夜営抄 〜 Camping Night 〜
月光に浸された空、泳ぐような体捌きで、敵が放つ弾雨をかいくぐる。連続する激しいグレイズ音をすぐそばに聞き、黒髪とそこに映える赤のリボンを疾風に弄られながら、霊夢の顔つきは泰然としたものだった。
いやむしろ、
「ぁふ……ねむぃ」
腑抜けきっていた。
敵の放つ使い魔が、その寝ぼけた鼻先に噛み付かんと猛々しく迫る。が、霊夢は玉串をやる気なさげに左右へ振り振り、これを軽くいなしてしまう。
その一方でお札を飛ばして、逆に敵の鼻面をひっぱたいていた。主たる霊夢とは対照的に、お札たちはやる気満々、猛る猟犬の如く敵へと飛び掛かっていくのだった。
ほとんど往復びんたの勢いでお札に激しく顔を張られ、敵である少女は虚空によろめく。
「……神器を恃みながら、妖ひとつ落とすこと能はず、か。いくら真実の満月を隠されたとは言え」
少女は霊夢と比べたら失礼なくらいに真剣な顔つきで、この戦いに臨んでいた。なのに虚しくも追い詰められているのは彼女の方である。かくもこの世は理不尽であった。
彼女は焦燥に満ちた表情で、けったいな形の帽子の内から、新たなスペルカードを引っ張り出す。祈るかのような神妙な面持ちとなってカードを額の前にかざし、偽りの月の下に、開いた。
蒼い光が虚空に溢れ出す。月光をも押し返し、夜空の黒を自らの色に塗り替える、蒼き光芒の刃たち。鋭い切っ先で天空に幾何学模様を刻みつけながら、巫女を串刺しにせんと秩序立って走る。
これに我らが霊夢は、
「あー、まぶしぃ……」
やっぱり覇気のない声でつぶやきながら、しょぼしょぼとする目をこすっていた。
そんなざまではさすがに避けきれるものでもなかろう。為す術もなく、押し寄せる光の洪水に飲み込まれ、溺死するかと見えた。
決死の間際、ほんの刹那の時間だった。
神々しいまでに蒼く染まった空、霊夢の背後にすっとひと筋、紫色の裂け目が走ったのだ。
裂け目はぱっくりと大きく開き、そこから生っ白い細腕がにゅっと伸びて、霊夢の襟首を引っ掴んだ。
「あれ」
とまばたきする猶予もなく霊夢は紫色の口腔に引きずり込まれ、代わりに扇で口元を隠した金髪の笑顔がそこから覗く。
「ごめんあそばせ」
笑顔は敵にささやいて、空いた側の手で一枚のスペルカードを虚空にぽいっと放る。
永夜四重結界。
唐突に広がった紫色の混沌が、夜空の認識を瞬時に書き換えた。看板どおり、四段構えの凶悪な結界が音の速さで展開される。迫り来る蒼い刃の矛先を、最初の一陣はしたたかに跳ね除け、次の陣は粉々に打ち砕き、第三陣が完膚なきまでに吹き飛ばす。
そして最後の第四波、ひと際強烈な禍々しさに輝くこれは、既に裸同然となっていた敵本体を容赦なく叩き伏せ、さらに混沌の渦中へと引きずり込んだ。周辺の夜空ごと身中に飲み下しながら、拡大から収縮へと急反転。見る見る小さくなっていき、究極まで縮むと、ついには自らも含めて跡形も残さずに消失した。
不意の無音。
蒼も紫も拭われて、空は元の漆黒と歪んだ月明かりとを取り戻す。
静寂の中、再び紫色の口が開いた。目を回しかけている霊夢と、ずたぼろの姿に変貌した敵が、そこからぺっと吐き出される。
「はい、おしまい」
にこやか柔和な微笑が、戦いの終わりを告げた。
☆
「ぴっ、ぴっ、ぽーん。八雲紫が午前一時をお知らせいたします」
弾幕の絶えた空、月は戦闘が始まる前に比べて、わずかに地平の側へとすり寄っていた。だがなおも高い位置から、夜空にたたずむふたりの少女を見下ろしている。
「今の戦いで一時間も浪費しちゃったわ。霊夢のせいよ」
「いきなり連れ出してくれた上に正面で戦わせといて、どの口でそういうことを言うか」
霊夢はげんなりした顔で、隣に浮かぶ妖怪を力なく睨む。
お隣、八雲紫は、涼しい顔でうふふと笑った。
「だって。私が戦ったら、あなたを連れ出した意味がないじゃないの」
「……やっぱり帰るわ。私はあんたと違って、昼間まるまる寝てるわけじゃないんだから」
ふぁ、と霊夢は大きなあくびをしながら、踵を返そうとする。蛍狩りとかゲリラ鳥目コンサートとか、夜はもううんざりするほど楽しんだ彼女だった。
紫はそれを遮ろうとせず、ただ微笑を繰り返した。
「冗談きついわ、霊夢ったら。あなたも、もう引き返せないってこと、分かってるくせに」
それまで口もとに広げていた扇をぱちんと畳み、それで頭上の月を指し示す。
「あれをあのまま放っておいて、安眠なんてできるのかしら」
「できるわよ。人間だもの」
霊夢は断言してのけ、だが引き返しかけていた足も止めた。ふぇ、とあくびなのか嘆息なのかいまいち判然としないものを口から漏らす。
「でもまあ確かに、これ以上の放置はまずいわね。また私の怠慢だって思われちゃう」
「そんな霊夢に今宵、名誉挽回のチャンスを用意してあげたの。私の心づくしを分かってくれたかしら?」
紫はうそぶき、それから霊夢の顔色を見て、かすかに笑みを翳らせた。
「でもほんとにお疲れみたいね。ちょっと休んでいきましょうか」
扇を持った手がゆっくりと下ろされ、足下、地上を示す。
その辺りには本来、人里が横たわっているはずだった。
しかし今は歴史上から隠蔽されていて、目にすることができない。少なくとも霊夢には。
「あの半獣、まだ里を元に戻さないのかしら。怠慢だわ」
「お疲れなんでしょう。あれだけ霊夢にいびられたんだもの」
「とどめを刺したのはあんただけどね」
隠れた里も、紫の目には丸見えらしい。細められた瞳には、ただ夜が映っているばかりだったが。
「里の近くにとどまってると、またさっきの子に絡まれちゃうかしら。しっぽりするなら、そうね、こっちがいいわ」
などと沃野の上を過ぎ、川の上を越え、潅木の間を縫って、薄暗い森の樹間へと霊夢をいざなった。
しっぽりはしないけど、と応じつつ、霊夢はついていく。紫の言うままに従うのはどうだろうかとも思ったが、疲労と睡魔が危機感を鈍らせていた。少女は胡散臭い妖怪の甘言に乗せられて、むざむざ暗がりへと連れ込まれてしまうのだった。哀れ、可憐な花は散らされてしまうのか。か?
「別にいかがわしいことはしないわよ。たぶん」
紫の言葉を裏付けるかのように、不意に頭上が明るさを取り戻す。ふたりは森の中の開けた一角へと辿り着いていた。
森に入ってからここまでの道中ずっと、鬱蒼と頭上を覆っていた木々の屋根が、そこだけ取り払われたかのようになっていて、月光が一切遮られることなく降り注いでいる。月明かりで闇から浮き上がった空間に、ふたりは降り立った。
足の裏を硬い大地に預けて、霊夢は無意識にほっと安堵の息をついていた。無重力の巫女らしくもない所作だが、寝床に就いたなりを紫に叩き起こされてからこっち、かなりの時間を飛び続けてきたのだ。ちょっとは大地が恋しくもなろうというものだった。
ついでにお茶も恋しいわ、とつぶやきながら、近くに転がっていた倒木へ腰掛ける。ちょうど椅子とするに手頃な太さと形状を兼ね備えた丸太は、霊夢の柔らかくも発育期の堅さが残った臀部をその無骨な体躯でしかと受け止めるのだった。
紫も霊夢の隣に腰を下ろす。倒木は少女の優に五、六人は乗せられそうなくらいの長さを有していたのだが、
「……なんでぴったりくっついてくるのよ」
ほとんど肩が触れ合うくらいの近くに占位を試みてきた紫を、霊夢は邪険に押しのけた。
そんなに強く突いたつもりはないのだが、紫はごろごろと勢いよく丸太の端まで転がっていき、その先に不意に開いたスキマへ飛び込んで、消えた。
一瞬後、霊夢の背後から何食わぬ顔で現れる。ひとりではなく、藍を傍らに伴っていた。
「ちょっとここで霊夢と夜を語らうから。野暮が入らないように、辺りを見回っていて」
忠実な式は主の命令に小さくうなずき、高速横回転しながら木々の作る闇へと溶け消えていった。
紫はそれを最後まで見送らず、改めて霊夢の隣に座る。今度はちゃんと、こぶし三個分くらいの間を空けて。
彼女の代わりにというわけでもないのだが、霊夢は藍の消えた辺りにしばらく目をやっていた。あの式神もさっきまで一緒に戦っていたというのに、大変だなあ、などと思いながら。実際、紫以上に藍は活躍していたと記憶している。あの悩ましげなほどにふさふさとした金色の九尾でもって無数の敵をくすぐり撫で回し……じゃなくて、叩きのめしてきたのだ。
それに比べて、こいつは。隣のものぐさ妖怪に憮然とした目つきを向ける。
紫は自分の前に新たなスキマを開いて、鼻歌混じりのなんとも楽しげな様子でその中をまさぐっていた。耳をくすぐるメロディは、苔むした古臭さと穏やかさとで彩られていた。
「ところでさ。こんなのんびりしててもいいの? 私としては助かるけど」
霊夢の問いに、紫はスキマに顔を突っ込んだりしながら応じた。
「大丈夫よ。今はきっちり夜も止まってるから」
「でもさっき、一時間も進んだって」
霊夢は上空を仰ぎ、眉をひそめる。
「神社を出てから、けっこう月も動いているみたいだし」
「それは仕方ないわよ。戦いの時はそっちに力を割り振らなければいけないから、完全に夜の進行を止めておくことはできないもの」
紫の声が急に遠くなった。見ればその体が、深く腰の辺りまでスキマにめり込んでいる。
再びその顔が見えたと思ったら、彼女は両手に薬缶やら湯飲みやら何かの缶やら、雑多な小物を数多く抱えこんでいた。それらを地面に置きながら、続ける。
「特にさっきの戦いの終わりみたいに、霊夢のピンチに颯爽と駆けつけようとしたら、時間の境界の制御にはほとんど意識を回せなくなるわ。だから、楽勝だった蟲やら夜雀やらの時よりも時間が進むのを許してしまったの」
「颯爽と駆けつけなくていいから、普通に一緒に戦ってよ。……けどあんたの出鱈目な能力も、意外に万能じゃないのね」
まあ、本当に万能ならば、そもそもこうして自ら異変の解決に出張る必要さえないのかもしれないが。それに霊夢に助力を頼んでくる必要もなかったろう。
「いくら境界をいじっても、過程を完全に無視してしまえるわけじゃないもの」
紫はうっすらと霊夢に笑いかける。
「それでも、ここまで上手くいってる方だと思うわ。本来の時間の流れなら、そろそろ夜明けくらいにはなってるんじゃないかしら?」
「どうりで」
霊夢は改めてげんなりとした顔を作った。紫の言葉が確かなら、四半日は飛び続けていたということになる。自分の頑張りを褒めてあげたくなった。うん、私はよくやった。だから、もうここで帰っても、みんな許してくれるんじゃないかしら。だめ?
「だいたいさあ、この異変ってば、どうもえらい規模のものみたいじゃない。一夜で解決ってのが、どだい無理な話なのよ。霧とか冬とかの時は、何日か跨いだのよ?」
「だけどこの異変とは夜にしか向き合えない。強行軍もやむなしですわ」
紫はその吸い込まれそうなくらいに深い紫色の瞳で霊夢のことを覗き込み、
「さて、だからこそ、休みましょう。夜には待ってもらえばいいわ。こちらが都合を整えてあげてるんだから、向こうにもそれくらいの譲歩はしてもらわないとね」
湯飲みをふたつ、掲げて見せた。
霊夢に湯飲みを一個渡すと、紫は次に円くて平べったい缶を拾い上げた。月明かりに、缶の縁に鈍色の光が浮かぶ。
霊夢の瞳もきらきら輝いた。
「缶詰?」
「そうよ。食べたらお腹を壊す種類の、ね」
細い指が蓋を剥がす。缶の中身は、色気も何もない、蝋のような物質だった。ひと目で食べ物でないと知れ、霊夢はあからさまに落胆する。
「固形燃料よ」
紫は袖口から燐寸を取り出すと、火を点け、缶の上に置いた。蝋のような物質の表面が熱に溶けて抉れたようになり、やがて発火する。
月明かりの下では、やはりちっぽけな明かりに過ぎなかったが。それでもちろちろと揺れるオレンジの火は、紫の横顔に濃い陰影を作り、その美貌をより一層妖しげなものに見せた。ああ、妖怪なんだなあと、霊夢は奇妙に改まった風に感じ入る。
小さくも生き生きと火が燃え盛る缶の上に、紫は黄銅色の薬缶を直に乗せた。その手つきから見るに、水が一杯に満たされているらしい。お湯と沸くまでには少しかかるだろう。
霊夢は手渡された湯飲みに目を落とした。どこか見覚えのある絵柄の焼き物。――ああ、そうだ。神社で使ってるやつにそっくりじゃないか。
「そりゃそうよ。あなたが使ってるの、私の家から持っていったやつじゃない」
「そうだっけ?」
紫に言われて、霊夢はさらに記憶の糸を手繰る。そして思い出した。あの長い冬の解決に奔走していたとき、迷い込んだマヨヒガから略奪もとい拝借したのだった。
マヨヒガから何かしらの家財などを持ち帰れば裕福になれる、そんな伝承がある。それを信じての行動だった。湯飲み一個を土産に選んだのは、異変解決の途上ということもあって、なるべくかさばらないものを望んだためだ。
「騙されたわ」
湯飲みの中に溜め息をこぼす。言い伝えは霊夢を裏切った。マヨヒガ由来の湯飲みにはなんのご利益もなく、霊夢は冬以前と同じく、あまり豊かとは言い難い生活を続けている。神社の素敵な賽銭箱も、閑古鳥が大合唱している有様だ。香霖堂の台所事情をも凌駕するひどさだった。
逆恨みとは知りつつ、マヨヒガの責任者と思しき紫に非難めいた眼差しを向ける。返ってきたのは、やっぱり涼やかな微笑だった。
「仕方ないわよ。その湯のみ、純マヨヒガ産じゃないし」
「え。そうなの?」
「外の世界の焼き物市で投売りされてたのを買ってきたのだから。半ダースでバナナひと房と同じくらいのお値段だったかしら」
「安っ」
霊夢は愕然と、手の中の湯飲みを凝視した。実を言えば確かに安っぽいなーとか密かに思っていたのだが、そんなこと口にしたら霊験が失われると思って、ぐっと堪えてきてたのに。たまに本殿に飾って祈祷の真似事もしてたのに。
「うちには六個も必要ないから、あなたに一個くらい持っていかれても困らなかったし。安物だし」
紫のくすくす笑いに霊夢は頬を膨らませ、だが憤りは激発する前に勢いを失い、霧散した。ま、いいかぁ。と淡白につぶやく。それから湯飲みを手に入れたときのことを、なんとはなしに思い返した。
「そう言えばあの子、ええと、橙? 今日は連れてきてないみたいだけど。元気にしてる?」
「元気よー。あの子の今夜はお留守番」
「そう。壮健なのは何よりね」
「あなたにいじめられた挙句に略奪されたことも、もう根に持ってないみたいよぉ?」
「……あんな湯飲み、いつでも返すから。黒猫の呪いとかは勘弁して」
そんなことを話している間に、お湯が沸きはじめていた。薬缶の注ぎ口から湯気と共に、しゅんしゅんと活気ある音が上がる。
それを見た霊夢の脳裏に、ふと閃くものがあった。
「あなたの能力使えばさ、わざわざ待たなくても一気に沸騰させられたんじゃない?」
「前にやったことあるわ。でも失敗しちゃった。沸点下げるのは駄目ねー」
「そりゃそうでしょ」
高山で米を炊くようなものじゃないか。見た目は沸騰していても温度は低いまま、そんなぬるま湯で淹れたお茶が美味しくなるはずもない。今夜のことといい、もっと方法を選びなさいよと、霊夢は呆れ顔になった。
のんきに言葉を交わすふたりを急かすかのように、薬缶がしゅしゅんしゅんと気忙しげな声を上げ続けている。はいはい、と紫が取っ手に手を伸ばし、
「あつっ」
弾かれたように指先を引っ込め、耳たぶをつまんだ。霊夢のを。
「いや、自分のつまみなさいよ」
「霊夢ったら、冷たいわね」
「耳たぶ冷たいわよそりゃ」
押しのけられながら、人を食った笑みを絶やさぬ紫だった。
冷ややかな緑の息遣いで満ちていた空間に、温かで深みある茶の芳香がゆっくりと広がる。
薬缶の中に生まれた熱湯は、急須の内でお茶へと変異を遂げた後、それぞれの湯飲みへと移されていた。
「さあ霊夢お待ちかね、飲茶の時間よ。さすがに満漢全席までは用意できないけれど」
お茶請けの点心まで幾種類も用意しての、紫の言葉だった。よく分からないところで気の回る妖怪である。が、霊夢としては拒む理由も無い。
霊夢は温かみを掌で確かめながら湯飲みを唇へと運び、そっとひと口すすった。
いきなり叫ぶ。
「のーっ」
「え、あら? 美味しくなかった? とっときの玉露なんだけど」
「濃っ」
「あ、うん。濃いのね」
ほんの一瞬、紫は驚いたかのように目を見開き、だがすぐに細めて微笑した。彼女が動揺したところを見るのは、霊夢も久々のことだった。
久々と言っても、考えてみれば彼女と出会ってから、まだ半年も経っていない。その短い間に起きたことをなんとなく回顧してみて、その走馬灯の如き目まぐるしさにすぐさま後悔した。今年は色々とありすぎた。いや、現在進行形で、ありすぎる。厄年かなんかだろうか、どこかのメイド長じゃあるまいし。
思わず額に手を当てていると、紫は何か勘違いしたらしい。
「そんなに濃かったかしら? 普段、よほど薄めたのを飲んでるのね。でも眠気覚ましには、これくらいのがいいんですよ」
「……お気遣い、どうも」
引きつり気味の笑みを返し、ふた口目を喉に流す。やっぱり濃いけれど、なるほど味は確かなものだった。ほう、と今度は満足の吐息を漏らす。紫のそっと優しげに笑むのが感じられ、頬にくすぐったいものを覚えた。
しばし、声を絶やして、飲食に意識を注ぐ。月明かりの外、森の闇に散りばめられた虫の声だけが、聞こえてくる音の全てだった。
湯飲みが空くと、すぐに紫が急須を掲げて、問うように小首を傾げてきた。うなずき返すと、静かに新たなお茶を注いでくれる。
やっぱりこいつのことは大概分かんないなあ、などと考えながら、その分かんない奴の手によって注がれたお茶をまた口へと運んだ。まあ得体の知れない手に淹れられたところで、お茶の味が変わるものでもなし。一般論においては、だけど。
飲んで、食べて。胸の奥底が温まり、満たされていく。夜の水底、剣呑な妖怪を隣にしながら、不思議なくらいの安らぎを覚えた。気が緩む。
ぼんやりした頭で、ふと思った。紫の方は、どうなのだろう。そも、今夜の道連れに私を選んだのは、どういう基準があってのことだったのか。
まあどうでもいいけれど――早々に割り切り、そう内心でつぶやいたところで、はたと気付く。こんな無頓着なところに付け込まれたのかもしれない、と。
ふぁ、とあくびを漏らす。眠気覚ましどころか、却って睡魔はその呪力を強めつつあった。まぶたが重い。
まずいなあとは考えつつも、霊夢は誘惑に抗うことなく目を閉ざした。まぶたの向こう、小さな火の精たちの踊る様がうっすらと感じられる。耳にささやきかけてくる夜の息吹が、少しずつ少しずつ、遠ざかっていく。
再び目を開くと、辺りは薄闇に閉ざされていた。
地面に置かれている缶へ目をやると、火は既に絶えていた。ついでに言うと、なぜか缶は地面ごと横倒しになっていた。
まあ、そんなことがあるはずもなく。横倒しになっているのは自分の方だと、霊夢はすぐに察した。
右の耳と頬が、温かくて柔らかいものに支えられている。視線を左に向けると、予想通り、紫が細めた眼差しで見下ろしてきていた。
「おはようございます」
「……なにやってんだか」
つぶやきは紫に向けたものか、あるいは自分へのものか。きっと両方だろう。
馬鹿らしさと面倒くささ、あと不覚ながらもほんのちょっとの心地よさを覚えて、脱力しきった身をすぐさま起こすことができなかった。
どれくらい眠っていたのだろう。少しだが、頭がすっきりしているように思う。もしかすると紫にいじられたのかもしれない、眠気の境界みたいなものを。
ふぃ、とあくびをしながら視線を巡らせると、空き缶の向こうに藍が立っているのを見つけた。自分の主が人間に膝枕してあげている光景を前にして、なんだか寂しげに微笑んでいる。
「……おい」
さすがにばつが悪くなり、霊夢はやっとこ身を起こす気になった。紫の腿から頬を離した途端、そこをひんやりとした夜気に撫でられた。
ふぁ、と霊夢は口から小さな音を漏らし、続けざま、
「……くちゅん」
くしゃみした。
「なんか、冷えてきてない?」
「頃合いってことね。そろそろ行きましょうか」
紫は藍をそばに呼ぶと、まずお茶を注いであげて、それから場の片付けを命じた。
開かれたスキマに、式は両手に九尾も用いて、湯飲みやら薬缶やらをぽいぽいと無造作に放り込んでいく。立つ式跡を濁さず。
その傍らに霊夢と紫は立ち、目的を再確認するかのように、月の空を見上げていた。
「親切な半獣に目的地も教えてもらってあるし、もうひと踏ん張りってところかしらね」
紫の言葉に、霊夢はどうかしらと首をひねる。
「これまでの経験と勘からすると、まだ折り返しくらいのような気もするんだけど。ところで……目的地ってあっちだったわよね」
「こっちよ」
全く別々の方角を指差すふたりに、藍が背を向けたまま尻尾を一本振って、また別の方向を示した。
「そちらですよ」
「ほら言ったとおりじゃない」
「霊夢の指先とは一二〇度は違う向きね」
「あんたは三〇〇度違う」
ふたりのやり取りに、片付けを終えた藍は呆れたように肩をすくめながら、自らもスキマの中へと消えていった。
じき、霊夢と紫も言い合いに飽きて、どちらからともなく宙へと浮き上がった。森を見下ろす高さに至り、霊夢は最後とばかり、大きなあくびをかます。
と、隣の紫も「ふゅ」、と気の抜けた吐息をこぼした。
霊夢は目を丸くした。妖怪にもあくびって伝染するのね、と。
「あんたも本当ならおねむの時間だものねぇ」
「ごめんあそばせ」
再び口元に扇を広げ、紫は目を細める。目尻に小さなしずくが浮かんでいた。
ふぅん、と霊夢のあいまいにうなずいた声を、夜風がいずこかへとさらっていった。その風に我が身も乗せて、ふたりは地平目指して飛びはじめる。
遠く、月明かりに高々と伸びる竹の林が、視界に入ってきた。その彼方の空に、星がひと筋、流れ落ちるのも。
星屑が夜の帳に描いた軌跡を捉えて、霊夢は眉を寄せる。
「箒星か。凶兆ねぇ」
「橙、いい子にしてるかしら」
「……でも荒事があるなら、却っておあつらえ向きだわ。あんたへのさっきの借り、すぐにでも返せるかもしれない」
「あら、返していただけるとは思っていませんでした。いつもあの雑貨屋さんとかにしているみたい、踏み倒されるものかと」
「あなた相手じゃ、後々面倒そうだもの」
かすかな溜め息。嘆息したいのはむしろここにはいない別の人だろうけれど、そんなことを意に介するようなふたりではなかった。
「ま、そういうことだから。次の戦いでちゃっちゃと被弾してみるといいわ。気が向いたら助けてあげるから」
「ひどいわねぇ」
大きな異変に覆われた空の下、どこまでものんきな声を響かせて、ふたりは征く。
名も無き森の奥深く、月明かりに照らし出された一角。木々のまどろむ夜闇には、いまだ高級なお茶の香が溶け残っており、転がっている倒木に触れれば、深く染み入った少女たちの体温をなおも偲ぶことができる。永い夜の狭間、異変の片隅に築かれていた夜営の、それがわずかな痕跡だった。
そこで為された少女たちのやり取りを記憶にとどめるものは、天より見下ろす歪な望月だけで。それもきっと、幻想郷を覆う異変が拭い去られるのと共に、消え去るに違いなかった。
ささやかで、少女がこぼすあくびのように泡沫じみた、これはそんな、他愛のない小夜話。
余録 『永夜の報い ~ Imperishable Night』
歪んだ月空に、星の群れが流れる。七色の、いやに乙女乙女しく煌く、生命力に溢れた流星群。
小さな星雲を身の周りに侍らせて、モノクロームに輝く少女が元気一杯に竹林を飛び跳ねていた。
それと対峙する紫は、カラフルな星たちの瞬きに、目をしょぼしょぼさせていた。攻撃は藍に任せて、自身は押し寄せる星々の潮流を掻き分けながら、あくびを繰り返している。
何度目かのあくびのタイミングを、敵は読んでいたらしかった。星のきらめきに紛れるようにして、手にした小さくも凶悪な炉を頭上高々と掲げ、振り下ろすように紫へと向ける。
「紫様!」
敵と絡み合うような形にあった藍が警告の声を発するが、遅きに失した。それに半呼吸も遅れず、魔法使いは魔砲のスペルカードを切っていた。
ふゅ、とあくびを噛み殺すことに専念していた紫は、この砲撃を避け切るための初動が得られなかった。周囲の大気が震え、薄く光を帯びていくことに
「あら」と目を丸くし、残された時間にできたことは扇で口元を隠すことのみ。
決死の境界、その線上を、残像を曳きつつ飛び越えたのは紅白の影だった。紫の頭を踏みつけるようにして、彼女の前へと躍り出る。
開かれた砲門の正面に身をさらして、霊夢はその手に一枚のスペルカードを盾の如くかざし、震える空気に鋭い声を通した。
「遅い!」
大喝の言葉は伊達ではなかった。常にない、流星の魔法使いをも凌ぐ速さで、霊夢は印を切り、カードを切る。
夢想封印・瞬。
竹林を貫いて迫る魔砲を、しかし同時に発生した、よりまばゆい光輝の一群が受け止め、弾き返す。戦場たる竹林はおろか夜空までをも神気に溢るる紅と白に染めて、暴力的に輝く光の玉たちは、驚愕に顔を引きつらせる敵めがけて殺到した。血も涙もないブローが連続で敵を叩く。
ふぎゅ、と悲鳴を上げて敵はのけぞり、その動きにつれてミニ八卦炉の砲門が明後日の方向に逸れる。純白の光線が凶暴に荒れ狂って、竹の木々を無残に薙ぎ、その根元の土を焼き払っていく。
その隙に霊夢は、背後の紫を振り返っていた。
「ぼーっとしてないでよ、と言いたいところだけど。これで借りは返したからね」
「素直じゃないわねぇ。私のことが心配だったって、顔に書いてあるわよ」
「眠すぎて鳥目にでもなってるんじゃない? いいから、ほら、しゃきっとする。こんなところで寝たら、風邪ひくわよ」
敵はまだ倒れていない。虚空になおも踏みとどまって、新たな、恐らくは最後のスペルカードを抜こうとしていた。再び紫が前に立ち、霊夢は素早く退く。すれ違いに、低くささやき合いながら。
「あなたを誘った甲斐があったわ。ひとりで飲むお茶は味気ないもの」
「お茶に誘われるのは、まあいいんだけどね。できれば次は、もっと静かな夜がいいわ」
それもこれも、まずは目の前に立ちはだかる相手に、この永夜を生み出したツケを支払ってからだ。大事の前の些事とばかり、ふたりは大きく構える素振りもなく、ただあくび混じりのぼやけた顔つきのみを見せている。
異変の狭間に見た安息は、もう少しだけ続いていたのかもしれなかった。
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発行:2006年9月24日 |
公開:2009年3月15日 日間 |