<守宮さん>・上

 

 

「今度のバレンタイン、どうするー?」

「……うーん、エレナよりも、エリザベータ母様萌え!」

「それはバレスタイン!! しかもリメイク!」

「漢なら、魔道士=倉庫番オンリーよ! あとで大物らしく復活しない!」

「わ、私、男じゃないし……」

「――まかせて! 国産とゴヂバの二刀流で200万カロリー!

普段の倍の砂糖で400万カロリー!

さらに普段の3倍の生クリームを加えれば、

あの乳牛女のミルクチョコレートを上回る1200万カロリーよ!」

「それは、どこの登山用非常食ですか?」

「愛は熱量に比例するのよ!」

「いや、そのりくつはおかしい」

 

……うるさい。

きゃいきゃいと盛り上がる女子部員たちの声に、僕は眉をしかめた。

昨日から熱があるせいなのか、女の子の高い声が、いつに増して耳障りに感じる。

必須でなければ、こんな部活、とっくに辞めているところだが、

あいにく、何かしらの倶楽部活動に参加していなければならない決まりになっている。

将来的にはその校則は撤廃されるかも知れない、と入学時に説明されていたが、

建校後数年は、その方針でいくつもりだ、とも聞かされている。

つまり、僕の卒業までは、ずっと強制加入ということだ。

この学校のそもそもの目的が「生徒同士が仲良くなること」というふざけたものである以上、

仕方ないといえば仕方ないことではあるが、かなり煩わしい。

「本職」に役に立つかと思い、「お料理倶楽部」に入ったことを、僕は本格的に後悔し始めていた。

 

「──ね、ね! 森田(もりた)はさぁ、どんなチョコ食べたい?」

不意に声をかけられ、僕はさらに眉をしかめて振り返った。

そこに立っているのは、僕の同学年の女の子ふたり。

「何が?」

僕は、自分でも分かるくらい不機嫌な声で応じた。

声をかけてきたうるさいほうは、井守美優(いもり・みゆ)。

黒髪のおかっぱで、いかにも活発そうだ。

隣のおとなしそうなほうは、守宮真由(やもり・まゆ)。

こちらは白灰色の髪のおかっぱで、物静かな感じ。

顔立ちも、髪形も、スタイルも、とてもよく似ているこの二人が、

実は全然血縁関係がないことを聞かされたとき、びっくりしたことを覚えている。

姉妹はおろか、双子と言われても頷いてしまうくらいに、二人はそっくりなのだが。

髪の毛と同色の、同じくらいの長さの尻尾を持っているところまで瓜二つなのに。

──そう。彼女たちは、「尻尾持ち」。

僕とは違う種族、<獣人>。

 

ここは、<学園>、<獣人特区>。

僕の通う学校――獣人と人間の若者が<共学>する市立学園を中心にして、

人と獣人が共生するモデルタウンとして、今まさに作られはじめた街。

宇宙に飛び出して「進化の壁」にぶち当たった人間は、

はるか昔に捨て去ったはずの「獣の因子」を持つ自分たちの亜種に大きな可能性を見出した。

宇宙開発が頓挫した世界政府は、世界中に隠れていた獣人を保護し、集結させ、

次世代の<超人類>が外宇宙への壁を打ち破ることを目指して<特区>計画に着手した。

<学園>は、その中心的存在になるべく作られたものだ。

「ここは世界で一番大切なゆりかごになる」

僕を面接した教師は、そう言って胸を張ったけど、

今はまだ、広大な敷地の中央に校舎がひとつ、ぽつんと建っているだけ。

まだ生徒数も少なく、教師とスタッフの数のほうが何倍も多いくらいだ。

世界政府が全力を上げて保護に動いたとはいえ、

それまで迫害され、隠れ住んでいた獣人たちは容易に警戒心を解かない。

そして、獣人と共同生活を送ろうとする純血種の人間も、まだそれほど多くない。

もっとも、だからこそ、僕のようなそれほど成績のよくない子でも

奨学金を貰って入学することができたのだろうが。

 

「食べたくないな。洋菓子は苦手なんだ」

口の中の苦味を吐き捨てるような口調で返事をする。

今日は体調が悪いことも手伝って、かなりイラついているのが自分でも分かった。

僕の声はよっぽど尖っていたのだろう、井守は、むっとした表情になった。

「ちょっとお! せっかく作ってやろうと思ったのに!」

「余計なお世話だ」

「このっ!!」

「美優ちゃん……」

いきりたつ黒おかっぱの袖を、白おかっぱが止める。

「真由! あんただって!」

「……いいから……」

守宮は、ぺこりと頭を下げると、

まだ言い足りなさそうにしている井守を引っ張るようにして離れた。

「なんだ、あいつら……」

僕は、ため息をつくと、自分の課題(と言っても自主的なものだけど)のほうに向き直った。

昆布と追い鰹のだし汁。

昨日は納得いかなかった味。

曽祖父が残した「森田ノオト」に載っているのは、材料の比率のみ。

温度とタイミングは、身体で覚えるしかない。

誰もが作れるだしなら、目をつぶったってできる。

でも、それでは、あの店の味は出せない。だから──。

僕は、鰹節を引き上げ、だし汁を小皿に取り味見をする。

「――」

……失敗。舌から伝わるのは、ただの、うまいだし汁。

ただの、一流料亭の味。

それじゃ、だめだ。「あの店」は、そのはるか上の高みにある。

「くそっ!」

僕は、鍋のだし汁を流し台に乱暴にぶちまけた。

おびえたようにこっちを見る倶楽部の面子を無視した僕は、

その時ちょうど鳴ったチャイムの音で、自分の拘束時間が終わったことを知った。

 

(今日は体調が悪いんだ。舌も鈍っているにちがいない……いや……)

そう慰めようとして、終わらぬうちにそれを否定する。

今日の失敗の原因がそれだけではないのは、自分でよくわかっていた。

結局は、腕の問題だ。

曽祖父の技術に、僕は遠く及ばない。

その苛立ちが心を乱し、さらに技術を鈍らせる。

僕は未熟だ。

……腹立ち紛れにクラスメイトに当たってしまうくらいに。

先ほどのことを思い出して、僕は顔をしかめた。

ただでさえ風邪で苦い口の中が、さらに苦く感じる。

「……あとで、謝っとかなきゃな……」

小さくつぶやいたその時に、

「もっりたぁー! いっしょに帰ろーぜー!」

その相手から、大声で呼びかけられた。

井守が、満面の笑顔でこっちに手を振っていた。

守宮もいっしょだ。

さっきのやりとりを忘れたように屈託のない表情の黒おかっぱに、

僕は謝るタイミングを完全に失い、ため息をついた。

 

校舎から、校門までの距離は長い。

敷地内通学バスと、半分が完成している「動く歩道」

(これを「歩く歩道」と勘違いして覚えている生徒も多い)を使っても、

<学園>の敷地外に出るのには相当時間がかかる。

そのおかげで、僕はよくしゃべる黒おかっぱの話を何十分も聞かされる羽目になった。

ぼんやりと聞き流しながら、僕は、僕の前を並んで歩く、

このクラスもクラブも同じ二人をしげしげと眺めていた。

 

髪の毛や、瞳や、肌の色を除けば、双子のようにそっくりな二人は、

その「色」と同じくらい、性格も性質も違う。

井守は、活発で物怖じしない性格で、陽気で馬鹿だ。

時々自分が女だって言うことを忘れてるんじゃないか、と思うくらいに。

とりあえず、自分が普段穿いているのがミニスカートと言うことを、

いつも忘れているのはまちがいない。

守宮は、その逆だ。

自分からしゃべることもあまりないし、人見知りして臆病なのか、

井守以外の子といっしょにいるのも見たことがない。

その代わり、クラブでは僕に次ぐくらいの腕前で、

細々としたことにもよく気がつく。

服装だって、今着ているブレザーよりも、学園祭のときに着ていた

和服のほうがずっと良く似合う、大人しい子だ。

二人がいっしょにいるのは、なんとなく不思議な気がするし、

あるいは、逆にものすごく自然なコンビのような気がする。

「……」

二人を後ろから見詰めていると、片方が不意に振り向いたので、

僕はどきりとした。

「そうそう、森田ってさー、最初、真由のことを「もりみや」って呼んでたんだよなー」

井守が入学式直後の思い出話を振ってきた。

「……そ、それは……」

十ヶ月も前のことを、いつまでもうるさい。

たしかに「守宮」という字を読めなかったのは、僕の不覚だったが。

「あまり馴染みのない漢字ですから……」

守宮が小さな声でフォローしてくれた。

「……日本人のくせに、日本の苗字が読めないのは恥ずかしく思わんかね? うり、うり」

井守が僕の肘を突っつきながら追及する。

「うるさいな……」

いらつきながら、僕は、彼女たちもまたこの国で生まれた獣人であることを思い出した。

 

──<特区>と<学園>の建設に当たって、

最初、その候補地は、世界中から上がった。

あまたの候補地が淘汰されて最後に残ったのは四つ。

エジプト、ギリシア、アマゾン、そしてここ、日本。

いずれも、獣人がかつて神や悪魔や怪物として、人と共存していた神話を持つ場所。

その中で、最終的にこの国が選ばれたのは、いくつも理由がある。

 

ひとつ。

その地の純血種の中に神話時代の面影を残すこと。

ナイルのほとりでかつて獣人たちと親しく交わった民族は、実はもうほとんど残っていない。

侵略と民族移動が、ピラミッドを作った民族とそのDNAをその地から追った。

だが、極東の島国は、稲穂の陰で獣の神と交わった血をほとんど失わずに温存していた。

 

ふたつ。

獣人そのものが多く残っていること。

石の神殿だけが残る乾いたオリーブの地は、獣人を神話の中の乾いた存在として記録した。

世界中に広まった宗教や学問信仰、あるいは哲学の多くは、彼らを風化させようと必死になっていたが、

八百万の神々は、豊潤な土と水と思考の中でこっそりと獣人たちをかくまい続けていた。

 

みっつ。

純血種と獣人が極限まで争う歴史を持たなかったこと。

強い太陽と深い闇が支配するジャングルは、人間と獣が命をかけて争う戦場であり続け、

さらに植民地として搾取された時代の厳しい自然破壊が、純血種と獣人の双方に争いの記憶を刻みつけた。

だが、世界の果て島の穏やかな自然は、両者の全面闘争を回避させ続けた。

 

だが、<特区>がこの国に作られた最大の理由は、別にある。

この国の獣人たちが、純血種に対して非常に好意的であったということ。

つまり、性的に。

それは、この国の純血種がとりわけ助平で、

自分たちとの亜種との交歓を嫌うどころか、好んでいたということに他ならない。

 

異種交歓の神話は、世界中にある。

だが、この国の純血種ほどそれを好んだ民族はいないし、

それを受け入れた獣人もいない。

そもそもこの国を作った八百万の神々からにして、

人間や獣はおろか、無機物や霊体とまで交わって子孫繁栄するような助平で節操のない連中だったし、

平安からこっち、そういう連中の末裔を統べているという一族もそうだった。

この国の人間は、世界で一番セックス頻度が少ない、と言われた時代もあるが、

それは、文明の発達によって獣人たちが身を隠すようになり、

自分たちの亜種との交わりを好む性癖の民族が、

純血種同士のセックスに飽いてしまったせいだった。

本来、猛獣も少なく、農産物の収穫量も多かった極東の島国に住む人間は、

性の豊穣さの旨味も、異種交接の甘味もよく知っていたのだ。

 

電脳の聖都(デジタル・エルサレム)で

ネコ耳と尻尾を付けさせたモニターの中の女の子に夢中になっていた人間が、

本物の獣耳と尻尾が生えた女の子を目の前にして、生理的な嫌悪を抱くだろうか?

しかもその女の子たちが、実は前人未到の秘境に住んでいたのではなく、

昨日まで、純血種のふりをして共生していた隣の子だったら?

 

……「純血種」からの呼びかけに対して

半信半疑ながらもノコノコと素直に巣穴から出てきた「最初の呑気な獣人たち」は、

「隣のニンゲン」と仲良く共存した先祖の<因子>と記憶を持つ、

極東の島国の、犬やら、猫やら、タヌキやら、キツネやらの獣人たちだった。

 

そして、突然表の世界に現れた彼らを、大多数の戸惑いや嫌悪をものともせずに

真っ先に受け入れようとした「最初の呑気な純血種ども」も、

「隣のモノノケ」たちと仲良く共存した神様と記憶を持つ、同じ島国の住人の中から現れた。

 

だからこそ、<学園>と<特区>はこの地に作られ、

その「最初の子供たち」のメンバーは、日本の獣人と純血種が大多数を占めたのだ。

そして、アカハライモリの<因子>を持つ井守と、

ニホンヤモリの<因子>を持つ守宮も、

獣人と名乗ることなく純血種の社会で暮らしていて、

<特区>の発表と同時に、正体をさらした純国産の獣人だった。

 

「……」

僕は、突然襲っためまいに<動く歩道>の手すりに手をかけて体重を支えた。

「……森田君?」

「なんでもない。ただの風邪だ」

守宮の声が少し遠くに聞こえたが、すぐに戻った。

一昨日から続いている熱が少し上がったようだ。

「熱か?」

「うるさいな、どうでもいいだろ」

井守の質問に反発しかけ、不意に、先ほど謝らなくちゃ、と考えていたことを思い出す。

「……」

息を吸い込んで、ちょっと覚悟を決める。

「ど、どうしました?」

心配そうに下から見上げる守宮と、口を尖らせて何か反論しようとしている井守に向かって、

「その……きょ、今日は、わ、悪かったな」

と、僕は声をかけた。

「……へ、何が?」

井守がぽかんと口を空けた。

「い、いや。さっきのチョコの件」

「……あ……」

守宮のほうは、気が付いたらしく、小さく声を上げる。

「んんー?」

黒おかっぱが、白おかっぱを見詰め、首をかしげる。

説明するのも面倒だ。

自分が焦って、しかも慌てているのが忌々しいほどに自覚できる。

くそっ、何か、言わなきゃ。

二人が、返事をする前に、何か。

「――お詫びにメシでも、奢ってやるよ」

……気が付けば、そんなことを口走っていた。

やっぱり、熱が高いのかもしれない。

 

「え……?」

「……へ?」

守宮と、井守は、対照的な声で、同じような反応を取った。

「ああ、いや、別にどこか店に行くわけじゃないよ。

なんか美味い物、作ってやる」

<学園>から出ている奨学金は、外食できないほど少なくはないが、

僕は色々と「本業」につぎ込んでいるので、3人分出すのはちょっとキツい。

それに、誰かに試食をさせるのも立派な修行だ。

我ながら、うまい考えだと思った瞬間、井守が予想外の反応を示した。

「……それってさぁ、森田ん家(ち)でって、こと?」

「え……」

確かに、家で何か作ってやる、と言うのは、僕のアパートに来い、と言うことだ。

「あ……」

「尻尾持ち」とはいえ、二人は立派な女の子だ。

彼氏でもない男が言うには、軽率なことばだっただろうか。

「……」

「……」

守宮と井守は、顔を見合わせた。

「んー」

小首をかしげて考えていたが、黒おかっぱのほうが早く返事をした。

「あたし、今日は用事あるから、ぱーす」

「あ、……うん」

当たり障りない返答に、なんとなく、ほっとしたのもつかの間、

イモリ娘は、隣の白おかっぱを突っついた。

「真由は、行ってきなよ。

<お料理倶楽部>きっての腕利きさんに、なんか美味しいものごちそうしてもらいな」

「え……?!」

意外な一言に、びっくりする。

「……うん」

そして、さらに意外なことに、守宮は、こくんと素直に頷いた。

 

                                     

*  *  *  *  *  *  *

 

 

「ここが、森田君のお家……」

「あ、ああ、狭いだろ」

「そんなこと、ないです」

僕の下宿は、<学園>の川向こうの民家だった。

持ち主が引越して空き家にしたのを<特区>が買い上げ、

<学園>関係者に貸してくれている家のひとつだ。

「台所だけ、ちゃんとしている所を選んだんだ。他の部屋はひどいもんさ」

確かに、<学園割引>が使える下宿の中では、

古い平屋のここは、水周りだけはしっかりとリフォームしている。

それが、僕が<学園>からかなり離れたこの家を借りた理由だった。

カギを取り出してドアを開け、

振り返って守宮を上がらせようとして、僕は息を飲んだ。

昼下がりの柔らかな日差しに、白灰色の髪が透けるように輝いている。

 

──<純血種>でも、その色の髪の毛の人はいる。

だけど、守宮のそれは、あきらかに<純血種>とはちがう色と輝きを持っていた。

遺伝子までもが違わなければ、決してならないその髪の毛が、風に揺れる。

綺麗な、とても綺麗な何かを見た僕は、ただ、ただ、立ち尽くした。

 

「どうしました?」

小さな、大人しい、声。

はっと我に返る。

「い、いや、なんでもない。ま、まあ上がってくれ」

玄関から、居間へ。

毎日見慣れた廊下を、白いおかっぱが通る。

それだけで、そこは別世界のように感じられた。

 

はじめて、女の子を自分の部屋に上げた。

故郷の家でもなかったことだ。

片付けてある、というか、そもそも物があまりないとはいえ、

なんとなく気恥ずかしい。

守宮は、きちんと正座をしている。

僕も正座には自信があるけど、守宮の背筋がすっと通った姿には、

なんとなく敵わないものを感じた。

沈黙。

ぶくぶくと、小さな音だけが聞こえる。

「……水槽、ですか?」

守宮が、縁側のほうを見ながら言った。

「あ、ああ、蟹、飼ってるんだ」

「カニさん?」

「うん……」

晴れた日は縁側に運んでいる水槽の中には、金色の綺麗な蟹がいる。

ここに引っ越してきた初日に買ってきた、

僕にとって、苦い思い出と自戒の意味のある蟹。

市場で買ってきたときは、まだ小さかったが、

一年近く経った今では、脱皮も繰り返してかなり大きくなっている。

守宮は、優雅な動作で振り返ってでそれを確認し、

それから、小さくうなずいてこちらに向き直った。

どきり、とした。

風邪の熱じゃない赤味が頬を染めるのを自覚した。

見慣れたクラスメイトは、とんでもない美少女だった。

抜けるような白い肌と異国めいた髪。

でも、それは、どこまでもこの島国にいるべき少女で、

きっと、それは、「純血種」の身近にいたのだろう。

彼女に<因子>を与えた、小さな爬虫類と同様に。

 

「お、お茶淹れてくる」

二度目の沈黙に耐えられなくなったとき、思いついた良い方法。

「あ、私、淹れます」

腰を浮かしかけるクラスメイトを、

「守宮、客だから」

あわてて押し留める。

「そうですか」

また正座に戻った守宮に、ほっとする。

 

お茶を淹れる。

その間に、頭の中が少し整理できた。

そうだった。

僕は、チョコレートの件でこの娘にお詫びするんだった。

料理を作って。

時計を見る。

四時半。

手早く、簡単なものを作って五時ちょっと過ぎか。

夕飯には早いが、軽めにすればちょうどいいだろう。

お茶を出して、守宮に聞く。

「あー、普通の和食で、いいかな?」

咳払いをしようとして、本当に咳き込んだ。

「あ……大丈夫、ですか?」

白い髪の女生徒は、慌てて立ち上がろうとした。

「大丈夫だ、座ってろよ」

手で制して、僕は、小型冷蔵庫から材料を取り出した。

ご飯にはこだわりたかったけど、そこまでの時間の余裕はない。

(雑炊と、魚と、あとは……)

冷や飯を取り出しながら、僕は献立を考え始めた。

 

熱はあったが、身体はいつもどおりに動いた。

味見をする舌も、鈍ってはいない。

なにより、包丁がうまく動いていることが、僕の気分を良くさせた。

「料理人は、軽い病気くらいじゃ腕は鈍らないんだ」

曽祖父のことばが胸に響く。

そのことばを、傍流の僕は直接聞いたことはない。

曽祖父が、直系の誰かに、あるいはインタビュアーの誰かに語ったことばを

本の中で知っただけだ。

あるいは、父が取りまとめた「ノオト」の中だったろうか。

だけど、僕は、直系の誰よりも、

そうした曽祖父のことばの意味を理解していると自負していた。

耳に、肉声として感じるくらいに。

今だって、それは、僕の耳に──。

「森田君は、板前さんになりたいのですか?」

……不意に問いかけられた、小さな、大人しい声に、それはかき消された。

「……」

「あ、ごめんなさい。お料理倶楽部でも、いつも真剣にしているから……」

とっさに答えられずにいると、守宮は、すまなそうに身を縮めた。

「いや……別に……」

反射的にそう答えて、それが、言いたかったことの逆の意味に感じられることに慌てる。

「あ、いや、料理人にはなるつもりだよ。別にって言ったのは……」

謝らなくてもいい、と言おうとして、その説明が難しいことにため息をつく。

ことばを捜すのは、温度の上がった頭ではさらに難しい。

諦めた僕は、またまな板に向かった。

「わあ……すごい……」

包丁を振るいはじめると、守宮が感嘆の声を上げた。

僕の調理技術は、たぶん、もう、「普通のプロの板前」と同じくらいのレベルにあるだろう。

「本家」の従兄弟たちと違って、曽祖父に直接見てもらうことはなかったけど、

そのかわり、まわりにちやほやされていた彼らよりも、ずっと修練を積み重ねた自信がある。

そうとも。

僕が、「あの店」を復活させるんだ。

この腕で。

地に落ちた、曽祖父の店を。

──名店「御転婆・ァ千代(おてんば・ぎんちよ)」を。

 

 

開店初日、客が誰一人入らなかったという一軒の料亭は、

その後、偉大なる料理人であった曽祖父の努力と手腕で、

世界の要人が日本料理を食する場になった。

薙刀の名手で、婿養子の名将を尻に敷いたという女丈夫の名を関した料亭は、

「一見さんは五万円持って来れば、お店に入れてあげなくもないけど、

別に貴方のために作るわけじゃないからね! 

常連さんの分作りすぎちゃったから、たまたま食べさせてあげるだけよ!」

という、「ツンデレ懐石」のスタイルを作り上げた。

客を客とも思わぬ「新しい和のもてなし」は一世を風靡し、

その栄光は半世紀以上も続き、ある日突然、地に落ちた。

 

──食品偽装。

当時は聞きなれない、今では誰でも知っているその単語は、

まさに僕の「ァ千代」から有名になった。

 

──黄金蟹(ゴールド・キャンサー)の偽装。

姿かたちは似ているが味も品質も雲泥の差がある<デスマスク>種のものを、

最高級品の<マニゴルド>種と偽って料亭のコース料理に出した。

 

──三河牛の偽装。

最高級三河牛、<権左衛門牛>の味噌漬けの中に

静岡舟木産の兵馬、数馬(通称・ぬふう馬)の馬肉を混ぜて偽装、贈答用として販売した。

 

──社長会見と謝罪の偽装。

謝罪会見に現れた社長が、謝罪を口パクで行う前代未聞の「腹話術会見」を敢行。

「社長も反省内容も、すべて偽装」と非難の嵐を浴びた。

 

暴かれた偽装と欺瞞は数え切れず、逆切れと言い訳は国民の反感と怒りと失笑を買い、

「日本で最も有名な高級料亭の一つ」は、あっけなく閉店した。

曽祖父の志を失い、金だけでつながっていた本家の連中は離散し、

今は一人、傍流の裔(すえ)の僕だけが再建を目指している。

 

 

「……」

注意力が散漫になっていた。

あわてて手元を見る。

雑炊と、焚き合わせと、卵焼き。

一食分が完成していた。

手は無意識でもちゃんと動いていたらしい。

「ん……」

椀によそり、客のほうを振り向いた。

守宮は、目を真ん丸くしてこちらを見入っていた。

「あ……」

視線が合うと、守宮は真っ赤になって目をそらした。

「……どうした、守宮?」

「なんでもありません……」

「そ、そうか」

なぜか僕までどぎまぎする。

慌てて無表情を作ると、僕は、膳を出した。

 

「一人分だけなんですか?」

僕の前に何もないのを見て、守宮は、訝しげな表情になった。

「ああ、僕はあまり腹がすいてない」

「お昼も、食べてないのでは……?」

「なんとなく食いたくないんだ。あ、守宮は気にせず食ってくれ」

「でも……」

「雑炊は二人分作ってある。僕は後で食うさ」

風邪っ引きで料理を作るなんて、考えたらかなり失礼だ。

今頃そんなことに気が付き、僕は慌ててそっぽを向いた。

「そうですか」

守宮は、小さく頷いて箸を手に取った。

 

「美味しい……」

お世辞だろうか、ちょっと不安になって僕は守宮のほうを窺った。

獣人の少女の表情に嘘はないようだ。

ほっとして、肩の力を抜く。

守宮は、静かな挙措で膳を片付けて行く。

正座姿だけでなく、箸使いも、食事の作法も、

僕が見ても惚れ惚れするくらいに正しく品のあるものだった。

「意外だな……」

ごちそうさまでした、と軽く頭を下げた白いおかっぱ頭に、僕は思わずつぶやいていた。

「え……?」

守宮が、聞き返す。

「あ、いや。すごく日本人らしいなって……」

「それは、……日本人ですから」

守宮は、小さな声で答えた。

「あ……」

異国めいた色の髪を見て忘れていたが、守宮は、純粋な「日本人」だ。

たとえ、<獣人>であっても。

「すまん……」

「いえ、いいんです」

守宮は微笑んだ。

「私の髪の毛や尻尾、気になりますか?」

「……気にならないといったら、嘘になるだろうね」

素直な問い。

僕は素直に答えるしかない。

<特区>の創設で集まった<獣人>たちは、

もともと様々な<擬態>方法で人間社会に溶け込んでいた人たちだ。

守宮も、中学生までは、髪の毛を黒く染め、尻尾を隠して生きていた。

<特区>と<学園>が誕生したとき、彼女は、はじめてその正体を

家族以外の人間に晒したのだ。

 

「――私は、アルビノ、ということでお医者さんの診断書を貰っていました。

尻尾を隠すのは少し難しかったのですが……」

「……」

「でも髪の毛は染めていました。色々と好奇の視線に晒されるのはいやだったし、

それに、本当の<純血種>のアルビノの人とも、ちょっと違う色だったから……」

「……そう、だね……」

いつの間にか、僕と守宮は、そんなことを話していた。

守宮は、静かな声で、自分の半生を語る。

うまく<擬態>し続けた一族は、ひどい虐待も厳しい差別もなく暮らしていた。

幸いなことに、それは、この国の獣人には珍しくないことのようだった。

でも、守宮の声の中に、さびしいものを僕は感じ取った。

それは、きっと……。

「守宮は、さ。どうして<学園>に来たの?

今までどおり、<純血種>として暮らして行くこともできたはずだよ」

<特区>計画は、世界政府が全力を上げたプロジェクトだ。

世界中の要人が表、裏問わずに協力しているという。

だけど、反対勢力は確かに存在していたし、

まだまだ世間は自分たちの亜種の「出現」で受けたショックから立ち直れずにいて、

幼稚な差別と反発は終わっていなかった。

「……<獣人>として、生きたかったから、です」

自分でも、急すぎると思った問いを、

守宮は、まるで予想していたかのように自然に答えた。

「私の、お父さん、お母さん。お祖父さんや、お祖母さん。

もっともっと前の世代のご先祖さまたち……。

みんながみんな、私に生命(いのち)をつないでくれて、

その生命は、ヤモリの<獣人>の生命なのです。

だから、状況が許された今、私は、<獣人>として生きたいのです」

静かに語るクラスメイトの答えは、僕が想像していた通りのものだった。

 

「生命か……」

わかる、とはいえなかったけど、わかるような気がした。

僕にとって、それは、曽祖父の<ァ千代>だった。

あれを、あの店を受け継いで行くこと、つないでいくことが、

僕の生命のように思う。

守宮の決意に比べれば、なんとも小さなものに思えたけど。

「そんなこと、ありません。立派です」

白いおかっぱ頭が静かに振られ、僕は慌てた。

どうやら、今まで誰にも言わなかった決心まで、

僕は守宮に喋っていたようだった。

熱に浮かされたように──実際熱があったけど──僕は色々と喋っていたらしい。

自分の青さを見せてしまった恥ずかしさに、僕は真っ赤になった。

「……」

「……」

それきり、二人はまた口を閉ざした。

……ごぼり。

三度目の沈黙を、水泡の音が破る。

「あ……」

「蟹だ……」

水槽の中の、僕の蟹。

僕の決意。宝物。

「み、見る?」

「え……あ、はい」

なんとなく、緊張しながら僕は水槽を持ち上げた。

「あ……」

金色の蟹が、隠れ家の植木鉢の下からのそのそと這い出る。

「いいだろ、マニゴルド蟹だぜ……」

それは、「ァ千代」を倒産に追いやった偽装の最初のものだった。

 

奨学金目当てに<学園>に入学した日。

僕は、近くにある市場に行き、この蟹を買った。

そんな高級食材に触れたことはなかったけど、

図鑑で調べ、市場の人にも聞いて、一番小さなそいつを買ったのだ。

それが、僕なりの「ァ千代」の再建につながるような気がしたから。

「……」

守宮が、じっと蟹を見詰めて、微笑んだ。

「……」

なんとなく、ことばが出なくなって、僕は水槽に手を突っ込んだ。

普段は、こんな乱暴なことなどしない。

だけど、今日は、目の前の女の子にこの蟹を、僕の決意を見せたかった。

「あ……」

「ここのさ、胸のところが違うんだ。

大人にならないと分かり辛いんだけど、本職の人には子蟹の頃から分かるんだ。

マニゴルドは胸まで金色で、デスマスクはここが黒くて……」

僕は、蟹を持ち上げ、凍りついた。

蟹の胸は黒い斑点が付いている。

──デスマスク種。

エーゲ海で大量に取れる、味も品質も格段に落ちる「マニゴルドの偽装物」。

「そんな……」

──市場の人に、だまされたんだ。

そう思った瞬間、頭に血が上った。

「こいつっ!!」

僕は立ち上がった。

激情が、今まで経験したこともない怒りと衝動が僕を支配していた。

「殺してやるっ!」

叫んだ自分のその声に、さらに激昂する。

「あっ! だめっ!」

守宮の悲鳴を僕は省みる余裕もなかった。

台所と居間を分ける大きな柱。

僕は、そこに金の蟹を思いっきり叩きつけていた。

頭がぐらぐらする。

熱が一気に上った頭で、そいつを何度も柱に叩きつける。

「だめです、だめです!」

守宮が腕に抱きついて叫んでいるのを振り払おうとして、

「……!!」

僕は、急な眩暈に襲われた。

 

 

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