<学園祭の美少女>その2

 

 

「……うふふ。ブレザーってはじめて着ます。私が通っていたころは、まだセーラー服だったんですよ」

「……」

「今考えると、ちょっと野暮ったい感じのセーラー服だったから、こんなおしゃれなの着れてうれしいな」

「……」

「あ、でも、私、セーラー服も好きでしたわよ。いつだったかなー。

彰さんと陽子がね、お昼寝している私の制服のスカートにいたずらして、茶巾絞りにしたの。

あの時は、目を覚ましたら目の前は真っ暗だわ、上半身は窮屈で身動きが取れないわ、で大変でしたの……」

「……」

「この制服だと、ちょっと丈が短いから。茶巾絞りとかできませんわねー」

「……」

「……聞いてます? 小夜さん?」

「は、はぃい〜……」

隣を歩いている「世界一デンジャラスな若妻」のにこやかで恐ろしい質問にも、

私は、小さな声でしか答えられなかった。

全身から、汗がふき出る。

むろん、冷や汗だ。

すれ違う生徒たちが、驚いたように振りかえってよこす視線が痛い。

当然といえば、当然だ。

<にじゅうごさい>と<にじゅうろくさい>が女子高生の制服を着て歩いているのだから。

しかも、美月様は、近隣に才色兼備を知られた美貌の持ち主、

私だって……そのほどほどにイケているとは思う。

街で飲んでいるとけっこう声も掛けられるし、梅久も……待てよ、あいつは女に関して見境がない。

……い、いや、そんなことはどうでもいい。

今のところ、変装はバレてていないが、もしバレたりしたら……。

そう思うと、冷や汗はとめどなく流れてくるのだ。

で、できるだけ目立たないようにしなければ……。

美月さまは、目的を達するまで引かないことは先刻承知だ。

ならば、一目につかぬよう、可及的速やかにことを終わらせるのが現状で許された最善の手だ。

だから──

「あら、どちらさまでしょうか?」

美月さまの前に立ちふさがって声をかける三人の不良どもと、

そいつらが集めた皆の視線を前にして、私は……ブチ切れた。

 

「――よう、姉ちゃんたち、どこのクラ……」

ずん。

飛び込んでみぞおちに肘鉄一閃。標的は声もなく崩れ落ちる。

「――見たことない顔だけど……」

身を翻して、首筋に手刀。当身の要領で、意識を弾き飛ばす。

「――なっ……亜wせdrftgyふじこlp;@!?」

一歩下がった位置にいた最後のひとりが大声でわめいてしまった。

 

うるさい、黙れ。

……皆が注目するだろうがああああっっっ!!

 

掌底を顎に食らわせ、気絶させる。

白目を剥いてくずれ落ちそうになる顎をもう一発肘でかちあげたのは、苛立ちのせいだ。

浮き上がった巨体に、正中線正券四段突きを入れたのは、やりすぎだったかもしれない。

とどめに側頭部に上段右回し蹴りを入れたのも。

まあ、十分手加減はしたから、死んではないだろう。

声を上げたのが悪い。

「……」

はっと気が付くと、――その「皆」は、呆然と私たちを見ているところだった。

「……ま、参りましょうか、美月さま……」

私は振り返って、――皆が注目しているのが「私たち」ではなく、「私」一人だったことに気がついた。

……美月さまは、私が不良どもを蹴散らす、ほんの数秒の間に消えていた。

──おそらくは、彰さまを見つけたに違いない。

そういう場合、あのお方は<無敵モード>だ。

どんな手段を持ってしても止められないどころか、瞬間移動に近い芸当までやってのける。

「……」

それはともかく、皆の視線を四方八方からあびた私は、滝のようにどおっと冷や汗が吹き出るのを自覚した。

まずい、これでは化粧が落ちてしまう。

いや、今日はナチュラルメイクで、それもさきほど車の中で限界ギリギリまで落としてきたから、

これだけ冷や汗かいても、少しは持つだろう、……とか、そういう問題じゃない。

もし、変装がばれたら、一生外を歩けない。里にも帰れない。

──というか、もともと里には帰れない身だけれど、そんな恥をかいたら嫁の貰い手さえもなくなる。

……今、梅久の顔が浮かんだのはなぜだ……?

 

「……彼女、えらい別嬪さんだねー。ちょっとお茶しない?」

振り向き様の裏拳一閃。

──かわされた!?

いや、今の声は……?

「おわっと、な、何、危ないじゃんっ、彼女っ……」

下に沈みこみ、大仰に頭をかかえた男は、上目遣いで私を見て、ぽかんと口をあけた。

おそらくは、私も同じ表情だったろう。

「……さ、小夜……?」

「……う、梅久……?」

私よりも、梅久のほうが我に返るのは早かった。

しゃがんでいた状態から立ち上がる。

「な、なに、その格好。ブレザーって……女子高生って……」

「〜〜〜ッッ!!」

私は、砂煙を上げて踏み込み、逆側の足を膝蹴りで振り上げた。

「――!!!」

不意を突かれて──というより、私相手だから動きに先ほどのキレがなかっただろう。

こいつは、なぜかそういうことがある。まともにやれば、多分──私は敵わない。

梅久の股間に、私の膝が差し込まれた。

ストッキングなしの生足に、Gパン越しの体温が伝わる。

「……!!!」

「何も言うな。協力しろ。――さもないと、これを潰す……」

「――! ――!」

梅久は、爪先立ちになっているから、私が肩をがっしりと掴むともうこれ以上は逃げられない。

……安心しろ、本気で潰すつもりはない。

お前のこれを潰したら……そ、その、なんだ……わ、私だって困るからな。

郷里にはもう父も母もいないが、今でも私のことを心配してくれている伯母さまには、

生まれる子供の写真くらいは送ってやりたいし……って、そんなことはどうでもいい!!

「……要点だけを言う。美月さまが、彰さまに会いにきた。――女子高生の格好で。

大事になる前に、目的を達してもらって撤収する。お前の休暇はキャンセルだ」

こくこくと頷く梅久の手を掴んで、猛ダッシュで私は駆け出した。

とりあえずは、この場を離れないと。

あまりにも目立ちすぎた。正体がばれずに行動するのが、いっそうむずかしくなった。

まあ、いい。

その代わりに梅久が協力してくれるなら、お釣りがくる。

 

「あああああ、あのさ……」

途中引っ張られている梅久が声を掛けてきた。

「なんだ……?」

「け、けっこう似合ってるぞ、それ……」

「なっ……」

私は立ち止まった。

幸い、人影のない校舎裏まで来ていた。

「そ、それはっ……ど、どどど、どういう意味だっ……!?」

「いや、お前って何着ても美人だなーって思っただけ……」

「そ、そそそ、そんなっ……」

ま、まずい。

頭の中が沸騰している。

想定外のことばに、脳が、体が、心がパニックになっている。

一刻も早く、美月さまを見つけて、彰さまとつがいのワンセットで、

人目のつかないところに拉致しなければならないというのに。

しかし、私の魂の奥底で、この会話の続きを聞きたい私がいる。

ど、どど、どうすればいいのだ……?

「……ど、どのあたりが良いの……だ?」

意識とは別に唇が動いた。

まて、この流れだとのっぴきのならない状況に陥ることが予想されるぞ。

きょ、今日は安全な日じゃない。

しまった、万が一そうなってしまった時用のコンドームは

今日は夕食までに用意しておけばいいと思って、今は持っていないぞ。

と言うか、処女をなくすのが、こんな屋外でいいのか、私っ?

……い、いや、まあ、梅久しだいでは……。

こういうのは勢いと言うらしいしな……。

「あー。さっきのハイキックとか……」

「……え?」

「いやー。いいもの見せてもらいました。ブレザーでパンチラキックとは、

小夜もなかなかマニアックな……」

──どげしっ!

我ながら惚れ惚れするくらいの右の正拳突きがこの世で一番の愚か者の顔面にめり込む。

……はやくミッションを遂行しなければ。

梅久、いつまで死んでいる? さっさと起きろ!

 

 

「あっ! 彰っ! どこ行くのよっ!」

突然走り出した僕を見て、陽子が驚いた声をあげるが、

それはたちまちはるか後方のものとなった。

(な、なんで美月さんが……?!)

頭の中はパニック状態だけど、……僕はもう答えが分かっていた。

朝、出掛けに交わした会話とキスと「あれ」──。

熱っぽい瞳と、潤んだような表情。

最近、僕の帰りが遅くてさびしがっていた美月さん。

(美月さん、僕に会いに来たんだ)

最愛の妻の考えていることは、痛いくらいによくわかった。

くそ。

なんで、そういうのって、もっと前にわからないのかなあ。

昨日の晩とかに、それに思い当たっていたら、

今日は絶対、美月さんをさびしがらせたりしなかったのに。

こんなことをしでかす前に、美月さんをたっぷり安心させてあげたのに。

走りながら出なければ、僕は絶対に自分の頭を自分でぶん殴っていただろう。

 

階段を三段抜かしで駆け下る。

4階、3階、2階……僕の走るスピードは、

1階の最後の踊り場のあたりでは、ものすごいことになっていた。

手すりをつかんで、ぐるっと回り、最後の階段を一気に飛び降りる。

着地の音は意外に小さい。

都会っ子とはいえ、子供のころから休みになればこっちに帰省して、

野山を駆け回っていた僕は、けっこう身が軽いのだ。

階段を降りきった廊下。

右に曲がれば、昇降口だ。だが──。

「とりゃっ!」

僕は、まっすぐ突き当たりの窓が開いているのを見て取ると、

そのままジャンプしてそれをくぐった。

すぐ下にある植栽のツツジにさえ気をつければ、

中庭には、ここから飛び出るのが一番のショートカットだ。

「……」

うまく着地した僕は、あたりをきょろきょろと見渡した。

中庭には、たくさんの人たちがいた。

もう会場の時間になっていたから、父兄や近所の人たちなどが構内に入ってきているからだ。

そのうちの何人かは、窓から飛び出してきた僕を見て驚いたような表情になっている。

「……いない……」

上から見たときには確かに中庭にいた美月さんは、どこにもいなかった。

──すれちがいになったか。

あわてて渡り廊下に駆け込んで校舎の中に戻ろうとして、ひらめいた。

普通、教室に向かおうとしたら行くところは──。

息せき切って、昇降口のほうへ向かう──そこで足が止まった。

 

──薄暗い建物の中に外から差し込む陽光にさえも、艶々と輝いて見える黒い髪。

──穏やかな挙措で歩をすすめ、立ち止まっては何かを探している様子は、可憐の一言に尽きる。

──古びた下駄箱が立ち並ぶ殺風景の中で、そこだけ別世界のような──。

 

「……美月さん……」

思わず、声が漏れる。

僕に気がついたその女(ひと)が振り返った。

恥ずかしそうに、微笑む。

「えへへ……来ちゃいました」

その笑顔は、とても八歳上の人のものには思えないくらいに可愛くて、僕はごくりとツバを飲み込んだ。

ブレザー服、女子高生の格好は、どう考えたっておかしい。

美月さんは、僕よりずっと年上で、人妻で(もっとも夫は僕だけど)、しかも双子の母親だ。

でも、こんなに可憐で可愛い。

きらきらと輝く瞳に、僕は魅入られた。

「えっと……その……」

「うふふ」

どう声を掛けていいのか、わからなくて混乱している僕に、美月さんはにっこりと笑いかけた。

「……」

ことばはでなくても、すっと、気持ちが楽になる。

ああ。

この人の笑顔には、そういう力があるんだ。

「えっと……な、何してたの、美月さん?」

僕は何かを探している様子だった美月さんを不思議に思って聞いた。

「えへへ……ちょっと……」

美月さんは、なぜか、ぽっと顔を赤らめた。

「……?」

「……」

ちょっと疑問に思ったけど、それを口にする前に──。

「あーっ、だ、誰、その人っ……!?」

後ろから声がかかった。

「げっ、マサキマキっ!?」

振り向くと、さっき聖子先輩に担がれて連れ去られたはずのマサキマキがいた。

「お、お前、山奥に埋められたんじゃ……」

「勝手に人を不法投棄するんじゃないわよ! 聖子なら眠らせたわ」

「何いっ!?」

意外だ。果てしなく意外だ。

マサキマキもかなり運動神経がいいけれど、はっきりいって聖子先輩とは体力差がありすぎるはずだ。

「ふっふっふっ。化学部幽霊部員を舐めないで欲しいわね。即効性睡眠薬でイチコロよっ!」

マサキマキはあやしげな液体の入った小瓶を振って見せた。

……お前、それ犯罪だぞ。

「――と言うより、ちょっとっ!」

マサキマキは僕の手を取ると、ぐんと廊下の脇に引っ張る。

小声になって、ささやく。

「……あ、あの娘、誰よ! 紹介しなさいっ!」

「……な、なんだとっ!?」

ちらちらと美月さんを盗み見るマサキマキの眼は、獰猛な肉食獣の輝きを放っていた。

「す、すごい美人じゃないの。私の好みから言うとクールさが足りないけど、

それを補ってあり余る可憐さと清楚さ! ……知り合いなら紹介しなさいっ!」

……こいつは真性のレズだった。

「しかも、節操なしかよ!」

「な、な、なっ! わ、私は志津留先輩が本命よっ! でも……綺麗な人見るとクラクラ来ちゃう……。

ああっ、志津留先輩、こんないけない私を許してください……。

タイプは違うけど、どこか先輩に似た雰囲気なんです、あの娘……」

げっ、鋭い。

マサキマキがぞっこんな星華ねえと美月さんは、言うまでもなく姉妹だ。

性格はまるで違うように見えて、「原材料」は100%同じ二人が似ていないはずがない。

「……それに、あの娘、どこかで見たことがあるような……」

去年、マサキマキは、「下の神社」の流鏑馬に出るための練習に、志津留家の馬場に毎日通っていた。

生粋の地元っ子でもあるし、美月さんを見かけたことはあるだろう。

まずい。

美月さんの変装が見破られてしまうかも……。

僕はあせったが、その時、救いの手が差し伸べられた。

「おっ、真紀ちゃんじゃないの?」

聞き覚えのある声がして、僕とマサキマキは振り向いた。

「あ、宍戸さん……」

「げっ! ……し、宍戸さんっ!?」

二人は正反対の反応を示して、同じ名前を口にした。

「いえーす、あいあーむ!!」

ピースサインを作ってみせる、皮ジャン、Gパンの男の人は、

志津留家で働いている宍戸梅久さんだ。

何気ない様子で、宍戸さんは近寄り、マサキマキは一歩下がった。

「いやー。開場前から乗り込んだけど、やっぱいいなー、女子高はー」

「宍戸さん、ここ共学、共学……」

「あ、そうだっけ。俺、女の子しか目に入らないから。彰っちのことも見えない、見えない」

「あはは、ひどいや、宍戸さん」

宍戸さんは、志津留家の「郎党」だけど、僕にとっては馬術やその他スポーツの師匠だ。

いろいろないたずらも教わり、男の兄弟がいなかった僕と陽子は、兄貴分として慕っている。

だから、堅苦しい席でなければ、敬語は抜きで会話してくれるように頼んでいる。

ちっちゃな時は「アキラ」で、最近では、「彰っち」になったけど。

「ところで、げっ、って何よ。ひどいなー、真紀ちゃんは……」

「うっ、くっ……。い、いえ、おほほほほ……」

マサキマキは、生ぬるい笑みを貼り付けてまた一歩下がった。

ああ、馬場の管理人もしているから、マサキマキとも顔見知りなんだな。

言いながら、宍戸さんは何気ない動きで、マサキマキが下がった一歩分を無造作に詰めた。

すげえ、宍戸さん、あのマサキマキがたじたじだ。

さすがスーパー好色魔人(志津留家お手伝い女性陣からの命名)、頼もしい援護だ。

だが――。

「なあああにをしているのよっ!!」

どげしっ!

背後からの一撃!

宍戸さんはぶっ飛んで廊下の壁に貼りついた。

「――!?」

目を丸くする僕とマサキマキの前に現れたのは……。

「突然いなくなったと思ったら、こんなところでナンパしていたのねっ、こ、この浮気者っ!!」

制服姿にオーラをまとわりつかせた美女。

「……って、さ、」

小夜さん……と言いかけた僕は、ギンと睨みつけられて口ごもった。

「……って、あれ、彰さま……?」

やっぱり、宍戸さんと同じく志津留家の「郎党」をしている、双奈木小夜さんだ。

でも、なんで制服……。

「な、なんでもありませんわ、おほほ」

冷や汗をだらだら流しながら、小夜さんは、(何も聞かないでください)と目で訴えた。

よく見れば、ちょっと涙目だ。

何か、深い事情があるにちがいない。――たぶん、めちゃくちゃ恐ろしい類の。

僕は声なき声に言われたとおり、黙っていることにした。

――だけど、空気が読めない人間と言うのは存在する。

「……お姉さまと呼ばせてくださいっ!」

小夜さんに飛びついた影は――マサキマキだ。

「ちょ、な、何ですか、あなた!?」

「ファンです、今、お姉さまの大ファンになったマサキマキと申します!

ぜひ、これからお茶でもごいっしょに……!!」

「――お前、模範演武あるんじゃないんかよ……」

僕のツッコミを無視して、マサキマキは小夜さんにまとわりつく。

まあ、小夜さんは、こいつ好みのいわゆるクールビューティーな顔立ちと雰囲気の人だ。

ブレザー姿と宍戸さんへの激怒のせいで現状、すっかり台無しだけど、目を見張るほどの美人なところは変らない。

マサキマキのレーダーが反応するのは当然かもしれない。

「ちょ、ちょっと梅久、見てないで何とかしてっ……!」

「おおおー、女二人の生カラミっ! これはッ! 貴重ッ!」

「わっ、バカ! 携帯で撮るなっ!!」

……宍戸さん……。

「ってゆーか、お姉さま、宍戸さんの彼女ですかー?」

「えっ、えっ、……えええっ!?」

「やめといたほうがいいですわ! この人すごい浮気性ですよー。

すっごい美人の彼女さんがいるのに、あっちこっちに手を出して、私にも声かけるんですもん」

「えっ、やっぱり私って周りから見ても梅久の彼女に見えるの?

――って、そうじゃなくて、貴女にも声を掛けたぁ〜っ!?」

一瞬、ぱっと顔を輝かせた小夜さんは、宍戸さんの浮気問題に気がついて般若の表情になった。

「ま、まて、ちょっと落ち着け!」

宍戸さんが生命の危機を感じて後ずさる。

「だから、私とごいっしょにお茶でも、お弁当でも、しっぽりと……うっふーん」

マサキマキが小夜さんにしがみついて甘えた声を上げる。

「ちょ、ちょっと。……梅久は逃げるな!」

困惑と激怒の狭間にゆれる小夜さん。

すでに事態は収拾がつかないレベルまで飛んでいってしまった。

お釈迦様でも閻魔様でもどうにもならないだろう。

だけど――。

 

「あらあら、皆さん、仲がよろしいのですね……」

すっと、場の雰囲気が変った。

正確に言えば、その女(ひと)が歩を進めた瞬間、場の「中心」が彼女に移ったのだ。

「……」

「……」

「……」

喧騒の只中にいた三人が一瞬で沈黙する。

昇降口からあがってきた美女……いや、「美少女」の登場で。

ただの美少女じゃない、とびっきりの美少女だ。

それが、誰にも冒せない清浄な雰囲気であらわれると、

沸騰しそうだった空気が涼しげな穏やかさを取り戻す。

「……」

宍戸さんのあごがカクンと落ちた。

さすが生まれたときからの志津留家の「郎党」。変装くらいではごまかされない。

宍戸さんは、美月さんと小夜さんを交互に見ながら、何か言いたそうに口をパクパクさせた。

……まあ、無理ないよな。知っている人が見たらびっくりするどころの騒ぎじゃない。

「あっ、こ、こっちのお姉さまを忘れてた……」

マサキマキが慌てたような声をあげる。

相変わらず、空気が読めない奴だ。

「うふふ、楽しい娘に好かれたみたいね、さっちゃん」

「……さ、さ、さっちゃん?!」

突然付けられたニックネームに、小夜さんが驚きの声をあげる。

「な、な、何を……みづ……」

「みっちゃん、――でしょ?」

美月さま、といいかけた小夜さんに、唇に人差し指を当てた美月さんが先回りする。

「……」

「みっちゃん、――ね?」

穏やかなことばの強制力は、絶対的だ。

「は、はいぃ……みっちゃん……」

消え入りそうな声で、女子高生らしい呼び名を口にした小夜さん――いや、「さっちゃん」。

「じゃ、私たちはこれで。後はお任せしますわ……」

美月さんはにっこり笑って、僕の腕をとった。

くるりときびすを返して、昇降口から外へ出る。

「あ……ちょ……」

美月さんの言う「後」の内容が、自分にしがみついているマサキマキだということに気がついた小夜さんは、

慌てて声をかけようとしたようだけど、ことばを飲み込んだ。

最後にちらっと振り返ったとき、小夜さんは、ひしとしがみつくマサキマキを引き剥がそうとするのと、

その様子を嬉しそうに眺めながら周りをグルグルまわる宍戸さんをぽかすか殴るのに

ものすごいパワーを使っているところだった。

……なんとなく、小夜さんが血の涙でも流しているような気がして、僕は片手でそっと拝んだ。

 

「わあ。最近はすごいんですねえ……」

模擬店が並ぶ小運動場の区画に入ると、美月さんは感嘆の声をあげた。

たしかに、色とりどりの看板と売り子の声がかわされる模擬店は、

開場直後と言うのにかなり盛り上がっている。

「なんだか、生協の人がすっごく協力してくれてるみたいだよ」

「うふふ。黒石さん、でしょ?」

「あ、知ってるの?」

「ええ、私が在籍していたころも、ずいぶん手助けしていただいたもの」

高校にしてはめずらしく生協がある我が校の名物は、「生協の黒石さん」だ。

正体不明、年齢不詳の美女は、あらゆる場所にあらわれて学生生活をサポートする。

一説には、「黒石さん」は複数いるとも、生協が科学技術の粋を集めて生み出した

精緻な女性型アンドロイドだとも噂される。

もう十年近く、まったくかわらぬ容姿で闊歩する美女を見れば、

あながち冗談ではないかもしれない。

しかし、美月さんの時代から変らないというのは──驚きだ。

「うふふ。私のころは、学園祭じゃなくて、まだ文化祭って言っていたなー」

美月さんは懐かしそうに目を細めた。

「うん……」

美月さんが高校生のころ僕はまだ小学生で、星華ねえたちに連れて行ってもらったことがある。

美月ねえ(そのころ、まだ僕は美月さんをそう呼んでいた)は、

茶道とか華道とか、その手のものはみな免許皆伝の本職だから、色んな部からひっぱりだこで、

美月ねえが出る各部の催しものを見て回るだけで、一日がつぶれた。実に有意義に。

「ええと……どうしよう」

とりあえず、にぎやかなところに来ちゃったけど、

これからどうすればいいか、全然考えてなかった。

人目に付くところはまずい、という気もしていたけど、

きらきらとした表情であたりを見回している美月さんを見ると、そうは言い出せなかった。

かといって、友達や知り合いもいっぱい並んでいるところに美月さんを連れて行ったら、

目だってしょうがないし、あるいは、美月さんを知っている人が変装を見破ってしまうかもしれない。

僕は、これからの行動を決めかねて、模擬店コーナーの周りでうろうろした。

「……」

そんな僕を、美月さんは小首を傾げて見つめていたけど、

それから、すっと、視線を流して少し考え、またこっちを向いた。

ちょんちょんと、僕の肘の辺りをつつく。

「なに、美月さん?」

「……あれ、ほしい……」

美月さんが指差したのは、コーナーの端っこに店を出している綿あめ屋だった。

 

 

 

 

「――はい、どうぞ」

一個五十円の、ふわふわした夢の塊を二つ買ってきて、一個を渡す。

「ありがとうございます」

綿雨を手にすると、美月さんはにっこりと笑った。

童女のようなあどけない表情に、僕はどきりとする。

「うふふ。……じゃ、どこかそのへんで、ゆっくり食べましょう」

片方の手で綿あめを、もう片方の手で僕の手を引く。

校舎の裏手にちょっとした丘があって、そこは寄贈された植栽などを植えるスペースになっている。

今日みたいな日、特に皆が忙しく動き回る午前中は、誰も寄り付かない場所だ。

美月さんは、そこに僕を連れて行った。

植栽の合間、芝生の植わった場所に来ると、美月さんはそこに腰を下ろした。

「うふふ。ここ、まだ昔のまんま。――私、この場所、好きだったんです」

「あ……」

不意に、僕は、美月さんが何で綿あめを買ってくれるように頼んだのかが、分かったからだ。

美月さんが他人に対して、何かをねだることはめったにない。皆無に等しいといっていいだろう。

姉として、旧家の当主代行として、いつも美月さんは与える側の人間だった。

今、五十円の綿あめをねだったのだって、僕が人目につかないように思案しているのを悟って

あの場所を離れるきっかけを自分から作ってくれたのだ。

僕は、不意に切なくなった。

美月さんは、僕と夫婦になって、僕にうんと甘えられるようになったけど、

やっぱり僕よりも年上で、色々と気を使ってくれている。

優しくて、他人思いの美月さん。

「――ごめん……」

「……え?」

「ごめんね。いつも……」

気がつけば、僕はそんなことばを口にしていた。

でも、何が、ごめんなのか、それ以上うまく言えなくて……。

「ふふふ。――美月は幸せですよ、彰さん」

……僕を見つめてにっこりと笑った美月さんには、全部伝わっていた。

 

 

 

 

「美月さん……」

「美月は、幸せ。とっても幸せ。……私、彰さんと、こういうデートしたかったんです」

そういえば、僕は、美月さんとこうした「デート」したことはそんなに多くない。

家ではいつもいっしょに居るけど、まだ法的には正式に結婚していないこともあって、

二人でいっしょに外出することは、なんとなく控えていた。

「デート」と言うと、街で買い物したり、外で食事したり、といったイメージがあって、敷居が高かったし、

正直に言うと、大人の女性でしかも素封家の当主補佐をしている美月さんとそうしたことをするのに、

まだ学生の僕ができることには限界があるって勝手に思いこんでいたんだ。

──でも。

美月さんが望んでいたのは、雑誌に載るようなセレブなレストランやデートスポットじゃなくて……。

僕らは寄り添って、綿あめをちょっとずつかじった。

穏やかな甘さが、二人の口の中に広がって──僕らは自然と、もっと甘いキスを交わした。

「ごめんね。……これから、もっともっといっしょにデートしよう。こういう、デート」

「はい。……彰さんと二人で、御山の神社とか、馬場とかに行くだけだっていいんですよ。

私、何かをしたいんじゃないんです。……彰さんと、したいんです……」

美月さんは、頬を染めて言った。

「美月さん……」

僕は、その肩をぎゅっと抱きしめた。

「えへへ……。でも、こういう「学校でデート」というのも、してみたかったんですよ。

彰さんとは歳が離れているから、できないと思っていたけど、今日、できちゃいましたね」

美月さんは、さらに顔を赤らめながら言った。

「美月さん……」

「こうして<彰さんの恋人>になるの、私のあこがれだったんですよ……」

──僕と美月さんは八歳差だ。

美月さんが高校三年生の時、僕はまだ小学生だった。

だから、美月さんがどんなに望んでも、あの時、そういう関係にはなれなかった。

美月さんが、僕を男として好きになったきっかけになった事件の時でさえも、僕はまだ小学生だった。

「……美月さん……」

「うふふ。そんな顔、しないでください。……私、<彰さんの恋人>よりも、もっとなりたかったものがあるんですもの」

「……え?」

「――<彰さんのお嫁さん>。それには、ちゃあんとなれましたから、──美月は世界で一番幸せです」

美月さんはにっこりと微笑んだ。

──それは、今日見た美月さんの中で、一番素敵な笑顔だった。

突然、狂おしいほどの衝動に駆られ、僕は美月さんの唇を奪った。

さきほどの「恋人同士のキス」よりも、もっと激しく、深い「夫婦のキス」。

「あ……駄目です……こんな…ところでは……」

頬を真っ赤に染める美月さん。

僕は、身体の中にずうんと響く本能のまま、美月さんの手を取り、立ち上がった。

「――行こっ!」

「はい……」

こういうとき、美月さんは、「どこへ?」なんて聞かない。

手を引かれるまま、美月さんは僕についてきてくれるんだ。

 

 

 

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