少女月刀

 

 

 

 第三五八手。序盤に完成させておいた堅固な駒組みで敵の先陣をいなし、粘り強く機を窺い続けた末、いよいよ電撃的な反攻に転じようかとしているところだった。
 空気にかすかな異分子の匂いを嗅ぎ取って、犬走椛は駒へと伸ばしかけていた指をぴたりと止めた。ゆっくり、背後に流れる滝水の白い幕を肩越しに振り返る。滝の裏側に幾重にも連なる岩棚、その岸壁に穿たれた洞穴のひとつで、彼女は将棋盤の前にお行儀よく正座している形だった。
「どしたの、椛?」
 盤を挟んだ向かい側、対局の相手たる河城にとりが、小さく首をかしげた。
「侵入者ぽい」
「お、久しぶりだね。人間かな?」
「……みたいだよ」
 滝の向こうを見透かそうとするかのように目を凝らし、鼻をすんすんと鳴らして、椛は答えた。彼女の千里先まで貫く視覚と嗅覚は、山の三合目あたりにひとりの人間がいることを、はっきりと捉えていた。
 わお、とにとりが喝采にも近い声を上げる。
「行く、わたし見に行く」
 期待の色で目をきらきらさせる河童の友人に、椛は苦笑した。以前に人間と接触して痛い目を見たくせに懲りないなあと、胸中ではそう唱えつつ、口では「だぁめ」と告げる。
「今回は私が先に見つけたんだから。これは私の仕事よ」
岩の床から腰を上げると、脇に並べてあった武具を拾う。細い腕にはあまり似つかわしく見えない大振りの曲刀と盾、だがそれらを軽々と帯びた。
「続き、帰ってきたらね」
「あいよ。私も一度谷に帰ろっかなあ、お腹空いたし」
 まだ未練たらしげな顔をしているにとりの言葉で、椛も自分が空腹であることに気付いた。未明からぶっ続け、朝もお昼も食べるのを忘れて大将棋にのめりこんでいたのだ。
帰ってきたら私も何か食べよう。そう決めつつ、椛は洞穴を後にした。

 流水の幕を一刀で切り開いて虚空へ飛び出すと、黄金色をした秋の陽光が迎えてくれた。
 傾きはじめている午後の陽に照らされて、椛の白い髪は、水飛沫と共に淡く銀色にきらめいた。うっすらと赤みを帯びつつある吹き下ろしの風に乗って、椛は宙を駆ける。
 白く水煙を上げている滝つぼをひとまたぎに飛び越え、さらに下流目指して川面の上をひた走る。渓谷の両岸に立ち並ぶ木々からは、黄や赤に色づいた葉が後から後から舞い落ちてきて、椛の視界にくるくると螺旋を描いている。真っ赤な一枚がすぐ鼻先をかすめていって、椛はぱちくりまばたきした。
 ほどなく速度を落として、彼女は片岸に降り立つ。そろそろ侵入者と接触の頃合だ。岸辺から山の裾野までを覆っている木立の中に、目標はいるはずだった。
木々の間に目を凝らし、侵入者が先刻とほぼ同じ場所にいることを確認、木陰を縫って慎重に進みだす。この辺りでは風も弱まっていたが、念入りに風下を占位することを忘れない。地面に敷き詰められた落ち葉のじゅうたんを踏みしめ、しかしかさりとも音を立てないしなやかな足取りは、犬狼よりもむしろ猫の類を連想させるものだった。
 そんな足で樹間を五十歩ほど抜けて。
 林の中、小さく開けた場所に、そいつを見つけた。小柄な人間の少年。くすんだ青色のかすり纏った背を椛に向けて、頭上を仰ぐように立ちつくしているその様子は、どこか途方に暮れているかのようにも見えた。
 少年が見ている高さを椛もちらっと一瞥して、それから声をかけた。
「紅葉なら、下界でも見られるでしょ」
 びくりと、少年は弾かれたように全身でこちらを振り返った。鼻の左右にそばかすの浮かんだ、まだ十と少しを数えたくらいであろうと見える幼い顔立ちだった。椛のことを目に入れて、上ずった声を出す。
「げげっ、天狗様」
「いかにも、天狗です」
 応じつつ、椛は少年のことを観察している。幼い子供だからとて、油断はできない。幻想郷において、相手の見かけから実力を割り出そうとすることほど愚かな行為はなかった。実際、以前にこの山の防衛線を蹂躙してくれたのは、年端も行かぬ人間の少女だったのだ。椛自身もその少女と刃を交わし、あえなく撤退に追い込まれている。
 この子は、どうだろう。もし、またも自分の手に負えないようならば、あの時と同じように上手く退かねばならない。可能ならば敵を撃退、及ばないなら逃げて敵情を仲間のもとへ持ち帰る、それが哨戒の任務だった。無理に踏みとどまって散っても犬死だ、誰も褒めてくれはしない。
 さておき、戦うより先に、型どおりの警告くらいは発しておくべきだろう。
「何しに来たかは知らないけれど、すぐに山を下りなさい。さもないと」
 すっ、と腰を落として、左手の盾を相手へ突きつけるようにする。相手の目からすれば、円形の盾の後ろに、椛の姿は半分以上隠れてしまったはずだ。その盾の陰から、椛は剣の切っ先と右の瞳とを覗かせ、鋭く少年をねめつけた。
「腕ずくで突き落とすよ」
 低めた声に、少年はひどく狼狽したようだった。顔を青ざめさせて、けれども足元に木切れが落ちているのに気付くと素早くこれを拾い、両手で握り締めた。棒っきれを刀に見立てて取ったのは青眼の構え、割と様にはなっている。だが、腰がやや引けていた。
 以前の侵入者は、実力に見合った堂々たる態度を取っていたものだ。言い換えればふてぶてしい限りだったのだが、比較するとこちらの少年の反応は、可愛らしいとさえ表現できるものだった。
これはもしかして、見かけどおりの凡庸な人間だったかな――椛は試しとばかり、無造作な動きで間合いを一歩詰めてみた。
少年は、大きく二歩を退いていた。さらに色を失い、その視線は椛に集中せず、逃げ道でも求めるかのようにあちこち泳いでいる。
 やっぱり。盾の陰で、椛はわずかに口元をゆるめる。この子は、強くない。妖怪に対抗できるほどの力など秘めていない、単なる人間の子供だ。それでも逃げず、天狗相手に対峙を選んだ気概だけは、評価してあげても良いだろう。
 だがそれも痩せ我慢と見た。あとちょっとつついてやれば、なけなしの勇気も崩れるに違いない。遁走してくれるならば無理には追うまい――そう決めて、椛は少年を脅かしてやるべく、一気に詰め寄ろうとした。
後ろ足のバネに力を蓄えて、だがその時、不意に強めの風が木立の間を吹き抜けていったのだ。
風は土と木と乾いた緑の匂いと共に、思いもよらない香りを椛の鼻へと運んできた。ほんのかすかなそれを、だが椛の鋭い嗅覚は逃がさない。鼻腔から喉へと流れるそれはとても甘美な刺激で、
 ――食べ物の匂い?
 そう頭で識別するのと同時、唾液が口にあふれた。つい飲み下してしまい、すると椛のお腹はてきめんに反応、「くー」と、か弱い鳴き声を漏らしていた。
 小さな音は、しかし透明な秋の空気を震わせて、少年の耳にはっきりと届いたらしかった。一瞬、恐れや焦りといった色をきれいに消して、彼はきょとんとした顔つきになった。まじまじと椛のことを見つめてくる。
 椛も乙女である。たちまち頬に朱が濃く差し、それを意識してしまうとさらに羞恥が煽られた。澄んだ眼差しにじっと捉えられているのが耐え難く、ほとんど無意識、後ろ足に溜めた力を解放させていた。爆発的な勢いで少年めがけて突進する。
 ほとんどオーバーキルだった。
 椛の突進をまともに食らった少年はひとたまりもなく吹っ飛び、高々と宙を舞った後、受け身も取らずに背中から落下した。落ち葉が厚く積もっていたのは、せめてもの幸いというものだったろうか。地面に叩きつけられた少年は、それでも「きゅう」という面白い音を肺から吐いて、気を失った。

 やってしまった。
 大の字に引っくり返っている少年のそばで、椛はしゃがみこみ、頭を抱えていた。いくら無作法な侵入者相手とはいえ、自分がやったのは、比較にならないほど無力な人間の子供への対処ではなかった。しかも経緯が間抜けすぎる。「空腹で鳴ったお腹の音を聞かれたのが恥ずかしかったからぶちのめしちゃいましたあはは」なんて、間違っても上には報告できない。そんなことしたら向こう十年は山の笑い話にされてしまうばかりか、烏天狗の新聞で面白おかしく取り上げられて、下界でもその勇名を轟かせてしまいかねない。
 最悪の想像に汗を浮かべながら、椛は少年の顔を見下ろす。少年は目を閉じて、だけど口はぽかんと開いて、ゆっくり呼吸していた。息の根まで止めてしまっていなかったのは不幸中の幸いだった。生きてくれてさえいれば、まだフォローのしようもあるかもしれない。
 ほんの少しだが落ち着きを取り戻したことで、周りを見渡す余裕が生まれた。そこで初めて椛は、少年のそばに、何やら笹の葉の包みが転がっているのを目に留めたのだった。
 何気なく拾い上げ、そして気付く。その包みがほのかに発しているもの、これぞまさしく、先ほど自分を惑わせてくれた芳しい匂いであったことに。
 このにほひは――頭が勝手に識別を開始している――干した飯と、同じく干した肉?
 もしかしなくてもお弁当だろうか。思わずじっと包みに眼を落としていると、
「ん……」
 少年が身じろぎした。反射的にそちらを向いた椛は、彼の閉じていたまぶたが持ち上がるところを見た。
 目が合う。
 まだ意識が朦朧としているらしい少年は、ぼんやりと椛の顔を見ている。その視線がゆっくりと動いて、椛の手に乗っている包みへと移った。目の焦点が定まる。
「それ……」
「――や、いや、これは……」
 違うの、と続けるよりも一瞬だけ早く、椛のお腹が「くぅ」と再び鳴いた。
 泣きたくなった。
 少年はまばたきした。戸惑うような間の後、
「天狗様……お腹、空いてんの?」
「ちが、違うのっ」
 いや間違ってはいない、確かにお腹は空いているのだけれど。だからって、お弁当を奪いたいがために少年を襲ったわけではないのだ。そこだけは誤解してほしくないと思いながら、すっかり動転してしまった椛は上手く口を回すことができない。それでもなんとか自分の意思を伝えようと、手の包みを少年に押しつけた。
「お、落ちてたからっ」
 どうにか、それだけは言えた。
 ものすごく言い訳くさくなってしまったような気がした。
 少年はのろのろと上体を起こしながら、膝に乗せられた弁当と椛のことを何度か見比べた。それから何を思ったか、おもむろに包みを開きだす。
 果たして、そこに姿を現したのは、椛の鼻が嗅ぎ当てた内容そのものだった。干したお米と、お肉。
 つい眼を奪われてしまう椛に、少年は思いがけないことを言ってきた。
「よかったら、分けたげるけど」
「え」
 そんなに自分は物欲しげな顔をしていたか。動揺を面へ上らせた椛に、少年は続ける。
「その代わり、お願いがあるんだ」

 飽くことなく木の葉の舞い落ちる中、赤と黄がまだらに敷き詰められた地面に、椛と少年は向かい合って腰を下ろしている。
 干し飯と干し肉とをちょうど半分、半ば押しつけられる形で渡されて、椛は首をかしげずにはいられなかった。
「私のことが怖くないの?」
 すると少年も同じように「うーん」と小首をかしげながら、椛のことをしげしげと見つめてきた。
「いや、やっぱり怖いよ、天狗様だし。でも、なんていうか似てるんだよね、どこかさ」
「似てる? 誰に?」
「ん……うちの、家族に」
 早口にそんなことを言って、少年は自分の分を食べはじめる。ぱくぱくと気持ちのいいくらいの勢いでかじりつき、するとさっそく喉に詰まらせ、慌てて竹の水筒から水を流し込んだ。
 椛はまばたきし、それから小さな安堵を覚えた。この健啖ぶりだと、少年は大した怪我も負っていないらしい。きっと脳震盪を起こした程度だったのだろう。
 手の中、笹の葉に乗せられた食べ物へ一度目を落とし、また少年を向く。
「お願いって、なに?」
 少年は水をもうひと口飲むと、指先をなめなめ、話しはじめた。
「俺ね、猟師やってるじいちゃんがいるんだ。めちゃくちゃ元気なじいちゃんなんだけどね、さすがに寄る年波には勝てないってのか、この前の猟で下手打っちゃってさ。怪我して寝込んじゃってんだ」
 うん、と椛は相槌。なんとなく話が見えてきた。
「んで薬が必要になったんだけど……うちには秘伝の調薬法があってね。その材料になる薬草を探しにきたってわけ」
「この山にしかないの? その薬草」
「普通ならそうでもないんだけどね……ほら、前の冬、めちゃくちゃ寒かったでしょ? あれの影響なのか、いつも採ってた穴場のが、どうも不作でさ。困ってたら、里で噂を聞いたんだ。妖怪の山ならいつだって、どんな種類の薬草でもうなるほど茂ってるって」
「……あながち間違った話でもないけれど」
 でも、だからって、人間には危険な山に分け入ってくる理由となりうるのだろうか――少なくともこの少年には、なりえたのだ。まだ幼いとはいえ、入山することで自分の身に降りかかるであろう危険が想像できないほどではあるまい。それを承知の上でなお、この山に挑まねばならないと覚悟を決めたのだ。
 そしてその覚悟は、未だ折れていない。彼はいまこの瞬間も挑み続けている。危機に、白狼天狗という脅威に直面し、一度はノックアウトされながらも、まだ退くことを選んでいない。
「それで、目的の薬草は見つかったの?」
 これまでの少年の様子から答えは分かっていたが、確認してみる。思ったとおり、少年は表情を曇らせた。
「だめ、さっぱり。ここに来たの、初めてだし」
 かぶりを振ったその顔に、先刻見た、途方に暮れたような背中を思い出す。小さな背中だった。
あのとき少年がしていたように、椛はもう一度、空を仰いだ。陽射しは赤みを増し、夕刻を告げようとしている。
「で、お願いなんだけれど」
 すっかり空になった手を、ぽんぽんと払ってから。少年は改まった声を出した。
「天狗様、薬草のある場所に案内してくれませんか」
 なるほど、と椛は顎を持ち上げたまま、手の中の食べ物の重みを意識する。彼は、こちらがうっかり見せた弱みに付け入り、搦め手でもって危機を回避しようとしている。それだけでなく、目的を果たすためにこちらを利用さえするつもりでいる。まったく、人間とはしたたかな生き物だ、生命力は妖怪に遠く及ばないくせして。
 だけど不快な気分ではなかった。少年の気概は、むしろ触れていて心地よいものにさえ思えた。後ろにいる人のために全力を尽くす、ぎりぎりまで粘る――それは妖怪の山においても美徳とされる行為だったから。特に椛のような、頭に「くそ」がつくほど真面目な者にとっては。
 だから、本当ならば、少年の願いに沿ってあげたかった。
 椛はゆっくりと立ち上がった。着衣の裾に付いた枯葉を払い、それから空の色のにじんだ瞳を、少年へと戻した。静かに、諭すかのような声をかける。
「そろそろ下りないと、日が暮れる前に山を出られないよ?」
 少年がまばたきする。
「天狗様……」
「はい。返すわね」
 椛は一切手をつけていないままの食べ物を、少年の手へ戻した。それが意味するところは明白で、少年は顔を強ばらせつつ、のろのろと手元に視線を落とす。目元が悲痛な形に歪んだ。
「そんな」
「お願い、聞かせてとは言ったけれど。叶えてあげるなんて約束した覚えはないわ。だいたい、山の財産を人間なんかにほいほい譲ってあげられるわけがないじゃない」
 そう、椛は山の妖怪、天狗なのだから。異端を排し、山の秩序を守るのが務めなのだから。くその付くほどの真面目だからこそ、職務をないがしろにすることはできない。侵入者と、真正面から向き合わねばならない。
「お帰りはあちらね。もう少し下るまで、沢沿いには近づかない方がいいわ。河童に悪戯されるかもしれないから」
 椛は林の奥、ふもとの方角を指し示した。
「ほら、あそこの梢、ちょっとだけ頭がはみ出てる銀杏の木があるの、見える? まずはあそこまで真っ直ぐ行って、そこから川に向かって折れるのがいいわ」
 少年はうなだれたままでいる。それに気付かぬふりをして、椛は続けた。
「……そういえばあの木の根元の辺り、薬草の群生地だったような気がするなあ。打ち身、切り傷、解熱、腹下し……たいていのに効くのが揃ってたような。下界じゃ滅多に見られないような希少種もあるって話も聞いたっけ。……まあ、関係ないけれど」
 少年が、顔を持ち上げた。ぱちくりと忙しくまばたきしている。
「……天狗、さま?」
 呆けたようにつぶやいて、それから不意に破顔した。
「え、もしかして、いいの?」
 明るい響きの声が耳に届いていないかのように、椛はそっぽを向き続けている。
「さあ、急いだ、急いだ。夜になってしまったら、本当に命の保証はできないわ。自分の足で下りるのが嫌なら、やっぱり私がつまみ出してあげるけれど」
「あ、行くよ、行くから」
 少年は慌てて立ち上がった。その拍子、弁当の包みを取り落としそうになる。急いですくい上げ、そこでまたじっと、自分の手元を見つめた。
「天狗様、これ」
 再びそれを差し出してくる。
 椛はちらっとそちらを見やり、けれどすぐに視線を外した。空腹が過ぎて、胃に痛みすら覚えていたが、
「人間から施しをもらう謂れなんてないわ。まして買収目的のなんて」
 少年は呆れたように溜め息をこぼす。
「……面倒な人だなあ」
 子供に言われてしまった。ぐっ、と椛は唸る。
「ほ、ほら、さっさと行きなさいってば。何事もね、引き際が大事なの。命あっての物種なんだから」
「分かったよ……じゃあ、これ」
 少年は笹の葉の包みを椛に向けて軽く放った。さすがに地面へ落ちるに任せるわけにもいかず、椛は咄嗟に受け止めてしまった。
「ちょ、ちょっと、私の話を聞いてなかったの……」
「落ちてたのを拾ってくれたんでしょ?」
 すかさず遮る声。そういえばさっき、そんなことも言ったっけ。
「人間の間じゃ、落し物を拾ってもらったらお礼に一部を分けるんだ。だから、お礼」
 一方的にまくしたると、少年は身を翻し、椛がさっき指差した方へと駆け出していた。
「じゃあね、天狗のお姉ちゃん。ありがとう」
 そんな言葉を残して。ちゃんと梢の高さを確かめながら、真っすぐに走っていく。
 追おうと一歩踏み出して、だが椛は思い直した。代わりにかすかな苦笑をこぼす。
「天狗のお姉ちゃん、か」
「天狗様」という呼称から明らかに格下げされてしまった響きだが、やっぱり不快には感じられなかった。そんな自分が、ちょっぴりおかしい。


 ゆっくりと薄暮が迫りつつある。
 徐々に色合いを変える空の下、椛は少年と出会い、別れた場所にとどまったままでいた。秋色の地面に再び腰を下ろし、膝に弁当を乗せて、空きっ腹をようやく満たそうとしている。
 そうしながら、千里眼で少年の動向を追っていた。あれからおよそ四半刻、彼は無事に目的を遂げ、下山に移っているようだった。必要以上の薬草は採らなかったらしい。手当たり次第に摘んで里へ持っていけばひと稼ぎできただろうに、そこまで考えが回らなかったのか、それとも椛への義理のつもりなのか。いずれにせよ、人間といえば強欲なのが多いと考えていた椛に新鮮な気分をもたらしてくれていた。
 少年の追跡に意識を割いているためか、椛の弁当を食む速度はひどくのんびりとしたものだった。水気の乏しい食べ物ということもあるのだろう、もそもそと、少しずつ齧っては、咀嚼に時間をかけてから喉へと流し込んでいる。頭上に藍色が広がり、少年がふもとへ辿り着いた段になっても、その手元にはまだ半分ほども残っていた。
 特に問題もないまま下山できたようだ。椛が小さく息をついたとき、
「ギャァ」
 しゃがれた悲鳴のような声がいきなり頭の上から降ってきて、彼女の耳を叩いた。続けて、ばさりと大気を打つ羽音。はっ、と椛は虚空を振り仰ぐ。
 西の際がわずかに残照で彩られた暗色の空、そこで数羽の鴉が黒い翼をはばたかせていた。椛の頭上で不吉な輪舞を踊っている。
 そして、その輪の中央には、写真機を手にしてたたずむ少女の姿があった。鴉天狗にして幻想ブン屋、
「文……さん」
 椛はおのれの迂闊さを呪った。少年の追跡に注意を傾けるあまり、他へと向ける意識を疎かにしてしまっていた。いくら文の足が何人をも追いつかせぬ疾風だとはいえ、椛が普段の警戒心を保っていたならば、彼女の接近を察知できないではなかったのに。
 いや、いつもなら、例え文が近づくのを見落としても問題はなかったのだ。油断を鴉天狗にちょっとからかわれて、それで済む話だから。ただ、今日の椛には、いささか後ろめたいところがあった。そのため、地面に座り込んだまま身を硬直させ、呆然とした様をさらしてしまっていた。
「何を豆弾幕食らった鳩みたいな顔してるの、椛」
 案の定、ブン屋の鋭敏な目は、椛の不自然な様子を見逃してはくれなかった。怪訝そうな顔つきで見下ろしてくる。
 椛はどうにか、かすれた声で応じた。
「いえ、ちょっと、休憩を……」
「ふうん。こんな所で、ねぇ」
 文は感情の乏しい声で、鼻を鳴らした。夕風に黒髪を撫でられながら、顔をふもとの方角へと向ける。
「侵入者があったみたいね。下界との境目あたりに、人間が歩いていたわ」
「あ……はい」
 見られてしまったのか、さすがに鋭い。椛は息を飲みそうになるのをどうにかこらえ、また声がかすれてしまわないよう、腹に力を込めた。
「私が渉外にあたり、退去に同意させました」
「そう、そいつはご苦労でしたね」
 椛へと戻された文の視線、その目元には、あまりよい感情を抱かせない笑みが宿っていた。
「ところであの子供、何やらお土産を抱えていたようだけど。私の目には、この山の薬草に見えたわ」
 あなたはどれだけ目端が利くのか。椛は自分の千里眼を棚に上げ、胸のうちで呪った。
「まあ、花泥棒もちょっとくらいなら大目に見てあげていいんだけどね。でもおかしいのは、その子、山の者でもなければ群生地を知らないような珍しいのまで持っていたみたいなの」
 一見ほがらかな笑みをたたえる文の顔、だがその瞳は笑っていない。
「ねえ、椛。あなた、何か変わったことに気付かなかった?」
「……」
 返す言葉が出てこない。ただいやな汗ばかりが、椛の額と背とに噴き出てくる。林の中を吹き抜けていく風が、濡れた肌を冷やした。
 わずかに身震いし、それから引き結んでいた口を開く。
「……私のあずかり知るところでは、ないです」
「あらそう。哨戒屋の目もずいぶんと霞んでしまったものね」
 文は冷ややかな笑いを口の端にもにじませて、ふと、すんすんと大気の匂いを嗅ぐような仕草をした。
「……なにやら、いい匂いがすると思ったら。お弁当を手にピクニックかしら」
「あ」
 膝に乗せたままの食べ物のことを、すっかり失念していた。椛は慌てて笹の葉で包みなおし、だがその行為が却って自分の首を絞めていることに遅まきながら気付いて、硬直した。
 うなだれた頭に、鴉天狗の愉快そうな声が降ってくる。
「おやおや。おかずを見られるのが恥ずかしいのかしら? 椛は可愛いわね」
「……ほっといてください」
「ええ、もちろん。私にはそんな覗き屋趣味はないですから」
 うそぶくのも、ここまで来ると立派である。
「だけど、不思議ね」
 文が大げさに首をかしげるような、そんな気配。
「あの人間の子供からも、同じお弁当の匂いがしてたんだけど」
 瞬間、椛は弾かれたように顔を持ち上げてしまっていた。そこに文の底意地悪い笑顔を見つけ、自分が今度こそ致命的な失策を選んでしまったと知る。
文は、鎌をかけてきたのだ。
「私は犬じゃないんだから。あなたたちほど鼻が利くわけじゃなし、そんな匂いまで嗅ぎ取れたわけないじゃない」
 鴉たちが嘲笑うかのような声を空に響かせる。哄笑の中心で、鴉天狗は目を細めていた。
「さて。事情を聞かせてもらいましょうか」
「は、話すことなんて、何も」
「あなたの考えを尋ねているわけじゃないのです。私はただ、発生した事実を聞き出すだけなのですよ」
 丁寧なものへと改められた文の口調は、だが明らかに上っ面だけのもので、却って相手に冷淡で非情な印象を植え付ける。
「あらましはこういったところでしょうか。あなたはそのお弁当で篭絡されて、あの人間を薬草のところへ案内してあげた」
「違います!」
「でしょうねえ」
 椛の叫びは、意外なほどあっさりと肯定された。
「ばか真面目なあなたが、買収に応じるはずもない。だからこそ、この状況が分からないのですよ。戦って負けた、とも見えませんしね」
 いつの間にやら手帖と筆記具とを取り出して、文はペンのお尻でこめかみをとんとん叩いている。
「どうです、ぽろりと吐いてしまっては。楽になりましょうよ」
「……」
 言えるはずがなかった。話せば、椛の恥が明るみになるだけでなく、あの少年にも累が及びかねない。おそらく彼は薬草を取り上げられ、ただ徒労感と失望感のみを土産に、家族の待つ家へ帰ることになるのではないか。
 それは本来、彼が辿るべきだった運命に、道が修正されるだけのことではあった。イレギュラーが正され、山の秩序が守られる。何ひとつ問題とするべきことではないのだ。
 椛だってそんなことは分かっている。なにも目の前のブン屋に明かすことはないけれど、哨戒部隊の長に今日の出来事を洗いざらい話して裁定を仰ぐのが正しいのだと、理解はしていた。
 だけど、苛立ちのようなものが胸の奥で声を上げているのだ。本当に自分達は何か過ちを犯したのか、と。山の秩序を乱してしまったのか、と。このまま「今日も一日事はなし」と上に報告したところで、明日が変わってしまうのか、と。
 そして思う。哨戒の自分には、侵入者との渉外の権限も与えられている。自分はその範囲から逸脱することなく、あの少年を赦したのだ。それを今さら翻せるものか。そんなことをすれば、自分達の職務の誇りは損なわれ、引いては山の威厳にまで関わってしまうのではないか――
 実のところ、そこまで深刻に考えるほどの問題ではなかったのかもしれないが。椛の愚直なまでに真っ直ぐな性根は、安易に楽観を抱くことを許さなかった。
 結果として、彼女は黙秘を貫くことを選んだのである。
「真面目な上に、頑固ですものねえ」
 くるりとペンが回される。その鋭い先端を、文はふもとの方へと向けた。
「ならば、あちらに訊くのがよろしいでしょう」
「……え?」
「当事者Aが語らぬのなら、Bに訊け。取材の基本です」
 文の背で黒い翼が大きく広げられ、椛の面に影を落とした。椛は顔を蒼褪めさせる。
「ま、待って下さい!」
「待ちません。時間はいつだって貴重なのです」
 冷然と切り捨てられる。
文には文の理屈があるのだ。いくら懇願したところで、それを制止できるものではないと、椛は知っていた。彼女が方針を決してしまった以上、もうどうしようもない――
 歯噛みし、思わず地面の土に爪を立てたとき、手がなにか冷たいものに触れた。傍らに置いてあった、自分の武具だった。剣と盾、長らく愛用してきた装備。なによりも頼れる寡黙な相棒。
 藁にも縋るような想いに駆られたか、気が付けば椛は、剣の柄に指を絡めていた。
 文に見咎められる。
「やややや……なるほどなるほど。そうですね、主張を通すのなら、それが最も簡単で、だから正しい」
 ほんのちょっとだけ驚いたように目を丸め、だがやっぱり鴉天狗は温度の低い笑みをたたえている。傲然と言い放った。
「よろしいです、私は断然、構いませんよ。なにせもみじ狩りにはうってつけの季節ですし」
 筆記用具がその手から消え、代わって団扇が出現する。椛の曲刀にも劣らぬ、文の剣。
 その切っ先を向けられて、しかし椛は武器を構えようとしなかった。地に座り込んだ姿勢のまま、顔に汗を浮かべて、文のことを見上げ続けるだけだった。
 弱者には尊大だが、格上にはへつらう――そんな天狗の種族的特性が、椛の体を地に縛りつけていた。
強者には逆らうべからず。
椛にとって文は、立場だけでなく実力においても目上の存在だった。哨戒天狗としての経験から、椛は彼我の実力差を推し量る能力に長けている。自分ではまともには勝ち得ない、そのことがはっきりと分かってしまっていた。
 それでも。
 椛は刃を突きつけ返そうと、腕に力を込めた。自らの意思を示すべく。そう、文を止めんと望むのなら、他に方法は残されていない。
柄を握る掌は汗をびっしょりかいてしまっている。石のように重たい手を叱りつけるようにして、どうにか地面からわずかに持ち上げ――
 ふ、と鴉天狗の笑う声がした。時間切れ、と。
 虚空で夜気がつむじを巻く。落ち葉まみれに吹きつけてきた疾風に椛は一瞬まぶたを閉じて、再び開いたとき、そこには文の影も鴉の群も既になかった。全てが、風にさらわれてしまっていた。
陽の残照もとうに果て、すっかり夜色に染まっていた空には、月明かりが滲みはじめている。満月の、光。
 それが脱力してへたりこむ椛の顔に、優しく降り注がれている。

   ○

 秋月の空に風が疾る。
 透明な漆黒を切り裂いて、鴉天狗の少女が夜を駆ける。ローファーと高下駄が悪魔合体した挙句さらに合体事故の洗礼を受けたかのような赤い履物で、宙を蹴りつけ蹴りつけ、加速していく。
 耳元で渦巻く悲鳴のような風の音に心地よさげな顔すらして、射命丸文は妖怪の山領空を抜け出ていた。
 目標は里への道を歩いているはずの、人間の少年。徒歩の人間など、風神少女の異名をとる文の翼ならば、一瞬で追いつけるはずだった。
 ところが発見するとなると、これがちょいとばかし面倒なのである。妖怪の山の外とはいえ、もとより幻想郷自体が山国みたいな土地である。複雑な地勢が連なり、大抵の場所には植物が濃く生い茂っていて、上空からの捜索を容易ならざるものにしてくれるのだった。
 覆いかぶさる木々のせいで切れ切れに見える道を、文は辿る。一個の人影を捉えることも叶わぬまま十分間ほど飛び、さすがにこれは追い越してしまっただろうと考え、引き返してみることにした。が、やはり見つけられない。冬眠を控えた蛇がのろのろ道を横切っていたくらいのものだ。
もう一度、里への方向に変針しようとして、いや待てよ、と思い直す。このまま道の上をびゅんびゅん風音立てて何度も往復していたのでは、さすがに人間も天狗がいることに気付き、警戒するのではないか。そうなると余計に探しにくくなる。
件の少年の顔を、文ははっきりと確認してはいなかった。少年が抱えていた薬草の方にばかり注目してしまったためだ。万が一にもここで取り逃がしてしまえば、それっきり二度と探し出せないかもしれない。確実に識別できるのは今、他に誰も通りかからないであろうこの夜道の上でだけだ。
 考えていたよりも単純に片付かないか――文は虚空で腕を組み、思案顔を作る。文の生んだ疾風の残滓が、夜よりも黒いその髪を撫でつける。
 ふと風が向きを変えて、それを感じ取った文は、いきなり目尻を高く吊り上げた。
「……誰?」
 風上、夜の彼方へ目を凝らす。月明かりで満ちて空は思いのほか見通しが利いたが、しかしそこに誰かの影を見出すことはできなかった。
 だが、文は間違いなく風の中に感じ取ったのだ。息を殺してこちらの様子を窺っている誰かの気配を。
 この状況で、その「誰か」の心当たりは、ひとつしかなかった。
「椛ね」
 先刻、山の中で白狼天狗が向けてきた眼差しを思い出す。文に挑みかかる覚悟を決めきれずにいる、揺れた瞳を。山の掟に、天狗の習性に従順な、そう、あれは犬の目だ。優秀な番犬、おのれの序列をよく知り、自ら乱そうとはしない。
 くすりと、文は唇の隙間から息をこぼす。
「それでも追ってくるとは。未練ね」
 椛にとって、そんなにも秘めておきたいことが、夕刻の山では起きていたのか。あの忠犬が自らの職務を汚したなどと、文も本気で信じているわけではない。だったら、何が? 好奇心がうずうず掻き立てられるばかりだ。
 まあついてくるだけなら害はないし、もし追いついてきたところで何ができるものでもあるまい。無視して、こちらはこちらの目的に向けて邁進すべきだろう。
 作戦は既に定まっていた。地表近くまで下り、その高度で改めて道を辿る。真っ当すぎて馬鹿馬鹿しいくらいの手法だが、最も確実だ。
 いま一度、風上に一瞥をくれると、文は静かに夜の深部へと身を沈めていった。

 風が地表を滑っていく。風速は空を往くときよりもずっと落ちていたが、それでもまだ人が歩くのとは比較にならない。潅木が立ち並ぶ間、くねくねと不規則に曲がりながら伸びる道に沿って、風は微笑を浮かべて走りゆく。
 そろそろ頃合かしらと風は、文は行く手に目を凝らす。少年の歩幅では、家路を急いでいるであろうことを考慮しても、これ以上遠くまで到達できているとは考えにくい。
 速度をさらに落とす。うっかり木々の影に見落としてしまわないよう、周囲への注意を十分に払えるだけの低速。
 すると早速、動くものの気配を掴むことができた。下草を踏みつける音。だが前方ではなく、斜め後方からだった。
 振り返ると、その音はぴたりと止んだ。音のした方向には、何本かの木立が寄り添うようにして、根元に影を広げていた。そこへ視線を据えて、文は軽く髪を揺らす。
「……椛ですか」
 こんな完璧に近い気配の殺し方、人間ならばよほどの達人でもなければ無理だ。ならば妖の類、この場合、やはり椛しかいないだろう。ここまで巧みに尾行してきたはいいが、文の急減速に対応できず、一瞬、気配を乱してしまったに相違あるまい。
 ふう、とわざとらしい溜め息をついてみせる。
「あのですね、私も忙しいのですよ。ですから早いところはっきりしていただけると助かるのですが。私と決着つけるのか、それとも諦めて帰って晩御飯食べて風呂入って歯ぁ磨いて寝るのか。だらだら付きまとわれても迷惑なんです」
 文の希望としては前者だった。ために、ことさら挑発的な響きの声で、呼びかけている。
 これに対する応答は、やはりなかった。辺りはひっそりと、木々が葉を擦らせる音すらない。
 本当に椛は、まだそこにいるのだろうか。木立の作る闇を睨みつけていた文の脳裏に、ふっとそんな考えが浮かんだ。かぶりを振って、埒もない妄想を追い払う。
「では椛、私は行きますので。迷子にならないうちにお帰りなさいな」
 言い捨てて踵を返す。
 完全に振り向いた瞬間、文は背中に足音を聞いた。こちらへと真っ直ぐに踏み込んでくる、力強い響きの一歩。
 来るか。来るのか。
 ぞわりとうなじのあたりの毛が逆立つのを感覚するより早く、文は相手よりも強く地を蹴りつけている。黒い瞳を戦意に明るく輝かせながら、軽く弾んだとしか見えない動作で、しかし瞬時に三メートルほども浮かび上がり、そこで頭のつむじを軸にくるりととんぼ返り、前後を反転。敵の姿を眼下にしようとする。
 ――そこには、誰の姿もなかった。
「あや?」
 いや、視界の端に白い影がちらりと走っていた。急いで目を追いつかせようとするも、それよりも早くその影は、夜の闇へと再び消えてしまっていた。
ただ遠ざかっていく足音が、もはや気配を隠そうとするつもりなど欠片もなく下草を踏みつけていく音だけが、文の耳に残された。やがてその音も絶えて、辺りには静寂がよみがえる。
 ……逃げた?
「な、なんなんですかいったい」
 ひとりぽつんと取り残されて、文は目をしばたたかせる。独り相撲を取らされたことに頬を膨らませて、足元の空気を蹴りつけた。

 いらん時間を取られてしまった。文は再び道を急ぐ。
 ほどなくして、道が枝分かれしているところへさしかかった。一方はこのまま平原を抜けて里へ至る道、もう一方は岩場へと至る峠道。文は迷わず前者を選ぶ。
 そろそろ里への行程の半ばも来ただろうか。まさか追いつけないとも思っていないが、できる限り里の門をくぐる前、最悪でも自宅に入られてしまう前にあの少年を捕まえて、インタビューへとなだれこみたい。
 家とは結界の一種だ。招かれざる者がおいそれと立ち入ることのできない、人間個々が持つ最小にして最後の砦。知恵や力のある生き物ほど、家の門戸は強い力で反発し、進入を拒む。これを強引に押し入るのは骨の折れる仕事だし、あまりやりすぎれば人間に対する「襲撃」と判断されて、然るべき立場の者が調停のために馳せ参じてくる事態となってしまいかねない。
 文は風速を強める。
 ほどなく、樹影の乏しい、開けた場所に出た。色褪せた背の低い草ばかりが広がり、道のずっと先まで見通すことができる。遠く地平に横たわる夜闇の中にちらちらと見えている赤い点のようなもの、あれはもしかすれば里の灯火か。
 だがそこで、文は翼を止めてしまった。この見晴らしの良い月空の下、路上はおろか、見渡す限りのどこにも、人影がなかったからだ。
 そんな馬鹿な、とかすかな狼狽を覚える。彼我の移動速度からして、必ずここで捕捉できているはずなのだ。なのに、どうして見つけられない。
 うっかり追い越したはずはない。ならばこちらの接近を察した少年が、どこかで身を隠したのか。文も馬鹿ではない、できるだけ気配は抑えてきたのだ。それを察知できるとなると、紅白の巫女なみの勘の良さではないか。
 あるいは、椛が先回りして、少年に危険を伝えたか。……それこそありえない話だ、文より先に少年を捕まえるなんて。なにより、あの番犬はとっくに山へ帰ってしまったのではなかったか。
 文はぐるりと視線を巡らす。やはりどこにも人影の類はなく、ただ枯れ葉色した草の群れが冷ややかな夜気に頭を垂れているばかりだった。
 そういえば、と文は、ある伝承を思い出していた。曰く、丈三寸もある草が生えていれば、狼は身を隠すことができる――
「あほらしい」
 自らの想像に失笑した。そう、人間の伝承なんて一笑に付す程度の価値しかない。だいたい、あんなごつい武装をした椛が、このささやかな草場に潜めるはずがない。何よりあの子は、狼というよりも犬の方がずっとイメージに合っている。
 そう、そんなはずはないのだ。
 決まりきったことなのに、なぜか文の心の奥底には引っかかるものが残った。どうしても拭いきれず、そんな自分に小さな苛立ちを覚える。あんな下っ端天狗なんかに気を散らされるなんて。
 ざぁ、と風が草むらに波を立てる。文はわずかに身じろぎし、それからゆっくりと首を左右に振った。
 椛のことを脳裏から追い出し、少年の行方について考えようと努める。しばし思案して、文はある可能性に思い当たった。人間は皆が皆、里に住んでいるわけでもない。仕事や他の事情で、さして多くもない数ではあったが、里の外に住まいを構えている者もあった。もしかすると、あの少年も、その少数派のひとりなのかもしれない。
 さっきの岐路か――いま辿ってきた道へ顔を向けると、文は疾風と化して辺りの草を薙ぎ倒した。

 痩せた木がぽつりぽつりと立つばかりの乾いた土地、そこに転がる大小の岩の間を、細い道が蛇のように這っていた。
 やや強い勾配の下り道に、月明かりを受けた地面の起伏と無数の岩とが影を投げかけている。影と影とは地面で重なり、溶け合って、あるものは奇妙な怪物とも見えそうなシルエットを構成していた。
 そんな影絵の数々を踏んで歩む小柄な人影を、ついに文は視界に収めた。
 すぐさま飛びつきたくなるのをこらえて、文は路上に降り立ち、月下に悠然たる姿をさらしている。
 ここは身を隠すものに事欠かない場所だ。もし椛がまだ諦めきっていないのならば、必ずこの近くで息を殺していることだろう。文が目標を射程に収めてしまった以上、椛は追い詰められた立場となったはず。すぐにでも決断せねばならないのだ。
 すなわち、文に挑むか否か。
「さあ、どうするんです? 未練だっていつまでも抱えたままじゃ、発酵しちゃいますよ。臭いですよ」
 だから、捨てるか、別のものへと昇華させてあげるかしないと。
 文のつぶやきに応えるものはなかった。やはり椛はお家に帰ったのかもしれない。だとしたら文は空気に語りかける変なヒトになってしまうのだが、どうせ他に誰がいるでもなし、気に留めることもあるまい。それよりも、尾けてきているかもしれない椛を引っ張り出せるような挑発の言葉を考える方が、建設的だと思えた。
「おーい、椛。いるのなら、ワンて鳴くくらいしてくださいよー」
 耳を澄ませる。夜は相変わらず静かなままで、虫の音すらほとんど聞こえてこない。
 椛は、いないのか。本当に帰ってしまったのか。
 どちらかに確信を傾けることが、どうしてもできない。どちらであったとしても、文の能力ならば十分に対処できるのだから、性急に判断を下す必要はないのだが。
曖昧な状況に苛立って、文は足元の石ころを蹴り飛ばしてしまった。どうも調子が狂っている。そんなはずはないのに、いつの間にか椛に主導権を握られてしまったような感じがして、どうにも気に食わなかった。思えば、自分はさっきから無様にも右往左往させられてはいないか?
 募る苛立ちに、今度は爪を噛んで、そこでまたも心に思い出すものがあった。それは、やっぱり狼について人間が語り継いでいるという伝承のひとつで、
「送り狼、ですか」
 一度定めた目標にずっとつきまとい、心身を磨耗させ、ひとたびそいつが転んだと見れば、すかさず襲い掛かる。そんな狼の習性についての話だ。
 まさか、と否定しきることはできなかった。もし椛が文と戦うことを望み、彼我の大きな実力差を埋めようとするならば、自分の土俵での勝負に持ち込むしかない。そのためなら、こんな先祖返りまがいの狩猟法だって採るのではなかろうか。
 文はなにげない動作で、右手の団扇を胸元へと持ち上げた。椛の意図がどこにあるのか、やはりそばに潜んでいるのか否か、それを確かめる方法も、送り狼の伝承を思い出すのに合わせて、閃いていた。
 現在の風は南南西の微風、道を右から左へと横切っている。もし椛がいるならば、哨戒の任務で隠形の術に長けた彼女のこと、必ず風下を占めているはず。ならば――
 文はいきなり、団扇を一閃させた。
 ――ならば、私の能力で風向きを瞬時に変えられたら、どうします?
 それは本当に一瞬の変化だった。岩場を流れる風が、まばたきほどの間を挟んで、逆へと吹きはじめたのだ。
 そして文の目論見は当たった。一瞬前まで風下だった、今は風上となった方角の岩陰で、空気が動揺するかのように揺れたのだ。同時、文の鼻は覚えのある匂いを風に嗅ぎ取っている。さっき山で鼻にした、椛の匂い。
 すかさず地面を蹴り、文は風を纏ってそちらへ突進した。よほど虚を突かれたのか、椛の匂いはなおも同じ場所にある。
 ――もらいました。
 岩陰へ飛び込むなり、団扇を思い切り振る。ここまで蓄積されたいらいらを叩きつけるかのような勢いで、振り下ろす。旋風が巻き起こり、そこに潜んでいたものを軽々と宙に舞い上げた。
「……え」
 自分の起こした風に為す術もなく放り上げられた物体を目にして、文は間の抜けた声を発した。
 笹の葉が一枚、それだけが、宙には浮かんでいた。
 風がやみ、自由落下を始めたその葉を、文はほとんど無意識のうちに受け止めていた。笹の葉は、覚えのある匂いを濃厚に染みつかせていた。文が、椛のものと誤認してしまった、食べ物の匂い。
 椛の持っていた弁当の匂いと、椛の匂いとを勝手にイコールで結んでしまっていた自分の思い込みを、失敗を、ようやく悟る。
 しまったと考える猶予すら与えられなかった。背後で、石ころが高いところから転がり落ちる音。
 ぎこちなく振り返った文は、そこに満月を見た。

 ひときわ高く盛り上がった地形、さらに大きな岩が積み重なって、傾いだ柱のような形を作り出している。そこへ、高々と浮かんだ今宵の月、ひとかけの瑕もない真円を描いたそれが、銀の明かりを落としている。
 光の注ぐその舞台に、一個の人影が立ち、文のことを見下ろしていた。
 足を広げて仁王立ちし、盾と剣の縁を月光で鈍く光らせ、風に流れる髪を銀色にきらめかせながら。そのシルエットはまるでこの月夜に歓喜するかのように全身をわななかせると、顎を目一杯持ち上げ。
 世にも恐ろしく美しい咆哮を上げて、月の空を震わせた。

 文は鳥肌が立つのを覚え、知らず、一歩後ずさりしていた。
 椛はとっくに決心していたのだ、文に挑むことを。おそらくは山で睨みあった、あの時から既に。未練なんて元より抱いてなかった。迷いすら持ち合わせていなかった。初めから、決めていた。
文が少年を射程に捉えた時、だから追い詰められていたのは椛ではなく。では、他の誰だったのだろう?
 椛の影が月明かりの舞台から消えた。岩の柱に足爪を立てて、文めがけてまっしぐらに駆け下りてくる。ほとんど垂直にも近い傾斜を走る、逆落とし。
 凄まじいまでの勢いで迫ってくるそれに、文は回避を選ばず、団扇を構えた。自分は既に一歩退いていて、これ以上、格下の天狗相手に逃げるような真似などできない――そんな心理が咄嗟に働いたためだった。
 団扇を翻し、疾風を弾丸として椛に叩きつける。烈風の一弾は、敵が正面に構えていた盾の中心にあたり、これを跳ね飛ばした。盾を失って、しかし椛はなおも勢いを失わない。ついに文の懐へ潜り込んできた。
 振り下ろされた曲刀を、文は団扇で受け止めた。刃に乗った敵の勢いまではろくに受け流せず、背中から倒れてしまう。地面と身体とで挟み込んでしまった背の翼が傷まなかったか、そんなことに気を回す余裕もなく、椛がのしかかってくる。
 鍔迫り合いながら、ふたりは視線を重ねた。文は、月明かりが届かない角度にもかかわらずぎらぎらと光っている椛の双眸を、すぐ間近に見ていた。
 凶刃をそばにし、だからなおのこと、文は笑う。笑わねばならない。
「意外でしたよ、椛。正直なところ、あなたを見くびっていました。真面目一辺倒の石頭だと思っていたのに、まさか保身のために目上を襲えるなんてね」
 皮肉の成分をたっぷり声に含ませて、ささやいてやる。
 椛も口を開いた。だがそこからは自己弁護も反論も謝罪も開き直りの言葉も出てこず、代わりに荒い息が吐かれるばかりだった。はっ、はっ――と、熱に浮かされたかのような、興奮の吐息。それが文の顔に吹きつけられる。
 広げられた口には、整った歯並びを見ることができる。発達した犬歯が唾液に濡れ、白くぬらりと光って、それがまるきり牙のように文の目には映った。その牙が、文の喉もとへと寄せられてくる。喉笛を噛み千切ろうと望むかのように、皮膚から数センチと離れていないところで、がちがち打ち鳴らされる。唾液が文の顎に跳ねる。
 ついに文は戦慄した。はっきりと恐怖を覚えてしまった。
 こんな椛は知らない。自分の知る椛は犬の恭順を体現したかのような「可愛い」子で、それがこんな、言葉も通じない獣のような。満月に狂ったかみたいに。
 ……いや、自分はただ無知だっただけだ。彼女の忠犬面の下に、いったいどれだけの野生が秘められていたのか。同じ山で生きる天狗仲間、ごく近い存在だからこそ、先入観が目を曇らせていたのかもしれない。
 彼女を過小に評価していた――今度こそ本心から、文は称賛したくなった。この取って置きの切り札を、最大限効果的に切ってみせた椛の勝負強さに心底から感嘆していた。そして察する。今の咆哮、奇襲の好機を捨ててまであんな演出を行ったのは、ひたすら文の心を挫くため、ふたりの間に横たわる心理的優劣の壁を決定的に打ち砕くためだったのだ。
 結果がこの有様だ。文は無様にも組み敷かれ、牙にかけられようとしている。
「ですがね」
 冷たい地面に背中を押さえつけられながら、文は蒼褪めた顔に微笑をよみがえらせた。
「野生は、知性と技術の前に屈するのが宿命なのです」
 胸の前で団扇を支えていた手、それをじりじりと下げる。右手の腹が、首から提げていた写真機に触れた。小指を素早くシャッターボタンへ伸ばし、押す。
 文の胸で閃光が炸裂し、椛の目を射抜いた。
 夜間取材ということでストロボを装着させておいたのが思わぬ形で役立った。椛が苦鳴の唸りと共に顔を反らしたのを確かめ、文は片手を団扇から外し、神速で懐へと走らせる。そこから抜いたのは一枚のスペルカード、
「紅葉扇風!」
 椛と同じ音を含むそれを選んだのは、自分をここまで追い込んでくれた相手への皮肉を込めた反発からか、あるいは敬意を表してのことか。
 カードをかざした文の前で、大気が渦を描き出す。月光をも巻き込んで、一呼吸ほどの間にそれは小さな竜巻へと成長し、椛の身体を包もうとする。
 だが、その一呼吸足らずの時間に、椛も動いていた。
 白狼天狗は太刀握る腕を大きく振り回していた。文が引き起こした風渦の向きとは逆回転に、力強い円を描く。刃は風に逆らって、渦を真っ向から叩き、切り裂いていく。旋風が巻き込もうとしていた月光を横取り奪い、我が身に吸い取って、刃は白い輝きを帯びた。
 似た光景を、文はいつか、どこかで目にした覚えがあった。そう、あれは確か、冥界の剣士が用いていた技だ。満月の力を借りて剣術の深奥を顕現させる、秘儀。
 刃が弧を描くのを止めた。椛が柄の握りをくるりと逆手に持ち替え、切っ先を文の喉へと向ける。いまや白銀の光に充ち満ちた、それは狼の牙。なおも吹きすさび、体を大地から引き剥がそうとしてくる竜巻に抗いながら、椛はふたつの瞳を鬼灯のように赤く光らせて。
そして牙を振り下ろした。
 文は、知性と技術が野生に引き裂かれる瞬間を、目撃した。

 牙が地面を抉り、文の頭から赤いものが弾け飛んだ。
 黒髪に乗せていた頭襟が、真っ二つに割れて石ころの間を転がっていく。
 文はしゃっくりみたいな音を喉から漏らし、暴風の中、太刀を地面に突き立ててこらえている椛の顔を、すぐそばに見ていた。今の一太刀が、故意にこちらの急所から逸らされたものだと、彼女の目を見れば読み取れた。
 やがて風が去り、文は溜め息混じり、疲れた笑みをなんとか作る。両の手を弱々しく万歳の形にして、
「参った、参りました。私の負けです」
「……」
「この取材からは手を引きます。まだろくに始めてもいなかったけれどね」
「……本当ですか」
 やっと、まともな言葉を椛は口にした。文は内心でほっとしながら、うなずく。
「ブン屋にだってね、仕事への誇りはあるんです。ひとたび記事にしないと約束したら、必ず守りますよ」
 それに――まだ半鐘のように激しく脈打っている自分の心臓の鼓動を確かめつつ、思う。もっと興味深いものを、この目で見ることができたことだしね――
 数秒ほど、ふたりはまばたきせずに、互いの目を見つめていた。ややあって、椛は刃を引き抜き、文の上からどいた。
 やっと解放された文は半身を起こして、首と肩を回す。体のあちこちが、小さくうずいた。
 椛はそのそばに立ち尽くし、どこか呆然と文のことを見ている。つい今まで文を圧倒してくれた気迫と勢いは、どこかへ消え去ってしまっていた。まるで理性を取り戻したかのような顔つきで――いや、実際そうなのだろう。そこに、荒ぶるような野生は、もう見受けられなかった。
「あの、文さん、ごめんなさい……」
「なんで謝るの。いいのよ、勝者はもっと傲岸不遜でいるべきなの。そうでないと、負けた側が却って惨めでしょ」
「はぁ」
 なおもしょぼくれた顔でいる椛に、文は苦笑し、つと思い立って写真機を構えた。ぱしゃり、予告もなしにシャッターを切る。
 突然のフラッシュに、椛は再び目を白黒させた。
「な、なにするんですか」
 文はファインダを覗いたまま、悪戯っぽく笑いかける。
「まったく、こんな可愛い顔しちゃって、さっきの怖い形相が夢か幻みたいに思えるじゃない。あとで二枚とも現像して、あなたの前で比較してあげるからね。いっそ記事にもしちゃいましょうか、『あなたは隣人の素顔を知っているのか? 白狼天狗の恐るべき野生!』とか題打って。写真を使用前・使用後みたいな感じで並べましょう」
「やめてください!」
 本気で嫌がる椛を見て、文は笑った。立ち上がり、ブラウスとスカートの汚れを軽く払うと、「帰ろっか」と誘う。椛はやや戸惑い気味にうなずいた。
 並んで夜の空へと浮かび上がる。
「『椛旋風返し』とか、どう?」
「なにがです?」
「さっきのあなたの返し技。それとも『掟破りの椛旋風』のがいいかな。あなたもそろそろ、スペルカードの一枚も持ったらいいんじゃないかと、そう思ってね」
「持つとしても、文さんにだけは命名の相談はしません」
 つんと、椛はそっぽを向く。数秒の沈黙の後、その口から、くすりと笑いが漏れた。それを見て文も、なによ、と笑う。
 ふたりは風の中にひそやかな笑い声を残して、遠くに横たわる山の影へと飛び去っていく。

   ○

 岩場の外れ、低樹の作る小ぢんまりとした林のそばに、小屋が一軒、ぽつんと立っている。
 その立て付けの悪い板戸に手をかけて、少年は「ただいま」と声を投げながら、引き開いた。
 すると小屋の中から白い塊が勢いよく飛び出してきて、少年にぶつかった。少年はたまらず尻餅をつき、痛みで眉間にしわを作る。
「てって……ああ、ただいま、コノハ」
 座り込んだ格好の少年の腹に前肢を乗せて、嬉しそうにばたばたと尻尾を振っているのは、雪のように真っ白な毛並みをした大きな犬だった。舌を出して、少年の顔をさかんに舐めはじめる。
「わかった、わかったよ、すぐにご飯にするから……まったく、腹を空かせてると見境ないなあ、お前は」
 くすぐったげに目を細めた少年の顔に、また別の影が落ちた。はっと視線を持ち上げた彼の頭に、次の瞬間、重い衝撃が落ちる。
「ばっけろい! こんな遅くに帰るたぁどういうつもりだ!」
 老齢の男が戸口に立って、少年の頭に右の拳骨を振り下ろしていた。左手には猟銃の筒を握り、杖のようについている。どうやら左の足に怪我を負っているらしく、脛から下に包帯を巻いていた。
「ご、ごめんよ、じいちゃん……」
 少年は泣きだしそうな顔になり、すると白犬がさらにその頬を舐めた。
 老人はふんと鼻を鳴らし、少年の向こうに広がる月夜の薄闇を見据える。
「遠吠えが聞こえたから、そろそろ帰るようだとは思っとったがな」
「ああ、あれ」
 少年にも、もちろん聞こえていた。冷えつつある夜気を震わせた、あの凛とした咆哮。とても澄んだ声で、誇らしげで、不思議に恐ろしさを感じさせなかった。逆に、疲れていた足に気力さえ分けてもらえたような気がしたのだ。
 老人がうなずく。
「御犬様が守ってくれたんだな」
「御犬様?」
 少年は白犬と目を合わせ、一緒に首をかしげる。
「送り狼だ。おめぇの帰り道をずっと守ってきてくれたんだよ。家に入る前に、お礼を言っときな」
「あ、うん」
 祖父の言葉が、奇妙なくらいすんなりと飲み込めた。少年は祖父の隣に立つと、お礼の言葉を教えてもらって、乾いた風が吹くだけの道の先へと向けて告げた。
 終わりに小さな声で、こう付け足して。
「ありがとう、天狗のお姉ちゃん」
 遠く、山の方から、風に乗せてかすかな声が応えてくれたような気がした。

 

 

 

 



→ 少女血統

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2008年11月2日 日間

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