<僕の夏休み> 次女:星華 その1

 

 

「……星華ねえ……」

バスから降りた僕が声を掛けると、その女(ひと)は、こくり、とうなずいた。

僕の母方の従姉妹――美月、星華、陽子の三姉妹の次女、星華(せいか)ねえだ。

「お帰り、彰(あきら)」

──僕が帰省するとき、この女(ひと)は絶対に「いらっしゃい」と言わない。

「お帰り」と言う。

まるで、僕も、僕の両親も、「本家」から一時期ちょっと出て行っただけで、

またすぐにここに戻ってくるものだから、と言うように。

あるいは、星華ねえにとっては、僕は弟であるかのように。

 

──僕は、毎年夏休みの最初の日にここにやってきて、最後の日に帰る。

冬休みも、春休みも、ゴールデンウィークも。

そのことを不思議には思わなかった。物心ついた時からの習慣だったからだ。

そして星華ねえを、星華ねえ、つまり「星華姉さん」と呼ぶことにも。

僕に対する星華ねえの挨拶が、「お帰り」ということにも。

……だけど。

だけど、今年の夏、僕はじめてそのことを意識した。

志津留(しづる)家の「お定め」を知った夏に──。

僕が当たり前に生きてきた世界が揺らいだ夏に──。

 

「……」

僕が何を言っていいかわからないまま立ち尽くしていると、

星華ねえは、もう一度うなずいた。

そして片手に下げていたものを僕に差し出した。

「……これ」

差し出されたものは──僕の麦わら帽子。

見慣れたそれを目にして、僕のなじんだ世界がすっと戻ってきた。

──今は……。

そう……今だけは……。

 

「彰は、それがよく似あう」

星華ねえは、麦わら帽子をかぶった僕を見てうなずいた。

無表情に見えるけど、すごく嬉しそうだ。

他の人にはわからないも知れないが、僕にはそれが分かる。

僕も自然に笑顔が出た。

「毎年かぶってるもん」

「……こっちは、夏、暑いから……」

「あっちだって夏は暑いよ。アスファルトの照り返しはきついし。

なんだか暑さの質がちがう……っていうか。こっちの暑さのほうがよっぽどいい」

「……」

星華ねえは、あるかなしかの微笑を唇に浮かべた。

多分、星華ねえを知る人──学校のクラスメートとか、近所の人とか──の

ほとんどが見ることないまま一生が終わるだろう、貴重な微笑み。

星華ねえは目を閉じて小さくうなずいた。──機嫌のいい時の星華ねえの癖。

「……車、呼ぶ?」

「本家」のお屋敷は、バス停からさらに相当な距離がある。

バス停は山のふもとで、「本家」の本宅は山の中腹に建っているからだ。

というより、この山と、その背後に広がる森と、つまりこの辺一帯全部が志津留家のものだ。

あんまり広いので、携帯電話──ちょっと前まではバス停の横にある公衆電話から

お屋敷に電話をかけて、お手伝いのだれかに車をまわしてもらうかどうか、聞いているのだ。

ちなみに、駅まで車を回してもらうことはもちろんできるけど、僕はそうしたことは一度もない。

さっきまで乗ってきた、くたびれたバスにゆられてこのバス停に降り立つことこそが

「夏休みのはじまり」のような気がしてならないからだ。

そして、バスから降りた後の行動も決まっている。

「うーん。歩いていこうかな――まだ陽が強くないし」

朝早くに出発したおかげで、まだ昼までにはだいぶ時間がある。

エアコン熱やらビル熱やらがない自然の中にあっては、午前中はけっこう涼しい。

僕はその空気がとても好きだった。

「――そう」

星華ねえは、もう一度目を閉じて小さくうなずいた。

 

「んー、今年も見られなかったなあ」

お屋敷に至る途中にある麦畑は、もう丸坊主だ。

僕は毎年、春夏冬やゴールデンウィークに「本家」に帰省するけど、

麦の刈り取り期は初夏だから、僕は刈り取る直前の実った畑を見たことはない。

ここからちょっと下ったところにある水田の風景も好きだけど、

この麦畑が実っているところに出会わせられたら最高だろうな、と思う。

「彰は、麦畑が好きだな」

星華ねえは、刈り取られた後の切り株が広がる畑を見ながら言った。

「うん」

僕は、麦畑が好きだった。

実際、このあたり一杯に広がる麦畑は、実がなる季節だったらさぞかし壮観だろうと思う。

「……誰かさんと、誰かさんが、麦畑……」

歩きながら、星華ねえが歌いだした。

びっくりするくらいに、きれいな声。

普段あまりしゃべらない星華ねえは、実は歌がものすごくうまい。

中学時代、合唱部の顧問の先生が泣いて入部を頼んだというくらいだ。

化学(ばけがく)一筋の星華ねえは、きっぱり断ったのだけど。

学校の音楽の時間を除けば、星華ねえは、家族──嬉しいことに僕も含まれる──以外の人間の前で歌うことはない。

でも星華ねえは、すぐに歌詞をつけることをやめ、突然続きをハミングにした。

「フフッフフッフフッフフッ、フフフフフーフフー……」

「あはは、星華ねえ。歌詞忘れたの? 手抜き、手抜き」

「……ここからの歌詞は、たくさん種類があるから……」

「あ、そういえば……」

いわゆる「誰かさんと誰かさん」はスコットランド民謡で、日本語の訳歌詞は一つではない。

一番有名なのは、「チュッチュチュッチュしている、いいじゃないか♪」とつながるもので、

これは、テレビで大人気だったお笑いグループが歌って広めたものだ。

その元になったとされるバージョンは

「こっそりキスした、いいじゃないか♪」や「かくれてキスしてる、いいじゃないか♪」とも言われる。

原曲歌詞とは完全に異なる「夕月晴れて秋風吹き、月影落ちて鈴虫鳴く」と歌う「故郷の空」という唱歌もあるのだ。

僕は、ドリュフの歌う「チュッチュッ……」のバージョンを歌おうとして──押し黙った。

星華ねえが、歌いだしてから突然ハミングに切り替えたわけも、分かった。

 

──僕と星華ねえは、この麦畑でキスしたことがある。

キスといっても、たいしたことではない。

当時、小学校に上がるか上がらないかの頃だった僕が、この辺りまで遠征に行くとき、

その保護者は、三つ年上で、その頃、小学校の三年生か四年生だった星華ねえだった。

星華ねえが帰ってくるまでは遠出が出来なかった僕と、三姉妹の末っ子で僕と同い年の陽子は、

早く星華ねえが帰ってこないかと、門の前で首を長くして待っていたものだ。

麦畑は、僕のお気に入りの遊び場で──もっとも中に入って荒らすようなことはしないが──、

星華ねえと僕(と陽子)は、何度もこの辺りまで出かけた。

 

思い出した。

ある時、陽子が珍しく熱を出して寝込んだ日、

看病は美月ねえとお手伝いさんたちがするというので、僕は星華ねえと二人で麦畑に来たんだ。

その前の晩にドリュフを見て歌詞を覚えた僕は、大声で麦畑の歌を歌っていたんだけど──。

「――チュッチュッチュッチュッしている、いいじゃないか……」

僕に合わせて歌ってくれてる星華ねえの声に聞きほれてしまった。

星華ねえは、ドリュフ版の麦畑の歌をうたいおわると、呆けたような僕を見てちょっと笑い、

今度は、自分が一番好きな歌詞で歌い始めた。

「――誰かさんと誰かさんが麦畑。こっそりキスした、いいじゃないか。

私にゃいい人いないけど、いつかは誰かさんと、麦畑……」

その声があんまりきれいだったから、僕は、ついつい、

「星華ねえは、いい人って、いないの?」

と聞いてしまった。

「……」

星華ねえは、無言で僕を見た。

──僕は、どきりとした。

表情があまり変わらない星華ねえの感情を、僕はなぜか分かることができる。

なぜ分かるのか──そりゃ「家族」だもの。

でも、その時、星華ねえが何を考えているのかを僕は分からなかった。

嬉しいでも、哀しいでもなく、怒っているのでもなく──今まで僕が見たことがない感情。

だから、僕は、星華ねえが無言のままその顔を近づけてきても、金縛りにあったように動けなかった。

そのまま、星華ねえの唇が、僕の唇に重なっても。

「――彰に、そうなってほしい」

唇を離した星華ねえが、そう呟いても。

僕は、目をまん丸に見開いて、星華ねえの美貌を見つめるほかに何も出来なかった。

「……」

そんなことを思い出して、僕は黙りこんでしまった。

「……」

星華ねえは、もともとが無口だ。

ハミングのまま、歌い終わると、口を閉ざす。

いつもの風景だけど、僕はちょっと息苦しくなった。

だって、今年の夏、僕が「本家」に来た目的は──。

 

──ざ、ざ、ざ、ざ、ざ。

 

──ど、ど、ど、ど、ど。

 

「――!?」

僕は、地面がぐらりとする、めまいのような感覚を覚えてたたらを踏んだ。

「……」

星華ねえも立ち止まっている。

その目は、向こうに見える「御山」――お屋敷の方向を見ていた。

「……星華ねえ……」

「……「御山」の<流れ>が、また悪くなっている……」

ぽつりと言った星華ねえのことばを、僕は理解することが出来た。

……僕は、そのためにこの夏、この場所にきたのだから。

 

──星華ねえ。今、僕の目の前にいる女(ひと)と交わるために。

──交わって、子を為すために。

 

 

志津留家は、平安から続く名門・七篠家の支族で、この家自体も千年続いた名家だ。

──平安の闇から生まれた七篠家と、その七つの支族は、

たった十数人の一族郎党で、強大な「敵」と戦うために、

一族を増やし、「血」を重ねて強化することで力を得てきた。

怨敵を滅ぼした後もその「血」の力は、「ものの流れ」を感じ取り、操ることで一族に繁栄をもたらした。

……でも、その繁栄は、七篠総本家から分かれて以来連なる「血」の為せる業だった。

志津留家の事業が成功してきたのも、力のある「血」を以って

お屋敷のある「御山」の地脈を操ることで為されたものだと言っていい。

そして、「力」を「血」に秘めた一族は、子供に血をつないでいくことでしか繁栄を得られない。

だからこそ、「本家」は薄まりつつある一族の「血」を再度結集することを決めたのだ。

 

──もっとも志津留の「血」を色濃く引き、そして一族の中で唯一の若い男である僕と、

現在の「本家」の三姉妹、その中でも最も強い「力」を持つ星華ねえとを交わらせることを。

 

「――志津留家の「血」は、他の六支族に比べて、だいぶ薄まっています。

本来、最も志津留の「血」が濃く出ていた私が、あなたのお父さんと結ばれるために

家の外に出たせいで、本家に残った「血」は弱まってしまったのです」

目を伏せ、申し訳なさそうに説明した母さんは、いつもの母さんではなかった。

父さんと母さんが結婚するのに、「本家」との間でなにか揉め事があったのは、

子供心にも気付いていた。

夏休みや冬休みといった長期の休みの間中、僕が本家に行くようになっていたのも、

最初の一、二年以外は、両親がそれに付き添うことがなくなっていたのも、

何か理由があることなのだろうとは思っていた。

だけど、それがこんな荒唐無稽な話だったなんて……。

 

「――子供を作る?! ――星華ねえと、僕が?!」

母さんから言いわたされたその話は、僕にとって青天の霹靂だった。

 

しかし、僕は、そんな家のしがらみをすんなりと理解することが出来た。

なんとなく、志津留の家が普通とは「ちがう」ことはもうずっと前から気がついていた。

それがどうやら、婚姻と血縁関係の中にあるものだということも。

けれど、頭で理解していても、それが逃れられない宿命だとわかってしまっていても、

僕の心の中は複雑だった。

……星華ねえと、子供を作る?

生まれてからずっと姉弟のように育ち、仲良く遊んできた女性と?

僕は、その話を聞かされたとき、足元の地面が崩れるような衝撃を受けた。

家族──実の姉と交われ。

そう命令された人間のように、僕はショックと本能的な嫌悪感を抱いた。

 

星華ねえ。

僕は、この女(ひと)のことが大好きだ。

でも、それは、姉のような存在という意味で、であって、

夫婦だとか、子作りの相手とか、そういう生々しい行為の対象としてではない。

星華ねえ。

他の人たちとは「違う」力を持って生まれてしまった僕にとって、

同じ力――それも僕よりも強い力を持っている星華ねえは特別な存在だった。

その力に、従っているわけではない。

人の身で、人のものではない力を備え、時々それに飲み込まれそうになる子供にとって、

その力を冷静にコントロールすることが可能だと、身を持って指し示してくれる女(ひと)は、

どれほど大切な存在であったろうか。

僕は、時々暴れそうになる志津留の血の力を、星華ねえのまねをすることで抑える術を知った。

星華ねえといっしょにいるだけで、ことばも交わさずその側にいるだけで、

僕は、やってはいけないことと、やるべきことの両方を教わった。

僕が、今、僕という「人」でいられるのは、まったく星華ねえのおかげだった。

 

……その人と、獣のように交わって子供を作るだなんて、

──それは僕が今まで生きてきて築いた「良い思い出」を、すべてぶち壊してしまうようなものだ。

 

だけど、僕はその「お定め」から逃れられない自分を一瞬で悟ってしまっていた。

目を伏せた母さんが、ぽつぽつと語る、志津留家の話が本当のことだというのにも。

いままで漠然と感じていた不思議が、ジグソーパズルがぴたりとあてはまって完成したように

すべての答えに導かれたことで。

……けれど、頭で理解したって、心が納得しない。

納得しないまま、僕はここまで来てしまった。

 

 

僕は、隣を歩いている星華ねえから、そっと視線を外した。

その時、自分たちが三叉路にさしかかっているのに気が付いて、僕は咳払いをした。

「……そ、そうだ。お屋敷に行く前に、シロに会っていこうよ!」

「……」

星華ねえは、無言でうなずいた。

三叉路のこっちを行くと──志津留の馬場。

シロとは、そこで飼われている白い馬のことだ。

今は亡き伯父さん──星華ねえたちのお父さんが、知り合いの馬主から引退した競走馬を譲り受けたものだ。

──ハムスターはハム公、犬はポチ、九官鳥はキューちゃん。

おおよそ、動物の名前というものに関して、ひねりというものを全く入れない伯父さんのせいで、

競走馬らしいかっこいい名前を持っていた牝馬は、みんなからシロと呼ばれるようになった。

その名の通り、真っ白な馬で、牡馬と見まがうばかりに大きなシロは、

身体は大きいけど、性格がおとなしくてなかなか勝てないままに引退したらしいけれど、

ここにもらわれてきて、良かったと思う。

志津留は、一応近所の神社の宮司ということになっているので、

白馬のシロは、神馬として大切に扱われている。

僕は、帰省のたびに、シロに乗ることを楽しみにしていた。

 

馬場と言っても、それほど大きなものではない。

一応、このあたりに二つある神社のうちの一つ、

みんなから「上の神社」と呼ばれている神社の宮司を兼ねている志津留家は、

神馬として、二頭の馬とその牧場を所有している。

引退した競走馬を引き取って飼っているのだけど、その二頭が神馬らしいことをするのは、

実は志津留家の「上の神社」のほうよりも、街の「下の神社」に貸し出されたときのほうが多い。

この街には、ふたつの神社がある。

「上の神社」は、志津留家の私有地の中にあり、参拝する人間もいないけど、

駅の近所にある「下の神社」は、田舎町にしてはかなり大きくて、かなり有名だ。

理由は、馬に乗って走りながら弓を放って吉凶を占う神事、流鏑馬(やぶさめ)が行なわれる珍しい神社だから。

でも、「下の神社」は、本当は馬を常時飼っていられるほど大きくはないので、

県内屈指の実業家の顔を持つ志津留家が飼っているシロたちや

近くの乗馬クラブから馬を借りて流鏑馬を行なうことにしている。

志津留は、こうしたところで地元に協力して、地盤を固めているのだ。

 

「……あれっ? 誰かいる……」

馬場に近づいた僕は、牧場をのんびりと歩いているシロの他のもう一頭、

アオと呼ばれている葦毛の馬が人を乗せて駆け足をしているのに気がついた。

乗り手は馬の世話をしている宍戸さんではない。

誰だろう。

「――」

それが女の人だと分かる前に、その人を乗せたアオは猛烈な勢いで駆け寄ってきた。

「――志津留先輩っ!」

「……マサキか」

星華ねえが言うと、アオから飛び降りた女の人――というにはちょっと年齢が若いか。

僕より一つか二つくらい上の女の子は、顔を赤らめた。

 

「……流鏑馬(やぶさめ)の練習か」

ああ。なるほど。

街にある「下の神社」は、流鏑馬を行なうことでちょっと有名な神社だ。

他の神社と違って、「ナントカという故事に倣って、女の射手は巫女の格好で騎射する」という風習のため、

今では全国から観光客が訪れるほどになっている。

駅裏の繁華街では<巫女さんバー>なるあやしげな飲み屋さんができるほどの観光資源だ。

二、三年前から突然有名になったけど、神社自体はそれほど大きくないから、自前で神馬を飼うほどではない。

志津留家や乗馬クラブから馬を借りるのだけど、流鏑馬の出場者の練習も、そこでやらせてもらうしかない。

だから、毎年の出場者はこの馬場に練習しに来るのだ。

シロとアオの一年で一番大きな仕事は、この練習と流鏑馬だといっていい。

マサキ、と呼ばれた女の子は、今年の出場者なのだろう。

「……先輩……この子は?」

マサキさんは、星華ねえの隣に立っている僕に気がついてじろじろと眺めた。

さっき、星華ねえに声を掛けられて真っ赤になったときとはまるで別人の冷たい目だ。

そうすると、美人、と言ってもいい顔立ちが険を含んで台無しだ。

「彰。私の従兄弟。――明日から、旦那」

ぶっ!

星華ねえの爆弾発言で、僕はもちろん、マサキさんまで飛び上がった。

 

「せ、星華ねえ……」

「あ、あは、あはは……志津留先輩、冗談がキツいんだからぁ〜」

「……」

マサキさんが笑い出したが、星華ねえは無言のままだった。

その無言の意味を、僕はわかっていた。

星華ねえは、冗談のつもりで言ったんじゃない。

後輩だという、この女の子に詳しく説明する必要を感じなかったので、それ以上は口に出さないだけだ。

でも、マサキさんはその沈黙を肯定の意味でとらえたらしく、話題を変えてまた話しかけはじめた。

「先輩、今年は私、頑張りますよ! 三年前の先輩みたいに、全部命中させますっ!」

「……」

星華ねえは無言でこっくりとうなずいた。

マサキさんがまた真っ赤になる。

「ええっと……星華ねえ、この人……」

「正木真紀(まさき・まき)。高校の後輩」

星華ねえは、そう言った。

「よ、よろしく……」

僕は軽く頭を下げたけど、マサキさんは──。

「それより先輩っ! 私の騎射、見てもらえませんか?」

と星華ねえに声を掛けた。

無視された形の僕は、ちょっとムッとした。

何か言おうとしたとき、後ろで、ブルルっと鳴き声がした。

「――シロっ!」

僕は不愉快な気持ちをすっかり忘れさって叫んだ。

真っ白な大きな馬が近寄って、僕に顔を摺り寄せる。

シロと僕は仲良しだ。

アオとも仲がいいけど、二、三年前にこの馬場にやってきた葦毛さんと違って、

シロは僕が子供の頃からここにいる。

僕と、星華ねえの妹で僕の同い年の陽子が、はじめて乗った馬もシロだった。

年に何回も帰省する僕のことを、シロは志津留家の人間と認識してくれているらしく、

三姉妹と同じように気を許してくれる。

「あはは、ごめん。今日は人参ないよ。今度もって来る」

頭をなでると、シロはブルルっとまた鳴いた。

 

「あら仲良しね。じゃ、シロさんのお相手をしていてくれないかしら。

私は、ちょっと先輩とお話があるから……」

シロにじゃれ付かれている僕を見たマサキマキ──うん、さん付けはやめよう。

年齢は上そうだけど、別に僕の先輩というわけでもないし──が、猫なで声で言った。

「……いや。シロの顔を見に来ただけだから。彰、帰ろう」

星華ねえは、くるっときびすを返した。

シロが、ブルルと、鼻息をあげて、僕から離れる。

この優しいお婆さん馬は、空気を読めるということでは人間以上だ。

「あっ……、せ、先輩っ……!!」

マサキマキはあわてたが、シロが促したアオが、ヒヒーンと鳴いて辺りを駆け足しはじめると、

馬と、振り向きもしないで道を戻り始めた星華ねえを交互に見比べ、やがて、

「もぉっ!!」

と怒ったような声を出してアオのほうに駆け寄った。

──すれ違う瞬間、僕にものすごい視線を投げかけて。

ああ、神様。

見るだけで他人を石に変える女怪物メデューサは、きっと心優しい穏やかな女性です。

……今のマサキマキに比べたら。

「ま、待ってよ、星華ねえ……」

僕は、大急ぎで白衣姿の背中を追った。

 

「……あの人、今年の出場者なの?」

なんとなく気になった僕は、マサキマキのことを星華ねえに聞いてみた。

「……」

無言でうなずく星華ねえ。

「高校の後輩って……化学部?」

「そう」

星華ねえは中学から、部活は化学一筋だ。

家でもフラスコだの試験管だの、へんてこな薬品だのが離れにいっぱい置いてある。

大半は、もともとお祖父さんの集めていたものだというけれど。

「化学部には見えなかったなあ、あの人……」

きりりとした感じと、あの年齢でアオをかなり上手く扱っていた運動神経は、文科系部員に見えない。

もっとも、文科系と言ったって、星華ねえのような例外はあるけど。

「――活動はしてなかったから。幽霊部員」

「へえ……。なんでまた、化学部に?」

「……私がいたから、らしい」

「え?」

「……ラブレター、もらった」

「えええっ!?」

僕は一瞬驚いたけど、なんとなく納得した。

美月ねえと、星華ねえは、地元では有名人だ。

ここらあたり一番の素封家のお嬢さんというだけでなく、文武両道の才媛として名高い。

あまりにお嬢様すぎて、男は近づかなかったし、友達と呼べる女の子もいなかったけど、

その分、年下の女の子たちからは「理想のお姉さま」と憧れられていた。

バレンタイン・デーに、ラブレター付の手作りチョコの山を前にして

美月ねえがはてしなく凹み、星華ねえがこめかみをおさえる姿は、学生時代の慣例行事だった。

礼儀として一口ずつ味見したあと、二人はそれをチョコケーキやチョコクッキーに作り変えて、

みんなのおやつにしてくれたので、僕と陽子は二月の後半をひそかに楽しみにしていた。

「――今年のケーキ、いい出来だよ! ゴヂバをくれた女の人いたんだって! ゴヂバ!」

「へええ。楽しみだなー」

「今日送ったから、着くのは明後日くらいかな。あたしは今日美味しくいただいちゃったけど、にしし」

「あー、ずるいぞ、陽子っ!」

そんな電話は毎年恒例だったから、星華ねえが女の子からモテるのは知っていた。

マサキマキもそういう娘の一人だったのだろう。

 

「……三年前、覚えてる?」

星華ねえがふいに言った。

「ええっと、流鏑馬?」

「そう」

反射的に返事をしてから、思い出した。

マサキマキも言っていた三年前の流鏑馬に、星華ねえは出場したことがある。

「ええと、うちの馬場で練習していた人が怪我しちゃって、

どうしても代役がいなくて、星華ねえが出た、あれ?」

 

僕らの志津留家は、平安時代、物の怪(もののけ)を討伐する技として生み出された弓術を受け継いでいる。

でも、それはいわゆる普通の弓道とは目的も手段も異なる異形の弓術だから、

一族の人間は、決して表の弓道にはかかわらない。

「型だけの継承ですので」

と言って、門弟すら取らない「枯れた」流派を装っている。

でも本当は、的に当てる──敵を屠ることだけを言ったのならば、一族の人間は、

みな熟練の猟師以上の腕前を持っている──むろん、星華ねえも。

胸とお尻のあたりはともかく、全体としてはほっそりとした印象の星華ねえも、

弓を持ったら、灰色熊(グリズリー)に襲われたって平気だ。

現に僕は、まだ小学生だった星華ねえが数十頭もいる野犬の群れを、短弓ひとつでまたたく間に蹴散らしたのを見ている。

──そんな弓術を表に出す必要はないし、また出す気もない。

それが志津留の──あるいは七篠一族の考え方だった。

星華ねえも、それにしたがって弓術の腕前を外で披露したことがないが、

その時、怪我をしてしまった女の人の代理を買って出たのは、唯一の例外だった。

 

「そう。――その怪我した人と言うのが、マサキのお姉さん」

星華ねえが、そう言ったので、僕はなんとなく事情がわかった。

あの年。

巫女装束に身を包んで白馬に乗った星華ねえは、誰もが息を飲むほどに美しかった。

その年の競技者でただ一人の全的命中、というのもみごとなものだったけど、

当時はあまり有名ではなかったここでの流鏑馬が、一気に全国区のものになったのは、

星華ねえが出たその回の盛り上がりが、あまりにもすごかったからだ。

沸き立った会場からは、これを観光資源として全国にアピールする案が生まれ、即座に可決された。

もっとも、星華ねえは、このとき以外、商工会議所の人たちにどんなに頼まれても二度と流鏑馬には出なかったので、

「下の神社」の流鏑馬は、「行ってみると、巫女さん射手は噂ほど美人じゃない」

と酷評される年が多いものになってしまったけれども。

──あれを間近で見たのなら、マサキマキが、星華ねえの熱狂的なファンだというのもわからないでもない。

僕や陽子だって、あのときの星華ねえのことを、魂を抜かれたようにして見ていたのだから。

ましてや、お姉さんの苦境を救ってくれた人なら、

同じ高校に通い始めて、同じ部活に入って追い掛け回すくらい考えてもおかしくはない。

「……困る」

星華ねえが、ぼそりと呟き、僕は苦笑した。

たしかにあんなクセがありそうな女の子に卒業後もまとわりつかれたら、それはそれで大変だ。

 

──それからは特に何があったわけでもなく、僕たちはお屋敷に着いた。

お祖父さん──僕の母と、美月ねえ達の母親のお父さん──は不在で、

その補佐をしている美月ねえも夕方まで帰ってこない予定だったし、

陽子も学校で部活──ソフトボール部の練習があったから、僕らは、ふたりでお昼ごはんを食べた。

鶏の水炊き風スープと、ヒジキと枝豆のまぜ御飯。

「――ごちそうさま」

「……おそまつさま」

箸を置くと、星華ねえが応えた。

星華ねえは、無口で、挨拶も会釈だけで済ませることもけっこう多いけど、

この手のあいさつだけは欠かさない。

小さいとき、僕たちのお祖母さんから習ったことばだからだ。

「自分の作った料理を、卑下するのはおかしい。日本語のよくないところだ」という人もいるけど、

星華ねえや僕らにとっては、そういう小難しい世界標準はどうでもいいことだった。

目の前の女(ひと)が作った料理がおいしいかどうかなんて、家族ならことばにしなくても分かる。

そんなのは、見たものを見たまま、聞いたことばを聞いたままにしか捉えられない人が気にすればいい。

星華ねえは、台所へ行ってさっさと作ってきたけど、すごく美味しい。

はっきり言って、お手伝いさんの誰が作るのよりも。

本当なら、星華ねえは志津留「本家」のお嬢様だから、そんなことをする必要はない。

でも、この女(ひと)は、一人でいるときや、美月ねえがいないときは、

家族の分の食事は極力自分で作ろうとする。

「本家」の三姉妹は、すごいお嬢様だけど、

こうしたところが逆に千年も続いた本物の旧家らしいのかもしれない。

そして、僕は三姉妹のそういうところがとても好きだった。

「……星華ねえ、あのさ……」

そんなことを思い出した僕は、こちらも食べ終えて麦茶を飲んでいる星華ねえに声を掛けた。

「さっきの話なんだけど……」

「……「お定め」のこと?」

星華ねえは、目を上げて僕を見た。

まっすぐに。

この女(ひと)は、視線もことばも常に最短距離をまっすぐに行く。

僕は、次のことばを捜すのに、ちょっと戸惑ってしまった。

「あ、うん……いや、いいんだ。後で……」

そう言ってことばを濁した僕は、逃げるようにして居間を後にした。

僕の部屋に戻る。

長期の休みのたびに帰省する僕のために、一年中用意されている「僕の部屋」だ。

小さな卓に頬杖をついて、中庭を眺める。

 

「彰。私の従兄弟。――明日から、旦那」

「……「お定め」のこと?」

 

さっき、星華ねえが、あっさりと言ったことば。

僕は、それを何度も頭の中で反芻していた。

旦那ってことは──やっぱり、僕と結婚することを言っているのだろうか。

僕はまだ十六歳で、法律上、結婚はまだ出来ないけど、

子作りは、この夏のあいだに済まさねばならないことになっている。

婆(ばば)さま──お祖父さんのお姉さん、僕にとっては大伯母さんが見て取ったことには、

志津留家が新しい当主を得なければならないタイムリミットは、もう一年を切っているらしい。

だから、僕は星華ねえとの子作りのために呼ばれたのだけど、

星華ねえが、それをあんなにあっさりと口にすることは思わなかった。

ことばも行動も直球な星華ねえらしいけど、こんなことまであんなにあからさまとは思わなかった。

僕は、ぼんやりと、星華ねえは「お定め」をどう考えているのだろうか、と不思議に思った。

 

星華ねえは、三姉妹の中で、なんというか、特別な人だ。

三人の中でも、もっとも志津留の力が強い──僕の母さん、本来、当主となる子を産むべきだった人と同じくらい――し、

小さな時から、お祖父さんやお祖母さんに連れられて、志津留の「お仕事」を手伝っていたらしい。

長女の美月ねえは、当主補佐として、志津留の表のお仕事を切り盛りしているけど、

星華ねえは、僕らが中身も知らない、志津留の真の姿を担っている。

──親戚、七篠の七支族の人たちの中には、星華ねえを「志津留のヒメ」と呼ぶ人もいる。

志津留の血脈をつなぐ、大切な人、と言う意味をこめて。

「次代の当主となる子を産むこと」は、星華ねえの仕事らしい。

それは、他のことのように、星華ねえに定められたこと。

そして、星華ねえは、それを運命として受け入れる。

まるで、志津留という途方もなく大きな機械の、一番重要な歯車のように。

 

 

「彰……起きてる?」

ふいに、ふすまの向こうから声がした。

星華ねえだ。

「あ、うん、寝てないよ」

僕は慌てて返事をした。

いつのまにか、辺りは夕焼けのオレンジ色に染まっていることに気付いてびっくりする。

「入っていい?」

「う、うん、どうぞ……」

ふすまが開き、星華ねえが入ってきた。

シャツと、タイトなGパンと、ノリの利いた白衣。

いつもと同じ星華ねえ。

でも、いつもと同じ、表情に乏しい美貌は、夕日の光線の中、はじめて見る人のようだった。

「――」

僕は、息を飲んで星華ねえを見つめた。

「……」

星華ねえは、僕の部屋をぐるっと見渡した。

聞こえるか聞こえないくらいかの、かすかな吐息が漏れる。

それが星華ねえの微笑だということを、僕は知っている。

夕日の中、見知らぬ美人が、僕の知る星華ねえに変化した事を僕は気付いた。

「……彰は、散らかし名人だな」

「……ごめんなさい」

「片付ければ、いい」

短く返事した星華ねえは、もう床に散らかった僕の荷物をしゃがみこんで片付け始めていた。

あたりに散らばる着替え類を、たたみなおして風呂敷に包む。

僕は、服をたたむのも風呂敷に包むのも苦手だ。

Tシャツを一枚引っ張り出すのに、一回あけてしまったら最後、風呂敷は絶対に包みなおせない。

というよりも、中に入れる服の容量のほうが、風呂敷の容量より絶対に多く感じられる。

だけど、星華ねえの手にかかると、僕の着替えは、随分小さくまとめられてすんなり風呂敷の中に納まった。

星華ねえは、ときどきこういう魔法を使う。

お祖母さんから習った魔法。――お裁縫とか、洗濯とかは星華ねえの得意技だ。

「――彰、……これは?」

最後の仕上げに、僕のリュックを部屋の隅に片付けていた星華姉(ねえ)が、ふとこちらを見た。

「あっ……!!」 やばい、見つかった!

──星華ねえの手にあるのは、「明るい家族計画」。

従姉妹相手に子作り、という話に、どうしても納得いかない僕が、

新幹線に乗る前に駅前の薬局でこっそり買ってきたものだ。

リュックの横側にある水筒とか傘とかを入れるスペースに押し込んどいたんだけど、

カバーのボタンが外れて、外に飛び出したらしい。

コンドームを買って、どうしようとか深く考えたわけではない。

準備と言うよりは、お守りのようなものだ。

でも、それを目にした星華ねえは、一瞬で状況を理解したようだった。

「……」

星華ねえは、いつものように無表情のままだ。

──でも、僕は金縛りにあったように身体が動かなくなった。

(星華ねえ、怒ってる……)

それも、激怒と言っていいくらいに。

他の人間にはわからないだろう。──たぶん、美月ねえと、陽子と、僕以外には。

星華ねえは、しばらく黙っていたけど、やがて口を開いた。

「――彰。これから私と子作りをするのに、なぜこんなものが必要なの?」

星華ねえの瞳が、僕を見据える。

「……あ、あの…」

僕は舌をもつらせながら、やっと声を出した。

ゆらぎのない、どこまでも真っ直ぐな視線。

それの前では、どんなことばの弁解も無意味だと言うことを、僕は知っていた。

星華ねえは、無表情のまま、<明るい家族計画>を僕に返した。

「……私は、こんなもの、要らない。彰相手のセックスで、避妊はしないし、したくもない」

断言。星華ねえが一度言い出したら、変えることは不可能だ。

「……はい」

僕はそう答えるしかない。

「今晩、待ってる」

何を待っているのか、間違えようがない言い方だった。

星華ねえは、つ、と立ち上がった。

「せ、星華ねえ、どこに──?」

「お風呂。身体を磨いてくる。何か準備が必要なことをしたいなら、言って。――何でもする」

星華ねえは、真っ直ぐ僕を見つめたままで、そう言った。

 

 

 

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