろぎもしない宍戸さんと、院長先生を質問攻めにする小夜さんを黙って見つめていた星華ねえが、僕を促した。
僕らは、そこに小夜さんを残して、病院を退出した。
小夜さんは、僕らの運転手兼護衛のつもりで付いてきたのだけど、星華ねえが一言、
「宍戸さんの側にいてあげて……」
と言うだけで、びっくりするくらい大人しくそれに従った。
たぶん、他の人の説得だったら、小夜さんは頑として譲らずに「郎党」としての働きを優先させただろう。
――星華ねえのことばは、ときどきこんな魔法のような効果をあらわす。
「……小夜さん、宍戸さんのことが好きなんだね」
「そう」
「意外……でもないや」
刃のように鋭い美女と、能天気なスケベ魔人(お手伝いさんの女性陣から付けられたあだ名だ)は、
対照的で、でも、とてもいいコンビだった。
いっしょにお酒を飲みに行ったりすることもあるらしい。
――もっともたいていは、二軒目あたりで、宍戸さんが巫女さんバーとか、もっと「あやしい店」に入ろうとして、
小夜さんに往復ビンタもらって解散、ということが多いらしいけど。
「……」
「……」
そんなことと、意識不明の宍戸さんを交互に思い出して、僕らは無口になった。
駅前からバスに乗る。
病院には夜が明けてすぐ、まだ開院前に行ったから、バス停に下りたときでも辺りはまだ朝露でぬれていた。
僕らの足は、自然と牧場に向かった。
「……アオも<挑戦者>が連れて行っちゃったんだね」
牧場をさびしく歩きまわるシロを見て、僕は思わずそうつぶやいた。
「……」
星華ねえは、朝風に髪をなぶらせながら、じっとその様子を見つめていたけど、やがて口を開いた。
「……マサキが<挑戦者>に憑かれたのは、私のせいだ」
「そんな……そんなことはないよ」
「あの子は、私に憧れていた」
――そしてたぶん、嫉妬も、ということばを、僕は飲み込んだ。
憧れ、好意、感謝、尊敬、愛情。自分の無力感、嫉妬、そして、そこから生まれる――憎しみ。
マサキマキは、星華ねえに愛憎と言ってもいい感情を抱いているのは、一回会っただけでわかった。
<挑戦者>が、それを利用して彼女を寄代(よりしろ)にしたことも。
僕は、星華ねえにかけることばを失った。
無言のまま、馬場を離れる。
舗装されていない道を、踏み固められた土の感触を足の裏に感じながら歩く。
一歩、また一歩。
――星華ねえが、足を止めた。
――いつの間にか、僕らは麦畑に戻ってきていた。
「彰……。ここでキスしたこと、覚えてる?」
立ち止まった星華ねえが、つぶやいた。
どきん。
唐突な問いに、僕は心臓が飛び出すかと思った。
「お、覚えてるよ……」
忘れられるものではない。
「……よかった」
その横顔を、僕は呆然と眺めた。
「星華ねえ……」
「私、ずっと一人だった。――姉さんや、陽子はいるけど、世界の影の中では、私一人。
じっちゃでさえも、ばっちゃを亡くしてからは、私の世界を「見る」ことができなくなった。
だから、私は一人だった……」
そのことば――僕には、痛いほど分かる。
「血」が薄まり、「力」も弱まった一族の中にあって、僕らは「鬼っ子」だった。
この世ならざるものを「見る」能力が高くても、
本来ならば、当主やそれに次ぐ力を持った大人たちの中で育てば、その負担は軽い。
でも志津留には、最高のパートナーを失い急速に衰えたお祖父さんが、
なんとか当主の役割を果たしている以外、「力」を持った人間はいなかった。
僕の母さんでさえ、「血」は濃かったけど、「力」は弱かった。
だから――僕は、闇に、自分自身の力におびえた。
――そして、星華ねえも。
「彰に会ったとき、はじめて私は一人でなくなった」
「……星華ねえ……」
「だから、私は――」
星華ねえは、ことばにつまった。
それは、僕が知る限り、はじめてのことだった。
「だから……?」
僕は星華ねえを見つめた。
「……」
星華ねえは、僕から視線をそらした。
――それも、はじめてのことだった。
どんなときも冷静で、まっすぐ最短距離だけを進む女(ひと)が。
麦畑の真ん中の道で、はじめて見る弱々しい表情と、声。
「……今、とても、こわい」
「こわいって……」
「……今夜、御山で戦うことが――。
……志津留のヒメとして戦うことが――。
……マサキの姿をした、あの妖しと戦うことが――。
さっきの宍戸さんを見て、こわくなった……」
僕は、息を飲んだ。
目を伏せた星華ねえの身体は、小さく震えていた。
「――僕が行くよ! あいつは、僕に任せて」
それは、僕が今朝から考えていたことだった。
星華ねえは僕のことを守ると言ったけど、僕は、もう子供じゃない。
十分大人になった男で、そして、そういう男は、女を守るべきだ――好きな女(ひと)を。
雄としての原初の衝動が僕を突き動かす。
だけど、――星華ねえは、いやいやするように首を振った。
「だめ……それは、もっとだめ!」
「何でっ!? 僕は十分、あいつが見えていた!」
「でも、私ほどではない。――それに、私は<挑戦者>がこわいのじゃない」
「……え?」
「……今夜、宍戸さんよりももっとひどい怪我をしたら、彰のことが分からないまま死ぬ。
戦うことも死ぬことも、それ自体は何も恐くない。でも、私は、そのことがこわい……」
「……え……」
僕は、星華ねえの意外なことばに、僕は詰め寄りかけた身体を硬直させた。
「私は、彰の心が読めなくなってしまった。――ついこの間まで何でもわかったのに……」
僕を見つめる瞳の中の、おびえたような光。
それは、昨晩の僕の瞳にあったものと同じものにちがいなかった。
――僕は、ぎゅっと星華ねえを抱きしめた。
星華ねえが息を飲む。
「……彰……?」
「大好きだよ、星華ねえ……、大好きだよ、誰よりも、何よりも……」
突然のことに、時が止まったように動かずにいた星華ねえは、
――やがて、大きく深呼吸しはじめた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。そして――。
「私も。――彰のことを、愛してる……」と、そう言った。
それが、星華ねえと僕が「恋人同士」になった瞬間だった。
僕は、その唇に、僕の唇を重ねた。
星華ねえは、目を閉じ、ちいさくうなずいてそれを受け入れた。
最初のときと同じ、誰もいない麦畑の真ん中で、僕らは生涯二度目のキスをした。
「ん……んっ……」
最初のキスとちがうのは、僕も星華ねえも大人になっていて、
キスも大人のものになっていたということだ。
僕は、星華ねえとしかキスしたことがなかったし、星華ねえも、そうだということも分かっていた。
それでも、成熟しつつある身体を持つ若者が唇を重ねれば、
今まで見聞きしたものや、雌雄の本能が十年前とちがうキスを選ばせる。
星華ねえの唇を割って、僕の舌が差し込まれた。
「んっ……ん…ふぅっ……」
星華ねえは、びっくりしたように目を見開いたけど、すぐに目を閉じ、
同じように、いや僕よりも情熱的にそれに応えた。
「ふわ……」
長い長い時間をかけたキスが終わり、唇を離すと、
溶け合った二人の唾液が、朝日の中できらきらとした糸になって二人の間をつないだ。
その光景に、どきりとする。
「僕もね、僕もこわかったんだ。突然、星華ねえが何を考えているのか、何を想っているのか、分からなくなって」
「彰……」
「――だって、今まで、家族として何でも分かりあえてた間柄だったんだもん。
びっくりしたり、不安になったりするよね……」
「彰……」
「でもそれは、星華ねえと僕が、ただの家族じゃなくなった証拠なんだって。
――星華ねえと僕が、きっと<男と女の仲>になったからだって……。
恋人同士になると、最初は、相手のことが分からなくなっちゃうんだって……」
僕は、昨日、陽子に教えてもらったことを自分なりにかみ砕いて話した。
それを聞いた星華ねえは――ほぅ、っと吐息をついた。
「それ……母さんから聞いたことがある……今までずっと忘れてた」
「うん」
話の出所は、同じだ。
「母さんが、父さんに恋をしたとき、父さんを男として愛し始めたとき、
やっぱり、父さんのことがわからなくなって、いつもどきどきしていたって――」
「星華ねえ……」
「私は、今、すごく、どきどきしている」
星華ねえは、一言一言を自分で確かめるように胸に手を当てながら言った。
「――私は,それを不安や恐怖だと思っていたけど、ちがうんだ……」
「星華ねえ……」
「もう一つ、思い出した。
――恋人は家族じゃないから、いつも相手に分かるように想いを伝えていかなきゃだめだって。
そうすれば、家族の中でずっと深い絆で結ばれる間柄になれるって……。
でも、私は、そういうことが苦手で……」
――そう。
家族の中で、夫と妻は、血縁以外の間柄で結ばれる。
その特別な関係は、やがて二人の間に子を為し、命をつないで行くもの――家族の一番の核。
だから、その二人の間には、他の家族とちがうものがある。
それは雄と雌の本能――今、僕たちが感じているもの。
僕らは、その絆をもっと深くしたくて……。
「お屋敷に戻ろう。――私は、彰と今すぐ夫婦になりたい」
「うん。僕も、星華ねえと夫婦になりたい」
二人は、自然と手をつないだ。
指を絡ませ、ぎゅっと握る。
お互いの温かさを感じると、もっともっとそれが欲しくなる。
とっ、とっ、とっ、とっ……
僕らは、どんどん握る手に力を込め、歩くスピードを速めた。