上海の人の形(前編)

 

 

 

「じゃあ、出かけてくるわ」
「シャンハーイ」
「ホラーイ」
「命令は紙に書いてあるから、私が帰ってくるまでに済ませといて」
「シャンハーイ!」
「ホラーイ!」
「よしっ、それじゃあ宜しくね」

 玄関に出て、アリスの背中を上海と二人で手を振って見送る。
 リボンとスカートの皺の無さから、今回はだいぶ気合が入っているのが私には解かった。
 完全に空にアリスの姿が消えて、私は手を下ろす。
 上海はまだ手を振っていた。
 ふんっ、馬鹿な奴。

「あー、ぶりっ子は疲れる〜……」

 人形だらけの部屋に戻り、私は息を吐いた。
 アリスの機嫌の良さから判断して、外出には魔理沙が絡んでいて、更に当分帰ってこないと推測される。
 ようやく、訪れた自由な時間に、私は大きく伸びをした。
 さぁて、何をして遊ぼうかな。

「シャンハーイ?」

 気にするな、と言ってあるのに、私の片割れの上海人形は、私が喋り出すと毎度心配そうにこちらを見つめる。
 私はまた、気にするな、と言ってから球体間接のコリをほぐして好きに動き始めた。

 私が喋れるようになっても喋らない理由は、ひとえに愛される為だ。
 ルビーの獣とか黄色い鼠は、舌足らずにグーとかチューとか言ってるから可愛いのである。
 あれがお前「サトシ、肉が食いたい」とか言い出したら、人気ガタ落ちだろ。
 まあ、自分にはガタ落ちするほどの土台もないとかいう……ほとんど美味しい所は上海が持っていくわけで。
 アリスも魔理沙も霊夢も、会うたびに上海ばかり構ってからに。
 あー、いやだ、いやだ。

 アリスの気配が無いのを、もう一度確認してから、私は目当ての漫画を取りに窓際の本棚に向って飛んだ。
 人形達のどれもが美術工芸品と呼ぶに相応しいレベルを誇っているが、ガラスケースに入るわけでもなく、剥き出しのままずらりと棚に並んでいる。
 グラスアイの青い群れは、そんな私を冷ややかに見つめ続けていて、勝手に動いている自分が咎められているようで、少しぞくっとした。

「あった、これこれ」

 読みかけの絵本を書棚から引っこ抜いて、テーブルに広げる。
 この辺だったかな、と当たりをつけて読んでたが、すぐに読んだ事がある場所だと気付いて舌打ちした。
 人形の私には、絵本でも映画並の迫力を味わえて有難いが、ページを捲るのにも立ち上がらないといけないのは、かなり不便である。
 人形サイズの絵本とか出ないかね。

「シャンハーイ」
「ん? どしたー?」
「シャンハーイ」
「おつかい? そんなの一人で行って来いよ。今、絵本がいいところなのだ」
「シャンハーイ……」
「五月蝿いなぁ、何で私を引っ張るんだよ、大人しくしてろよ」
「シャンハイ……シャン――」
「ああ、もう! 主張したい事は全部紙に纏めてから持って来い!」

 と、怒鳴ると、あやつめ律儀に紙に書いてきた。

「シャンハイ?」
「う、ううむ……殊勝な心がけである……宜しい」

 自分で言ったことは仕方がないので、読んでやる。

『   ホーライといっしょがスキ :シャンハイ   』

 上海の頭に拳骨一発下ろすと、上海はテーブルの端に後ずさって、両手で目を擦って人間が泣くような仕草を見せた。
 恐らくはアリスから覚えているのだろうが、悲しさを表現する人形なんてこいつくらいしか自分は知らない。
 人間に媚を売っているようで、どうも私はこれが気に入らなかった。
 アリスがまた、そういうのを誉めるから、上海も繰り返す。
 心中穏やかではない。

「へ、人気がある人形様は、泣き方も様になってようござんすね」

 読んでた絵本の登場人物の口調に合わせて、思い切り皮肉ってやった。
 そうすると、あいつが泣き真似を止めて、小首を傾げた。

「シャンハーイ?」
「え? ござんすは……ござんすだよ。えー、ございますって意味じゃない? ここで喋ってるようにさ」
「シャンハイ?」
「ほら、ここね」
「……」
「……理解したか?」
「シャンハイ!」

 いきなり耳元で叫ばれてしまい、耳がキーンとする。
 そんな私に目もくれず、上海は小さな手でペンに飛びつくと、新しいメモ用紙にペンを走らせた。

「シャンハイ」
「な、なんだよ、また読めっての?」

『   ホーライといっしょがスキ ござんす :シャンハイ   』

「イマイチ理解が足りてないなお前……」
「シャンハイ……」
「またそうやって泣く真似する、アリスがいない時は、そんなことすんなよ」

 いつからこんなに泣き虫になったんだっけなー、と考えていると、ああ、首吊りの時からだと思い出した。
 私が編み出した妙技「首吊り蓬莱人形」は、人形が首を吊るというシュールさから、大うけした技である。
 お茶会に集まった魔理沙とアリスの紅茶を盛大に噴出させ、飛距離8m75cmという脅威のレコードを残した。

 その芸の何を勘違いしたのか知らないが、上海だ。
 こいつが、めそめそと両手で目を擦り出したから、どうしたの上海? 泣いてるの上海? と折角の注目が上海に移ってしまった。
 人の芸を踏み台に、泣き真似で人気取りとは、甚だけしからん奴だと思う。
 まあ、その後に首吊りはスペルカードにまでされたし、結構な名物になることが出来た。
 これからも頑張って、上海と差別化を計っていきたいと、私は思う。

「シャンハイ?」
「上目遣いも却下だ、媚びるのは無しだ」
「……」
「もう、そういう顔するなよなー」

 正直、町へはあんまり行きたくなかった。
 しかし、このままだと目の前でさめざめと泣かれ続けて、自由を満喫するどころではない。
 どうしようかと思案していると、上海が私の袖を引っ張り出した。

「解ったって、待て、服着替えてから行くから」
「シャンハイ?」
「お前と一緒の服は嫌なんだよ」

 二人とも、今日は御揃いの紺色ワンピースに純白のハーフエプロンを付けた服を着ていた。
 造形も二人はそっくりだったから、服まで同じだとアリス以外には区別が付かない。
 自分に言わせて貰えば、私の方が知的な目をしているし、おでこも少し上海より広いし、爪の色もちょっとピンク。
 それなのに、上海かわいい〜、とか言って私に飛びつかれるのが日常だ。
 その後に続く、あ、間違えた、って台詞が、もう胸糞悪いったらありゃしない。

 窓とは反対側の位置にある、白いワードロープを開く。
 目にきついほどカラフルな世界が飛び込んできた。
 派手な色、地味な色、これだけ服を持っているのに、アリスは何故か着飾ろうとしない。
 精々、リボンを変えるくらいで、いつも水色の服を着ている。
 おめかししたいなら、この純白の三段フリルドレスなんてお勧めだが、普段のイメージと違う自分を出すのは恥ずかしいのだろうか。

 アリスの服の波に押しつぶされるようにして、ちんまい真っ赤な服が端に二着並んでいて、それが、私と上海の人形用の服だ。
 あの永遠の夜の日も、本来ならばこの私が真っ赤なドレスを着て、アリスと共に颯爽と夜空を駆け抜けるはずであった。
 ところが、出かける直前に、アリスの奴が気が迷っちゃったんだよ。

「魔理沙のマジックミサイルが青だから〜、んー、レーザーは上海の赤が見えやすいか?」

 なんて馬鹿げた理由を吐かれ呆然と立つ私を余所に、アリスは真っ赤なドレスの上海を肩に飛び立った。
 私は家に戻り、グランギニョルと一緒にダンボールの上でグリーングリーンを歌って泣いたよ。
 実力を評価して欲しいよな、なあ、グランギニョル。
 レーザーの出力なら、決してあいつに負けない自信があるのにな。

 イライラしてきたので、上海のことを考えるのは止める。
 長い付き合いだが、あまり良い思い出がない。
 上海より私の方がほんの少し早く生まれたのだから、あいつはもっと私を敬うべきである。

 ハンガーからドレスを降ろし、紺の服をすぽぽんと脱いだら、真っ赤なハイウエストドレスを身体に通して、頭と胸に赤いリボンをつけた。
 薔薇のように華麗に着飾ったら、ドレッサーの前で一回転。
 スカートが、フリルが、金色の髪が、ふわりと浮かび、さらりと落ちた。
 ふふん、私の方が可愛いぞ。
 どうだ、上海。

「シャンハーイ!」

 振り返った私の姿を捉えると、上海は両手を叩きペチペチと鳴る拍手を私に向けた。
 調子狂うなー、悔しそうな表情とかしてみろよ。
 アリスが教えてないのか、元々出来ないのか知らないが、いつも楽しそうにしてるよなこいつ。

 スタンディングオベーションを終えた上海は、キッチンへ向い、ダイニングテーブルにある横にある編み籠の中に、アリスの命令(すなわちお使いの詳細メモ)を入れて戻ってきた。
 それから、メモ用紙に、もう一つ何か書き上げると、また私の手に押し付けた。

『   赤いドレス とても にあってるホーライ :シャンハイ   』

 ふんっ、当たり前だ、言うまでもないことだろう。
 大体、口で言えよな、そういう事……あれ、何か矛盾してるな、私。

「ば、馬鹿っ、当たり前だ!」

 乱暴に一言返したら、籠を上海のテリトリーから奪い取って、顔を見せないようにして玄関に向った。
 力に任せてドアを開くと、からからというベルの音に続き、風に吹かれた春の花が舞い込んできた。

―――――

 アリスのメモの内容は、野菜の買出しだった。
 魔法の森の中には、シメジやマイタケなんてのはにょきにょき生えているのだが、人参や白菜が落ちている事は無い。
 そんなわけで、快適な食生活を送るには、町に出る必要があった。
 籠は面倒なので、上海に持たせてやった。

「だからー、私が腹痛を訴えなければ、あの夜に上海が活躍することもなかったのだよ」
「シャンハーイ?」
「だって、私のレーザーのほうが出力が強いからな。お前は私のスペアみたいなものさ」
「シャンハイ」

 信じるなよ。
 私が詐欺師でなくて良かったな。

 うんうんと頷く上海を連れて、私は森を出た。
 眼下に広がる草原を春風に乗って南へ下っていくと、大きな川が見えてくる。
 その川を越えて、更に南に下りていくと、そのうち石造りのアーチが見える。
 そこが町の入り口だ。

 幻想郷の中では、文化レベルが進んでいる場所だろう。
 妖怪達から積極的に技術を取り入れ、後先考えず前に進んできた結果である。
 何を作っているのか知らないが、町の東に並ぶたくさんの煙突からはもくもくと煙が上がっていた。

 上海と私は、アーチの上を飛び町に入り、そのまま中央通りに出た。
 両脇が市場になっていて、道を飛び交う売り口上が耳に煩い。
 この町の一番元気な部分で、人の波に立ち往生している荷車を、庇の上から猫が見下ろしていた。
 私達はその猫も見下ろして空を飛ぶ。

 人も町も急成長に浮かれ、誰も周りの環境の変化に目を向けていない。
 池の上を飛んでいたオニヤンマの姿はもう無いし、町の南を流れる川も掻き混ぜるとなかなか泡が消えてくれない。
 それが、人間の目にもはっきりとした形になるには、まだずっと時間がかかるだろう。
 そんな感じで、私がグラスアイに知性の炎を燃やしていると、いきなり上海が立ち止まった為に、奴の背中で強く鼻を打った。

「ふがっ!?」
「……シャンハイ?」
「おーい、上海〜!」

 肩を露出させたソバージュの髪の女が、上海に手を振っていた。
 開いた口から覗く、軽薄そうな黄色い歯に見覚えがあった。
 見覚えはあったけど、名前は出てこない。
 上海がその挨拶に応えている間に、下から挨拶の声がまた一つ上がった。
 上海はかかる挨拶に逐一四十五度のお辞儀を返すものだから、加速する挨拶にお辞儀が追いつかず、空中でぐるぐる回って歩みが止まってしまう。
 これだけあって、私にかかる声は一つも無かった。
 今日はドレスも違ったから、間違われて声がかかる事すらなかった。
 別に……いつものことだ。

 私は上海の袖をぐっと引っ張って、無理矢理に先を急いだ。
 物言わず上海を引き離す私に、ブーイングが飛ぶ。
 上海は、ばつが悪そうに下を向いていた。
 気に入らない。

 少し速度を上げ、十字路に差し掛かる頃には太陽が雲に隠れていた。
 挨拶の波も消えてくれて、私達は目的地に静かに降り立った。

 普段どおり、爺さんは日除けテントの下に大きな茣蓙を敷いて、野菜に囲まれて胡坐をかいていた。
 この人は住んでる里から野菜や花を集めて、週に二度、荷車でこの町に運んでくる。
 おかげで、こんな都会でも新鮮な野菜を買うことが出来た。
 もちろん、町でも結構な人気が――あれ、なんか、ずいぶん売れ残ってるな。

「シャンハーイ」
「お? おお、また来たか」

 齢六十は越えるだろうに、筋肉の塊みたいな半袖の爺さんが立ち上がる。
 上海を見つけると、にかっと歯を出して笑った。

「まぁた、お使いかー、えらいなー」
「シャンハーイ」

 上海が駆け寄る。
 爺さんが金色の頭を撫でる。
 私は、昔の私がそうだったように、三歩離れて無愛想に突っ立っていた。
 知恵が付いたからといって上海の真似をして、あいつの二番煎じになるのはゴメンだ。

 そっちの派手なのは? と爺さんが私を指差した。
 上海が慌てて、いつも一緒のホーライだよ、とフォローに入る。
 ああ、と納得して爺さん頷く。
 それきり触れられもしない。
 派手な服着ても、私の扱いは上海の影に変わりないようだ。
 つまらんね、と小石を空に蹴飛ばしていたら、上海はこちらを向いて、しきりに右目を擦りだした。
 別にお前に当ててないだろう。

「今日は曇りだからなぁ……」

 売れ残った野菜を見下ろしながら、爺さんがそんなことを言った。
 天気と野菜の売上にどんな関係があるのか解らなかったが、どうでも良かったので訊かなかった。

「ホラーイ(早くおつかい済ませて帰ろうぜ)」
「シャ、シャンハーイ」

 上海が籠からメモを取り出し、爺さんに近寄る。
 その途中、上海がぴたりと右を向いて止まった。
 またか、と思いながら、後ろから肩を叩いてやる。

「ホラーイ?(どうした?)」

 返事が無い、ただの人形のようだ。
 私がくだらないボケを心の中で唱えているときに、爺さんの方は日光と野菜の関係を雄弁に語っていた。
 上海は、熱心に立て札を見ているようだった。

『りんご五個で、ひとつおまけだよ』

「シャンハーイ、オマケぇ?」
「ホラーイ(おまけってのは、一つ余分にくれるってことだ)」
「シャンハーイ?」
「ホラーイ(タダだよ。もちろん)」

 上海はお財布と相談し始めた。
 比喩じゃなくて、シャンハイ、シャンハイ、と語りかけて銅貨の数を確かめている。
 メモの内容は、白菜一つ、人参二本、残ったお金で果物とあるが、値段的に林檎は三つまでしか買えない。
 簡単な計算なのに、上海はずいぶん唸り、頭を焦がしていた。

「シャンハイ……シャンハイ……ホーライ?」
「ホラーイ(私に相談されても無理だって)」
「シャンハイ?」
「ホラーイ(三つの金額で五つは買えないの)」
「シャンハイ?」
「だーかーらー無理っ――ホ、ホラーイ」

 思わず喉から出た声に、慌てて誤魔化しをいれる。
 爺さんは「俺が村の野菜トーク」に夢中で、こちらに気付いていなかった。
 ほっと胸を撫で下ろす。
 上海は私に頼むのを諦め、直接爺さんに向かい、交渉をし始めた。

「いやー、三つで五つとおまけってのは無理があるわー」
「シャンハーイ?」
「そら、上海は可愛いけどな、こっちも商売なもんで、あんま無茶も……」
「シャンハイ……」

 がっくりと項垂れる上海。
 爺さんは低く困った声を出して、しばらく上海オーラに耐えていたが、やはり耐え切れず上海をあやすように両手を振った。
 本当、こいつ、人間に媚売るの上手いよな。けっ。

「ただ言うわけにいかんから、良かったらリンゴ代の分、働いて稼いでみんか?」

―――――

「シャンハイ! シャンハイ!」
「はい、安いよ、安いよ」
「シャンハイ! シャンハイ!」
「はい、新鮮だよ、新鮮だよ」

 リンゴを報酬に露店に呼ばれた上海は、私の意見も聞かず、鉢巻を締めて張り切って売り子に立った。
 爺さんからハリセンのようなものを受け取ると、上海は茣蓙をびしばし叩きながら、いつもの人形語を張り上げた。
 人の流れに淀みが出来る。
 上海による客寄せの効果は一目瞭然だ。
 幻想郷で上海ほどファジーな態度を取れる人形はいない。
 目に留まるのは当然だろう。

 気に入らない。

 今日、何度その言葉を胸に思ったっけ?

 上海の活躍を、私は無表情で眺めていた。
 日影に咲くツツジなんて、この世界には存在しないようだった。
 お菓子に集る蟻だな……なんて呟いて、胸に走る痛みに目を瞑った。
 悔しくも、誇らしくもないはずだが、手はスカートをぎっと握り締めていた。

 やがて、爺さんが私を手招きした。
 爺さんは庇の影まで私を引っ張っていき、そこの荷車に積んであった、薔薇の山を茣蓙に降ろした。

「ハイカラや思って仕入れたんやけど、棘がちくちくして売れんのんや」

 軍手を脱ぎ捨てて、爺さんは言う。
 何を求められているのか、私は理解した。
 だけど、解らないフリをした。

「売り子は一人で十分じゃから、あんたは、これで棘抜いてくれんか?」

 爪切りのような小さな鉄の器具を渡される。
 こんなもので、あの山のような薔薇の棘を抜けと言うのか。
 やれ、ずいぶんと扱いに差があるじゃないか。

「野菜が売れるまで、ちょっと頼むわ」

 名前も呼んでくれなかった。
 爺さんは上海の所へ戻っていった。
 客は列を成して、爺さんの帰りを待っていた。
 だが、客の顔に不満そうなものは見られない。
 上海が途切れなく楽しませていたから。

 私は、山のようにある薔薇の花を一本手に取った。
 売れない真っ赤な薔薇は、着飾っても相手にされない自分のようだった。
 薔薇の刺抜きなんて、ドレスでめかしこんだ女の子がやることではない。
 憂鬱になる。
 私は何をしに町に来たのだろう。

 赤いドレスを身に通したときは、こんな気分とは程遠かった。
 町に入る前に、隅々までドレスをチェックしていたなんて、恥ずかしくて言えない。
 でも、少しは期待していた。
 上海のおまけじゃなくて、赤いドレスを着た私を見てくれる人を。
 上海じゃなくて、私の名を呼んでくれる人を。
 それは卑しい思いだったんだろうか。
 分をわきまえない望みだったんだろうか。
 みんなの注目を集めたかった赤い靴の少女は……最後にどうなったんだっけ?

 空は晴れていた。
 日光は一定の角度で、上海に当たっている。
 私は今日も日影という定位置に追いやられていた。
 当たり前のように自然に。
 仕方ないよな。
 同じ顔が二つあって、つまんない方に近寄る馬鹿はいないよな。
 あいつは最高傑作なんだから。
 私を元に、あいつが作られたんだから。
 私は、上海を誕生させる為の、試行錯誤の過程に過ぎない。
 あいつが、覚醒すればよかったのに……。

 何……考えてんだ……。

 駄目だと感じても、穴に嵌った思考は戻れなかった。
 無理に楽しいことを考えようとして、とっくに塞がっている胸の傷がまた痛んだ。
 実験で開けられた小さな穴の位置を、私はドレスの上から爪で掻いた。
 あの日のくだらない実験が、私を作った。
 こんな身体、欲しくなかったのに。

 あの実験で最も期待されていたのも、私ではなく上海だった。
 もっと言うならば、鈴蘭の毒を人形の身体に流し込む実験は、上海一人の為に行われたものだった。
 小さな針で胸に穴を開けるときも、鈴蘭畑に私たちを寝かせに行く時も、魔理沙もアリスも、上海の人の形にのみ注目していた。
 だから一日経って上海に何の変化も無かった時には、みんな肩を落としていたものだ。
 毒人形、メディスン・メランコリーは、やはり特異な例なのかと。

 期待に反して、私だけに変化があったのだけど、誰も気付いてくれなかった。
 与えられた命令と違う事をする頭と、上手く動かない身体でパニックになりながら、必死に空を掻き毟って助けを求めていた。
 でも、意識が無くなるまで、誰も来てくれなかった。
 みんな上海への質問に夢中だったから。
 自律人形に覚醒して、最初に覚えた感情が恐怖だなんて滑稽じゃないの。

 それから、どうやって帰ったのかは知らない。
 次に家で目を覚ましたら、私だけに知恵が付いていた。
 だけど、これは誇らしい事なんかじゃないって、考えたらすぐに解った。
 きっかけは鈴蘭の毒だけど、毒の器を用意していたのは自分だ。
 上海を妬むたびに、ずっと胸が痛かった。
 胸の中は、もうボロボロだったのだろう。
 心の毒で一杯だったのだろう。
 だから自分だけ毒で覚醒したんだ。
 ぼろぼろの胸の境が鈴蘭の毒で腐食して千切れ、一つの大きな穴になり、そこに心の毒が流れ込み心臓を作った。
 私は心の毒で出来た心臓で、本物の毒を身体に廻らせて動いている。
 それを、上海に期待しても無理な話だ……。

 追憶を止めて、私は影から日向の上海を見た。
 暗い暗い毒の沼から戻ってきた現実は、沼の中とさほど違いは無かった。
 薔薇の山の前に座る、真っ赤なドレスは、あの人達からはどんな風に見えているのだろう。
 全身が湿気たように重く、球体間接がきりっと音を立てた。
 上海は人々の笑顔に囲まれていた。
 私は茨を前にして座っている。

 思い出せば、知恵が付いてから嫌なものばかり見てきた。
 骨董品の値段がおかしいと指摘する私に、店のおじさんは顔をしかめた。
 痛んでる野菜を見つけ、これならもっと安いだろうと片言で交渉する私に、店員は嫌悪の顔を見せた。
 知恵で迫ればみんな逃げていくことを、やがて理解した。
 人間は人形に、自律や賢さなんて求めていないのだ。
 人間が求めているものは、人の嫌な部分を削ぎ落として理想を押し付けたモデル――上海のような、人間に従属的で純粋な形だった。

 絵本の人形が自律して動いても許されるのは、全て人間の想像の範囲内で収まるからだ。
 要するに絵本の中に、人間は人形の理想のモデルを投影している。
 都合よく人の為に動いてくれる人形、その枠を飛び出した人形はいらない。
 奴らは自動化が好きなだけ。
 無愛想で狡猾な人形は、自律するだけおこがましい。
 私なんてのは、せいぜい暖炉に頭から突っ込んで焼かれる役だ。
 毒に心を侵された人形なんて、絵本の中ですら存在を許されない。

(この悪魔っ……!)

 聞こえないはずの声がした。
 忘れようとしていた声が、生々しく耳に蘇った。
 酷い話だな、アリス。
 あんたが作った人形は、悪魔になったんだとよ。

 毒はもう喉元まで上っていた。
 苦しくて、息が詰まりそうで、狭くなった気道を開くため顎を上げた。
 いっそのこと、何もかもぶちまけてしまおうか。
 人語で思い切り叫んで、町の注目を集めてみようか。
 どうせ、どん底なんだ、マイナスになったってたかが知れてるだろ。
 少しは毒が晴れるかもしれないし、一人くらいは奇特な奴が悪魔を好きになってくれるかもしれない。

「……ホラーイ!!」

 それでも口を開くと、人形の言葉しか出なかった。
 日影の人形の奇妙な叫びに、人の波が一瞬だけ止まって、また動き出した。
 気が付くと、薔薇の棘が人口皮膚に刺さっていて、痛みの無いことに顔をしかめた。

 そうだ、棘を抜かなきゃ……。
 棘のせいなんだ、私の心に穴を開けた棘のせいなんだ、こんな奴ら、刺さる前に全部飛ばしてやるから。
 憎しみだけが、身体を動かした。
 何かのせいにしないと、壊れそうだった。
 私は細い爪切りのような物を持ち直すと、ぱちぱちっと勢い良く棘を飛ばしていった。
 何もかもが、気に入らない。
 上海が、人間が、日影でこんな事を考えている自分が気に入らない。
 本当は違うんだ、本当の私はもっと優しくて、妬む心なんて知らなくて、明るい太陽の下にいたはずなんだ。
 そうに違いないんだ。
 私は棘を飛ばし続けた。
 つるつるの薔薇の茎が、茣蓙の上に並んでいく。
 作れば作るほど、棘の無い薔薇は嘘っぽかった。

 何になるんだよこんなの……。
 棘がなくなった薔薇を愛でて、それで楽しいのか。
 棘があった方がずっと薔薇らしいじゃないの。
 ねぇ、誰か愛でてやってよ。
 綺麗だねって誉めてやってよ。
 誉めてくれたの……上海だけじゃないか……。

 しきりに目を擦りたくなった。
 分からない、だけど上海の真似はしたくなかった。
 耐えて俯いて鼻を啜って、作業に戻った。

 誰かの気配を感じて、手を止めて顔を上げた。
 いつからいたのか、上海が隣にいた。
 売り子は終わったのだろうか?
 上海は何も言わず、私の傍に座って薔薇の花を手に取った。
 そしたら、素手で薔薇の棘を抜き始めた。

「何だよ……」

 頭が混乱する。
 何が目的なのか分からない。
 お前はそんなことする必要がないだろ。
 刺抜きなんて、私にやらせておけばいいんだ。
 どうしたんだ、やめろよ、お前の手まで傷つくだろう。

「やめろってば」

 上海の肩を掴んで揺する。
 上海は、眉を下げて首を振った。
 そんな顔をしないでくれ、私は同情なんて欲しくないんだ。
 同情するくらいなら、放っておいてくれよ、その方が胸が痛くないんだ。
 頼むよ、上海。
 薔薇の棘抜きぐらい、私に残しといてくれよ。
 それは私の獲物なんだよ、それしかないんだよ……どけよ、帰れよ……!
 何で分からないんだよ……!
 お前には陽の当たる場所があるだろうが!

 私はまた殴った。
 上海は泣いた。
 泣く真似をした。
 迷子の子供を見つけたように、大人達が弱った顔を浮かべて上海を囲む。
 見えない涙で泣く人形は、蜃気楼のように曲がって見えた。

―――――

 思い出した。

 外面を着飾るよりも、心を大事にしなさい。
 年頃の少女に謙虚であれという無茶苦茶な教訓を残して、赤い靴の少女は散々苦しまされた上に、最後には足を斧で切られるのだ。
 あれで足を失くすなら、何の罪も無い上海を殴っている私は、首を切り落とされても文句は言えない。
 ガラス玉の目も、私が知らないだけで、とうに濁っているのだろうか。

 上海はすぐに泣き止んでくれたが、私が上海を叩いたことのざわめきが静かになるまでには、時間がかかった。
 人形も人形を殴るんだなぁ、と感心してるのもいれば、噛み付いた犬を危険視するような目を見せてる奴もいた。
 これだけ騒ぎになったのも、上海が人間に愛されているからだろう。
 その波もようやく引いた。

 立ち直った上海は、露店の爺さんから、約束の林檎を三つ貰ってきた。
 両手で抱えて、とことこ歩いて籠に向ったが、思い直したように私の方へと歩いてきた。
 赤く艶やかな林檎を、とても価値のある物のように私に見せて、話しかけた。

「ホーライの」
「?」
「ホーライの」

 人形語で喋ればいいのに、片言の人語で喋るから何が言いたいのか通じない。
 通じない事に不満を覚えたのか、上海は林檎をそっと地面に置くと、一つずつ指差してはっきりと言葉を繰り返した。

「ホーライの、ホーライの」

 ああ、自分だけが稼いだ林檎じゃないと、言いたかったのか。
 それにしたって、私に二個も分配するのは、やり過ぎじゃないかな。

「ホーライの」
「ホラーイ!(全部かよ!)」

 続けて、どむっと三つの林檎が籠に重ねられる。
 白菜、人参、そして林檎と、既にお使いに持たされた籠は飽和しており、新たに加わった三つの林檎達の居場所が無かった。
 上海は悩んで、何度も林檎を組み替えて、結局、ピラミッド上に籠から食み出た形で放置した。
 それが可笑しくて、私は唇を少しだけ曲げた。

「ホーライ、元気にナッタ?」
「え?」
「元気にナッタ?」

 意図が掴めなくて、困惑した。
 泣いていたのはお前で、泣かせたのが私じゃないか。
 点稼ぎじゃないのは解っている、こういう性格なんだろう。
 人形に性格を当て嵌めるのも可笑しいが、そうとしか言いようが無い。

 幾らでも、お前の相手をしてくれる人はいるだろうに……。
 ……冷たい私なんて見限って、暖かい場所に行けばいいのに。

 そう思ったら、また胸がちくりと痛んだ。
 上海があんまり不安そうに見つめてくるので、ああ、元気になったよ、と言っておいた。
 それでも視線を外してくれなかったので、自分から目を逸らした。

 上海は林檎が落ちないように、胸に籠を抱いた。
 爺さんが、気をつけてな、と言ったので上海と私で手を振った。
 ……私もちゃんと、気をつけて、の対象に入っているんだ。
 いらないことを考えて、塞ぎこむ必要は無い。

「ホラーイ(帰るぞ)」

 上海は籠を抱いたまま頷いた。
 私は家の方角を向いて、空に上がった。

 家に帰ろう。
 帰ったら人形達を相手に、私は空威張りしていればいい。
 鈴蘭の毒も、永久ってわけじゃないのだろう。
 少しずつ記憶が薄れていっているし、そのうち、何もかも忘れてしまうに違いない。
 それまで家で静かにしていよう。
 これ以上、心の毒を増やさないようにして、アリスの人形に戻ろう……。

 空は風が強かった。
 飛行に困るほどではないが、春風が花を散らしている。
 気温は暖かく、町を出ても散歩してる連中がちらほらと目立った。

 しばらく飛んでから、上海の姿が見えなくて振り返ると、奴は地面から3mほどの所を進んでいた。
 一杯の籠の重さが負担になっているのだろうか。
 背中の羽の動きも、いつもより早く見える。
 いじらしいやら、馬鹿らしいやら。
 食み出た林檎だけでも持ってやろうかと思ったが、それは上海の同情を真に受けて、林檎は自分の物だと主張してるみたいで止めた。
 貰った林檎は、やっぱり上海の物なのだ。
 私のなんて一つも無い。

 低い雲は町を過ぎて南に抜け、私達の空にはミルクを垂らしたような巻雲が見られた。
 日が暮れるまで、後は快晴だろうと思う。
 吹く風の音しか聞こえない空は、上海が生まれたばかりの頃を思い出させた。
 窓際に並んで座る四つの青い瞳を覗き込んで、アリスが夏の空みたいで綺麗ね、と言ってくれた。
 太陽も風も、思い出の中では今よりずっと綺麗に見えた。
 知恵が付いただけ、世界が淀んで見える。そんなはずはないのに。

「なあ、上海」
「シャンハーイ?」
「もう少し飛んでいようか?」
「シャンハイ」

 上海は林檎を落とさないように、ずっと籠を睨んでいた。
 下を向いたまま返事をするものだから、林檎と会話してるように見える。
 一応、返事は頂いたので、私の好きにさせてもらおう。
 上海の目線に高さまで降り、舵を右に切ってあいつを先導した。
 遠くに見える魔法の森と平行になるようにして、空を進む。

 さっきまで家に帰りたがっていたのに、正反対の行動を取る自分が良くわからない。
 今日は空が晴れてるから、ということにしておいた。
 空の青さが自分の毒を吸い取ってくれそうで、気持ちがいいのだ。
 人形に囲まれた陰鬱な部屋より、空を飛んでいる方が、よほどマシな世界に思える。
 気分なんて簡単に上下するものなのだな。

 魔法の森は、太陽を照り返し輝いていた。
 今は健康的で明るく見える外観も、中に入ってしまえば湿った暗い森だ。
 それでも太陽が当たる部分は大変張り切っており、緑と黄緑の葉はごちゃごちゃとした盛り上がりを見せる。
 外へと伸ばす腕は、我先に森から逃げようとしてるみたいに見えた。

 やがて、左手にあった森が切れた。
 地肌だけの道が現れ、森の向こう側を突っ切っている。
 魔法の森に対して直角に続く道は、森を迂回するために人間が作った長い道だ。
 道の向こうの斜面には菜の花畑が川のように続き、淡い黄色の眩しさに目がくらむ。

「あぁ……」

 思わず気の抜けた声が漏れた。
 道に沿う菜の花に見覚えがあると気付いて、短く舌打ちする。
 ここだったのか、何でまた来てしまったんだろう。
 悲しいのか、悔しいのか、胸が痛んだ。
 この場所は、私が迷子を連れて歩いた道だ。
 あの日、私が悪魔と呼ばれた場所だ。
 ここまで来ないと、気付けないなんて……どうかしてる……。

(この悪魔っ……!)

 あの日、私は迷子の子供を案内していただけだった。
 なにをしたわけでもないし、迷子の子供の方だって言葉が通じる者の出現を喜んでいた。
 私は子供と手を繋いで、話しをしながら里を目指していた。
 嬉しかったし、楽しかった。
 大人は駄目でも、子供なら私を愛してくれると自信さえ身に付けた。
 その途中、いきなり飛んできた石が、私の柔らかな額に当たって地面に落ちた。
 何だろうと思っていると、親とおぼしき人が走って来て、私を見ると悪魔と罵ってまた石を投げた。

 扱いは解らなくも無い。
 人形の自律を目指しているアリスは、神の摂理を改変し、人の尊厳を脅かす魔女だと一部で言われている。
 信心深い里の人の目には、まさに自律して動いている魔女の悪魔が見えたのだろう。
 石を投げる親の顔にも、悪意は無く、恐怖しか浮かんでいなかった。
 大人は仕方ないんだ。

 だけど……。

 私の手を離れ、母の下へ逃げていく子供にも、申し訳無さそうな表情は浮かんでいなかった。
 それどころか、あの子は、今までとんでもない化物に騙されていたという顔をしていたのだ。
 自分が友好だと思っていたものは、そんな俗っぽい価値観に一瞬で潰される程度のものなのだった。
 呟いた「逃げないで」という声は、たとえ届いていたとしても、白々しい悪魔の誘いにしか聞こえなかっただろう。

「最初に、ちゃんとコンニチハって言ったのになぁ……」

 私の挨拶なんて、呪詛みたいなものなのかな。
 溜め息と共に、関節の間から空気が漏れていく。
 代わりに重い毒が胸を支配し、飛んでいる高度が下がった。
 悪魔か、もう認めちゃうか、本気でそう思ったのは初めてかもしれない。

「シャンハイ?」
「……ああ、何でもないよ」

 本当に気分なんて簡単に上下する。
 怒りは無く、空しさばかりがこみ上げた。
 陽光に煌く美しい菜の花が、今は亡者の手のように見える。

「戻ろうか、上海」

 何とか平静を装って出した声だったが、上海の返事はなかった。
 また林檎に集中してるのかと思ったが、あいつの顔は菜の花の方へ向いていた。
 今度は、どうした。

「上海? 菜の花なんてこの季節、何処でだって見れるだろう?」

 上海は十分過ぎるほど菜の花を見てから、私に振り返って「シャンハイ」と返事をした。
 さすがに私も気になって、何が上海の目を引いたのか探してみた。
 紋白蝶が二匹、仲良く菜の花の上を飛んでいた。
 こいつ、菜の花に止まる紋白蝶を見ていたのか。
 どうにもお子様だなぁ。

「もういいか? 帰るぞ」

 今度は魔法の森を右手にするように向き直った。
 高度を元の位置まで上昇する。
 そこで違和感を感じた。
 吹く風に耳を澄ますと、なにやら柔らかい打撃音が混じって聞こえる。

 顔を上に向けた。
 空の高い所に、小天狗が三人飛び回っていた。
 三人は蹴鞠をして遊んでいるようだ。
 技術を度外視して速さを重視したその動きは、羽虫のように変則的で軽かった。
 天狗じゃなければ空で鞠を蹴るなんて、出来ない芸当だろう。
 その様子を見て、私は微笑ましいとは思わず、厄介だなと思った。

 昼間から動き回る妖怪には、一概に良い印象は無い。
 秩序という言葉を嫌い、好き勝手に遊んでいる連中が多数だからだ。
 あの若さで反体制というわけでもあるまいし、遊びたくて外に出た悪ガキなのだろう。
 悪ガキに人形を見せても、蹴鞠の球程度の扱いしか期待できない。
 早いところ、去ってしまわねば。

「上海、おい、上海ってば」

 今度も反応がよろしくない。
 上海は菜の花の群れを、未練がましく三度振り返って、ようやくまともに動き出した。
 それでも、今度は林檎を落とさないように集中するので、速度は遅い。
 この調子で戻ると、家に着くのは夕方前くらいになるだろうか。
 先にアリスが帰ってないといいけど……。

 天狗を刺激しないように、私達は静かに下を進んだ。
 向こうは蹴鞠に夢中で、私達に気付くことはなく、あっさりと通過を許した。
 ……って別に逃げる必要なんてないよな。
 堂々としてればいい場面で、トラブルの避け方ばかり考えているのは卑屈じゃないだろうか。
 しかし、それが間違ってるとも言えない。
 正しいと決めるにも、何かもやもやしたものが残る。
 何なんだ、この気持ち。

――突然、強烈な風の音がした。

 突風かと思って、身を固める。
 だけど、上から叩きつけるような突風なんてあるだろうか?
 様子がおかしいと気付いて、私は上を見た。

 空から亜音速で小天狗が降ってきていた。
 誰が蹴飛ばしたのか、その先に落ちてくる鞠の速度も尋常じゃない。
 受け損ねた鞠を追いかけているのか?
 鞠との距離は相当開いている。
 しかし、追いかける天狗の速度は、絶対に追いつくという意地だか見栄だかに支配されてた。
 無茶だ、無理ではないかもしれないが、ムキになりすぎじゃないか。

 その軌道に嫌な予感が走って、上海の方を見た。
 林檎を庇うのに夢中で、上が見えていない。
 もしかすると、当たるんじゃ……?

「上海っ!!」

 何が言いたいか纏まらず、とにかく警戒の声を上げた。
 しかし、上海は、突風注意と受け取ったのか、余計その場に身を固めた。
 天狗は空中で身を翻し、自慢するように進行方向に背中を向けたまま速度を上げる。
 鞠を蹴り返すために、万全の体制をキープしたようだ。
 馬鹿やろう……!

 上海は林檎を守ることに夢中だ。
 向こうも上海には背中を向けて、鞠の位置だけを目指して飛んでいる。
 お互いが見えていない。
 ここまでくれば、あの隕石の軌道が丁度上海にぶち当たるのが解った。
 上海が潰されてしまう!

「避けろ、馬鹿っ!!」

 叫んで駆け出した、しかし自分の瞬発力で間に合わないのは分かってた。
 だから、風を切りながら、右手にイメージを集中する。
 咒詛、蓬莱人形。
 アリスの助けがない分、一人でどれだけ出来るかは未知数だ。
 それでも、確実に私が飛ぶより早い。
 右手のイメージは直ぐに完成し、私の加速を上乗せした青いレーザーが上海目掛けて迸る。
 驚いて上海が顔を上げた。
 籠を持ったままの上海をレーザーが弾き飛ばす。
 衝突は回避できた、だが、最悪はここからで、当然その軌道に天狗が飛び込んでくる事になる。

「っ!?」

 天狗と鞠のレーザー通過は、ほぼ同時だった。
 背中越しに突っ込んで来た天狗は、小さく呻いて急ブレーキをかけた。
 出したレーザーは細く、殺傷能力は低かった。
 実際、天狗相手では、掠り傷にもなってないだろう。
 しかし、機嫌を損ねる分には、これ以上ない挑発になると予想された。

「んだよっ、これ!」

 案の定、遊びを邪魔された事を非常に怒って、周りに怒鳴ってくる。
 小天狗に見つかる前に、私は飛行を止めて草の上に座った。
 小天狗は、私を見て真っ赤なドレスに怯んだような顔を見せたが、それも一瞬の事だった。
 相手を睨みつけ、こめかみをひくひくと動かしてる様はまさにガキで、話して解りそうな雰囲気ではない。
 天狗と言えば山伏の格好を思い浮かべていたのだが、一本歯の高下駄はそうでも、服装は里の子供と変わらずだった。

 私は小天狗に睨まれたまま、上海の無事を探した。
 上海は森の入り口に尻餅をついていた。
 良かった、酷い外傷はないようだ。
 上海は何が起こったのか判別つかない感じで、私の方をぽかんと見ていた。
 応接ソファーに座るビスクドールが、突然、森に飛ばされたみたいな印象を受ける。
 籠の上に重ねて合った林檎が吹き飛んでいたが、それだけなのには驚いた。
 そこまで、しっかりと抱きとめていたのか。

 上海の根性に感心してると、小天狗が私に詰め寄ってきた。
 私は喋らず、無言で上海の方を指差す。
 小天狗は相変わらず凄んでいたが、私が指差したことで、意味不明な状況を理解しようとそれなりに頭を回していた。
 鞠と上海がほぼ同じ位置にいるのを見て、十秒ほどで合点がいったように舌打ちした。
 どうやら、見た目よりはお頭が弱くないらしい。

「当たりそうなら、避けろよ!」

 いや、頭は弱いらしい。
 連れの二人が、何だ何だと、空から降りてくる。
 降りてきた二人にも、悪ガキは天狗主観で話を進めていた。
 とろくさい奴のせいで、つまらんことに巻き込まれたと何度も繰り返していた。
 その間、他の二人が相槌ばかりだった事から、レーザーに巻き込まれた奴が、この面子のリーダー格だと窺える。

「でも、どうして人形が動いてるんだろ?」
「知るかよ」
「呪われてるんじゃないの?」

 失礼な言動だと思ったが、集まった三人の視線にやはり無言で首を振った。
 たぶん口を開けば、一斉に呪いだの悪魔だのと喚くだろう。
 小天狗が石を蹴り飛ばす。
 私の右腕に当たったが、無視を決め込んだ。

「こいつ、魔女の森の人形なんじゃね?」
「あれは動くらしいね」
「森の奥でこんなの研究してんのか?」
「やだやだ、陰気な魔女に呪いをかけられたら、ぞっとするよ」
「魔女なんて怖くねえよ」

 手前勝手言って、小天狗達は落ちた鞠を取りに、上海のほうへ歩いていく。

「こいつも動いてるぜ」
「うわ、気味悪ぃ……」

 上海は籠を持ったまま、不安そうに小天狗の顔を見上げていた。
 喋るなよ、上海。
 私は目で訴えながら、奴らが上海に手を出したらすぐに飛び出そうと、アリスの作ってくれた人形用の短剣を握った。
 リーダーが鞠を取りに行く、その時、足元に転がる林檎が爪先に当たった。

「シャ、シャンハイ……」

 馬鹿っ……!

「え!?」

 林檎を拾いに行った小天狗が、即座に振り返る。
 1オクターブ上がった声は、明らかに心の動揺を示していた。
 連れの二人も、一旦驚いてから、リーダーのあまりの変化に含み笑いをする。
 うるせえ! と怒鳴って、リーダーは二人を黙らせた。

 何も無いことを必死に願う。
 関節が軋むほど、後ろ手で強くナイフを握った。
 人間なら汗で、手の平に張り付いていただろう。

 動かない上海を、小天狗は一方的に睨みつけた。
 しかし、それ以上は埒が明かない。
 人形相手に本気になるのも、それとも、こんなとこで時間を潰すのは勿体無いと感じたか、天狗は鼻を鳴らすと上海から離れた。
 だが、その態度は強がりで、本音は動く人形に触れるのが怖かったらしい。
 奴は落ちている林檎に目を向けた。
 地面で潰れかけていた、足元の林檎。
 それを手に取って、今度は上海の目の前で、思い切り地面に叩きつけた。
 林檎が粉々にはじけ飛ぶ。
 今までの振る舞いで一番むかついて、もう少しで私は声を上げそうだった。
 小天狗はそれで満足してくれたのか、原形も無い林檎を残して、空に飛び去った。
 連れの二人も飛び去っていく。
 蹴鞠に戻るようだ。

「クソガキ……」

 十分距離をとってから、地面からゆっくりと起き上がる。
 頭に来るが、これで済んだのは、不幸中の幸いだと思うことにした。
 どちらにしろ、あの林檎を持って帰っても、アリスは口にしなかっただろう。

「上海、怪我は無いか?」

 遠くで上海がこくこくと頷く。
 てっきり泣き出すかと思ったが、気持ちは落ち着いているらしい。
 これで大丈夫なら、普段は何であんなに泣いているのだ。

「あいつら、普通に一本下駄履いてたな。あの、へんてこりんな靴は射命丸のお洒落か」

 悔しさを抑えて、私は上海に笑いかけた。
 しかし、上海はそれに応えず、地面に散らばった林檎を目で探していた。
 相手にされなかったことは不満だけど、林檎を吹き飛ばしたのも自分なので、少し後ろめたい気持ちがあった。
 一応自分も気になっていたので、上海が求める三つの林檎の行方を探しに、上海の方へ歩いて向う。
 割れて黄色い果肉を見せている一つ目の林檎に眉を顰めながら、林立する木の下に入った。

 二つ目の林檎はすぐに見付かった。
 表面が少し焦げていて、森の中で四つに割れて蟻が集っていた。
 だけど、三つ目の林檎は、少しくらい探しても見付からなかった。
 他の林檎の惨状を見るに、そいつも割れるなり潰れるなりしていて、どうせ話にならないだろう。
 だから、探すのは諦めた。
 諦めて戻っていたら、粉々になった新しい林檎を木の根に発見してしまい、見なきゃ良かったと後悔する。

「残念だけど、林檎、駄目だった」

 上海を納得させるため、壊れた林檎を一片持って帰って見せてやる。
 上海は蟻が這う林檎にも動ぜず、綺麗な青い目を、静かにこちらに向けていた。
 私が思ってるほど執着してなかったらしい。
 助かる。

「元々三つまでだったんだから、アリスだって怒ったりしないよ」

 泣かれたら面倒なので、出来るだけ優しく言い聞かせた。
 上海が頷いてくれなかったので、私は近付いて、上海の目線に屈みこんだ。
 青い瞳は陽光を集めて、アクアマリンのように輝いている。
 私と目が合った途端に、上海は両手で目を擦り始めた。

「お、おい?」

 急な変化だったので驚いたが、観察するといつもの泣き真似に違いなかった。

「なんだよ、どうした? 怪我でもしてたか?」

 答えずにしきりに目を擦っている。
 その様子に、私は肩を落とす。
 どうした事か、緊張が後になってはじけたのだろうか。
 これじゃ、また私が悪者に見えるじゃないか。

「林檎は仕方ないだろ。それとも身体にどっか破損があるのか?」

 上海は泣きながら首を振る。
 林檎でも、怪我でもないらしい。

「じゃあ、どうしたんだよ?」

 当たり前の質問にも、上海は答えない。
 それどころか、ちっとも泣き止む気配を見せない。
 いつもより酷いと感じ、ちょっと心配になってきた。

「ほら、瞳に傷が入るぞ……?」

 髪に手を入れて、頭皮を撫でてやる。
 泣く理由を訊き出す前に、落ち着いてもらわないと話も出来ない。
 こうすると上海は落ち着くはずなのだが、しばらく撫でてやっても上海に変化はなかった。

「どうしたんだよ……何がしたいんだよ?」

 声も上げず、無心で目を擦り続ける人形に、うそ寒さまで覚える。

「なぁ……ちょっと……」

 ちょっと、どうしたんだろう? 何て言えばいいんだろう?
 泣き止んでくれという以外に、私は言葉を持たなかった。
 何故、上海の涙に、私はこんなに焦ってしまうのだ。
 一体いつから、こんな気持ちになった……。
 こいつが、こんなに泣いたのは……。
 あの、首吊り以来だろうか……。

「泣けないんだよ、私達は」

 大した考えた台詞でもないのに、口に出すと心が痛かった。
 悲しみも嬉しさも理解できるのに、涙の形は人形には与えられていない。
 人間になれないピノキオなんて滑稽だ。
 だったら、真似なんて止めようよ。
 苦しいだけだから。

「涙なんて出ないんだよ」

 だけど、上海は泣き続けた。
 私の言葉なんてなかったように、機械の正確さで泣き真似を繰り返す。
 その態度に、強い意志が感じられた。
 命令の範囲外で、何がそこまで上海を動かしているのか。
 心が焦る、どんどん焦る。

「どんなに悲しくたって私達には無理なんだ……上海、やめて」

 最後は声がかすれた。
 それでも手は止まってくれない。
 頼むから、これ以上泣かないでくれ。
 お前が止まってくれないと、私は酷い言葉を口にしそうで怖いんだ。

「おかしいだろ……空しいだろ……そういうの嫌いなんだよ」

 焦りを通り越して、心が滑り出した。
 勢いだけの棘のある言葉が胸に氾濫し、外へ出ようとしている。

 どこまで人間の真似をする気だ。 
 どうして、そういうことばかりするんだ。
 いじらしいとか、愛らしいとか、そんなの、たくさんだろ。
 やめろよ、上海……いらないんだよ。
 人がいるところなら分かるけど、人がいない所でまで、見せびらかすのは止めてくれよ。
 私は、だから、私はお前が――。

「やめろっ!」

 私は上海の両手を必死になって掴んだ。
 無理やり涙を止めるのは、上海の尊厳を傷つけるみたいで嫌だった。
 だけど吐き気がする言葉が、もう止まらない所まで上がってきていた。
 どうしてもそれを口にしたくなかった。
 場の勢いでも、冗談でも、二度と口にしたくなかった。

 上海は抵抗を見せるかと思ったが、意外と素直に従ってくれた。
 激しい運動の後みたいに、息が整わない。
 私だけが、苦しそうにしてるのを、上海は黙って見つめていた。

「……お、落ち着いたか?」

 自分に似合わない台詞だった。
 状況的に上海が言うべき台詞だったかもしれない。
 上海の返事は無く、手を離すとまた泣かれそうな気がしたので、私は両手を握ったまま話を進めた。

「どうして泣いていたんだ?」

 上海は困ってるのを眉を下げて表現した。
 自分から言う気がないと見えて、一つずつ心当たりを問いただしていく。
 怪我、林檎、恐怖、問われること全てに上海は首を振った。
 後一つ、感づいた部分がある。
 それが最後の心当たりになっていた。

「気付いたんだけど……いつも私が近付いた時に、お前は泣き出すよな?」

 初めて上海は、質問に首を振らなかった。
 これで、泣いてる原因に、自分が関わっているということがはっきりした。
 殴る時も、馬鹿にするときも、必ず私が近くにいた。
 逆に私が遠い時は、どんな目にあっても、こいつが泣き真似を見せた事は無かった。
 私が原因なんだ。

 胸に黒い影が過ぎる。
 知恵が付いてから、私は己に内包している僻みや劣等感を、上海にぶつけ続けてきた。
 知恵が付く前にも、一つ取り返しのつかない言葉を吐いてしまった事がある。
 深い意味があったのか、姉妹喧嘩のつもりだったのか、今では分からない。
 とにかく、反論出来ないのを知っていて、覚えたての悪言を口にした。

 本当は、上海はとっくに私を見限っていて、アリスの命令だから仕方なく一緒にいるのではないか。
 すぐに手を上げる私が傍に来るのが嫌いで、泣くという形で抵抗しているのではないか。
 上海はもう……何も変わってないフリを続けてるだけなんじゃないか。
 小さな奇跡すら、もう壊れちゃってるんじゃないのか。
 私が壊しちゃったんじゃないのか。

 変わらぬ上海は、私の最後の拠り所に違いなかった。
 この次に返ってくる言葉は、私への最後の審判になるのだろうと覚悟した。

「なぁ……」

 そこで止まった。
 一気に口に出来なかった。
 虫のいい話だった。
 それでも、私を好きでいてくれなんて。

「私が怖くて……嫌いで泣いているのか……?」

 沈黙があった。
 上海の目を見てられなかった。
 優しさで否定されるのも、素直に肯定されるのも怖かった。
 絶望の崖っぷちに立たされて、他愛もない風に悲鳴を上げそうになった。
 頼むよ、早く言ってくれ。
 待ってるだけで、意識が飛びそうなんだ。
 だけど、幾ら待っても、何の声も無かった。
 針の筵で待つたびに、心の叫びが開いた穴から外に漏れそうな心配が募る。
 いよいよ我慢出来なくて、私は顔を上げた。

「……?」

 上海は私の予想に無い顔をしていた。
 ぽかんと口を開けて、命を乞うように震える私の頭を、何事かと見つめていた。
 呆然としたその顔には、戸惑いしか見られなかった。

「違う……のか……?」

 上海は大きく頷いた。

 違ったのか……。
 はは、違ったのか……。
 身体を支配していた緊張が、一気に安堵へと変わっていき、その勢いに息が詰まった。
 震えていたのが嘘のように、身体の皮膚は暑いとさえ感じさせた。
 太陽が出ている、眼下の名も知らぬ草の素朴さが、懐かしくて嬉しい。
 今まで自分は何処に立っていたんだろう。
 気が付くと右手が目を擦っていた。

「シャンハイ?」
「あ、あれ? い、いや……違うならいいんだ、変なこと訊いちゃったな」

 拭った右手を隠すように、後ろに回した。
 今のは何だ、意識とは別の動きだった。
 恥ずかしさに、頬が染まってるような気がして、少し俯き加減で話を進めた。
 話しが続けられるのは救いだった。

「それじゃあ、どうして、お前は私が傍にいる時に限って泣いていたんだよ?」

 もし、殴られるのは嫌だと言うなら、絶対に手を上げるのを止めよう。
 私の口の悪さに辟易していると言うなら、口数を少なくしたって抑えよう。
 とにかく、今はそういう気分だった。
 上海にお礼を言いたかった。
 頭上から聞こえる、悪ガキどもの笑い声すら、微笑ましく思えてきた。

「……」

 上海は口をもごもごと動かしていた。
 目の前の私が原因だから、言い難いんだろうか。

「怒らないよ。言ってみなって、すっきりするから」
「シャンハイが……いると……」

 もごもごとしてたのは、何故か、人語で話そうと努力していたかららしい。
 普段なら人形語で喋れと怒るところだが、気分が良かったので、私は上海に付き合ってやろうと思った。

「良し、上海がいると、だな?」

 こくりと頷く上海。

「それから?」
「ホーライが……ナイ……テルの?」

 蓬莱が……ナイテルの……?
 あ、蓬莱が泣いてるの、か。
 続けて読むと、上海がいると、蓬莱が泣いてるの?
 おいおい、意味が通らないぞ。
 主語を交代させるなら、解らなくもないが。

「文になってないよ上海。無理せず人形語使ったらどうだ?」
「人形コトバはダメ、大切なコトなの」
「どうして駄目?」
「ホーライといっしょがスキ」
「あー……あのさ、何で私が泣いてる事になってるんだ? 上海がだろ?」
「チガウ、ホーライがナイテルの」

 今度は疑問符の上がり調子じゃなくて、泣いてるのが確定してしまった。
 これは降参だということで、私は森に入り、小枝を一本折ってきた。

「これ使えよ、喋るより書くほうが得意だろ?」

 書くのも喋るのも私と一緒、と言いながら、上海に枝を渡す。
 上海は柔らかい地面を選んで、しゃがみ込み、そこに文字を書き始めた。

(れん)

 れん……?

(れんしゅうちゅう)

 草むらに転倒した。
 そんなこと、いちいち書くなよ。
 上海は思うままに練習した後、文字を手で消して、今度は片仮名が混じった、意味のある文を書き始めた。

(ホーライが、ずっとムネをいたがって、泣いてるの)

「え?」

 唐突な書き出しに、笑顔が凍った。
 たった一行だったが、それに胸を貫通された。
 例え、どこ、と書いてなくても、どこを痛がってるか自分が一番知っていた。
 今も、この文字を読んで痛みを訴えている。

「嘘言うなよ、私がいつ胸を痛がってたっていうんだ」

 精一杯の強がりだった。
 触れられたくなかった。
 毒の心臓が透けて見えてそうで、さり気なく下を見た。
 赤いリボンしか見えなかった。

「嘘じゃなきゃ勘違いだよ。私は泣いてないし、痛がってもいない」

 騙せるなんて思ってなかった。
 何でもいいから口にしておきたかった。
 アクアマリンの瞳は、一文書くたびに、土から目を離し、私を見上げる。
 上海は私が考えてたより、遥かに物事が見えているんじゃないか。
 私が隠してきた、心の裏側まで知ってるんじゃないか。
 上海の手がまた動く。

(ううん、首つりのときから、ホーライずっと泣いてる)

 とうとう、上海に心臓を握られた気がした。
 嘘だ……と言ってみたが、それ以上、何も出てこなかった。
 肯定したと取られても、私には弁解の言葉がない。
 私の首吊りが、親の目を引く自傷行為に過ぎないと、こいつは見抜いてたんだ。
 愛されない子供の悪あがきだと、上海にはばれていたんだ。
 だったら、何を言っても、意味がないじゃないか……。
 言葉を挟めぬまま、上海の手は動き続ける。
 前のを消して、次へ、次へ。

(シャンハイがそばに行くと、急にカオがくずれて、ホーライ泣きだすの)
(永いヨルに出るときも、シャンハイのおたんじょう日も、シンジュのようなナミダが土にハネてた)
(でも、だれもシンジテくれない)
(ホーライのなみだが、止まってくれない)
(かなしいよ、ホーライ)
(どうすればいいか分かってるのに、シャンハイはうごけないの)

 ……悲しいよ? 分かってる?
 予想だにしなかった言葉に、心が大きく揺れた。

(シャンハイは、シャンハイがホーライのシアワセをとってるって知ってるの)
(ごめんなさい、ホーライ)
(このままシャンハイがいると、ホーライがシアワセになれない)
(そんなの、とってもかなしいのに。うごけないの)

 馬鹿みたいだった……。
 こんな馬鹿なこと、すぐに否定してやりたった。
 お前は幸せなんて取ったりしてない、お前が悲しむ理由なんて、どこにもないんだ。
 そうやって、すぐに否定してやりたかった。
 だけど、声が出なかった。
 唇が張り付いて、ごめんなさいと呟くことも出来なかった。
 情けなくて、申し訳なくて、逃げ出しそうな心だけ抑えて突っ立って、上海の文字を、瞳に焼き付けるように眺めていた。
 上海は今までのを全て消した後、次は目一杯大きな字で書き始めた。

(シャンハイはわるい子です)

 消して、次へ。

(それでも、ホーライといっしょがスキ)

 消して、次へ。

(ごめんなさ――)

 最後まで書かせなかった。
 言葉がでないから、私は上海を抱き締めた。
 右手を上海の肩に、左手を上海の背中に回して。
 強く、強く。
 やめろよって、謝るなって、抱きしめて誤魔化した。
 言葉は頭の中に溢れるほどあるのに、一つも形にならずに消えていった。
 涙も出ない瞳を擦り続けて、私の為に泣いてくれていた人に、たくさん謝らないといけないのに。
 たくさん謝る言葉があるのに。
 ひどい事も言ったのに。
 ひどい事もしたのに。
 嫌われても仕方がなかったのに。
 日影で忘れられたツツジに、お前はずっと水をやろうとしてたのか。

「ごめんな……上海……」

 湧き上がる感情に、きつく目を瞑った。
 こうして抱き締めて、あいつの気持ちが良くわかった。
 泣き真似なんかじゃない、泣いてたんだ。
 本気でぼろぼろと。
 相手を思って泣いていた。
 涙の形なんていらなかった。
 そんなもの求めようとするから狂ってた。
 泣けぬ涙を流そうとしている理由を。
 上海の気持ちを、私が受け止めてやればよかっただけだ。
 もっと上手に。ずっと素直に。

「ごめん……な……」

 具体的に謝りたいのだけど、声が細くて、どうしようもなかった。
 何度も口を開いて、息を吐くだけ吐いて、また吸い込んだ。
 嗚咽なんだろうか、これが。
 溜めてきた涙の圧力に、目の玉がどうにかなりそうだった。
 上海の手が、私の背中を優しく叩いた。
 もう、我慢が出来なかった。
 声を上げて泣いた。
 歌でも言葉でもない、心の振動を口にして。
 上海の顔の隣で、私は思い切り泣いた。
 ごめんな、上海。
 今まで、ごめんな。
 お前は何も悪くないよ。
 最悪を恐れて逃げて来た、私が悪いんだ。
 やり方は幾らでもあったのに、失敗から逃げることばかり考えていた。
 逃げて、陰口叩いて、擦り付けて誰かのせいにして、いつもそんな事してたら、心だって腐っちゃうよな。
 お前は悪くないよ、お前が悪だっていうなら、神様だってどぶに沈んじまう。
 私だってお前と一緒にいたいんだ、それでどれだけ救われてきたかなんて分からない。

 鬱積した感情が剥がれていく。
 目を閉じていたが、私にも涙のきらめきが見えた。
 落ちていく毒の色は緑でも紫でもなく、純粋な透明色だった。

 あんなに一緒だったのに。
 こんなに愛されていたのに。
 それに背を向けて、一人だ一人だと、傷ついていたなんて笑ってしまう。
 孤独や寂しさなんて、ちょっと心を開けば存在しなくなるのだろう。
 愛ってのは受け取るものでも、勝ち取るものでもなく、感じるものなんだ。

 泣いて、謝って、泣いて、謝ってを、私は繰り返した。
 その間、上海は頷いたり首を振ったり、忙しそうにしていた。
 その度に、上海の髪が頬にあたり、くすぐったかった。

 泣き疲れるまで泣いて、目を開くと、涙は見えなくなっていた。
 私は抱き締めていた上海から、身体を離す。
 散々、泣き顔を晒していたのだと思うと、やはり恥ずかしかった。
 上海は右手を伸ばし、私の目の下を、人差し指でそっと撫でた。

「お……?」

 頬に濡れた感触はなかった。
 拭う涙なんて、存在しなかったのだけど。
 上海は涙を拭いてくれて、それが心地よかった。
 人形として差を見せられても、もう劣等感は沸いてこなかった。
 私が前で、上海が後だから、そんな言い訳は、ここできっぱり止めるのだ。
 泣くことも、涙を拭うことも、生まれながらに上海が持っていたわけじゃない。

「よしっ……!」

 口だけじゃなくて、ここで形にしてやろう。
 私は空を見上げ、まだ奴らがいることを確認した。

「ホーライ?」
「ん?」
「元気にナッター?」
「ちょっとだけな。あ、ここから楽していいぞ」

 楽の意味が分からなかったのか、上海は頷くも首を振るも出来ず突っ立っていた。
 ややあって、上海は言葉と共に頷いた。

「シャンハーイ」
「うん」

 頷いてやる。
 その方が似合ってると。
 上海が戻っても、私はまだ人語で喋っていた。
 私はこの毒が回ってるうちに、やるべき事がある。
 まだ、上海に示すべきものがある。

「シャンハイ?」
「胸の痛みか? 上海が見ての通り、今は大丈夫だよ」
「シャンハイ!」
「いやいや、こんなのは見かけだけでね。このまま何もしなかったら、また戻っちまう」

 私は空を見上げた。
 上海も空を見上げた。
 あれから、どのくらい時間が経っていたのか。
 上海の命を脅かし、林檎を壊した小天狗達は、悪びれることなく、まだ青い空で遊んでいた。

「私さ、本当は悔しくてしょうがないんだ」
「シャンハイ?」
「壊れた林檎だよ。せっかく、上海と一緒に頑張ったのになぁ?」
「シャンハーイ……」
「上海は悪くない。私が林檎だけでも持ってやれば良かったのだけど……あ、その前に寄り道しなきゃ良かったのかな?」

 笑って続ける。

「よそうか、言い出したら切りが無いや。それより、悔しいのはその後だ」
「シャンハイ」
「林檎を三つも台無しにされて、相棒にまで危険が及んだのに、最悪ばかり考えて私は一歩も動けなかった」
「シャンハイ……」
「違う。私が泣いていたのは、いつも、一人きりの自分が情けなかったからだよ」

 一息置いた。
 今までの自分と決別するように、一字一句はっきりと喋った。

「お前に人が取られるからでも、お前がどんくさいからでもない」

 口に出した言葉は、胸にスゥと入っていった。
 この台詞を、私が受け入れてくれたのだ。
 もう、思い悩むことはない。

「で、一番、悪い奴が謝ってないだろう?」

 空に人差し指を向ける。
 頷きはしなかったが、上海にも誰を指したか解ったはずだ。

 懐の武器を確かめる。
 アリスが作ってくれた、折りたたみ式の魔法の短剣。
 軽量化し、特別な魔法をかけたもので、限界まで伸ばせば人形にはちょいとした片手剣ぐらいの大きさになる。
 アリスの魔力が通ってないと、なまくら以下の鈍器だが。
 今の自分にはこれしかない。

「あ、物騒な事はしないぞ、ただ人語での話し合い」

 その割には、私の行動は合ってなかった。
 上海も、訝しげに、こちらを睨んでいる。

「場合によっては、こじれるかも知れないけどね」

 言い訳というか、開き直って前を向く。
 本当にこじらせたくはなかったが、上海が信じてくれたかどうか、分からなかった。
 もし、上海が嫌がるなら止めようと考えていたが、そういう言葉も無かった。

「上海は籠を守っていてくれ、私に何があっても手は出さないでくれよ」

 上海が頷いてくれない、迷っているんだろうか。
 青い目と青い目が交差する。
 どちらも退かなかった。
 私は待った。
 上海も待っていた。
 納得できる言葉を。

「大丈夫、私は幸せになるんだ」

 それで、上海は頷いた。
 私は、ありがとう、と言って上海の頭を撫でた。
 自分の意地で始まった話に、上海を巻き込みたくはなかった。

「心配すんなって、上手くやってやるさ」

 この身体で、最大限の努力をしてやろう。
 言葉も、知恵も、卑屈になる必要はないんだ。
 悪魔でも呪いでも、言いたい奴は好きに言えばいい。
 相棒が泣いていた、私にこれ以上の戦う理由はない。

「それじゃ、落とした林檎、取り戻してくるよ」

 羽をゆっくりと加速させていく。
 小さな風が、上海の前髪を散らして、白い額を覗かせた。
 羽音が大きくなって、振動が身体に伝わってきて、そうしたら宙に浮いて、後は何も考えずに小天狗に向っていた。

 上海。
 ……お前が流した涙の、清算を済ませてくる。

 

 

 

 

■作者からのメッセージ

読んでいただき有難うございました。
後編に続きます。

5/19 誤字修正。ご指摘有難うございました!



後編
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2006年5月19日 はむすた

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