<ナイルなティティス>・3
「……」
気がつくと、見えたのは、古ぼけた木の天井だった。
「ここは……」
身を起こそうとして、ものすごい虚脱感に身体を襲われた俺は、
そのまま布団の上に沈みこんだ。
布団?
「お、気がついたみたいだぞ」
「あっ! よかったー!」
声がする。
男の人の声がふたつ。
片方は年上に思え、もう片方は同い年か下くらいのものに聞こえる。
身を捩ってそっちのほうを見ようとしたが、やっぱり身体は動かなかった。
「あ、動かナい方が良イでス。あなたの身体、弱ってマす」
三人目の声。
微妙にイントネーションがおかしいけど、びっくりするくらい綺麗な声が降ってきた。
俺をのぞきこむ顔が三つ。
「よかったー。意識が戻らないんじゃないかとハラハラしましたよ」
同年代の学生の、ほっとしたような表情
「大丈夫だ、ここで治せない毒はないぞ」
サラリーマンが、元気付けるように話しかけてくる。
「正確ニは、あノ娘の牙、毒ではアりまセん。敗血症を起コす致命的なバクテリアです。
でモ、私、そちラのほうも、トても研究しテます。さっキ打ッた注射で、菌、全部退治でキましタ」
純血種と違う瞳の、どきりとするくらい美しい女性。
俺は、三人のことばを働きの鈍い頭で反芻した。
……助かった、ということか。
「あ、デモ、体力をとテも消費しまシたかラ、まダ動いてハ駄目です。
こレを飲んでからジャないと……」
女の人が、立ち上がり、壺を持って戻ってきた。
「これ…は……?」
思わず質問して、自分の声がびっくりするくらいしゃがれていることに気がつく。
「まだ、喋らナいで。水分と栄養ヲ、随分消耗してイます。これデ補充するノでス」
女の人は、壺の中にペットボトルの水をあけた。
500mlを、二本?
「あとハ、果糖ヲ、400ml」
今度は、何か液体が入った瓶をあけた。
「ちょ……」
声にならない声をあげたのは、その美女が、
それをかき混ぜるために自分の尻尾の先を、壺に突っ込んだからだ。
神妙な顔で壺を見つめる美女は、やがてにっこり笑ってそれを終了した。
壺を、俺に差し出す。
「1.4キロの砂糖水。あなタに必要な最低限のものです。
……ほンとは、この十倍が望ましいのですが……」
そんなもの14キロも飲んだら死ぬんじゃ……というより、1.4リットルだって相当なものだ。
だが、俺は、抗議する力もなくそれを受け取った。
頭はともかく、身体がそれを欲していた。
水分と、吸収しやすい栄養。
大きなペットボトル一本分に近い分量のそれは、あっと言う間に俺の喉を通っていった。
「うぷっ」
飲み終えると、さすがにむせかえったが、吐き出すこともなかった。
自分でもちょっと信じられないが、これが追い詰められたときに
生物が発揮する力というものだろうか。
俺は、喉の渇きが癒えると同時に、全身が楽になったのを感じた。
急速に熱が取れて行く感覚。
「どうヤら峠は越えタようですね」
爬虫類の瞳を持つ美女が微笑んだ。
「ここは……」
起き上がってあたりを見渡したとき、ドアが開いて答えが返ってきた。
「私のアパート……の隣室、百歩蛇さんの部屋だ」
「……鰐淵……先輩?」
俺は、外から入ってきた学生服姿の長身をぼんやりと眺めた。
「うむ。下校の途中、君を担いだ龍那に出くわしてな。
バクテリアが…予想以上に利きすぎたことに焦っていた彼女から、……君を任された」
「それは――ありがとうございます」
「礼なら、そっちに……」
鰐淵先輩は、俺の周りに視線を向けた。
「私のつがいは……君を担いで、運んでくれたし、
治療してくれたのは、……こちらの…百歩蛇さん夫妻だ」
「あ、ありがとうございます」
俺は、布団のまわりに座っている三人に頭を下げた。
百歩蛇さん、というのは、多分、砂糖水をくれた女の人のことだろう。
サラリーマンの人は、その旦那。
じゃあ、この学生服が、鰐淵先輩の「つがい」か。
たしかに――俺より年下っぽい。
こいつが、ティティスの言っていた一年生か。
「<学園>の保健室、とも考えたんですが、距離的にこちらのほうが近かったんです」
一年生が、頭をかきながら捕捉した。
「賢明な判断だ。毒とそれの近いものの治療にかけては、うちの女房は天下一品だぞ」
サラリーマン氏が笑う。
「そンな……」
あぐらをかいた旦那の横にきちんと正座している百歩蛇さんが、
顔を真っ赤にしながら、尻尾の先で夫の背中を軽くはたく。
サラリーマン氏は豪快に突っ伏して咳き込んだ。
「事実だ。……百歩蛇さんは<学園>の保険医に、勝るとも劣らない」
鰐淵先輩がぽつりとそう言い、俺は戦慄した。
純血種のもつテクノロジーの粋を集めても解き明かせない謎が多い獣人の集う<学園>。
その命を預かる<保健室>は、世界最高の病院機能を備えているはずだ。
ここの保険医が生徒の治療の片手間に書き記した論文が、
世界の医術を左右されると言われるようになって久しい。
だが、俺は鰐淵先輩が嘘や冗談を言っているようには思えなかった。
「さて――立てるか?」
俺が、密かに混乱しているのを知ってか知らずか、
イリエワニの獣人は、唐突にそう言った。
「い、あ、はい」
実際、目覚めたときとは別人のように身体が軽い。
龍那と間接キスをする前より、と言ったら言いすぎだけど、
一回地獄の淵を覗いて帰ってきた身体は、普通に動けるだけでも、
奇跡的で、そしてものすごいことのように思えた。
「ジャンプしたら、あの天井に届きそうな気分ですよ」
「うチ、天井低いデす」
「うん、僕でも届きそう」
……俺より10センチは背が低そうな後輩に頷かれ、俺はちょっとばつが悪かった。
「では、行くか」
鰐淵先輩は、靴を脱いでいない。
外へ、ということだろうが、
「――どこへ?」
思わずそう聞いた。
「ティティスと龍那が戦っている。さっき見てきたが、そろそろ決着がつく頃合だ」
鰐淵先輩は腕時計をちらりと見ながら答える。
「へ……あっ!」
不意に、俺は、龍那が俺に毒を盛ったのが、ティティスを挑発するためだったことを思い出した。
「ちょっ! 先ぱ……戦うって、ティティス!?」
俺は、自分でもおかしくなるくらいに混乱した。
「うむ」
鰐淵先輩は、少しずれてきた眼鏡を指で押さえて直しながら頷いた。
「だって、龍那、毒っ……」
「大丈夫」
「大丈夫って……!」
「毒で決着がつくような……女たちではない。行ってみるかね?」
鰐淵先輩は、冷ややかなほどに涼しい瞳でそう言い、俺は絶句した。
「これは……」
目の前に広がるのは、荒野だった。
プールの西にある、<裏山連峰>。
そのふもと、数時間前まで、松や桜の若い木が植えられていた一角は、
見事なまでにそれらが押し倒されていた。
局地的なハリケーンが発生したらしい。
「……」
鰐淵先輩は、この惨状にも興味がなさそうな感じで、黙々と坂道を登る。
どちらかというと、隣を歩いているつがいの様子のほうに興味と関心があるらしい。
もれ聞こえる会話は、今日の夕飯はどうしようか、とかそういう話だ。
だが、俺は気が気じゃねえ。
(何が起こっているんだ、ここで?)
俺の記憶が確かなら、それは、ティティスと龍那の喧嘩のはずだった。
だが、これは――まるで災害か戦争の跡じゃないか。
小山の一つを登りきる。
「〜〜〜!」
俺は、目の前に広がる光景に、絶句した。
そこに「いる」のは、二人の、小さな女の子だけだ。
そして、同時に、世の中で最も獰猛で凶暴な獣が二匹でもある。
ティティスが、尻尾を振るう。
重金属に匹敵するほどに硬い、丸太のような一撃を食らって、
龍那は、軽く十メートルは吹き飛ばされる。
イチョウの若木をぶつかった背中でへし折ったコモドドラゴンは、
あきれるほどのタフネスを発揮して、すばやく立ち上がる。
駆け寄って、お返しとばかりに尻尾を振るう。
ムチと言うよりはしなやかな棍棒のような一撃。
ティティスは地べたに叩きつけられた。
その黒髪に守られた頭を、龍那が思いっきり踏みつける。
それだけで、野性の牛を踏み殺せるパワーで。
「!!」
がつん、とも、ごつん、とも聞こえた音。
「ティティス!」
思わず叫ぶ。
この距離からでも分かる。
今のは、致命傷だ。
頭蓋骨陥没──どころか、脳漿を噴き出してもおかしくない死の一撃。
今、わかった。
あの娘たちが、純血種相手にどれだけ「手加減」して応じていたのかを。
ティティスが俺に簡単に突き飛ばされたり、走って追いつけないのは、
あいつが、そう演じているから。
いや、演じているとか、そう振舞っているとかじゃなく、
獣人は純血種相手に、体力や戦闘力の部門で「本当の本気」になることはない。
それは、俺だって知っていたけど、俺よりも30センチも小さい女の子の、
「本当の本気」が、これほどのものだとは夢にも思わなかった。
そして、その「本当の本気」がぶつかり合って、
ティティスは──、
ティティスは──。
「……芸のない奴じゃの。今の攻撃、何度目じゃ……」
……けろりとした顔で起き上がった。
「何度も食らうほうが恥ずかしいと思わないかしら?」
龍那が悔しげに、だが立ち上がってきて当然、という表情でののしり返す。
「どうでもよいわ」
ゆらりと立ち上がったティティスの黒い直(すぐ)い髪が、風になびく。
龍那の漆黒の髪も。
俺は、戦慄した。
この二人の、幼い、小さな、だが、強力で残虐な女神の争いの前で。
心臓が鷲づかみになるような恐怖と畏怖。
だが、このドキドキは、それだけじゃない。
俺は、今、何を感じているんだ?
「そろそろケリをつけるかえ?」
ティティスが、別人のような声で静かにつぶやいた。
小さな声にこめられた威厳。
それは、数十メートルはなれている俺の耳にもはっきりと聞こえた。
女王は、廷臣相手に大声を出す必要はない。
支配者の声は、誰の耳にもよく聞こえるのだ。
「はっ、うざいのよ、貴女は!」
龍那が身構えながら答えた。
「貴女といい、鰐淵といい、それだけ強いくせに、男を見つけたとたん、
まだ「つがい」にもなってないうちからデレデレして!
こっちは貴女と喧嘩するのを楽しみに待ってたのに!」
トカゲ族最強の少女は、鰐族最強の少女との対決を望んでいたのか。
鰐淵先輩も、ティティスも、今日までそれに応じずにいた。
だが──。
「龍那。わが背に危害を加えたこと、地獄の底で後悔せよ」
ティティスは、俺を危険な目に合わせたことで、それまでの自制を投げ捨てた。
あいつの本来の、強力で凶悪なナイルワニ獣人の女王の姿を呼び覚ましたのだ。
「――っ!」
龍那が走る。
双腕の連撃は、空中で受けた。
ナイルワニの女王の両腕が、コモドドラゴンの支配者の両手で封じられる。
無防備な喉もとへ龍那が噛み付く。
毒よりも危険な、致死性のバクテリアを宿した牙が。
「ティティス!」
俺は叫んだ。
「……!!」
龍那が噛み付いたのは、ティティスが自分の顔の前に横から割り込ませた尻尾。
だが、尻尾と言えど、あの毒では──。
「勝負……あり」
鰐淵先輩がつぶやいた。
「ティ、ティティスっ!!」
俺はもう一度叫んだ。
いや、もうそれは、悲鳴に近かった。
だが、ティティスは、何事もなかったように、龍那が噛み付いた尻尾を振り回した。
高く高く持ち上げて──地面に叩きつける。
砂埃を巻き上げ、龍那の身体がボールのようにバウンドする。
跳ね上がった高さは、軽く1メートルを越えていた。
体重30キロ台の少女とは言え、人間を一人そんなに扱う筋力はどれほどのものなのか。
もう一度大地にキスをしたコモドドラゴンの支配者に、
ナイルワニの女王は、硬く重い尻尾を上から叩き付けた。
龍那は、──起き上がってこなかった。
「ちょ……ちょっと……」
俺は、呆然としてその様子を眺めることしか出来なかった。
頭は混乱しきっている。
動かない龍那。
先ほどからの超人ぶりを見て死んでいるとは思えないが、
その確信が持てないほどのティティスの打撃。
そのティティスは、猛毒バクテリアの牙を受けたはずだ。
「い、医者──。さっきの、百歩蛇さん!!」
俺は、口から漏れた自分の言葉で、何をすべきか気がついた。
きびすを返して戻ろうとする。
その背中に。
「こりゃ、待ちゃれ。わが背──」
振り向くと、ティティスがそこにいた。
「ちょ、お前、さっきまで、山の下に……」
俺の前でのろまに行動していたこいつなら何分かかるかわからないが、
<ナイルワニの女王>の本気なら、あっと言う間だろう。
俺は、それを理解した。
俺が見たこともないティティスを目の前にして。
そう、俺は、今日、はじめてナイルで女神と恐れられる、
鰐獣人の支配者と「出会った」のだ。
ティティスは、何も変わっていないように見えた。
小さな身体。
薄い胴体と華奢な手足。
脂を塗ったようにつややかな黒い直い髪。
肌理のこまやかな小麦色の肌。
だけど。
上気した美貌は、
濡れたように輝く瞳は。
何より、見にまとう血と暴力の匂いは。
俺の知るティティスじゃ、なかった。
「ど、毒、毒っ……!」
動転のあまり、何を言っているのかわからなかったが、
尻尾を指さしたことで意味は通じたのだろうか、ティティスは快活に笑った。
「大丈夫じゃ。わらわの尻尾、あんなやわな歯の通るものではない」
龍那の歯型が付いたそれは、文字通り、鰐皮の塊だ。
松の老木よりも硬く分厚いそれは、どんな鎧よりも頑丈そうに見えた。
「じゃ、救急車! 龍那を……」
振り返ってみると、コモドドラゴンの支配者は、もう立ち上がっていた。
「……」
忌々しげにティティスを睨み、気品に溢れる動作で地面に唾を吐き、無言で歩み去る。
一メートルもバウンドするくらいに地べたに叩きつけられ、
それをさらに上回る一撃を食らった少女に残ったのは、
ちょっとよろめく程度のダメージだけだった。
「信じられねー……」
俺は、嘆息した。
同時に戦慄も。
背中に流れる汗。
ティティスが、視線をそらしてうつむいた。
「そなたらには、こういうのを……見せたくなかったのでのう」
人外の能力を持つ獣人──俺はそれに恐怖した。
「……」
「……」
沈黙。
昨日まで、からかって遊んでいた女の子が、
自分が百人集まっても叶わない暴力の化身だったという事実。
いろんなアイデンティティが崩れ去った瞬間。
ティティスが、俺と「仲良くなるために」、
そういう態度で接していたということを、今の俺は痛いほどに理解していた。
こいつは、その気になれば、鰐淵先輩や獅子尾のように、
露骨な実力行使を行わなくても、周りから「強い」と認知されることなど簡単だった。
それをしなかったのは、インドア倶楽部に通う、本質的には内気で消極的な男への配慮。
「ティティス……」
目を伏せた<ナイルワニの女王>は答えなかった。
「……」
それきり、沈黙が続き、やがて──。
「では、私たちは帰る」
鰐淵先輩の一言でそれは破られた。
「あ……」
今まで忘れていたが、先輩は、つがいの少年と一緒にそこにいたらしい。
「あ、ちょ、ちょっと……」
「……同族の交尾を見る趣味は、ない」
先輩は、すたすたと坂道を下りながら、振り向きもせずに言った。
「……え?」
一瞬、何を言われたかわからない。
「血の匂いで、私も、昂ぶった。……私のつがいに、頑張ってもらうことにする」
手をつないだ少年が、ぼぉっと言う音が聞こえるくらいに顔を真っ赤にしたのが、
背中から見るだけでも分かったが、こちらはそれどころではなかった。
「こ、交尾って……」
「……!!」
ティティスが、何かに気が付いたように俺のほうを振り向いた。
「……」
「……な、何だよ」
俺は、こちらをまじまじと見つめる同級生に戸惑った。
「そうかえ……そうだったのかえ……」
ティティスがくすくすと笑い始めた。
「な、ど、どうした」
凶暴な女王の様子の変化に、俺は動揺する。
こんな怪物じみた娘が、理解不能の反応をしたら誰だって──。
だが、俺は、動揺していたわけじゃなかった。
「そなたは、こういう女に欲情する性質(たち)じゃったのか」
下からねっとりと見つめるティティスの視線。
ぞくりとした。
身体の真ん中が。
血の匂いと、力の匂いが、俺の鼻腔をつく。
それは、ティティスの体臭。
俺は、ズボンの前がはち切れんばかりに盛り上がっているのに気が付いた。
「うかつじゃった。鰐淵に聞いて知ってはおったが、とんと気が付かなんだ。
自分より強い獣に魅せられる獣がおることを。
──自分より強い女に惹かれる男もいるということを」
それは、サドとか、マゾとかそういうものじゃ、ない。
より強い子孫を残すために備わった本能。
純血種は歴史の中でそれを薄れさせていった。
だが、俺は、それを強く受け継いで産まれた。
だから──ナイルワニの獣人と交尾が出来る<因子>を持っているのだ。
だから──ティティスのつがいに選ばれたのだ。
そして、俺はもうそのことに反発しなかった。いや、できなかった。
ティティスの力を知ってしまったから。
この娘が、どれだけ強いか目の前で見てしまったから。
ティティスが、俺の手をつかんだ。
俺は、抵抗もせずに引き寄せられた。
「向こうへ──あの林でまぐわおうぞ。
いや──犯してつかわす。わらわの愛しい夫よ。
おぬしの望みどおりの方法で、のう」
全てを悟ったクラスメイトは、別人のように妖艶な瞳で俺をからみとり、
全てを悟った俺は、つがいの導くまま、林の中に連れ去られた。