ルックイースト・プロジェクト 前

 

 

 




 阿一と聞けば性別は男児に思えるが、不思議なことに稗田の阿一は立派な女性である。
 というのも、母君に阿一を孕ませたクソ親父、こいつはどうも男の子が欲しかったらしいのだ。
 稗田を継ぐのは直系男児。
 稗田を仕切るのは直系男児。
 稗田を牛耳るのも、もちろん直系男児のべきである。
 そんなトボケた価値観に頭がラリったのか、このクソ親父、逆子だった阿一の女々しい股間を見た瞬間から、『男だ、こいつは男だ。名前は阿一と決めてある』、そればかりを繰り返すポンコツ蓄音機になってしまったのである。
 稗田本家ど真ん中で発された当主の台詞を嘘だと叫べる輩はいないから、どうだろう、お分かりか、カラスを純白だと偽るような早さで阿一は男児に仕立て上げられてしまった。
 当然の如く幼い頃の阿一はクソ親父を毛嫌いして止まなかったのであるが、ある日のこと、転機は唐突に訪れる。
『どうだ阿一、お前は女なのに男っぽい名前なのが嫌なんだろう、どうだ阿一、ここは一丁男になって見ないかどうだ阿一』
 例のクソ親父が尋ねてきた台詞である。
『なりたいんだな? なりたいんだろう。ということはお前は玉袋が欲しいということだ。玉袋をお前にやるよ。方法なんてどこかにあるさ玉袋をぶら下げる』
 阿呆かと。
 とうとう持病の水虫が頭まで達したのかと阿一は心から心配してしまった。心配ついでにクソ親父の頭を輪切りにして南蛮へ密輸したかった。
『じゃあ行ってくる』
 下駄も履かずに飛び出ていくクソ親父の背中を見つめながら、阿一はようやく気付いたのである。

 クソ親父には憑いていたのだ。

 三日三晩の大捜索というどうしようもない迷惑をかけた後に、満月の次の朝、クソ親父は竹やぶで見つかった。
 それはもう無残に喰い散らかされた死体だったらしいのだが、阿一が現物を見ることはなく、手馴れた葬儀屋によって当たり前のようにクソ親父は火葬され埋葬されたのだけ覚えている。
 騒ぐほどでもないということである。
 行方不明は捕食の隠語なのだ。
 人間は輪廻の頂点にいない。
 今の幻想郷とはそういう場所なのである。
 それからのことだ。

 阿一が幻想郷縁起を執筆しだしたのは。

☆ ☆

 今日は早朝より快晴。従者にとっては有難い日和である。
 稗田の家もまた、地平線から差す淡い朝日に包まれていた。
 さて、唐突だが、稗田家従者の朝は、当主の阿一を殴りつける所から始まる。
 ただ頭をゲンコツで殴るだけでは駄目だ。そんな仕事ぶりで稗田の従者は務まらない。狙うなら首筋が良い。薪を割る要領で、背後斜め上から手刀により力いっぱい首筋を叩いてやる。一発で阿一さまが昏倒したら大成功である。手を叩いて喜んでみるといい。
 実演を御覧入れる。
「阿一さまー」
 阿一の部屋、障子の前で叫んだ彼女の名前は壱者としておく。壱者から十者までの従者を稗田は雇っているのだが、従者が十人揃って従連者ーと爆笑しながら名付けたのは阿一である。
「阿一さまー、起きてらっしゃいますかー」
 壱者の朝一当番は阿一を布団からたたき起こすことなのであるが、その実務は往々にして達成されることがない。
「阿一さまー」
「起きてる」
 障子の向こう側から聞こえてきたいつも通りの言葉に反応し、壱者はすぱんとその障子を開け放った。
「……」
 開け放った視線の先には、背中をぴんと延ばして机に向かう阿一。こちらには振り向きもせず押し黙り、筆をさらさらと動かしている。
 これだ。
 稗田の阿一。
 自分が仕えるお家の当主にして、若干十代の少女。幼い頃、父親を妖怪に喰われてからというもの、対妖怪の防護手段追求を求めて止まず、ついに行き着いた先が、妖怪たちの情報を集めて綴った『幻想郷縁起』なる書物を自分自身で執筆することである。
 壱者は彼女を尊敬しているし、一生ついていきたいとすら思っている。がしかし、この阿一さまの、極端な働き者っぷりだけは許せない。
 だってそうではないか。
 今は太陽が地平線に顔を出したばかりの早朝。
 そして、壱者の仕事は、その早朝に阿一さまを布団から叩き起こすことである。
 だがしかしどうだ、実際に早朝、部屋を訪ねてみれば、阿一さまはもう既に起きているではないか。
 特に今日は早い。いつもより二刻ほども早い。一体全体どうしてほしいのか。
 これでは自分の仕事がこなせない、尊敬する阿一さまにお仕えするにあたり、非常に不甲斐ない。
 だから、壱者は恐れながらも阿一さまの早起きを不満に思っているのである。
 世話をするのが従者の役目だ。
 しかし、このままでは阿一さまのお世話が出来ない。だから以前、壱者は他人よりも軽量化された頭で考え結論付けたのだ。

 起きているのなら、再度、物理的に寝かせてから起こせばいいのであると。

 というわけで、稗田家従者の朝は、当主の阿一を殴りつける所から始まる。
 壱者はもう一度、阿一さまに声をかけた。
「阿一さまー」
「ん――」
 ただ頭をゲンコツで殴るだけでは駄目だ。そんな仕事ぶりで稗田の従者は務まらない。狙うなら首筋が良い。薪を割る要領で、背後斜め上から手刀により力いっぱい首筋を叩いてやる。一発で阿一さまが昏倒したら大成功である。手を叩いて喜んでみるといい。
 書院造の畳部屋に、鈍い音が二つ響く。
 最初の一つが首筋を打つ音で、次が人の倒れる音である。
「ふう」
 従者は晴れやかな顔をして、開け放った障子から差し込んでくる朝日に目を細める。
 今日もまた、穏やかな一日が始まったのだ。

「阿一さまー、起きてください阿一さまー。もう、阿一さまはお寝坊さまなんですからうふふ――」

☆ ☆

 ここは三途の川の向こう側、地獄の三丁目。
 玉座に座った新米閻魔四季映姫ヤマザナドゥは、いらだたしげに指で机を叩いた。
「……それで?」
 機嫌の悪い閻魔さまへの伝令役なんていう限りなく損な仕事を請け負ってしまった地獄職員見習いは、しかし突っ立ったまま動じずに受け答えをする。
「はい、予定の人間はまだ姿が見えないようです」
「遅い……!」
 四季映姫は拳で机を鳴らし、肩をいからせ猛然と立ち上がった。
「だから私はこの裁決に反対だったのです。時刻に不正確な人間と、他人の姓名を間違える人間にろくな輩はいません。今回の件ではっきりとしました。そうだとは思いませんか、えー――」
「小町です」
 伝令は答えた。
「そう、小野小町! 貴女もそう思うでしょう」
「小野塚小町です」
 二人の間に若干の沈黙が走る。
「わ、わわ私は人間ではありませんからっ!」
「四季さま落ち着いてくださいよ。なんでもいいけど人間はまだ来てませんよ」
「む――」
 四季映姫は決まり悪そうに口を結ぶと、再び玉座に腰を下ろした。
 ぶすりとした表情で腕を組み、何度か溜め息を吐いてから、もう一度小町に問いかけ直す。
「小町、例の人間の名前は」
「稗田の阿一です」
「約束の時刻は」
「幻想郷に日が昇ってから、一番鳥が鳴き始めるまでの間としていました」
「今の時刻は」
「昼飯前です。お腹がすきました四季さま」
「罪深いことです」
「地獄との契約に遅れてくるなんて、器の広い人間ですよねえ」
「いえ、そうではなく――」
 映姫はきっと中空を睨む。
「任意の転生を許すなどと」
 やりきれぬように首を振った。
「……罪深いことです」
「そうですか?」
 呆けた顔で首を傾げる小町。だがしかし、映姫は気にした様子もなく続けるのだ。
「未来へ身を捧げる。その志自体は見事と言えますが――」
 四季映姫は手をあごの前で組み、
「彼女にそのような志を強要してしまった環境が」
 遠くを見つめる。
「その幻想郷が」
 今日一番の溜め息をついた。
「私はとても悲しい」

☆ ☆

 怒号が天井を揺らしたのは稗田家である。
「何で起こしてくれなかったんですか!?」
 従者はみな飛び上がって驚いた。阿一は気こそ強いが、それを制御するだけの器の大きさもまた普段から持ち合わせているからだ。
「今日は絶対に遅れちゃいけない予定が入っていたのに――ああああどうしよう!」
 畳六畳の書斎でわたわたと外出の準備を整えている阿一だがしかし、無情にも障子の外から入ってくる日差しの強さは真昼間のそれである。
「ああぁぁぁ」
 焦れば焦るほどに揺らぐ阿一の視界、ぐるぐる回る目ん玉におぼつかない手足、とりあえず阿一に出来ることといえば怒声を鳴らすことくらいのものであり、それはまた従者達を震え上がらせる。
「そこの従者十人!」
「「「「「「「「「「はい!」」」」」」」」」」
 びっしぃと突きつけられる阿一の人差し指に反応して、縁側を囲んでいた十人の従者は素早く一直線に整列した。
「今日の起床当番は誰ですか! すみやかに名乗り出なさい!」
 わたしじゃないよーあなたでしょーいやきょうは時間割の変更があってだねいやいやそれは問題ではないと思うだからぼくはいやだっていったんだえーあんたでしょーいいだしっぺはー
 口々に騒ぐ従者たちだがしかし肝心要である犯人の上告は無い。
「分かりました」
 どどんと張った胸の前で腕を組む阿一。
「人間瞬間記憶装置であるこの私が、あなたたち従者の身体的特徴を足の指から髪の先まで赤裸々に暴露していってあげましょう。一人ずつ」
 くっとあごを上げ、少女に似つかわしくない邪悪な笑みを見せながら締めの言葉を放つ。
「それでも犯人が割れないときは……分かっていますね」
 従者達の間にどよどよと広がる喧騒、恐ろしさに身をすくめるものから艶やかに目を潤ませるものまでその反応は様々であるが、総じて阿一に人心を掌握されているらしいことは見て取れる。
「ますは――一番左の貴女!」
 がぁっと目線で射殺す阿一。
「は、はいぃ! すみません私がやりました!」
 あっさり犯人は割れた。
「うん」
 満足そうに頷く阿一。ゲロった従者は頭を抱え、べそをかきながら防御姿勢を取った。
「す、すみませぇん、私の手刀でのびた……いえ、ぐっすりと可愛いお顔で寝ていた阿一さまが余りにも可愛らしかったものですから……」
 やはり、うんうんと頷きながら従者の言い訳を聞き流す阿一。
「まあ仕方ありません、自力で起きられなかった私ももちろん悪いですし……起きてたような記憶もあるんですが……あちら様にはなんとか謝って許してもらいましょう。先ず、できる限り早く門を出ることが優先でしょう」
 もちろん冷静に考えればこんな犯人探しをしている時間ももったいないのであるが、そうでもしなければ阿一的には収まらなかったのであろう。
「あの、阿一さま」
 そこで、挙手が入る。
「それほどまでに重要な用件でありますのに、私たち従者はそれを今日まで知りませんでした。一体どちらにいかれるのですか、阿一さま」
 当然の質問である。
 阿一が家を留守にする際は、決まって二、三日前からその旨を従者達に伝えておくからだ。
 しかし今回はそれがなかった。一体どういう筋書きなのか。
「あ、はい、それなのですが」
 真っ青な空にひよひよと小鳥が舞い、日中の暖かな風が阿一の短髪をなでる。
 阿一は、実にあっけらかんとした無垢な笑顔で言葉をつむいだ。
「私、転生することにしましたので」
「「「「「「「「「何言ってんですか阿一さま」」」」」」」」」
 従者十人分の突っ込みが声を揃えて響き渡る。
 全員が息を揃えることなど誠に珍しいから、今日はきっと変わったことがあるに違いない
 しかしそんな従者たちを歯牙にもかけず、阿一は続けて言うわけである。
「かの幻想郷縁起、どうも私が生きている間には編纂し切れそうにもありません」
 堂々と張る胸。
「しかし他の者に任せるなどと忍びない。第一、この仕事は私が自分でやり遂げたいのです」
 白い歯の見える笑顔でぐっと親指を立てた。
「というわけで、神社にお百度参りして転生を許された私は、今日、その受諾印を頂きに、朝一番で地獄へ参る予定でしたのです。まあ遅れてしまったわけですが……」
 とぼけた演説をする阿一をよそに、十従者間には音もなく疲弊感が走る。
 当然だ、人間が任意に転生先を決めようだなどと聞いたことが無い。
 何言ってんですか阿一さま、無茶です阿一さま、おかしいです阿一さま、恐れ多いことですよ阿一さま、なんだってそんな阿一さま、じゃあ来世も阿一さまなんですか阿一さま、阿一さまが一杯になるわけですね阿一さま、ああ阿一さま阿一さま。
「ああー、もううるさいなあ。私はもう転生すると決めたのです。明日も阿一! 来世も阿一! その次も阿一! ずっとずっと未来永劫阿一で通していくのですよ私は!」
 うっとおしそうにひらひらと手を振る阿一。
「あ、あの」
 と、そこに、十従者のなかで一番歳の若い十者が口を開いた。
「あ、阿一さま、地獄へいかれるんですか?」
 阿一はこくりと頷く。
「はい、そうです。ぱぱっと行って帰ってきますよ」
 それを聞いた十者は泣きそうな顔をする。
「あ、危ないですよぉ阿一さま……。地獄へ行くには魔法の森や迷いの竹林を抜けなければいけませんし、もし裏山まででられたとしても――」
 そこで彼女は一度口をつむぐ。
「阿一さま――」
 数度、辺りを見回してから、おずおずと発言するのだ。
「阿一さま、最近ずっと、あの妖怪に狙われているじゃないですか。一人でそんなところに行くなんて危険ですよぉ……」
 その言葉を聞いた十人の従者達が、水をうったように静まり返った。先ほどまでの騒がしさが嘘のように辺りを緊張感が包む。
 誰からともなく十者をたしなめるような台詞が飛び交いかけるが、阿一はそれを制す。一瞬だけ周辺を睥睨してから十者の小さな頭を撫でた。
「むしろそれでいいのですよ」
 少女の癖に少年のような笑顔をして笑う人だ。
「私が幻想郷縁起を書いているのもそのためですし、私が幻想郷縁起を書けるのもそのためです。だから転生するのだってそのためなわけで、結局、そういうことです。私が一人で全部けじめをつけるわけですから、貴女が気をもむ必要はありませんよ。鼻歌歌いながら洗濯物でも取り込んでいてください。それで十分なのです」
 十者は肯定とも否定とも取れない方向に首をぶんぶん振る。
「というわけで、行って参りますね」
 いつの間に準備を完了していたのか、外出の用具を背中に背負った阿一、我先にと止めようとする十従者の間をするりと抜け、
「まあ、死んじゃっても来世がありますしー」
 わははと笑いながら手を振り門を出て行った。
「「「「「「「「「「……」」」」」」」」」」
 十人の従者がまたぴたりと息の合った沈黙を鳴らす。やはり、今日は変なことが起こる日であったのだと。
「あの日に似てるわあ……」
 年配の従者がぽつりと呟いた。

☆ ☆

 稗田の阿礼というご先祖様がいる。
 稗田家の礎を作ったどえらいご先祖様だ。
 伝聞伝説その他言い伝えによると、どうもこのご先祖様、一度見たものを忘れないという、脳が腐りそうなほど取り扱いの面倒くさい能力を持っていたらしい。
 面倒くさいが、強力な能力である。
 ひと財産築ける程度には、だ。
 そんなこんなで稗田の苗字をいっとうの成金名家まで育てた阿礼は一生をかけて豪遊遊戯の限りを尽くし、のち、能力を逆手に取られた博打にあっさり負けて大負債と絶縁を食らった。
 最後は辺境の寂れた野道で妖怪に食われて彼女の人生は終わる。
 阿礼について一番有名なくだりは、この妖怪が喰った際の二言であり、曰く、

『美味い』
『次も喰おう』

 以上である。
 清々しいほど意味不明な人生であった。

☆ ☆

 八雲紫は強い。
 それは周知の事実だ。
 また、強いだけでなく賢い。
 おまけに暇人妖である。
 睡眠時間も多い。
 だから紫はこれまで表向きの幻想郷を牛耳ってきたし、これからも牛耳っていくだろう。
 それはあたかも紫が幻想郷の創始者であるが如く自然な摂理であって、そもそもの創始者が不明である幻想郷だから、それはまた正しくもある。

 その日、紫は朝から竹林に張り込んでいた。
 もう一度言おうか、驚くなかれ、張り込みである。
 紫がこんな地味で泥臭い作業をするなんて珍しいし、珍しいというよりは皆無であるといってもいい。
 更に驚かせると、もう半日は張り込んでいる。
 紫自身、自分が半刻以上同じ事柄に集中できるとは思っても見なかったわけで、さすがは最強の妖怪である。死角は無い。
 が。
「……さすがに飽きてきたわね」
 竹林の上のほうでスキマに腰をかけながら、紫は小さく溜め息をついた。
「こんなときに式でもいると便利なのだけれど」
 まあそんなことを今ぼやいても仕方が無い。
「そもそも」
 そもそも、紫の予定通りに事が運んでいれば、半日も竹林で暇な張り込みをするまでもなく、さっさと用事は終わっていたはずなのである。
 しかし、今の状況を冷静にかんがみれば、その皮算用がいかに甘かったかを物語っている。
 八雲紫は強い。
 それは周知の事実だ。
 また、強いだけでなく賢い。
 おまけに暇人妖である。
 睡眠時間も多い。
 ただしかし、退屈だけには耐えられないのである、紫は。
「もういいかしら……面倒くさくなってきたし」
 と、ぼやいたときだった。
「ん……」
 迷いの竹林、その密集した竹を掻き分けて、とてとてと歩いてくる一つの足音が聞こえた。
「きたきた」
 すっかり生気の抜けていた紫の瞳に色が戻ってくる。頬に赤みが差し、いつものようににやにやと笑い出した。
「あちらさん、閻魔様との約束に遅れてくるなんて度胸あるわねえ」
 紫の視線が指す先、おかっぱ頭のよく似合う、着物姿の少女が道を急いでいる。まさかとは思ったが、単独行動である。迷いの竹林に一人歩きで迷い込もうなんて、無謀無策もよいところだ。
「まあ、そんなことはどうでもいいのだけれど」
 ここでひとつ明確にしておく。
 紫の目的は、あのおかっぱ頭の少女である。
 彼女を神隠すために、ここで朝っぱらから張り込んでいたのだ。
 そうしてようやく彼女を見つけたわけなのだが、さて、問題はどうやって彼女を神隠すかである。
 一、スキマに突っ込ませる。
 これは駄目だ。いくら急いでいるからといっても、あの子はそこまで間抜けではない。目の前に現れたスキマをひょいとよけていってしまうのがオチだろう。
 二、後ろから声を掛けて、やんわりと誘拐。
 これもよろしくない。今の時勢が時勢であるから、人気の無い道で後ろから声を掛けられたら振り向かずに逃げろと人間の子供は教えられているはずだ。そのまま見失ってでもしまえば、ここは迷いの竹林、探すのが少し面倒くさい。
 三つ目。
 紫の考えた最上の策はこれであった。
 紫は、ずっと座っていた場所から、あのおかっぱ頭の少女がよく見える位置にするりと移動する。
 よおくよおく彼女を観察してから、その、彼女の頭の後ろ付近に、小さなスキマをしゅるりと出現させた。
 曰く、
 海外では、手刀のことを、ちょっぷ、というらしい。
 紫は、彼女の頭の後ろ、スキマから、自分のちょっぷをにゅるりと出す。
「一発で昏倒させたらお慰み」
 喜色満面の笑顔と共にそんな言葉を呟いてから、
 薪を割る要領で、
 背後斜め上から、
 ちょっぷにより、
 力いっぱい、
 おかっぱ頭の少女の首筋を叩いた。
「――っ」
 竹林に二つの鈍い音がする。
 最初のやつが、紫のちょっぷが気持ちよく首筋にめり込んだ音で、後ろの一つが、おかっぱ頭の少女が倒れこんだ音である。
「うふ」
 紫は満足そうな笑みでしゅしゅっと自分の手刀を素振りした。
 ああ、大変だった。こんなに消極的な労力を使ったのもまた久しぶりである。今度からは、こういった仕事を任せられる式でも作っておこうかと。
「全く――」
 そう呟き、昼間でも薄暗い竹林の隙間から漏れる日差しに、紫はうっとおしそうに目を細めた。
「大変よねえ……妖怪も、人間も」

☆ ☆

 小町は三途の河原で石ころを積み上げて遊んでいたが、映姫は毅然とした表情で腕を組み黙りこくっていた。
 その差かもしれない。
 先に切れたのは映姫だった。
「遅い」
 言うが早いか手に力が篭り、握る悔悟の棒がめきりとなる。
「四季さま、そんなに力入れたら折れちゃいますよ。まあ使い捨てですけど」
 小町の言葉には耳も貸さず、映姫は握った拳でだしだしと仕事机を叩く。
「遅い! 遅すぎます! 一体全体稗田阿一は地獄の契約をなんだと思っているのでしょう。友達との指きりですか! 恋人との逢瀬ですか! 別れ行くあの子へまた合おうねなんて実現させる気のさらさら無い指きりげんまん針千本でーすーかー!」
 映姫の怒声に呼応するように三途の河は激しく流れ、空は曇り雷鳴が響き始める。
「あーもー、四季さまうるさいですよお。積み上げた石が崩れちゃったじゃないですか。せっかく、親殺しの子供の気持ちで積んでたのに」
 もはや映姫が小町の戯言に付き合う気持ちは皆無なようで、玉座から立ち上がり、じろっと彼女を睨みつけてから今日数度目かの質問を浴びせかける。
「小町、例の人間の名前は」
「稗田の阿一です」
「約束の時刻は」
「幻想郷に日が昇ってから、一番鳥が鳴き始めるまでの間としていました」
「今の時刻は」
「もうすぐ空が茜色に染まりますよ、四季さま」
「罪深い! なんて罪深い! だから私は言ったのです、時刻を守れぬ人間と嘘を吐く人間にろくな輩はいないのだと!」
「落ち着いてくださいよ四季さま……ん」
 と、そのとき、小町は積んでいた石のほうを眺め、何事だろうか、そちらに耳を傾けた。
「…………ふんふん」
 これでも彼女は伝令役であるからして、なんらかの能力を用い、情報をやり取りしている事実は想像に難くない。
 積んだ石に向かって一通り頷きとおす小町。
 全てを聞き終わった後にがらがらと石を崩し、映姫のほうに顔を向けながら言った。
「四季さま、例の人間に関して連絡がきました」
 それを聞くや否や、ぱっと顔を輝かせる映姫。
「やっと来ましたか!」
 しかし小町の表情は微妙である。
「いえ、それがですね……」
 数瞬頭の中で話を整理した後に、小町は答えた。
「八雲紫からの伝言だそうです」
「……は?」
 述べる。
「『稗田阿一は預かった』」
 予想外の文面。
「『返して欲しければ、閻魔さまがこちらまで出向くこと(はぁと』……はぁと、ってなんですか? 四季さま」
 疑問符を挙げる小町に対して、面食らったのが映姫である。
「……」
 三途の河が静まり返る、空の雨雲はどんよりと滞り、地上からは虫の音一つしない。
「……、……」
 先ほどの激情から一転、無表情になった映姫。
 しかし、現状把握のための思考は追いつかず、ぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。
 八雲紫といったか。
 八雲紫といえば、あの八雲紫である。
「……?」
 映姫は訝しげに首を傾げる。
 八雲紫は賢い。
 彼女は分かっているはずである。
 そんじょそこらの人妖とは違うのだ、八雲紫は。
 それに、あちらから積極的に望んで、閻魔である自分と相対する性格とも思えない。
「……うーん」
 そして映姫は結論付けた。
 とすんと玉座に座りなおし、ずれた帽子を直す。
 よく分かっていない顔の小町に一度視線をくれてやってから、言葉を紡いだ。
「放っておきましょう」
「え、いいんですか、四季さま」
 大仰に頷く映姫。
「構いません」
「それじゃあ、稗田阿一の転生の件はどうしましょう。また日を改めて……」
 小町の台詞をさえぎるようにして、ぴしゃりと言い放つ映姫。
「必要ありません」
 眼光は閻魔のそれだった。
「どんな理由があろうと、彼女は地獄との契約を反故にした」
 ずらりと、悔悟の棒に一本の筆を抜き。
「任意の転生を取り消すには、十分な理由です」
 書き込むのは一瞬だった。
『罪状 契約遅延、盟約破棄、ちこく』
 圧倒的な権力を持って宣言する。
「今日の裁判は、これにて閉廷します」

☆ ☆

 天を揺るがす怒声が響くのは迷いの竹林である。
 竹林の中空に開いたスキマ。
「はーなーしーなーさーいー!」
 そのスキマから飛び出た、描写する気力も萎えるような意味不明の手腕数本に、阿一は押さえつけられていた。
「元気な子ねえ……」
 阿一の目の前には、あきれたような笑い顔の妖怪が一人。
「記憶! あります! 貴女! 八雲紫!」
「あら十全」
 彼女がふとこちらに顔を近づけてきたかと思う瞬間、するりと阿一の首筋は撫でられる。
「うひゃん!?」
 なんとも言えず声を上げてしまう阿一だがしかし、生後養った彼女の気丈は全くしぼまない。
「うふふ」
 対する紫は、肩にまとわりついてきたリスでも玩ぶかのように、やはりするすると阿一を撫で回し続ける。
「やーめーてー! 今すぐ! 離しなさい!」
 わめく阿一をよそに、紫は舌を出し、更にはべろべろと阿一の頬を舐めた。
「いーやー!」
 竹林に処女のような悲鳴が木霊する。ざわざわと揺れる竹。隙間からのぞく赤みがかってきた空。どんより流れる雲。雨はまだ降らない。今日は良く月が映える夜になる。
「ん……」
 べっ、と。
 阿一を嘗め回していた紫は、口に溜まった唾液を吐いた。
 吐いて、阿一の顔をじっとみつめる。
 冷めたように一言呟いた。
「不味い」
 若干の沈黙が辺りを包む。
 失礼な、と。
 そう阿一は思ったが、もちろん口には
「失礼な!」
 出す。当然だ。
 第一声を得た勢いを失わず、矢継ぎ早に台詞を紡ぐ。
「八雲紫!」
 まるで呪文を唱えるかのように。
「境界を操る程度の能力! 三日月の笑い顔! 危険度不明にして人間友好度ごく普通! 何時如何なる場所時間にでも現れては消えていく、妖怪らしい妖怪の主犯格八雲紫とは貴女が私の記憶です!」
 一気に打ち尽くしすっからかんになった渾身の啖呵。涙目ではあはあと息をつく阿一をしかし紫は前述通り三日月の笑みで何事もなく受け止めた。
「あらあ、御名答」
 逆光だ。
 見下されるように。
「……それで?」
 じっ、と。
 目の前。妖怪。
 空気が揺らいでさえ見えるその存在感は、明らかに人と異を成していた。
 自分の目の前にいるのは妖怪なのだ。
 そんな明白の事実にようやく気付く。
 急な展開に興奮して追いついてこなかった脳が熱を持って回転し始める。
 必死で覆い隠そうとしていた心の芯を、凍った素手で鷲?みにされる感触。
「うぅ――」
 気は強い。
 心臓は屈しない。
 しかし悲しいかな本能と脊椎反射だけはそうもいかないもので、蛇に睨まれた蛙は逆立ちに近い土下座をしてへたり込むのが世の中の常である。
 特に阿一は、だ。

 妖怪に捕縛される。相対する自分の武器は、先ほど打ちつくした知識量のみ。
 今更そんな絶望的な情況把握が意識を覆った。浮いた足ががくがくと揺れ、目じりには涙が溜まり、恐怖を和らげるかのように口端をかみ締める。
 やはり恐怖だった。
 妖怪が持っている人への用なんて、それだけだ。
 明言化してみる。
 今から喰われるのである。
 ぎゅっと目を瞑り次の攻撃から目を背ける。
 罵られるにしても喰われるにしても来るのは口撃である。そのくらいは蛙でも分かっていた。
 と、
「食べられたくないでしょう?」
 来たのは確かに口撃であったのだが。
「食べられるのは嫌よね?」
 まぶたを開く。集積された少量の涙が頬を伝った。
「貴女、稗田阿一を知っているかしら」
 何を言っているのか、と阿一は思った。
 この妖怪は賢くて阿呆なのか、とも。
 そんな思考を口に出す暇もなく、紫は続ける。
「稗田阿一」
 まるで呪文を唱えるかのように。
「一度見たものを忘れない程度の能力。稗田家現当主。十八まで男として育てられた気の強い少女。危険度高にして妖怪友好度不良。妖怪全盛のこの時期に、幻想郷縁起なる対妖怪の何たるかを纏めた書物を執筆中。人間らしいけれど人間らしからぬ人間のような人間」
 あっという間に丸裸にされた阿一の個人情報。紫はもう一度中空のスキマに座りなおしてからやはり続ける。
「それでね」
 大げさに溜め息をついて見せた。
「彼女は少し前から、一部の妖怪の間で有名」
 阿一の知っている話から阿一の知らない話へと移行する。
「そして最近、こんな『噂』が流れたの」
 曰く、
「『あいつは今日の早朝、迷いの竹林を通る』」
 その台詞を聞いた阿一は、言い知れぬほどの気持ち悪さを感じた。粘性を持った空気が体に張り付くような感触。さざめく竹林の隙間から、悪意を持った何者かの視線を知らないうちに受けているような。
 その噂は余りにも抽象的で、余りにも正確な事実なのである。
 阿一は側近の従者にさえ、その事実を知らせなかったはずなのに、だ。
「地獄の情報管理も、程度が知れるわね」
 紫は目を細める。 
「もちろん、人間が転生しようがなんだろうが、ほとんどの妖怪にとって、そんなことどうでもいい」
 胸元からするりと扇子を取り出して、薙ぎの方向へ構えた。
「だから彼女が有名になったのは一部の妖怪の間だけで」
 先端で直線を書くように中空を撫でる。
「その転生の意味を理解できるのも一部の妖怪だけだった」
 ばっくり割れる空間。
「食べられたくないでしょう」
 ぎらぎら威嚇してくる塗りつぶしたような紫色。
「食べられるのは嫌よね」
 ぞくぞくするような悪寒を放つ切れ目。
「このままだと食べられちゃうわよ」
 その揺れるスキマ越し。
 八雲紫は荘厳に笑って。
「そう」
 阿一の一番暗く、一番じめじめとしていて、一番深い場所にある、一番敏感な場所を、
「貴女の父親と同じように」
 一番短くて簡単な単語で踏み潰した。
「助けてあげましょうか」
 一体なんなのだろう、と阿一は思う。
「助けてあげてもいいわよ」
 にやにや笑うこの紫色の妖怪は、一体なんなのだろう?
「貴女に死なれると、私は少しだけ困る」

☆ ☆

 何故そんなに早寝早起きなのですか、と。
 阿一は、そう従者に聞かれたことがある。
 阿一さまにそんなに早起きをされると、私の仕事がなくなってしまいます、と。
 難しい質問であった。
 阿一自身は明確な『理由』をもって行っている作業なのだが、他人が聞いた場合、その『理由』はひどく理解に苦しむ。
『暗い場所が怖いのです』
 結局、阿一はそう答えたのである。
 間違ってはいないが本質でもない答えだ。
『はあ、なるほど』
 従者は分かったようなわからないような顔をして部屋を後にした。
 その日の夜なのだが。
 寝入った阿一は夢を見る。
 あの日の夢だ。
 あのクソ親父が、妖怪に喰われに門を出たときの記憶。

 雲ひとつ無い真夏真昼間の空。じっとりとした空気。耐え難い熊蝉の騒音。数えで十八になったばかりの阿一は着物で額の汗をぬぐい、屋敷の縁側に突っ立っていた。下駄も履かずに出て行くクソ親父の後姿をじいと見つめながら。
 ついにおかしくなったのかなあと。
 事前の会話が会話だったから、そう思うのも自然な思考だといえる。
 日陰を探して座り、冷茶をつまみ寄せ、ぐいっと一気に喉へ流し込んだ。
 ぐるりと中庭を見渡してから、いよいよ門をくぐろうとするクソ親父まで視線を移す。
 ここだ。
 ここである。
 ここで阿一は、クソ親父の背中に、真っ黒いものがまとわりついているのが見えた。
 黒いものという表現は正確でないかもしれない。
 あれは間違いなく暗闇だった。
 遮るものの無い蒼天直下の中庭で、クソ親父の背中にだけは暗闇がまとわりついていたのである。
 阿一はそれをよおく見た。
 何の興味もないはずなのに、よおくよおく見た。
 そして、クソ親父は当たり前のように駆けながら、門をくぐって出て行った。
 三日後に竹林で見つかった。
 それでおしまいである。
 それがあの日の全部であって、それ以外の特筆すべき事項はなかったはずだ。
 それだけなのだ。

 ただ、阿一という人間は、その日から二点ほど変化する。
 ひとつ。
 暗所に底知れぬ不安感を抱くようになった。発狂するというほどではないが、あまり長い時間、暗い場所には居たくない。できる限り闇を見たくないので、夜は日が沈むと同時に寝て朝は日が昇ると同時に起きるようになった。
 ふたつ。
 一度見た物を忘れないようになった。
 視界に入ったものが、手当たり次第、脳みその画用紙に書き込まれていく感覚。
 だから阿一の持っている一番古くて一番鮮明な記憶は、あの真っ黒な暗闇だ。
 特に忘れることも無く、分かりやすく鮮明なままの存在感をいつでも記憶の隅っこでくすぶらせている。
 あれを忘れない限り、きっと自分は未来永劫何も忘れられないのだろう、という確信を内包しながら。
 その日阿一は、珍しく夜中に目を覚ました。
 やはり、夜は暗い。
 べたつく寝汗に辟易する。
 大きなあくびをして、布団にもぐり直した。
 クソ親父が妖怪に喰われた理由はなんとなく分かる。
 自分は、あの時先祖返りをしたのだとも。
 ご先祖様の阿礼も同じだったのかもしれない。
 確信できる。

 だからきっと、自分は妖怪に喰われて死ぬ。

☆ ☆

 終業時間をすぎて薄暗くなった地獄の裁判所。
「しーきさまあー」
 しかし仕事のための明かりは煌々と灯ってやまず、その淡い光に浮かび上がるようにして四季映姫はいまだ玉座に存在していた。
 少し離れた岩場に腰をかけている小町は、辟易とした溜め息をつく。
「もう帰りましょうよー。暗いですよぉー」
「小町うるさい」
 手に取っている煉瓦のように分厚い資料はしかし、風に吹かれるが如く頁をめくられていく。それを追い、小動物的な早さで忙しなく眼を動かす映姫。
「残業ばっかりしてるからすぐ出世しちゃうんですよ四季さまはー。私はあと五百年ぐらいは見習いでいるつもりですよー?」
 読み終わった資料をどすんと机の横に追いやり、また新しいものを手に取る。
 『稗田家に関する報告』、『稗田阿一の生い立ちについて』、『稗田阿礼とその能力』、――
「あれっすよー、あたい死神志望なんですけど、四季さまのところにだけは配属されないように、十王さまにお願いしちゃいますよー」
「……」
 『法への誠心』、『二種分権』、『東方政策』――
「しきさまあー」
 小町の発する言葉はもはや会話でなく独り言だ。
「しーきーさーまぁー」
 次の瞬間、馬鹿みたいな分量の資料がすさまじい音を立てて叩きつけられた。寿命が来たときそっくりの金切り声を立てて大げさに揺れる仕事机。小町はびくりと肩を震わせ、ダルそうにしていた口をつぐんだ。
「小町」
「あ、はい、なんでしょう四季さま」
 自分よりちびこい閻魔が険しい顔をして聞いてきたのは、今日、朝から幾度と無く繰り返された質問であり、それはまた愚問でもあった。
「例の『任意の転生』をする人間の名前は」
 小町は答える。
「稗田の阿一です」
 やはり応答は変わらない。
「約束の時刻は」
 変わるはずも無い事実である。
「幻想郷に日が昇ってから、一番鳥が鳴き始めるまでの間としていました」
 変らず流れていくのは時間だけだった。
「今の時刻は」
「先ほど日が沈みましたよ、四季さま。早寝早起きの裁判所は既に終業し、ミミズクとフクロウは餌場を争っています。満月と狼と人食い妖怪の天国である幻想郷は人間を地獄へいざない、そんな時間に外出する輩は変人か半人です。稗田阿一はまだ来ませんが、そのどちらでしょうか」
 小町は一気に言い終えてから、ああ面倒くせえ、というように大きな溜め息を吐いた。なんのことはない。結局、先に切れたのは映姫だったが、先に飽きたのは小町だったというわけである。それに気付いた小町は苦笑するしかなかった。
「私が思うに」
 映姫はやはり険しい顔つきで中空を睨み、
「本来、人間の転生と、その予定、転生先は、地獄の重要な機密です」
 苦虫を噛み潰すような口調で一言一言区切りながら言葉を発する。
「ですが、今回はどうやら、小町、貴女の述べた事実は、黙認できない範囲と量で、情報が漏れていたらしい」
 はあ、と小町は思った。
 だからなんなのかなあと。
 そのまんま口にした。
「確かに表向きは機密かもしれませんがー……でも四季さま、人間の転生情報なんて、地獄以外じゃあ何の役にも立ちませんよ。だから、みんなそこまで取り扱いに気を遣ってもいませんて」
 ああ、でも稗田阿一は『任意』の転生だから、ちょっと事情が特殊なんだっけ? と、言いながら思う小町だが、結論へは思い至らない。
 そして映姫が話すのは、やはり小町が引っかかった点である。
「稗田阿一の転生は特殊です」
 映姫の表情は頑なに険しさを守り通す。
「本人に転生先を選ばせ、記憶まで引き継ぐ。そんな転生を、普通、地獄は許さない」
 ぎりりと悔悟の棒を握る映姫。
「私が許さない」
 じゃあ、と小町は思う。
「じゃあなんで稗田阿一は許可が出たんですか」
 下っ端も下っ端、地獄職員見習いの小町が知っったことではなかった。あまり興味もないし。
「それなのですが」
 そう言った映姫は、悔悟の棒と筆一本をずらりと懐から抜き出した。
「稗田阿一はなにも、お百度参りをして転生を許されたわけではない」
 いつか見た光景であるが、あの時とは全くと言っていいくらい、趣が違う。
「彼女の我侭を許した地獄側にも、当然の如く打算があった」
 まず、悔悟の棒の重さが違う。こいつの重さは罪の重さに比例する。
「だから私はこの裁決が許せなかった」
 筆も違う。昼に扱ったぼろっちいやつでなく、本清書のときにだけ使う、いわば本気用のやつだ。
「『幻想郷縁起』」
 墨汁の量でさえ段が違う。映姫は大量の罪を書き込めるだけの墨汁を毛先に染み込ませた。
「あれは、今の幻想郷の、脆弱でか弱く消え入りそうだった人間側から、ようやく生み出された、妖怪への新たな対抗策だった」
 肩をいからせ立ち上がり、なけなしの胸を張りながら両者を構える。
「私たちは、それを待っていたのです」
 見開いた目を悔悟の一点に集中させる。
「今の幻想郷は余りにも妖怪が強すぎる」
 悔悟の棒は、なけなしの握力にひしゃげていた。
「妖怪と人間は均衡でなければいけない」
 白く染まるほどかみ締めた映姫の唇から、歯軋りの音が漏れて聞こえた。
「傾いたヤジロベエは転ぶしかない」
 そして映姫は書き込むのだ。
「稗田阿一、彼女は幻想郷の平衡を保つための」
 自らの罪を。
「そのための一要因だったのです」
『罪状 』
「今回の件は、私たちが気をつければ防げた事態だった」
『職務怠慢、』
「人間の台頭を良しとしない妖怪に、その情報を渡してしまうなどと」
 『機密漏洩、』
「罪深いにも程がある」
 映姫はがりがりと罪状を書き込みながら、歩き出した。
 面食らったのは小町である。
「し、四季さま、どこいくんですか!」
 映姫はわき目も振らない。それが当然かの如く小町に言い返す。
「八雲紫の所です。おそらく、稗田阿一は彼女が保護してくれている」
 ぐあ、と思い至ったように呻く小町。
 あの妖怪に恩を売られたら後が怖いんだ、と。
「もう遅いかもしれないし、間に合うかもしれない」
 そういうことなのである。
「時刻に遅れたのは、私たちだったのかもしれない」
 『ちこく』
 そこまで書き終えた映姫は、重い重い悔悟の棒で、悔いるようにして、
「――っ」
 自分の頭を二度三度がつんと叩いた。
「――たぁ……、いきますよ! 小町!」
「えぇ、あ、ぁあたいもですかあ……?」
 縄で引きずられるようにして立ち上がる小町、当然の如く出てくるのは疑問の嵐だ。
「で、でも四季さま! 稗田阿一を絶対に妖怪が襲うかなんてわからないじゃないですか! なんでそんなに焦ってるんですか!?」
 急いで飛び上がる映姫。その口から漏れたのは、先ほどの資料で得たのだろう、とある事実である。
 こんな簡単なことに気付かなかったのは、やはり職務怠慢としかいえない。
「小町、知っていますか」
 結局はこれが全ての事実であり発端である。

「稗田の当主は、毎回同じ妖怪に喰われて死ぬ」

☆ ☆

 最初のやつはやたら美味かった。
 次のやつもそこそこだった。
 三人目はどうだろう。

 両手を左右に開いた彼女は、夜の冷たい空気を思い切り肺に吸い込んだ。
 眼下には深緑を敷き詰めたような竹林が山の裾まで広がり、時折吹く涼やかな風に背丈をざわざわと揺らしている。
『あいつは今日の早朝、迷いの竹林を通る』
 噂を聞いたのが何日前だったのかはよく覚えていないが、それが彼女にとってあまり重要な事項とも思えなかった。
 そもそもこの噂は、この手の物にとって最重要である目的語が欠落しているし、噂単体としてもあまり面白いものだとはいえない。
 もしかすると、この噂を流したやつには、何らかの思惑があったのかもしれないし、その目的は既に達成されていて、結局の所、噂の概形だけが一人歩きしていたのかもしれない。
「――♪」
 ただしかし、その真相が彼女にとってどれほどの意味を成すかといえば微々としたものであるのは間違いがないし、話の腰を折ってしまえば、幻想郷に存在する大概のものが彼女にとってどうでもいい事項だった。
 いい夜である。
 満月だ。
「人類が今までに見た、一番大きな『影』はなんだと思う?」
 台詞はあまり気にしなくて良い。
 独り言が好きなのだ、彼女は。
「はりつけにされた聖者の後光かしら?」
 さて、彼女は『あいつ』を待っていた。
 噂通りであるならば、もう早朝には竹林を通っていたはずである。
「いやいや」
 そして彼女は、『あいつ』を襲って喰う。それで全ては情況終了である。
 だから彼女にとって例の『噂』は、その程度の価値しか持っていなかったわけで、要は、晩飯一食分の価値。
「蓬莱山の山陰?」
 ただ、『あいつ』はちょいとばかり特殊なのだ。
 百何十年かに見る。百何十年かに一度、食べられる。
 いわば『ご馳走』。
「いやいや」
 だから彼女は『あいつ』を探していた。探してまとわりついて食べる時期を待っていた。なかなか訪れないその日を待ち望んでいたのだ。
「それは、日食」
 そんなとき、『噂』を聞いた。『あいつ』の噂だ。普通のやつよりも美味しくて食べ応えのある『あいつ』が、確実に迷いの竹林を抜けるという『噂』。
「それは、月の影」
 そして今、彼女は『あいつ』を探している。
 夜になってもやってこなかった『あいつ』を探している。
 迷いの竹林といわれるほどだ。きっとどこかで迷っているに違いない。
 探し出してきちんと自己紹介し、挨拶を交わしてから妖怪的に食べるのだ。
「だから私は月が好き」
 最初のやつはやたら美味かった。
「満月が好き」
 次のやつもそこそこだった。
「夜が好き」
 三人目はどうだろう。
「食べられる人類が好き」
 きっと美味いに違いない。

☆ ☆

 竹林に口があったのならば、展開の膠着にそろそろ罵声を飛ばし始めるかもしれない。
「だーかーらー」
 ただ、幸いなことに今夜は満月だったから、彼女達の一挙一動をはっきりと見ることはできた。
「相手が妖怪だろうが人間だろうが、面識のない人から身に覚えの無い施しを受ける謂れはこれっぽっちもありません。それに、私を食べないと宣言した妖怪、八雲紫なんて、これっぽっちも怖くありません」
 ようやく解放され地上に降ろされた阿一は、もういい加減飽きてきた台詞を繰言のように反芻している。
「そお? でも貴女、このままじゃ食べられて死んじゃうのよ。悲しいわあ」
 対して、阿一が少し見上げるような位置でスキマに陣取った紫。よよよ、と泣き崩れる姿勢を見せてみるが、どこまで本気なのかは全く持って底が知れない。
「ああもう、うるさいなあ」
 暖簾のような返事しか返さない紫に対して、さすがの阿一も饒舌になったのであろうか。
「私が何故転生しようとしたのか分かりますか」
 そんな質問をしてきた。
 言葉を聞いた紫は、唇を若干への字に曲げて見せるが、表情自体は能面の微笑である。
「幻想郷縁起を完成させるためでしょう?」
 紙に書いた答えを読み上げるような拍子で返答する。質問者である阿一は大袈裟な動作で頷き、肯定の意を表すのだが。
「その通りです。私が生きているうちは、絶対に幻想郷縁起は完成しない」
 ただ、その後に続く説明は、少しだけ捻くれたものだった。
「ですが、その答えは結論にしか過ぎない。問題点の本質ではない。優良可不可で言えば『可』程度の評価です」
 そこまで聞いて、ようやく紫の表情は変化した。今回の件で、自分に欠けている情報は皆無だと確信していたせいであるのかもしれない。しかしまあ、それは紫が行動するに当たって全く無価値な話であることは間違いがなかったし、これからの行動に影響を与えるとも思えない。なので、実際の挙動としては、紫はちょっと困ったように眉を寄らせただけだった。
「ですが、貴女に『優』の答えは教えてあげません。何故なら、貴女は私にいじわるだからです。人にいじわるする人は、人からもいじわるされます。私にいじわるされたくなければ、私にいじわるしないでください」
 憮然とした様子で語る阿一に、今度の紫は苦笑してしまった。確かにちょっとばかし意地悪なのは自分の癖かもしれない。まあそれが良いか悪いかは全く問題でないし、第一直すつもりなどさらさら存在してはいないのだが。
「ただ、これだけは言っておきます」
 びしっと人差し指を上に突き立て、阿一は年下の子を叱るような調子で言葉を紡ぐ。
「貴女は勘違いをしている」
 まるでお小言のような物言いだが、内容自体はおよそ常識的な人間のものと思えない。
「確かに妖怪に喰われるのは怖いです」
 胸を張る。
「ですが」
 さすがの紫でも、半生で初めて聞く台詞だった。
「私は、妖怪に喰われて死ぬことを望んでいる」
 次の瞬間である。
 まるで月食のように月が陰った。竹林の上空から、ひゅうひゅうと不気味な風きり音が聞こえてくる。阿一と紫、二人の視界を端々まで満遍なく塗り潰すかのような『闇』があっという間に辺りを覆った。ただただ衣擦れの音だけが木霊する『闇』の中で、ああこれは人じゃねえなあと一発で分かるような声が辺り一面に反響した。
『見つけた』
 闇の中、紫は、あちゃー、といった感じで手のひらを額に当てる。
『貴女で三人目』
 ああ、間に合わなかったか、と。

☆ ☆

 例えてみれば。
 と、八雲紫は思う。
 幻想郷は『天秤』なのだ、と。
 もちろんそれは紫の主観的な考え方であって、人妖によっては全く違った概念を提示する場合もあるかもしれないし、むしろそうであるべきだ。正しい答えを算出できるのは、いつも式と時だけなのである。
 しかし紫は『天秤』だと考える。
 何故か。
『天秤』は、釣り合うことで重さを測定するからかもしれない。
 釣り合わない『天秤』など、何の用も成さない。
 悲しいかな、激務である。
 幻想郷だってそんなもんだ。
 一つの支点を隔てた対岸に、人間と妖怪っつう二つの『重り』が乗っかっている。
 妖怪は人間の恐怖の具現である。人間がいなければ妖怪は生まれない。
 人間は恐怖を妖怪に押し付けて生活する。妖怪がいなければ人間の生活は成り立たない。
 人間が重過ぎれば釣り合わない。
 妖怪が重過ぎれば釣り合わない。
 なんとまあ、我侭な。
 両者は釣り合っているべきなのである。
 抜け駆けは許されないわけだ。
 ただ。
 今の幻想郷は妖怪が強すぎる。
 これは如何にもよろしくない。
 加えて悲しいかな、人間側が『重くなる』気配も感じない。『重くなっている』のは妖怪ばかりの現状である。
 釣り合わない『天秤』など、何の用も成さない。
 支点で向かい合った両者は、いつも平衡であるべきなのだ。

「難儀ねえ……」
 紫は瞑っていたまぶたを開けて、眼前の暗闇を見た。伸ばした手のひらさえ見えない、完全無欠の暗闇である。よくも頑張ったものだ。
「さて」
 さて、ここで問題なのは稗田阿一である。
 結論から言う。
 彼女は重りだ。
 彼女の生い立ちが原因だったのかもしれないし、彼女の能力が問題だったのかもしれない。ただまあ、それはどうでもいい過程の話であって、結果だけ見れば彼女は『幻想郷縁起』を執筆し始めた。
 対妖怪である。
 人間が妖怪を押し返すためのいち手段だ。
 久々に見る、人間側の『重り』なのだ。
 もちろん、自分らの要点弱点を書かれていい気分のしない妖怪の方が多いから、随分と妨害を受けただろう事は想像に難くない。
 毎日の行動範囲や一手一挙動にかなり気をつけてきただろうし、だから、彼女はなんとか生きている。
 しかし、今回は洩れた。
 地獄から洩れた。
 地獄へ行くには、必ず迷いの竹林を抜ける。
 いい的である。
 誰が洩らしたのかも知れないし、候補なんて山のようにいる。
 ただ、実際の行動としては、やつらは『噂を流した』だけだ。
 あいつは今日の早朝、必ず迷いの竹林を抜ける。
 これである。
 何故これだけか。
 その噂に必ず反応して行動する妖怪が、確かに存在していたからである
「困るわあ……」
 紫はぼやく。
 稗田には阿礼というご先祖様がいる。
 稗田家の礎を作ったどえらいご先祖様だ。
 阿礼について妖怪側の一番有名なくだりは、彼女が食われた際の最後の一言である。
『私の子孫はもっと美味い』
 以上だ。
 結局、逆恨みした阿礼の呪いだったのかもしれないし、それを真に受けた素直な妖怪の実益だったのかもしれない。
「ままならないものねえ」
 紫はやはり眼前の暗闇を見つめている。
 この暗闇のどっかに、稗田阿一がいるに違いないのである。
 恐らくは、妖怪に襲われる直前だ。
「ふむ」
 紫は彼女を助けることが出来るだろう。
 闇を追い払い妖怪をへこませ阿一を攫って閻魔に突き出すことが出来るはずだ。紫なら。それも、瞬き足らずの時間しか要さずに。
「……」
 全てはそれで一件落着である。新米閻魔は大役を滞りなく履行し、稗田阿一は望みどおり転生する。人間側の『重り』は予定調和の如く重みを増し、幻想郷は多少の平衡感覚を取り戻すのだ。
 まさに、大団円。
「……ん」
 果たしてそうか?
「はぁ……」
 違う。
 違うのである。
「疲れたわあ……」
 紫が欲しかったのは、そんな人が手を加えて加工したような結末ではない。
「やっぱり」
 『意志』だ。
 今の幻想郷で押さえつけられる人間側から、耐え切れずに溢れてにじみ出てしまうような『意志』。
「無茶だったのかしらねえ……」
 幻想郷縁起がそうだった。
 人間と妖怪との複雑な事情が混ざり合い絡み合い、押しつぶされ絞り出てくるようにして出現した『意志』。
 結果として排出される、人間側の『重り』。
 それが欲しかったのだ、紫は。
「幻想郷は」
 だから、一部の『分かっている妖怪』が『噂』を流したのはアンフェアであると紫は思っていたし、それを修正するかの如く阿一の足止めをしたのもまた同じことである。
「成り立ちからして矛盾を抱えているのかもしれない」
 ただ一言、『死にたくない』と。
 『助けて欲しい』と。
 微かでもいいから、阿一がそれらに関して肯定の意を表していたのなら、紫はこんな暗闇の中で憮然としていることはなかっただろう。
 それが人間側の『意志』ならば。
「五百年後、千年後の幻想郷を見ることは出来ないのかもしれない」
 しかし現実として、稗田阿一にはその『意志』がなかった。
 あまつさえ、『妖怪に喰われるのを望んでいる』などと言うとは、思っても見なかった。
「私もまだ若いわあ……」
 それが彼女の『意志』ならば。
 結局の所、それが幻想郷の進むべき道であるのかもしれない。
「帰って寝ましょうかしら」
 欲しかったのは『流れ』。
 幻想郷が、これからもずっと摩擦し合い熱を出し合いながら営みを続けていくという『流れ』。
「でも」
 そんなことを望んでしまう程度には、紫はまだ若かった。

「幻想郷がなくなると、私は少しだけ悲しい」

☆ ☆

 視界が端まで一瞬で塗りつぶされた瞬間、すぐに阿一は感づいた。
「見つけた」
 あのスキマ大好き意地悪腐れ妖怪に目に物見せてやろうとして一言放った直後だ。
 音まで吸い込むように分厚くて濃密な闇の中で、阿一はがりっと噛み締めるようにして奥歯を鳴らした。
「貴女で三人目」
 あいつである。
 間違いないし間違えるはずも無い。何故なら阿一の能力は一度見たものを忘れないことで、そいつと照らし合わせるのならば、この『闇』はあのときクソ親父の背中にまとわりついて離れなかったあの『闇』と一切まで違わず鮮明に同色だった。
「こんにちは」
 闇から話しかけられる。
 脳がその声を理解し認識した瞬間、阿一の切ないほど小さな心臓が音速を上げて鳴り始めた。まるで重病人のように大量の汗が吹き出てくる。動かそうとした足の筋肉が中途半端な形で硬直しているのに気付く。何のことは無い、蛇に睨まれた蛙を体現しているだけだ。八雲紫のときとは明らかに事情が違っていた。
「いい夜ね」
 阿一はやはりがりりと歯を噛み締めて体を動かそうとする。駄目だ。ここで全く動かず何も成さずに喰われるのだけは駄目だ。ずっと前から考えに考えて決めたことなのだ。これは自分の意志なのだ。決まっていたのだ、この結末は。
「――にちゎ」
 かろうじて声が出た。こんにちはと言ったつもりだったが、相手に伝わっているのかは怪しい。
「目の前のは、取って食べられる人類?」
 どうやら通じてはいないようで、暗闇は自分勝手に言葉を垂れ流していく。その全てが自分を食べる前の前菜であることは明らかだった。
「んー……」
 何事か考え込むような雰囲気。この暇を逃す訳は無い。阿一は握った拳でがんがんと自分の太ももを叩いた。動け動けと声にならない祈りを含みながら。
「まあいいや」
 闇の発するその言葉は大方が殺人宣言に近い発言であって、ただそれが幻想郷でどれくらいの罪を有するのかといえば、提訴するまでもなく潔白無罪なのは明らかだった。
 足はまだ動かない。
「いただきます」
 誰かが動いた風切り音が聞こえた。誰か、なんて表現は生ぬるいもので、それは間違いなく例の妖怪である。足は当然の如く硬直して動かず、阿一に出来ることといえば、目を閉じて顔を背けるくらいのものだった。
「――っ」
 阿一の膝っこぞう辺りに鋭い痛みが走る。
「……あれ」
 と同時に、呆けた声も聞こえた。
「……みえない」
 阿一には言っている意味がよく分からなかったが、もしかしたら、相対する妖怪はこの暗闇のせいで目測を誤ったのかもしれない。阿一が得た傷は掠ったようなもののそれであり、いくらなんでも妖怪の攻撃としては貧弱である。ただ、自分の出した闇で自分の目測を謝らせているのだとすれば、相手は阿一が思っていたよりも、ずっと間抜けな輩なのかもしれない。
「……ぁ」
 と、そこまで思考して、阿一は自らの足が自由になっていることに気づいた。痛みを感じて神経まで繋がったらしい。
「うーん……」
 相手はまた何事か悩んでいる。やはりこの暇を阿一が逃す理由はなかった。
 逃げる?
 否。
 否である。
 阿一は動くようになった足を大またで大地に突きつけ、どこへいるとも知れぬ暗闇の中、あてずっぽうの方へ向かい大声で叫ぶのだ。
「見えないのでしたら!」
 まだみっともないほど声は震えているのだが、阿一はそれを何とか押さえつけるようにして言葉を放つ。
「私を闇で包むのをやめてはどうでしょう。そうすれば、よく見て食べることが出来ます」
 暗闇は駄目だ。
 怖いのもそうだが、暗闇だけはいけない。
 阿一の絶対にして唯一であり最後の最後まで頼るべき能力は、暗闇では全くの無力である。そんなもの、存在しないのと同値だ。
 阿一は見なくてはいけない。
 阿一の叫びを吸い込んだ闇は、しんと静まり返る。相手が見えず、こちらの意図が伝わっているか伝わっていないか確認しがたいのもまた闇の武器である。全く持って形容し難い底知れなさだ。
 と、短く一言だけ、返事が聞こえた。
「そーなのかー」
 次の瞬間、ぱっと視界が広がり、夜の光が差し込む。
 夜というのは阿一が思っているよりも明るいものだったらしい。周囲には見覚えのある配置の竹林が生い茂り、満月の光を浴びて煌々とその存在を主張している。ひとつだけ間違い探しをするのならば、阿一の目の前、畳二畳分ほど離れた位置に、短い黄色髪の綺麗な少女が浮かんでいたことだった。
「こんにちは」
 今度挨拶したのは阿一だ。
「こんにちは」
 少女は律儀に返してから、首を傾げた。
「さっきも同じことを言ったような気がするわ」
 仰る通りに二回目なのだが、阿一にはそんなことを慮る余裕も無い。今すぐ叫びだしてしまいそうな感じで揺らぐ意識を理性のぎりぎりで押さえつけ、何年も前から、あのクソ親父が死んでから、幻想郷縁起を執筆しだしてから、ずっとずっと反芻し想像で練習し続けていた言葉を搾り出す。
「貴女のお名前は」
 少女は何の惜しげもなく答えるのだ。
「ルーミアよ、宵闇の妖怪なの」
 答えを聞き出すのにどのくらいの労力がかかるか不明だったのだが、それは拍子抜けするほどに簡単だった。そもそもよく考えてみれば、そんなことを気にする妖怪の方が少ないのかもしれない。
「なるほど」
 阿一は頭につけていたかんざしで、地面にガリガリと書き込んだ。
『ルウミア』
『宵闇ノ妖怪』
 なおも質問を続ける。
「素敵なお名前ですね。どんな能力をお使いになられるんでしょうか」
 少し敬語が慇懃すぎたかもしれないが、今の阿一にそこまでを期待するのは酷だった。しかしルーミアは気にした様子もなくすらすらと答える。
「闇を操る能力なの。だから闇を操るわ」
 同じように地面に書き込む。
『闇ヲ操ル』
 そうしてごくりとのどを鳴らした阿一、もしかしたら質問が相手の逆鱗に触れて、一瞬で喰われてしまうかもしれないのだ。まあ、そちらのほうが自然ではある。
「……苦手なものなどは、おありですか」
 喰われるかな、と思った。
 こちらの質問に答える意味なんて、あちらには皆無なのだ。
「私は月が好きなの。世界で一番大きな影を作れるのは月だもの。だから、月が隠れてしまう新月の夜は、能力を使わないって決めてるわ」
 ここまで明朗に答えられると、逆に疑わしくなってくる。しかし嘘をついているようにも思えなかったので、阿一は地面に書き込んだ。
『新月ノ夜ニハ力落ツ』
 妖怪に面と向かって聞けることなんてこのくらいしかないから、ここからの質問は阿一の興味でしかない。だからまあ、それは阿一にとってある程度重要な事項だし、答えてもらえればそれ以上の十全はなかった。
「貴女は何故、私の父親を――」

 阿一の右肩が赤い潮を吹いた。
 千切り取られた肉片が少量だけ辺りに飛び散り、その事実を認識させられる。傷痕を見た阿一はぎざぎざに切り取られたそれが自分の肩であることに、痛みよりもまず吐き気を催した。
「あ、ごめんなさい、我慢できなかったの」
 もくもくと彼女が噛んでいる肉は、自分のそれなのである。
 べっ、と吐き出した。
 食べ物を粗末にするな、という単語が浮かんでくる辺り、阿一の思考は混乱している。
 やはり、喰われるのには慣れない。
「あれ……まずい」
 もう一度首を傾げる少女。
「まあいいや」
 全く阿一を見ていないその視線に、もうこちらの言葉など一言も届かないことが理解できた。
 自分はこれから喰われる。
「いただきます」
 いいのだ。
 これでいいのだ。
 これが自分で決めた意志なのだ。死に様なのだ。
 阿一はよおくよおく、地面に書いた文字を見た。
『ルウミア』
『宵闇ノ妖怪』
『闇ヲ操ル』
『新月ノ夜ニハ力落ツ』
 絶対に忘れないように、よおくよおく刻み込む。
 きっと、来世で書き込めるようにと。

☆ ☆

 これも以前の話なのだが。
『阿一さま』
 彼女は、十人の従者の仲では一番歳が若かった。
『阿一さまは、何故そんな能力を持っているのですか』
 だから往々にして正直であり、他の従者が聞けない事項を直線的に尋ねてくることも多い。
『何故って……そうですね。幻想郷縁起を書くためでしょうか』
 そこで従者は声を大にして疑問を叫ぶのだ。
『でも阿一さま、阿一さまは、幻想郷縁起のためのお話を聞いたら、傍から必ず紙に書き込むではないですか。別に頭で覚えなくとも、その紙を見れば事は済むはずです。覚えることは紙に任せられます。そう思ったんです』
 要点を突いた疑問だった。
 そう、阿一が幻想郷縁起を綴るに当たって、一度見たものを忘れない程度の能力、がそれほど役に立ってるとは思えない、と言いたいのだ。
『ふむ……』
 阿一は考え込んだ。
 確かに、その通りなのだ。
 聞いたことは能力外であるから忘れる。
 紙に書いたことは、覚えなくとも、その紙を保持していればいい。
 自分が妖怪を見て経験して記憶するには、今の幻想郷はあまりに物騒すぎる。
 あまり、役に立っているとは思えない。
『じゃあ十者。貴女には言っておきましょうか』
 そして阿一は口を開いた。
『実は、幻想郷縁起は、私の生きている限り書きあがりません』
 えぇっ、と声を上げる十者。彼女にとっては衝撃だったらしい。
『何故かと言いますとですね』
 びしりと自分を指差す。
『私は、先代当主が死んでからずっと、同じ妖怪に付きまとわれています』
 聞き入る十者。
『しかもその妖怪は、いつも闇に包まれていて、視認が困難です。また、目撃したものも少ない』
 えーそんなーっ、と声を上げる。
『だから、私の能力が『見たものを覚える』である限りやつの姿形その他情報は分からない……ですが』
 うんうん、と頷く。
『一度だけ、奴を見る機会が、私には与えられています』
 やった、と嬉しそうな十者。が、
『喰われる時です』
 笑顔は続かなかった。
『私は、奴に狙われている。つまり、いつか喰われるのです。そのとき、ヤツの姿形諸々含めて記憶してしまうのです』
 阿一はそんな十者の頭を撫でる。
『死んでも絶対に忘れません』
 十者は肯定とも否定とも取れない方向に首をぶんぶん振った。
『絶対忘れずに、必ず、来世で奴の情報を、幻想郷縁起に書き入れてやるのです』
 涙目の十者。
『それで、幻想郷縁起は完成』
 彼女の泣き顔は、あまり見たくなかった。
『それが、私が考えた、この能力の最高の使い方なのですよ』
 でもまあ、仕方なくもある。
『まあ、もちろん能力をそこまで信用しているわけでもないので、転生とか他の方法と併用して実行するつもりですがー』
 やはり十者は、肯定とも否定とも取れない方向に首をぶんぶん振った。
 そんな思い出である。

☆ ☆

 ――。
 ――――。
 ――――――。

「……ん」
 ふと、深い所から意識が浮かび上がってくる感覚。
「……あれ」
 阿一はぼんやりとした認識力で辺りをまさぐろうとしたが、まさぐるための腕はとっくの昔に存在していなかった。
「あらら……?」
 腕が無い、と言う表現ができるということは、ここはまだ現世だと言うことだろうか。いや、よく考えてみれば地獄にいくときは魂の格好なのだから、それはそれで腕が無い。どちらにしろ腕がないのは悲しいことである。
「ん……」
 先ず確認すべきことは、ここがどこであるかと言うことで、そんなこともすぐさま思いつけない辺り、やはり阿一は朦朧としていた。
「……」
 静かな夜。
 遠い星空の天井。
 かすかに聞こえてくる虫の音色。
 どうやら自分は仰向けになって寝ているらしい。
 視界の端に見える竹林の影。
「あれえ……」
 間違いなく現世だった。
「死んでない……?」
 周囲を確認しようとする。が、阿一の首は一寸たりとも動こうとしなかった。
 仰向けで真上を見ていたんじゃ、自分の体を確認することも出来ないわけで、情況を把握するのは限りなく困難といえた。
 ただ、死んではいない。
「……んん」
 結局の所、人間が最終的に信頼できるのは自分の手足体なんかじゃなくこの脳みそなわけで、阿一の能力を考慮するのならば、それはまた圧倒的に正しい事実だった。
「ふむ」
 わたくし、一度見たものは忘れない性質でありますから。
「……」
 さて思い出そう。

 まず右肩を喰われた。
 まずいと言われた。
 次に左足を千切られた。
 まずいと言われた。
 わき腹を切り裂かれた。
 まずいと言われた。
 内臓を引きずり出される。
 これもまずかったらしい。
 のど笛を噛み裂かれた。
 血までもがまずいと言われた。
 そこまで思い出して思う。
 ……なんで私はまだ生きているのかしら?
 どう考えても致死である。
 死んだら行き先は天国地獄大地獄のいずれかなわけで、少なくともそれらをすっとばして地上に落ちてくることは考えにくい。
「……えーと」
 そうして。
 暫く思案に耽った阿一。
 何にも答えが出てこずに、いい加減、おい死神、早く仕事しろよ、と叫ぼうかと思ったときであった。
「稗田阿一」
 月夜の空気が重みを増した。
 動かないはずの肩がびくりと揺れた気がする。
 既に感覚が消えている背中辺りに、凍った氷柱を投げ入れられ全身が逆立つ感覚を覚えた。
「死神の先導が無い魂は、三途の河を渡れない」
 辺りの空気が歪む様にして竹林が揺れる。
 ずっと阿一を照らし出していた月の光が陰った。
 上空の強い風を阻むようにして、満月を背負った人型が浮かんでいた。
「閻魔の判決無き魂は天国も地獄も許されない」
 その影から推測される姿形は確かに少女のそれであるのだが、月の金色が逆光になって、上手く視認することが出来ない。
「貴女は、私の許可を得るまで、死なない、死ねない」
 そもそも阿一自身の視力が盲目同然に低下してきており、正確に描写するのならば、見えるのは濃紺の星空に浮かぶ満月と、そいつを背負った輪郭のゆがんだ人型だけである。
「それが貴女の断罪」
 だが、彼女がどこのどいつであるかは火を見るよりも明らかだった。
「罪状は、ちこくです」


 深夜の竹林に、しばしの沈黙が下りる。
 しんとした夜の空気が何よりも鈍重だった。
 お互いに無言を保ったまま、向かい合った彼女の視線だけが、阿一を真っ直ぐに貫いている。
「現状を説明しましょう」
 阿一に出来ることは、特に無い。
「八雲紫は貴女を見限った」
 あの糞スキマ妖怪の野郎はトンズラしてしまったらしい。喰われる阿一を助けるつもりはなかったようだ。
「是非曲直庁も、既に貴女を見限り次の思索に移っている」
 是非曲直庁とは、地獄の公的団体だ。権力集団と言ってもいい。閻魔は皆そこに属している。つまり、そこに見限られたということは、阿一は任意の転生の機会を失った。
「そして、貴女の能力は、貴方が期待しているほど強力ではない。世代を超えて記憶を受け継ぐなど、出来るはずが無い」
 淡々とした口調で事実を述べていく彼女の表情は、逆光で真っ黒に塗り潰されていて見えない。
「つまり、貴女は自らの能力にさえ見限られた」
 阿一は震えた。
 この感覚は以前にも経験したことがある。あのクソ親父が死んだ後に、母親は無表情で阿一に言ったのだ、『もう灰になりましたよ』、阿一は母親の言うその過程を自分で見てはいなかった。自分の知らない所で、人一人としての価値が処理され無意味になっていくその感覚。
「まだ理解できますか、稗田阿一」
 後に続くその言葉を聞きたくはなかった。すぐにでも両手で耳を塞ぎながら走り出し、心許せる従者達の元でいつものように茶をしばきながら寝転がっていたかった。
「貴女が十八から編纂し始めた幻想郷縁起、その完成のために巡らされた多数の想いと策謀は」
 だがどうだろう、眼前に広々と横たわる現実は、阿一の指一本さえ動かすのを許さない。そもそもまだくっついているというその考えさえ妄想の産物かもしれないのだ。
「全くの無価値に終わった」
 やめて欲しかった。どうせなら発狂しないまま死にたかった。自分の歩み、連綿と繋いできたその道が、次に、来世に、未来に、反響するようにして繋がると信じながら今世を失いたかった。
「信頼できる従者に事の次第を説明し相談していれば、貴女は遅刻せずに済んだかもしれない。八雲紫に向かって必死に助けを求めていれば、貴女は助かったかもしれない。動き出した両足を仇の妖怪とは逆方向に向けて逃げ出していれば、貴女は死ななかったかもしれない」
 できなかった、それはできなかったのだ。だって、この意志は阿一のものであり、自分に関係したものを運命までひっくるんで来世の流れに押しつぶしてしまおうなどと、できるはずがなかったのだ。全て自分の中で、自分の意志で、完結させ結末を演出して見せたかったのだ
「稗田阿一」
 やめてくれ、自分の名前を呼ぶのはやめてくれ。その名前は嫌いだといったじゃないか。女なのに、まるで男のようなそんな名前。もしこの名前が女性らしく、可愛らしく、美しく、可憐で、自分でも気に入るような名前だったのならば、
「貴女は少し意志が強すぎた」
 きっと、阿一はもっと弱く生きることが出来た。死ななかった。長生きが出来た。世界で一番愛おしい人を見つけ、儚いけれども充実した生涯を楽しむことが出来た。
「人はもう少し自分勝手でいい。人に頼っていい。そうあるべきで、生まれながらにその権利を持っている」
 逆子で産まれ落ち、男らしい名前をつけられたそのときに、もう阿一の進むべき方向は出来ていた。森林の中でただ一筋慣らされた獣道のように出来あがっていたのだ。阿一は、自分はすぐ傍にある緑の木々を傷つけることが出来なかったのだ。
「貴女の罪は、私の一存で決まる」
 だからじゃないか。
「一つ聞いておきましょう」
 だから阿一は、自分の傍で、その美しいほどに輝く緑を眺めるのが大好きだったのだ。憧れたのだ。だから阿一は、森の中を一筋通るその獣道が、永遠にずっとずっと続いていくことを望み歩んでいたんじゃないか。
「貴女は、幻想郷縁起に何を重ね、何を望んでいたのですか?」
 彼女はそこで言葉を切った。
 どうやらこちらの返答を待っているらしい。
 響く声がなくなった竹林は相応の沈黙で耳を鳴らしてくる。どんどんと視力が役に立たなくなっているからだろうか、今は、耳に入る感覚がやけに鋭敏と頭を打つ。
「あ――」
 発声練習をしてみた。どうやらまだ声帯は生きているらしい。応答を実現することは可能だ。少なくとも痺れを切らせた閻魔に追加断罪を受けるような不幸は心配ないらしい。
「私は――」
 声を出しながら考える。自分が半生を掛けて執筆してきた幻想郷縁起。重ねていた? 何を? そんなもの考えもしなかったし、今現在の回転しているのかも疑わしい脳みそではじき出すことは酷な作業であるのじゃないか。
「幻想郷縁起は――」
 だから阿一は思考を言語化することは諦めた。力を抜き口から自然に漏れ出てくる空気の流れをそっと、理解できる形に加工した。
「幻想郷縁起に綴られているのは、妖怪だけではありません――」
 いまいち何を言いたいのかも分からない。そもそも、頭で考えて物を言っていないのだから、当たり前なのかもしれない。阿一自身さえ、自分の言っていることが、嘘か本当かも知れていない。
「幻想郷縁起に綴られるのは、種々数多の人妖。そうです、幻想郷で生きている彼ら――」
 ああちがう、いまいちまとめ切れないのだ、違う、そう、こう、こうだ。
「幻想郷縁起が綴っているのは、幻想郷です」
 そう、それだ、それで、自分は幻想郷縁起を何故執筆していたのだ。それは、結果として妖怪への対抗策にもなるかもしれない。人間の利になり妖怪の不利になるのかもしれない。しかし、それは阿一の意志だった。
「私は、この幻想郷をよく知りたかった――」
 あの日から、あの日からだ。大切な誰かが死んだあの日から。誰だったのかはもう思い出せないのだが、阿一に人生で一番嫌いなものをくれた大切で大嫌いな誰かだ。
「あの人を、まるで魔術師みたいに消してしまったこの幻想郷を――」
 どんな感情だったのかは全く持って知れない。もう覚えていなくてもいいものかもしれない。自分の能力は、過去の感情を覚えていられるほどに万能ではない。
「人間と妖怪がせめぎあい、それでも皆が寄り添い語り合い、愛して止まない幻想郷を――」
 書きたかった。
 とにかく執筆したかった。それだけだった。妖怪のことはにくかったかもしれないし、それほどでもなかったかもしれない。人間のことは好きだったかもしれないし、それほどでもなかったかもしれない。
「あわよくば――」
 分かっているのだ。
「いつか私の書いた書を見て――」
 自分は逆子だった。
 女なのに男みたいな名前をもらった。
 勝手なあの人は勝手に死んで、まるで理不尽な能力を頂いた。
 それでも。
 それでもだ。
 それでも自分は、稗田阿一は。
「人間と妖怪が、お互いを理解し――」
 そんな馬鹿みたいに平衡感覚の無い馬鹿みたいにとち狂って馬鹿みたいに頑張って歩んでいくこの土地が。

「仲良く語り合える日がくれば――」

 幻想郷が、馬鹿みたいに好きだった。

 三度、しんと静まり返る竹林。
 阿一は視線だけ動かして閻魔の方を見やるが、やはり、上手く表情は確認できない。
 窺うのを諦めて、上空を見た。色彩感覚の欠落で、満月は既に輪郭程度しか確認できず、それすらもぼやけていた。
「……それは」
 やはり阿一は耳だけが鋭敏であり、結局の所、一度見たものを忘れない能力なんて死に際には何の役にも立たなかったというわけである。
「それは、壮大すぎる夢です」
 閻魔は冷静だった。阿一の語った妄想を当然の如き言葉で切り捨てる。阿一は実際に顔で表現できているのかも分からない苦笑いをした。
「今の幻想郷は、人間と妖怪がお互いの生死をやり取りすることで、その緊張感を保っている。平衡感覚を保っている」
 すっと、右手に持った悔悟の棒を頭上へ掲げる閻魔。
「それは、まさに夢としかいえません」
 月明かりを浴びて煌くそれは、盲目同然である阿一の網膜にくっきりと焼きついた。
「ですが――」
 袈裟に降ろすようにして、緩やかに悔悟の棒は振られる。すっすっと左右で同じ動作を繰り返した閻魔。最後にその棒を、阿一に向けた。
「幻想郷の未来を託すに足る夢だ」
 阿一と、悔悟の棒と、閻魔の右腕が一直線に並ぶ。
「五百年後、いや、千年後、貴女は、その夢を自らの目で見ることが出来るかもしれない」
 死に掛けの阿一でも分かる程の、圧倒的な存在感。幻想郷の調停者であり、生命の存亡を司る絶対的な権力者。
「稗田阿一」
 やはり彼女は足の指から髪の先まで閻魔であり、その役職に対しては、姿や言動など、ものの数ではなかった。


「貴女の転生を、許します――」

☆ ☆

 迷いの竹林である。
 そろそろ夜が明けるのかもしれない、空は白み始め、すでに月光はその存在感を薄れさせている。
 そんな竹林の中で、ひとつ、べそをかくような音が聞こえてくるのだ。
「しーきさまぁー」
 逆方向から聞こえてきたのは小野塚小町の呆れたような声である。彼女は支給品である見習い職員専用の大鎌を担いで、よっこらせ、としゃがみこんだ。
「なかないでくださいよおー。てゆうか、またすぐ地獄で会うんですよ? べそかいてたら閻魔様の威厳ゼロじゃないですかー」
「な、泣いてなどいません!」
 ぽんぽんと頭を叩く小町の手を、座り込んでいた映姫は両腕で振り払った。確かに泣いているというと大げさかもしれないが、彼女の目は若干の潤みに満ちている。
「いいんですかー? 是非曲直庁に申請せずに、勝手に転生を許しちゃって。怒られちゃうかもしれませんよー」
 ぶすっとした表情で映姫は答える。
「是非曲直庁は、彼女が早朝の時刻に遅れた時点で、彼女を転生から弾き、その裁量を私に任せていた。今の地獄の予定表は、それほど余裕があるわけではないのです」
 ふーん、といった感じで興味なさそうに鼻を鳴らす小町であるが、やはり疑問は尽きないようだ。
「でも四季さま、記憶を引き継がせるとかそんなのできましたっけ? ちょっと権力が……」
「できません」
 えー……、と、やる気なさそうに呻く小町。
「ですが、最大限の努力はしました。彼女の希望通り、彼女は稗田の子孫として転生するでしょう。能力も、そのまま引き継ぎます」
「ですけどー……。一番重要なのは記憶の引継ぎじゃないですか。あれ一番むずかしいんっすよ。というかやっぱり四季さまの権力的に……」
 映姫は小町をじろっと睨んだ。
 もう瞳の潤みは感じられない。さすがは裁判長であり、幻想郷の権力者である。
 彼女はきっぱりとした口調で、言うのだ。
「彼女の意志は強い。きっと、彼女は覚えている。それが、うっすらとでしかなくても、です」
 一方の、げんなりとする小町
「結局それですかー……。四季さま、貴女はちょっと意志が強すぎルー、とか言ってましたけど」
 聞き流す。
「忘れなさい」
「えー。だって、彼女が全部妖怪に喰われないで体の形が残っていたのも、意志が強かったからだと思いますよ多分。古今東西どこへ行っても、妖怪が苦手な人間は意志の強い人間なんです。だから、彼女は不味くって喰えたもんじゃなかったんですよ」
 なんとなく説教じみてくる小町の台詞に、映姫はそっぽを向きながら竹林から飛び立った。
「ちょっとー! 待って下さいよ四季さまあー! 大体、この場所が分かったのだって、迷いの竹林で迷って半ベソかいてた四季さまのところに、八雲紫が情報くれたからじゃないですかー! 四季さまは後先考え無さすぎなんですよー!」
 ぐんぐん、ぐんぐんと飛ぶ。
 もう夜は終わりだ。竹林の地平線からは新しい光が輝き、支配者の交代を示している。
 映姫は雲のない澄んだ空を見た。
 ああ、今日は晴れそうだ。
 明日は晴れるだろうか。
「私、絶対四季さまのところでは仕事したくないですよー! そう十王様にいいますから!」
 明日の日の出を見ることは出来るだろうか。
 明後日は?
 一年後は?
 では、千年後は?
「じゃあ小町、貴女は少し怠惰が過ぎる。十王に会ったら、貴女が私の部下になるように頼んでみることにしましょう。どちらの意見が強いかは……わかりますね」
「ぐあああ! いやだあああ!!」
 映姫は千年後の幻想郷を見てみたい。
 どんな世界になっているだろうか。
 それとも、既に崩壊して存在していないだろうか。
 まあそれはきっと、今日の自分の意志で決まるのかもしれない。

「さあ、今日もはりきって働きましょう」
「はーいー……」









 

 

 

 



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2008年3月22日 うにかた

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