<僕の夏休み> 長女:美月 その3

 

 

星華ねえの部屋は、離れにある。

もとは、お祖母ちゃんの機織(はたおり)部屋だ。

意外におばあちゃんっ子だった星華ねえは、形見分けのときも裁縫道具とかを全部受け継いだ。

さすがに機織は出来ないので機械は処分したけど、機織部屋は改造して自分の部屋にした。

お祖父さんが渡り廊下をつないで作ってくれたので、雨の日でも母屋から部屋に行くことができる。

僕は、バスタオル一丁の姿でその星華ねえの部屋に入った。

 

「……」

全面改築された内側は、もとが機織部屋とはちょっと思えない。

女の子の部屋にしては、物が少なくてちょっと殺風景だけど、なぜかほっとする。

机の上の最新パソコン(星華ねえの自作だ!)と、

お祖母ちゃんの嫁入り道具だったという桐の箪笥のアンバランスさのせいだろうか。

化学(ばけがく)一筋のバリバリ理系少女なのに、星華ねえは渋い趣味をしている。

僕は、すすめられるまま椅子に腰をかけた。

バスタオルを巻いただけの下半身が、すうすうする。

「……短パン、着る?」

落ち着かない感じの僕を見て、星華ねえが桐箪笥を指差しながら言った。

「えええっ……、い、いいよ……」

僕はふるふると首を振った。

お風呂にも入っていない裸で、星華ねえの服を着たら汚れてしまう、と思ったからだ。

「……」

星華ねえは、ちょっと考えていたけど、つ、と立ち上がって、壁にかけてある白衣を取ってきた。

「羽織って。これなら、いいでしょ」

星華ねえの白衣は、糊がぴっちりときいていて、白衣なのになんだかいい匂いがした。

「あとで、彰の部屋に行って着替えとって着てあげるから、それまでそれで我慢して……」

僕は、ひんやりとして、でもなんだか落ち着く白衣を借りることにした。

 

「……!」

「……」

「…………!!」

「……」

「………………!!!」

「……」

美月ねえとのことはものすごく言い辛かったんだけど、星華ねえが相手だと隠し事なく言うことができた。

いつも冷静で、質問も直接的な星華ねえだからかも知れない。

志津留(しづる)家のお定めの話も、避けて通ったりせずに言うことができた。

星華ねえは、最後まで話しを聞くと、

「……美月ねえは、私なんかよりもずっと不器用だから……」

と一言だけ、言った。

その意味がわからなかった僕は、聞き返そうと思ったけど、星華ねえはすぐに立ち上がって、

「彰の部屋を見てくる。――取れたら、着替えも取ってくる」

と部屋を出て行ってしまった。

 

しばらくして、星華ねえは僕のTシャツとパンツ、それにズボンを取ってきてくれた。

美月ねえは、もう僕の部屋には居ないらしい。

でも、着替えた僕は、部屋に戻る気にはなれなかった。

部屋に戻ったら、また「あの美月ねえ」に会うことになるかもしれないからだ。

あの、綺麗で、恐くて、生々しい牝の匂いがする、見知らぬ人のような美月ねえに。

 

星華ねえが、部屋の大きなソファと毛布を貸してくれたので、

僕は星華ねえの部屋で眠ることにした。

あんなことがあって、とても眠れるとは思わなかったけど、

何か考え事をしている星華ねえに話しかけることも出来ずに、ひっそりと息をこらしているうちに、

僕はいつの間にか、眠りについてしまった……。

 

翌朝。

星華ねえに肩を押されるようにして、朝食に行く。

 

──美月ねえは、いつもの美月ねえだった。

 

「おはよう、彰ちゃん、星華」

「おっ、おはようっございますっ……」

普段と何一つかわらない美月ねえの笑顔と挨拶に、僕は、慌てて返事をした。

「……」

星華ねえは、こちらも、いつものように静かに会釈をするだけの挨拶だ。

「おっはよっ! ──ん、何、どうしたの?」

遅れてきた陽子は、固まっている僕に訝しげな顔になったが、すぐに席に着いた。

そのまま普段どおりの朝食。

食事中、僕は何度も美月ねえを盗み見たけど、

美月ねえは、昨晩のことが嘘のように普通だった。

僕は、昨日のことが僕だけが見た悪い夢だったのかと思ったけれど、

そう思い込むには、その記憶は、はっきりしすぎたものだった。

「……」

星華ねえは、そんな僕をじっと見つめていたけど、何も言わなかった。

 

「ごちそうさま……」

食べたのか、食べなかったんだか、全然分からない朝食が終わった。

美月ねえが作った朝ごはんは、そりゃもう美味しいものなんだけど、

今朝だけは、味なんか全然分からない。

美月ねえと星華ねえがお膳を片付け始める。

「彰。釣りに行こう!」

陽子が、声を掛けてきた。

近所を流れる小川は、僕と陽子の釣り勝負の舞台だ。

小さな頃から双子の「兄弟」のように競い合って遊んできた僕と陽子にとって、

大きくなって男女の差が出てきた今、釣りはゲームなどと同様に体力のハンデなしに楽しめる勝負だ。

──だけど。

「……ごめん、今日はちょっと……」

僕は、陽子の誘いに首を振った。

「そっか……」

陽子は、僕の顔を見て素直にうなずいた。

普段は悪口のオンパレードだけど、赤ん坊の頃からいっしょに育った仲だ。

何かあったときはすぐにわかる。

そして、今は一人になりたい時だということも。

「ちょっと……散歩に行ってくる」

「んー。あ、そうだ。彰、土間の冷蔵庫に麦茶のペットボトル冷えてるから、持ってきなよ」

居間の脇に、廊下を挟んで土間があり、そこには冷蔵庫が置いてあった。

もちろん、お手伝いさんたちが正式な料理を作る本館の厨房や、

美月ねえが家族の分の普段の料理をする台所にもちゃんとした冷蔵庫があるんだけど、

ここにもなぜか一台、旧式の冷蔵庫があった。

土間から外に出ることもできるので、星華ねえや陽子は、

この冷蔵庫で飲み物を冷やしておいて、出掛けに持って出かけたりする。

僕はありがたく一本頂戴することにした。

なにしろ、お屋敷から出たら、バス停の辺りまでは自販機一台ない山の中だ。

「さーて、じゃ、あたしは宿題でもやりますかねぇ」

陽子は立ち上がってうーんと伸びをしながら言った。

「げっ、僕がこれから散歩に行くのに、雨を降らせるようなことを言うなよ」

──げしっ!

返事は、ほれぼれするようなチョップ──脳天唐竹割りだった。

……陽子は、<ギガント木場>が率いる<善日本プロレス>のファンだ。

絶対に女子高生の趣味じゃない……。

 

目の前でチカチカまたたくお星様と戯れている間に、陽子は自分の部屋に行ってしまったらしい。

美月ねえと星華ねえは台所で片付けをしている。

目立たぬように外に出るのにちょうどいい。

僕は土間に下りて靴を履いた。

冷蔵庫を開けて、麦茶を一本取ろうとする。

「……あれ……」

冷蔵庫の中を覗き込んだ僕の動きが止まった。

 

冷蔵庫の一番手前にあったのは、――僕のチョコレート。

昨日、僕が食べかけて放り出して、溶けかけさせてしまったやつだ。

あんなことがあって、僕は部屋を飛び出してしまったから、僕が入れたわけではない。

星華ねえが、着替えをもってきてくれた時に入れてくれたのだろうか。

……いや。

銀紙と包装紙を丁寧に包みなおしてきちんと置いてあるそれを、誰が入れたのか、僕はわかっていた。

 

(――あらあら、食べかけのチョコ、溶けちゃってるわよ。

後で冷蔵庫にしまっておくから、もう一度固まってから食べてね──)

 

昨晩の、美月ねえのことば。

──美月ねえは、あの後で、このチョコを冷蔵庫に入れておいてくれたんだ。

僕は、しばらく躊躇していたが、それを手にとってポケットにねじこんだ。

 

お屋敷を出た僕は、あてもなく歩いていった。

足を動かすと、色々なことが頭の中に浮かぶけど、

次の一歩を踏み出すとそれが消えて、別なことがとりとめなく浮かぶ。

……ふと気がつくと、僕は、いつの間にか見慣れた場所にやって来ていた。

水田の中の、あぜ道。

ため池の前。

僕は、土手に腰を下ろしてぼんやりと水面を眺めた。

ホテイアオイの、薄青の花があちらこちらに咲いている水面を。

「……」

ポケットを探ってチョコレートを取り出し、かじる。

ほろ苦さと甘みが口の中に広がった。

 

志津留家の「お定め」――。

美月ねえは、どう考えているのだろう。

従兄弟の僕と交わること、その子供を宿すことをどう考えているのだろう。

昨日の夜の美月ねえを思い出すと、わけがわからなくなってくる。

ぼくは、ぐらぐらする頭を何度も振った。

 

「――彰」

声を掛けられたとき、太陽は、もう空のてっぺんにあった。

「星華ねえ……」

YシャツとGパンに白衣を羽織った星華ねえがあぜ道に立っていた。

「やっぱり、ここだった。――屋敷に婆さまが来てる」

星華ねえは、ため池をちらっと見て、僕にそう言った。

「え……?」

婆さま、とは、お祖母さんのことではない。

お祖父さんの姉にあたる人で、僕にとっては大伯母さんだ。

だけど、みんな婆さま、と呼ぶ。

本家のほうにはめったに来ない人だけど、それがなんで──。

「――美月ねえが、結婚する。他の支族の男の人と。

婆さまが、それの手配を頼まれた……」

星華ねえはわずかに眉を寄せて言った。

「……え?」

「すぐに、婚礼が行なわれるそうだ。――この夏のうちに」

結婚するって、――美月ねえが!?

僕は、頭の中が真っ白になった。

──美月ねえは、子供を作るために、他の支族の男の人と交わるつもりだ。

僕は、足元がぐらぐらと崩れだしたようなショックを受けた。

美月ねえが、結婚する。――誰か知らない人と。

昨日、僕が美月ねえを拒んだから?

(──そんなに「お定め」とは急で、残酷なものなの?)

(──美月ねえにとって、それはそんなに重要なの?)

(──美月ねえは、相手は誰でもいいの?)

僕の頭は、混乱しきってわけがわからなくなっていた。

「……」

ぴしゃっ!

僕は、びっくりして我にかえった。

右頬に、焼け付くような痛み。

星華ねえが、僕に平手打ちをしたのだ。

 

「……落ち着いた?」

星華ねえは、呆然としている僕を真正面から見据えた。

この女(ひと)はいつもそうだ。真正面を、最短距離で進む。

「――美月ねえにとっては、相手は誰でも同じなんだ。――彰以外の男なら」

星華ねえが、僕の心の中を読んだように、ぽつりと言った。

「え……?」

「ばか……」

星華ねえは、僕をちらっと睨んだ。

それは、星華ねえの最大級の怒りと呆れの表現だ。

「美月ねえは、彰のことが好きなんだ。……「弟」じゃなく、男として」

わずかに眉をひそめたのは、言わなきゃわからないのか、という表情。

「えええっ……?」

僕は狼狽した。

美月ねえが僕を好きと言うのは、僕が美月ねえが好きだというのと同じように

姉弟、家族としての「好き」だと思っていた。

昨晩のあれにしたって、それは「お定め」のための行為であり、

そして、美月ねえにとっては──。

「でも、美月ねえは、昨日のあれで、彰に嫌われたと思いこんでいる」

「え……」

「美月ねえは、あの後、私にこう言ったんだ。

<彰ちゃんには、他の好きな娘と結ばれてほしい。「お定め」は私が守るから>

大好きな彰をあきらめる。彰が自分を拒むなら他の娘と結婚できるように、自分は「お定め」に従う。

――美月ねえはそういう人だって、彰だって知っているはずだ」

「……あ……」

僕はがくがくと震えた。

美月ねえ……。

僕は美月ねえを嫌いになんかなっていない。

ただ、いつもの美月ねえじゃない美月ねえが……知らない人のように恐かっただけだ。

僕の知らない、母と姉の中間のような神聖な存在ではなく、

綺麗で淫らで恐い、生々しい一人の女性としての美月ねえが……。

だけど、美月ねえは、よそに行ってしまう。

僕は目の前がぐるぐるとまわるのを感じた。

 

「――しっかりしろ、彰。

彰は、美月ねえをどう思っているか、もうずっと前に答えを出しているはずだ」

星華ねえは、ため池の水面を指さした。

その水面には──ホテイアオイの花がたくさん咲いている。

「……あっ……」

僕は、今までずっと忘れていたことを思い出した。

 

──あれは、美月ねえが大学に入った年だから、僕が小学五年生の夏。

 

その年の夏休みに、美月ねえは、お屋敷に「大学のお友達」を連れてきたんだ。

美月ねえは、志津留本家を継ぐ長女、しかもものすごい美人、とあって、

地元では知らない人が居ないくらいの有名人だった。

周りの人たちは、もちろん良くしてくれたけど、やっぱり近寄りがたいところもあって、

高校を出るまで美月ねえには、ずっと「家に呼べるような親しい友達」がいなかった。

「彰ちゃんや、星華や、陽子がいるからさみしくないよ」

美月ねえは、そう言って笑っていたけど、やっぱりさびしいんだということは、

僕たち三人にはわかっていた。

だから、美月ねえが県庁所在地にある大学に入って、一人暮らしをするようになり、

そこで知り合った「お友達」をはじめてお屋敷に連れてきたとき、

僕たちまでなんだか嬉しくなったのを、よく覚えている。

中学生の頃から家にいるときは和服だった美月ねえが、

お客さんに合わせて久しぶりに着ていた洋服が目新しくって、

僕と陽子は、何度も美月ねえを見に行ったのを覚えている。

 

でも、美月ねえが連れてきた二人のお友達──同じ大学の女子大生は、あんまりいい人ではなかった。

茶髪と金髪──今風の化粧と香水の匂いがぷんぷんするそのお姉さんたちは、

最初は、お屋敷のすごさや、家の中の物に興味津々の様子だったけど、

そのうちに、美月ねえに嫌味を言ったり、けなしたりするようになった。

彼女たちは彼女たちで、けっこうなお嬢様らしかったんだけど、

志津留みたいな素封家というわけではなかったらしい。

二人は、だんだんと嫉妬の感情をむき出しにして美月ねえに噛み付いていった。

 

(――こんな古臭い家なんて何の価値もないわね)

(――ここ、駅から何分かかるのよ)

(――美月って、センス悪いわね、あんまり美人じゃないし)

二人が次々に吐き出すひどいことばに、美月ねえの顔はどんどん曇っていった。

中でも美月ねえにとって一番こたえたのは、恋人の話だった。

(――美月って、恋人いるの?)

(――いるわけないよね、あなたみたいな野暮ったい子に)

(――ふうん、じゃ、男の子にプレゼントも貰ったこともないんじゃない)

(――あたしらなんか、バッグも服もみんな彼氏に買ってもらったわよ)

(――そうそう。こーゆーのって、お金じゃないよね)

(――あはは、美月は花束一つ貰ったことないんじゃないの?)

(――好きな花の花束を差し出されながら「結婚しよう」とか言われるの、

美月には、一生縁のないシチェーションかもね)

黙ってうつむく美月ねえと、調子に乗って罵詈雑言を浴びせる二人に、

「美月ねえのお友達のお姉さん」を興味津々で覗き見していた僕と陽子は憤慨した。

 

(……彰、弓とってこよう。あの二人の頭をぶち抜いてやる!)

(……陽子は左の茶髪な! 僕は右の金髪!)

怒りにわなわなと震えるお子様二人がそれを実行する前に、ことが動いたのは幸いだった。

──小学生とはいえ、オムツの頃から弓に触れて育った僕らは、

まともな弓道をやっていれば、県大会だのインターハイだののお話ではない。

……僕らが殺人犯にならずに済んだのは、星華ねえのおかげだった。

(お帰りくださいませんか、お客様。――志津留は卑しい成り上がり者を好みません)

普段の白衣姿ではなく、きっちりと和服で正装──美月ねえと同じく、どこかのお姫様のような──して出てきた

星華ねえが、絶対零度よりさらに冷たそうな瞳で睨みつけると、二人の女子大生はたじたじになった。

あいさつもそこそこに、送りの車に逃げ込んだふたりを見送ることもなく、

僕たちは美月ねえのまわりに集まった。

「……大丈夫よ、なんでもないから。――ごめんね、心配かけて」

テラスで、先ほどまで二人が座っていた椅子と、手付かずの紅茶をみつめていた美月ねえは、

僕たち三人を見ると、それを視界の外に追いやって、微笑んで謝った。

その優しい微笑の影のさびしさに気がついたのは、子供の観察力だったのかもしれない。

子供は、「母親」のことをいつも見ているから、ちょっとの様子の違いにもすぐに気がつく。

──いや、たぶん、それは、「それ以外」――「異性を見る眼」が気付かせたものだった。

 

「……陽子。――美月ねえが一番好きな花って何?」

「え? ……水芭蕉……かな? 美月ねえ、『夏の思い出』が大好きでよく歌ってるもん」

「よしっ! ため池に取りに行こう!」

「え? え? ええっ!?」

勢い良く駆け出した僕は、水芭蕉とホテイアオイの区別も付かないお馬鹿さんだった。

陽子はさすがに知っていたけど、「あの時の彰は、何か言って止められる勢いじゃなかった」そうだ。

実際、普段は往復一時間もかかる道を、僕と陽子は、池に飛び込んで花を集めるのも含めて三十分で戻ってきた

まだテラスでたたずんでいた美月ねえたちは、泥だらけの僕たちを見てびっくりした。

「はい。――美月ねえ、水芭蕉!」

大いばりで薄青の花束を差し出す僕に、星華ねえは口をぱくぱくさせていたけど、何も言わなかった。

(……無口なだけど、言いたいことはずばりと言う星華ねえを「絶句」させるのは至難の業だ)

僕が、

「美月ねえ、大好きです。――結婚してください!!」

と言ったから。

「……彰ちゃん……」

「――ほら、あのお姉さんたちが言ったことはウソだよね。

僕がこうして花束持って「結婚してください」って言ったんだもん!」

「……彰ちゃん……」

「だから、あのお姉さんたちの言ったこと、他も全部ウソだよ!

美月ねえは美人だし、野暮ったくなんかないし、お屋敷も古臭くなんかないし、

彼氏だって、お婿さんだって、すぐに見つかるよ!!」

「――彰ちゃん」

顔を真っ赤にして言い立てる僕を、美月ねえはぎゅっと抱きしめた。

 

──その抱擁は、それまでの何百回も経験した美月ねえの抱擁とはどこか違っていた。

「嬉しい……」

その違いがどこにあるのか、わからないまま、僕は美月ねえに抱きしめられ続けた。

甘くていい匂いのする美月ねえ。

その美月ねえが、ためらいがちにささやいた一言──。

「――彰ちゃん……いつか、……私のお婿さんになってくれる?」

「うんっ!!」

何も考えず、間髪いれずに、答えた一言。

でも、それは、美月ねえにとって大事な約束だったんだ。――そして僕にとっても。

 

「……あれからずっと、美月ねえにとって「特別な男性」は、彰だったんだ……」

ああ、それを僕は全然わかっていなかった。

美月ねえは、「長女だから」って、志津留の家を一人で背負い込んじゃう人だ。

親戚や、お手伝いさんや、まわりの人が思うような「志津留の跡取り娘」であろうとしている。

星華ねえや、陽子や、僕にさえも、自分を抑えて接してしまう。

でも、それは永遠に続くものではない。

昨日の晩に見せた、あの美月ねえ──。

あれを受け入れてくれる人が、美月ねえには、きっと必要なんだ。

……そして、それをするべき人間は──。

僕は、靴と靴下をまとめて脱いだ。

何をすればいいのかは分かっていた。

僕は、ため池の中にじゃぶじゃぶと分け入っていった。

夏場で水の量も少ないため池は、端のあたりは、そんなに深くない。

あの時も、こういう風にして集めたんだ──ホテイアオイの薄青い花を。

「……」

星華ねえが、無言で集めた花を持っていた糸で(星華ねえは、裁縫道具をいつも身につけている)束ねてくれた。

僕は、靴を履きなおすのももどかしく、その花束を持って駆け出した。

 

「――美月ねえっ!!」

息せき切って飛び込んできた僕に、美月ねえはびっくりして振り返った。

あの時は、ため池から戻るのに、全力で走っても十分以上かかった。

でも、今日は五分もかかってない──五年間で、僕はそれだけ大きくなっていた。

だから、あの時と同じことばも、全然ちがった意味と覚悟で言える。

「――美月ねえ……大好きです、結婚してくださいっ!!」

「あ…きら…ちゃん……」

美月ねえは、口元に手を当てて、眼を大きく見開いた。

 

「――他の男の人と結婚しちゃ、嫌だっ! 僕のお嫁さんになってくださいっ!」

「彰ちゃん……」

「――僕の、僕の赤ちゃんを産んでくださいっ!!」

「……彰ちゃんっ……!!」

美月ねえの瞳がたちまち潤んで、すっと、涙が流れる。

……でも、美月ねえは、涙を流したまま、微笑んでうなずいてくれた。

僕ががくがくと震えながら差し出した花束を受け取る。

「ありがとう……この花、あの日から、私が世界で一番好きな花なのよ。

水芭蕉よりもずっとずっと……。いつか、彰ちゃんがもう一度この花束もって、

今のことばを言ってくれるのを、ずっと夢見てたの……」

もう一度泣きそうな笑顔を浮かべた美月ねえは、これも僕が「今まで見たことがない」美月ねえだった。

でも、僕は、その美月ねえも──大好きになった。

僕は、美月ねえをぎゅっと抱きしめた。

あの日とは逆に、僕のほうから。

そして唇を重ねて──僕たちは口付けを交わした。

 

 

 

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