少女血統

 

 

 

 視界一面を覆いつくさんばかりに、桜の花びらが舞っている。
 花弁は細く朧な月の光を受けて、淡雪にも似た色を自分の周りにこぼし、おかげで深夜だというのに、その光景は奇妙に白い印象を見る者に与えた。
 あまり整えられているとは言い難い細道に沿って、満開の桜が並木を作っている。
 儚げな月の下、夜の帳に白々と浮かび上がるかのような桜の群れ、その中に一本だけ、裸の木があった。一輪の花も、一枚の葉も、その枝は帯びていない。一見すると枯れ木のようだが、だがその幹にはまだ瑞々しさが感じられもした。
 そして、その木のそばにはふたつの人影。
 ひとつは木の根元であぐらを掻く、かなりの高齢と見える男。顔をうつむかせてじっと動かず、一体いつからそうしているのか、その頭といい肩といい、花びらが積もり放題に積もってしまっている。それこそ枯れ木のように細い節くれ立った体躯は、もうしばらくすれば白い花弁の中に埋もれてしまいそうですらあった。
 もうひとつの人物は、そんな老爺をそばで見下ろすようにして立っていた。ひと振りの刀を胸に掻き抱くようにしている、それは少女だった。
 少女は呆然とした、だがどこか泣き出しそうにも見える顔つきで、降りそそぐ桜雪の中に立ち尽くしている。いつまでも、いつまでも、残りの花が全て散ってしまうまで、そうしているつもりであるかのように。

   †

 ほとんど鼻の頭をかすめるようにして、春色のかけらがひとつ、目の前を横切っていった。
 里の通りを歩いていた妖夢はまばたきし、目でそいつを追いかける。間違いなく桜の花びらだった。風の気まぐれに流されて、そいつは辻の先を曲がり、見えなくなった。
 どこから流れてきたのだろう――辺りに視線を巡らせる。この近くには桜なんてなかったように思っていたが。
 少しばかり考えて、妖夢は足先を風上へと転じた。里を訪れた目的である買出しは、もう済んでしまっている。時間にも余裕があった。ちょっとくらい道草を食っても問題はないだろう。
 麗らかな斜めの陽射しに暖められている街路を行く。近年では珍しい厳しさだった冬も、もう遠くへ去ってしまった。北を向いた軒の下には、まだその名残、すっかり縮こまって土に汚れきった雪の小さな塊が見受けられることもあるが、いまや過去の遺物に過ぎない。現在、幻想郷を制しているのは、春という季節だった。
 春らしく、通りは活気に満ちている。人妖の作る雑踏の中を、妖夢は小柄な体躯に似合わぬ長物を背負い脇差を佩き、半身である幽霊を連れて進む。やや腰を落とし、摺り足で。すっかり身体に染み込んでしまった歩法だった。
 そうやってしばらく、どこにも桜の樹影を見出せぬまま、里の外へと通じる門まで来てしまった。いつも用いているものとは方角が正反対の門で、あちらに比べると小さく、古い。ここから出れば、帰路はかなりの遠回りとなってしまうだろう。
 妖夢は後方を一度振り返ると、そのまま門をくぐった。
自分でも意外なくらい、あの花びらの来歴が気にかかっていた。白玉楼に帰れば桜など飽きるほど見られるのだが、だからだろうか、あの花びらに郷愁にも似たものを感じてしまったのだ。いや、それだけではない、
 ――私は、昔にもこの道を辿ったことがある?
 門の外には、遠くに横たわる青い山並みへと通じるかのような、細い道が引かれていた。こちらは里の人もあまり使わない道なのだろう、街道と呼ぶには整備がされておらず、踏み均される機会にも乏しいのか、そこかしこに雑草が根付いていた。周囲には若葉を揃えようとしている林の木々、幻想郷の大半で見られる緑の風景だ。
 門を背にしてさらに歩く妖夢は、この道のりに既視感を抱いていた。幽明の結界が薄れ、顕界を頻繁に訪れるようになってからも、こちらの門より出たのはこれが初めてのはずなのに、どうしてなのだろう。はっきりとした答えが出せず、ただもやもやとしたものが頭の中に霧を作っている。
 こんなとき、師はどうすればよいと言っていたか。
「……斬れば分かる」
 でも、この場合、何を斬ればいいのかが分からない。
 腕組みして唸っていると、不意に後ろから呼びかけられた。
「なんだ、誰かと思えば、魂魄の。久しいな」
 振り返れば、見覚えのある顔が宙を飛んで近づいてくるところだった。春の陽射しに眩しい蒼の衣をまとった、上白沢慧音。
 妖夢は軽く会釈する。
「ああ、こんにちは」
「どうした、こんなとこ……って、おい! なんでいきなり抜こうとする?」
「あ、いえ」
 妖夢の右手は半ば無意識に背の楼観剣へと伸びていた。長すぎる鞘を、半身が下から持ち上げるようにして、抜きやすい形にしてくれている。
「折よく斬れそうなものが目に入ったので、つい」
「意味が分からんぞ。相変わらず物騒な奴だ……」
 妖夢が柄から手を放すと、そばに降り立った慧音は深々と溜め息をついた。
「それよりも、こんな所でどうした。まさか桜を見に来たわけでもあるまい」
 そのまさかなのだった。事情を説明しても理解してもらえるとは思えなかったから、妖夢は理由を適当に濁しつつ、うなずき返した。案の定、慧音は訝るように眉間にしわを作った。
「桜など、白玉楼には売るほどあるのだろう?」
「いやまあ売りませんけど……あ、それより、やっぱりこの先には桜があるんですね」
「なんだ、知っててこっちへ来たんじゃないのか?」
 慧音は呆れ顔となりながら、道の先を示した。
「ちょっとばかり歩けば、桜並木がある。さすがにお前達の家の庭には及ばないが、それでも結構、見ごたえのある花をつけるぞ。普段は里人も滅多に通らない道だが、この時期だけは別だ。花見に多くの人が集う。里の外とは言え、さほど遠くもないし、妖怪だって花見の人間を襲うような無粋はしない。むしろ一緒に楽しむのが通例だ」
 どこか自慢げに説明して、だが不意に苦い笑みを浮かべる。
「まあ、人が集まれば、それだけ厄介ごとも生まれるのだがな」
「何かあったのですか」
「なに、大したことじゃない。毎年のことではあるが、花見の場所取りで里の顔役連中が揉めててな。私が調停役に祭り上げられた。公平に場所を分けるため、今から現地を検分に行くと、そういうわけだ」
 なるほど、つまらない。春先に似つかわしい、のどかな問題だ。妖夢がつい口元を緩めると、慧音も笑みの形をやわらかなものに変えた。
 せっかくなので、一緒にそこまで行こうということになった。共に並んで歩き出す。
「しかしお前も頻繁に里へ来るようになったな。良いことなのかは分からんが、それだけ冥界は静かということか。その点については結構と言ってもいいかな」
「忙しいことは忙しいんですけどね」
 妖夢はうなずき、そして自分が顕界にすっかり慣れてしまっていることを自覚した。
 本当、気楽に下界へと降りてくるようになってしまったものだ。閻魔様が説教したくなるのもむべなるかな、と苦笑する。ほんの数年前まで、自分にとっての世界とは、白玉楼がほとんど全てだったというのに。
ゆるやかな向かい風に前髪を揺らされながら歩くこと四半刻ほど、妖夢の鼻先を、またも桃色の花弁がくすぐっていった。
 今度は一枚ではなく、何枚も。
 ゆるやかに曲がる道の先、慧音が言った通りの光景が広がっていた。道の左手は山へと至るわずかな勾配となっていて、そこに桜の木々が、枝いっぱいに花をつけて静かに立ち並んでいたのだ。
 見慣れているはずの花なのに、それでも妖夢は瞳を染め上げんとしてくる淡い春色の景観に、感嘆の吐息を堪えきれなかった。
「こんなところがあったんだ……」
 そして不意に足を止め、立ち尽くした。踏みしめる土と草の感触、それと目の前の絵に、やはり覚えがあった。確信した。
 自分は、遠い昔、幼少のみぎりにもここを訪れている。
 その頃の自分は脇差も満足に佩けないくらいのちんちくりんで、だから初めて訪れる顕界が今よりも遥かに広々と感じられた。空は果てしなく高く、四方に広がる山々はどこまでも雄々しく。
 今は自分と慧音の他に人影のないこの道に、あの時は多くの人々が花を愛でに訪れていた。細い道を行き交う大人たちの背の高さに、恐れにも近いものを抱いていたように記憶している。雑踏というもの自体が初めてで、冥界では決して体験できない喧騒、生命のるつぼ、躍動する熱気、そういったものにすっかり中てられてしまっていた。
 それでも、保護者である人物を見失わないよう、懸命だったことも覚えている。保護者はこちらの不安など意に介した風もなく、さっさと先へ歩を進め、自分はその広く逞しい背中を必死になって追いかけていた。
 そう、あれは師の背中だ。
 魂魄妖忌、実の祖父にして剣の師であった男とふたり、自分はこの桜並木を辿ったのだ。妖忌がどのような理由で冥界から降りてきたのか、どうして妖夢のことを伴っていたのか、教えてもらった記憶はなく、自分はただ言いつけられたまま同行していたはずだ。元より、師は言葉で何かを伝えようとする人物ではなかった。だから妖夢は考える、きっとあの人は、幼い私に見聞を広めさせたかったのではないか。いつも無言で、不肖の弟子に何かを学びとらせようとする人だった。
 ただ厳しいだけの人でもなかった――よみがえった端緒の記憶が呼び水となって、あの時のことが少しずつ思い出される。あの時、妖夢はこの道でつまずき、転んでしまったのだ。膝こぞうを擦りむいた痛みに涙を浮かべる自分へ、師は手を差し伸べてくれたりはせず、だがその場で足を止め、こちらが起き上がるのをじっと待ってくれた。他の人たちの足に掛けられぬよう、妖夢の盾となってくれていた。あのとき妖忌がどのような表情をしていたのか、そこまでは覚えておらず、それがひどく惜しく思えた。
「魂魄?」
 横合いから呼びかけられて、はっと我に返る。慧音が怪訝そうにこちらを見ていた。
「どうした? お前にとっては自失するほど素晴らしい光景というわけでもあるまいに」
「あ、うん……でも、綺麗です、とても」
 なんとかそう応じると、慧音は嬉しげに目を細めた。彼女は、ここの桜が好きなのだろうか。
 過去へと飛ばしていた意識を完全に引き戻し、また歩き出す。桜はまだ開き切って程ないようだった。それでも気の早い花びらがいくつも、風にその身を任せ、枝から離れつつある。
「ん?」
 並木の入り口に辿り着いたところで、妖夢は奇妙なものに気が付いた。並木の半ばほど、一本だけ裸の木があるのだ。花どころか蕾のひとつすら、枝にはついていない。代わりに葉が芽吹いているというわけでもない。本当に丸裸だった。
 慧音もこちらの見ているものを察したらしい。
「ああ……去年のこの時期だったな。それまであの木も普通に花をつけていたのが、ある朝になったら、すっかり散ってしまっていたんだ。どこかの妖怪の悪戯かとも考えたが、それきり他に害もないようなので、特に調べはしないままだった」
 しかし次の年にまで尾を引くとは思っていなかったのだろうか、慧音は憂いるような顔つきとなって、その木をじっと見ている。ふたりはなんとはなしに、そちらへと足を向けていた。
「む?」
 今度は慧音が先に声を上げた。裸の木の陰に人が立っているのを目に留めてのことだった。さっきまで死角となっていたところが、近づくにつれて視界に収まるようになったのだ。
 人間の少女らしかった。黒い髪を妖夢よりも短く切り揃え、同じ黒色の瞳で、裸の木の梢をじっと見上げるようにしている。背は妖夢より少し高い。年のほどは――妖夢は人間の外見から実年齢を推察するのにまだ慣れていなかったが、おそらく霊夢や魔理沙よりも年上、咲夜あたりと同じ程度ではないかと見当をつけた。
「なんだ、今度は道間のか。今日は妙な所で思わぬ顔に会うな」
 里の者なのだろうか、慧音が「みちま」と呼んだ少女もこちらに気付いたらしく、顔を向けてきた。一瞬、びっくりした顔つきとなって、それから深く頭を下げた。
「え、あ、慧音先生、こんにちは」
 慧音は挨拶を返しながら、彼女の前まで進む。妖夢は数歩下がったところで足を止めていた。間近で見ると、裸の木は枯れているわけではないようで、それゆえに却って花のないのが不可思議だった。
「どうした、花見が待ちきれなかったのか?」
 冗談のつもりなのかもしれなかったが、普段どおり、真面目くさった慧音の面構えだった。
 少女は曖昧な笑みに似た表情となる。どこかおっとりとした空気を身に纏っていた。
「ええ……先生は、お出かけですか?」
「言ってなかったかな、花見の下検分だよ」
 慧音も微笑み、それから妖夢を示した。
「彼女は、まあ、そこで連れ合いになった知人だ。白玉楼の、魂魄妖夢」
「どうも」
 妖夢は会釈しようとして、だが相手の様子がおかしいことに気付いた。少女は「こんぱく……?」とつぶやき、妖夢のことをまじまじと見つめていた。妖夢の帯びた二刀をまず見やり、それから後方に浮かぶ幽霊に視線を移したところで目を大きく開く。
「魂魄!」
 いきなり切れるような殺気が、妖夢めがけて放たれた。少女は腰を落として左足を半歩引き、右手を左腰へと走らせる。紫電の如き素早い動きだった。
 これに妖夢の身体も反射的に動いた。背の楼観剣では抜くのが間に合わないと脊髄で判断、腰の白楼剣に右手を添える。
 そこまで動いてから、妖夢は事の成り行きに驚愕していた。――なぜ、どうして自分は初めて会ったばかりの少女と、こうやって構え合っているのだ?
「お、おい、お前ら、何をやってるんだ。道間?」
 間に立つ慧音も狼狽しきっている。
 そして、最初に動いたくせして、少女も同様に驚いた表情をしていた。妖夢に真っ直ぐ向けたまま、目を見開いている。右手を伸ばした先の腰には、武器の類など何も帯びていなかった。
「あ……」
 何も掴めぬまま宙を掻くばかりの右手へ、少女は呆然と目を落とす。それから慧音へ視線を移し、再び妖夢を見た。その顔は、すっかり色を失っていた。
 凍りついたようになっている三人の間を、桜の花びらが静かにすり抜けていく。
 やがて少女は身の緊張を緩め、
「ごめんなさい」
 もう一度頭を下げると、裸の木を回り込むようにして、里の方角へと駆け去っていった。

「知り合いだったのか、あの子と」
 取り残された形のふたりは、しばし呆気にとられた感覚を引きずって裸の木の下にたたずんでいたが、慧音が先に我に返り、問いを発した。
 妖夢はのろのろとかぶりを振る。あの少女の顔も、道間という名も、まったく記憶になかった。
 向こうは、どうなのだろう。こちらの名前こそ叫んでいたが、妖夢をそうと認識するまでに、妙に時間を要していたが。
 慧音は迷うような間を置いて、再び口を開く。
「彼女の名は、道間修四郎という」
「しゅうしろう……?」
 妖夢は目をしばたたかせ、とっくに少女が消えた方角へと顔を向けた。あれは実は、女性ではなかったというのか。修四郎などと、女性に付ける名前ではないだろう。
でも、慧音は確かに「彼女」と呼んでいた。わけが分からず、困惑する。
「では本当に初めて会ったのだな」
 妖夢の表情から内心を察したか、慧音はそう断じた。困り顔となっている。
ちょっとばかり複雑な事情の子でな――そう前置きして、しゃべりだした。
「ちょうど一年ほど前に、里に来たんだ。ずっと小さい頃にも里に住んでいたんだが、家庭の都合で外に出されたらしい。昨年、家族をみんな失くして、また戻ってきたという話だ。今は私が世話した長屋で、近所の畑を手伝いながら暮らしている」
 ゆっくりとした調子で、慧音は言葉を選んでいるらしかった。
「……不憫な子、と表現するのは、おそらくこちらの傲慢なのだろうが。でも境遇や名前のことに加えて、読み書きや算盤ができないということも知ってしまうと、さすがにな。あの子の親は何をしてやっていたのかと、腹も立ってくる」
 声がわずかずつ熱を帯びはじめていた。それに自分で気付いたか、慧音はいったん咳払いした。
「寺子屋に通う子供たちとは年が開いてしまっているしな。別に時間をとって勉強を教えている」
「剣術は?」
 妖夢は話を聞く一方、頭の中でさっきの少女の動きを繰り返し再現させていた。あれは疑う余地もなく、剣術を識る者の動きだった。それも、練度がかなりの域に達している者の。もし帯刀していたなら、彼女はあのまま抜いていたのではないか。妖夢に斬りつけてきたのではないのか。
あの一瞬、彼女が覗かせた殺気を思い出し、右手をぐっと握り締める。
「あの人は、剣を使うのでしょう」
「それなんだが、実は私も知らなかったんだ」
 慧音は弱々しく首を振った。
「武芸をやるなど聞いていない。普段はまるきり大人しい子でな、誰かと揉め事を起こしたこともない。こんなのは初めてで、だから」
 言葉を切ると、途方に暮れたような溜め息を口からこぼす。
「他人に害を為すような人間には見えなかったから、過去について必要以上の詮索をしないようにしていたのだが。こうなると、そうも言っていられないか」
 重い足取りで里の方へと引き返しはじめた。
 妖夢はそれを追う。同じくあの少女の過去が気にかかったからで、その気持ちは、きっと慧音よりもずっと強かっただろう。
 魂魄の名を知りながら、おそらく妖夢と初対面の少女。もしかすると彼女の知る魂魄とは、妖夢の師、妖忌のことではないのか――その考えに至ってしまうと、気にかけるなという方が無理な相談だった。

 里の表通りから離れた裏町、そこに並ぶ長屋のひとつに、あの少女は当座の住まいを得ていた。
 既に帰宅していた少女は慧音と妖夢の訪問に、諦観の表情を見せた。こうなることを察していたらしい。ふたりを客として、狭い部屋に上げた。
「私が確かめたいのは、お前が危険な真似をする奴なのかどうか、つまるところそれだけなんだ」
 ちゃぶ台を挟んで座るなり、慧音はそう切り出した。長屋の薄い壁を考慮しての、ごく低めた声だった。
「誰彼構わず辻斬りを仕掛けるようなのは、ひとりで十分なんでな。さっきの行動の理由、聞かせてくれないか?」
 妖夢としては色々と口を挟みたくなる慧音の言だったが、まずは相手の話を聞こうと決め、自制した。
 少女、道間修四郎はうつむいて、ちゃぶ台に並べられた湯飲みが立てるお茶の湯気に目を落としている。足がしびれそうな程の時間、そうしていてから、
「どこから話せばいいのか……」
やっと口を開いた。
「幼い頃、気が付いたら私は曾祖父とふたりきりで、里の外に暮らしていました。それ以前のことは、里で両親と共にいたことをおぼろげに覚えているだけです」
「道間という姓の家は、確かに里にあった。夫婦がひと組だけの家で、だが五年以上昔に、ふたりとも亡くなっている。子供がひとりいたが、ずいぶんと前に家の事情で親戚に預けたと、そういう話だった」
 慧音が付け加えるように言うと、修四郎はかすかに首を傾げる仕草をした。
「その子供というのが、私なのでしょう。家の事情とやらは、私も聞かされていませんが。……曾祖父、道間一郎が教えてくれたのは、飛散流の剣術と――」
 黒い瞳が持ち上がり、妖夢のことをおずおずと捉えた。
「……魂魄への憎しみだけでした」
 そう言ったその声には、憎悪の響きなどかけらほどもなかった。ただ哀切だけが深く、それが却って妖夢の息を詰まらせた。
「ええと、つまりあなたの曾おじい様は、魂魄を憎んでいると?」
 いや、憎んで「いた」か。さっきの慧音の話では、肉親を全て失ったということだから。
「はい……それはもう、苛烈なまでに」
 申し訳なさげにつぶやいて、修四郎はまた目を伏せた。その姿勢で続けた話によれば、道間一郎はまだ若い時分、片足に深い傷を負い、残りの人生をびっこで過ごしたという。それでも剣と魂魄への憎しみだけは捨てず、自分の後継、つまり修四郎に託したのだった。
 ここまでで、妖夢は既に、半ば以上の納得を覚えていた。修四郎の曾祖父が憎んでいたのは、疑いようもなく、魂魄妖忌だ。憎悪の理由は、訊くだけ野暮というものだろう。聞けば道間一郎某も剣術家、ならば武芸者同士、その間には怨みつらみの種が蒔かれる土壌ができているも同然だった。
 道間一郎はなんらかの因縁によって、妖忌を宿敵と認めていたのだ。政治的なものか、武芸的なものか――まず、後者だろう。剣の敵だからこそ、剣で討ち果たしたいと、人はそう願うものだ。
「飛散流、でしたか? 失礼ですけど、聞き覚えのない流派です」
 さっき聞いて耳に残っていた名前を口に出すと、修四郎はかすかにうなずいた。
「師が開祖で、現在の後継は私だけですから。世間には知られてないと思います。剣理が、その、『魂魄殺し』という一点に置かれてますし……」
 今度は「魂魄殺し」ときたか。これにはさすがに妖夢も、鼻白みたくなった。その隣では、慧音がなにか得心いったようにひとりでうなずいている。
「流派名は“魂飛魄散”が由来か。つくづく魂魄を目の仇としていたようだな」
 では何か、道間一郎は、魂魄を斬る、それだけを目的とした流派を興したというのか。そんな限定的な、余人に理解されるとも考えられないことを実行したというのか。
 ――そして、今日まで続けてきたというのだ。その敵意は、代を経て曾孫にまで確かに継がれた。先刻、裸の桜の下での一瞬を妖夢は脳裏によみがえらせ、それこそ魂飛魄散した面持ちとなっていると、
「あの、さっきは本当に、すみませんでした」
 修四郎がいきなり深々と頭を下げ、ちゃぶ台に額をぶつけて湯飲みを揺らした。慧音が慌てて湯飲みたちの転覆を防ごうとしているのにも構わず、頭のつむじを妖夢に向け続ける。
「さっきはあまりに突然のことで、師匠……曾祖父から身体に刷り込まれたことが、咄嗟に出てしまったのです。でも、信じてください。私自身は魂魄を憎いとは思っていません」
「あ、いえ、そんな気にしないでも」
 彼女の所業が気に障って、ここへ来たわけではないのだ。半ば以上は好奇心に衝き動かされていた。そしてここを訪れて、一時の驚きが去ってしまえば、胸に残ったのは喜びだった。
 師、魂魄妖忌との縁を持つ者に思いがけず出会えたことが喜ばしかった。例えその縁が負の感情に根ざすものであっても、それでもこの巡り合わせには感謝したかった。なにせこれまで妖忌のことを知る者など、西行寺の主と八雲くらいしか、妖夢の周りにはいなかったのだから。たったひとりの肉親のことを、妖夢は他人に語って聞かせられるほども知らなかった。だから、機会が得られれば、他人の口から聞かせてほしいと、かねがね願っていた。
「よろしければ、もっと話を聞かせてくれませんか」
 そう頼むと、修四郎は顔を上げて、奇妙なものを見る眼差しとなった。が、すぐに目を逸らす。
「申し訳ありませんが、これ以上、話すことは特に……」
「あなたの曾おじい様と因縁を持ったのは、私の師、祖父でもある妖忌なのです」
 ここから先は慧音も知らないことのはずだ。少しためらってから、続ける。
「私にとって最後の肉親でもあった師は、今は行方が知れません。私がどうにか二刀を両の手で扱えるようになった頃、姿を消したのです」
 修四郎が、ゆっくりと視線をこちらへ戻した。目を大きく見開いている。
 妖夢は照れたような笑みを作って見せた。
「ですから、どんなわずかなことでもいいですから、師のことが聞けるなら、そうしたいのです。こんな年にもなって、おじいちゃん子なのかと笑われるかもしれませんが」
「あなたはおじい様を尊敬していて……好きなのですね」
 一瞬、修四郎の瞳に羨望の色が浮かんだ。それから突然、彼女は、
「だめなんです」
 と強く首を振った。
「私個人は魂魄……あなた達を憎んでいない、それは本当です。でも私の気持ちとは別のところ、心の奥の見えないところに、曾祖父は自分の感情を植え付けていきました。それが、あなたとこうして向かい合っている私の胸を掻き乱しています。たった今も」
 少女は右手で左の腕をぎゅっと握っていた。
「朝夕に曾祖父は繰り返し、私にも唱えさせました。――魂魄を憎め。魂魄を斬れ……それからこの時期には……桜を見ればこれを折れ、とも」
「桜?」
「曾祖父には、桜と魂魄とを重ねて見ている節がありました。あのきれいな花までも、憎んでいたのです」
 確かに魂魄と桜とは、切っても切れない関係だった。剣技にも桜花をモチーフとしたものがあるくらいだ。だからと言って、あの風靡に溢れる花をも憎悪の対象とするのは、いささか行き過ぎのきらいがあるのではないかと、妖夢は感じる。坊主憎けりゃ袈裟まで、の理屈は分かるけれども。
「――その習慣をやめて一年が過ぎ、もう、あの声を忘れられたと思っていたのに」
 修四郎はひどく苦いものを口に含んだのにも似た顔となる。そしてまくしたてるように続けた。
「私は、曾祖父のことが嫌いでした。厳しいばかりで、私の望むことは何ひとつさせてくれず、望まない剣術と憎悪を仕込むことばかりに心血を注いでいた……死んでしまったことで解放されたと思っていたのに。なのにまだ、あの人は私のそばにいたんです。魂魄であるあなたを前にして、私の心には嫌悪と、それに暗い悦びのようなもので昂ぶってしまっているんです。私の心はきっと、師に呪われてしまっているのです」
 そこでふつと、修四郎は言葉を切った。うつむいて、すっかり冷めてしまったお茶に顔を映す。左の腕を掴む指は、ほとんど爪を食い込ませんばかりとなっていた。
 それほどに辛いのだろうか、彼女のかすかに震えている肩を見て、妖夢は考える。きっと辛いのだろう、自分のものではない憎悪を心の隅に棲まわされ、その行使を代理させられるなど。同じ立場に置かれれば、自分だって嫌だと思う。
ちゃぶ台の上には沈黙が下りている。
「まあ、大まかな話は分かった」
 しばらくして沈黙を破ったのは慧音だった。
「つまり、道間の。お前が先刻のような振る舞いに及ぶのは、あくまで魂魄を前にしたときだけなのだな。それも、ちゃんと自制することができると」
「あ……はい」
「ならば互いに注意さえしていれば、問題はないだろう。――そういうことだ、魂魄の。これから里に下りてくる時は、彼女を無闇に刺激しないように」
「なんでそんな、それじゃ私が悪いみたいじゃない……」
 慧音の言い分に、妖夢は反発を覚えた。だが慧音はたしなめるような表情を見せる。
「仕方ないだろう、たまにしか里を訪れないお前のために、彼女に始終注意を払わせるわけにもいかん。お前が気をつけて、顔を突き合わせないように立ち回ってくれれば済むことじゃないか?」
 確かにそうかもしれない。対象と出くわさなければ、修四郎が受け継いだ憎悪は、彼女の心の奥底でじっと沈んだままとなっているのだろう。
 でも、と妖夢は急に腹が立ってきた。自分があずかり知るものではない父祖の因果で一方的に憎まれて、なのになぜこちらが気を遣わねばならないのか。こそこそと逃げ回るように立ち回らねばならないのか。
 ちゃぶ台を軽く叩く。びくりと、修四郎と慧音が肩を跳ねさせた。
「それよりもいい方法があります。魂魄伝統の解決策です」
「な、なんですか?」
 修四郎が尋ねてくる脇で、慧音は「もしや」という顔になっていた。
 妖夢はすっぱりと言い切る。
「斬ることです」
「……え」
「斬れば分かる。すっきりしない時は、とにかく斬ってみることです」
 やっぱり、と慧音が額に指を当てた。
「なあ、魂魄の……」
 何か言いかけるのを、妖夢は修四郎を向いたまま遮った。
「私たちの師の間に因縁があるのは分かりました。あなたがそれを引きずりたくないことも。でしたら、だからこそ。人を呪うような因果は一度、ばっさりと断ち切るべきです」
「で、ですけど。私はあなたと戦いたくなんて……」
「斬れば、分かるんです」
 妖夢は力強く繰り返した。
「斬らなければ分からない、斬って初めて分かることもあるんです。いやもちろん、結局は分からないままのこともありますが。でも試してみないままよりは、いい。もやもやをこの先ずっと、胸に抱え続けるよりは」
 いきなりの妖夢の強弁に、修四郎は気圧された形となっていた。いつしか腕から外した右手を、胸にあてていた。
 妖夢はさらに畳み掛ける。
「私の方なら、どうぞお気遣いなく、いっかな構いませんから。剣を手に取っている以上、人から憎まれる覚悟など、とうにできています。望まれればいつでも受け止めましょう。だから後は憎む側、あなた次第なんだ」
「でも、私……私は、憎しみのまま、戦いたくなんてありません」
 瞳を揺らす修四郎を、慧音が痛ましげに見る。それから妖夢のことを睨みつけた。
「おい、魂魄の。なにも幻想郷の少女みんなが、お前達みたいに好戦的だったり、そうでなくても降りかかる火の粉を払うのにためらいがない者だというわけじゃないんだぞ。だいたい……」
「で、でも」
 今度は修四郎が、慧音を遮った。
「私も、このままじゃいけないと思っていたんです。ずっと魂魄と出会うことを、密かに恐れながら今日まで過ごしてきてたんです」
「出会って、しまいましたね」
「あなたのような人だとは思っていませんでした。当たり前のことですけど」
 修四郎はほんのわずか、翳らせていた表情を緩めた。
「二度と剣は取らないつもりでした。辛い記憶しかないから。だけど、あなたとなら……あなたなら、もしかしたら」
 そしてつぶやく。「斬れば、分かる」と、さっきの妖夢の言葉を繰り返す。
「私にも、分かるでしょうか」
「きっと。あなたと私の剣が、答えを導き出してくれるはずです」
 妖夢はきっぱりと言い切る。
「そして、私の技があなたを上回ったならば。あなたの心を呪縛するその因縁、未来永劫に断ち切ってさしあげましょう」

 修四郎の部屋を出て長屋の間の小路に立つと、慧音は大きく伸びをした。腕を下ろすと、しきりに首を傾げはじめる。
「なんだかここへ来た当初の目的を忘れてしまった……少なくとも、お前達が決闘の約束を結ぶ場面に立ち会うためではなかったはずなのだが」
 隣に並ぶ妖夢は苦笑し、見送りのため戸口に立った修四郎は申し訳なさそうな顔となった。ふたりは互いに顔を見合わせる。
「それでは今夜九時に。場所は……そうですね、さっきの桜の並木でどうでしょう」
 妖夢の提案に修四郎はうなずきかけ、ところがそれより早く、慧音が否を差し挟んでいた。
「あそこはだめだ。気の早いのが夜桜を肴にしようと訪れるかもしれないからな、巻き込んでも面倒だ。もっと別の場所になさい」
 有無を言わせぬ慧音先生の強い口調に、ふたりは従うことにした。里から程近い林の中の平地に、改めて場所を定める。
 修四郎は部屋に戻り、妖夢と慧音は歩き出した。
「これで本当にいいのか、私には分からない。おそらく、剣士同士にしか分からないことなんだろうな。だから、あとはお前に任せるよ、魂魄の」
「ええ。……あれ? あなたも立ち会うのではないのですか」
「私は別に用がある。ほら、例の花見の場所分けの件とかな」
「ああ」
 と妖夢は納得しかけ、だがすぐに訝った。ひとりの少女の大事と花見と、慧音が後者に重きを置いたのが、ありえないことに思えたからだった。
 妖夢の表情に、慧音は目を細める。
「お前に任せる、そういうことだよ。上手くやってくれよ、魂魄……いや、妖夢」
 表通りへとつながる辻に出ると、慧音は軽く手をかざして、角を曲がっていった。妖夢はまだ怪訝な顔で辻に立っていたが、ふと、路面に落ちる自分の影がかなり長くなってしまっていることに気付き、あっと声を上げた。振り返れば、陽はほどなく山の稜線に触れようとしていた。
 どれだけの時間、顕界に長居してしまったのだろう。指折り数えて計算しながら、通りを駆け出す。それまでふわふわ浮かんでいた半身も、慌てふためいてその後を追っていった。

 息せき切って白玉楼へと駆け戻り、どうにかいつもの時間までには夕餉の用意を整えることができた。
 食事が終わると、手早く後片付けにかかる。忙しなく動く庭師に、白玉楼の主たる幽々子はのんびりとした調子で尋ねた。
「どうかしたの? 今日の妖夢はバターになっちゃいそうなくらい大忙しに見えるけれど」
「あ、はい。この後、決闘の約束が」
「あら、そうなんだ」
 膳を下げながら律儀に答える妖夢に、幽々子は微笑んで、どこか遠くを見るような目つきをした。
「決闘の約束ねぇ。妖忌にも、そんなことを言ってお出かけしてた頃があったわ」
「師匠がですか?」
 妖夢の動きがぴたりと止まる。
 幽々子は柔和な笑みをたたえたままうなずいた。
「ほんの数えるほどだけだったけれどね。妖忌は決闘の前でも落ち着いていたわよ、とっても。自分の部屋で刀を前に、じっと座っていてね。でも怖い感じというのでもないの。気軽に声をかけられたし」
 その点ではあなたも同じね、と笑いかけられ、妖夢は白い頬を薄い桜色に染めた。
今になって、自分が大それたことをしようとしているのではないかと、そう思えてくる。未熟な自分が、本来は師に向けられるはずの憎悪に立ち向かおうだなんて。この身で肩代わりしようだなんて。
 でも、相手だってこちらと立場は似通っている。本来自分のものではない感情を負わされ、剣を握らされた、少女。
 これから自分たちが赴く戦いは、父祖の代に産み落とされた因縁に導かれてのものだった。だけど、と妖夢は胸のうちでつぶやく。戦うと決めたのは、結局、自分たちだった。実際に刃を交えるのも、他ならぬ自分たちなのだ。だからこれは、私たちの戦いであるべきだった。
 過去の因縁に片を付けるのも大事だったが、何より自分たちのために戦いたかった。それは剣の道に生きるものとして、剣に苦しめられているあの少女を見ているのが耐え難かったからかもしれない。自分の剣で、あの少女に何かを伝えられると、そう考えたからかもしれない。
「斬れば分かる。あなたも、きっと」
 つぶやき、きゅっと口元を引き結ぶ。それを見ていた幽々子が柔らかに目を細めたのに、妖夢は気付かぬままだった。
 

 空はすっかり夜色に染まり、星たちと細い月とが頼りない光を地上に投げかけている。
 夜闇に桜の花弁がぼんやりとした白を浮かばせる、あの並木の中に、慧音の姿があった。
 一本だけ裸んぼうでいる木の前に立っている。寒々とした枝振りに、鋭い眼差しを投げかけていた。
 頭では、修四郎のことを考えている。あの少女が里へ帰ってきたのは、ちょうど一年ほど前。そして、この木が今の奇妙な姿になってしまったのも、同じく一年前のことだった。
 ただの偶然だろうか。
 一見して無関係なふたつの事象だった。慧音もこれまで、ふたつを結びつけようなどと考えたことがなかった。今日の昼、ここに修四郎の姿を見て、長屋で彼女の話を聞くまでは。
 彼女はどうしてここにいたのか。そして一年前、ここで何があったのか。
 遠く別の闇の中では、そろそろ決闘が始まる頃合のはずだった。慧音は空を仰いで月の位置を確かめると、木に向き直り、幹に顔を寄せた。
「お前は、何を見た? 何を知っている? 歴史を、私に見せてくれないか」
 ささやきかけ、そのまま唇を幹へと近づける。そっと、優しく口づけをして。
 彼女は「食事」を開始した。


 妖夢が約束の場所に着くと、既に決闘の相手は待ち構えていた。林の中の開けた場所。周りを囲む木々の密度は低く、その間を透かして里の灯を見ることもできる。今宵の月の光の方が頼りないくらいで、そんな空の下に立つ人影は、ふとした拍子に夜の中に溶け消えてしまいそうだった。
 刻限にはまだ早いはずだけど。妖夢は月の仰角を確認しながら、足を速める。
「お待たせしました」
「よろしくお願いします」
 およそ決闘前に交わすものとは思えない、のんびりとした両者の言葉だった。口にしてからその不自然さに気付き、妖夢は苦笑した。相手からも同様の気配がする。
 近づくと、夜に目が慣れてきたこともあって、相手の姿をだいたい掴むことができた。修四郎は刀をひと振り、手にしている。鉄鞘に無数の傷が刻まれた、随分と時代を感じさせる太刀だった。
「曾おじい様のですか」
 あの長屋の部屋のどこかに仕舞ってあったのだろう。昼に戦うことを決めた時、もし彼女が武器を持たないならば白玉楼の蔵に眠らせてあるのをひとつ貸してもいいと、妖夢はそう提案して、断られていた。そのときから、もしやとは思っていたのだ。
「はい、唯一の遺品です……だから、さすがに捨てるのは忍びなくて」
 鞘には半ばほどまで、白布が固く巻きつけられている。それを全て解き、地面に捨てると、修四郎は刀の鯉口を切った。
 妖夢も楼観剣の柄へ手を伸ばす。半身に助けられながら抜刀、続けて白楼剣も抜き、二刀を中段に構えた。
 修四郎も抜く。鞘を捨て、それを互いに無言で合図とした。
 互いの間合はおよそ二十歩。妖夢の足ならば瞬時に駆け抜けられる距離だったが、修四郎の構えがそれを阻んでいた。下段の構え。相手の爪先をおびやかし、間合の自在を阻む、いわば守りの剣。
 なるほど、魂魄打倒を謳うのは口だけではなかったようだ。魂魄の剣、その真髄が迅さにあることを、よく知っているらしい。ひと息に間合いを詰めて斬り抜ける、その神速を封じる堅実な戦い方だと言えた。
 となれば、その構えの後ろには、さらなる兵法が伏せられているのだろう。足を十全に活かせぬまま接近を図るよりも、飛び道具を射掛けて隙を作るのが良いか。妖夢は傍らに浮かぶ半身へ、ちらっと視線を流した。
 その瞬間、相手が動いた。右手を閃かせ、何かを妖夢めがけて投じている。
 低い風切り音を耳にするより早く、妖夢は身をのけぞらせた。まばたきほどの間も置かず、右頬すれすれの空間を何かが鋭く貫いていった。小型の刃物。
「小柄……?」
 視線を前へ戻せば、相手は元通り、下段に構えている。切っ先は先ほどとまったく同じ位置で、ぴくりとも動かない。妖夢をじっと捉える瞳は、夜の色に澄み切って、おそろしいほどまでに集中していることをうかがわせた。
 昼間はあれほど戦うことを渋っていたくせに、一度心を決めれば、迷わないか――妖夢は内心に皮肉な笑みを浮かべた。気を散らせば、逆にこちらが隙を突かれる。唇を薄く舐めると、早くも薄く汗の浮きはじめている手を握り直した。


 舌に乗せた木の歴史は、ほとんど酸鼻さえをもたらすような苦味で満ちていた。
 胸が悪くなるのをこらえながら、慧音は裸の桜の歴史を舌の上で転がす。味わおうとする。
 桜の樹齢からすればごく至近、一年前へかけての歴史を、慧音は口にしていた。口に含んでよく味わえば、それは歴史の追体験にも近いことを可能とした。
 慧音は木の歴史を視る。聴く。嗅ぐ。感じる。
 ――一年前の、夜だった。細く朧な月下に無数の花びらが舞い、その中に人間がふたり、いる。ひとりはかなりの高齢と見える痩身の男、もうひとりは老人と三世代ほどは歳の離れていそうな少女。
 老人はひと振りの刀を手に、少女へ向けて何か告げている。低くしゃがれた声。よく聞き取れないが、それでも「見ろ」といった類の言葉を吐いているらしきことは、なんとか掴めた。
 老人がこちらを向いた。


 地表を駆けずとも、寄ることはできる。妖夢は大きく、高々と跳んで、相手の頭上に影を落とした。見上げてくる修四郎の頭部に向けて、いきなり垂直に降下、兜割りに楼観剣の刃を落とす。
 修四郎は剛く刃を跳ね上げて、これを受けた。夜に小さな火花が散る。赤い閃きに、両者は互いの顔を一瞬はっきりと見、次の瞬間にはまた間合を取っていた。
 刃を下段へ戻した相手に、妖夢は身を沈め、再び跳ぶと見せかける。巧く釣れた。相手の切っ先が地面から浮く。胴が見える。
 すかさず正面へと向けて、跳んだ。
 滑るようにして駆ける。修四郎もまばたきの時間の十分の一ほど遅れて、踏み込んできた。
 交錯。さっきより大きな火花を残して、擦れ違う。
 利き足で地面を抉るようにして妖夢は急制動をかけ、振り返る。修四郎はまだこちらに背を向けていた。それで勝ちを得たと信じた。
 直後に、全身の血が温度を失った。
 修四郎がこちらに背中をさらしながら、刀を振り上げている。なおも駆け続ける足の先、そこには、妖夢に追いつこうと懸命に飛んでいる最中の、半身の白い影。
 胴を見せたのは故意、誘いだったのだと、やっと悟った。
 修四郎が、妖夢の半身に刃を向ける。


 老人は枯れ枝みたいな腕で、しかし力強く抜刀し、そのまま流れるように刃をこちらへ向けて振り下ろす。その口が、こう動いていた。
「散華」


 花が、一斉に散った。


 凄まじい衝撃を覚え、慧音は口を手でおさえた。胸に黒く重たいものがこみ上げてきて、嘔吐しそうになるのを必死にこらえる。舌が燃えるように熱く、目の前には毒々しい色の星がちかちかと瞬いた。
 全身が――いや、体の内側、まるで魂がばらばらになったかのような衝撃だった。死んだ、本気でそう思った。
 だが、舌にはまだ味覚が残っていて、歴史の味を感じていた。そう、歴史はそこで終わりではなかった。目の前が真っ暗になるほどの激しい衝撃を受けて、なおも木は生きていた。
 ……音が聞こえる。細やかな息遣い。泣いているのか、あるいは安堵しているのか。小さな、ほんのかすかな音。
 やがて別の音が聴覚を満たす。硬い物を地面に振り下ろしているかのようだった。聴いているうちに、それが土を掘り返している音なのだと、気付いた。


 死んだと、うっかりそう思い込みそうになった。
 それほどの衝撃、痛打だった。打たれ、それでも妖夢はどうにか二本の足で立ち続けていた。が、全身にびっしりと脂汗を流し、肩で息をしている。左腕が肩から痺れてほとんど動かせない。その先に握っていた白楼剣は、足元に転がっている。
 そして、そばの地面には半身である霊魂が横たわり、びくりと痙攣するかのように震えていた。修四郎の一太刀に斬り伏せられたのだった。
 霊体を叩く、霊的な打撃。それこそが、修四郎の見せた奥義の正体なのだと妖夢は知った。通常の技では、肉体を持たぬ幽霊を斬ることなどできない。それを成した今の一撃は、特殊な武器を用いたか、あるいは尋常ならざるな技を使ったか――まず、後者だ。それこそ、道間一郎が生涯をかけて編み出した、悲願成就のための剣に違いない。
 魂魄殺し、まさにそうだった。およそまともな剣の戦いでは使う道のない、唯一魂魄にのみ有効な、魂魄を殺すためだけの、剣。
 妖夢は体をわななかせていた。ここへきてやっと、道間一郎の魂魄に対する憎悪を実感できた、そんな気がした。憎しみという形のない感情が、奥義として実体を持つに至った――いま自分が目にしたのは、つまりそういうものだったのだ。
 邪剣だ。妖夢は唸る。これは真っ当の剣術ではない。こんなものを編み出し、子孫に継がせた道間一郎は、やはりまともではなかった。尋常ならざる狂気に、恐怖が胸中に気泡の如く浮かび上がってくる。
 最初に対峙した時と同じくらいの距離に、修四郎がいる。痛撃を受けた妖夢に追撃してこないのは、あちらもやはり疲弊しているためらしい。妖夢ほどではないが、息を乱していた。常軌を逸した奥義は、使い手にそれなりの報い、消耗を強いるのだろう。
 そして、扱うのもまた難しいのだ。半身を打った奥義はわずかに浅く、致命傷たりえなかった。打撃の瞬間、妖夢が半身に回避を試みさせたためもあるだろうが、主な理由は、相手の技量の不足に拠っていたと、そう確信している。運が、よかったのだ。
 とりあえずは生き延びた。そして相手が息を整えようとしているこの時間は、妖夢にとって至宝に等しかった。回復力ならこっちが上だ。少しでも力を取り戻し、おそらくは最後となるであろう次の一合に備えねばならない。
 楼観剣を地面に突き立て、白楼剣を拾って痺れたままの左手に押し付ける。胸のタイを解くと、それで左手を拳の形に縛り付けた。右手と口を使って、ぎゅっと堅く、結び目を作る。右手に再び楼観剣を取り、形だけは二刀の格好を取り戻した。
 修四郎は、この妖夢の所作を黙って見ているだけだった。こちらの思う以上に疲弊が激しかったのか、それとも――待っていてくれたのか。
 この時間で、妖夢の体力はろくに戻っていない。それでも少女は、瞳に宿した光の強さで、なおも戦意の萎えていないことを相手に告げた。


 裸の桜の根元を掘ると、案外すぐに、目的のものが見つかった。埋めたのが少女の手であることを考慮すれば、あまり深くにある方が不自然というものか。
 出てきたのは人骨だった。
 最初に出てきた頭部の骨、しゃれこうべを、慧音は手に取る。土を払ってやりながら、淡い苦笑を投げかけた。
「さて、はじめまして、だな。はじめましてでいきなりだが、お前には、子孫を手前勝手な因縁で呪縛してしまった責任がある。そのつけを、払ってもらうぞ」
 地面に座り込むと、膝にしゃれこうべを乗せ、その空っぽの眼窩を裸の桜へと向けさせた。
「もうじきだ。もうじき訪れるその時を、私と一緒に見届けてもらう。いいな、道間の」


 妖夢は相手の剣と対峙している。
 魂魄のみを殺すための剣と。魂魄への憎悪から生まれた剣と。数十年もの間、魂魄を憎み、呪い、打ち斃さんと願い続けた想いから生まれた、剣と。
 そう、それは想いだった。魂魄を想いつづけた心がこの世に産み落とした剣。想いの形。
 誰かの胸をそんなにも長きの間、焦がし続けてきたのだ、魂魄は。ひたすら、一途に想われつづけてきたのだ。例えその想いが憎しみという暗い色で染まっていたとしても、だけど誰からも忘れ去られて透明になってしまうよりは、ずっとましなように思えた。誰かに覚えつづけられること、それはきっと、人にとって、救いなのだ。
 いつしか、妖夢の胸からは、道間一郎に対する恐れや嫌悪は消え去っていた。だって――師を、師の剣を、いつまでも覚えてくれていた人ではないか。こんなにも強い想いと共に。
「ありがとうございます」
 つぶやくと、刃の向こうで修四郎が虚を突かれたようにまばたきした。妖夢は口の端をごくわずか、緩める。
「師があなたのことをどう思っているか、あなたがそうしていたように、あなたの存在を心に刻み付けているか、私が保証もなく言葉にすることはできません。でも私は、あなたの名前を覚えていきます。あなたという人がいたことを。ですから」
 瞑目し、
「あなたはもう、終わってください、道間一郎。ただの記憶となってください。死者がいつまでも出しゃばって、生きている者の心を縛りつけないでください。できないというのなら――」
 再びまぶたを開く。きっ、と前方を見据えて、低めていた腰をさらに深く沈めた。
「私が、断ち切ってくれます」
 朧な月光におかっぱ髪の先を小さく揺らし。一拍の間の後、白銀の旋風となって飛び出した。
 修四郎も刃を地擦りに詰め寄ってくる。また妖夢を抜いて後方の半霊にとどめを刺すのか、そう思わせて妖夢自体を叩くつもりか。突きつけられた二択、解法は単純、どっちもさせず、斬られる前に斬るのみ。それが剣術というものだから。
 ひときわ強く地を蹴りつけ、妖夢は闇に刃を一閃させる。

 修四郎は刃を立ててこれを受けようとした。受けて、妖夢と擦れ違い、いま一度の奥義で決めるつもりだった。
 だが、立てた刃に、予期した斬撃の重みは訪れなかった。違和感に、しかし足は緩めない。妖夢の懐を抜けて、その向こうに横たわる霊体へと走る。
 あと一歩まで詰めたとき、視界に光が走った。桜色の、鋭いそれは剣閃だった。
「桜花閃々」
 背後に朗々と響く妖夢の声。
 修四郎は悟る。一の太刀は影、その後ろに伏せていた二の太刀こそを本命とし、ふたつの太刀の時間差で相手の失策を誘う――それがこの剣伎の正体。今度は、こちらが誘われた。
悟ったが遅かった。夜気に連続して開く桜色の花が、彼女を襲う。
「ああっ」
 絶望にたまらず叫びながらも、奥義を振るう。霊魂を震わせる刃は、桜を模した剣閃とぶつかり合い、これを散らした。今度こそ、痺れるような衝撃が手に走った。
 それで力尽きた。
 夜風が花びらの幻影を吹き散らしていく。剣閃が絶え、闇が戻った時、修四郎は奥義を二度用いた消耗に膝を着いていた。
 妖夢が立って、それを見下ろしている。憔悴しきった顔で、それでも彼女の方は最後まで立っていた。
 二刀が、修四郎に向けられる。
「――約束を、果たします」
 修四郎は力なく笑い返した。


 慧音は座って、しゃれこうべを膝に抱いている。しゃれこうべの頭を撫ぜるようにして、こいつがどんな歴史を持っていたのか、そんな想像に意識を飛ばしている。

   †

 白玉楼に魂魄の太刀あり。その業前に及ぶもの、幻想の果てまでなし――
 兵法家の間に流れたそんな噂に、若い血を滾らせたとして、誰に笑うことができる?
 俺が本当に笑われるべきだったのは、その無様としか言いようのない負けっぷりだった。桜並木に魂魄を呼び出し、立ち会って、俺は最初の一合で剣を落とされ、敗れた。
 しかし俺を笑う者はいなかった。俺との勝負の顛末を、奴が誰にも明かさなかったからだ。俺に勝ったことなど、奴にとっては語るべき価値もない些事に過ぎないということか。
俺は奴への雪辱を誓った。この俺を認めさせて、そして勝つと。
 研究と研鑽に努めた。奴が誰かと立ち会うと聞けば、必ず駆けつけ、始終を見届けた。繰り返すうち、少しずつ奴の剣が見えてきたように思えた。
 ある秋の月の下、二度目の立会いを挑んだ。二合で負けた。
 ある雪の日、三度目を申し込んだ。五合で負けた。
 奴は俺の挑戦を決して拒まず、結果を誰かに語ることもしなかった。
 桜が咲くのを幾度か数えた。
 三十路に差し掛かった頃、過って右足を折った。接ぎ方が悪かったか、元のように歩けなくなった。それを言い訳にしたくはなかったが、これで奴に届く日がさらに遠のいたのは確かだ。先を考え、息子に俺の剣を伝えることにした。剣才には乏しいが、及ばぬならさらに次の代へ継がせるまでだ。魂魄は長命らしいし、よもや俺以外の相手に斃れることもあるまい。
 思い立ち、名を一郎に改め、息子を継二郎と名乗らせた。父祖から継いできた道場は畳み、飛散流を興した。
 桜が咲くのを幾度も数えた。桜に魂魄を見、幾度も折った。
 継二郎の妻に産ませた子、俺の孫は、やはり剣の拙い男子だった。夫妻はそれきり子を成さなかった。俺は曾孫に望みを懸けることにした。
 魂魄の足取りを掴むのに苦労が増してきた。
 桜が咲くのを幾度も数えた。妻が逝った。継二郎も消え、その妻は子を残して実家へと帰った。
 桜を折った。魂魄を斃す剣の理が、おぼろげに見えてきた。
 だが奴の足跡は、はたと途絶えてしまっていた。構わん、生きているならば必ずまた逢えよう。
 孫が嫁を娶り、子を産ませた。女子がひとり、それきり。さすがに嘆いた。
 俺も年を取り、残された時間の乏しさをひしひしと感じるようになった。焦りに、何度も孫の不甲斐なさを罵り、時には木刀で打った。
 あるとき、孫を打擲していた木刀が、脇から差し込まれた木剣にいなされた。まだ四、五になったくらいの曾孫が、剣を手に取り、泣きそうな目で俺を見ていた。俺の太刀筋を見切り、逸らしたのだと、直感した。人生で最後の歓喜が、俺を包んだ。
 後で知ったことだが、孫が娶った女、あれには非常に薄くではあったが、妖怪の血が混ざっていたらしい。道理で、さっぱり来手のなかった孫のところへなど嫁いでくる気になったわけだ。そしてその血脈は曾孫へと流れた。幼さに見合わぬ才能は、そこに理由があったのかもしれない。
 ともかくも俺は曾孫を連れ、里を出た。孫にはとっくに見切りをつけていて、そんな奴に育てさせるわけにはいかなかった。俺は曾孫の才能を愛でた。こいつなら、悲願を成し遂げてくれるだろう、そんな確信があった。故に、修四郎と呼ぶことにした。
 修四郎は幼いうちから俺の教えることをよく飲み込んだ。笑わず、そのうち泣くこともなくなり、淡々と剣を振るようになった。
 その成長と反比例するかのように、俺の体は急速に動かなくなりつつあった。老齢のせいもあるが、むしろ奥義を編むために何かと無茶をしたのが祟ったのだろう。五十頃から患った宿痾も悪くなるばかりだった。もう、時間なのだと悟った。この頃には修四郎に教えるべきことは、あとひとつを残していた。
 桜の季節だった。いよいよ次の花は見れまいと考え、夜、俺は修四郎を連れて、魂魄と初めて刃を重ねたあの桜の道へと向かった。
 魂魄の噂すら聞かなくなって久しかった。もう一度、戦えぬまでも、あの憎き面を拝んではおきたかったが。俺の命がある間に再会するのは叶わないだろう。ならば、もうこれ以上、痩せ細った命を長らえさせる意味もない。
 修四郎に奥義を授け、これをもって印可とした。
 授けるために実践してみせた奥義は、俺の体にとどめと呼ぶべき負荷を与えた。全身が鈍く痛み、足から力が抜けていく。このままここで、木の下で眠ろうと決めた。もはや振るえなくなった刀、長年の伴侶を渡すと、修四郎はじっと俺のことを見ていた。
 俺の曾孫。思えば、こいつの笑い顔というものは一度も見たことがなかった。それでいい。笑うことなど、魂魄を討ち果たしてから、いくらでもできる。それから存分に笑うがいい。その時は、俺も地獄で。
「修四郎」
 最後の力で呼びかけた。
「終止を。お前の手で」

   †

 二刀を手に、妖夢が駆ける。修四郎を斬る。


 突然、裸の木に、無数の花がはじけた。
 何もなかったはずの枝々に芽が生じて、音がしそうなほどの勢いで一斉に花弁を開かせたのだ。他の木々に遅れること二日、ようやくその木にも春を謳歌する時が訪れたのだった。
 その光景に、慧音も顔を花開くようにほころばせ、自分の見ている先へしゃれこうべの眼窩を真っすぐに向けてやる。
「見ろ。お前の遺した呪縛の解けた様を。未来永劫に断ち切られたのを。あの子達が、やったんだ」
 とてもとても嬉しそうに、声を弾ませて。慧音は満開の夜桜に、新たな歴史を見ている。


 林の中の開けた場所で、柔らかな春草の褥に、ふたりの少女は大の字を作っていた。片やぼろぼろに斬撃を浴びた姿で、もう一方もすっかり精根尽き果てたという様相をしていた。
 でも、ふたりは満足げな色で、汗に濡れた顔を明るく染めていた。
「すみません、痛かったでしょう」
「痛かった。動けない」
 ぼろぼろの少女、修四郎はくすりと笑う。
「でも、胸が痛むのより、ずっとまし」
 それを聞いて、妖夢も弱々しい笑みを作った。
 ふたりはぼやけた月の浮かぶ空を見上げる。宙へと向けて、修四郎がぎこちなく手を伸ばした。
「斬れば、分かる――確かに何か分かったような気がします」
「本当ですか」
「うん……でも、その『何か』がなんなのか、よく分からないの。はっきりとしない」
 でも、と修四郎は繰り返す。きっと良いことなんだと、それだけは、はっきりとしているの。
 妖夢はうなずいた。
「また何か分からないことがあったら。心に断ち切りたいものができてしまったなら。私に言ってください。いつでもお相手しますから」
「うん。お願いね、妖夢」
「はい……修四郎」
「……名前、変えたいな」
「……そうですね」
 修四郎が笑って、それに妖夢も遠慮がちに笑いを重ねた。
ひそやかな笑い声が呼んだのか、かすかな風が場を吹き過ぎていく。遠くいずこかより運ばれてきたらしく、ひとひらの花びらが風の中に踊っていた。

   †

 その桜は、ずっと昔から、そこにあった。そこで、様々なものを見てきた。慧音に味覚されたのは、培ってきた歴史の、ほんのわずかな部分でしかなかった。
 例えば、ある年の花の季節。桜は行き交う人々の中に、老人と幼い女の子のふたり連れが通りかかるのを見ている。二刀を帯びた白髪の老爺と、銀髪を黒いカチューシャで飾った女の子だった。
 花の舞い散る下、ゆっくりと歩きながら、老爺は女の子に何やら語りかけていた。
「――よ。わしはお前に剣しか与えてこなかった」
「はい、お師匠様。だって私は剣士ですから」
 頬を高潮させ目をきらきらさせた女の子に、老爺は、よほど注意していなければ分からぬほどにかすか、笑ったようだった。
「うむ。剣を継がせた。負わせたといってもいい。……それを、あるいは悔いるべき日が来るやも分からん」
「お師匠様にも分からないことがあるのですか」
 女の子は幼さゆえに、ややずれた反応を示した。目を丸くしてびっくり顔となっている。老爺は重々しくうなずいた。
「ああ、あるとも。――だが、そのための剣だ。いや、剣だけに限らん。ひたすらその道だけを求めた者に、それは必ずや答えをもたらしてくれる。それが、我々にとっては、剣だったというだけの話だ」
 ほとんど理解できていないのだろう、女の子は難しげに眉を寄せていた。その様子に、老爺は口の中で苦笑したらしい。
「分からぬだろうな、まだ。ならば今はひとつだけ覚えておくがいい。斬れば分かる、と。お前が信じれば、剣は必ずや答えてくれる」
「はい、お師匠様。きればわかる、ですね」
 真剣な顔つきで女の子は繰り返した。その銀色の髪へと老爺は手を持ち上げかけ、だが指先をわずかに曲げただけで、また下ろしてしまった。足を止め、刀の柄に左手を乗せて、どこか遠い目で花を見る。
「剣だけならば、まだいいのだ。わしの至らなさが、より重いものをお前に負わせてしまうやもしれん。そのときはわしを恨め。だが、ゆめゆめ自分の剣を疑うことだけはするな。わしから伝えられたとはいえ、手にしたときから、それはお前のものなのだから」
「お師匠様? すみません、よく聞こえませんでした」
「……いや、年寄りのたわ言だ。さあ、帰ろう。姫様が待っておられる」
 再び歩き出した老爺を、女の子は「はい」と元気のいい返事をして追いかける。が、慌てていたのか、数歩も行かぬうちに転んでしまった。
 老爺が立ち止まり、振り返る。女の子が立ち上がるのを、じっと見守っている。その深くしわの刻まれた顔に彼が浮かばせた表情、春の陽光に舞う花びらの向こうに垣間見た表情を、桜は今も、確かに覚えている。

 

 

 

 



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2008年11月2日 日間

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