お家に帰ろ

 

 

 




一.



 稗田阿未はその性格こそのたくたしたものだが、胸に秘めた矜持だけは稗田の家に相応しいものを兼ね備えている。と自負している。だからこそ、里に怪しい者たちが現れたという一報を聞き、へっぴり腰ながら犯人を取り押さえんと夜の広場で待ち構えていたのだが。
「……ふぇわ……」
 ねむい。
 夜だから眠いのは当然であるが、今日は昼寝も怠っていたからその眠気たるや並々ならぬものである。生い茂った竹藪に一人、不審人物が現れまいかと潜んでいるから余計に眠い。暗いし。しかもこんな夜中に可愛い娘っこがこそこそ隠れていようものなら、普段人間に興味がない妖怪さんも思わず目の色を変えて襲い掛かってくるんじゃないんかと阿未は思う。
「こわ……」
 身震いする。
 段々と寒くなって来た。春麗らかなれども夜は冷える。昼の暖かさもあり油断していたが、このまま蹲っていたら風邪をひきそうではある。だが、稗田の矜持が諦めることを許さない。必ず、この手で不届き者をひっとらえるのだと固く心に誓い、阿未は目を閉じた。
 ねむい。
「何だか来ない気がしてやまないのですが……」
 来なかったらいいなあ。明日は早いんだ、釣りに行くのだもの。
 明日の釣果を夢想する阿未の目は爛々と輝いており、彼女がそこに潜んでいると知らぬ者なら、暗闇にぼんやりと灯る不気味な二つ目に恐怖したことであろう。
 己が怪しげな現象と化しているとも知らずにまにま笑っている阿未は、ふと、無造作に踏まれる土の音で自我を取り戻した。寝ぼけ眼で睨む草むらの中、月の明かりに薄く広がる影を宿した人の形が二つ。
「わ――」
 出た。
 阿未は狼狽した。
 そのあまり、立ち上がろうとして、前につんのめる。不覚。
「ぎゃー!」
 剥き出しになっている地面に滑り込み、受け身も取れずにごろごろ転がる阿礼乙女は背丈が小さかった。頭も身体もそこはかとなく球に近いせいか、傾斜が少ないわりによく回転する。
 最後は空き地に聳える合歓の木の幹に激突したところで止まり、額を押さえながらうんうん呻き続けたのち、すっくと立ち上がり啖呵を切った。
「何奴!」
 決まった。
 さぞや相手は阿未の立ち振る舞いに戦れ戦き膝をがくがく震わせているかと思いきや、相手方は毒気の抜かれた表情で阿未を眺めていた。長身の、銀髪が月に照り輝く女性が言う。
「姫、珍獣です」
「誰がですか!」
「珍獣なのに、やたら流暢に喋ってるわよこれ」
「何せ、珍獣ですから」
「ちがいますよ!」
 咆える。
 不躾に指を差す黒髪の女性にも怒りを露にする阿未だが、如何せん、背丈も気迫も足りない娘であるから、見ず知らずの不審人物にも頭をぽんぽん叩かれる始末。
「やめなさい! 乱暴狼藉もここまで来ると打ち首獄門ですよ!」
「だそうよ、永琳」
「それはお断りしたいものですね」
 微笑ましげに答え、永琳と呼ばれた女性は阿未の頭から手を除けた。若干乱れた髪を丹念に整えつつ、阿未は改めて二人に詰問する。
「して、誰なのですか、貴方たちは」
「それは、必ずしも訊かなければならないこと?」
 姫、と称する女はさも当然のように語る。仮に、彼女が真の姫だとして、何故このような辺境に位の高い人物がいるのか。怪しい。さながら妖のごとき怪しさである。阿未は警戒した。
「よ……」
「よ?」
「妖怪なぞ、恐ろしくも何ともありません!」
 来なさい! と言わんばかりに手持ちの筆をかざす。が、今度は決まったと思う遥か前に額を掴まれていた。姫に。
「い、い……」
「い?」
「いだだだだだ!」
 手加減抜きに、掌の力のみで額を締め上げる。拳骨を食らう程度の痛みではあるが、苦痛慣れしていない阿未には涙目になるくらいの衝撃であった。ほんの数秒で、大地に小さな膝を突く。
「うぅ……この私なぞ、妖怪にすれば取るに足らない生き物なのですね……」
「妖怪、ねえ」
 ちらり、隣に佇む従者を窺う。永琳は平然と手を前に組み、長い髪の揺れる先を気紛れな風に委ねている。
「今更、種の括りに何の意味がありましょう」
「あら、たまには良いこと言うじゃない」
 にんまりと笑う。
 その笑顔が妙に素直だったから、阿未もつい彼女たちが悪人と思い辛くなった。そう言えば、訊かなければならないことはまだたくさんある。阿未は、傾きかけた心を奮い立たせた。
「意味がないのなら、私も問いません。ならば、ここに訪れた訳をお教えください」
 もはや筆を振り回す意味はないと知りながら、手持ち無沙汰だと虚仮にされると思いわざわざ片手に筆を添えた。稚児が棒を振り回して遊ぶ様子に似た微笑ましさに、異邦人は失笑する。
「あ、また笑った」
「辛気臭い顔してるよか百倍は幸せよ。それより、私たちがここに足を踏み入れた理由は実のところ五つほどあるのだけど、うち四つは面倒だから省きます」
 指折り数えて、最後の一つ、小指が残されてようやく、姫は永琳を窺う。彼女が神妙に頷き、姫もまた呼吸を整える。途端、冗談のように、姫から発せられる空気が変貌した。
「――私の名は蓬莱山輝夜。慣れない地に住処を移し、住む所が無く難儀をしている。出来得ることなら、依るべき枝を失った私たちに、安住に足る家を見繕ってはくれまいか」
 豪奢な着物に見合う、荘重な口調だった。
 姫――輝夜の言葉を陶然と聞き流していた阿未も、その意味を咀嚼するや、力強く己の胸を叩いていた。そこそこ弾力があるせいか、鈍く籠もるような音は聞こえない。
「畏まりました! お困りとあらば、この稗田阿未、全身全霊をしてあなた方に似合う素晴らしい家をお探し致しましょう!」
 爛々と目を輝かせ、闇夜の空き地に高々と宣言する阿未は、まだ己の過ちに気付いていなかった。
 そう。明日は、待ちに待った釣りの日だということに。



二.



 契りを交わした以上、稗田阿未の誇りに賭けてその責務は遂行すべきである。
 彼女たちに相応しい物件を探している途中で明日の予定に気付いた阿未だが、釣りは何時でも出来る、だが彼女たちの件は急を要する。本当にそれほど急いでないのかもしれないけど、でもあんまり里をうろちょろされても変な噂が立つし、竹薮に住み着いて怪しげな地上絵描き始めても嫌だし、懸念され得る事態と明日の釣果を天秤に掛け、結果、姫様とその従者が勝った。
 所変わって、竹林の中。
「確か、この先に無駄に大きなお屋敷があるという……」
「何だか日当たりが悪いわね。洗濯物はちゃんと乾くかしら」
「いっそ洗わなければいいのでは」
「名案ね」
 阿未の後ろを歩くのは、散歩にむいているとは言い難い着物を召した例の二人である。輝夜など、着物の裾を何度も何度も竹の枝に引っ掛けて破いているのだが、はたと見返すと、何処が解れているか判然としない。永琳に至っては、竹の方が彼女を避けているような錯覚すら抱く。
 益々もって、不気味なことこの上ない。
「……でも、里から出ると、妖怪がうじゃうじゃ湧いています。夜なら尚更です。それでも本当に構わないのですか」
 この質問は、前にも聞いた。だが彼女たちは苦も無くあっさりと承諾し、住めればいい、むしろ闇に紛れる方が好都合だと答えた。
 如何にも、妖怪じみた解説である。
「構うも何も、私たちには最善の策を座して待つ猶予など無いのよ。のんべんだらりと生を謳歌している貴女には、理解できない悩みかもしれないけれど」
 阿未は、皮肉にも自嘲にも取れる台詞を聞き、唇をへの字に曲げた。
 輝夜が破顔する。
「あら可愛い」
「……もういいですよ。でも、なるべく殺されないでください。袖の触れ合った他人が野晒しになるのも、世の常と言えど、何時の世も心苦しいものですから」
「はいはい、善処致しますわ」
 阿未の感傷を軽く受け流し、歩みの遅れた阿未を呆気なく抜き去る。歩幅の差があるとは言え、虚仮にされた印象がどうしても拭えない阿未は、よりいっそうへそと唇を曲げ、肩を怒らせながら輝夜の横を抜き去って行った。その様子を見て、永琳も微笑んだ。

 歩くこと四半刻、道に迷ったのかとさえ思える距離を進んだ先には、天然の竹垣に囲まれた立派な屋敷が待ち構えていた。看板に偽りなし、自信満々に胸を張る阿未の頭を、輝夜と永琳が交互に撫でる。
「だからやめてくださいおもちゃじゃないんですよ!」
「ここが私たちの新しい家になるのね。感慨深いわ」
「姫、何かを勝ち取るためには壁を越えねばなりません。今回もまたその例外ではないかと」
 畏まり、輝夜の三歩後ろに構える永琳。輝夜はそれを当然であるかのように受け入れ、建物全体から漂う不穏な気配を鼻で笑い飛ばした。
「面倒ねえ」
「ここがこの世なら、勝利と敗北は世の常で御座いましょう」
「ま、そういうことにしておくわ」
「はい」
「話を聞きなさいよ!」
 叫ぶ。
 その声にようやく気付き、輝夜は屋敷の正門を指差した。無論、阿未の話など耳に入っていない。阿未もそれを重々承知していたが、この類の人間に何を言っても無駄なのだと悟り始めていたから、これ以上は何も語るまいと心に誓った。
「これ、誰か棲んでるのかしら。廃屋にしては手入れが行き届いてるわね。まさか、こんな辺境に好んで掃除に来る馬鹿も居ないだろうし」
「朧気ながら、獣の匂いもします。糞ではありませんが、通り過ぎた程度であればこれほど濃く染み付くことはないでしょう」
「と、いうことは……」
 阿未は息と共に唾を飲み下す。輝夜は不敵に笑い、永琳は静かに目を細める。
 時折竹林を潜り抜ける風が三人の髪を撫で、建物にこびりついた獣の匂いを浅く洗い流す。
「足踏みしていても切りがないわね。退くか進むか、伸るか反るか、お嬢ちゃんには難しい選択かもしれないけど、私たちは――」
「行きます」
 輝夜の言葉を遮り、阿未みずから同行を約束する。驚くか、あるいは揶揄するかに思われた輝夜の表情は、むしろ阿未の決断を祝福しているように感じられた。無論、それが阿未の錯覚でないと証明するものは何も無いのだけど。
「決まりね。行くわよ」
 輝夜は躊躇うことなく正門を潜り、その先にある正面の扉に向かう。輝夜の背中を追うべく駆け出そうとした阿未の肩を、永琳が突然掴んで引き戻す。
「わ――」
 何を、と叫ぶ間もあれば、正面が突如として瓦解する。
 梁が阿未の眼前を掠め、轟音と共に落下する。
 木造の門が、輝夜の動きと呼応するように崩れ落ちる様は、目が覚めるくらい爽快だった。砂煙を上げ、いやに見晴らしがよくなった庭の敷石を、気ままなお姫様が何の気兼ねもなく踏ん付けて立っている。
「早く来なさい。置いて行くわよ」
 門の消滅など意に介さず、輝夜は従者と付き人を手招きする。永琳は阿未に目配せをし、崩れた門を踏み越えて行く。轟然、粛然たる雰囲気に呑まれかけた阿未も、柔らかい頬をぺちんと叩き、砂煙に咽ながらも輝夜の後を追う。
 かくて豪邸の扉は開き、住み着く場所を勝ち取るための戦いは、今ここに切って落とされた。



三.



 玄関に足袋や草履の類は無く、わずかに白い毛が残るばかりだった。永琳はわずかに散らばる毛を掬い取り、鼻元に近付けて匂いを嗅ぐ。その動作が酷く自然であったから、阿未は彼女の行っていることが粗忽な真似であると疑う気すら起きなかった。
「判るかしら、永琳」
「確証は出来かねますが、恐らく、兎の類ではないかと」
「兎、ね」
「愛着がおありですか」
「月にも居たからね、見飽きたと言っても過言じゃないわ。でも」
 輝夜は、陽光に照らされた縁側を眺める。正面を向けば襖がひとつ、その向こうは、暗を取り入れた荘厳な廊下が待ち構えていることだろう。
「兎なら、手加減は無用ね。食べられるし」
「左様で」
「あ、あんまり食べない方が……妖かもしれませんし……」
「あら、化け兎の方が美味しいかもしれないじゃない」
「いや人の形してたらアレでしょう……」
「裏を返せば」
「いやいや」
 他愛の無い応酬が続く。永琳は今や輝夜と阿未の三歩後ろに陣取っており、有事の際は先方を盾に脱兎のごとく逃走出来る絶妙の位置取りである。
 自信の漲る輝夜は無防備に家の中へと踏み込み、躊躇なく襖を開ける。すぱぁん、と美しく開かれた襖の向こうに広がるものは、永遠に続き得るかに見える薄暗い廊下であった。
 輝夜の顔が自然と緩む。その理由を知る永琳は密かに息を吐き、主の背を後押しした。
「稗田阿未と言ったわね」
「あ、はい」
「確かに、ここは私に相応しい屋敷のようだわ」
「……はあ」
 阿未にはちんぷんかんぷんな言葉だったが、気に入って貰えたのなら文句を言う筋合いはない。阿未も、困っている人たちの――人であるか否か曖昧なところもあるが――力になることが出来、非常に心地よい。
 もっとも。
「もっとも――完全にここが私のものとなるには、一刻か、半刻か……何にせよ、幾許かの時が必要であるようだけど」
 阿未とて、彼女たちに家を紹介してめでたしめでたしで終わるなどとは考えてもいなかった。厄介事は絶えず連なり、大きく膨らみ最期に爆ぜる宿命にある。だから阿未は道案内して素直に帰るべきだったのだ、それを知りながら、尚この結末を見届けようと決めた。
 何故か。
「――来ます」
「知ってるわ」
 永琳の声と輝夜の声、鈴を転がすような音色が阿未の耳に届きそこに込められた意味を咀嚼し終えた頃。
 壁すら見えない廊下の彼方から、一本の矢が音も無く飛んで来た。
 目があれば、位置は知れるが対処は出来ない。
 阿未は軌道を見て途絶し、永琳は輝夜を庇い羽を掴もうとして、結局は輝夜に譲った。
 当の輝夜は、刹那に迫る矢を前に陶然と微笑み、
「――ねえ」
 その鏃を、掌の内に収めた。
 羽が揺れ、掌から鮮血が垂れる。閃光の余韻はしばし廊下を染め、話に興ずるには奇妙な間が空いた。
「兎の羽は、矢に使えるのかしら」
 突拍子も無い問いに、永琳は律儀に頷く。
 阿未は、唐突に、己の死を自覚した。

 輝夜が射的の的になった以上、屋敷には敵意を持った何者かが潜んでいることになる。
 永琳が言うには兎、輝夜の心臓を射止める正確な射撃を行ったところから察するに、相応の知恵を兼ね備えた化け兎であろう。阿未には心当たりがあった。臆することなく廊下を進む輝夜の後ろに付き従い、楚々とした姿勢で歩いている永琳に話しかける。
「兎、と仰りましたよね。先程」
「断ずることは出来ませんが、恐らく。私の故郷にも大勢の兎がおりましたから、自然と鼻も肥えるのよ」
 不思議な言い回しだが、阿未は気にせず続けた。
「だとしたら、この屋敷に潜んでいる妖怪は、」
 轟音。
 息つく暇も無く訪れる襲撃に阿未は絶望する。だから言わんこっちゃない、と唸る間もあればこそ、永琳が阿未の前に立つ。割れたのは襖だ。そして襖を打ち破ったのは杵である。臼と杵と餅があれば真にめでたい話なのだが、明らかなる暴力を前にして呑気なことを呟いている余裕などなかった。だが。
「来たわ来たわ、有象無象の烏合の集が!」
 人の身である輝夜が咆える。
 杵を振りかざすのは部屋を埋め尽くす兎兎兎。人の形をした兎はうなだれた耳と丸い尾を除けば、ほぼ人間と判断しても差し支えない。人の服を身に纏い、長い手足で躍動する。跳ねる脚、躍る杵。
「あ、あぶな、」
「下がって」
 進軍する兎の群れに敢然と構える輝夜は、永琳が阿未を押し留める声など知らず、ただその柔らかな手に眩い光を灯すことに夢中だった。
 杵は容赦なく打ち下ろされる。その取り取りの暴力を真正面に睨み返し、輝夜は不敵に笑った。

「地を跳ぶ兎が登龍門に昇れるものか!
 散れ、『ブリリアントドラゴンバレッタ』!」

 閃光が躍る。
 輝夜の掌に収束した光が、襲い来る兎の軍勢をことごとく薙ぎ倒していく。例外はない。多勢に無勢など何するものぞ、手に込めた弾を飽きることなく撃ち続ける。兎は突撃あるのみであり、飛来する弾丸を処理する術を持たない。辛うじて杵を盾にする者はいても、虹色の閃光は木造の杵など容易く貫き、兎もろとも打ち倒す。
 圧巻だった。
 薄暗い二十畳程の部屋を白く染め抜いていた兎の大群が、姫君を前にことごとく平伏する。杵は力なく畳に伏し、威勢の良い兎はみなぐったりと蹲っている。呻いたり、鳴いたり、悶えたり、この時ばかりは人の形であることも忘れ、獣の動きに帰ると見える。
「さあて、と」
 敷居に倒れている、先陣を切った多少元気のある兎の腕を、輝夜の足が軽く踏みつける。その兎は黒い前髪を震わせながら輝夜を見上げ、びくっ、と身を縮ませた。呼応するように、輝夜が笑う。
 どちらが悪役か判らない。
「……あの方、性格悪いですよね」
「私の口からは、何も」
 絶対そうだ。
 阿未は確信し、捕虜と化した兎の顎に人差し指を添える輝夜を望む。
「貴女に、少し訊きたいことがあるのだけど」
 愉悦に歪む姫君の眼を覗き込む兎の瞳が、かすかに滲み、やがて音も無く潤み始めた。

 捕縛した兎が怯えながら語った話は、大よそ阿未が持つ知識と同じものだった。
 ――因幡の白兎。
 古代日本における獣の妖怪の代表格である。鮫を騙って川を渡り、挙句に皮を剥がされた。通りすがりの神々にすら因果応報とばかりに塩を塗りたくられ、最後の神様に救われたという逸話が残されている。
 その後は改心し善行に走る――となれば据わりが良いものを、悪戯好きの兎が多少痛い目に遭ったところで己が本分を見失うはずもない。幾分か丸くなった白兎であったが、嘘吐きであることに変わりはなく、人を騙し妖を欺いては遠巻きにせせら笑っていると聞く。
 竹林で道に迷い、白兎を見ると無事に帰れると人は言うが、白兎こそが人を迷わせていると考えることも出来る。人に害を及ぼすまでには至っていないものの、いつ人に牙を剥くか解らない。長寿の妖怪は年齢相応の力を持つ。爆弾が隣に居座っているのに、こちらが何の気兼ねもなく安堵の息を吐けるはずもない。
 とはいえ、こちらから攻撃を仕掛けて良いものか。
 悩みどころであった。
「そんなの、ぶん殴れば早いじゃない」
 阿未の苦悩を、輝夜は軽く一蹴する。その手には何処から拝借して来たのか野太い手綱が握られており、操られるのは無論捕虜の兎である。小さな背中をしゅんと丸めながら、後ろ手に縛られた手首を気にしながら異邦人を先導する。黒幕への道案内のみならず、罠と、敵への牽制を計る目的もある。敵が捕虜なぞ気にしてられるかと情け容赦なく矢を放つことも考えられたが。
「まあ、いざ撃たれたら盾にでもすれば……」
「ひぃっ!」
「あなたもわりと残酷なこと言うのね」
 ぼそりと呟いた阿未の言葉に、兎は叫び、輝夜はほくそ笑んだ。よく笑う姫様だこと、と阿未は心中で嘆息した。捕虜の兎はこもこもした黒髪から生えた耳をぺたんと垂らし、兎らしい縦長の足を板張りの廊下にぺたぺたと響かせている。
 時折、延々と続く廊下に面した襖や障子から物騒な視線を感じるが、一向に襲撃して来る気配がないのは、やはり人質の存在ゆえであろう。問答無用で捕虜の兎ごと射抜かないあたり、化け兎にも相応の理性があると見える。
「あの」
「うぅ……思えば短い兎生だったわ……」
「そこの兎」
「ヒッ!」
「……そんなに驚かなくても」
「すっかり悪党ね」
 貴女が弾丸ぶちかましたせいでしょうが。
 横目で輝夜を睨むも、気に留めている様子はない。気楽なものだ。
 阿未は怯えまじりに振り向いた兎を安心させるべく、なるべく優しい調子で語り掛ける。
「このまま真っ直ぐ進んでいて、因幡の白兎のところに辿り着くのですか。いまいち確証がないのですけど」
「う……そこは、信じてもらうしかぁ……」
「わかりました。わかりましたから、すぐに泣かないでください。絞めませんから」
「ほ……ほんとですかぁ……?」
「本当は食べるわよ?」
「いやぁぁ!」
「輝夜さん!!」
 きゃははと無邪気に笑う姫君の奔放さに呆れながら、がたがたと震えて蹲る兎の背中を押すことも忘れない。最早何を言っても無駄であるから、怯えさせたまま見せしめのごとく前を歩かせるのが手っ取り早い。もとより阿未は口が達者な気質ではない。語るより書き記す方が上手く行くと半ば本気で信じている節があるのは、阿未が多分にぼんやりとした性格であるからとも言えようが。
 同属嫌悪、同じ穴のムジナは互いを認めず、己のことを棚に上げるものである。
「仲良きことは素晴らしき哉……なんて」
「何か仰いました?」
「いえ、特に何も」
 永琳の呟きは、やたらと冷える虚空に溶けた。
 ぺたぺた、ひたひた、人と獣と妖と、不気味な行進が続いていく。



四.



 兎の足が止まったのは、漆塗りの巨大な扉の真ん前だった。
 左右に広がる限りのない襖の壁は一度たりとも他の廊下と交わらず、ただ阿未の倍はある扉へと伸びていた。兎の襲撃はあれきり影を潜め、視線を感じることすら無くなった。油断大敵、阿未は終始気を張り詰めていたが、全ての危惧は杞憂に終わり、立ち退きの工程は終盤に差し掛かっていた。
「ここが、おやかたさまのお部屋です……」
「ここが……」
 唾を飲み込む阿未と裏腹に、姫と従者はあくまで斜に構えている。油断や慢心ではない。ただ、これが彼女たちの平常なのだ。そこはかとなく、世間を斜めに見ているように見えても。
「ふぅん。馬鹿と煙は高い所がお好きってよく言うけど」
「しんがりを務めるのは、長として当然の所業かと」
「臆病者が生き残るものよ。戦ではね」
「なるほど」
「知ってるくせに」
 吐き捨てて、輝夜は捕虜の兎を脇に退けた。膝にガタか来ているのか、兎はぺたんと尻餅を突いたきり立ち上がれない様子であった。阿未は手を差し伸べかけ、次の間に輝夜が勢いよく扉を押し開けたせいで、助け起こす機会をついに見失ってしまった。
 場が開ける。
 廊下より幾分か明るい二十畳程度の和室に、座布団が一枚。その上に、髪の長い兎が一匹、鎮座している。傍らに佇む二匹の兎も、どれもみな申し分のない人の形を模している。中央の兎は手を膝に置き瞑想に耽っていた。箱入り娘が纏うような着物に身を包み、兎はおもむろに瞳を開ける。護衛の兎は弓の端を畳に置き、来訪者を鋭く睨み付ける。
「お待ちしておりました」
 兎が言う。広間によく通る澄んだ声であった。
「私がこの屋敷の主、因幡てゐ」
 丁寧に自己紹介し、彼女は立ち上がった。徒手空拳、弓矢の類は何もない。護衛すら弓を構える気配がない。輝夜は前方の兎を注視している。永琳は周囲に気を巡らしている。阿未は、己がただの人間なのだと今更ながら実感していた。
 兎は話を続ける。
「私たちは、永劫の彼方よりここを永遠の住み処として参りました。今更、何処の馬の骨とも知らぬ者どもに奪われるなど、あってはならないことです」
「随分と結構な心構えね。でも、ここは私たちが住まうに相応しい家よ。大人しく譲り渡しなさい」
「なりませぬ。兎といえども、安堵し得る家を求める心はあるのです。知恵を持ち、心を備えた兎には家が必要なのです。解りませんか、同じく家を求めるあなた方ならば、解るはずです」
「かも、しれないわね」
 言葉を区切り、輝夜は一歩前に出る。同調か決別か、声色だけでは判断できない。結果、兎の反応が遅れた。護衛の者が弓を掲げ、髪の長い兎が手のひらを掲げるより一瞬早く、輝夜はその掌に七色の光を宿していた。
 口の端は淫靡に歪み、これから起こり得る惨劇に酔い痴れているようにも見えた。
「でもあなたは選択を誤った。初めから、選択肢など存在しないのよ。私が敷居を跨いだ時、既に」
 ――結果は出ていた。
 輝夜が続けたかったであろう台詞は、一本の矢に遮られた。
 視覚よりわずかに遅れて、ずむ、という鈍い音が響く。

「……え?」

 輝夜自身、みずからの身に起こったことが理解しきれていない。
 姫君の背中に突き刺さった矢は、勢いを殺せぬままその白羽を小刻みに震わせている。兎の羽だ。兎に羽は無くとも、大地を跳ねる毛は美しくそして白く澄み切っている。
 けれど、胸の内に秘めた想いが黒く淀んではいるまいと、因幡の白兎が住まう館に住む兎を垣間見て、一体全体何処の誰が思えようか。
「……あ、ぁ」
 阿未は、心底、己の不甲斐なさに絶望した。
 矢が放たれた方向には兎がいる。先程、扉を前に尻餅を突いていた兎だ。気付けなかった。全く。永琳も後ろに控えていたが、輝夜が奥座敷の兎に注視している限りはそちらに注意を払わねばならない。唯一、明確な役割を与えられなかった阿未は、突っ立っていることしか出来なかった。
 無力だ。
 小柄な兎の髪は黒く、短い毛は今も小さく波打っている。だが耳はぴんと跳ね、隠し持っていた弓を片手に構える勇姿は一介の戦士そのものである。
 そして、獲たり、と口の端を悪辣に歪めるその様は、傲岸不遜な姫君と似て。
 加えるならば、神話の世代より悪戯三昧を繰り広げていた因幡の兎に相応しく――
「撃てぇ!!」
 勝ち鬨にも似た号令が轟く。
 刹那、襖を打ち破る不快な音と共に幾多もの矢が阿未たちに降り注ぐ。四方八方、逃げ場を探す必要すらないほど完璧な包囲であった。
 絶望する。
 到達まで一秒もない。輝夜は動揺から脱せない。阿未は愕然と跪き、寸でのところで、永琳の腕に支えられた。振り仰ぐと、そこには完璧な微笑を浮かべた美貌があった。
 永琳は、迫り来る矢を前に敢然と宣告する。

「去れ」

 冷徹な響きを持った言の葉が、四方八方から降り注ぐ矢を拒絶する。
 永琳を中心に構成された障壁は輝夜と阿未を包み――壁沿いに放たれる幾筋もの閃光が、次々に襲い来る矢をことごとく迎撃する。例外はない。先頃輝夜が見せた攻勢よりも更に凄まじい攻防が、束の間に、瞬きする余地も与えられぬまま、瞬時に展開する。
 矢が飛び、矢が折れ、光が舞い、光が躍る。
 破壊に次ぐ破壊がもたらしたものはへし折れた矢の残骸で、結局は、全ての矢が射出されても誰も畳に膝を突くことはなかった。からん、と最後の矢が墜落する。障壁は薄れ、穴開き襖の向こう側に、大勢の兎が待機しているのがわかる。
「な、ぁ……!?」
 初めに矢を放った兎も、驚愕を禁じ得ない様子だった。その視線を追えば、背中に矢が突き立った輝夜がいるのだが――当の輝夜は、何事も無かったかのように容易く、背中から矢を引き抜いていた。あまつさえ、ふう、と安堵の息を漏らしてくれる。鏃には、血痕すら付いていない。
「か、輝夜さん!? 大丈夫なんですか!?」
「あら、あなたでも心配してくれるのね」
「茶化さないでください!」
「いえね、さしもの私も、この着物が無ければ危ないところだったわ……」
「確実に食い込んでたじゃないですか! 肉に! 矢が!」
「もう、うるさいわねえ」
 額をくいと押し上げられ、阿未は変な声を出す。微笑ましい光景にきょとんとしていた兎も、永琳が腕を振り上げると同時に弓を捨てて奥座敷へと駆け出した。脱兎と呼ぶに相応しい迅速な撤退に、永琳も舌を巻く。あっという間に奥座敷に到着した小さな兎は、楚々と佇んでいる兎の頭をぽかんと叩いた。むぎゃ、と髪の長い兎が容姿に似合わぬ声を上げる。
「あんたねえ、もうちょっと時間稼ぎしないと意味ないでしょ! 矢の勢いも中途半端、銀色にも矢は届かないし、ほとんど無駄撃ちに近いじゃない!」
「うぅ……でも、それはもう仕方ないよう……」
「うっさいわ! 泣き言はやることやってから吐きな!」
「横暴だよう……」
 最後にひとつ頭を叩かれ、座敷の兎は晴れて無罪放免となった。襖に引っ込んだ彼女の代わりに、黒髪の小さな兎が中央に据えられる。護衛役の兎はそのまま弓を携え、新たな主――否、正当な主を座布団の上に迎え入れた。
 共に、不敵な笑みは崩さない。
「初めまして」
「初めまして、因幡てゐ」
「……ちッ、知ってたのかよ」
「今知ったわ」
「あぁそうかい」
 黒髪の兎――正真正銘の因幡てゐは、乱暴な口調で輝夜を挑発する。けれど輝夜はそれに乗じず、あるがままの姿勢で会話を継続する。
「実を言うと、結構痛かったのよ。あれ」
「あっそ、そいつはご愁傷様でした。一発で死ねば楽になれたものを、下手に生き残るから無駄に苦労する羽目になるのよ」
「至言ねえ」
「ふん……あんたがどんなカラクリであの一撃を堪えたかは知らないけど、生憎とこの屋敷は私ら兎が占拠してんのよ。潔く、死ぬか帰るか選んでくんな」
「やだ」
「ガキかあんたは」
「まあ、似たようなものだわね」
 諦めに近い呟きを吐き、輝夜が嘆息する。そのわずかな間。
 その首と肩のわずかな隙間から、神速の矢が放たれた。
 ――速い。
 たった一射、だが、今まで撃たれたどの矢よりも速い。素人の阿未にもわかる。これは、気付いてから反応しては間に合わない一撃なのだと。
 鏃がてゐの眉間を狙う。刮目する。
「――――なめんなぁッ!」
 咆哮と撃墜はほぼ同刻だった。
 ひしゃげた矢が満身創痍の襖を突き破り、向こう側に待機している兎から悲鳴が上がる。第二射はない。だが反撃の狼煙は既に上がった。矢を撃ったのは永琳だ。輝夜の背後に隠れ、てゐの死角に入り込んだ。不利な条件にも拘らず、永琳は針に糸を通す精密さで矢を放った。そして輝夜と永琳は口裏を合わせていない。間近で見ていた阿未に隠れて話せるはずもないのだ。
 矢が破壊され、永琳は軽く舌を打つ。弓はてゐが放り投げたもの、矢は輝夜に突き刺さった遺恨の凶器だ。いつの間に渡したのか、そしていつ矢を番え、放ったのか。阿未はその全てを見逃した。
 驚愕する。
 最早、人の戦いではない。
「流石は兎ね、獣性は侮りがたいわ」
「速度も角度も申し分ありませんでした。ただ、いささか見込みが甘かった模様です。今一度、機会を頂ければ」
 跪きこそしないものの、畏まり、敵前にありながら姫君に許しを乞う永琳。輝夜もまた、拗ねた様子で永琳を諭す。
「だめよ永琳。ここは、虚仮にされた主が綺麗に締めなきゃ」
「御意」
 永琳が下がり、輝夜が進む。
 虚仮にされたのはてゐの方だ。ぽかん、と放心する間もあればこそ、てゐは憤怒を露にして杵を畳に打ち下ろした。床が揺れ、あちらこちらから悲鳴が漏れる。阿未もその一人だった。
「上等だよ……! 折角のお客様だ、丁重に歓迎してやらなくちゃね……!」
 杵を肩に乗せ、邪悪な笑みを浮かべたてゐが行く。
 ほつれひとつない着物を纏い、優雅な姫君が畳を摺り歩く。
「覚えてる? あなたは選択を誤ったの。一度間違えれば、正解はどちらか、火を見るより明らかでしょうに」
 漸進しながらも確実に交わらんとする両者を遮るものは何もなく、結末は次の一瞬の後に訪れようとしていた。阿未は目を見開く。恐怖に立ち竦み、すべきことを見失いかけていたが、今の己に出来ることをようやく思い出せた。それは、この世に生み落とされた阿礼乙女として、この戦いを余すところなく記憶することだ。見逃してはならない。見定めねばならない。人と獣と妖の交わる先に、如何なる未来が横たわっているかを。
 この幼い瞳で。
 刹那と永久を亘る記憶に留めて。
「行くよ」
「来れば」
 てゐが走る。輝夜が迎え撃つ。
 白い兎は目にも留まらぬ速さで畳を駆け抜け、大仰に構える輝夜を打ち付けんと襲い掛かる。輝夜は動かない。従者も付けず、武器も持たず、雅な笑みを顔に貼り付けたまま、数秒後の肉薄を待ち侘びている。
 無防備であった。
 警戒はすれど、絶好の機会を見逃すほどてゐも愚かではなかった。
「撃てぇッ!」
 第二波が来る。
 咄嗟に身構える輝夜と対照的に、てゐは号令と同時に天高く飛翔した。輝夜が蜂の巣になれば良し、飛んで避ければ、そのまま怒りの木槌をお見舞いできる。永琳の防御は間に合わない、もとより主から待機命令を受けているため容易には動けない。反応も一歩遅れる。
 てゐは会心の笑みを浮かべた。
 杵が空を舞う。
 輝夜は、弓がしなる音を聞き、矢が風を切る音に耳を傾け、すう、と息を吐き。
「汝が跳ねた大地の名を忘れたのか?」
 嫣然たる声が、因幡に叩き付けられた。
 時が止まる。一瞬、一秒にも満たない宣告はしかし、既に放たれた凶器の前には限りなく無力だった。
 てゐの腕がわずかに止まり、その言葉の意味を噛み砕くより早く、無数の矢が輝夜の身体を覆い尽くしていた。

 ――獲った。
 下降を始めているてゐは、敵の敗北を確信した。
 豪奢な着物に突き刺さる幾本もの矢が、小刻みに痛々しく揺れている。まだ倒れない。四方八方、てゐを避けるように撃ち放たれる矢の速度が、期せずして輝夜を支えていた。皮肉なものだ。
 阿未と永琳は、遠巻きに事の全容を窺っている。殺到する矢に成す術もなく沈黙した輝夜を、時に愕然と、時に超然と眺めていた。てゐの視界に二人が映る。絶望の色を宿しているのは、少女だけだった。従者は決して怯んでいない。諦めていない。
 ふと、降下位置を確かめる。
 着地まで、あと三秒。
 輝夜は、今も尚横殴りに降りしきる矢の雨を、身体一つで受け止めている。
 その掌が、ぴくりと動いた。
「永遠とは」
 音が消える。矢は飛び続けている。
 てゐと輝夜の間から一切の色が失せ、代わりに、矢の動きが鮮鋭に映し出される。
 鏃が輝夜の着物を貫く、その刹那、矢は緩やかに綻び始めていた。
 ――劣化している。
 まるで長い時を経て風化した岩石のように、鏃が磨り減っているのだ。木も同様、凄絶な勢いで萎れている。輝夜の肉を突き破る前に、矢は原料に分解され、跡形もなく消滅する。
 落下まで、あと二秒。
「絶えず弛まず流れる時を延々と眺め続ける船頭のように」
 輝夜は笑っているだろうか。てゐには、解き放たれた矢が邪魔をしてよく見えなかった。余りに矢が多すぎて、当の輝夜がどう構えているかさえ解らない。誤算だった。
 まさか、迎撃されるという以前に、矢が届かないなどということがあり得るとは、思いもよらなかった。
 あと一秒。
 矢の数が減り始めている。輝夜に接触した矢はとうに消滅している。影も形もない。地面に落ちた矢など一本もなかった。全て、虚空に消えた。兎たちも異常を感じ取りながら、何故、どうして、こんなことが起こるのか理解が及んでいない。ただ闇雲に矢を撃つことしか出来ない。
 無論、てゐでさえも、杵を突き下ろすことしか。
「あなたにわかるかしら」
 わかるものか。
 輝夜はてゐを見上げ、てゐは輝夜を見下ろした。

 接敵。

 打ち下ろされた杵の先端が、輝夜の額を直撃する。
 鈍い音が轟く。
 輝夜は身じろぎひとつせず、見開いた瞳をてゐのどんぐり眼に叩き付けている。瞳は笑っていた。
 てゐは、宙に身を投げ出したまま、密かに戦慄した。
 輝夜の額から、一筋の血が流れる。衝撃はあった。だが、輝夜は屈しなかった。矢は既に届かない。兎は、狙撃を断念した。
 天秤は傾きつつある。
 てゐの身体は、緩やかに地面へと誘われていた。
「永遠は膨大な時間が収束する坩堝なの。だから物質は過度に成長する。過ぎたるは尚及ばざるが如く、形あるものはいずれ廃れる」
 ちりちりと、杵の先端が擦り切れる。劣化が始まっている。
 咄嗟に杵を離そうとしても、輝夜が柄を硬く握り締めている。動けない。畳に足が着くより早く、輝夜は杵を一気に引き寄せる。血は流れたまま、何も顧みず、ただ眼前の敵を仕留めることに一切の神経を集中している。
 てゐは、輝夜の瞳に、かすかな狂気を見た。
 だがそれは、年端も行かぬ子どもなら誰しもが持っている、それ相応の無邪気さなのかもしれないと、気付いた。
「……ちぇッ」
 こんなことなら、策を弄するべきだった。一手や二手では到底足りない、力を奢るのは愚かなことだ。次は上手くやろう。これは決して敗北でなく、いつか来たるべき戦いの伏線でしかないのだと、深く心に刻みつけて。
 輝夜の掌が、朧に光り始める。七色の閃光を思い出し、てゐは顔を庇う。
 が、襲い来る衝撃は、必ずしも輝かしいものではなかった。
 号砲が鳴る。鈍い祝砲が。

「砕け散れ! ブディストダイヤモンドぉッ!」

 石の器に飾られた姫の拳が、兎の顎を捉えるまでは、ものの一瞬とかからなかった。
 緩やかな軌道を描き、後ろ向きに畳へと落下する因幡てゐ。
 感嘆か、絶望か、いずれにせよ、結末を迎えたが故の悶絶であることは、疑いようのない事実だった。
 主が据えられるべき一室には、ただ、拳を掲げた蓬莱山輝夜が立っている。
 幕は引かれ、緞帳は降りた。
 束の間の静寂の後、兎たちは仰向けに倒れたてゐに群がる。阿未は勝利の余韻に浸っている輝夜の背中を呆然と眺め、永琳は、無傷のまま君臨している姫君にお辞儀をしてみせた。
「お疲れ様です。姫」
「……ん、ありがと」
 顔も見合わせず、言葉を交わす。
 輝夜が突き上げた拳を下ろし、てゐを囲んでいた兎が不安げな眼差しで来訪者を窺う。輝夜はいつものように含みのある笑みを浮かべ、至極冷静に、私の勝ちね、と言った。
 阿未は、いつかのてゐのように、ぺたんと畳に座りこんでいた。
 気付けば、輝夜が、阿未に手を差し伸べていた。



五.



 麗らかな日差しの真下、穏やかな縁側に座り、うたたねを決め込む乙女が一人。その腰には猫が丸まっている。中庭にも猫が数匹、阿未が唯一の人の子だった。
 その名も第三代御阿礼の子、稗田阿未である。
「ふあ……あふ」
 誰はばかることなく呑気に欠伸をする様は、巫女より猫の方がよほど性に合っている。阿未自身、己が猫だったらいいのにと思うこともある。が、この身が阿礼乙女として生きている以上、その役目もまた果たしたいと思っている。
 幻想郷縁起に書き記すべきことは無数にある。
 無論、妖怪退治の指南書であるから、みずから危険な地に赴くこともしばしばある。護衛が付かないこともざらだ。阿未とて無駄死にするつもりも無いからなるたけ生きて帰りたいのだが、妖怪など怖くないわ! とへっぴり腰で主張している手前、弱音を吐くことも出来ないのだった。
「ふへあ……」
 三枚、廊下に並べられた座布団の上に陣取り、今日はぬくぬくと柔らかな陽光に包まれたい。嗚呼、何の変哲もない日常のなんと尊いことか。命の危機に向き合わず、血も流れず、何かを得るために何かを踏み台にすることもない生き方が、一体どれほどの人間が実践出来ているのか。
 難しいものだ。
 だが、出来ないはずはない、と阿未は思う。

『お望みとあらば、私たちはこの家を譲ります』
 輝夜と永琳、そして因幡てゐのことを思い出す。
 主同士の戦いに敗れたてゐは、項垂れた身体を仲間たちに預けていた。因幡てゐの振りをしていた髪の長い兎は、泣きそうな声で語った。
 家はまた探せばいい。作っても構わない。
 でも、因幡てゐの代わりはいない。
『てゐは、私たちをこの家に迎えてくれた。災いに見舞われて住処を失い、食べるものもなくした兎は、みなてゐに救われました。化け兎は、他の動物と溶け合うことも難しい。変化した身体に戸惑うこともある。そんな兎の生きる道を示してくれたのも、てゐでした』
 てゐは、居たたまれない顔をしていた。気恥ずかしく、赤面している様子だった。くすくすと、輝夜の忍び笑いが静かな部屋に響いた。
『お願いです』
 凛とした口調で懇願する兎に、輝夜はひとつの提案を出した。
『じゃ、こうしましょう』
 後に因幡てゐは、嫌な予感がしたんだよ、と語った。
 輝夜に聞けばまず間違いなく、妙案が浮かんだのよ、と述懐したであろうが。
『私と、永琳と――そして、あなたたちも一緒に住むの』
 ね、と同意を求める姫君の顔は、無邪気な子どもそのものであった。
 遠く、てゐが舌打ちをした。

 以来、あの家には化け兎と人並み外れた人間が住んでいる。はずである。
 永琳に送り届けられた阿未は、机に向かい、彼女たちのことを書くべきか真剣に迷った。あれは妖ではなかろうか。避けようの無い矢を退け、人に無い術を使う。力だけならば、人を超えている。
 筆の柄をこつこつと何度も額に打ち付け、そこに赤い痣が出来るまで思い悩み、結局は因幡てゐの記述を行うに留めた。他人を幸せにする程度の能力。確かに、輝夜と永琳、名も知らない兎たちは幸せだろう。悪戯好きであることを差し引いても、お釣りが多すぎて邪魔になるくらいだ。
 それから、阿未はそこはかとなく幻想郷縁起を書き記す気にもなれず、日向ぼっこに夢中だった。五里霧中だった。抜け出す術が見当たらない。従者の一人に言わせれば、阿未は生まれてからずっと日向ぼっこに心を奪われていたらしいのだが。
「ふむ……」
 ごろん、と阿未は寝返りを打つ。
 みゃあ、とおしりに乗っていた猫が飛びのく。
「家、かぁ……」
 ごろにゃーご、と仰向けになる。心休まる家があるというのは、人も、獣も、妖も、その隔たりが見えない程に素晴らしいということか。
 またひとつ、勉強になった。
 長生きもしてみるものである。
「ねむい……」
 寝よう。
 阿未は即決し、太陽の恩恵を全身に感じながら健やかなる眠りに落ちる。気の向くまま、心ゆくまま、自然と眠りに就ける――かと思いきや、慌しく廊下を駆け回る従者の足音が、阿未を束の間の眠りから情け容赦なく叩き起こした。
 世の中、兎角ままならないものである。
「阿未様」
「なんですかぁ……私は眠いのですよ……我が眠りを妨げるもにょは……すべからぐう……」
「阿未様、寝ないでください。阿未様」
 頬をぺしぺし叩かれる。若干痛い。もう少し加減というものを考えて欲しいと阿未は思う。
 まさか、阿未が本気で寝ていると勘違いしているのではなかろうか。心外な。
 寝てるけど。
「……で、なんですか」
「はい。昨日の今日ではありますが、里に怪しい者が現れたと」
「……あれから、しばらく経ちましたよね?」
「言葉のあやです」
「……もう、なんでもいいです。で、その者の特徴は」
「はい。髪は白く腰まで伸び、瞳は赤く、周囲を威嚇するように里を徘徊していた模様です」
 白い髪、赤い瞳。
 阿未は腕を組み、考えるような振りをして眠ろうと試みたが、若干強く頭を叩かれた。
 この従者、もう変えた方が良いかもしれない。
 きっと彼女は、矢を弾いてはくれないだろうし。
 しかし、彼女もまた、この家を形作っている一員なのだ。
「あの」
「何でしょう」
「その者に、耳は生えていましたか」
「……耳、ですか」
 きょとん、と目を丸くする従者の表情が新鮮だった。
 阿未の心は、竹林のお屋敷に飛んでいた。
「いえ、ね――もしかしたら、兎なんじゃないかなあ、と思いまして」
 だとしたら、家を斡旋する手間が省ける。渡りに舟とはこのことだった。阿未は満足げに頷いた。
 真面目に語る阿未の隣で、従者は何の躊躇いもなく、ぼけましたか、と口にした。









 

 

 

 



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2008年3月29日 藤村流

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