<ナイルなティティス>・1

 

 

「――おっしゃ、勝ち!」

33対31。

ぎりぎりもいいとこだけど、まあ勝ちは勝ち、だ。

「ま、負けたにゃー」

がっくりと肩を落としたのは、山猫の獣人娘、山本麻耶(やまもと・まや)。

通称、海苔屋。

キャット空中三回転の天才だ。

学園長だって引っかいてみせらあ。

でもマタタビだけは勘弁な。

「何をブツブツ言ってるニャ」

麻耶が睨みつけてくる。

「いや、何も」

慌てて返事をする。

この子のネコパンチと引っかきは尋常ではないスピードだ。

「しかし、あんなところから逆転されるとは思わなかったニャ」

麻耶は恨めしげに盤の角を睨んだ。

「ふっ、奥が深いのさ、オセ──」

ぱこーん!!

見事なネコパンチがヒットして俺はひっくり返った。

「な、何しやがる?!」

「それ、言っちゃ駄目ニャ。商標登録されてるニャ。リバーシゲームと呼ぶニャ」

「そ、そうか」

この倶楽部に入ってから知ったんだが、「8×8」の盤に白と黒との駒を使って

「自分の色の駒で相手を挟んだらひっくり返して自分の色にできる」ゲームは、

リバーシゲームと言うそうで、俺の知っているオセ──

がしっ!

顔面引っかき炸裂。

 

「だから言っちゃ駄目ニャ!!」

「痛えよ、加減しろ、バカ」

顔を抑えて抗議する。

まあ、オセなんたらは、商品名(実際にはちょっと違うらしいけど)なんだそうだ。

まあ、そのオ……。

すっ。

麻耶が構える。

したーん、したーん。

「ね、ネコパンチの癖にフリッカージャブの準備をするな……」

……その、リバーシゲームの愛好家は多く、<学園>にもいくつも同好会がある。

そのひとつが、我が<64モーグリ倶楽部>だ。

64とは、8×8のマス目のこと。

その盤にダイブして死闘を繰り広げるからモーグリ倶楽部。

しかし、なぜかレトロなテレビゲームマニアが集まってくる。

名前の問題だろうか。

まあ、俺らのライバルの<白黒将会>は、

なぜかストリップ大好きエロ人間が集まってくるというから、まだましか。

とにかく、俺はそういう倶楽部に所属していて、

「……オセロッ…」

「わー、馬鹿バカばか!!」

がりっ!がりっ!

見事にX字に顔面を引っかかれ、悶絶する。

「……お、オセロット(山猫)娘に勝利した、と言おうと思っただけなのに……」

「紛らわしいニャっ!」

顔がチクチク痛むけど、それはまあ我慢して、俺はのんびりとした放課後を楽しんでいた。

秋の爽やかな風が開け放たれた窓から入ってくる。

遠くに聞こえる部活の声。

授業が終わった後の教室、知的な遊戯で時間を潰す。

理想的な午後。

……それは、唐突に破られた。

 

すぱーん!

不意に、教室のドアが、ものすごい勢いで開け放たれる。

「やはり、ここにおったかぁ!!」

「げっ!」

教室の空気が一変する。

大体にしてテーブルゲームとかを好む人間/獣人は大人しい。

俺や麻耶は体力とか運動神経とかにも結構自信があるけど、

どちらかというと、間違いなくインドア志向だ。

他のメンバーもご多聞に漏れず、倶楽部会員はみな

静かに趣味を楽しむことを至上の喜びとしている。

だけど、こいつは──。

「このような不健康なところで不健全な遊びをするものではない、と何度言ったらわかるのじゃ!

日光浴をしにプールに行くぞえ!!」

こちらの意思をまるで確認する気もなく、突撃してきた人影は怒鳴った。

「……ふざけんな、こんな寒い日に日光浴なんて正気の沙汰じゃねえ」

俺は、立ち上がってそいつに歩み寄り、視線を30センチほど下ろしながら、そう答えた。

ドアをぶち破らんばかりの勢いで入ってきたそいつは、つまり俺よりそれだけ背が低い。

尻尾だけはいっちょまえの堂々としたものを引きずっているが、

それは足りない身長の代わりにはならない。

目の前に立つと、そいつの強く睨みつける瞳が視界から失せ、

おかっぱのように切りそろえた黒の直ぐい髪だけしか見えなくなる。

「むむむ」

そいつは、顔をぐっと上に向けて、ほとんど天井を見るような角度で俺を見上げた。

「悪いな、お前と遊んでるヒマはないんだ、おチビちゃん」

「おチビと言うなあ! 張り飛ばしてでも連れて行くぞえ!」

ティティスは、大いに憤慨したようだった。

小麦色の滑らかな頬に朱が差している。

「おお、やってみろ、チビっ子星人」

 

「わらわは星人ではないわ、誇り高きナイルワニ獣人の女王じゃっ!」

「ああ、そうか。うん、じゃあ、な」

ティティスの肩をつかんで、くるりと回す。

身体と一緒に半回転した尻尾は、軽くジャンプしてかわす。

「じゃあ、帰った帰った」

「ちょ、やめっ、待たんかっ!!」

ティティスがぐるりと振り返ったときは、もう俺は二、三歩下がっていた。

相変わらず、トロいジャリだ。

「ちょっとぉ! 痴話喧嘩なら他でやってよねえっ!」

麻耶が、ずずっと教室の隅っこにダッシュしてから叫ぶ。

山猫獣人はこのちびっ子が苦手らしい。

なんでも「めちゃくちゃ怖い」んだそうだ。

あの運動神経の固まりがこんなトロチビ娘相手に不思議なことだけど、

まあ、ネコは水に弱いし、案外水棲生物は苦手なのかも。

だが、俺は別にこいつのことを怖いとかは感じない。

なんといっても、チビだし。

同じワニ獣人でも、これが三年の鰐淵先輩とかだったらすごい恐いけど。

<学園>屈指の美女は、ライオン獣人だろうがトラ獣人だろうが、水辺ではお話しにならない。

同級の獅子尾との喧嘩しているところを偶然目撃したことあるけど、ありゃあ、逆らわないほうが無難だ。

プールの中に引きずり込んでワンサイドゲーム。ライオン相手に、だぜ?

もっとも、猛獣の獣人もその多くはこちらから刺激しない限り、手を出してくることはない。

ましてや、獣人と純血種との揉め事はご法度だ。

純血種が、身体能力的に圧倒的に劣って勝負にならない、とか、そういう理由だけじゃない。

「男の子と女の子は仲良くすること。そうしないとつがいが見つかりません」

それは、<学園>のもっとも強力な不文律。

だから、獣人娘は、クラスメイトの純血種男子と本気で争うことはない。

誰が、自分とつがいになれる<因子>を持つ男の子なのか、分からないから。

ひょっとしたら、隣の男の子こそが自分に卵や子どもを産ませられる貴重な能力を持っているかもしれない。

だから、親切にする。

男の子のほうも、美人ぞろいで、ほとんどが体力的に自分を圧倒している女の子に意地悪なんかしない。

だいたい、男というのは、自分が目の敵にさえされていなければ、たいていの女の子に好意的なのだ。

だから、<学園>の生徒は、つがいが見つかるまでの間、

放課後こうして和気藹々とクラブ活動に興じる。

 

ここは、<学園>、<獣人特区>。

僕の通う学校──獣人と人間の若者が<共学>する市立学園を中心にして、

人と獣人が共生するモデルタウンとして作られた街。

獣人を嫌う人間も多いけど、宇宙に飛び出して「進化の壁」にぶち当たった人間にとっては、

はるか昔に捨て去ったはずの「獣の因子」を持つ自分たちの亜種は、大きな可能性を持つ存在らしい。

宇宙開発が頓挫した世界政府は、世界中に隠れていた獣人を保護し、集結させ、

次世代の<超人類>が外宇宙への壁を打ち破ることを目指している。

<特区>と<学園>は、そのための大切なゆりかごだ。

 

……だが、何事にも例外と言うのはある。

俺とこのジャリ、ティティスがそのいいサンプルだ。

 

「――わらわの名はティティス! <ナイルの女王>じゃ!」

開口一番、そう言ったチビは、会ったその日から四六時中俺をストーキングしている。

理由は……。

「そなたは、ナイルワニの獣人と卵を作れる因子を持っておるのじゃ!」

自己紹介が終わり、クラスをぐるりと睥睨した自称<ナイルの女王>は、

俺を見つめると、たっぷり三秒間、停止した。

それからものすごい勢いで突進して、俺に飛び掛って、

「見つけたぞ、わらわの夫!! 卵を作ろう!!」とのたまった。

以来、こいつは俺の行く先行く先に現れて、楽しい高校生活の邪魔をする。

遺伝子だの<因子>だの、小難しい話は知らないが、はっきり言って迷惑だ。

 

「うむ。俺はこれからジュースを買いに行く。お前はどっか行け」

「な、な、な、無礼な!」

けんもほろろに言い放つと、ティティスは真っ赤になって怒った。

「うるさい。人の顔を見れば、交尾交尾とうざいんだよ」

「何を言うか、ひょうろく玉! 交尾以上に大切なものがあると思うか!?」

「とりあえず、俺は今、交尾よりジュース一本のほうに興味あるぜ」

「ぬう……、こ、この変態が!」

「なんだよ、それ」

「若いオスとメスで、交尾に興味がないなど、ド変態もいいところじゃ!

わらわが正しく性教育してつかわす!!」

「まっぴらゴメンだ!!」

俺たちはののしりあい、にらみ合った。

「むむむ、大体じゃな。そなたはもう精子が出る大人なのに、なぜわらわと交尾をせぬ?!」

むちゃくちゃな理屈だ。

だけど、発情した獣人というのは、こういうものなのかも知れない。

「素直な生殖要求」というのは、「外宇宙への挑戦」にものすごく重要な種族としての能力だそうだけど、

俺にとってはあんまり関係ない。

俺は、俺の好きな女とそういうことをしたいだけだ。

……まあ、まだそんな相手はいないが。

とりあえず、目の前で真っ赤になって恥語を連発するワニ獣人が

俺の恋の相手じゃないことは確実だ。

「……これ、聞いているか、我が背(せ)?」

「誰がお前の背中だ」

「むむ、背とは、そなたの国の古語で、夫や愛しい男を意味するのじゃ」

「……物知りだな」

「王族として、他国の伝統にも詳しくなければのう。

ましてや国際結婚をする相手の国ともなれば、精通せねばならぬ」

「国どころか、種族もちがうじゃねえか」

「ちなみに妻や愛しい女の子とは妹(いも)と呼ぶ。わらわのこともそう呼びや」

「妹萌えの趣味はねえ」

言い捨てて横を素通りしようとしたが、ティティスは両手をばっと広げて通せんぼした。

普段よりずいぶんとしつこい。

 

「なんだって言うんだ、いいかげんに──」

「イリエワニの鰐淵が、つがいを見つけたそうじゃ」

「へ? 鰐淵って、鰐淵先輩?」

「ええい、あの女に先輩付けなどせんでよい!」

ああ、なるほど。

合点が言った。

イリエワニと、ナイルワニは最強のワニの座を争うライバル種で、

<学園>最強のイリエワニ獣人は、ナイルワニの王女様にとっては目の上のタンコブらしい。

もっとも、鰐淵先輩のほうは、何とも思っていなさそうだが。

その一方的ライバルが、つがいを見つけたとくれば、ティティスが慌てるのも無理はない。

だが、そんなの関係ねえ。

「いいや、関係大ありじゃ! 鰐淵のつがいは一年生じゃぞ?」

「……それがどうかしたのか?」

「おぬし、一年生が先に童貞捨てたのに、何とも思わぬのか?」

「別に……?」

「なんと! わらわは一つ年上が先にまぐわいはじめたと聞いて居ても立ってもいられぬのに、

そなたと来たら、一つ年下に先を越されて二年生として平気なのかえ!?」

「わけ、わかんねーよ」

全体的に、初体験とか、つがいを見つけることに熱心なのは獣人の女生徒のほうで、

どちらかというと、純血種の男子生徒のほうはのんびりとしたものだ。

色々な本能が弱い純血種が「その気」になる前に、獣人のほうが発情してカップル発生、というのが

学園の伝統的な恋愛事情なのだが、

──俺はこいつとつがいになる気はねえ。なぜなら、

「俺んちは、もう兄貴が異種族結婚しちまったから、無理だっつーの。

俺は純血種同士でふつーに結婚するの。だから、いーかげん、諦めれ」

 

俺の兄貴もこの<学園>に通っていたが、

ある日、麻雀部で知り合った龍族の娘にハコテンにされ、

「負けた分、あの娘の実家の神社でバイトしてくる」と京都に行ったきり、帰ってこねえ。

そのまま相手が長女だから婿入り、という強引な展開で、今じゃ一年に一度帰ってくる程度だ。

向こうは三十人姉妹で、跡取りの弟も生まれたつーのに、

兄貴はもうこっちには帰らないつもりらしく、

おかげで親父とお袋は、俺に純血種とのごく普通の結婚を期待するようになった。

「というわけで、俺のことは諦めて、……そろそろ、あっち行け、チビワニ娘」

そっくり返った姿勢の肩をちょん、と突く。

バランスの悪いジャリはひっくり返りそうになった。

「わわっ、何をする。馬鹿者ぉ!!」

ティティスは尻尾を使い、慌てて姿勢を保とうとする。

その横を俺はさっさと通り抜けた。

「ちょっ! こら、待て、そなた! そなたに話が──」

「俺はお前に話はねえ」

「ま、待てっ 待ちゃれっ!」

大きな声だけが追いかけてくる。

うるせえ。

端から聞いたらまるで夫婦喧嘩のようだ。

恥ずかしいったらありゃしねえ。

こちらは何とも思っていないのに、まわりに「そう」思われるのは迷惑千万だ。

ティティスの慌てた声はしつこく聞こえたが、

俺は早足になってそれを振り切り、無視を決め込んだ。

どうにもあのチビはうざったい。

はっきり言って、兄貴のことがなくたって、俺はあいつと付き合うことはない。

そりゃ、顔はけっこうな美人だし、驚いたことに本当にナイルワニ獣人の<王家>の血筋だし、

黙ってさえいりゃあ、たしかに<お姫さま>だ。

追っかけまわされる俺を「据え膳を食わない」と言ってうらやましがる奴は多いようだが、

あいにく俺は、こんなチビに欲情する変態じゃねえ。

 

そう。

<ナイルの女王>ティティス=なんたらかんたら133世は、

「身長140センチ、体重軽い、バストぺったん、ヒップつるん」の発育不良のガキ体型だ。

入学のときに中等部どころか、小等部に案内されたという逸話もむべなるかな。

体の中で唯一立派なのは鰐獣人の証である巨大な尻尾だけ、という具合では、

グラマー好きの俺の眼中にない、っていうのも理解してくれることだろう。

実際、抱きつかれて求婚された瞬間に、俺は丁重にお断りの返事をした。

だが、あいつはあきらめない。

もともと爬虫類系の獣人と言うのは情が濃くって執念深いって噂だけど、こいつはその中でも特別製だ。

さっきみたいに、ちょっと押しただけでふらふらよろめいてしまうくらい

運動神経のないジャリの追跡を振り切るのは簡単なことだが、

血の巡りの悪いせいか、こいつは恐ろしくタフだ。

逃げても逃げても追っかけてきやがる。

ガキで、大声で、鈍い。

──俺の苦手の三大要素をすべて持ち合わせていやがる女。

それがティティスという女だった。

あんな奴の<夫>なんか、まっぴら御免だ。

俺はひとしきり小走りでティティスを引き離し、自販機の前で足を止めた。

硬貨を取り出し、ジュースを買う。

「熱血飲料か、鉄骨飲料か……?」

しばし逡巡。

「あっ……」

反射的にころころと転がる百円玉を追っかける。

銀色のコインは、小さなスニーカーに当たって止まった。

小さな白い指が、それをつまんで拾い上げる。

「はい。落し物よ」

 

「……へ?」

自分に百円玉を差し出す娘を、ティティスと見間違えたのは、

その少女が、あのジャリと同じくらいの背丈だからだ。

だが、俺が呆けたようにその姿を見つめたのは、あいつとは全然違う雰囲気に呑まれたから。

ティティスと同じ黒い直(す)ぐい髪は、あいつとは違う白い肌に映え、

ゴシックロリータの服装は、幼さよりも、妖しさを印象付ける。

なによりもその美貌。

顔の下半分が見えなくても、瞳だけで確信することが出来る。

下半分が見えなくても?

そう。彼女は、白い大きなマスクをつけていた。

それでも、その美貌をかくしきれない。

切れ長の、潤んだような黒い瞳に視線を合わせると、吸い込まれそうになった。

どきん、とした。

精神的にも肉体的にも成熟した女性にしか興味がないはずの俺が。

俺は、そのことに激しく動揺した。

「ふふふ、どうしたの?」

「……あ、ああ」

ようやく百円のほうに意識が行き、それを受け取る。

「じゃあ、ね」

ゴスロリ少女がくるりときびすを返したとき、雷が落ちた。

「なっなっなっ、何をしておるのじゃ!!」

金切り声に振り向くと、ティティスが顔を真っ赤にして突き進んでくるところだった。

「こ、このっ、泥棒トカゲめっ!!」

「……」

「と、トカゲ……?」

140センチ級の美少女二人に挟まれて出現した突発的修羅場空間の中、俺はただただ呆然とするしかなかった。

 

 

 

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