<白蟻の女王>・上
「――ぼ、僕と、結婚してください」
勇気を振り絞った、一言だった。
それは、一年の喪も明けない女(ひと)にとって、
あまりにも失礼なことばであることは、僕だって分かっていた。
でも、その時、そう言わなければ、どうしようもないくらいに、
僕の胸は、硬くて熱い、やるせない塊によってふさがっていて、
そうしなければ、きっと心臓が張り裂けてしまっていただろう。
結宇歌(ゆうか)さんは、何も言わずに僕を眺めていた。
見詰めていた、わけではない。
まるで、飼っている犬がことばをしゃべった、
とでも言うような視線で僕を眺めたのだ。
その冷たい視線に、僕は、彼女が怒り出すのか、と身を縮みこませた。
(失礼な事を言った)
ものすごく、失礼な、彼女の誇りと名誉を傷つけるようなことを言ってしまった。
僕は、そう思って、馬鹿な自分の頭を金槌かなにかで打ち割ってしまいたくなった。
だけど、彼女の感じた「失礼」とは、僕がその時思った「失礼」とはちがった意味を持っていたようだった。
「お受けしますわ、節夫(せつお)さん」
「……ほ、本当ですか!」
「ええ」
結宇歌さんは、こくりと頷いて、それからため息をついた。
そうして、天にも登る気持ちでいる僕に、頭から冷や水をかける。
テーブルの上のコップからではなく、
睫(まつげ)の長い綺麗な瞳から見据える視線と、
紅も差していないのに赤い唇から漏れることばで。
「――今の私の身体の価値など、せいぜい貴方が買える程度のものなのでしょうから」
結宇歌さんは、僕の兄貴、幸雄(ゆきお)の女だった。
正式な結婚は、していない。
遊び人で知られた兄貴が、奥さんを亡くしてすぐに連れてきた女(ひと)だ。
先妻の存命中から、男女の関係だったらしい。
地元の大きな神社の跡取り息子として育った兄貴は、
東京に出て冴えない勤め人で一生を終わる予定だった僕なんかとは違い、
色んな世事に長けていて、まあ、女性のこともお盛んだった。
だから、「鄙には稀な、臈たけた」という形容がぴったりの結宇歌さんを連れてやってきたときは、
嫂(あによめ)の一周忌が済んで、実家でぼぉっと帰りの汽車の時間を待っていた僕たちをたいそう驚かせた。
歳は、僕より五つか、六つか上だっただろうか。
三つになる娘さん──春菜(はるな)ちゃんの手を引いて神社の鳥居をくぐってきた結宇歌さんを見たとき、
僕は、心臓がとてもドキドキとして困ったことを覚えている。
あれから、十年。
連れ子が居たことがネックになって親戚中から結婚を反対された兄貴は、
表向きは結宇歌さんを神社の巫女さんとして雇い、囲った。
それは、情婦とか愛人とか、世間では言うのだろう。
「嫁として正式に籍を入れるのは、二人の間に子供が生まれてから」
親戚筋には、そんなひと昔前の農家のような約束で納得してもらった兄貴は、
結局、結宇歌さんとの間に子供が出来なかった。
──結宇歌さんを囲ってすぐに、別の新しい愛人を作ったことも、それは多分関係しているのだろう。
そうして、住み込みの巫女として神社に働き始めた結宇歌さんの生活が始まり、
そして、僕の帰郷の回数が増えた。
僕は、兄貴が囲った愛人に、恋をしたのだ。
十年も続いた、ひっそりとした、実らないはずの恋を。
──そして、それは、実ってしまった。
冷たい、冷たい、苦い果実を。
「ふう」
慣れない文字を見詰めていると、目が痛くなる。
水でも飲もう、と思って席を立ち、思い直して外に出る。
「うーん」
午前中の柔らかな日差しのもとで伸びをすると、身体中の骨がぽきぽきと鳴った。
東京での務め暮らしで、書類の整理などはお手の物のはずだけど、
ここで使うものは、難しい漢字が多くて難儀する。
神社の息子として、一応、大学で資格は取ってはいたけど、
跡取りは兄貴と決まっていたから、僕はそれほど身を入れて学んでいなかった。
まあ、兄貴もそんなに勉強したとは思えない。
だけど、卒業後も仕事としてずっと神事に関わり、
親父の死と同時に神職を継いだ兄貴と、
正真正銘、10年もそうしたことから離れていた僕では、雲泥の差があるだろう。
(それでもなれてしまうのが、田舎なんだな)
自分で苦笑してしまう。
由緒正しい神社では、神主職の代替わりなどは大変なもので、
この間も前職の子供に継がせようとしたら、年齢が足りないと本庁が別人を任命して、
地元の氏子ともめた話まである。
だが、うちの神社などは、大きくてもそれほど権威があるものでもないらしく、
僕の継承は、すんなりと通った。
生まれ育った僕は気付かなかったけど、
──ここはよっぽどの田舎だ。
僕が、不意にそれを認識したのは、
向こうで玉砂利の庭を掃く、結宇歌さんの後姿を見たからだ。
長い黒髪と、緋袴が陽光に映え、もうすぐ三十の僕よりも年上なのに、
きびきびしたその姿は、まるで少女(むすめ)のようだ。
鄙には稀な、佳人。
こんな田舎にいるべきでない、女(おんな)。
(……結宇歌さんは、ここで不便を感じているのかも知れない)
告白と、その受け入れ。
無味乾燥な、やり取り。
昨日のことだ。
その一分にも満たない会話の後、僕は結宇歌さんと話をしていなかった。
神社の中は、祭りでもない限り、神主の僕と、巫女の結宇歌さんしかいない。
なんとなく顔を合わせづらくて、朝の挨拶を済ませた後、
僕は作務所の奥に引きこもって書類とにらめっこし、
結宇歌さんはいつものように掃除を始めた。
そのことを忘れて外に出てしまったのだから、僕は間抜けだ。
しかたないから、結宇歌さんのいない裏のほうに廻る。
そして、僕は、立ち止まった。
「……ああ、枯れてたんだ」
社の裏手にある、松の木が枯れているのを見て、僕はそんな独り言をした。
神社のご神木は、表にある柏の木だけど、同じくらいの大きさのこの松は、
裏手にあることといい、枝が低く張り出していたことといい、
何より、ご神木とちがって、登っても大人に怒られないから、
子供の時分、ずいぶんと木登りしたものだ。
近所の子供たちにとって、親しみ、という点ではこちらの松の木のほうがよっぽど強い。
こちらに戻って三ヶ月にもなるけど、
今日、やっとそれに気がついたのだから、僕の鈍さも相当のものだ。
「……寿命とは思えないけどな」
柏も松も、子供の頃は天まで届くような大木に思えていたけど、
戦災で一度焼けて植え直したはずだから、まだ若いはずだ。
「病気でもしたかな──」
近寄って、木がスカスカと、虫食いだらけになっているのに気付く。
「これは……」
「――白蟻、ですわ」
不意に後ろから声をかけられて、びっくりして振り向くと、
そこには、箒を持った巫女服姿の結宇歌さんがいた。
「……白蟻?」
「ええ。何度か薬を撒いてもらったのですが」
結宇歌さんは、白くなっている松の根元を指差して言った。
「本当だ。随分喰われている」
手で触れると、松の皮はボロボロと崩れた。
この分では、表皮の残っている部分と中の硬い芯を除けば、木は空洞状態だろう。
「切らなきゃならないかな、これは」
倒れたりしたら、危ない。
「いい木だったのにな」
小学校の何年生だったか、てっぺんまで巧く昇れた日に見下ろした街の風景を
ふと思い出して、僕は柄にもなく感傷的なことばを言った。
「――関わるからです」
結宇歌さんが、不意に、そう言った。
「え?」
思わず聞き返す。
「――白蟻と、関わるからです」
結宇歌さんはそう言って、僕をまっすぐに見た。
「白蟻って……」
言われた単語は分かる。
意味も、まあ分かる。
だけど、関わる、とはどういうことだろう。
まるで松が、人でもあるかのような結宇歌さんのその言い方に、
僕は不思議さと、そして暗さを感じた。
「……なんでもありません。ところで──」
結宇歌さんは頭(かぶり)を振って、その話題を打ち切り、
そして、昨日のように僕をまた眺めた。それから、
「……今晩から,しますか?」
そう、僕に聞いた。
「え……な、何を……」
「セックスを、です」
思わず聞き返した僕に、結宇歌さんは無表情で答える。
「そんな……」
セックスなんて言葉、下世話な週刊誌か何かでしか見たことがない。
学生の頃、遊んでいる連中が好んで口にするのを聞いたことはあるが、
女性がそんなことを平気で言うのを聞くのは、
怪しげなカフェに出入りしている奴ら以外、初めてだった。
もとより、参拝客もいない午前中とは言え、神社の境内で神主と巫女がするような会話ではない。
だけども、結宇歌さんはその話題から僕が逃げる事を許さなかった。
「どうせ、いつかはすることです。
節夫さんも、――それが目的で私に求婚したのでしょう?」
「そんな……」
「いいんです」
結宇歌さんは、強い光の宿った目で僕を見ながら言った。
だけど、その光は、恋とか、愛とか、そういうものの甘味のある強さではない。
見られる僕が、身をすくませて、返す言葉もなくしてしまうような、光。
やがて、いつまでも黙っている僕に、結宇歌さんは、ふっとため息を漏らした。
それは、張り詰めた緊張を和らげるものではない、
嘲笑のような、自嘲のような、吐息だけの笑い。
「親娘二人の面倒を見てもらうんですもの、
私の身体くらいは、自由にさせてあげます。
──春菜の父親と、幸雄さんにさんざん遊ばれた、
使い古しでよろしければ、の話ですけども」
「……」
舌が乾いて、強張る。
何も言えない。言い返せない。
そんな僕を、結宇歌さんはじっと眺め続け、やがてもう一回ため息をついた。
「よろしいようですね――では、今晩から、セックスをしましょう」
それだけ言い捨てて、結宇歌さんは表のほうに歩み去り、
後に取り残された僕は、午(ひる)前の陽の光の中で、
まるで身体が凍ったように動けなかった。
「はじめに、言っておきます。――これは、売春です」
「……」
「節夫さんが、私と春菜を養ってくれることへの、お礼です」
「……」
「見ず知らずのコブ付女を食べさせてくれることが、
どれだけ大変かくらいは、私にも分かります」
「……」
「ですから、私は、節夫さんにセックスをさせてあげます。
セックスで、私ができることは、なんでも。
それで十分な謝礼になっているかどうかは──節夫さんが判断してください」
……この女(ひと)は、何を言っているのだろう。
夕飯のときにビールを飲みすぎたのが悪かったのか。
頭がしびれたようにぼうっとしている。
午後に散歩をした折に、酒屋で買い求めて、大瓶三本も飲んでしまった。
普段は日本酒も飲まない僕が、急にそんなものを買ったものだから、
酒屋の爺さんはびっくりしていたっけ。
ああ、何の話をしていたのだろう。
僕は、ぼんやりと、敷いたばかりの布団の上に正座して、
僕のほうを眺めながら、きちんきちんとした言葉を投げかけてくる結宇歌さんを見詰めた。
頭がよく働かない。
だから、彼女が言ったことばの半分も、僕は理解できていなかった。
ただ──、
「――幸雄さんも、それでいいと、私を抱きました」
結宇歌さんがそう言って、それまで無表情だった美貌に、
ちょっと妖しい微笑みを浮かべたときに、
急に世界が反転したように、どっと僕の中に強い感情が沸き立ったことだけは覚えている。
どくん、と心臓と性器が跳ね上がるように脈動する感覚。
豆灯の灯りで照らされる薄暗がりが、急に鮮明になり、
同時に視界狭窄にでもなったように、目の前の女(おんな)しか見えなくなる。
不意に、その彼女が笑った。
僕に聞こえるくらいに、声をあげて。
「節夫さんは──童貞ですか?」
「……!」
それは事実だった。
三十間近のこの年齢になるまで、僕は結婚したことがなかったし、
学生時代に恋人もいなかった。
東京で勤め人になるようになっても、どうしても吉原当りに繰り出す勇気もなく、
そのままずるずるとここまで来てしまったのだけど──。
「なら、せいぜい楽しませてあげますわ。
こんな年増女でも、節夫さんを男にしてあげるくらいのことはできますから」
そう言って、結宇歌さんは夜着の裾をまくった。
下着を着けていないそこは、僕がはじめて見る女性の部分で──。
僕は、何も考えられなくなって、結宇歌さんに抱きついた。
目に前に差し出された生々しい牝の肉。
それは、好かれてもない相手だというやるせなさも、
兄貴や、その他の、別の男たちに対する嫉妬心も、
何より、急に手に入った地位と金で女の身体を買うという行為の罪悪感さえも、
僕の中から忘れさせて、
その代わりに、自分でも怖くなるくらいに強い獣欲だけを与えた。
そして、僕は、その衝動に耐えられず、何度もその女体の上に乗り、
したたかに精を放ち続けた。
ぼんやりと覚えている。
「そう。そこ――あせらないで」
「あっ……そこ……」
「動いて……」
「そう。そのまま……出してください」
「……まだ、するのですか」
「そう……じゃ、このままもう一回……」
オレンジ色の闇の中で、僕はいったい何をしたのだろうか。
植えた野犬か、狼のように襲い掛かったのに、
僕の下の甘い肉の塊は、当たり前のようにそれを受け止め、
息をするか、水を飲むかのように、淡々とそれを進ませて行く。
吉原などで春をひさぐ女たちというのは、
あるいは、こういう風に男を捌いて行くのだろうか。
売春。
食べさせる、生活の面倒を見るということを代価と考えれば、
夫婦の間柄でさえ、それは、こういうものなのかもしれない。
しびれた頭で認識できるのは、何事も混沌とした泥のようなものだけで、
僕は、ただただ、その泥の中に、
同じくらいにどろどろとしたものを放ち続けることしかできなかった。
朝。
畳の匂い。
差し込む白い光。
小鳥のさえずる声。
――自分の姿を認識して罪悪感に打ちのめされる時間。
僕は、自分が最悪な下種であることを認識する。
生活、いや、金銭(かね)で――好きな女を自由にする。
女を、買う。
憧れていた女性を、娼婦に、売春婦にする行動。
そして、自分からそれを受け入れる女(ひと)。
罪の意識は、混乱と失望感にまみれていた。
「……おはようございます」
僕が目覚めたのに気がつき、兄の愛した女性は、髪を結い上げながらそう挨拶をした。
鏡台に向かって手早く支度をしながら、まるで、昨晩のことがなかったように、振舞う。
「……」
僕は、何も言えず、視線をそらす。
「これから毎晩――させてあげます」
後ろを向いた結宇歌さんが、そう言った。
そういうことをしても、まったく傷つかない女(おんな)の声で。
「……僕は……」
なぜか、その時、黙っていられなかった。
「僕は、貴女のことが好きです……」
なぜか、そう言った。
十年もずっと言えずにいたことばなのに。
「――そういうことを、言わないでください」
結宇歌さんは鏡台のほうに向いたまま、静かに答える。
「ごめん。でも――」
「それに、ことばが間違っています。
好きです、ではなく、好きでした、――でしょう?」
「……」
「私は、節夫さんが心の中で勝手に考えていたような女ではありません」
「……」
「私は――そうね。白蟻ですわ」
「え……?」
「覚えてらっしゃいますか、昨日の松の木」
「……ええ」
「私は、あれにたかっていた白蟻のような女です。
うかうかしていると、貴方もあの松のように喰い尽くされますわ」
「それは、どういう――」
「……ふ、ふふ」
小さく笑って、結宇歌さんは立ち上がった。
僕のほうを見もしないで、寝室から出て行く。
「……では、また今夜」
そう言って。
「……」
一人取り残された僕は、なぜか、結宇歌さんのその後姿が、
振り返ってくれるような気がして、ずっとそれを目で追った。
廊下の角を曲がるとき、結宇歌さんは一瞬立ち止まり、
だけど、そのまま足をすすめて、僕の視界から消えた。
「白蟻……」
僕は、阿呆のようにつぶやいて、今度こそ部屋に一人で取り残された。