<ナイルなティティス>・2
「ちょっ、な、なんだ、お前ら……」
俺は、突然現れたティティスが、ゴスロリ少女とにらみ合っているのに慌てた。
二人の間に流れている空気は、一触即発ってやつだ。
ティティスがこれほどまで誰かに対して険悪になるのは珍しい、というか、はじめて見る。
ティティスは、俺以外の人間からはおおむね好かれている。
「わらわは<ナイルの女王>じゃ」とのたまう尊大なジャリは、
普通の人間がやったら鼻持ちならないのだろうが、
そこは本物の威厳と言うか、血筋と言うか、なんとなく、それが許せる雰囲気がある。
ノーブレス・オブリージュというやつなのか、
その態度を取るのにふさわしいだけの責任を、こいつは自然に果たしている。
猪突猛進──あ、こいつはワニか――だが、行事ごとではクラスをちゃんと引っ張っているし、
皆がやりたがらないことも、さりげなく片付けている。
それでいて、本人が底抜けの馬鹿で明るいから、ティティスが、
「わらわが一番偉いのじゃ!」と、きいきい声をあげて叫んでも、
まわりのクラスメイトは苦笑して頷くだけだ。
だから、こいつが、こんなものすごい剣幕で誰かを睨みつけるような事態に遭遇したことはない。
「あら、──ナイルのお嬢ちゃん」
ゴスロリ少女は、白いマスクの下でくすりと笑った。
口元が見えないのに、におい立つような優雅な微笑みが俺の目にははっきり見えた。
ああ、ティティスとは月とすっぽんだな。
こりゃ、あれだ。
ティティスのほうは、顔を真っ赤にして
(じょ、じょ、嬢ちゃんとはなんじゃ、無礼者! わらわはナイルの女王なるぞ!)
とでも叫ぶだろうな、と思ってあいつのほうを見た俺は凍りついた。
「我が背(せ)から離れるのじゃ」
ひとことだけ、静かにことばを放った小さな人影は、
……俺の知っているジャリのものなのだろうか。
「あら、このお兄様、あなたの素敵な人?」
ゴスロリ少女は微笑みながら聞き返した。
ほんのちょびっと、絶妙にブレンドされた、からかうような調子。
男の子なら、異性のそれにコケティッシュを感じるだろうし、
女の子なら、同性のそれになにか反発するものを感じるだろう。
そんなタイミングと声音のひとこと。
だが、ティティスはそれに対して無言だった。
「……ふうん」
ゴスロリ少女が、また笑った。
「……いいのよ、ティティス。私はここではじめちゃっても……」
鈴を転がすような声。
何を「はじめる」というのだろう。
お茶会?
おままごと?
それとも何か別の、女の子らしい遊び?
その声を聞けば、誰もがそうイメージするだろう。
しかし──。
ずしっ。
校舎裏の、未舗装の土に、ティティスの上履きがめり込む。
まるで体重何百キロの巨獣のもののように、ティティスは無言で一歩踏み出した。
「ちょっ、お前、上履きのまま……」
話題を変えようとした指摘は、無視される。
ぞくり。
俺の背中に何かが走った。
いままで余裕でからかってきた少女が、まるで別物に変わったかのように。
「……お、おい……」
俺は思わず間に入ろうとした。
だが、足が動かなかった。
「……あれ?!」
足元を見る。──震えていた。
「何だ、これ……」
自分より30センチも背の低い、小さな女の子たち。
その二人のにらみ合いですくむ自分の足を、俺は呆然と見つめた。
「……下がっておれ」
「そうね。そのほうがいいわよ、お兄様」
ティティスとゴスロリ少女が、ささやくように言った。
──そう、したかった。
でも、それさえもできずに立ちすくんだとき、後ろから、声がした。
「……そこの二年生たち、さっきから……うるさい」
「!?」
二人の少女がぱっと後ずさった。
声は、校舎の裏口からした。
「わ、“鰐淵”!?」
ティティスが声を上げる。
「鰐淵先輩……」
俺は、校内最強クラスと呼ばれるイリエワニの獣人娘の名前をつぶやいた。
「……」
鰐淵先輩は、ふらふらという感じでドアから出て、まっすぐ俺たちの前を突っ切った。
ティティスと、ゴスロリ娘の前を、どこに焦点があっているのかわからない瞳が通る。
それだけで、憎悪をむき出しにしていた二人の間の空気が、流れた。
なくなったわけではない。
強いとか、弱いとか、そういうものとはまた違った、存在感。
それに流されたのだ。
無言で通り過ぎる美しい長身に。
「ぐうう……」
ライバル視している先輩を睨んで、ティティスが低くうなった。
ゴスロリ少女に背を向け、同種族の美女に挑戦的に向かい合う。
「……鰐淵ぃ〜〜!」
「……何?」
鰐淵先輩が振り向く。
「つ、つがいを見つけたからといって、いい気になるでないぞ。
わらわもすぐに追いついて、先に卵を産むからのう!」
言い切って腕組をし、40センチ以上も背の高い相手をにらみつけたティティスは、
──いつものティティスだ。
「……貴女、ギャグのセンスあるわ……」
鰐淵先輩は微笑んで、歩み去った。
「うぬうううううーーー!! 勝者の余裕のつもりかえぇぇ!!
つがいができたくらいで偉そうに!!」
ティティスは地団太を踏んで悔しがった。
王族の気品など、どこにもねえ。
「ええいっ、わかったか、我が背。こういうわけじゃ!!
われらたちも早くまぐわって、きゃっつめより早く卵を作らねばならぬ、迅(と)く、来よ!」
「どこにいくつもりだ、どこに?」
「ら、ら、<らぶほてる>とやらに、じゃ!」
「却下」
「なぜじゃああああーーー!」
まるっきり、いつもの会話。俺は、なぜかほっとした。
「……とんだ邪魔が入ったわね」
いつの間にか、ゴスロリ少女は俺の後ろに立っていた。
俺の肩越し──正確には、脇の下か?――に、ティティスを見つめる。
「貴女とは、<論争>の決着をつけなければならないわ。そのうちにね」
そして、少女は俺のほうを見て笑った。
「お兄様にも、あらためてご挨拶いたしますわ」
「貴様……!!」
ティティスが何か言おうとするよりもはやく、少女は背を向けて歩き出した。
「……っと!」
それを呆然と見送ってから、俺は我に返り、その場を走り去った。
「あ、こら、待ちゃれ!」
一人残されたティティスの声を後に残して。
──翌日。
俺は、オセ……おっと、リバーシゲームの<64モーグリ倶楽部>へと急ぐ途中、
灰斑恵那(はいぶち・えな)につかまった。
新聞部と<水辺でお昼寝倶楽部>を掛け持ちするハイエナ獣人娘の一年生は、
今日は前者の活動中らしい。
「ちょっとちょっと、先輩、ティティスと龍那の対マンに出くわしたんですって?」
誰から聞いた、そんなこと。
待てよ、龍那って、あのゴスロリ娘のことか。
「そうッス、薦戸龍那(こもど・りゅうな)。2年のコモドドラゴンの獣人娘」
……こどもドラゴン?
思わずそう聞き返してしまうくらい、ゴスロリ少女は小さかった。
「コモド! コモドオオトカゲ、ッス! コモド島に棲む最大最強のトカゲ」
「ふうん」
ティティスと同じくらいの背丈の女の子が、最大最強種の獣人と言われても、ぴんとこない。
まあ、ティティスも最大最強クラスのワニの獣人娘なのだが。
「対マンたって、ティティスが突っかかって睨みつけてただけだ。
というか、それがそんなに大事なのかよ?」
メモを取り始めた恵那を呆れて眺めながら俺は言った。
「わかってないッスね、あの“龍那”とあの“ティティス”の対マンッスよ!
学園新聞の1面トップ物ですよ!!」
「そんな馬鹿な」
女子小学生と見間違うばかりの二人のにらみ合いが、読めば100日話題に困らないといわれる
学園紙のトップ記事になるとはとうてい思えない。
──俺は、昨日感じた足のすくみのことをちらっと思い出したが、それを飲み込んだ。
身についた常識の感覚というのは、めったなことではひっくり返らないものだ。
だが、ハイエナ獣人の娘はおかまいなしに叫んだ。
「だって、鰐淵先輩の“引退”後の“ワニのトップ”と、“トカゲのトップ”ッスよ!?
<獣王戦争>が、また復活するじゃないかもしれないじゃないッスか!!」
俺は、仰天した。
「<獣王戦争>!? まだ続いてたのか、そんなもん!?」
「種」が異なる獣人たちの集う<特区>。
その中でも若くて未熟な子供たちが通う<学園>は、
ともすれば「異種族」たちの文化がぶつかり合う闘争の場と化す。
獣人と純血種、男子生徒と女子生徒は、文化以前に本能によって、
<本気の対立>が為されないが、同族同士、同性同士の争いは尽きない。
いわく、<壱年戦争>。
カラス系の獣人たちが初等部一年入学時に行うという
「誰が群れの中でリーダーなのか」を決める伝説の<クラス会長>の覇権争い。
いわく、<聖軒戦争>。
<学園>内に10軒あるラーメン系学食のどこが一番美味いのか、
それぞれのひいき客が、店とは全然関係なく争って、勝手にランキングを決めるという争い。
去年はトンコツ醤油の<風林火山軒>を推した某河馬獣人の先輩が圧倒的な腕力で勝ち進んだという。
いわく、<女難戦争>。
伝説の巫女服<マサキマキの“まとい”>をめぐって争う、プール南エリア女子寮真夜中の陰惨な戦い。
最後にその巫女服を押し付けられた女生徒は、妖怪マサキマキの呪いで、
女性にしかモテなくなり婚期を逃すという、恐ろしい事態に陥る。
その中で、もっとも危険で激しい抗争のひとつに挙げられている争いが、
ワニ系獣人とトカゲ系獣人との間の<獣王戦争>だった。
もともとは、<獣王論争>と呼ばれていたこの争いは、その名の通り、最初は論争だった。
ある伝説的なマンガの中に出てくる<獣の王>が、ワニ族なのか、トカゲ族なのか。
その論争は、やがて過熱し、爬虫類を代表する二種族間の大きな火種となった。
<ピンク色のかませワニ>と呼ばれた獣の王は、しかし、ワニの姿をしながら、
公式設定では「種族:リザードマン」とされていたからだ。
古参の読者からは「ヘタレからヒーローになった副主人公の魔術師」に次ぐ人気を博す偉大な獣王を、
どちらの種族も自分たちの眷属と見なしたがった。
初等部の子どもたちが、帰り道ではじめた言い争いが、
数百人単位の大規模闘争に発展するのに要した時間はわずか二日。
そして、その火種は今でも続いている。
「今まで、ワニ系獣人のトップはそういうことに興味がない“鰐淵”先輩だったんだけど、
あの女(ひと)、つがい作って“引退”しちゃったから」
<学園>の不文律。
「つがいを作った生徒は、揉め事に参加しない。また周囲も参加させない」
それは、子孫を残せる貴重なチャンスを見つけた同種への配慮。
純血種と獣人の間の新しい生命は、<超人類>の誕生に賭ける全人間の宝であるからだ。
鰐淵先輩は、部活で見つけた後輩とつがいになった。
それは、彼女を鰐獣人の代表的存在からの“引退”を促すことになる。
その座を追うわけではない。
<獣人の子どもたち>は、<成熟し、子孫を残す能力を持った女性>を認め、
敬意を持って「一段高いステージ」へと送り出すのだ。
彼女が、わずらわしい争いにかかわって卵を産むチャンスを逃さないように。
そして、鰐淵先輩が去った後、ワニ獣人の代表は、ティティスになった、というわけだ。
「なーんで、あのチビがなるかなー」
俺はつぶやいたが、まあ、獣人には獣人なりのルールがあると言う。
あんな運動神経のないチビでも、名ばかりの盟主にはなれるのだろう。
まがりなりにも、イリエワニと最強の座を争うナイルワニのお姫サマなわけだし。
「……ばっかみたいッス」
俺の納得を、恵那は一言のもとに否定した。
「へ?」
「あの娘、めっちゃくちゃ強いですよ。マジで鰐淵先輩に紙一重。同い年だったら多分互角」
「へ???」
「“怖い”んスよ、あの娘は……」
「ちょ、ちょ、あのチビが……?」
「“背丈”だ、なんだの問題じゃないんです。ナイルワニの恐さは“理屈”じゃないッス……」
新聞部の敏腕記者(自称)のことばは、俺を混乱させた。
「……でも、龍那も強いッスよ。喧嘩の“技術”なら一等賞かも。
それも怪物並に“タフ”なんですよ、あの娘。
獲物を何日でも追い掛け回して牛でも鹿でもスタミナ勝ちしちゃうご先祖持ってるんですもの」
「ちょ、待て、お前。あの娘が怪物並だって?」
俺は笑おうとした。
いくらなんでも、そりゃ無理があるって……。
「まあ、信じないのなら、信じなくていいッス。純血種にはあんまり関係のないことですし」
恵那は、ふくれっ面をしてそっぽを向いた。
もともと<帝都スポウツ新聞>並みに情報が怪しく、
拡大解釈と捏造については<ユウヒってる>といわれる学園新聞の記者だ。
話半分どころか、100分の一くらいに聞いておいたほうがいいだろう。
俺は、まだしつこく話を聞いてくるハイエナ娘を適当にあしらって別れた。
部室のある校舎に入ろうとしたとき、
「――あら、お兄様、奇遇ね。」
後ろからかかる声。
鈴を鳴らしたかのような可憐な声は、昨日のゴスロリ少女。
薦戸龍那だ。
「あ……」
「ふふふ、昨日約束しましたわね。あらためてご挨拶するって。
──少し、そのあたりでお話しませんこと?」
そう言われて、俺は反射的に頷いた。
なぜ頷いたのかは、自分でも分からなかった。
ティティスと同じくらいの背丈とプロポーションを持つ少女は、
大人の女が好きな俺には全然魅力的でないはずなのに。
だが、現実に俺は、まるで魅入られたように、
返事も待たずにくるりと背を向けた彼女の後を追って、
学校内の<公園>地区に足を踏み入れた。
「うふふ、寒いですわね、お兄様。こういう日は、
こうして温かい缶を持って、日向ぼっこするのが一番」
たしかに、冬が秋を駆逐する季節の風は冷たい。
だが、ホットの烏龍茶の缶を両手で抱えた南国種のオオトカゲの獣人は、
ことばほどは寒そうではなかった。
「お兄様って……タメ年だろ……」
俺は、なぜかどぎまぎとして答えた。
「うふふ、同い年でも、私より背が高い男(ひと)はそう呼ぶことにしてるの」
龍那は、そう言って笑った。
白いマスク。
その下に隠されているのはどんな美貌なのだろう。
あるいは──。
(ごくり)
先ほど恵那から聞かされた話を思い出して俺はちょっと震えた。
トカゲ獣人は、ワニ獣人、ヘビ獣人と並んで爬虫類の中で「強い」ことで有名だ。
派閥として大きいだけでなく、個々の獣人が強く、しかも執念深い。
この娘(こ)も、「そう」なのだろうか。
──くすり。
ゴスロリ少女が笑った。
「気になります? このマスク」
「え……あ、いや……」
龍那は、別のことを想像したようだった。
「私、ちょっと特別な体質なので普段はこれをつけているのですが、
……お兄様には素顔見せても、いいかな?」
美貌の下半分を覆う白いマスクに繊手がかかる。
するり。
下から現れたのは──想像どおり、いやそれ以上の美貌。
獣人らしく、鋭く大き目な八重歯はあるが、
牙も生えていなければ、耳元まで裂けた口があるわけでもない。
ゴスロリにどこまでも映える、整った少女の美貌だった。
「あ……」
「うふふ、ふふふ。何だと思いました? 私の素顔」
「い、いや……」
少女にすっかりペースを握られていることに気がついたけど、どうにもならない。
くすくすと、龍那が笑う。
ティティスとは比べ物にならない、上品さと可憐さ。
心を惹かれはじめているのはそれのせいだろうか。
俺は、烏龍茶の缶を弄(もてあそ)ぶのをやめ、プルトップを引き開けた。
いい匂いが冷たい空気に溶け込む。
ゴスロリには紅茶、と思っていたが、
こうして眺めてみると、烏龍茶も貴族趣味があってお似合いだ。
まあ、缶だからどちらにせよ風情はないけど。
そんなどうでもいいことを考えたのは、視線が、
マスクを外して見えるようになった龍那の桜色の唇に吸い付いて離れないからだった。
「いやなお兄様。何をじろじろ見ているのです?」
龍那がこちらを見据えた。
「え……、あ……」
焦る俺を見て、龍那はくすりと微笑み、そして烏龍茶の缶を差し出した。
「はい」
「……え?」
「一口だけですよ?」
「ちょっ……」
「のどが渇いているのではないのですか?
私が飲んでいるのをじろじろご覧になってたのは……」
「あ……うん」
なんとなく、やましい気持ちをごまかせた感じになって、俺はその缶を受け取った。
……間接キスだ。
意識しないように、そして意識させないように、俺は烏龍茶の缶に口をつけた。
「一口だけですからね……」
龍那が念を押す。
「分かってるよ……」
温かい液体が、口の中を、そしてのどを通っていく。
どこかに甘い香りがしたのは、ゴスロリ少女の香りだろうか。
そして俺は
──嘔吐してのた打ち回った。
「うふふ。一口だけにしておいてよかったですわね、お兄様」
頭上から、龍那の声がした。
「私、コモドドラゴンの獣人なんですよ。口の中に致死性のバクテリアを持つ。
だから、私にキスをしたり唾液を飲んだりしたら死にますし、
飲みかけ──これは唇を軽く押し当てただけですけど──
のお茶を飲めば、そうして死ぬ一歩手前で悶え苦しみます。
だから、私はくしゃみで飛んだ唾でまわりの人たちが死なないように
いつもマスクをしているのですよ。さて……」
龍那は、急速に意識が薄れ出した俺を片手でひょい、と担いだ。
「ここまでやってしまったら、我慢強いティティスも喧嘩を買わざるを得ないでしょう。
なにしろ、たったひとりのつがい候補に手を出したのですから……」
ゴスロリ娘は、そのために禁忌を犯したのか。
失神する寸前、俺はティティス、とつぶやいたような気がした。
だが、すぐに意識は闇に閉ざされた。