<砂漠の女王>1
花や什器で惜しげもなく飾り立てられた謁見室。
テルパドールの女王・アイシスは、この部屋で数時間も待たされていた。
窓から見える、自分の城の数十倍もの広さを持つ巨大城都の風景に目を奪われ、
退屈することはなかったが、一国の女王に対する扱いとしては随分とぞんざいだ。
しかし、彼女を呼びつけた相手は、それだけの地位と資格がある。
部屋の入り口に並ぶ護衛兵たちにわからぬように、小さくため息でもつこうかと思った時に、
その相手が部屋に入ってきた。
「──ごめんなさいね、お呼び立てしたのにお待たせしてしまって」
丁寧に頭を下げる相手に、アイシスはもっと丁重に、
──まるで奴隷が女主人に対するように、青髪の美女に礼を返した。
「いいえ、待ったというほどでもありませんわ、皇后陛下」
フローラ皇后。
全世界で、おそらくは「四番目の存在」といわれている。──地位も権力も、自身の強さも。
しかし、彼女より「上」の三人との関係を考えれば、
事実上、彼女の細かい序列などはどうでもよい話だ。
なにしろ、皇帝・リュカは彼女の夫であるし、
<伝説の勇者>は彼女が生んだ息子で、
最強の魔女は彼女の娘なのだから。
──大魔王エスタークですら簡単に屠ってみせる一族は、
彼らの国を、かつての王国から<グランバニア大帝国>とよばれる世界帝国に変貌させたが、
その成立には、この女性の存在が大きい。
すでに人智を超えた域に達している勇者親子三人は、
人間世界のことにあまり関心を持っていないが、
フローラ皇后は、自分自身が夫や子供たちにはるかに及ばない分、
人間世界のことに対して熱心であり、夫の国を世界の覇者にすることに執心した。
──それは、夫や子供たちの手を煩わせることなく、順調に進んだ。
旅に出ることが多い皇帝リュカが、彼女の「護衛」としてグランバニアに残したモンスターだけでも、
大陸をいくつか征服するのに十分すぎる戦力だった。
人間世界のどこを探しても、最強にまで成長したグレイトドラゴン三匹と
キラーマシーン三体に勝てる軍隊は存在しない。
皇后は表立ってその武力を使用したことは一度もなかったが、政治的にはおおいに使った。
「護衛」を従えたフローラの「表敬訪問」が何度か行われたのち、
ラインハット王国とメダル王国、それにアイシスのテルパドール王国も、グランバニアの従属国となった。
サラボナは、もともとが彼女の持参金のようなものだ。
アイシスが、フローラに対して侍女のごとく接しているのは、そのためだった。
「ほんとうにごめんなさいね」
フローラは再度、物腰やわらかに頭を下げる。
その穏やかさは、とても人間世界の事実上の支配者のものとは思えないが、
彼女のしたたかさとえげつなさ、そして貪欲さを、アイシスは十分に知っていた。
だが皇后は、今日はほんとうに機嫌が良いらしい。
いつもの無意識の演技ではない微笑と、いつにましてつややかな頬と唇にそれが表れている。
アイシスは最初それをいぶかしげに思ったが、フローラが手ずから紅茶を入れて
(皇后になってからの彼女が、客人にそれをするのは実に珍しいことだった)、
ティーカップを差し出したときに、その理由はわかった。
ばら色に上気した頬と、最高級の香水の香りの下からでもわかる──濃密な「男」の匂い。
「──あの人が、さっき、ちょっとだけ帰ってきたんです。
……すぐにまた天空城のほうに行っちゃいましたけど」
短い帰宅の間に、何度か夫婦の交わりをしたことが、皇后の上機嫌の理由らしい。
久々のセックスの余韻を楽しむために、フローラは性交のあと、わざと湯浴みもせずにここに来たのだ。
おそらく、彼女の性器の中には、まだリュカの精液がたっぷりと残ったままだろう。
愛する男の子種が、自分の体の奥を満たしている感覚。
女の生理を刺激するその想像に、男日照りのアイシスはびくりと体を震わせた。
不覚にも、それだけでちょっと濡れてしまう。
それを見透かしたように、フローラがにっこりと笑った。
男を丸々一人、それもまぎれもなく世界最高の男を所有している女の、自信にあふれた微笑だ。
満ち足りた家庭の主婦だけにゆるされる笑顔に、アイシスは圧倒された。
「──それで、私に頼みとは?」
心の平静を取り戻すのには随分努力が必要だった。
しかし初潮も迎えぬ少女の時代から女王を二十年近く務めている経験がそれをカバーした。
だが、それも皇后の次の一言で粉々に吹き飛ぶ。
「実は──貴女に、あの子の筆おろしを頼みたいの」
「!?」
フローラが、「あの子」と呼ぶのは、彼女の息子、勇者その人ことだ。
父親のリュカを除けば、まぎれもなく世界最強の戦士である。
天空の武具を身に付け魔王の軍団と戦う<伝説の勇者>の姿に、
世界は希望を見出し、今日の再建を成し遂げた。
だが、今年十四歳になったはずの勇者は、
世界の至宝であると同時に、フローラの手中の玉のはずだった。
彼女の野心の道具、権力の源、絶対性の後ろ盾という意味ではなく、
単純に、「母親にとっての大事な息子」という意味で。
家庭的な問題においてはひどく保守的な皇后が、
好奇心旺盛な皇子が、すごろく場をはじめとする各地の
「悪い遊び場」に出没することに頭を悩ませているのを、アイシスは知っていた。
──ラインハットは先日、百万ゴールドもの臨時献上金をグランバニアに納めたが、
その理由は、未成年の勇者に「ぱふぱふ屋」を利用させた、ということに対する謝罪だった。
「ぱふぱふ」ですらそれほどの大問題にする皇后が、よりによって息子の筆おろしを依頼するとは──。
アイシスは一瞬、フローラに、気は確かか、と問いかけようかと思ったほどだった。
女王の表情にそれを読み取ったのか、皇后はちょっと目をそらして間をおいた。
沈黙は短かった。
あまり言いたくないことだが、話してしまったほうがよい、とすぐに判断したようだった。
皇后は、天のように高いプライドを持っていたが、
自分の家族のためならば、それを忘れることも、脇に置いておくこともできる賢明な女性だった。
「……実は、あの子のことについては、いろいろと厄介ことになっているのです」
「厄介?」
興味津々という様子を表に出さないように気を使いながら、アイシスは先を促した。
天空の兜の守護者であったテルパドールの女王として、
<伝説の勇者>その人のことは、何よりも関心が深いものである。
「娘が、あの子のことを「男」として好きなのは、もうご存知でしょ?」
娘とは、勇者の双子の妹のことである。
最強の魔女であり、勇者の一行の要の魔法使いであるが、
この少女が、ひそかに兄のことを想っていることを、
アイシスは、はじめてあったときから見抜いていた。
幼いときから、この二人はいっしょの旅の中で育った。
石になった両親を探し、二人が見つかってからは魔界にまで及ぶ戦いの旅を共にした兄妹の絆は非常に強い。
同年代の友人がいない二人にとっては、なおさらだろう。
また、旅というものは、往々にして性的に成熟するところが多い。
いっしょに水浴びをしたり、用便の際に見張りをしてやったりするし、
宿泊先の街で、売春宿など夜の世界を垣間見たりもする。
そうした中で思春期を迎えた妹が、兄のことを異性として意識してもおかしくはなかった。
──ましてや、少女は、年若くして世界最強の魔女となってしまった身だった。
彼女につりあう同世代の男は、<伝説の勇者>である兄しか存在しなかった。
いろいろな要素が絡み合ったあげく、少女は、双子の兄を「男」として愛するようになってしまった。
「……いくらなんでも、それだけは避けたいのです」
フローラは、複雑な、というよりおびえたような表情を浮かべた。
こうした問題に関して言えば、辣腕の皇后も、一介の母親でしかない。
近親相姦を防ぐために、フローラは一時期、ラインハットの王子コリンズを少女の婿に考えていたが、
国同士も本人の力量的にも、あまりにもつりあわない組み合わせであったのであきらめざるを得なかった。
さいわい、性に対する罪悪感が芽生え始めた年頃に入り、
また、魔王を倒した後は四六時中いっしょのパーティーを組むことがなくなったこともあって、
少女は、兄と微妙な距離を置いて接するようになった。
しかし事態はただ保留になっただけであり、解決したわけではなかった。
「……さらに悪いことに、その娘から、この間連絡があったのですが……」
フローラはふたたび憂鬱そうな表情になった。
「……ビアンカさんが、最近、あの子に近づいているみたいなのです」
アイシスはあやうく含んだ紅茶を噴出すところだった。
──ビアンカ、久しくその名前を忘れていた。
リュカの幼馴染のその女性は、山奥の村に隠棲しているが、
フローラをもしのぐと言われたその美貌は健在だった。
リュカがやはり「護衛」として彼女のもとにおいていった
キラーパンサーとともに世界を旅して培った魔力は、
一対一ならばフローラ皇后と互角とも言われる。
一時はリュカの花嫁の座を争った金髪の魔女は、フローラにとってこの世で一番煙たい存在であった。
しかし陰謀家の皇后が彼女に手を出せないのは、彼女が夫の古い友人であり、
旅の途中でもしばしば立ち寄り、子供たちとも家族のような付き合いをしてきたからだ。
……フローラと出会う前の話だが、リュカが童貞を捨てた相手がビアンカだともいう。
そのためか、リュカは世界の片隅で隠棲する彼女に、今もいろいろと気を使っているようだった。
息子に、山奥の村に時折立ち寄るように命じているのも、
彼女と勇者とを顔なじみにしておくことで、さりげなくフローラへのけん制をしている、とも言えた。
──それが裏目に出たようであった。
「ビアンカさんがね、最近、あの子が村に行くと、いっしょに温泉に入るようにしているらしいのですわ」
「混浴ってことですか?」
「しかも、素っ裸でね」
彼女の住む山奥の村は、世界屈指の温泉保養地だ。皇帝一家も、好んで入りにいく。
しかし家族での貸切を除けば、混浴といっても、
湯の中では布をまとって入るのが、あの地方での習慣であったはずである。
ビアンカは、それを無視して、勇者と全裸で湯に入るようにしているらしい。
(あの美貌と身体なら、勇者にとってさぞかし興味深いものだろう)
アイシスはそう思った。
「まだ肉体関係にはないみたいだけど、あっちはその気満々よ。
──この間は、湯の中でおっぱいを吸わせてたということだし、最近などは……」
皇后は口を閉ざし、苦々しい表情を作った。
「最近などは……?」
アイシスは注意深く先を促す。
「……あの子に自分の女性器を見せてたのよ。指で開いて、奥までね」
熟れきった美女の裸は、思春期の少年には刺激が強すぎるだろう。
「それは大胆──というより、もうその先まで進んでいるんじゃないのですか?」
「キラーマシーンの報告では、絶対まだだということだわ。でも……時間の問題よ」
「……そうですわね。そこまで行ったら、次はクンニリングスとオナニーの手伝いは確実。
その次は、フェラチオ。あるいは、そのまま一気にセックスまで行ってしまうかも知れませんわね」
「──冗談じゃないわ!」
イオナズンが炸裂したかと思うような叫び声に、アイシスは身をすくめた。
自身で手を下すことはないとは言え、フローラ自身も、娘に次ぐ大魔法使いである。
皇后の本気の怒りは、皇帝と勇者と最強の魔女のそれをのぞけば、地上で最も恐ろしいだろう。
アイシスは、口を閉ざしてフローラが平静さを取り戻すのを待った。
しばらくして、皇后は先ほどの激昂が嘘のように、艶やかな笑みを浮かべた。
「──ごめんなさいね、取り乱しちゃって。忘れてくれるとありがたいわ」
つまり、口外したらひどい目に会うということだ。
アイシスは慎重に頷いた。
「それでね。考えたのですが、あの女狐──じゃない、売女──じゃない、
ビアンカさんがあの子と、アレをしてしまう前に、あの子に女性を経験させておこうと思ったのです」
話が少し飛躍しているが、フローラなりに考えた結論だろう。
たしかに、男の子は、いずれ童貞を捨てなければならない。
その相手が問題なのだが、アイシスはそれにふさわしいと言えた。
「──テルパドールの女王である貴女なら、あの子の初体験の相手に不足はないわ」
「たしかに、テルパドール王家は<伝説の勇者>ゆかりの者です。
あるいは勇者様のご相手に、私はふさわしいかもしれません」
アイシスは深く頷いた。
「あの子の筆下ろし、引き受けてくれるかしら?」
「よろこんで」
皇后と女王は、密約を交わすことにした。
二人の陰謀家は、女性らしく事細かに計画を立てた。
口うるさい皇后が満足する段取りが付いたころには、あたりはもう月が昇るころになっていた。
冷えた紅茶をすすりながら、アイシスは最後に質問をする。
「──ことに当たってなにか、ご注文はございますか?」
皇后は、唇にちょっと指を当てて考えた。
「そうね。大事なあの子の、せっかくの初体験だもの、できれば生でやらせてくださるかしら」
王家にはさまざまな避妊具や避妊方法が常備されているが、それを使うなと言うことだ。
たしかに、避妊具をつけての性交は、男性にとっていささか味気ないものだという。
皇后は、もちろんリュカ以外に性交経験はないし、夫相手の交わりで避妊をすることもないのだが、
耳年増な彼女は、色々と聞きかじっているのだろう。
自分が一度も避妊をしたことがないので、避妊具で快楽が減じる事を実際以上に心配しているのかもしれない。
「私は計画の頃にちょうど危険日なので、妊娠してしまうかも知れません」
「──それは、困るわね」
「私はかまいませんが。いえ、むしろそちらのほうが好都合です」
「……どういう意味かしら?」
皇后の目が、ぎん、と光る。
息子に変な虫が付かないように、異常に神経を尖らせる母親の目だ。
自分から性交を命じておいて変な虫も何もない物だが、母親とはそういうものらしい。
「……ご安心ください。勇者様の正妻の座を狙うほど若くはありません。
私は<グランバニア大帝国の忠実なる従属国の女王>で十分です。
しかし、テルパドールにもそろそろ、王位継承者が必要になってきました。
──それが<伝説の勇者>様の血を引くものなら、最高ですわ」
「……そういうことなら、かまわないわ。そちらが良ければ、ね」
「ふふふ、<伝説の勇者>様、しかもあんなに年下の殿方の子種で孕めるなんて、素敵ですわ」
アイシスは皇后に気付かれぬように舌なめずりした。
勇者は、テルパドールの民にあっては、希望の星という以上の存在だ。
アイシス自身にも、何より強い思い入れがある。
その童貞を奪える──その子を宿せるかもしれない。
それは、女王にとって最高の快楽だった。
「たっぷり楽しませてあげてね」
「もちろんですとも」
この身の全てをかけて──テルパドールの女王は、皇后ではなく、自分自身にそう誓った。