<白蟻の女王>・下

 

 

「――節夫さんは、フェラチオというのはご存知ですか?」

オレンジ色をした幻想の世界で、結宇歌さんがささやいた。

「……こ、ことばだけなら……」

「……そうですか」

布団に横たわった僕に添い寝する年上の女(ひと)は、

僕の性器を握って弄びながらささやき続ける。

何も考えられないままに、昼間は過ぎ去り、また夜になった。

僕と結宇歌さんが交わる、夜に。

「……もとは、赤線や青線の女郎のすることだったそうです」

「は、はい……」

「それも、普通はしないことだそうです」

「そ、そうなんですか」

「ええ。商売女でも、そんなことをする人は二種類だけ」

「……」

「一つは、馴染みの上客だけにする最高のサーヴィス」

「……」

「もう一つは、もう客がつかなくなったお茶挽きの年増女郎が、

客を寄せるために使う生計(たつき)の技」

「……」

「私のは、どちらでしょうね」

「それは――」

「ふふ、私にとって、節夫さんは最高の上客です。

ですけど、やっぱり、私はお茶挽き女郎ですわね。――します」

いつの間にか、仰臥する僕の下半身のほうに移動していた

 

僕の物が、含まれる。

女の人の唇に。

結宇歌さんの口に。

ぬめり、とした柔らかいものが触れる。

「うわっ……!」

未知の快感に、僕は布団の上で、陸に上げられた魚のように跳ねた。

「ふふ――」

結宇歌さんが冷たく笑う。

格下の男を嘲笑(わら)う、軽蔑の笑み。

軽蔑しながら施しを与えるように、サーヴィスをする女(ひと)。

僕は、酷薄な女神に使える氏子のように、それを求め、

結宇歌さんは、それを受け入れる。

僕の先端に舌がそっと這う。

溝を掘りおこし、一番張り出した縁のカーブを沿い、

浮き出た血管をなぞりあげる。

そのたびに、僕は、阿呆のようにうめいて身じろぎした。

「……感じますか?」

「はい……、すごく……」

「敏感なのですね」

その声に、僕は赤面した。

女をあまり知らない――つい先日、この女性で知ったばかりだ――ことが、

なんとも恥ずかしく、情けなく思える。

こんなとき、何を言えばいいのだろうか。

「……気持ちいいです、とても。こんなのは、はじめてです」

それだけを、僕の下半身に身をうずめる影に答えた。

「……」

はっとしたように、結宇歌さんの動きが止まる。

僕を軽蔑したような含み笑いの気配さえ、消えていた。

「……?」

「……私、そんなにこれが上手くないそうです。

あま気持ちよくない、と言われてました」

ぽつりと、結宇歌さんがつぶやく。

「そんなこと――」

女性の口で愛撫してもらう。

しかも、こんな美人で、ずっと好きだった女性に。

 

「これが、気持ちいいことでなかったら、

いったい、何が気持ちいいことなのでしょう」

僕は、少々ムキになって言った。

馬鹿らしいことだけど、その時、僕は、

大事に思っている物をけなされた気分になっていたからだ。

「知りません。――幸雄さんは、私はへたくそだと言っていました」

結宇歌さんはそう言い、言ってから、はっとしたように僕を見た。

正確には、豆球の灯りの下で結宇歌さんが本当にこちらを見ているのか

わからなかったけど、僕は、そう感じていた。

「……ごめんなさい」

「いえ……」

結宇歌さんの口から兄貴の名を聞き、僕は、複雑な思いに駆られた。

「あの――」

「はい」

「兄貴のこと、好きだったのですか?」

馬鹿な問いだ。

それを聞いて、どうしようと言うのだ。

「いいえ。本当の事を言えば、それほどは――」

ほら、予想外の答えを聞かされて動揺してしまうではないか。

はい、と答えられても、僕の心はざわめいただろうに。

 

「――私は、ずっと昔に、好きな人がいました」

「……」

「今でも好きです。私の心は、ずっとその人のもの」

「……」

「でも、その人とは結ばれませんでしたし、

心がここになくても、身体は生きることを要求します」

「……

「だから、私は、こうして身体を売って生きています。

さすがに女郎さんにはなれませんが、それと同じようにして」

「……」

闇の中、僕の下半身の上に、僕の考えもつかない生き物がうずくまる。

そして僕に、僕の知らない生き方を告白する。

「……その人は、春菜ちゃんの――」

「いいえ、私のあの人は、春菜の父親ですらありません。

私は、春菜の父親にもひどい事をして逃げたのです」

「そうですか――」

「ね、私、ひどい女でしょう?」

「そんなことは――」

「だから、私は、幸雄さんや貴方に、

こうしたサーヴィスをして生きている身になったのです」

「……そんなことを言わないでください」

「まあ、――なぜ?」

結宇歌さんの声音が変わった。

それは、明らかに、僕のそのことばを待っていた声だ。

準備して、待ち構えていたから、すぐにそう言えたのだ。

「――私に、こうさせるのを期待していたのは貴方のほうですよ?」

話している間も愛撫を続けて猛々しくなっている性器を前にしては、反論もできない。

結宇歌さんは、それを十分承知して、そんな話に流れを持って言ったのだ。

長い間欲しくてやっと手に入れた――買うことができるようになったおもちゃを、

手に入ったからは散々遊び倒さなくてはいられない、助平で浅ましい心を知った上で。

セックス。

女性と交わることができる、という快楽は、一度手に入ると捨てがたい。

彼女の身の上を知った上で、

でも、僕はこの女性の肉体を好きに出来るという快感に

手を着けずにはいられない、卑怯で意思の弱い男だ。

そうして、結宇歌さんはそれさえも知り尽くしていて――。

何も言えずにいる僕に、結宇歌さんはまた軽蔑したように微笑み、僕の物をそっと咥えた。

今度は、すぐに僕は爆発して、年上の女の人の口の中に精液を噴き出す。

結宇歌さんは、僕の漏らした精を、こくり、と音を立てて嚥下した。

 

――その時、何かが、僕の中ではじけた。

 

「――結宇歌さん!!」

「何を――!」

驚いたような結宇歌さんの声。

大人しいと思っていた生き物が、突然肉食獣に変わったような驚愕を、

僕は感じ取り、そして丸ごと飲み込んだ。

力任せに、結宇歌さんの裾を割る。

「や、やめてくださ――」

慌てたような声を挙げる女(ひと)。

そこに恐怖よりも、戸惑いと羞恥を強く感じ取ったから、

僕は、それをやめなかった。

広げた太ももの奥に、顔を突っ込む。

獲物にかぶりつく野犬のように。

「何を――、やめっ──」

そんな悲鳴さえ、甘やかに感じる。

馥郁(ふくいく)とした匂い。

成熟した女性の、湿った性器の匂い。

僕は興奮し、その場所にむしゃぶりついた。

 

――舐める。

舐めあげる。

女の人の性器を。

好きだと思った女性の性器を。

10年前に心を奪われた女性の生殖器を。

「あっ……!」

太ももを閉じようとする結宇歌さんの抵抗は、

しかし、決定的なものには感じられなかった。

必死に見える。

全力に思える。

本気に思える。

だけど、それは、僕のその行為を止めるだけの力はなかった。

どこかで聞いたことがある。

(女が本気で抵抗すれば、男の力でも決して股は開けないものだ。

嫌よ、嫌よと言っていても開かせられたんなら、

まあ、向こうもその気ってこったなあ)

それは、兄貴が酔っ払って言ったことだったか、

勤め人時代の上司が宴席で上機嫌で話した猥談だったか、それは忘れた。

だけど、その話の中身だけはなぜか頭の片隅に焼け付いて離れなかった。

こうして――。

こうして、僕が唇と舌を這わせていて、本気で抗わないということは、

結宇歌さんは、――そういうことなのだろうか。

わからない。

わからないけど、僕は、それを頭の片隅に押しやって夢中で舐めた。

 

「駄目です、そんなところを――汚いです」

「汚くなんかありません。結宇歌さんのここは――素敵です」

実際、そう思う。

性器は、排出器官を兼ねる。

僕の舐めているこの粘膜の洞(うろ)のすぐ傍に、

結宇歌さんが小水をする孔(あな)がある。

でも、欲情した牡にとって、それは、嫌悪感を抱かせるものではない。

むしろ、今、抱え込んでいる牝の一番恥ずかしい部分を覗き込んでいるその実感は、

欲情を煽るだけの効果をもたらした。

「女の人のここの部分は、よくわからないです。

だから、もっと見せてください」

熱病に浮かれたような声は、僕の口から漏れたものだろうか。

僕は、前にも倍する熱い視線と、口付けを結宇歌さんのその部分に注いだ。

「ひっ」

結宇歌さんは、慌てたような声を上げる。

その声の必死さは、抵抗よりも、むしろ未知の体験への畏れを感じさせた。

未知……?

違和感のようなものを抱きかけた瞬間、結宇歌さんが仰け反った。

「ああっ、だ、だめえっ――」

それは、初めて聞く結宇歌さんの甘い悲鳴。

今まで、諦めと投げやりさが半分混じった職業的な熱心さで

僕に奉仕するだけだった女(ひと)が、初めて見せた反応。

結宇歌さんは、布団の上でびくん、びくんと跳ねた。

それが、女性が達するときの動きだというのに気がついたのは、

まるで馬鹿のように呆然とそれを眺め続け、

結宇歌さんの身体が動きを止めた頃だった。

 

「結宇歌さん――?」

返事がない。

荒い、甘やかな呼吸音だけが聞こえる。

良かった。

一瞬、彼女が死んでしまったのではないだろうか、とさえ、このときの僕は思った。

はぁはぁ、と言う息の音。

やがて――。

「ひどいです……」

か細い声が聞こえた。

「すみません、はじめてのことなので――」

「私も、初めてです。あんなことをされるのは」

「えっ」

「あっ……な、なんでもありません」

結宇歌さんは、慌てたように手を振った。

「ここを舐められるのは、初めてですか?」

僕は、思わず聞き返してしまっていた。

「そんなことはありません。でも――」

結宇歌さんは口ごもる。

そんな態度も、十年目ではじめて見る。

だから僕は自然に問いを重ね、結宇歌さんはそれにも返答した。

「でも?」

「こんなに丁寧にされたのは、はじめて、です」

 

クンニリングス。

言葉とか、何をするのかは知識としてあった。

男性がそういうことにはあまり熱心な時代ではない。

金銭(なね)や力で女性を簡単に手に入れられる男ならなおさらだろう。

でも、僕は、はじめて接する女(あいて)の性に、

自分でもびっくりするくらいに執拗な関心と愛しさを感じていた。

突然手に入った女神の、恥部。

それを愛撫するのに、手ではなく、食事を取る口や舌ですることに、

その時、僕はいささかの躊躇も覚えなかったし、

それが、結宇歌さんが、自分を殺して売り物にするサーヴィスと思っていた

フェラチオと対を成す性戯だということにも気がつかなかった。

ただただ、僕は、それをしたかった。

ただただ、僕は、それに反応する結宇歌さんが愛しかった。

「……」

「……結宇歌さん?」

沈黙が長く続いていたことに気がつき、僕は同衾する女(ひと)の名を呼んだ。

「すみません、まだ身体が動かなくて――すぐにします」

結宇歌さんが言っていることが、

僕の射精のための性行為を指していることを悟って、僕は首を振った。

「いいえ。僕は、今日はもういいです。

結宇歌さんも、今日はこのままもう寝てしまってください」

「でも――」

「いいんです」

その時、なぜか僕は、深く満足していた。

いつものように、射精をしたわけではない。

こちらの肉体的な快感は満たされたわけではないけど、

僕は、このまま二人で眠りに落ちることが、

とても素敵なことのように思えていた。

そして僕は、自分と結宇歌さんに布団をかけ、横になった。

 

――うつらうつら、というのはとても良い言葉だ。

そういう時の空気を、とてもよく表現している。

この単語を思いついた奴は、

きっと、僕が今感じている感覚をその時に抱いていたに違いない。

そう確信できる。

夢見心地。

どこかで、結宇歌さんの声がする。

僕が答える声も。

「――なぜ、あんなことをしたのですか?」

「――わかりません。ただ、そうしたかった」

「男の人が、あんなことをするべきではありません」

「そうでしょうか」

「そうです」

「結宇歌さんも、僕にしてくれたじゃないですか」

「あれは……節夫さんへのサーヴィス……です」

「じゃあ、僕のも、貴女へのサーヴィスです」

「そんな──なぜ?」

「なぜ? 理由が必要ですか?」

「必要です。私は、貴方に養われています。でも、節夫さんは――」

「――貴女に好かれたいと思っています」

「……!」

 

息を飲む様子が、しかし、映画のスクリーンの向こうのもののようにおぼろげに感じる。

僕は何を言っているのだろうか。

でも、心の中のことを、僕は正直に話していると確信していた。

僕も。

結宇歌さんも。

だから、僕はなんのてらいもなく、そう言い、

そして結宇歌さんは沈黙した。

だけど、僕は、その沈黙が永遠でない事をすでに知っていて、

だから、オレンジ色の薄暗がりの中で穏やかにそれを待ち続けた。

「私は、――そんな価値がない女です」

「僕はそうは思いません」

「ないんです」

「あります」

「私は、貴方にセックスを提供することだけしかできない人間ですよ」

「僕にとっては、大事な女(ひと)です」

「そんな価値がないと、私が自分で言っているのですから、まちがいはありません」

「たとえ、その「大事な物」を作った当の本人が否定したとしても、

それに価値があるかどうかは、貰った側が決めることではないでしょうか」

「ああ。――どうすれば、貴方を言い負かせるのでしょうか」

「言い負かす必要はないんじゃないですか」

「……私は、貴方を喰い尽くす白蟻ですよ?」

「また、それが出てきましたね。――誰かに言われたんですか」

「……はい。春菜の父親の家族に。その人が死んで、私が家を去るときに投げかけられました」

「そうですか」

 

「――自分でも、そう思います。

私は、あの人を食いつくし、羽を生やして飛び去りました。

一番好きな人の元に行こうとして」

「……」

「でも、私の羽は短くて、その人の元には届きませんでした。

そして、私は、手近な松にたどり着いて、またその木を食いつくしたのです」

「兄貴のことですね」

「はい。私は、そう言う、度し難い女です。

だから、せめて――好きにならないでください」

「嫌です。世の中には、白蟻に食われたがる松もいるんです」

「――」

「ひとつだけ、最後に一つだけいいですか?」

「はい」

「――貴女の好きな人は、どんな男だったのでしょう?

僕は、できれば、その男に近づきたい。少しでも、少しでも」

 

「――」

絶句。

明らかに、今までの沈黙とは違う、静寂。

夢うつつの中でなければ、僕はきっとそれに耐えられなかっただろう。

でも、半分、忘我の世界に身を浸していた僕は、

そんなことさえもを畏れずにそのことばを吐いた。

十年間、ずっと思っていたことだったからかもしれない。

(結宇歌さんに好かれる男はどんな男(ひと)だろうか。

できうるなら、そんな男になりたい)

弱くて才能もない僕は、それを口にすることも実行することもできなかった。

でも、そんな思いは彼女に一目ぼれしてからずっと僕の心の中にあって、

それは、今、そのままの形で僕の唇からこぼれた。

「――わかりません」

不意に、結宇歌さんが答えた。

意外な答え。

「もう、わからなくなってしまいました。

あの人がどんな男(ひと)だったのか……」

 

「……」

「多分、もうずっとそうだったのでしょうね。

私は、もう、あの男(ひと)が、

どんな顔で、どんな声をしていて、どんな男だったか、思い出せないんです」

「……」

「そうですか。そうじゃないかなって、思ってました」

「……ひどい人です、貴方は」

「そうですか」

「そうです」

「……」

「ひとつだけ、あの人のこと、思い出しました。

あの人は、貴方と同じくらいひどい人で、私の心を私よりずっと知っていました。

知っていて、ずっと黙っている、そんなところがありました」

「……」

「そして、私は――そのひどいところに心惹かれてしまったのです」

「……そうですか」

「はい」

夢。

現。

僕は、結宇歌さんと何を語らっていたのだろうか。

頭が冴えているようで、眠っているような状態の僕は、

まるで僕ではないようで、そしてどこまでも僕だった。

現実感のない、だけどこの上なく現実的な薄暗がりの中で、

僕は、すべての会話を覚えていた。

結宇歌さんも。

だから最後の言葉――その約束もはっきり覚えている。

「結宇歌さん。明日、あの松を切りましょう。手伝ってください」

「……はい」

そうして、僕らは穏やかな眠りに着いた。

 

 

 

――翌日。

僕と結宇歌さんは、裏の松を切り倒していた。

二人とも、会話もなく、ただ黙々と自分の仕事をする。

朝早く、近所の農家から借りてきた斧で

すかすかになった幹を切りつけ、何もない方へ倒す。

敷地だけは広いことと、自壊寸前まで喰われていたことで、

素人でも簡単に切り倒すことができた。

考えてみたら、業者を雇うか、あるいは近所の人手を借りるような大仕事だ。

だけど、その時、僕は、それを他の人にまかせるなんて考えもしなかった。

結宇歌さんも。

それは、僕の手で切り倒し、枝を払い、細かく切り、

そして結宇歌さんが箒で掃いて始末するべきものだったからだ。

午後までかかって、腐れた根を苦労して掘りおこす。

ぽっかりと開いた穴の奥に、何度も撒いた薬で死んでいたたくさんの蟲を見つけたとき、

僕たちは、なぜこんな作業を二人だけでやったのか、

――ようやく自分でわかった。

 

「――白蟻」

「ええ、そうです」

「松の木は、こんなにすかすかに食われています」

「そうですね。でも――倒れなかった」

「……白蟻は、みな死んでいますね」

「逃げ遅れたのでしょうか」

「――いいえ」

結宇歌さんは、掻きだしたそれと木屑を、そっと竹箒で掃き集める。

「私、ずっと勘違いをしていました」

「勘違い?」

「白蟻の女王は――飛びません」

「飛ばない?」

「はい。白蟻が飛ぶのは、女王になる前の羽根蟻のときだけ。

木を選んでそこに巣食ったら――羽を落としてずっとそこに棲み続けます」

「……」

「次の木に飛ぶのは、女王になる前の娘だけ。

女王は、ずっとその巣の――その木のもとで過ごします」

「木が枯れたら? 木が喰いつくされたら?」

「女王は、そこで死にます。――そこが彼女のいる場所ですから。

その木を選ぶということは、そういうことなのです」

木屑の塊の中には、この巣を、この松を支配した女王の死骸があるのだろう。

塵取をうまく使って、麻袋の中にそっと入れながら、そう言った。

 

「……そうですか」

「そうです――松にとっては迷惑な話でしょうが」

「いえ」

僕は、鍬で根を掘り起こす手を止めて、結宇歌さんを見た。

「たまに、そうやって選ばれたことに喜びを感じる松もあるんじゃないですかね。

――白蟻の女王が、死ぬまで居てくれるのなら」

「……おかしな松ですね」

「そういう松は、結構しぶといと思います。

――多分、その女王が死ぬまでくらいは、保(も)ちますよ。

この松と女王のように、同じ日に死ぬんです」

「……」

結宇歌さんは、箒を掃く手を止めて僕を見詰めた。

眺めるのではなく、見詰めた。

「ひどい松です。――そんなことをされたら、

白蟻はますます逃げられないじゃないですか。

その松しか食べられなくなるじゃないですか。

その松しか好きになれなくなるじゃないですか」

「逃げなければ、いいんじゃないですか

――好きになれば、いいんじゃないですか」

僕は、そう答え、

「ひどい人。――本当にひどい人」

そう言って、結宇歌さんは、ぷい、と横を向き、はじめてその頬を染めた。

 

 

fin

 

 

 

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