迷いの竹林

 

 

 

 夜を駆ける。
 ずっと、ずっと前から走り続けている気がする。時間の感覚が失せて久しい。
 パンプスが功を奏したのか、校内のマラソンに匹敵する距離を走破したであろうことは想像に難くない。周囲が闇に覆われ、見覚えのない風景、代わり映えのしない景色も相まって、もうここがどこなのかと考えるのも億劫だ。ただ走るしかない。後ろから追いかけてくる「何か」を振り切るまで、この身を賭して前進しなければならない。
 死。
 普段は全くといっていいほど意識しない概念が、闇と、焦燥と、夢の触覚に包まれて、より明確に輪郭を帯びる。肌にへばりつく汗が気持ち悪い。靴の中には草だか枝だか判らないものが入り込み、地面を蹴るたびに痛みとも痒さともいえない不快感に苛まれる。
「なんでこんなことに……!」
 愚痴るだけの余裕は、辛うじてまだ残されていた。
 始まりは、いつものように唐突で。
 陽が落ちた後の竹林に立ち尽くし、目的もなく、あちらこちらを歩き回った。けれども視界は悪いから、どこに何があるのか詳しく解るはずもない。そも、見渡しても一面の竹林、たまに背の低い筍らしきものが見えるばかりで、人影も民家もありはしない。
 入口も出口も見当たらない、出来損ないの迷路に佇み、途方に暮れる。それでも歩くしかないというのが悲しいところだった。
 そして。
「ふふ」
 笑い声。
 即座に振り返り、声を発した何者かの存在を確かめようとする。けれども、私の視界には目立った人影は存在しなかった。獣の姿も、それ以外の「何か」の姿も同様に。
 気のせいではないと悟りながら、声を無視して歩き出す。
 笑い声はその一度きりで、けれどもどうしたって耳から離れない。苦笑というか、嘲笑というか、決して哄笑や大愉快そうなものでもなく、しかし不気味だった。
 笑い声から逃げるように、足を早める。「何か」がいることは確かなのに、目にも耳にも捉えられない。第六感でも作用したのかと、まぶたの上から自分の眼に触れてみる。
 そこに、私のものではない足音。
 地面に落ちた竹の枝を踏む音に重なる、もうひとつの足音。
 確かに聞こえた。そう判断すると同時、私は脇目も振らずに駆け出して、その
「何か」を必死に振り切ろうとした。
 どこまで走れば終わるのか、いつになれば相手は諦めてくれるのか。仮に私が崖から落ちれば、敵は私を見捨てて立ち去ってくれるのだろうか。けれど別に死にたいわけでもないので、その案は棄却する。
 以前に見てきたように、ここの住民は空を飛べるけれど、私はそうじゃない。
 獣でも妖でもなく、遅々とした速度で地面を駆けるしか術のない生き物なんだ。
「きゃ……!?」
 何かに躓き、つんのめる。速度を落とし切れず、目の前の竹に肩をぶつける。倒れこそしなかったが、うずくまりそうになるほどの痛みが肩から全身を駆け巡った。
 追い着かれる。
 ふとした瞬間に、絶望が脳裏をよぎる。激痛を堪えて走り出す間際、咄嗟に後ろを振り向く。すぐにまた視線を前に戻して、化け物のような竹林の中を掻き分けながら進む。
 紅い瞳が迫っている。
 威嚇か警告か、いずれにしても恐怖を誘うものには違いない。不思議と、以前は死という感覚に乏しかった。だが今は、明らかに私を捕まえようと、状況によっては害を成そうとする意図が感じられる。絶対に捕まってはいけない。あれは、獣の目だ。目的のためなら手段を選ばず、そしてその手段を持っている類の存在である。
「はッ、は……!」
 自分でも、これだけ走れるのが意外だった。てっきり、小さな頃より身体は弱っていると思っていたのに。
 残念ながら、満天の星を見る余裕はなかった。あんなに綺麗だったのに、蓮子と違って、あの星は私に何も与えてくれない。進むべき道も、今いる場所さえも。
 気付いたことは、この竹林には若干傾斜が付いているということだった。ただ、登っているのか降りているのか、距離感と平衡感覚が失われた今となっては判断できない。あるいはバイオリズムのような凹凸が交互に続いていて、降り続けているわけでも登り続けているわけでもないのかもしれない。
 答えはない。答えられない疑問を解消するより、今は走らなくては。でも。
「――、――ぁ」
 呼気が漏れる。足が止まる。急な減速であるはずなのに、不思議と身体は当たり前のように慣性を殺してくれた。
 目の前に広がる鬱蒼とした闇が、突如として紅い光に染められる。竹林の造形が目に映り、天の果てまで高く伸びているかに見えた竹にも、一応の頂上があることを知る。
 次いで、久しぶりに夜空を見た。紅く光る竹林に煽られて、空もまた紅い。
「はッ、はぁ……、ん、あ」
 息苦しい。呼吸が荒い。極限まで速まった動悸は、自分が如何に無茶な走りをしていたのかを物語っている。気を抜けば、場所も時間も状況も、何も関係なしに卒倒してしまいそう。下唇を噛み、意識の手綱をしっかりと握り締める。
 後ろから、足音が聞こえる。咄嗟に振り向き、足音の主を確認する。
 そういえば、笑い声に追い立てられていたはずなのに、足音も何も聞こえなかった。あまりの極限状況に我を失っていたのか、それとも別の要因があるのか――。
「……鼠?」
 それが第一印象。
 距離があるせいか、相手の姿はよく見えない。でなくても、相手の輪郭が酷くぼやけていて、それが人なのか獣なのかの判別も難しい。闇夜に燦然と光るふたつの眼だけが、正面にふたつ、私を射抜くように睨み付けている。もしかしたら、兎の類かもしれない。
 でも。
「ひゃッ!?」
 人の言葉を話す犬だとか猫だとか、どこの世界にも出没するものだけど。
 鼠や兎は、果たしてどうだろう。聞き間違いかもしれないけど、私はそれが人の声であるように思えた。恐怖に滲んで、震えた女の子の悲鳴。たじろいだように見えたその影は、私でなく、その向こうにある「何か」に怯えているようだった。
「……、ッんく」
 溜まった唾を飲み込み、ゆっくりと、竹林に視線を戻す。

 ルビジウムの赤紫。

 それは女の子だった。
 紅く光る少女、という言い方はあまり正しくない。正確には、紅く燃えている少女、と言うべきか。文字通り、身体から炎を上げている。かといって、火事の巻き添えを喰ったとか、焼身自殺の最中だとか、そういう一般的な事態でもない。
 手から、足から、背中から。
 女の子は、己の内にある業を吐き出すかのように、炎を吐き出していた。
 轟々と、周囲の竹を巻き込んでパチパチと音を立て、夜の闇を火の紅で染め返そうと、少女の輪郭を際立たせながら燃え盛っている。
 彼女は、こちらを見ていない。偶然、私たちが現れたから、姿を隠す暇もなかったようだ。でも、見付かっても全く動じない。落ち着き払っている。彼女が放つ火の粉と対照的に、彼女自身は酷く冷静である。それがかえって恐ろしく感じられた。
 三竦み。誰も動けない。動こうとしない。ただ、炎だけが禍々しく躍動している。
 気だるげに、彼女が左腕を持ち上げた。
「……ひッ!」
 それだけの動作で、紅い眼をした獣は恐れをなし、悲鳴を残して慌しく逃げていく。あっさりとしたものだった。相変わらず、足音も何も聞こえなかったが、よく考えれば飛んでいたのかもしれない。
 結局、持ち上げた左腕はすぐに下ろされ、彼女が履いているもんぺの中に滑り込む。一体、彼女は何を見ているのだろう。そう思い、視線の先を追おうとした。
 でも、できなかった。
 彼女の眼を見てしまったから。
「紅い……」
 ぞッとする。
 吸血鬼とも、獣のそれとも違う。人間が持つ類の眼じゃない。それを言ったら、私も蓮子も同じようなものだけれど、状況を把握するだけの眼と違い、彼女の瞳はもっと強い。吸血鬼だって獣にしたって、初めから瞳は紅いのだ。でも、彼女は本当にそうだったのか。生まれた時は黒かったのに、いつからか紅くなった。何かがあったから紅くなった。何もなければ紅くはなかった。瞳が紅くなるほどの何かを経て、今の彼女がある。
 炎より、太陽よりも紅く輝く眼差しを得て。
 あんなに激しく燃えているのに、その表情はとても冷たい。
 彼女の側から一歩も動けない私もまた、背中に冷たいものがへばり付いて離れない。
「……!」
 彼女が動く。
 私になど興味はないとそっぽを向き、猫背になった姿勢で竹林の中を歩いていく。徐々に、その身体から炎が失せ、やがて煙の匂いだけを残して完全に消滅する。同時に、女の子の姿も消えた。
 安堵も、落胆も、感涙も憤怒もない。何の感情も湧き起こらない、というのが正直な気持ちだった。汗はびっしょり掻いているが、冷や汗なのか脂汗なのか、それともただ単に熱いだけなのか、いまいちはっきりとしない。
 追われることも、逃げ惑うことも無くなったのに、私はまだこの場から離れられずにいた。動こうと思えば動くのだが、やり残したことがある気がする。この世界で何も成していないのにやり残しも何もあったもんじゃないけど、でも何か物足りない。
「ん……」
 何気なく、あの女の子が見ていたものを確かめてみる。
 炎が消え、灯りになるものは無くなったが、目が順応してきたこともあり、どこに何があるかくらいは判別できる。流石に、走れば周りの景色は見辛いし、足元に転がっているのが小石なのか筍なのか判別できない程度には真っ暗だけれど。
 見える。
 死臭がする。
「う……」
 鼻を押さえようか、口を押さえようか、迷う。
 私も二十年かそこら生きているから、誰かの葬式に出席したことはある。棺に入った誰かのために手を合わせ、祈りを捧げたことも一度や二度ではない。火葬場まで共に往き、火葬場に送られる一部始終を見守った。外に出て、無骨な煙突から噴き出る白煙には、今まで生きていた者の魂が宿っているだろうかと考えた。うっすらと漂う煙は天に昇り、やがて青い空に紛れて見えなくなった。
 どうせなら、欠けらも残さず焼き尽くしてくれればいいのに。
 故人の輪郭を記した白骨を見るたび、目を背けたくなった。
「……、なんで」
 でも今は、じっと骨を眺めていられる。私は、骨になる前の故人を知らない。何も知らないのに、骨になっているから、死んでいるから、と感傷に浸るのは気が早い。彼(あるいは彼女)は何故死んだのか、あの女の子が殺したのか、でなければ、何故あの女の子は死体を荼毘に付していたのか。その疑問が先に立つ。
 人の形に並べられた骨は理路整然とし過ぎていて、あまりに3Dじみている。本物か偽物か、今は熱くて近付けないが、鉄バサミで摘まめば少しは参考になるかもしれない。納骨の際に拾い上げた骨と、ここにある骨が同じ重さかは判らないけれど。
 もしかしたら。
 彼女は、骨すら残さず焼き尽くすつもりだったのかもしれない。私たちに邪魔されたから、骨が残った状態でこの場を後にしたのかもしれない。だとすれば、彼女はまたここに戻ってくる可能性が高い。
 でも、会ってどうする。
 人か妖かも曖昧な、炎の化身と対峙して。生きて帰れる保証はあるのか。
「……妖怪なら、会ったことあるもの」
 呟き、己を鼓舞する。その声は、情けないくらい震えていた。
 私を追っていた紅い瞳の獣、炎を纏う少女。そのどちらも、かつて出会った妖たちと一線を画していた。この場所が、あの世界と地続きになっているかは解らないけれど、たったひとつの選択肢が生と死を分けることになるかもしれない。
 誰のものとも知れない人骨を前に、しばらく呆然と立ち尽くす。
 皮と、肉と、骨を焼いた際に発生する独特の臭気が、辺りに漂っている。気持ち悪い。現実味のない情景が、徐々に現実として身体の中に染み込んでいく。目の前にあるものを理解せず、これは夢なんだと受け入れることを拒否し続ければ、ここに留まることもできたかもしれない。
 死。
「死……、ぬ?」
 死。死ぬのか、私が。
 薄ら寒いけれど、遠い先の話だと思っていた。誰かの死を思うたび、誰かの死を突きつけられるたび、自分の死について考えた。けれども、常に死を思いながら生きているわけじゃない。死を避けながら生きているのでも、生きようとして生きているわけでもない。大抵は、生も、死も、自覚しないまま生きている。そんなものだ。
 退く。
 私は、目の前にある死から逃げることを決めた。
 妖怪が怖い。夜が怖い。
 そして、今は死が怖い。
「……薄情者」
 自分に対する罵倒を刻み、骨に向かって黙祷を捧げる。合わせた手のひらはじんわりと汗を掻き、こめかみから垂れる汗の雫も、頬を伝って地面に落ちる前に蒸発してしまいそうだった。
 ちょうど一分。
 まぶたを開けても、景色は何も変わらない。踵を返し、獣が去った方角、女の子が去った方角を避け、再び竹林を掻き分ける。今一度、薄暗闇の中に舞い戻ろうとも、死の匂いしかない場所にいつまでも留まっていられなかった。
 臆病者だ。私は。
 現実とも向き合えない、夢と現の区別も付けられない――付けようともしない、ちっぽけな生き物なのだ。
 聞かれもしない言い訳ばかり生み出しながら、私は額の汗を拭う。この暑さが続く限りは、焼却炉の熱を思い返さずにはいられない。憂鬱だった。けれども、足を止めている余裕もなく、私はひたすら道なき道を歩き続けた。

 †

 そして私は途方に暮れる。
「……迷った」
 当たり前だバカ。蓮子じゃないんだから、誰だってそうなるに決まってる。
 でもしょうがないじゃない、夢の終わらせ方なんて解らないのだから、とにかく闇雲に歩き回るしかない。千里の道も一歩から――は、使い方が間違っている気もする。
「月があっちだから……、こっちが北。かな?」
 自信がない。というより、方角を知ってどうなる問題でもなかった。辛うじて、焔の少女がいた場所に帰れるかもしれないといったところか。戻ったとしても、失いこそすれ、得るものは何もないだろうけど。
 立ち止まり、腕組みをして空を仰ぐ。首に角度を付けすぎて、肩が軋んだ。
「はぁ……、綺麗だわ。ほんと」
 遥か遠い星の瞬きが、あまりにも自分と無関係に輝いているから、他人事のように見下ろさないでと恨む気にもなれない。こういうとき、本当に蓮子がいてくれたら、どんなにか心強いだろう。月を見て今いる場所を、星を見て今の時間を正確に把握する、そんな目を持った彼女がいてくれたら。
 ふと、無いものねだりをする子どものように、駄々を捏ねてみたくなる。でもそれは少しみっともないから、せめて、八つ当たりのひとつでも蓮子にぶつけてやろうと。
 そう思っていた。
「動かないで」
 決して柔らかくはない指先が、私の後頭部に突きつけられるまでは。

 †

 手を上げろ、と言われたわけでもないのに、両手を肩より高く上げる。
 抵抗する意志はない。戦っても、敵うわけはないと知っている。突きつけられたのが只の指でも、相手には私を殺す意志が、その力がある。
「手こずらせてくれたわね」
 かすかに苛立ちが含まれた声色は、女の子のそれだった。やや高く、ともすれば耳に残るような調子でも、低く押さえ込めばそれなりに重く響く。台詞から察するに、彼女が私を追いかけていた獣なのか。声も指先も人に似て、おそらく感情も同じく備わっている彼女を、獣と呼ぶべきか、妖と呼ぶべきか。考える。
「ここは、私たちの縄張り。貴方のような存在が立ち入れる場所じゃない」
 そうは言われても、開始地点が縄張りの中なのだから仕方ない。文句なら私の頭の中に言ってほしい、それも私だけど。
「何もしないと約束するなら、解放してもいいわ」
「……何もしないわ。約束する。でも、それ以前に、何もできないわよ」
 振り返らず、努めて冷静に、相手を刺激しないように述懐する。
 彼女の指先は動かない。警戒はまだ解けていないらしい。本来なら、私の方が警戒しなければならない立場なのに、どこか、お互いの認識に捻れがある気がする。
「……嘘。何もできないはずはない。貴方がただの人間なら、私は貴方をすぐに捕まえられたはずよ」
 何かがある、と殊更に強調する。そんなこと言われても、事実私は何もできていない。帰る道筋もわからないし、追っ手を振りほどくこともできなかった。
 膠着状態が続く。何か命令するならすればいいのに、彼女は私を警戒してか何も行動を起こさない。あるいは、これを好機として相手を出し抜くことも可能だろう。が、私はそれほど弁が立つわけでもなく。
 さっき目の当たりにしてしまった、露骨な死の影が。
 私の足に、少なからず絡み付いて離れようとしない。
「わかったわ」
 耳鳴りがするような沈黙を越え、彼女は指を離した。
「ゆっくり、振り返って。こっちを見て」
 ようやく指示を出される。赤い瞳を思い返し、唾を飲み下す。お互いの距離は近い。拒否する権限もないから、ただ、言われるがままに振り返る。ゆっくりと、激しく脈打つ心臓を掴みながら。
 私は赤い眼を見る。
「……」
 睨み合う。
 相手の衣装に関して、特に驚くべきことはない。ブレザーもミニスカートもよくあるもので、たとえ兎の耳を付けていたって、何も驚くに値しない。こちらを睨み返している赤い瞳が強すぎて、それ以外の何にも感慨を抱けなかった。
 指先を伸ばしても、ぎりぎり届きはしない位置関係。彼女は握り拳を作り、凛とした眼差しをもって私を視界に閉じ込めている。充血しているのとも違う、生まれつきの赤眼。焔の少女とも異なる、資質として持ち合わせた能力。異能。
 もしかすれば、彼女にとってそれは異能でも何でもなくて。
 手足を動かすのと同様、一般的な動作の延長に過ぎないのかもしれないけれど。
「……あ、あれ?」
 急に、視界が傾く。身体が直立の姿勢を保てなくなり、地面に手を付いた。それでも腕だけでは身体を支えられず、頬が地面に付き、うつ伏せの状態になる。いきなり重力の掛かる方向が変わったとでもいうように、私は立ち上がれなくなってしまった。
「むぐぐぅ……」
 地面に手を突いても、空気を押すが如く全く手応えが感じられない。
 相手の足元しか見えない現状では、表情を窺うこともままならない。私がうんうん呻いていると、彼女は中腰になり、私と視線を合わせた。
「なるほど、ね」
 若干、安堵したような様子で、彼女は呟く。
 すると、あれだけ浅かった地面の手応えが蘇り、ようやく顔と土とを引き剥がすことに成功した。土くさい。髪もだいぶ汚れてしまった、今更だけど。
「今のあなたでは、私たちの脅威にはならないわね。安心した」
「……何が何だか」
 ほっぺたについた土を払いながら、悪態を吐く。「ごめんなさいね」とは言うものの、細かく説明することはない。あからさまな悪意は感じられなくなったから、ひとまずはよしとするべきか。
「大方、お医者様目当てに永遠亭まで来ようと思った口だろうけど。護衛無しなら、運が悪ければ死ぬわよ。まあ、肝心の護衛があれだけ燃え盛っていれば、ひとりで行きたくなる気持ちも解らなくはないけどね」
「はあ」
 勝手にぺらぺらと喋り始める。この世界のことをほとんど何も知らない身分としては、彼女の言っていることの半分も理解できていないのだが、彼女は私の空返事に納得して、話が通じたと判断したようだった。意思疎通って難しい。
「道案内は、私の仕事じゃないんだけど。事のついでだし、下手に死人が出て目を付けられるのも厄介だし。案内するわ、永遠亭に」
 踵を返し、再び竹林の奥に踏み込もうとする。永遠亭、という場所がどういった建物か不明だが、私の目的地でないことは明らかだった。かといって、どこが目的地なのかも判然としないわけだが、これ以上流れに呑まれて現在位置を見失うことは避けたい。
「や、あの、できれば帰りたいかなー、なんて」
「……帰る?」
 振り返り、赤い瞳を細める。その奥にある鈍い光を覗き込もうとすると、また平衡感覚を失って地面に這いつくばりかねないから、悟られない程度に目を伏せる。彼女は、みずから目線をずらして、「どこに帰るのよ」と呟いた。
 難しい質問である。できれば、そこを突っ込まれたくはなかったのだが、突っ込まれても仕方のない流れではあった。腹を括り、顔を上げる。
「えー、と、ここではないどこかと言いますか……、私の世界と言いますか。夢じゃなくて、現実の世界がありまして、一応そこの住民なもんですから、わたし」
 しどろもどろ、必死に解説する私に向かって、彼女は可哀想なものを見るような目でこちらを見ている。こめかみを押さえているあたり、一応は頑張って理解しようとしてくれているのだと思いたい。
「……確かに、お医者様にかかる必要があるようね」
 すごくバカにされた。
「大丈夫。とにかく大丈夫だから、帰ります」
「そうね。うちのお師匠様も、流石にそういう病は治せないでしょうから」
「だから違うってば」
「はいはい」
 ヒラヒラと手を振る。ええい。
 私の舌がもうちょっと上手く回っていたら、こんなにも虚仮にされなかったかもしれないのに。でも結局は、実践してみせなければ確認できないことなのだ。この夢は、私が覚めれば全て終わる。夢は夢として、このまま旅を続けるとしても、夢の中における私の旅は一旦終了。
 夢のゴールテープを切るまで、あとどれくらいかかるだろう。その在り処も、その形もまだ解っていないというのに。
「貴方が人間かどうか解らないけど、ともあれ人里に帰す。それでいいわね?」
 かなり投げやりな口調だが、言いたいことはよく解った。人里という単語は非常に解りやすくて良い。えもいわれぬ安心感がある。私は即座に頷き、また別の方角に足を向ける彼女の後に続く。
 遠く、何かの雄叫びが木霊する。狼の類だろうか。ただ、あの少女を目の当たりにした今は、咆哮だけを耳にしても不思議と恐れを感じない。窓の内側から遠雷を聞き、山中に落ちる稲妻を眺めるように。
「新入りよ。だから危険だって言ったの」
「はあ」
 迷いもせず、一直線に竹林を突き進みながら、脚注が必要な話題を振ってくる。生返事でも何でも返ってくればそれで満足なのか、彼女は話を続ける。
「外の連中はお約束を知らないから困るのよ。すぐに喧嘩を吹っかけてくるし、人も妖もお構いなし。それで被害が出ればこっちの監督不行き届きだの、傍迷惑ったらありゃしない」
「大変ね」
「それが解ってるなら道に迷わないで欲しかったわ」
 無茶を言う。
 足早に前進する彼女を見失わないよう、やや小走りに歩みを進める。その後も彼女は私には理解が及ばないことを喋り続けていたが、私の相槌のパターンが底を尽きかけてきたところでようやく、その舌が止まる。ついでに足も止まる。
 気が付けば、獣の遠吠えは止み、周囲には静寂が立ち込めている。私たちの足音、息遣いさえなければ、完全に物音ひとつしないであろう竹林の中で、彼女はわざとらしく舌を打った。
「やられた」
 身構える。
 次いで、何だか解らないまま、私も体勢を低く留めて。

 咆哮。

 近い。目と鼻の先だ。
「……ッぅ!」
 耳をつんざく雄叫びに、耳を押さえても頭の中に痺れが走る。雷鳴の比じゃない、狼、それもかなり大きな。開幕を告げる遠吠えが収まると、低く籠もった唸り声が震動となって胸を打ちつける。それに伴い、心臓の鼓動も瞬く間に速くなる。姿が見えないうちにこれだ、もし姿を現したら、きっと指のひとつも動かせなくなるに違いない。
 戦慄する。
「新入りが」
 けれど彼女は、怯む様子もなく平気で悪態を吐く。握り拳を拳銃の形に変え、人差し指を地面に突きつける。余った手のひらは手首を掴み、それきり微動だにしない。
「動かないで」
 先程よりも、若干柔らかい口調でそう言い残して。
 人の形をした獣は、私の視界から完全に消失した。
「――え」
 出すまいと思っていた声が漏れ、同刻。
 ――がぉん、と、爆音が轟く。
 一回、二回、数え切れたのは十回まで、その後は大小入り乱れて着弾し爆発していたから、いちいち計測するのも面倒くさい。
 爆風が身体を傾ける。足を踏ん張っても、続けざまに鳴り響く咆哮を浴びて足がもつれる。今日だけで、一体何度土の味を噛み締めなければいけないのか。ミミズじゃあるまいし。
「動くなって言われても……!」
 無茶苦茶だ。素人に何をしろという。逃げ惑うことも許されないなら、それは死ねと言っているようなものだ。残念だが、私はそんなに素直な方じゃない。
 弾丸は目には見えず、竹に地面に激突しては弾ける音と、残骸だけが散らばっている。間近に迫る鳴き声に空を仰げば、あたかも月を噛み砕くように、巨大な銀狼が首を上向けて仰け反っている。
 ――おぉぉぉん、と、酷く哀しい鳴き声が響く。
 圧倒され、一歩も動けない私の目と鼻の先に、狼の足が突き刺さる。私のウェストくらいある太さの脚だ、もし一歩ずれていたら、と思うと冷や汗も掻くが、眼前の事実を現実として認識する作業が追い着かない。ぽかんと開いた口でさえ、早く閉じなきゃ、と思いながらも、それを実行に移すことまでには至らない。
 死が遠い。
 こんなにも近いのに、死ぬという感覚が芽生えない。
 あの骨を前にした時は、あんなにも死を近く感じたのに。どうして、今は。
「……あ」
 遅い。
 考え事をしていたから、狼の脚が既に引き抜かれていたこと、黄金の眼がこちらを凝視していたことに、全く気が付かなかった。何とはなしに天を仰いで、狼と目が合い、「こんばんは」と間の抜けた挨拶をしそうになる。
 四肢だけでも、私の身の丈をゆうに越える。首は更に高く、顎から垂れる涎も、何も知らなければ雨と錯覚したかもしれない。
「何してんのよ!」
 切迫した声は、聞き取りにくいけれど確かに彼女のものだった。でも私は、その黄金に魅入られて全く動けない。狼がその口を開き、牙を剥き出しにして、こちらに轟然と迫ってきても。
 食べられる、という意識に乏しい。ああ、なるほど、別に狼は、私を殺そうとしているわけじゃないんだ。ただ単に、食料として私を摂取しようとしているから、殺意も敵意も何も感じず、恐怖も何も感じられず。
 死――。
「どけ」
 襟を掴まれ、後方に放り投げられる。
 数メートルは余裕で吹っ飛び、受け身も取れないまま頭やら肩やら背中やらを打ちつける。ごろごろと転げ回り、何が何だか解らず地面に這いつくばり、痛みを無視して半ば反射的に顔を上げた。
 そこに立ち、狼と対峙しているのは、いつかの少女。
 白の髪の毛と、白銀の毛並み。黄金の眼と紅の瞳。対比しようと思えば、要素はいくらでも挙げられた。狼の鼻先、口の周りが土に塗れているところを見ると、私に喰らい付けなかった勢いを殺し切れず、そのまま地面に突っ込んだらしい。気のせいかもしれないが、表情にも若干の憤りが見て取れる。
 周囲の状況をある程度把握したら、今度は身体が痛み始める。動けないほどでもないが、あまり動きたくはない。この状況下で、わがままを言っていられる余裕がどれだけあるか、だが。
「あんた……!」
 こちらは、血相を変えて私の胸倉を掴みにかかる。兎の耳を垂れ下げた彼女である。名前はまだ知らない。足音は消しているのに、大声を発するあたりよほど腹に据えかねているご様子。
「ふざけんじゃないわよ……! あんたは死にたいのかもしれないけど、巻き添え喰うのはこっちなんだから!」
 襟首を引き寄せ、怒りに紅潮した顔を近付ける。ともすれば、噛み付かれそうなほどの距離で、生の感情が浴びせかけられ、不意に言葉を失う。
「ぁ……、ぅ」
 出てくるのは、呻き声のようなか細い息ばかり。口をぱくぱくと開閉し、搾り出すように「ごめん」と呟くことができた頃には、兎の激情も徐々に萎み始めていた。
 襟首を解放し、焔の少女に視線を戻す。私も何とか地面に肘を突き、もんぺの中に両手を突っ込み、斜に構えて佇んでいる少女の背中を見やる。
「動くなよ」
 少女が呟く。決して大きくはないけれど、いつまでも耳に残る穏やかな調子で。
 兎は少し後退り、私は相変わらず指先ひとつ動かせない。狼がやおら口を開け、見せ付けるように犬歯を露にする。焔の少女はそれに呼応して、抜き放った指にロウソクのような火を灯し、その火種をピンと弾いて虚空に溶かす。
 どちらともなく笑みを作り、少女は炎を、銀狼は牙を構える。
 そして私は、いつかの火葬場を想起する。
「動くと死ぬよ」
 着火。
 両手を抜き、生み出した炎を地面に叩き付ける。土が弾け飛び、周囲は土煙が立ち込め、一瞬にして何も見えなくなる。吹き飛ばされた小石が私の額を打ち、まるで私の頭が空っぽだと言わんばかりに軽い音を立てた。
「いたッ」
 間抜けな声が漏れて直後、狼が咆える。たちどころに空気を震わす波動が、瞬く間に土煙を吹き飛ばす。再び、竹林は見通しのよい暗闇に舞い戻り、上空から狼を狙っていた白髪の少女を浮き彫りにする。
 飛んでいる、というのでもない。顔の前で両腕を交差し、その指先に挟めた御札を叩きつけんと、狼の頭上に降りている。重力に任せて。無論、それを座して待ち構える狼ではない。顎を開き、隙あらば喰いつこうと牙を剥く。
「あぶな――」
 い、と最後まで口にはできない。口を開くと、喉が焼けそうなくらいの、灼熱。
 指に挟んだ護符は燃え盛り、振り下ろした両腕は巨大な炎の剣を象る。狼は怯み、突き出した鼻先を少女から背けた。剣はやむなく地面を刺し、何の罪もない大地と雑草を焼き払う。
 ふッ、と炎が消え、束の間の光も失せ、暗順応に至るまでのわずか一瞬。
 少女は狼の四隅に御札を貼り、我を取り戻した狼に対し、わかりやすく柏手をひとつ打ち鳴らした。
 ――ぱん!
 獣の悲鳴が轟く。極光が狼を包む。狼は光の陣形から何とか逃れようとするものの、脚を動かそうとするたびに骨は軋み、頭を振ろうとするたびに首が軋んだ。
 結界。
 世界と世界を隔てる壁の概念は、大小にかかわらずありとあらゆる場面に登場する。危険なものを閉じ込めるため、大事なものを護るため、行き来を禁ずるため。そして今は、狼の身動きを封じるために結界が働いている。
 完全に確保された狼を前に、少女は髪に結んである御札を何枚かほどく。更に結界を強固なものにするのか、それともとどめを刺そうとしているのか。危険なものは排除する。素人の私には、どうするのが最善なのかはわからない。襲われたら、逃げるか戦うかの選択肢を突きつけられる前に逃げ出している。あるいは、それ以前に凍りついて動けなくなるかもしれない。であれば、敵に襲われても敢然と立ち向かい、勝利を収めた者がどういった行動に出たとしても、私が口出しする権利などどこにもないのだ。
 だ、が。
「……やだ」
 唇からは、否定の言葉が漏れた。明確な死のイメージが、白骨の形を模して背中に這い寄る。私の声が届いたせいか知らないが、少女が半歩後ろに下がる。狼の様子は今までと何も変わっていない、ように見える。あの、兎か鼠かわからない女の子はどこにいるだろう。すぐ隣かもしれないし、もう側にはいないかもしれない。眼前の光景から目を背けられないから、たとえ私の背中を誰かが狙っていたとしても、きっと気付けはしないだろう。
 狼の表情に苦悶が走る。食い縛っていた歯牙がおもむろに離れる。
 だが、それは戦いの終わりを告げるものではなかった。押さえつけられた首を空に向け、四肢をしっかと大地に縫いつけて。
 金の眼が輝きを増す。
 突如として、鈴の音にも似た咆哮が鳴る。頭の中に乾いた音。狼がこんなにも澄んだ声を発するわけはないというのに、その声は私の耳にはっきりと響いた。
 次いで、大地を揺るがす絶叫が。
「ッ、ぁ……!」
 頭が、割れる。うるさい。黙れと叫びたくなる。耳を押さえ、頭を抱えてもまだ足りない。今度は私が歯を食い縛り、落ちそうになる意識を必死で留める。
 ふと、怒りのやりどころを求めるように、絶叫を放った主を見咎める。
 狼を取り囲んでいた白光は、絶叫に呼応し、その形を歪めていた。空気の振動、あるいはそれ以上の何かに耐え切れず、光が凍りつき、ひび割れる。
「やるねえ」
 焔の少女が苦笑した瞬間、結界は粉々に砕け散った。はらはらと、粉雪のように舞い落ちる白い光の粒の中に、三度向き合う人の形と獣の輪郭。幻想的で、殺伐としていて、現実味に欠けた光景。
 でも。
 この頭痛も、汚れた服も、鳴りやまない胸の鼓動も、全部が全部、今この瞬間に自分を襲っている現実なのだと。
「鳳凰」
 少女が呟く。
 人の形が、炎の翼を生やす。肩甲骨のあたりから、いつか見た妖精のように、吸血鬼のように、空を飛ぶための翼なのか、人から逸脱した証であるための翼なのかは判らないけれど。
 銀狼が大地を蹴り、少女は高く舞い上がる。急制動を掛け、その際に跳ね上げた土がまたも私に降りかかる。ぽかんと空いた口の中に、乾き切った土が入りこんで、むせた。
「けほッ……!」
 涙ながらに、戦場を確認する。狼は、その標的を焔の少女に移して、私など目に入っていない様子である。上空から散発的に炎を撒き散らす少女は、狼を牽制しながら少しずつ私から遠ざかる。狼も彼女に追随し、竹を足がかりにして上空に駆け上がる。金の眼が光れば、頭の中に鈴の音が鳴り、直後に響き渡る絶叫は、頭蓋骨を粉砕しかねないほどの破壊力を持っていた。
「い、つッ……!」
 耳を塞いでも浸透する声に、対処する術など始めから持っていなかった。ただひたすら耐えるのみである。あの少女は、私より間近で狼の絶叫を喰らっているはずなのに、耳を塞ぐ様子も頭を押さえる仕草も見せない。高揚しすぎているのか、それとも耳など聞こえなくても戦えると思っているのか。
 痛みに慣れすぎて、そんな瑣末なことはどうでもいいと悟っているのか。
「火の鳥」
 天高く舞い上がった狼と、炎の翼を纏った少女が交錯する。
 灼熱の炎に巻かれ、狼は悲鳴とも雄叫びとも言いがたい叫びを上げる。少女もまた、狼の爪を身体のどこかに受け、翼の形を留め切れなくなり、墜落の一途を辿る。
 逃げることも助けることもできず、戦場から、自分の弱さから目を背けたくなる。そんな自分が唯一できることは、この戦いを目に焼き付けることなのだと、言い訳じみたものにすがりつき、私は立ち尽くしていた。
 もう、熱さも何も感じない。そのかわり、冷たいとも思わなかった。
 少女は、地面に叩き付けられる間際に何とか体勢を整え、決して絶妙とはいえない姿勢で着地する。よくはわからないが、どこかの骨が折れたのではないかと思う。彼女は、やっぱり痛みなど微塵も感じていないような顔をしているけれど。
 狼は空中で咆哮し、その身を焼く炎を振り払う。耳をつんざく絶叫に耳を塞ぎ忘れ、ふっ、と意識が遠ざかる。
「……、あ」
 白みかけた意識を取り戻すと、既に彼女たちの姿はない。すると、忘れていた熱さを思い出す。背中を這う悪寒を思い出す。
 少女の姿も、狼の輪郭も、私よりずっと遠い場所にあった。戦闘を続けている音は聞こえるが、視界に収められるのは夜の空を紅く染める炎の色だけだ。
 地面には、狼が駆け抜けた巨大な足音と、結界の四隅を担い、既に効力を失った御札が残されていた。何とはなしに、目に留まった一枚を拾い上げる。熱い。けれど、触れないほどでもない。
「……逃がして、くれた?」
 状況を鑑みるに、そう捉えた方が自然だ。後は、私がどう動くか。今はもう使い道のない御札を握り締め、膝を奮い立たせて立ち上がる。まだ膝は震え、頭の中にも狼の鳴き声が反響している。気を抜けば立ち眩みに襲われ、ちょっと押されただけでも簡単に倒れてしまいそう。
 でも。
「行かなきゃ」
 どこに。少女のところへ、それも考えた。人里に、それも選択肢のひとつだ。最後には、自分の家に帰る。どんなに昏く、見通しの効かない世界でも、帰る場所が残されているのは救いである。
 前進する意志はあっても、迷いが背中にへばりついて離れない。この期に及んで、とブレザー姿の少女には怒られそうだけれど。
 そういえば、あの女の子は一体どこにいるんだろう。
「何してるのよ」
「きゃッ!?」
 びっくりした。
 心配するまでもなく、彼女は近くにいた。私の真後ろ、それこそ初めて遭遇した時のように、後頭部を撃ち抜けるような際どさで。
 自分でも驚くほど高い悲鳴を上げてしまい、頭がきーんとする。痛む額を押さえていると、再び背中から声がかかる。
「あいつが隙を作ってるうちに、離脱するわよ。それが最優先。悔しいけど、私じゃ狼を撃退できないから、……ここはあいつに任せる」
 振り向けば、苦虫を噛み潰したような表情で、獣の耳を生やした女の子が立っている。腰に手を当て、瞳は私より遥か遠くの戦場を見据えているようにも見えた。
「……でも」
「私はあいつほどお人好しじゃないの。それに、あんたたちほど死にたがりでもない」
 躊躇いの文句を告げると、彼女はさっさと歩き始める。戦いの音はまだ鳴りやまない。わざとらしく足音を立てる彼女の苛立ちが、選択肢を突きつけられた私を焦らせる。
 結局、私は差し出された道標にすがりついて、彼女の後に続いた。
「……別に、死にたがりなわけじゃ」
 小さく、抵抗の声を上げても、彼女は何も答えない。
 でも、今もこうして私を案内してくれるあたり、彼女も相当のお人好しだろうと思った。多分、彼女は頑として認めないだろうが。
 次第に、戦場の喧騒が遠くなる。後ろ髪を惹かれるように振り返っても、あのむせ返るような熱も、目が眩むような黄金の瞳も、砂を噛むような土の味も、今はもう全てが遠い過去のように感じられる。戦場に帰りたいか、と言われれば、素直には頷けない。あそこには死が満ちていた。メディアが盛んに訴える死でも、既に動かなくなった知人を前にして感じる死でもない、ナマモノの死だ。
 何も語らないまま、歩き続けるのは辛い。何でもいいから言葉が欲しい。
「ねえ」
 問いかける。彼女は答えず、しかし私は言葉を続けた。
「あの子、ひとりで大丈夫かしら」
 答えない。
「あんまり、死にたがりにも見えなかったから」
 足音は続く。目が闇に慣れ、視界の先を歩く少女の輪郭が朧気にも解りかけてきた。
「燃やしてたのよ、あの子。多分、死体を」
 どうしてかしら、と続けた言葉にも返事はない。彼女からの返答はほとんど諦めていたので、さほど気にせず喋りたいように喋る。ちょうど、初めて彼女に連れられて歩いた時と、逆の立場で。
「こっちだと、火葬が一般的なのかな。それとも土葬? 鳥葬、水葬、宇宙葬、……は、あんまり流行ってないかもしれないけど」
 言葉にすれば、葬式の話題も淡々と語ることができる。それは終わった死で、道端に転がっている白骨でも、今まさに息絶えようとしているニンゲンの死でもないから。
「……死にたくないな」
 ぽつり、と呟いて。
 彼女が足を止めたので、私もつられて立ち止まった。伏せがちになっていた顔を持ち上げると、いつの間にか、視界の前に竹林は存在していなかった。雑木林と空き地と、手入れのされていない田畑と、遠くに見えるのは川だろうか。辛うじて、橋があるのも判る。民家は見当たらないが、橋の向こうにぽつりぽつりとある光は、それらしき人家を想起させた。
 振り返り、鬱蒼とそびえる竹林を見やる。奥を覗いてもただただ薄暗い空間が広がるばかりで、目印になるようなものは何ひとつない。よくこんな中を迷わずに歩いてこれたものだと、腕組みをしているらしい少女を見て感心する。
「着いたわ」
 一言、それだけを告げる。
 確かに人里には違いないが、これで案内したことになるのかどうか。かなり怪しい。何も無ければ、ちゃんと民家のあるあたりまで連れて行ってくれたのかもしれないが、状況が状況だ。しかも私のせいでかなり苛々しているみたいだから、あまり無理を言っても仕方がない。
「ここから道なりに歩けば、人里もそう遠くないわ。夜だけど、今は妖怪もあまり出ないでしょう。あいつらが過度に妖気をばら撒いてくれてるから、暇潰しに人間を襲うような下級妖怪は、怯えて棲み処から出て来ないと思う」
「解ったわ」
 本当はあんまりよく解っていなかったが、安全であることは把握した。
 始終、張り詰めていた耳が垂れ、振り向いた彼女の顔はかなり落ち着いていた。お礼を言うなら今しかないと思い、私は素直に頭を下げた。なんやかんやで、彼女も危険な目に遭った。その全てが私のせいでないにしても、私と関わらなければ避けられた事態だったのも確かである。
「ありがとう。さんざん迷惑かけちゃったのに、最後まで付き合ってくれて」
「本当よ」
 呆れ混じりに本音を述べる。こう言うと失礼かもしれないけれど、彼女には疲れた顔がよく似合う。
「結局、あの狼は」
「新入り。いつの間にか現れて、お約束も知らずに暴れてるあんたより迷惑な輩」
 比較のされ方が嫌すぎる。
 しかし、皮肉を言うにもこちらの顔を見てくれるあたり、若干余裕を取り戻してはいるようだ。
「誰だって、死にたくはないもの」
 ぽつり、と呟いて、彼女は踵を返す。何故、今その返事をしたのか。考えても仕方のないことだけれど、少しだけ悩んだ。
 向いている方角は人里だが、きっと私と別れたらすぐに姿を消すに違いない。背中を見せたくないとか、追いかけられるのが嫌だとか、そういうことは関係なしに、彼女は自分の姿を消すだろう。
 そう思った。
「じゃあね」
 簡単な別れの挨拶だけ告げて、消え去ろうとする。
「あ、待って!」
 咄嗟に叫ぶと、既に半分以上透過しかけていた彼女が、面倒くさそうに振り返るのが見えた。きっと、これが最後のチャンスだ。意を決して、私の認識から消失しかけている彼女に問いかける。
「あなた、鼠なの? それとも兎?」
 結局、暗闇に目が完全に慣れることはないから、彼女がどっちなのか判らなかった。判らなければ人に聞くのは道理である。
 私の質問を待たず、彼女は私の視界から消滅する。それでも、一秒、二秒、五秒。

「知らない」

 不貞腐れたような、茶化すような、ちょろんと舌先を出しているのが容易に想像できる声色で。
 耳の隙間に彼女の声が滑り込んだ頃にはもう、獣の耳を生やした少女の姿は、どこにも見当たらなかった。足音も、囁き声も聞こえない。初めから、そこには誰もいなかったと言うように、どこからか涼しげな風が吹き渡る。
 どうするのが最善なのか、そんなことは解っている。人里に向かい、助けを求める。自然な流れだ。喰われることも、燃やされる危険もない。
 でも、果たしてそれで夢は覚めてくれるのだろうか。
 私がこの竹林に現れたことは、本当にただの偶然だったのだろうか。
 運命などという安易さを切って捨てることができない理由は、私の中にある。
 ちっぽけな正義感、助けられ、今は死にかけているかもしれない誰か。人か妖か、その境を決めることに意味はなかった。少女は私を助けたかったから、私は少女に助けられたまま、はいさようならとそっぽを向くのは趣味じゃないから。
 瞬きを二回、火照った顔を手のひらで拭い、久しく確かめていなかった星空を仰ぐ。ひとつ、ふたつ、星を指折り数えることに意味はない。昔、蓮子が暇な時に同じようなことをしていた覚えがある。「こうすると落ち着くのよ」と友人は笑っていた。その仕草を真似ることで、彼女のように前に進むための冷静さを手にすることは適わないだろうけど。
「……よし」
 頬を張る。浅い痛みが身体を駆け抜けるが、茹だった肉体には良い刺激になった。私が詰まらないことで悩んでいれば、蓮子が軽く笑い飛ばしてくれる。肩を叩き、背中を叩いてくれる。今、そんな気の利いた悪友はいない。だから、歩き出すのは自分の力で。他ならぬ私の意志が、踏み出す一歩を決め、私の背中を押す。
 遠くに見える人家の灯りが、少しばかり懐かしく思える。まだ一日も経っていないはずなのに、人の灯す光が恋しい。でも、今は人が燃やす炎を探さなければ。
 私は人里に背を向け、再び竹林の中に踏み込んだ。
 ぱき、と地面に落ちた竹の枝を踏み締めて、二歩目。
 ――ごッつん。
「いたい!?」
 頭頂部に大ダメージ。突然すぎる衝撃に、思わずうずくまりそうになる。
 屈み込むのを何とか堪えて、周囲を見渡しても誰もいない。犯人は、大体予想がつく。愛想を尽かしたのなら放っておけばいいものを、一体どの口が「私はお人好しじゃない」と言ったのやら。
 頭を押さえ、そこにできたたんこぶのひりひりする感触に涙しながら、私は気合を入れて地面に立つ。今はもう、ここにはいないかもしれないあの子に向けて、せめて私が決めたことを堂々と宣言する。
「ごめんなさい。でも、逃げたくないの」
 いまだ燃え続けているかもしれない戦場から。紅い瞳、金の眼から。
 見えざる恐怖から、この身を縛る現実から。
 ナマモノとしての、「死」から。
「生きて帰るわ」
 必ず。
 返事はなくとも、自分の背中くらい自分で押せる。私の影が私を急かし、私はこの世界に忘れた落とし物を拾いに行く。それは誰の得にもならない、誰も望んでいない愚かな行為かもしれない。君子危うきに近寄らず、無難な道さえ選んでいれば、今頃は温かなお布団の中で、すやすやと寝息を立てていたかもしれないのに。
 土を蹴る。
 歩く速度は次第に増していき、歩幅は広く、息は荒くなった。以前のように、恐怖から逃げるために急いでいるわけじゃない。恐れているから鼓動が速まっているのでもない。しまいには走るのと変わらない速度になり、大きく手を振って、肩が竹にぶつかるのも厭わずに、どこかも判らない目的地に向かう。
 なんとなく、なんとなくだ。
 暗闇で周囲の景色など判るはずもないのに、どこを曲がれば、どう進めばいいのか、一切の躊躇なく駆け抜けられる。勘かもしれない。もしかすれば、鼠か兎か判らないあの子が、影で私を導いてくれているのかもしれない。流石に、そこまで期待してはいけない気もするけれど。
 張り出した根を飛び越える。
 躓きかけて、倒れそうになった身体を、片方の足で踏ん張って支える。結果、大股開きになって股間から嫌な音が聞こえたけれど、今は気にしないことにする。
 何故なら。

 焔の跡。

 竹も草花も土も根も、燃やせるものは全て燃やし尽くし、残されたのは焼け爛れた大地のみ。ここは大きな空き地と化し、向こう数年は周りと同化することなく残り続けるだろう。
 その中心に、人の形をしたものと、獣の形をした何かがいた。
 大地に伏せっているのは、白い毛並みをいくぶんか焦がした狼だった。まぶたを閉じ、微動だにしない。呼吸をしているかどうかすら疑わしい。
 そして狼の背に胡坐を掻き、明後日の方向、おそらくは月が見える方を眺めている、――紅い瞳の少女。こちらも、いっそ脱いだ方が動きやすいんじゃないかと思えるくらい散り散りに破れた服をまとい、裸足の上に組んだ手のひらを置き、呆けたように星空を見上げている。髪に結んであった御札は完売御礼で、なのに露出した肌には傷のひとつも見当たらないのが不思議でならなかった。
 立ち尽くし、彼女たちの有り様を瞳に刻む。
 化け物じみた竹林が作る影は、もう彼女たちを遮らない。満月には程遠い月の灯りが、人家が灯す光にはありつけないものたちを煌々と照らし出す。惜し気もなく。
 だから、私が安易にこの場所に踏み込んでいいものか、少し迷った。
「酷い格好だね」
 そう、彼女に話しかけられるまでは。
「……、あ」
 声が漏れる。気が付けば、彼女は首を傾けてこっちを視界に収めていた。
 まず一歩、乾いた地面を踏み締める。さくさくと奇妙な感触がする大地を歩き、彼女の姿がよく見えるところにまで移動する。白い髪、白い肌、紅い瞳。常に熱を放ち続けていた彼女は、出せる炎は全て出し尽くしたと言わんばかりに、冷静さを保っている。
 どこか斜に構えた態度で、すぐに転げ落ちそうな座り方をしていたりはするけれど。
「戻ってきたんだ」
 頷く。非常に澄んだ声だった。声だけ聞けば、私よりもずっと若い。外見年齢と実年齢が当てにならないのは、既に勉強済みである。が、やはり慣れない。こんなにも細く、今は虫も殺さないほど穏やかな表情をたたえている彼女が、身の丈を遥かに越える狼を仕留めたなんて。
 信じがたい。でも信じざるを得ない。
「あの因幡、ちゃんと案内してやりゃいいのに」
 ぼりぼりと頭を掻く。
「一応、人里の近くまでは」
「じゃ、そこから戻ってきたのか。……戻ってこれたのか。凄いね」
 感心された。
 人並みに感情表現は豊かで、笑みの形を作ることもある。
 ならば、人と妖を分けるものは何なのか。その壁、結界はどこにあるのか。
 この目がその境までも分けてくれたなら、こんなに悩むこともなかったのに。
「……死ん、でるの」
 狼は、全く動く気配がない。唾を飲み込む。鎮まり切らない胸の鼓動と相まって、嚥下する音は耳に残った。
 少女は、手のひらをぽんぽんと狼の頭に置き、静かに微笑む。
「今は死んでる。でも、そのうち蘇るさ。こいつはもう、そういう生き物なんだ」
 だから、悲しまなくても、憐れまなくても構わないのだと。
 仕方ないんだと言い聞かせるように淡々と、起こり得ない奇跡を祈ることもせず。
「……骨が、あって」
 喉から出てくるのは断片的な単語ばかりで、きちんとした文章になってくれない。以前に彼女と相対した時よりかなり落ち着いているはずで、震えも恐れもないのに、会話さえ満足にできないなんて。
 悔しくて、唇を噛む。
「見たんだね」
 きっと、怯えて動けなくなるのが正しい反応だったと思う。けれど、彼女を見て感じるのは、ただただ底の知れない寂しさだけだった。
 今は動かない狼の背中から降り、少女は灰に塗れた毛並みを撫で、燻る地面から立ち昇る煙の行方を確かめていた。白煙は空を越えて雲に掛かり、星を覆い尽くそうと果てなく広がっている。
「はらわたを喰われてた。太もも、二の腕、頬、肉のあるところはほとんどか。このあたりに、狼の牙をもって人を喰う妖怪はいない。いなかった。だから、新人が来たんだろうと思ったよ。……まあ、焼いたのは、頼まれたからだけど」
 正直に、言い辛いことをすらすらと喋る。前情報がないから理解しにくいところも多いが、肝心な部分はすっと頭に入ってきた。
「死んだのは、里の人間じゃない。外から入ってきた人間だ」
 だから、見知らぬ土地に埋めるよりか、焼いて燃やして煙に変えて、全ての世界に繋がっている同じ空に還した。
「ちょうど、あんたみたいな格好をしていたよ」
 もしかしたら、死んでいたのは私だったのかもしれない。私たちの命運を分けたものは、果たして何だったのだろう。それはおそらく、この目に宿る異能でも、持ち合わせた身体能力でもない。
 妖怪に襲われる、なんて私が生きる現実には存在しない概念だ。それこそ、夢や幻の類でないかと思えるほどに。もし、この身に起こっていることを夢だと決めつけて、たとえ死んでも夢から覚めるだけだと考えていたら。私もまた、同じ末路を辿っていたに違いない。
 でも、だとすれば、この世界は一体――。
「誰だって、死にたくはないさ」
 誰も彼も、そんなことを言う。説得力がないのも、お互い様だ。
 彼女は狼から離れ、ぼろを着たまま歩き始める。どこに向かうのか、予想はついていたけれど、その背中に改めて問う。
「どこに行くの」
 私は彼女の後ろを追う。彼女は立ち止まらず、ただ歩く速度を緩めた。
「心配しなくても、人里には連れて行くよ。ただ、ちょっと寄り道」
「でも、狼は」
「一度上下関係をはっきりさせれば、私には従う。ルールを教えるのはそれから。時間はかかるかもしれないけど……、どうせ死ねないんだ。ゆっくりやるよ」
 狼は、眠るように死んでいる。いずれまた蘇ると彼女は言うが、私を怖がらせないための方便と邪推することもできた。生きているのかもしれない。二度と目覚めないのかもしれない。そんなあやふやな獣に背を向ける不安はあれど、私は竹林の海を掻き分けて進む彼女の後に続いた。
 必要なこと以外は何も喋らない。聞いたことのない虫の鳴き声と、不恰好な足音だけが響き渡る。心地よいとまではいかないが、気まずいわけでもない。汗ばむような熱気は失せ、肌に纏わりついていた汗も乾き始めている。しばらくすれば、年頃の女性としてあまり芳しくない状態になることは疑いようもない。
 夜だった。
 夜が本来見せるべき闇と、月の光。星の瞬き。その中に、私たちがいる。
 空が続いているように。陸が海の底を流れて続いているように。あの宙も、常に私たちの頭上にある。
 そう思えば、ここがたとえどこであっても、私はあの場所に帰れるのだ。
 きっと。
「あった」
 終着駅に到着する。ここが、私の旅の終わり。
 結局、最後まで同じ場所をぐるぐるぐるぐる回り続けていたような気がするけれど。
「荼毘に付しても骨は残る。でも」
 この場所も、竹が爆ぜて広い空き地になっている。整然と並べられた白骨は、眠るように大地に寝そべっている。初めて見た時は、骨があるという事実に負けて直視できなかったが、目を凝らせば、確かに大腿骨や肋骨の一部が欠損していることが解る。
 少女は、燻された地面を踏み潰し、煙を煽りながら、月光に照らされた骨に歩み寄る。
「せめて、焼けるだけ焼き尽くしてあげる」
 近寄るな、とは言われていない。けれど、近寄れない。神々しくも禍々しくもなく、今ここにある死の形をその紅い瞳に記し、憐れむことも嘆くこともなく、ただ呟く。

 中有の道は昏かろう。
 この火が足元を照らすものであれば。

 破れた服の隙間から、上手い具合に炎の翼が舞い上がる。
 ひとたび羽ばたくと、瞬く間に火は燃え広がり、燃やせるものがない所にも、何故か火柱が巻き起こる。理屈は知らない。そういうものだと思っておく。
 炎は、少女と骨を包み込む。近付くことは適わない。熱くて、辛くて、物悲しい。私は遠巻きに彼女たちを見守るだけで、何の言葉も掛けられない。寄りかかっていた竹がみしりと軋む。足元には、炎にやられたのか根元からぱっきりと折れた筍が転がっている。合成でない筍。合成でない死。火葬。死の匂い。死の熱。
 筍の側に、白い脚が落ちる。
「!」
 あの狼だ。言葉が出ない。炎に見惚れて、狼の存在を全く悟れなかった。けれど、私が戦慄しているうちに、満身創痍の狼は、頼りない足取りで少女に近付いていく。私のことなど眼中にない様子で、炎の熱さにも怯まず、まるで焼身自殺を図るように。
 彼女が、狼の接近に気付く。
 炎の音が煩くて、彼女が口を開いても、何を言っているかは解らない。ただ、擦り寄る狼の頭を撫で、それは本当に飼い主が行うような優しさで、少女は狼を慰めていた。
 ――おまえは、死にたいんだな。
 幻聴がした。

 †

 燃えていく。
 ぱちぱちと、轟々と、なのに、荒ぶる炎に巻かれながら、少女も、狼も、穏やかに微笑んでいる。
 私は、その凄惨な光景から最後まで目を離せずに、跪き、どんな顔をすべきか迷いながら、自分にもよく解らない表情を浮かべていた。怖かったのか、悲しかったのか、生きていることが嬉しかったのか、ただ無性に辛かったのか。
 彼女は一体何者なのか。
 知りたかった気持ちがなかったと言えば嘘になるけれど、今となっては、知らなくて良かったとさえ思える。
 私は、まだ、あんなふうには笑えない。
 だから。
「さよなら」
 私の旅は、ここで幕が引かれるだろう。
 最後に、彼女は炎の中からこっちを向き、「さよなら」と呟いた。
 そんな気がした。

 

 

 


 

 

 


 カーテンの隙間から降り注ぐ光の雨に顔をしかめ、冬も近いながら肌に感じる熱は異常なほど熱い。もしかしたら、あの夢を見たのも、朝の光が眩しくて熱すぎたせいからかもしれない。
 そう思いたかった。
 上半身を起き上がらせ、額を押さえて、首を振る。胸に抱いていたはずのクッキーは、知らぬ間にテーブルの上に置かれていた。それ以外にも、どこかで見たことがあるものも冗談のように並べられている。
「……嘘」
 ちょうど、あの鼠が兎か判らない少女が最初に漏らしたような、そんなはずがないと現実を拒むような調子で、私は呟いていた。
 握り締められてくしゃくしゃになった、何らかの文様が刻まれている紙切れ。
 合成でしか見たことはないが、おそらく天然の筍と呼ばれるもの。
 暗闇と、炎に満ちた夢を彩っていた世界の断片が、その垣根を越えて私の世界に飛び出してきた。これは私が持ち帰ったものなのか、それとも蓮子か誰かが遊びで部屋に置いていったものなのか。よっぽど、蓮子を問い詰めて冤罪でもいいから彼女のせいにしたかったけれど、ここまで来て目の前の出来事から目を逸らしてしまっては、何が真実なのか解らなくなってしまう。
「……私は、私。マエリベリー、ハーン」
 この世界では、メリーと呼ばれている。それは間違いない。心臓の鼓動も、外から聞こえる雀の鳴き声も、目覚まし時計のカウントダウンも、視界に入るもの全て、指先に触れるもの全て、私が私として感じられる現実なのだと認識できる。
 でも、こわい。
 足元が不安定なのは、喉元に刃を突きつけられるより、狼の鋭い牙に噛み千切られるよりも、遥かに恐怖を誘うものだ。自分がこの世界に確たるものとして存在しているのかどうか、その根底さえ疑うことになる。
 もしこれが、誰かの見ている夢なら。
 あるいは、この世界が私の見ている夢なら。
 マエリベリー・ハーンは幻なのか?
「……何なのよ、一体」
 肩を抱く。
 ベッドから降り、あっちの世界から持ち帰ってきた三点の品物にひとつひとつ触れてみる。クッキーはいまだにバターの良い匂いを放ち、紙切れと筍には天然の土の跡が見て取れる。筍なんだから食べられるはずなのだけど、調理の仕方が全く解らない。最近は、出来合いのものしか食べていない気がする。クッキーにしても、筍にしても、自分で包丁を握って何かを作るなんてことは、本当に稀になった。
 昔なら、そんなことじゃお嫁に行けないわよと母親が嘆くのだろうけど。
「蓮子」
 呟く。枕元の携帯電話を取る。
 私が、とりあえず今の私の存在が揺らぐ前に、夢か現かの判断を付ける必要がある。足場を確かにすることで、夢の私も、現の私も安心して生きていける。眠りに就くことができる。
 けれど、それは私ひとりでは判らないことだ。誰かの助けがいる。話を聞いてもらうだけでもいいから、私でない誰かに包み隠さず公開しなければいけない。
 登録してある番号を呼び出し、立ったまま蓮子を待つ。一回、二回、五回、六回。
「早く出てよ、もう……」
 愚痴っても仕方がないと知りながら、不満の声は止まらなかった。早朝七時、学生には少し早い時間だ。普段なら、相手の迷惑を考えてメールで済ませるところを、私の都合で電話を掛けた。怒られても呆れられても構わない、とにかく、私でない誰かの意見を早く聞きたかった。
 八回、九回、間もなく留守録に移ろうかという刹那。
『……現在、この電話は使われておりまわわ……』
 熟睡していたであろう、眠たげな蓮子の声に切り替わる。
 欠伸混じりの声に、ほっとする。
「蓮子、お願いがあるの」
『……宇佐見蓮子の営業時間は、午後二時から午後五時までとなっております……』
「短すぎるわよ。……って、そういうんじゃなくて、蓮子、頼むわ。眠いのは重々承知だけど、話を聞いてほしいの」
『……うぅん、おはよう。メリー』
 本当に話を聞く気があるのかと不安に駆られるが、起き抜けなんて誰もこんなものだ。「おはよう、蓮子」と努めて優しい口調で挨拶を返す。
『それで、お願いって?』
 いくぶんか、眠気を振り払った様子で、蓮子が問いかける。私もひとつ深呼吸を挟んで、どう説明したものかどうか言葉を選びながら、結局はありのままを語るしかないと腹をくくった。
「私、蓮子に診てもらわないと、自分がどこにいるか判らないのよ」
『……見る? 手相か何か?』
「とにかく、直接話した方が早いと思うの。そうね、大体十時くらいでいいから、構内のカフェに来て。……お願い、貴方だけが頼りなのよ」
 一方的に要請してしまったことを後悔しても、素直に自分の心情を吐露しようとすればするほど、声は詰まり、心は焦燥に駆られる。
 息を呑んで、じっと蓮子の返事を待つ。端末を握る手のひらが汗ばむ。
 電波の向こう側で、蓮子が髪の毛をくしゃっと掻き乱す音が聞こえたような気がした。きっと、彼女の寝癖は南南東の方角に向いているに違いない。
『あー、うん。それはいいんだけど、最後の台詞、ちょっとグッと来たわ』
「ありがとう」
 お礼を言う場面でもなかったが、それだけ冷静さに欠けているということである。ぱん、と小気味よい音が響いたのは、蓮子が眠気覚ましに自分の頬を打ったからか。
『よし、メリーのためなら二十五万くらいは余裕で振り込んじゃうわよ!』
「ありがとう、でもなるべく十時前後には来るようにしてね」
『その保証はできないわね』
 のうのうと言ってくれる。
「なんで」
『今のところ、通りすがりの灰色っぽい宇宙人に拿捕されてまして、今まさにキャトルミューティレーションされるや否やといった風情でございまして』
「……蓮子、牛だったの?」
『モー』
 牛らしい。
『これ自信作なんだけど、どう思う?』
「知らんわ」
 似てたけど。
 朝っぱらにもかかわらず、全くもって普段通りの宇佐見蓮子でほっとする。私のことを気遣ってくれているのだろうかと考えるのは、きっと自惚れているのだろうけれど。
「それじゃ、いつも通りに」
『えぇ。すぐに追い着くわ』
 蓮子は力強く答え、電話は切れた。
 何故か、無性に懐かしく思えた声が遠ざかり、しばらく握り締めた携帯電話を膝に置いたまま、呆然と時が過ぎるのを待つ。カーテンを開けようと思い、立ち上がるまでに三十分ほどかかった気がする。
 勢いよくカーテンを滑らせても、ベランダに誰がいるわけでもなし、外は相変わらずの晴天だ。雨も決して嫌いではないが、それも部屋の中に引き篭もっていればの話。
「着替えて、かお洗って、ごはん食べて……、か」
 その前に、テーブルに並べられたお土産の整理もしなければ。蓮子の協力を得たことで、随分と心が軽くなったように思える。感謝の気持ちを込めて、前後三十分くらいは大目に見てあげることにしよう。
 朝の光に包まれながら、大きく伸びをする。
「うぅ――、ん」
 マエリベリー・ハーンの一日が始まる。
 長かった夢が終わり、新しい現を始めようとしている私は、本当に忙しいと思う。
 これから、もっと忙しくなるかもしれない。私には解明できない未知が、現実にはみ出し、テーブルの上に転がっているのだ。それを嬉々として愛でるくらいの煩悩が私にもあれば、もうちょっとは世界を楽しく見ることもできるだろうけど。
 この目で。
 決して、何もかもを見通すことはできない、壊れた瞳の奥を光らせて。
「さぁ、始めましょうか」
 窓から入り込む光を瞳に焼き付け、夢と現を裏返すように、パジャマの裾をめくり上げた。




 

 

 

 

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2009年3月9日 藤村流



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さぁ、眼を覚ますのよ。

 

 

 

 

 


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