一日一東方

二〇〇七年 九月二十五日
(風神録・鍵山雛)

 


『やくたたず』

 

 

「何なら、あなたの厄も引き受けてあげましょうか?」

 

 

 たとえば、平坦に舗装された道の真ん中で、ちっちゃな石に躓いて転んだ。
 たとえば、宿題を忘れて先生に怒られた。頭突きされた。
 たとえば、仲の良かった誰かと喧嘩した。
 そんなちっちゃな不幸の積み重ねが、夕暮れの河川敷にひとりの男の子を連れて来る。
 ぽちゃん、ぽちゃんと放り投げる石ころは、いつか道に落ちていて、向こう見ずな男の子を躓かせた石と似ていた。男の子はそれと気付かず、水切りをするでもなく、山なりに石を放り投げる。ぽちゃん、ぽちゃん、と淡白な音が川に広がる。
 うずくまり、膝を抱えて、今日一日に起こった不幸や、向こう一週間に出会った悲しみを振り返る。どれもこれも、他人にすれば取るに足らないちっぽけなものだ。でも、塵も積もれば山となるように、不幸も積もれば絶望になる。
 はあ、とため息が漏れる。
 河川敷に生えた雑草は、座布団代わりにはちょっと痛い。困ったな、と行き場もなく立ち上がり、手に持っていた石ころを、何の気もなく川に放り投げようとして。
「めっ」
 不意に、叱りつける声が届く。
 先生は「こら!」だから違うよなぁと男の子が振り返ると、そこには、絵本から抜け出して来たような、緑色の髪をした少女がいた。紅くて大きなリボンを結び、一見動きにくそうにも見えるひらひらの服に身を包んでいる。
 男の子からちょっと離れて、周りに何かよくないオーラを漂わせ、彼女は淑やかに佇んでいた。
「石を投げ入れたら、魚が驚くでしょ」
 やや遠巻きに、彼女は言った。
 放り投げようとした石は地面に落ちた。男の子は、いきなり現れた彼女を凝視している。見ない顔だ。あれだけ目立つ姿なら、何処かで噂になっていなければおかしい。じぃ、と彼女の挙動を窺う。見つめられていると知りながら、彼女は全く動じていない。
 すると、一歩だけ、彼女が歩み寄った。
「雛よ」
 男の子は、その言葉に首を傾げる。
「名前、鍵山雛っていうの。よろしくね」
 改めて、少女は言う。にこやかに。
 男の子もようやく言葉の意味を悟り、よろしく、と告げた。それから少々詰まりながら名前を伝え、そこから何も言えなくなった。雛のことがよくわからない。何故、こんなところにいるのか。何故、そんなに遠くにいるのか。新しく里に引っ越して来たのだろうか。
 ぐるぐると思考が巡り、聞きたいことも聞き出せないまま、刻一刻と時間は過ぎる。
「ね、ちょっと聞きたいんだけど」
 一歩、雛が近付く。女の子の香りが近くなる。
 意識したつもりはないけれど、男の子はほんのちょっと後退りしそうになった。
「今、不幸せ?」
 無邪気な表情で、よくわからないことを質問する。
 その可愛らしい顔に裏があると思いたくないけれど、質問の内容が不可解だった。幸せかどうかを聞く人はたまにいるけれど、不幸せであるかどうかを聞く人はまずいない。幸せであっても嫌な気分になり、もし不幸せだったら追打ちを掛ける結果になる。
 男の子は、何も言えなかった。
 雛は続ける。
「何なら、あなたの厄を引き受けてあげましょうか?」
 一歩、一歩、確かめるように、雛が接近する。
 砂利を踏み締めるざりざりした足音は、雛だけでなく、男の子の足元からも聞こえた。やっぱり後退りしている。雛の異様な気配にしてもそうだが、それ以外にも、雛が紛れもなく女の子だから、というところが男の子には引っ掛かっていた。
 男の子の態度に気付き、雛が足を止める。雛の周囲に漂っているぼんやりとした影が、何かよくないものなのだと傍目にも解る。言葉に出来ないのがもどかしい。
「うーん、困ったなぁ……」
 男の子は、雛を警戒している。お互いの距離は初めの頃よりいくらか詰まっているけれど、これ以上を求めるには、まだまだ意志疎通が足りない。なら、どうするか。
 簡単なことだ。
 足りないのなら、埋めればよい。
「じゃ、お悩み相談」
 ぴん、と人差し指を立てる。
 派手な格好に囚われない子どもじみた仕草が、ほんのすこしだけ、男の子の緊張を解く。
 その表情を見て、雛は微笑んだ。

 

 

 なかよしの友達がいた。
 背の低い女の子だったけれど、男女の違いは意識していなかった。世界が何故男と女に分かれているのか、その理由も解らずにいたのだから、無理もないことだった。
 寺子屋に続く砂利道で転んで、膝を擦りむいた痛みに耐えながら寺子屋に辿り着いたのはいいが、宿題の存在を忘れていて先生にこっぴどく怒られた。膝だけじゃなく、頭も痛くなった。
 お昼休みに、そのことを友達にからかわれて、むっとした。しばらく不機嫌な顔をしていたら、そんなに怒ることないじゃない、と詰られた。その言い方が癪に障り、掴み合いの喧嘩になりそうになった。でも、ちょっと前なら女の子も全力で抵抗してきたのに、そのときは、きゃっ、なんて耳障りな悲鳴をあげて、反撃することもなく肩を震わせるだけだった。予想もしなかった女の子の反応に驚き、男の子が慌てて手を離したときにはもう、女の子は涙ぐんでいた。
 それから女の子の周りには人垣が出来て、男の子には先生の拳骨が喰らわされた。
 先生は言った。女の子には、優しくしなさい。
 男の子には、その意味がよくわからなかった。

 

 

 暮れなずむ空の橙が、棲んだ清流も雑草にまみれた河川敷も、みな黄昏に染めていく。
 ぼそぼそとした独白に、雛は興味深く耳を澄ませる。
 話が終わると、男の子は抱えた膝の間に顔を埋めた。どうしたらいいかわからない、猫のように丸まった背中がそう言っているような気がして、雛はぽんぽんと背中を叩いた。
「可愛いなぁ」
 決して馬鹿にする意図はなかったのだが、男の子はすこしむっとしたようだった。
 雛の周囲に漂っている不吉な影は、肩を擦り寄せ合うくらい近ければ相手に被害が及ばない。それでなくても、厄を制御しているのは雛だから、男の子に害を与えないようにすることなど造作もないのだ。
 頬を膨らませている男の子に、雛は優しく語りかける。
「みんな、初めはそうなのよ。初めは、何もわからないの」
 雛の言うことは、男の子には少し難しかった。けれど、男の子はなんとか理解しようとした。このままずっと、膝を抱えているわけにはいかないから。あの子と、仲違いしたまま過ごしていくのは嫌だから。
 雛の指が、今はもう膨らんでいない男の子の頬に触れる。その指先があまりにも柔らかく温かいものだったから、男の子は不意にそれから逃れようとした。けれど、雛の手が背中に回っていたから、逃げることも、雛を見つめ返すことも出来ずにいた。
「あなたはそれを不幸だと思うかもしれないけど、本当はそうじゃないのよ。それは、これから積み重ねられる幸せの始まりなんだから」
 逃げないでね、と男の子に言い聞かせる。
 こんなに間近で、女の人を見るのは初めてだった。きめ細かく、柔らかそうな白い肌。抱き締めれば折れてしまいそうな身体は、今でこそ男の子より大きいけれど、大人になればそれも逆転する。
 まだ、男と女の違いはよくわからない。
 でも、どこか違う。何かが違う。それがわかって、男の子は、心臓がばくばくしているのを自覚した。
「じゃ、あなたの厄を、引き受けてあげましょう」
 威勢良く、拍手を叩く。
 膝を抱えていた男の子も、仰々しく雑草の上に正座する。雛は足を崩したまま男の子に擦り寄り、どきどきと萎縮している男の子の頬に、その手のひらを浸した。
 温もりがある。
 お互いの顔が紅く染まっていても、夕暮れの光は素肌に浮き出る高揚の感情を覆い隠す。
「元気になる、おまじない」
 耳元で、そっと囁く。
 すべてが橙に染まる世界の中で、厄を吸い取る神様と、何も知らない男の子の影が重なる。
 ――ちゅっ。

 

 

 後日、寺子屋。
 部屋に入ると、一瞬、ざわざわと騒がしくなる。まだ、昨日のことを引きずっていると見えて、特に女子の目は厳しかった。けれど、逃げない。くっと前を向いて、男の子はそっぽを向いている女の子に歩み寄る。
 頬杖を突いたまま、つん、と窓の向こう側を眺めている女の子に、男の子はゆっくりと言う。
「ごめんね」
 仲直りの握手のつもりで、手を差し伸べる。女の子はちらっと男の子を窺い、むっとした表情のまま、男の子を見上げる。
「わたしがどうして怒ってるか、わかってる?」
 返答次第で、絶縁もあり得るという言い方だった。それは困る。男の子は女の子が怒っている理由を考えたが、いまいちよくわからない。雛は何と言っていただろう、何も言っていなかった気がする。肝心なときに、役に立たない。でも、わかったことはあるはずだった。
 考えろ。
 女の子は、じっと黙って待っている。
 でも、考えてもわからないなら、行動に移すべきだ。
 男の子は、ほんのちょっと、女の子に近付く。女の子は、ほんのすこしだけ、からだを引く。
 それはまるで磁石のように、反発しながら、惹かれ合う。
「女の子には、優しくしなさい」
「それ、慧音先生の台詞」
「うん」
 頷くと、女の子は呆れたように言った。
「ばか」
「そうかも」
 ――でも、本当にそう思ってるんだよ。
 男の子は、女の子の肩に手のひらを置く。ひくッ、と女の子の肩が震えたけれど、嫌がっている素振りじゃなかったから、男の子は安堵した。掴み合いの喧嘩じゃなく、仲直りのために、あの日のおまじないを実践しよう。
 上手くいけば、きっとこれから、幸せなことが始まるんだから。
「……ぁ、ちょ」
 女の子が、焦ったような声をあげる。
 衆人環視の現場にもかかわらず、男の子は、女の子の顔に擦り寄り。
 ――ちゅっ。
 躊躇いもなく、口付けの意味も知らず、ほっぺたに触れるだけの優しいキスを。
 それは、仲直りのおまじない。
「……うん。これで、どう?」
 男の子は、唇を離した後に、にっこりと笑う。
 それを見た女の子は、顔を真っ赤にして、思いッ切り男の子の頬にビンタを喰らわせた。
「――――」
 ああ、もう。
 薄れゆく意識の中で、なんて不幸なんだろう、と男の子は思った。

 

 

 

 



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2007年9月25日 藤村流

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