紅魔館

 

 

 

 空が見える。
 草と、木と、森と、獣の姿も見える。目は開いているらしい。耳も聞こえる。さっきから、鳶の鳴き声がやたらとうるさい。普通なら、のどかだなんて呑気なことも言っていられるのだろうけど、今の私に、そんなことを言う気力はなかった。
「……ここ、どこ?」
 呟いた言葉には、返る言葉もなかった。
 確か、私は自分の部屋でぐっすりと眠っていたはずである。それなのに、何故普段着を身に纏い、ご丁寧に靴まで履いて、見も知らぬ森の中に突っ立っているのだろう。意味が解らない。
 腕組みをする。ついでにほっぺたも抓ってみる。
「いたい」
 傍から見ると、とてつもなく間抜けな絵面である。やめた。
 幸い、自分の名前も住所も全て覚えているから、記憶喪失や生誕数秒というSFオチではないようだ。今のところ、ただの夢であるという可能性が最も高い。
「……恐れるな」
 胸を押さえる。速まっていた動悸を鎮める。
 私は、私だ。マエリベリー・ハーン。少しだけ変な目を持った、それ以外は特筆すべきところのない人間。あえていうなら、妙齢の女性。かなりいい感じの。金髪だし。
 言ってて恥ずかしくなってきた。
 深呼吸をする。一面の緑から零れ出た、新鮮な空気を吸い込む。美味しい、と感じられるくらいには、私の心はまだまだ純粋らしい。
 それから、どこへともなく、私は歩き始めた。靴の裏に感じる土の感触が、懐かしくもあり、新鮮でもある。腐りかけた木の葉を踏み締め、落ちた木の枝を折り、夢の中を漂うように不確かな足場を進む。丈の高い草を蹴り、袖が汚れることも厭わず、木々の隙間を潜り抜けて、ようやく。
「うわ」
 私は、その広大な湖に辿り着いた。意図せず、感嘆の声が漏れる。
 人の手が加わっていない自然。見るものを圧倒する景色の中に佇み、自分が如何に小さな生き物かを思い知る。木の幹に寄りかかり、穏やかに波打つ湖畔をただ眺めていた。
 半ば、途方に暮れていた私の眼前を、小さな影が通り過ぎてゆく。
 羽が生えている。薄く、氷のように青く冷たい羽が、ちょうど四枚。蝶であれば、さほど気にはならなかったろう。が、いくら小さな影といえども、小学生程度の子どもに羽が生えていれば、流石の私も看過するわけにはいかなかった。
「……な」
 何なの、と言いたかったのだと思う。けれど、今の私が何を言ったところで、きっと意味のない独白にしかならないだろう。変に相手を刺激しないという意味では、耳の隙間を通り過ぎるくらいのささやかな呟きであった方がよかったのかもしれない。多分。
「んー?」
 やべ。気付かれた。
 内心、未知の存在に戦々恐々とする私を差し置いて、その氷色の少女はこちらをまじまじと見つめている。うまい具合に空中に留まり、何やら尊大に腕を組んで、こちらの出方を窺っているようでもある。妖精、という固有名詞が脳裏をよぎり、それにしてはサイズが大きめのような気もするなあ、と場違いな感想を抱いてもみた。
 睨み合いの時間が五分を過ぎたところで、妖精はずびしッと私を指差した。
「あ、人間だ!」
 気付くのが遅いんじゃないかと思ったが、余計な突っ込みをしている余裕もない。逃げるか、戦うか、あるいはその他の平和的な手段を選ぶか、何にしてもじっとしてはいられない。無論、相手が私に選択する暇を与えてくれれば、の話ではあるけれど。
 決意するより早く、周囲が急速に冷え込んでいく。それがこの妖精の力だと悟るまで、そう長い時間は掛からなかった。だって、こんなにも誇らしげに笑っているんだから。
「ちょうどいいわ。素敵な一日は、健全な弾幕ごっこから!」
「ごめん、意味がよく」
 わからない、と言いたかった。結果、続きを言う前に女の子はか細い腕を振り上げていて、次の瞬間には、もはや凶器としか思えない氷の塊のようなものを、それこそ無尽蔵に生み出していて。
「ちょ、ストップ! タンマ!」
「あいきゃんすぴーくいんぐりっしゅ!」
 喋れるのか喋れんのか。
 狼狽しているのはこっちだが、あっちも興奮しているものだからうまく話が噛み合わない。いや元々そういう性格なのかもしれないけれど、そこまで他人の気持ちを推し量れるほど私も人間が出来ちゃいないのだ。
 三十六計逃げるにしかず。脱兎の如く逃げ去ろうとする私に、一足早く、妖精が嬉々として腕を振り下ろす。氷の弾丸が、ぴきぴきと罅割れながら、命じられるままに私に襲い掛かる。振り返り、その弾道を確認し、やっぱり何も出来ないなあと悟り切って、私は。
「っ」
 目を瞑り、顔を腕で覆う。衝撃はどの程度、血は出るのだろうか。来るなら早くしてもらいたい、痛いのは好きじゃない。あんまり好きという人もいないと思うけれど。
 そうして、がちゃり、と。
「……えっ」
 氷が腕に直撃したにしては、随分と淡白な音が響いた。咄嗟に瞳を開け、現状の把握を試みる。目の前に広がっていたのは、宙に浮かぶ氷の弾、そしてそれらがくさび状の何かに貫かれ、全て打ち砕かれた光景だった。したがって、次の瞬間には、原型すら留めずに地面へと落下していく。ふたりとも、向き合ったままぽかーんと口を開けている。それはもう、正真正銘の間抜け面だった。
「もう、駄目でしょ。誰彼構わず弾幕ごっこしちゃ」
 凛として、なお幼さの残る声音が横合いから飛ぶ。そちらに目をやると、やっぱり背中に羽を生やした女の子が宙に浮いたまま、少し不貞腐れたような表情を浮かべている。新緑を思わせる髪の色とその雰囲気に、私はもうひとりの妖精を見た。
 目まぐるしい展開に呆けていると、緑の妖精はこちらを向き、淡い笑みをこぼした。
「ごめんね。チルノちゃん、まだ加減が出来ない子だから」
「……あ、いえ、怪我してないから、大丈夫よ。うん。問題ないわ」
 そう。問題はない。如何に強固な弾丸も、届かなければ意味がない。そう思うと、急に胸が空いたような心持ちになった。夢も現も、私がここにいることは変わらない。普段通りにやればいいのだ。そうすれば、世界を見る瞳が濁ることもない。胸を張れ、私。
 よし。
「ねえ。あなたたち、妖精さん?」
 問いかけられて、ふたりは小首を傾げる。氷の妖精などは、見てわからないのか、ばかじゃないの、みたいな小憎らしい顔をしている。そりゃ、私だって見りゃ解るけど。
「……あ。なるほど」
 緑の妖精は、いち早く何かを察したようだった。返答を待つ私に、「そうですよ」と柔らかく告げる。氷の妖精――チルノと呼ばれた妖精は、「なるほどねー」と呟きながらこちらに近付いてくる。たぶん何も解ってないと思う。
 妖精がふたり、ふわふわと宙に浮かんでいる。夢みたいな光景だが、夢なら別段驚くに値しないのかもしれない。でも、好奇心はむくむくと首をもたげる。
「ちょっと、触ってみてもいいかしら?」
 え、と初めは戸惑っていた緑の妖精も、私の熱意に負けたのか、
「特別なこと無いですよ」と言いながらも何とか了承してくれた。いきなり抱き締めたら逃げられるかな、と不謹慎な想像を巡らせ、私はまず妖精の手のひらを取ってみた。柔らかい。手の形は人と変わらず、子どものように小さくて皺も少ない。次に、腕、肩、腰、ほっぺの順に掴んだり撫でたり触ったり、流石に羽は突然だと問題があるような気がしたので、「羽、触れてもいい?」と聞いたら、「駄目です」とにこやかに断られた。やっぱり。
「ふんふん」
 若草を思わせる髪に指を通しながら、恥ずかしがる妖精の感触に浸る。ちなみに、今呟いたのは私でなく、何故か私と同じく緑の妖精の身体をぺたぺた触っているチルノである。混ざりたかったらしい。
 緑の妖精はされるがままである。ちょっと可愛い。
「よくわかったわ。ありがとう」
 あまりやりすぎるのもよくない。髪を梳く手を離し、お礼を言う。妖精は笑っていた。チルノは胸やら脚やらを触り続けていた。その頭を、緑の妖精が軽くノックする。
「あたっ」
「調子に乗らないの。めっ」
 人差し指をピンと立てて、優しく窘める。仲の良い姉妹にしか見えない。きっと頬が緩んでいたのだろう、チルノが「何だこいつ」みたいな目でこっちを眺めていた。
「あんたさ、結局なんなの?」
 腕を組み、瞳を薄めて私を睨む。彼女の場合、好奇心より先に猜疑心が先に立つようだ。緑の妖精に邪魔され、私が妙な行動を取ったせいかもしれないが。
「なに、と言われてもね。私は私、としか言いようがないわ」
「なに当たり前のこと言ってるのよ。妖精なんか珍しがってるし、弾幕ごっこも出来ないし。こんなとこにいるのに、危なっかしいったらありゃしないわ」
「チルノちゃんもあんまり人のこと言えないと思う」
 私もそう思う。
「なんか言った?」
 ふるふると首を振る。チルノは何か言いたげな様子だったが、ひとまず話を続けた。
「そんなんじゃ、空も飛べないんじゃない?」
「……飛ぶ? 私が?」
 聞き返すと、またも胡散臭そうな顔をして嘆息する。何故か、彼女に呆れられると自分が本当に可哀想な人間に思えてしまう。外見が子どもなせいもあるのだろうけど。
「ここにいる人たちは、みんな飛べるものなのかしら」
 チルノに聞くと溜息が帰ってきそうなので、緑の妖精の方に質問する。
「全員じゃないけど、飛べる人たちもいるよ。私たちは勿論、幽霊とか、妖怪とか、よくわからない何かもよく飛んでるよね」
 よくわからない何かって何だろう。
「なるほど」人は空を飛べる。現に、目の前の妖精は事実飛んでいるのだ。羽の有無はあるにせよ、夢か現かの境を決めるより、遥かに面白いことが確かにある。だから。
「飛べる――かもしれないわ。私」
 え、と緑の妖精は表情を凍らせ、チルノは「嘘だー」と指差して笑っていた。腹が立ったのでその指を逸らせる。
「あだだだだ!?」
「何事も、やってみなくちゃわからないもの。成せば成る、うん」
「おおお折れる折れる!?」
「あ、ごめんなさい。忘れてたわ」
 わりと本気で忘れていたのだが、チルノは信じていない様子で指に息を吹きかけていた。緑の妖精も苦笑混じりに慰めていたものの、結局限界までチルノを放置していたことを私は知っている。妖精は、悪戯好きである。よくいったものだ。
「じゃ、位置について」
 小高い丘から目の前の湖に瞳を向けて、爪先を地面に叩き付ける。ストレッチは十分、駆け出すための覚悟も準備も万端だ。未知を体験しようとする心意気も、我が同胞からしつこく鍛えられている。
「……やっぱり、やめた方がいいと思」
 不安げな声は、弱弱しく私の背中を押す。
 踏み込むローファー、翻るスカート、ブラウスは反抗する風に舞い躍り、私は一迅の風になる。
「とおぅ!」
 この広い湖を飛び越えるイメージで、陸を蹴り、宙に舞い上がる。
 そして視界一面に広がる鮮やかな青が、空の色か、湖の色かを悟る前に。
「あ」
 美しすぎる弧の軌道を描き、私は緩やかに落下していった。
 ――やっぱり無理でした。

 †

 走馬灯がちらつかなかったのは、幸いだったというほかなかった。
 背中の感触からすると、地面に仰向けになっているらしい。着地の瞬間は記憶にない。ただ、着水や水没の類でないのは助かった。無理、無茶、無謀と三拍子揃った無為無策ぶりに、自分でも呆れ果てる。どうやら、蓮子の毒性が私にも回っているようだ。
「いッたた……。ほんと、何を考えてたのかしら……」
 起き上がり、怪我が無いか確かめる。盛り上がった丘の下は、まだ湖ではなく陸の一部だった。多少、草や小枝であちこちを擦ったり痛めたりしたけれど、激痛が走る、血が止まらない、などの症状は見受けられない。頭も打っていないようだから、問題が無ければ更なる探索に勤しみたい。が。
「……いない、ね」
 立ち上がり、辺りを見回しても、あの妖精たちの姿はない。隠れているのでもなく、単純にどこかへ行ってしまったらしい。少し残念だが、仕方がない。私もいきなり「空も飛べるはず!」なんて無茶苦茶なこと口走ってあまつさえ実行に移した訳だから、妖精にも理性というものがあれば「コイツやばい」と思って立ち去ってしまうのも無理からぬ話である。
 でも、しょうがないじゃないか。こんなところに来れば、誰だって変な気持ちになる。
「では、歩き始めますか」
 誰にともなく呟いて、私は湖に沿って足を進める。あの無駄に思えた挑戦も、少しの意味は与えられていた。一瞬、天高く飛躍した私は、湖の向こうに立派なお屋敷を見た。この嘘みたいに青い空と湖の境目に、ひときわ紅く輝く洋館を。

 †

 湖の中央に聳えているかに見えた洋館も、歩いてみれば陸続きであることが解る。
 館を取り囲むような赤煉瓦の壁が、拒絶の意志を携えて立ち並んでいる。丈の高い草を踏み、茎を首切る音を聞きながら前に進む。緩い傾斜を登っていくにつれ、壁の全容も明らかになる。正面に巨大な門を構え、何人たりとも通すまじと内と外の世界を遮断している。
 その門に背中を預け、腕を組み、瞳を閉じている女性がひとり。こちらも、印象からして赤い。理由は言わずもがな、地面に落ちそうなくらいに長い、見惚れるほどの赤髪によるものだろう。
 私は、声を掛けることも出来ず、とりあえず安全と思しき距離を保ったまま、彼女と不自然に見つめ合っていた。相手に私の姿は見えていない。けれど、気配は察していると解った。無為に近付けば、言葉を発する間もなく一撃で倒されるであろうことも。
 ごくり、と唾を飲む。妖精に対した時とは確実に違う、異種の空気が立ち込めていた。
「……あの」
 ずっと溜めていた声の塊を、喉の奥から引っ張り出す。小さくても、喋らなければ先に進まない。歩き続けた道の終点は、もっともっと奥にあるはず。無知だろうが手探りだろうが、何かしなければ何にもならない。目の前にある神秘的な素材を、生かすも殺すも自分次第なのだ。
「ひとつ、お願いがあるのですけれど」
 一歩、足を踏み出す。声が届く距離は、攻撃が届く間合いだ。相手の反応はない。静かで、穏やかな、一定のリズムで鳴り響く呼吸音を聞く。ふと、その吐息に耳を澄ます。
「……すかー」
 寝てた。
「おい」
 意図せず、乱暴な口調になる。何となく、肩の透かされ方が蓮子を彷彿とさせたので、つい彼女とするのと似たような態度を取ってしまった。少し後悔する。
 が、今回に限れば、あまり間違った反応でもなかったようである。
「……はっ」
 解りやすい呟きを残し、赤髪の麗人が目を覚ます。自然、私は彼女と見つめ合う形となり、居たたまれない沈黙が周囲を覆う。彼女は、驚くでも目を逸らすでもなく、ただ私の瞳を見つめ返している。照れる。
 しかし、いつまでもこうしている訳にもいかない。
「あの」
「あ、ごめん。寝惚けてるのかなー、と思って」
 私がね、と補足する。彼女は門扉から背中を離し、気持ちよさそうに大きく伸びをしていた。彼女の背丈は優に私を越えており、両手を伸ばせばそれこそ巨大な壁と対しているような錯覚を抱く。
「んじゃま、門番としての責務を果たしましょうか」
 芝居がかった台詞を述べ、ご丁寧に会釈をしながら、彼女はお決まりの言葉を投げる。
「本日は、この紅魔館に一体どのようなご用件でしょう?」
 ――紅魔館。
 それが、今回の夢舞台に与えられた題目らしい。
「素敵なお名前ですね」
「え、あぁ、ありがとう。……いや、違うか。私、貴方に自己紹介したかな?」
 一瞬、頭が混乱する。再び、奇妙な沈黙がふたりの間に現れ、滞る。
「えぇ、と、あ、紅魔館の方です。紅魔館」
 あー、と彼女は得心が入ったというふうに頷き、それでもやはり最終的には首を傾げていた。何か変なことを言ったのかと、眉をひそめたりこめかみを指で擦ったりしている彼女の動きに注目する。失礼な表現かもしれないけれど、見ていて飽きないひとだ。
「もしかして、知らない? 紅魔館。俗に言う、悪魔の館。巣窟」
 こくりと頷く。
 すると、彼女は今度こそ理解が及んだ様子で、任せとけと言わんばかりに朗らかな笑みを浮かべた。自信満々に胸を叩かないのが不思議なくらいである。
「なるほどねー。それじゃあ、ここを知らないのも無理ないか。とりあえず発見したお屋敷を訪ねてみましょうと、そういうわけだ。うむ」
 彼女が何に納得しているのか解らないが、ともあれ話が通じるのは嬉しい。
「ひとつ、お願いがあるんです」
「ん、なに?」
 ひとなつっこい表情に背中を押されて、私は先程言いそびれたお願いを口にする。
「この素敵なお屋敷に住んでいる、素敵なご主人にお会いしたいのですけど」
 その言葉を聞いた彼女は、ほう、と息を漏らした。
 何かおかしなことでも言ったかしらと首を傾げてみても、はっきりとした答えは出せない。ヒントはあった。紅魔館、悪魔の館。人間にしか見えない彼女が妖怪なのか、聞かなければ解らないことだけれど、悪魔と名指されるのなら、ここの主は人間ではないだろう。
 ――ぞっとする。そしてそれ以上に、どきどきする。変な感じ。
「会いたい?」
「はい。とても」
 試されている。遊び半分か真剣なのか、名も無き闖入者の覚悟を計っているのだ、彼女は。私が眼鏡に適うかは定かでないが、この胸の高鳴りを鎮めない限り、ここから立ち去れそうもない。ならば、行けるところまで行ってみるのも。
「ところで貴方、血液型は?」
「……、Bです」
「ちなみに、男性とお付き合いしたことは」
「……、ありますけど、何か」
「いや別に。見た感じ、結婚経験も無い、と」
 ふむふむと、値踏みするかのように私を見る。
 見た感じで判断された上、その推理が間違っていない腹立たしさ。これは一体どこで晴らせばいいのだろう、誰か教えてほしい。
「でもね、あれなのよねー。近頃は、結婚する前に一線越えちゃうのが多いから」
「……、何か」
「いや何でも」
 何でもない訳がないのは確実だったが、尋ねたところではぐらかされるのがオチだ。にやにやと意地の悪い笑みを浮かべる彼女に、今はなき悪友のにやけた面を垣間見る。死んでないけど。
「ま、いいでしょ。傷の手当てもしないといけないものね」
「あっ」
 言われてようやく、派手に転んだことを思い出す。よく見れば服のあちこちが解れていて、受け身を取った証として手のひらに何本もの切り傷が刻まれている。触れてみれば、鋭い痛みが走る。顔に大きな傷がないのは救いだが、髪の毛はだいぶ酷いことになっているだろう。なまじ、目の前に艶やかな髪をした女性がいればなおのこと。
「とはいえ、私はここから動けない身分であることだし。ちょっと待って」
 彼女は、人の力ではとても開きそうにない扉に手を掛け、さして力む様子もなしに、ゆっくりと押していく。よっ、と少しばかり呻いたきりで、それ以外は強がっている気配もない。扉は徐々に押し開かれていく。そんな単純なことで、私は彼女が人間でないことを実感した。
「メイド長ー」
 お屋敷の中にいるメイド長とやらを呼びつけるには、ちょっと声が小さすぎる気もする。彼女が門の裏に回ったかと思うと、すぐさま涼しげな鈴の音が聞こえてきた。
「うん、もうすぐ来るからね。メイド長」
「メイドさん、ですか」
 聞き慣れない単語だ。勿論、意味は知っているが、実際に遭遇したことは一度たりともない。そも、あの国に使用人を必要とする家がどれくらいあるのか。場所によってはそれこそ量産されているけれども、あれはあれで特殊な状況であることだし。
 話が逸れた。
「そ。この館に棲息する種族じゃ最も希少な、人間のメイドね。まあメイドは人間じゃないから平気っていうひともいるから、人間どうこうはあんまり意味ないかもしれないけど」
 棲息て。
 すると、目の前にいる彼女もやはり希少でない種族に属するのだろうか。妖怪、と括れば話は早いけれど、外見は人間と大差ない。人懐っこく、話しやすく、感情も表情も豊かだ。彼女のような妖怪なら、わざわざ人と妖を分ける意味もないように思う。
「じゃ、警備員さんもやっぱり……」
「そうね。てか警備員……、いやまあ何でもいいんだけど。あながち間違ってもないし」
 門番の方がよかったかなぁ。そういえば、最初に「門番」って名乗ってたような気もする。
「メイド長さんって、どんな方なんですか?」
 彼女は「そうねー」と目を瞑って数秒ほど考え込み、眉間に皺を寄せながら器用に苦笑してみせた。
「ナイフみたいな人かな」
 当然、とでも言いたげな顔をされても、私はきょとんとするしかない。
「……ナイフ?」
 鸚鵡返しする私に対して、警備員さんは前言の補足をしてくれる。
「冷たくて、触ると痛いけど、持っていればこれ以上ない力になる。何にでも使えて、持ち運び出来るほど軽くて小さい、手入れも簡単で済む、――とっても便利な女」
 言い方はもうちょっと考えるべきだと思う。うまいこと言った、みたいな顔してるけども。
 何故か自慢げな警備員さんに何を言えばいいのか、私にはよくわからない。
 が、空間のノイズは表皮を突き破るように脳を貫く。たまらず、私は眉をひそめる。
「――へぇ、知らなかったわ」
「でしょ」
 違和感など抱きようがないというふうに、彼女は同意を求める。それでも振り返りはしなかったのは、事の重大さを薄々感じ取っていたせいかもしれない。
 いつの間にか、それこそ時間の断絶さえ感じられるほどの唐突さで、銀髪の女性は彼女の背後に佇んでいた。腕を組んでいる立ち姿も、その印象は全く異なっている。赤と銀、静と動。分類することに意味はないだろうが、視界に映り込むふたりはあまりにも対照的だった。
 ぎりぎり、と錆びついたネジを無理やり捻るがごとく、警備員さんはぎこちなく後ろを振り返る。ふたりの三ツ編みが折からの風に煽られ、ふと彼女たちの頬を撫でる。
「お仕事、ご苦労さま」
 労いの言葉も、時と場合によってはこんなにも不気味な台詞になる。好例である。
「な、何のこれしき」
 門番は混乱している。あまり意味のないガッツポーズを無視して、おそらくメイド長であろう銀髪の少女は、無表情か微笑か判別がつかないくらいの淡い笑みで私を出迎えた。
「ようこそいらっしゃいました。この紅魔館に」
 一礼。
 スカートの端を摘まむといった仕草は無くても、律儀に三十度頭を下げなくても、彼女が礼をすることそのものに大きな意味があるように思えた。身長は私と同じくらい、年齢もさして変わりないだろう。話が合うかどうかは別にして。
「わたくし、このお屋敷のメイドを勤めております、十六夜咲夜と申します。以後お見知りおきを」
「あ……、と、わたし、マエリベリー・ハーンです。でもメリーでいいです、短いので」
 自分でもよくわからない言い分だが、とりあえず話が通じたから良しとしよう。
「メリー」と確かめるように呟き、十六夜咲夜は身体を斜に傾け、館の中に通じる道を私に譲る。続いて、警備員さんも慌てて道を開ける。一瞬、メイド長がちらりと彼女を見たが、彼女は素知らぬ顔で明後日の方向を眺めていた。
 何となく、それが可笑しくて顔が綻ぶ。
「では、どうぞ」
 促され、私はその言葉に甘えて歩き始める。門を潜り、途中で気になって後ろを振り返ると、警備員さんが「またねーメリー」と小さく手を振ってくれていた。私も立ち止まって手を振り返そうとしたのだけど、彼女が何事かを喋りかけようとしていたから、その声に耳を傾けることしか出来なかった。
「気を付けてね。ま、大丈夫だとは思うけど」

 ここのお嬢さま、吸血鬼だから。

 そう、何でもないように宣告して。
 内と外を隔てる巨大な門が、ある妖怪の手によって簡単に閉ざされた。豪奢な庭園に残されたのは、見た目、何の変哲もない人間がふたり。
「参りましょう」
 十六夜咲夜は、笑みかどうかもよくわからない表情を浮かべている。

 †

 外観と同様、内装もまた煌びやかに紅い。よくぞここまで、と賞賛したくなるほど紅く染め上げられた絨毯を踏み、壁と天井に若干目をチカチカさせながら、振り返りもしないで前を歩く彼女の後に続く。落ちてきたら確実に死に至る巨大なシャンデリア、骨董品レベルのランプが等間隔に並べられ、分厚い絨毯からは足音ひとつ立たない。
「うわ……」
 ぶるじょわだ。話に聞く、ぶるじょわじーに違いない。
 一歩足を進めるたびに感嘆の息が漏れ、ぽかーんと空いた口にはあっちで吸ったことのない異世界の空気が滑り込む。ほのかに甘く、頭の一部が蕩けるような……、あ、それとも、これは目の前にいる彼女の香りなのかしら。香水とも違う、十六夜咲夜という存在そのものから醸し出される独特の芳香。何だろう、住む場所の違い、食べるものの違い、あるいは生き方の違い、理由は諸々あるのだろうけど。
「気になる?」
 前を向いたまま、彼女は少し砕けた調子で尋ねてくる。私は密かに頷いたが、彼女がそれに気付いたかどうか。
「迷い人は多いけれど、いきなりここに助けを求めようとする方も珍しいのですよ。大抵の方は、この外観で敬遠してしまいますから」
 ちょっとだけ嬉しそうに、彼女はそんなことを言う。立ち振る舞いがいちいち優雅だから困る。主に、あまり優雅でない私と比較して。
「あの、十六夜さん」
「咲夜で構いませんわ」
「じゃあ、咲夜さん」
「何でしょう」
 そこでようやく、彼女は立ち止まる。手をスカートの前に組み、あっちなら冗談にしかならないメイド服を完全に着こなしている咲夜さん。それにしても、スカートが短すぎる。年齢は同じくらいだと思うのだけど、やっぱり高校生あたりだとミニスカートにも挑戦的だ。負けるものか、といった強い気概が感じられる。何に対して勝負を挑んでいるのか全く解らないけど。
「さっき、警備員さんが言ってた――」
 緊張を高めるように発した声を、彼女はいともあっさりと遮ってみせる。
「あぁ、そうですよ。ウチのお嬢様は吸血鬼でいらっしゃいます」
 そう、にこやかに肯定されると、こっちも立つ瀬がない。
 吸血鬼。血を吸う鬼。日光に弱い、炒った豆に弱い、十字架に弱い、ニンニクに弱い、何故か弱点ばかりが目立つという勇者には大助かりな敵キャラだが、わりと大怪我をしてもすぐ回復したり、無数の蝙蝠に化けたり、怪力の持ち主であったりと、序盤に登場すると苦戦すること請け合いである。つまり、初心者の私にはどうあっても太刀打ちできない存在ということになる。
 だが、咲夜さんは私の不安を和らげるように説明する。
「ご安心を。ウチのお嬢様は、間違っても得体の知れない人間を襲うような見境のない吸血鬼ではありませんから」
「得体の知れない……」
 私のことだろうか。いや私しかいないんだけども、もしかして嫌がられているのかと邪推してしまう。確かに、どこの馬の骨とも知らない人間が土足で家に踏み込んでいるのだから、警戒するなという方が酷だ。
「でも」
 声色が変わり、それに呼応して私も俯きかけていた首を持ち上げる。
 咲夜さんは、ちょっと意地悪そうな笑みをたたえている。さっき、警備員がしていたのと同じような。
「吸いたい、とは仰るかもしれませんね。珍しい方ですから、貴方は」
 全く嬉しくないご報告だった。
「お断りしますとお伝えください」
 話が通じればの話だが。
「話が通じれば、そのときは」
 やっぱり通じないのか。
「ふふ」
 いや、だからにこやかに返されても反応に窮するというのに。
 それからしばらく、代わり映えのしない豪奢な廊下を歩き続けて、ようやく目的の部屋に辿り着いた。そのお嬢様とやらに会うにも何をするにも、あちこちが解れて傷だらけの格好をしたままでは不都合があるということで、まず私の手当てをすることになったのだ。
 が。
「――何故」
「まあいいじゃないですか」
 よくない。
 と口に出して言えばいいのだが、有無を言わせぬ咲夜さんの態度、それを当然と考えている彼女の天然さ、不遜さを覆す力など今の私にはない。蓮子ならやってやれないこともないだろうが、嬉々としてこの状況を受け入れそうな気もする。というか多分そう。
「はあ……」
 出すまいと決めていた溜息が漏れる。先程よりスースーするようになった下半身が煩わしく、上半身の輪郭を際立たせるエプロンドレスのデザインにやりどころのない怒りを覚える。ホワイトプリムの感触は、幼い頃に好んで装着していたカチューシャにも似て、悪い気はしなかった。けれども、何故こんな格好をしているのか、という疑問は残るけれど。
 メイド服。
 汚れて解れた服を繕い直すという名目で、他の服に着替えてほしいと言われた結果、用意されたのは咲夜さんが着ているのとほぼ大差のないメイド服だった。絶対、他に何かあっただろうと私は思うのだが。
「まあいいじゃありませんか」
 いくら尋ねても、咲夜さんはそう答えるばかり。取り付くしまもない。
 やっぱり嫌がらせなのだろうか。暗に早く帰れと言っているのか。この格好でか。
 泣きたくなってきた。
「お似合いですよ」
 フォローになってない。
 露骨に肩を落としている私を前にしても、彼女は可愛らしく手を合わせて満足げに微笑んでいる。自覚症状がないというか、天然というか、私も何故かよく言われることだけれど、捉えどころのない人である。
「では、傷の手当てを」
「いや、脱いだときにやった方が早かったんじゃ……」
「どうどう」
 なだめられた。意味が解らない。
 正面からぶつかっても相手にならないときは相手にすべきでないと、蓮子という悪友を持った私には解る。ただ嵐が過ぎ去るのを待つがごとく、擦り剥いた肌が消毒されるのをじっと耐えるのみである。手当てには慣れているのだろうが、若干染みる。
 備え付けのベッドに座り、特に目立った会話もなく、されるがままに身体を修理されていく。保健室じみた部屋なら鏡があって然るべきだと思うのだけど、吸血鬼が棲む屋敷だけあって、それらしきものはどこにも見当たらない。でも、今の自分が一体どんな格好でどんな顔をしているのか、あまりにも恥ずかしくて、とてもじゃないが直視する気にはなれない。その意味では、吸血鬼に感謝の念すら湧いてくる。
「終わりましたよ」
 ガーゼや包帯といったものは付けず、軽い消毒や軟膏のみで手当ては済んだ。実際、それほど深い傷があった訳でもなし、うっすら感じていた痛みもほぼ無くなっている。
「ありがとうございます」
「いえ、私も良いものを見ることができましたから」
 あんたのせいだよ。私が自主的に着替えたみたいに言うな。
 口に出して言いたくても、無性に楽しそうな彼女を見ていると、あまり気を殺ぐのも悪いように思えてくる。我が事ながら、難儀な性分である。
 立ち上がり、スカートのフリルを摘まむ。季節柄、この格好は冷えるだろうと思ったが、こっちは多少なりとも気候が穏やからしい。下手に動けば確実に内部構造が露見しそうな短さでも、決して凍えるほどじゃない。
「で、どうしろと……」
 咲夜さんを一瞥する。一体、彼女は私に何をさせたいのか。解る気もするが、解ろうとする気はない。
「折角ですから、メイドのお仕事でも体験してみます?」
 目的はそれか。
 でも、メイドの数は十分に足りているようにも見えた。そりゃまあ、面積に対する人数は足りない部分はあるかもしれないけれど、こんな箸にも棒にも引っ掛からないような素人がひとり紛れ込んだところで、何かの役に立つとも思えない。
「大丈夫ですよ。やることといえば、簡単なお掃除くらいですから」
 彼女が言うと簡単そうに聞こえるが、現実は広大な邸宅の中を隅々まで掃除しなければならないのだ。維持するのも一苦労である。
「でも、あんまり仕事してくれないのですけど。ウチのメイドは」
 肩を竦める。
「そうなんですか? 見た目、ちゃんと働いてるように見えましたけど」
 廊下の途中ですれ違ったメイドは――誰も彼も羽が生えていて、おそらく妖精なのだと思う――、みな一様にせっせと窓を拭いていた。廊下を掃いたり拭いたり磨いたり、ひとまず形だけはちゃんとメイドをしていた。
 が、メイド長に言わせれば、どれも苦笑気味の代物らしい。
「私がいましたからね。メイド長の目の前で仕事をサボっていたら怒られる。気付かれていないとでも思っているのかしら、いつもほとんど仕事してないこと」
 困ったわね、と息を吐く。溜息と呼ぶには軽く、呼吸というには少し重い。
「あ、ごめんなさい、愚痴になってしまいましたね」
「いえ、よくあることですから」
 何度言っても待ち合わせに遅刻してくるとか、対人関係にはよくあることだ。
 連鎖的に嘆息しそうになって、すんでのところで堪える。咲夜さんは相変わらずお手本のような微笑を浮かべたまま――言い方は悪いが、どこか氷のような印象を受ける――踵を返した。
「申し訳ないのですが、お嬢様は今ご就寝中でございまして。準備が出来次第お呼び致しますので、それまでこちらでお待ち頂くか」
 横向きに見える彼女の立ち姿は、少女だからというには少しばかり細すぎるきらいがある。心労が絶えないのか、遺伝か、それ以外に何か理由があるのかは解らないけれど。
「もしよろしければ、お屋敷の中を見て回られても構いませんので」
 それでは、と一礼を残し、咲夜さんは部屋を出て行く。その背中に声を掛けるべきか迷ったが、結局、何か意味のある言葉を紡ぐことは出来なかった。独り、薬の匂いがうっすらと立ち込める部屋に取り残される。
 見知らぬ場所にいる寂しさ、心細さは確かにあるものの、何よりも退屈で仕方なかった。独りきりで妄想に耽ってみても、蓮子ほど想像力が逞しいわけでもなし、殺風景な部屋を見渡しても、血の滴る文字で呪言が記されているということもない。
 布団があるから寝てしまおうか。だがそれも勿体ない。折角、夢の中を自由に散策できるのだから、歩き回らなければ損だ。このあたりの行動力は蓮子譲りで、あっちにいると振り回されることも多いけれど、今はそのパワーが源になっている。人生、何が役に立つか解らないものだ。
「よし」
 意気込み、軽く頬を叩き、膝を打ち、ふかふかのベッドから腰を上げる。
 相当広いお屋敷だから、迷わず戻って来られる確証はない。それでも行くのだ、あとは何とかなるだろうという楽観も、いわば悪友から学んだ考え方で、免罪符にも等しい責任転嫁だが。
 扉を開き、部屋の外に出る。血をぶちまけたような鮮やかな紅、殺人事件が起こっても即座には解るまい。積極的に太陽光を取り込んでいないせいか、廊下はかなり暗い。足元が覚束ない程でもないが、気付かずに何かを踏んで躓きそうな気もする。
 息を吸う。
 世界を自分の中に取り入れる。
 ここが夢であれ現であれ、私がここにいる限り、私はこの世界の一員なのだ。存在する理由もなければ、離脱する理由もない。瞳を閉じ、まぶたを開け、見慣れない景色に目を細める。
「……広い」
 呟く。いずれにしろ、進まなければ始まらない。足を踏み出す。絨毯が敷かれていない廊下だから、足音は高く響いた。あまりの広さに、それ以外の物音は何も聞こえない。お化け屋敷のような、月のない闇夜のような、独りぼっちの深淵が身に染みる。
 しばらく歩いていると、薄暗い廊下や鮮烈な色彩にも目が慣れ、価値が不明瞭な壺や絵画、曰くつきの匂いがぷんぷんする刀、剣、甲冑の類、何の皮肉か解らない十字架のオブジェ――等々、豪邸に相応しいアイテムの数々を発見することに成功した。鎧あたりは私が通り過ぎると同時に活動を始めたりして、涙目になっているところをメイド妖精たちが笑っていた。中の妖精は然る後に転倒し、起き上がれそうもなくじたばたしていたから助けてあげた。ぎこちなく「ありがとう」と口にする妖精は、幻想の存在でなくても自然に可愛いと感じられる生き物だった。
 妖精たちは、見知らぬ人間が現れたと見るや一度は逃げ出すのだが、廊下の陰からちらちらとこっちを窺い始める。振り返れば姿を隠し、気付かない振りをすれば後ろから付いてくる。だーるまさんがころんだ、とほくそ笑み、気ままな散策を続行する。
 誰からも揶揄されなければ、こんな格好でもあまり気にはならない。多分、鏡を見れば卒倒するくらい恥ずかしくなると思うけど、メイドばかりの館にあっては、この服装が場に馴染んでいる。脚がスースーするのは問題だが、好き好んで覗く輩もいない。
 いや、いないから平気ってわけじゃないけど。うん。
「……あ、玄関」
 だだっぴろいホールに着いたかと思えば、いちばん初めに足を踏み入れた場所である。ビロードの絨毯は踏んでも足音ひとつせず、首が痛くなるくらい仰がなければ見えないシャンデリアは、玄関の扉から漏れるわずかな光にも鈍く輝いている。無駄に太い柱は天井を突き抜け、大階段は転げ落ちたら捻挫どころの話じゃない。
 その階段の手すりに触れ、踊り場と、階下の広場を見渡す。
 圧巻だった。もし、この場所が満員になったならば、ここから見下ろす風景はさぞや圧倒的だろう。
「……はー」
 嘆息。本当、大金持ちのやることは馬鹿げている。スケールが大きすぎて、一般庶民にはとても真似できない。
 一歩ずつ、躓かないように降りていきながら、この館に棲むというお嬢様とやらの気持ちを味わってみる。
「跪きなさい!」
 これはなんか違う気がする。誰もいないことは確認済みだから問題ないけど。
 ところで、小さい頃から疑問に思っていたのだけど、踊り場はやっぱりこれくらい余裕がないと踊れないんじゃなかろうか。だから学校の踊り場でブレイクダンスする蓮子はとてもアホだと思う。邪魔だし。そういうのは学園祭だけにしてほしい、あと誰もいない放課後とか。
「とか言いながら、私も踊っちゃうんだけど……」
 独りきりでいると、何だかテンション上がっちゃうよね。自分でもよく解らない腕振りとか首振りとか腰振りとか、まあ私は蓮子ではないのでそんなに派手な動きはしないんだけど。
「……ごーごー」
 やばい楽しくなってきた。
 何がごーごーなんだろう。
「何がごーごーなのかしら」
 死んだ。
「ねぇ、ごーごーって何?」
 ごめん許して。何も聞かないで。
「いきなりうずくまっちゃって、具合でも悪いの? さっきまで馬鹿みたいにくねくね踊ってたのに」
 ですよね、馬鹿なんです。蓮子のこと言えないんです。だから許して。
「……意味が解らないわね」
「私も……」
 呆れ返った声の主が溜息を吐き、ゆっくりと階段を降りてくる。うずくまっているから姿は見えないが、腕組みをして、不遜な態度を保っているような気がした。声の調子からして尊大で、己の力に疑いを持たない、純粋無垢な子どもの気配を纏っている。あっちの世界なら、さっきの私を発見しても優しく見なかった振りをするべきなのに、気付きましたよと言わんばかりに堂々と登場するエアブレイカーっぷりは、まさしく天性のものと言えるのではなかろうか。
 しゃがみこんだまま、恐る恐る、気配のする方を振り返る。
「何よ」
 やっぱり腕組みしていた。
 声から予想した通り、姿形は幼さを宿している。薄暮に消える青空のように儚い色をした髪、閉じ切らない唇からまろび出た牙、背中より広がる羽は新たに備え付けられた腕にも見え、今にも絨毯の上に羽根を落として飛び去るかのような躍動感に満ちていた。
 吸血鬼。
「お嬢さま」
「メイド」
 指を差すのはどうかと思って指さなかったのだが、お嬢さまは普通に指を差す。そういえば、彼女から見れば今の私はごくありふれたメイドなのだ。侵入者と間違えられ、いつぞやの妖精みたいに攻撃されなかったのは幸いだが。
「いちいち挙動が愉快だわね。妖精メイドのくせに羽も無いし」
「……お嬢さまは、まだ眠ってらっしゃるはずでは」
「私の身体なんだから、私が起きたら私は起きるわよ」
 文句ある? とでも言いたげな口調である。メイドのくせに生意気ね、と言わないだけ良心的とも判断できる。
 ずっとしゃがんだままというのも据わりが悪い。紅潮した頬を擦りながら、何食わぬ顔ですっくと立ち上がる。目線は、数段上に立っているお嬢さまと同じくらい。ふたりとも踊り場に並んでしまうと、どうしても目線が合わなくなって話し辛くなる。彼女がそれを良しとしないのか、こっちの都合を考えてくれているのか――九分九厘、前者だとは思うけれど。
 何から説明すべきか迷っていると、突然、お嬢さまの目の色が変わる。
「……あぁ、そうなのね。妖精メイドにしちゃ、随分と……、随分だと思ったわ」
 随分と何なんだろう。
 事情を察したらしいお嬢さまは、咲夜さんと同じように恭しく一礼する。咲夜さんのそれと異なり、貴族が好んで行うような、己の気位と私の立場を分け隔てる麗らかさで。
「初めまして。紅魔館の主、レミリア・スカーレットよ。生まれてこのかた、ずっと吸血鬼をやっているわ」
 微笑む。咲夜さんとも、警備員さんとも趣の異なる、『種』を強く匂わせる笑み。
 恐れるべきか逃れるべきか、行動の選択に悩む。戦うという選択肢は、元より存在していなかった。身体は動く。戦慄も薄い。異種に対する恐怖は、直前の冗談めいた雰囲気に掻き消され、程よい好奇心だけが残った。
「マエリベリー・ハーンです。人間やってます」
 スカートを摘まむような瀟洒なものではないけれど、それなりに格好の付いた会釈だと思う。レミリアお嬢さまは何も言わないが、表情からするに不快でもないようだ。
「ふうん。なるほどね」
 瞳を細め、含んだ笑みを零す。舌なめずりは流石にやりすぎだろうと思ったが、なかなか様になっているから困る。レミリアは静かに口を開き、わざと唇の間から淫猥な水音を立て、何事かを口にする。

「貴方、素敵な目をしているわね」

 ――、――。
「ふふ、こわい目」
 茶化されても、あまり良い気分にはなれない。まずは落ち着こう。目のことを悟られるのは、別に悪いことじゃないんだ。だが、急に現実に引き戻されたような、冷水を浴びせかけられたような衝撃が走って、生の感情が剥き出しになってしまった。
 深呼吸をする。レミリアは、ただ黙ってこちらの動向を見守っている。
「……目は、目。私は私よ。それ以上でも、それ以下でもない」
 何とか、それだけを言い返す。
「そうね。能力に引きずられるのは良くないことよ。力のために自分があるんじゃない、自分のために力があるんだもの。それを忘れないことね」
「忘れてない」
「そう。ならいいんだけど」
 笑う。何故か、彼女と話していると、心臓を鷲掴みにされるような不安がある。声を発するだけで、私の中の致命的な部分を根こそぎ持って行ってしまうような。
 警戒する私の横を、レミリアは素知らぬ顔で通り過ぎる。軽い足音は絨毯に染み込み、吸血鬼は優雅な足取りで地上に下る。矢のような視線をその背中に突き刺しながら、私は何も言えずにいる。
 そして階下に降り立ったレミリアは、こちらに一瞥もくれず、芝居めかしてパチンと指を弾く。
 ――ぞわり。と、見えない蟲が背中を這いずる、そんな悪寒がした。
 逸らしかけた瞳をギリギリ前に向ければ、今まで影も形もなかった人物が、さも当然のようにレミリアの隣に控えていた。
「咲夜。少し外に出るわ」
「では」
「あぁ、貴方はいいの。貴方は、そこにいる異邦人の相手をしておやりなさい」
 やっぱり親指で私を指し、背中越しに私を窺う。
「……よろしいのですか?」
「えぇ。私はもう十分遊んだから」
 遊ばれている自覚はあったが、何も聞こえるように言わなくても。
「左様ですか」
 咲夜さんもあっさりと同意して、お嬢さまの背中を静かに見送る。レミリアは口笛など吹きながら、玄関から光差す世界の中に躍り出る。
「あ」
 話の流れがあまりに自然すぎて、吸血鬼に太陽光は致命的であるという大原則を忘れていた。が、蒸発したり灰になったりしていないところを見るに、あまり致命傷でもないらしい。にしても、わざわざ日当たりの良い場所を選ばなくてもいいのに。
「己を曲げるのが嫌いな方なんですよ」
 振り向き、咲夜さんは柔らかく告げる。そんなものかしら、と独り言のように呟いて、凍り付いていた身体を動かす。幸い、よろめくこともなく身体は階段を下ってくれた。
 彼女の隣に立ち、開け放たれた扉を眺める。……実は消滅してましたとかだったらどうしよう。笑えばいいんだろうか。
「お嬢さま、起きてましたね」
「気紛れな方ですから」
 その一言に、彼女が担っている全ての苦労が集約されていた。愚痴とも、惚気とも取れる発言を、私は体よく聞き流すことにした。
 メイド長の格好は先程とほとんど変わらず、箒を持っていなければ掃除をしていたことにも気付けなかった。袖にも裾にも埃ひとつ付着していない。あんまりじろじろ見るのも悪いかと思ったが、「どうかしたんですか?」と佇む彼女の立ち姿に小動物の雰囲気を垣間見、しばし不恰好に見つめ合う形となった。
 そんな私の動向に、不自然なものを見出したのか。咲夜さんは言う。
「何か、お嬢様に言われました?」
 聡い。
 首を縦に振ることも、横に振ることも出来ない。目を逸らすのも不義理な気がして、申し訳なく咲夜さんの表情を窺う。それでも、彼女はやっぱり掴みどころのない笑みを浮かべるのだ。
「お嬢様は、吸血鬼という存在を恐れる者の血しか吸われません」
 元々小食なのですけどね、と付け加え、苦笑する。きっと、吸血鬼の従者ゆえの悩みも多いに違いない。
「ですから、自分が吸血鬼であることを知ってなお、恐れずに立ち向かってくる者が好きなんですよ」
 だから、悪気は無かったとでも言うのか。だから嫌いにならないでくれ、なんていうのはそれこそ傲慢だ。吸血鬼がじゃれてるつもりでも、こっちには命を落とすかもしれない傷を負うことだってある。
 ――でも、私は一体、何に怒っているのだろう。
 発端は、目。私の中に宿っている目と、その奥にある秘められた何か。
 ふと、まぶたの上から、熱を帯びた眼球に触れる。
「メリー?」
 びくッ、と震え、咄嗟に指を離す。
 目の前には、不安げに箒を握り締める咲夜さんがいる。何をそんなに怖がっているのか、私にもよく解らない。が、これ以上、私の目に触れるのは良くない気がした。それは、夢が覚めるまで忘れることにしよう。
 ぶんぶんと首を振り、多少強めに頬を張り、若干腰が引けている彼女に強く宣言する。
「問題ありません。いけます」
「……どこに?」
 どこにだろう。たぶん未来とか輝ける明日とかそんなところかも。
「……ごめんなさい、気が動転して」
 正直に謝る。彼女は「いいのよ」と苦笑していた。ちょっと恥ずかしい。
 やたらと広い玄関だから、小声で話していても声が響く。レミリアが登場する前の独り言も、メイド妖精に聞かれていた可能性もある。夢から覚めれば二度と会わない関係だろうけれど、こないだ来た人間がどうのこうのと囁かれているかと思うと夜も眠れない。顔も火照る。
「……熱でもあるの?」
「いえ、本当に何でもないですから……」
 ひとつ言えるのは、彼女に知られたらそれこそすぐさまここを去らねばならないということである。居たたまれないにも程がある。
「で、これからどうしましょう」
 閑話休題、咲夜さんは私に問う。
 あのお嬢さまは咲夜さんに私を預けたようだが、本来の目的はレミリアと会うことだから、表立ってやるべきことは特にない。考えてもいない。基本、観光の意味が強い旅であるから、このまま紅魔館の敷地内を探索するのも悪くはないと思っている。咲夜さんは何も言わないが、ずっと握り締められている箒を見ていると、ずっと私に付いていると掃除の邪魔にしかならないのではなかろうか。それもまた彼女の仕事だとしても、私自身の我がままに彼女を付き合わせるのは、あまり好ましくなかった。
「そう、ですね。お嬢さまにもお会いできましたし、できれば、このお屋敷をもうちょっと見て回りたいな――」
 と。
 震動が走る。建物全体に爆音が轟き、次いで間の抜けた悲鳴、壁が崩れる音。
 じりじりと肌が焼け、かすかな震えが指先に走る。閉じる機会を失って、中途半端に開いた唇から、魂の残りかすにも似た空気が漏れる。
 冷静になれと心は叫ぶ。行動しろと魂は喚く。反する信念が相克し、せめぎあい、身体は硬直した。
「メリー」
 咲夜さんは凛と呟き、私の肩に手を置く。過酷な職場であるはずなのに、手の肌が荒れている様子はない。まだ若いからか、でもそれなら、私と同じくらいの年齢なのに、どうしてこの事態にも凛としていられるのか。
 同世代でありながら、住む世界が異なる違和感。けれども私たちの間に隔たりはない。
「お嬢さまにお願いされた身だから、あまり貴方から離れるのも良くないのだけど」
 ――少々、お仕事してきますね。
 指先で下唇に触れる、少女らしい仕草でそう述べて、十六夜咲夜は手のひらに銀のナイフを作る。作った、としか言いようのない手捌きで、何本ものナイフを手のひらに収める。そのたび、私の目はキリキリと軋みを上げる。
 ああ、そうか。
 この目は、境界だけじゃなくて、摂理を越える現象にも律儀に反応するのか。
「それでは」
 紅魔館のメイド長は、その瞬間、姿を掻き消した。
 ばつん、と意識が飛びかけるほどの衝撃が、目を通して脳裏に走る。痛みはない。不快感もない。ただ、見えないものを無理に見ようとして、頭がパンクしそうになっているだけだ。なまじ、形にならないものを形にしてしまう目だから、出来ないことをやろうとする。やらなくてもいいことをやる。禁忌に触れる。
「……よし」
 今こそ、行動する時だ。
 震えは止まった。膝を打ち、構える準備もなしに駆け出す。
「全力で逃げる……!」
 私の足は、迷わず玄関に向かう。
 深い絨毯の海を駆け抜けて、スカートが短いことも厭わずに扉を潜る。薄暗闇から一転、瞳を突き刺す閃光に目が眩むけれど、躊躇いは一瞬で、その後は轟音を背に頭を抱えながら一目散に走り去る。
 豪奢な庭園、お花畑に恍惚とした眼差しを送っている余裕はない。目的地に辿り着ければ、私の中のちっぽけな戦いは終わる。完全に他人任せで、主人公のはずなのに全く主役じゃない、出来損ないの物語は間もなく終焉を迎える。
「情けないなあ……」
 でも、しょうがない。夢の世界も、自分の思うままにはならないものだ。
 石畳を蹴り、上空より鳴り響く炸裂音を抜け、内と外を隔てる門へ。紅魔館と門を繋ぐ道は長く、駆け抜けるまでの数十秒が無限にも感じられる。地面に着弾する何らかの物体が、いつ私の頭上を襲うかもわからないのだ。危険と隣り合わせの、不安と恐怖がない交ぜになった極限状態なのに、不思議と身体はよく動く。耳をつんざく爆音が背中を押し、大地を揺らす震動が靴を浮かせる。それでも私は、立ち竦むこと、うずくまることを良しとせず、栄光に向かって逃走する。
 門は既に開け放たれ、いるはずの誰かも見当たらない。捜すより先に門を抜けることが先決だと悟った私は、速度を落とさずに走り続ける。膝に掛かる自重が脚を軋ませ、内側から骨を砕かんと牙を剥く。減量する決意を胸に抱き、私はゴールテープまであと一歩のところに到達していた。
 最後まで、気を抜いたつもりはない。けれど、上空から降り注ぐ凶弾に対して、何らかの対策を取っていたかといえば、そんなこともなかった。
「――、え」
 だからこれは当然の結果である。
 嫌な予感がして振り向いてみれば、そこには以前見たことのあるエネルギー塊が押し迫っていた。気付くのが遅く、立ち止まっても走り抜けても、確実に直撃する位置関係にある。思えば、今まで当たらずに済んだのが奇跡的なのであって。
 だめだ、余計なことばかり考えて――。
「ッ!」
 咄嗟に頭を抱えてしゃがみこむ。間に合わないと知っても、身体は動くことをやめてくれない。もしこの夢が終わるのなら、これ以上ないタイミングなんだろうなと思いながら、私は。

「ご苦労さま」

 一閃。
 貫き手を弾丸に振りかざし、無造作に叩き落す。たったそれだけで、エネルギー塊はこっぱ微塵に砕け散り、跡形も無く消え失せる。後に残されるのは、探し求めていた人物の姿と、急な展開に付いて行けなくなった主人公のみである。
「あちちち……」
 こちらを振り向きながら、彼女は弾丸を打ち落とした手のひらに息を吹きかけていた。危機意識のない調子に、硬直しかけていた心が解きほぐされる。
「警備員さん!」
 叫ぶ。
「あらま。随分と可愛らしいお姿だこと」
 軽い調子で戯言を放つ。動悸が速まっていることも相まって、瞬く間に自分が赤面していくのが解る。そんな自分を見て、彼女は屈託の無い笑みで出迎える。相変わらずだ、まだ一日も経っていないのだから当たり前だけど。
「そういや、まだ名前も言ってなかったのよね」
 忘れてたわ、と他人事のように呟く。紅い髪はところどころが解れて乱れており、肌や服にも擦り傷、切り傷、煤の跡が見て取れる。門を守る者として戦い、その結果がこの有り様である。
 でも、彼女は私の危機に駆けつけてくれた。それ以上のことはない。
「紅美鈴、ね。まー悠長に自己紹介してる余裕もなさそうだけ、ど!」
 弾丸の雨は降り止まない。散発的に襲来する星屑のような物体を、彼女はその都度叩き落とし、蹴り潰す。保護具や、それらしきオーラを纏っているわけでもないのに、その迎撃力は尋常じゃない。素手であるせいか、熱いとか痛いとか冗談まじりに口走ることもあるのだけど、それさえも人間味を忘れないための方便であるように思える。
「ふッ!」
 飛来する蒼い星を後ろ回し蹴りで迎撃し、打ち砕かれた流星が壁に激突する。たったそれだけでも壁を削り、黒い煤を刻む威力がある。涼しい顔で私に背を向ける彼女――紅美鈴は、背中越しに話しかけてくる。
「全く、切りがないわね……、もうちょっと手加減してくれてもいいのに。メイド長も」
「やっぱり、戦っているんですね。咲夜さん」
「ま、荒事担当だからしょうがないんだけど。こっちの仕事を消化すればするほど、別の仕事が増えるんだから大変だわ。後片付けとか特に、誰も手伝わないしー」
 あ、私は手伝うけどね? と地獄耳を警戒して付け加える。
 護られているという実感が湧き、彼女に任せれば大丈夫だという安心感が生まれると、少しずつ視野が広くなる。ふと目を向けたお屋敷の玄関からは、仕事をしないことで有名なメイド妖精たちが、何やら楽しげな様子で外に飛び出していた。上空に向けて、弾のようなものを盛んに撃っているところを見ると、一応はメイド長に加勢しているということになるのだろうか。
 そう思って空を見上げてみると、わりと明後日の方向に弾をばら撒いている。あんまり意味はないようだ。
「あの子たちは、ただ楽しければいいって感じだからさ。大騒ぎが好きなのは人間だけじゃないってね。まー別に私も嫌いじゃないんだけど、そのせいでメイド長の負担が増えると自動的に私の負担も増えるもんだから勘弁至極」
 愚痴りながら、正面より迫り来る火球を振り払う。まさに火の粉を払うような無造作な動きで、それでも跡形も無く霧散させる。ちなみに火球を放ったのはメイド妖精の一角だったが、よくある状況なのか美鈴さんもいちいちそれに構ったりはしない。
「ん……」
 攻撃的な色に染まりつつある空を見上げても、メイド長も他の誰かの姿も見付けられない。それもそのはず、私は美鈴さんの陰に隠れているから、上空で動き回っている誰かの影を完全に追うことは出来ないのだ。
 ここから出るのも、動くのも怖い。ただじっとしていれば安全なのに、目は外に向く。好奇心を完膚なきまでに殺し切ることが出来るなら、私はおそらく紅魔館に足を踏み入れもしなかったろう。
 歯痒い。
「……見たい?」
 問われる。はっとして顔を上げると、仕方ないわねえと苦笑する美鈴さんの頼もしい横顔があった。躊躇いがちに頷くと、彼女は「よっしゃ」と手を叩く。荒事担当のせいか、仕草がいちいち凛々しい。男っぽいというか、大雑把というか、けれどもしなやかさは損なっていない。同性にも異性も人気があるに違いない、認めるのは悔しいけど。
「ここはまだ近いから、もうちょっと離れれば問題ないわ。空は、飛べ……、ないのよね。まーそればっかりはしょうがないか。ちょい揺れるかもしれないけど、そのへんは堪忍して」
 彼女は、へたりこむ私の傍らにしゃがみ、何かを求めるように手招きをする。意図するところが解らずに呆然とする私へ、業を煮やした彼女が手を伸ばす。
「きゃ……!」
 私の肩に右手を、そして膝の下に左手を。至って真面目な表情で、人の太ももをまさぐるような真似をするから、まさかそっちの気があるのかないのかと戦々恐々する間もあればこそ、彼女は屈み込んだままの姿勢で私を抱え上げようとしていた。
 ――あぁ、そういうことか。
「よっ……!」
 でも、腰が悪くなりそう。
 いやそんなに重くはないと思うけど。思うだけだけど。
「重くないよ?」
 わざわざ言わないでください。
「あ、すごい……」
 そうこうしているうちに、美鈴さんは苦もなく私を抱え上げた。最初に力んだのは何だったのかと思ったが、あまり好ましくない答えが返って来そうなのでやめておいた。
 しかし、お姫さまだっこ。
 彼女を普通の人間の範疇に収めていいか判然としないが、それでも女性に軽々と抱きかかえられるのは如何なものか。何と言いましょうか、初めてお姫さま抱っこされた感想と致しましては、非常に顔と顔が近くて大変です。息が臭かったらどうしようかと思います。
 私の窮状を察してか、美鈴が照れ隠しのように尋ねる。
「いやあ、やっぱりこういうのは格好いい男子にやってほしかった? そうでもない?」
 返答に困る。気になるのは、現状ある一定の方向からスカートの内部構造が丸見えだということくらいである。
「もし怖かったら、胸に顔埋めててもいいから。まー無駄にでかいけど気にしないで」
 自慢なのか何なのかよく解らない。最後にぐいッと私を抱き寄せて、鳥が空へと飛び立つよりも滑らかな流れで、紅美鈴は空に舞い上がった。
 ゆっくりと、私を驚かせないよう、風と重力をほとんど感じさせないままに。
 とりあえず、胸に挟まれて息がしにくいんですが。
「むぐぅ……」
「あ、ごめんごめん」
 拘束を緩め、胸と顔の間に余裕を持たせる。相手が女性でも、これほど密着していると何やら変な気分になりそうだ。ほのかにいい匂いもするし。香水なのか花の香りなのか解らないけれど。
 いかんいかんと首を振り、空に誘われていたことを思い出す。頬を撫で、髪を梳く風は冷たさを増し、いよいよ空中に漂っていることを無視するのも難しくなった。屋上から地面を見ても怖くないのは、ちゃんと足場があるからだ。今はどうだろう。彼女に支えられ、機嫌を損ねでもしない限り落ちることはないかに思われる。
 美鈴さんを見た。すごく近い。なのにシワのひとつもないのは何だ。たるめ。
「……、……」
 彼女から目を逸らす名目で、視線を外に向けた。
 鳥の視界か雲の視界か、あるいは神の視界というべきか。でも、彼女たちが当たり前のように捉えている視界ならば、これはただの人の視界に過ぎないのだろう。
 紅くそびえるお屋敷を眼下に、不夜城を取り囲む大きな湖が見える。森は広く彼方まで続くかに思え、点在する洋館や神社、その向こうにかすかに見える人里が、遥か遠くに離れた異界であるような感想を抱いた。
 前を向く。
 少女がふたり、向き合いながら弾を撃ち合っている。そうとしか言いようがなかった。でも、殺意や憎悪が込められた攻撃ではない。上手くは言えないけれど、当てることじゃなく、避けることを目的としているような構成。潰そうと思えば簡単に潰せるはずなのに、そうしないことには明確な意味があるように思えた。
 メイド長がナイフをばら撒く。四方八方に展開される銀の残光は、辛うじて私たちのもとには届かない。対象となっている少女は、焦る様子もなくその場に待機していた。
 彼女は掃除に使うための箒に跨り、黒い三角帽子からはウェーブのかかった金髪がはみ出して揺れている。外見年齢は私や咲夜さんと同じくらい。意志の強い眼差しに射竦められていると、何もしていなくても心が折れてしまいそうになる。
 魔法使い。
 ありきたりだけれど、そんな単語が脳裏をよぎる。
「弾幕ごっこ」
 美鈴さんが呟いた、聞き慣れない言葉の意味を問うよりも速く、事態は転じた。
「速いねー」

 彗星。

 同心円状に幾重にも放たれたナイフを掻い潜り、黒白の少女は星を撒き散らしながらナイフの空白地帯に飛び込む。慣性はすぐに殺せない。それを知ってか、咲夜さんは角度を付けて同心円状にナイフを射出する。少女の到達位置を予測し、確実に衝突する場所へ。
 だが、少女の慣性は捻じ曲げられた。
 そこにナイフがあることを確信していたかのように、少女は被弾の直前で軌道を変える。曲がる、というよりもへし折るといった方が近い強引さで、半ば錐揉み状態になりながら尚も咲夜さんに接近する。
 撒き散らされる星屑とナイフの海、その渦の中心にある銀色の少女は、一歩も退かずナイフを投擲する。小さな魔法使いは角度を変えて巧みに回避する。距離は縮まり、空は諸々の物体で埋め尽くされる。
「弾幕ごっこはね」
 先程の言葉の意味を、美鈴さんは耳元で丁寧に解説してくれる。眼前の攻防に目を奪われていた私は、申し訳ないけれど耳だけを彼女に傾けた。
「隙間のある決闘なの。隙間は余裕、相手を許す猶予。殺伐とした争いは見るに耐えないけど、ルールに沿った闘いなら、見てる方も気楽でいられるでしょ?」
 解るような、解らないような。あえて解らせないように語っている気もする。彼女の笑みが意味するものを、私はまだ知らない。それを知る時は、この世界にどっぷりと浸かって抜け出せなくなった時だと思う。
 意識を前に向ける。状況は更に行き詰っていた。
 距離が近付けば回避する速度も上げなければならないのに、魔法使いはそれを難なくやってのける。ある程度の予測はあるにせよ、相手の癖を先読みして動いている可能性も否定できない。いよいよ両者が交錯するか否かという間合いに至り、瞬きさえ許されない状況に息を呑む。
「来る」
 不意に、美鈴さんの腕に力が入る。距離があっても、決して油断できない位置にあるということか。何も出来ない私だけど、事態を見守ることだけはしていたかった。
 散らばる星屑の海から、魔法使いが右手を掲げる。
 咲夜さんよりも魔法使いの方が早い。それは素人の私にも明白だった。過度に放出された銀の刃と星の欠けらは、両者の進退を拒んでいる。逃げも隠れもできない。本来ならば。私ならば白旗を上げるしか術がない。それでも、彼女なら。
 ――ば、つん。
「だめ!」
 叫ぶ。
 ナイフを撃ちかけた体勢から、十六夜咲夜は開眼する。既に開いていた瞳の奥にある何かを開く。私にはまだ見えない何か、彼女には見えている世界の裏。停止した世界、硬直する時間。全てを支配する感覚、薄れゆく自我、際限なく膨張する空間の果てに、吸血鬼の従者は何を知り何を見るのか――。
 目が眩む。
「大丈夫よ」
 美鈴さんの腕が心強い。辛うじて、目を逸らさずに済んだのは幸いだった。
 奇妙な触覚を経て、瞬きの暇もなしに、十六夜咲夜は忽然と姿を消した。けれど魔法使いは動じる様子もなく、かざした右手を、初めからそうするつもりだったと言わんばかりに、自らの背後に差し向ける。次いで、左手もわずかに遅れて少女の後方を狙う。
 視野を広げる。
 十六夜咲夜は、始めから決まっていたかのように、魔法使いの後方でナイフを構えていた。
「ミスディレクション」
 呟く。それは手品の手法。ある物体に注目させ、その裏にある真実から目を引き離す。
 両者は同時に力を解放する。私は、歯噛みするメイド長と対照的に、厭らしい笑みを浮かべる魔法使いを見た。レーザーはナイフよりも速い。構えるのが速ければ尚のこと、けれど最後の最後まで勝負は投げちゃいけない。白旗を上げるのは、完膚なきまでに叩き潰されてからでも遅くはない。そして。

 決着。

「あー」
 美鈴さんは口惜しげに呻く。何条にも放たれた光線のうちの一条が、咲夜さんの肩を直撃した。決して致命傷ではないが、戦闘が続行できる状態でもない。彼女はふらふらとよろめきながら、凱歌を上げるが如く星屑を撒き散らし、紅魔館に突撃する魔法使いを見送る。
 私たちはゆっくりと高度を下げ、徐々に降下していく咲夜さんと合流する。彼女はまだ魔法使いの去り行く方向を眺めている。剥き出しになった肩は多少煤けているが、本人も痛がっている様子はなく、「当たった」というだけに過ぎないようだ。
「咲夜さん!」
 そうと解っていても、つい大声を出してしまう。かすかに動揺する私に弱々しい笑みを返し、咲夜さんは自分の肩を押さえる。
「お疲れさまです。危なかったですね、今日は」
 美鈴さんがメイド長の労を労う。
「まあ、ね。メリーの声を聞かなかったら、直撃していたかもしれないわ」
 ありがとう、と感謝される。私も、何故あんなことを口走ったのか解らなかったから、首を横に振るしかなかった。
 魔法使いは、間もなくお屋敷に侵入する。高度があるためか、屋上から内部に忍び込むらしい。
 けれど、美鈴さんも咲夜さんも、追い着けないと知りながら魔法使いの後を追う。背後から攻撃して当たるかどうかは疑問だが、そもそも彼女たちがそれを実行する気はないだろう。決闘という名目があるのなら、宣言もなしに背後から撃つなどという真似がまかり通るはずはない。では何故、彼女たちは魔法使いに追いすがるのか。その訳を知りたくて、私は紅魔館の屋上を凝視する。
「――、――あ」
 運命。
 初めて、摂理を超えた現象の線を見る。運命線。赤い糸と呼ぶに相応しい因果の流れが、全て紅魔館の屋上に集約されている。蜘蛛の糸の中心があそこにあり、咲夜さんが敗れるのも、その上で魔法使いが屋上から侵入するのも、始めから定められていたかのように。
 そういえば、あのお嬢さまは「外に出るわ」って言ってたっけ。
「ようこそ」
 てぐすねを引く蜘蛛の手が見える。聞こえるはずのない幼な声を聞く。
 魔法使いの動きが止まり、進路を変えるか突貫すべきかの選択を迫られる。だが既に時計台の鐘の音は鳴り響き、戦いのバックグラウンドミュージックは始まっていた。
 不夜城が揺れる。紅い館の主が嗤う。
「――紅魔館へ!」
 傘を放り投げ、けたたましい雄叫びを放ち。

 紅い十字架が星を撃つ。

 膨大な力の奔流が、不器用な形状と化して魔法使いを迎撃する。天を突き破らんと聳え立つ真紅の塔から、時代遅れの魔法使いが弾き飛ばされる。躊躇が無ければ、逡巡が無ければ、突破することも回避することも容易だったに違いない。けれども、レミリア・スカーレットの登場は、一帯の雰囲気を震撼させるに値するものだった。
 好奇心が猫を殺すように、躊躇いは勇者を葬る。かくて魔法使いは錐揉みしながら落下を始め、それと同時に、美鈴さんと咲夜さんが速度を上げた。
 ――ああ、このために、ふたりはあの女の子を追っていたんだ。
「メイド長は怪我してるでしょ。下がって」
「冗談。舐められたら終わりの商売なのよ、こちとら」
 強がる咲夜さんの肩に、美鈴さんが軽く肘を当てる。
「うく……」
「負担なら請け負いますよ。倒れられても困るんですから」
 ね、とウィンクをする。いろいろと上手のようだ。
「……あとでごはん奢るわ」
 ありがとうございます、と言い残し、美鈴さんは更に加速する。でも、既に私を抱っこしているのに、どうやって女の子を受け止めるんだろう。まさか、考え無しという訳でもあるまいし。
 疑問に思っていると、美鈴さんはちょいちょいと私の太ももに回した指を軽く打つ。くすぐったい。
「メリー、ちょっと、私の首に手を回してくれない?」
「え」
「いいからいいから」
 やっぱりそういう趣向が……、と貞操の危機を憂えていても、美鈴は「ほら!」と急かしてくる。ええいどうにでもなれ、と彼女の首に手を回す。「離さないようにね!」と力強く叫ぶと、肩を抱いていた腕は胸の下に、太ももに回していた腕は何の躊躇いも無くパッと離す。
「ちょおぉぉ!?」
 離さないでねってそういうことか。死ぬ。これは死ぬ。美鈴なら片腕でも支えてくれる気はするが、足が付かないというのは存外に厳しい。不安定すぎる。こわい。
「痛い痛い。絞まってるー絞まってるよー」
 冷静に言われても。
 片腕の空いた美鈴さんは、辛うじて錐揉み状態からは脱した魔法使いに接近する。落下の軌道を推測し、美鈴さんは速度を殺して待機する。私は特に何もできず、ただ轟然と迫りくる魔法使いが無事であることを祈るばかりだ。
「うおぉぉ!?」
 と比較的情けない悲鳴を上げながら、金髪の女の子はこちらに背を向けて墜落してくる。そして彼女は美鈴さんの腕の中に、予定調和であるかのようにすっぽりと収まった。
 がくんッ、と勢い余って少女の首が激しく揺れる。美鈴さんにもそれなりの衝撃があったはずなのに、表情ひとつ変わった様子もない。
「おぅふ」
 吐息が漏れ、ずれた帽子の位置を直す。ニヤニヤと笑む美鈴さんから目を逸らせば、自動的に私と目が合う。お互いに、きょとんとした表情を晒す。それを恥ずかしいと思うより先に、私は挨拶してしまうことにした。
「は、はじめまして」
「おう。はじめましてだ」
 よろしく、と差し伸べられた手のひらを握り返すために必要な勇気は、残念ながら今の私には無くて。だからって、無理やり美鈴さんの首に回した手のひらを解かなくてもいいんじゃないかって、やめてお願いだから落ちるから。
「なー、これ新人?」
 指差された。悔しい。
 でも、繋いだ手のひらはそんなには大きくない。やっぱり、彼女も女の子なのだ。
 美鈴さんは「そんなところよ」と笑い、私の動揺を誘う。甘い。そう何度もあたふたするマエリベリー・ハーンでないということを、身を持って知らしめねばなるまい。
 とりあえず、深呼吸をして。蒼い瞳をキッと見据える。
「な、何のこれしき!」
 だめでした。

 †

 思えば誰しも何らかの手傷は負っていて、レミリアお嬢さまもいい感じに香ばしくなっているところを咲夜さんに助けられたというし、その中で私ひとりが唯一無傷だったわけで。
 中庭に集まった面々は、あちらの世界では滅多にお目にかかれない衣装を身に纏い、それを焦がし、引き裂かれ、傷付けられながらも、最後にはお互いに敵愾心もなく触れ合っている。
 箒に跨って空を飛ぶ魔法使い、異能の力を発揮するメイド長、あらゆる意味で隙の見当たらない鉄壁(というのが適切かどうかは不明)の門番、今は部屋に寝かされているらしいが、幼さの中に大きな求心力を秘めた吸血鬼も。
 胡坐を掻いて座り込んでいる魔法使いの頬に、美鈴さんが絆創膏をぺたぺた貼り付けている。咲夜さんの肩には包帯が巻かれ、痛みなど感じさせない熱心さで後片付けの指示をメイド妖精たちに飛ばしている。私も何か仕事をするべきか悩んだが、それを察した美鈴さんに肩と腰を「えいっ」と掴まれると、みっともないくらい簡単に腰が抜けてしまった。立てない。
「え、ぁ……?」
 震えもないのに、腕にも足にも力が入らない。太ももに這い寄る雑草の感触がくすぐったい。しばらく己の身体と格闘し、どうやら自分が相当消耗しているということに気付いたときには、気持ちもかなり落ち着いていた。相変わらず、腰は抜けたままだけど。
「無理はしないことね。森を歩き回って、お嬢様に会って、弾幕の中を駆け抜けて、空も飛んだりしたら、只の人間なら腰のひとつやふたつも抜けるでしょうよ」
 小さな魔法使いに聞こえるような声で、美鈴さんは私を労わる。少女は憮然とした表情を惜しげもなく晒していたが、どこか憎み切れない可愛らしさがあった。自然、彼女と目が合い、よたよたと立ち上がってこちらに近付いてくる。咄嗟に身構えて、また少女の眉間にひとつ皺が寄る。
「別に、取って食いやしないから安心しな。こんな可憐な少女が人喰い趣味だったら、夢も希望もあったもんじゃないだろ」
「可憐……」
「文句があるなら聞くが」
「はいはい、可憐なのはわかったからあなたも大人しくしてるの」
「いてえ」
 腰に手を当てて仁王立ちする少女を、美鈴さんが優しく小突く。見た目は美鈴さんの方が重傷なのに、こうも平然としていられるのは年季のせいだろうか。
 周りを見渡せば、見知らぬものばかり溢れている。何でも合成で見ることができる世界でさえ、知ることのなかったものに溢れている。妖精はメイド服を着ていなかった。そもそもメイドは空を飛ばなかった。魔法使いは箒に跨っていたけれど、こんな悪態を吐くこともなく、吸血鬼は太陽の前に成す術もなく敗れ去った。
 何より、そのどれもが捻れながらでも絡み合っていることが。
 素晴らしくもあり、信じられなくもある。
「ん……、しょ」
 立ち上がろうとする。側にいた美鈴さんは、無理をするなと言うかと思ったが、辛うじて中腰になるくらいまで回復したことを確認すると、無言で手を差し伸べてくれた。その優しさに甘える。
「ま、無理しないでとは言うよ」
 やっぱり言われた。無理しているのはメイド長の次に美鈴さんなんじゃないかと思うけど。
 目線の高さが元に戻り、見上げるだけだった世界が私と平行になる。これなら、たとえ歩いてでも家に帰ることができそうだ。
「そろそろ、帰らないと」
 それぞれの目が、私の方に向く。妖精たちに指示を飛ばしていた咲夜さんも、作業を中断してこちらに近付いてくる。自分でも唐突だと思うけれど、帰る意志があるのなら、それを言うタイミングは今しかないと思ったのだ。
 この機会を逃せば、二度と元の世界に戻れないかも――というのは、大袈裟に過ぎるだろうけど。
「あー? ここに棲んでるんじゃないのか、メイドなのに」
「臨時です」
「そんな手が足りんのか、咲夜が大量虐殺してるからだぞ。夜な夜な」
「貴方から虐殺しても構わないんだけど。一人なら大量虐殺にならないみたいだし」
 何の話だろう。物騒な話には違いないけれど。
 手のひらに数本のナイフを構えるメイド長、度重なる衝撃にも耐えてきた箒を構える女の子。その間に割って入り、無駄に張り詰めた緊張感を霧散させるが如く、美鈴さんは紙鉄砲でも鳴らすように手のひらを打った。
「はいはい、これ以上怪我増やさないようにお願いしますね。包帯だってタダじゃないんですから」
 その言葉を聞き、肩に包帯を巻いた咲夜さんが渋々矛を収める。それでいて、嫌味に聞こえないところが心憎い。得な性格である。
「にしても、慌しいな。まだ自己紹介もしてないってのに」
「ごめんなさい。本当なら、もうちょっとお邪魔していたかったんですけど」
 名前だけでも、と言うべきか悩んだけれど、今はやめておいた。相手もみずから名乗ることはしない。いつかすれ違うときが来れば、その時にでも名乗りあえばいい。だから今はあの星の軌道を心に焼き付けて、紅魔館を後にしよう。
 と、その前に。
「咲夜さん、服……」
「――あぁ、そうでしたわね」
 そのまま着て帰ってもいいのよ、と蒼い瞳が訴えていたが、流石に首を振らざるを得なかった。記念にはなるが、蓮子に見付かったが最後、どちらかが再起不能になる。それは避けたい。
 咲夜さんは、「少し待っていて」と踵を返す。瞬間、私の目の奥に軽い衝撃が走る。あらかじめ覚悟していたこともあるが、この衝撃にも随分と慣れてきた。そのうち、抵抗も摩擦も何もないまま、彼女が力を使ったという事実のみ認識できるようになるかもしれない。
 でも、お別れだ。
「お似合いでしたのに」
 瞬きするよりずっと早く、咲夜さんは私が着ていたメイド服を腕に抱えていた。するとつまり、今の私はすっぽんぽんじゃないかと顔面蒼白テクニカルノックアウトかと思いきや、そこは若くしてメイド長を務めるだけのことはある。私は既に元から着ていた服に着替えさせられていた。つまるところ、一度すっぽんぽんに剥かれたわけで、裸体を凝視されたわけで、でも身体は特に異常もないので問題はない。全く問題ない。
「綺麗なお肌でしたよ?」
 わざわざ言わないでください。
 というかあれか、みんなして地雷踏むの大好きか。恥ずかしくて死ぬぞ私が。
「でも、ちゃんと帰れる?」
 紅潮して身動きの取れない私に、美鈴さんが尋ねる。火照る顔を手のひらで何度も拭い、熱が冷め始めてからようやく、首を縦に振ることができた。
「帰れます。今なら、何とか」
「そっか。わかった」
 心底、安堵したような表情だった。心配してくれていたのかな、と調子に乗ってみる。
「メリー」
 咲夜さんが、もうひとつ手に持っていたものを差し出す。それはハンカチに包んで紅いリボンを結んであり、底に手のひらを添えるとほのかな熱を帯びていた。触感、うっすらと漂う香りからすると、何かのお菓子のようだが。
「お土産です。紅魔館名物、お手製クッキー」
「売れば結構な金になるぞ」
「売ると吸血鬼の呪いが降りかかりますので」
 マジか、と恐れ戦いているところを見ると、売ったことがあると見た。
 私はクッキーを柔らかく抱きとめて、その暖かさを感じながら、一歩だけ後ろに下がる。背中を向けようか、それとも後ろ歩きのまま立ち去ろうか。そんな迷いが心を占拠していた。
「お嬢さまに、楽しかったですとお伝えください」
「かしこまりました」
「私も楽しかったよ。きちんとしたお客様も久しぶりだったから」
「何故私を見る」
 各々、思い思いの反応をくれる。
 また、会うことができるだろうか。無理かもしれないが、会いたいなとは思う。
「それじゃあ、また」
 さようならは無しにした。
 いくばくかの名残惜しさを胸に抱き、三歩くらいは後ろ向きに歩き、それからは彼女たちに背を向けて、歩幅も大きく歩き始める。
「またねー」
「またなー」
 美鈴さんと、女の子の声が聞こえる。咲夜さんは、きっと小さくお辞儀をしているに違いない。振り返ると、やっぱりそうだった。私も、小さく会釈を返す。
 開放された扉を抜け、修復作業に忙しいメイド妖精たちとすれ違い、一気に紅魔館の敷地から離れる。丈の高い草を踏み分け、振り返っても誰の姿も見えなくなってようやく、私は立ち止まった。紅い壁が見える。天を貫く時計台が勇ましい。その塔の頂上に、雄々しく羽を広げた吸血鬼が立っている。傘を差していること以外、何も解らない。
 私は、「お邪魔しました」と言い残し、紅魔館を後にする。
 吸血鬼は、何も語らずに私の背中を見ている。
 そんな気がした。

 †

 それきり、一度も振り返らず、湖に沿い、森の中に踏み込む。
 夢の世界の終わりがどこにあるかなど、解るはずもない。でも、終わりがあるのならそれはきっと夢が始まった場所に違いない。根拠も何もないくせに、そんなことだけは確信を持って言える。
 日はまだ高いが、度重なる体験により身体は疲れ切っていた。地面に落ちている枯れ枝を踏むだけでも、足の裏の痛みが取れない。雑草が短いからまだ歩けるが、下手をすればうずくまって動けなくなる可能性もある。
「ちょっと休んでからの方が良かったかな……」
 若干、後悔の念に苛まれる。が、決めた以上はやり通さなければ。
 見覚えのある風景を探すといっても、目印を付けたわけでもなし、記憶力が抜群に秀でているわけでもない。樹木や草花が立ち並んでいる風景なんてのは、二、三回くるりと回ればどっちが北か南かもわからなくなる。太陽が見えるぶん、今は救われているくらいだ。
 たったひとり、無言で歩いていると次第に心も窮まってくる。独り言は余計に心を締め付ける。どうにかならないものか。片手に抱いたクッキーでも啄ばんでみようかと、紅いリボンを解こうとして。
「ああぁー!!」
 その前に、蒼いリボンをした女の子が現れた。
 予想した通りに人差し指を差され、失礼じゃないかと怒る気にもなれない。もしかしたら、そうすることがここでの普通なのかもしれないし。
「あんた、一体どこをほっつき歩いてたのよ! あたいら随分捜したんだから!」
「あ……、ごめんね」
 何やらひどく怒っている様子なので、先に謝っておいた。「わかればいいのよ」と簡単に機嫌を取り戻すあたり、御しやすいといえば御しやすい。
「捜してたんだ、私のこと」
「当たり前よ。何だか勝手にジャンプして薮に落っこちたかと思ったら、どこ捜してもいないんだもの。死んだかと思ったわよ」
「でも、死んだら死体くらいは上がるわよね」
 言うと、妖精は驚愕した様子で問いかける。
「……え、あんたもう死んでんの?」
「死んでないけど」
「だよねぇ」
 納得した。
 話が通じているのかどうか微妙な線だが、話し相手ができたのは助かった。
 と思ったが、氷の羽を付けた妖精は、宙に浮いたままくるりと身を翻した。
「じゃ、ちょっと呼んでくる! あんた、今度消えたら承知しないからね!」
「というか誰を呼びに行くのかとか説明することが多々……、行っちゃった」
 聞いちゃいなかった。どうしたものかと頭を抱える。足も止まり、歩く気力も起こらない。ここが終点ならば納得もできるが、ここではない気もする。ではどこが夢の終わりなのかと尋ねられても、そもそも夢の見方や終わらせ方なんてものが存在するのかどうか。かなり疑問である。
 仮に、終わらせることができるとすれば――。
「あ、いた」
 ちょうど、氷の妖精が出てきたあたりから、ひょっこりと緑の妖精が現れる。こちらは、怒りよりも安堵の表情が見て取れる。そして、あの子が呼びに行ったのがこの子であることが知れた。
「チルノちゃんは……、いや、いいです。なんとなく解ったから」
 懸命な判断である。ともあれ、新しい話し相手は私も希望していたところだ。これを逃す手はない。
「捜してくれてたんだ、私のこと」
「うん。面白い人間だし、いい遊び相手になると思って。でも、こんなに時間が掛かっちゃった」
 ちょっとだけこちらに近付いて、手を伸ばせば頬に触れそうな距離で、緑色をした妖精は言う。
「崖から落ちて、下を捜しても誰もいなかった。ふしぎ。人間を丸ごと消すなんて、妖精でもできないよ。もっと、もっと凄い妖怪でないと、あんなことは」
 何故か、彼女の言葉は真に迫っていた。しかし、そんなことを言われても私には返す言葉がない。彼女たちの捜し方が悪かったとか、捜すのが遅かったとか、理由はいくらでも考えられた。それを細かく説明してあげて、それで納得すれば済むのに、彼女はしつこく食い下がってきた。
 好奇心というものは、たとえ妖精でも変わらず持ち合わせている衝動らしい。
「ん……、じゃあ、こういうのはどう?」
 人差し指を立てて、ある仮説を発表する。実を言えば、これは最も有力な説だ。突拍子もないほどに説得力がある、それ故にここの住民にはどうしても言えなかった推論。
 ある意味、この世界の枠組みを破壊しかねない結論ではある。
「ここは私の夢の中だから、私は何でもできるの。妖精も吸血鬼も魔法使いも、何だって好き勝手に登場させられる世界。やろうとすれば空も飛べるし、瞬間移動も時間停止も、魔法だって使える。凄いでしょ?」
 実際は、全くそんなことはなかったわけだが。冒頭の十文字くらいまでは、あながち的外れでもないと思っている。けれども、やっぱり妖精はきょとんとしていた。
 疑問を解き明かそうとする純粋な眼差しではなく、「君は何を言ってるんだ」と言いたそうな目。無理もないが。
「何、言ってるの?」
「うん、まあ、そうだろうとは思うわ」
 私だって、生きていた世界が全部夢だと言われたら、何を言っているんだと言い返したくもなる。小馬鹿にして噴き出さないだけ、優しい反応かもしれなかった。相手があの青い妖精だったら、笑い転げて話にならなかっただろう。
「……変なの。ここは夢の世界なんかじゃないよ。ちゃんとした現実。ちゃんと名前だってあるもの」
 知らないみたいだから、教えてあげるね、と。
 優しく、本当に何のてらいもない親切さで、妖精は告げる。
「えっと、ここの名前は」

 

 

 


 

 

 


「……あ?」
 柄の悪い声に気が付いて、私は目を覚ました。身体がかなり傾いている。ベッドから脚がはみ出し、床に爪先が接していることに気付いたのは、何度か瞬きをして、ぽやぽやする目を乱暴に擦ってからだった。
 カーテンの締め切られた部屋は暗く、まだ夜中であることは疑いようもない。頭がぼーっとしている。夢と現の境目を正確に認識できない。私は私、マエリベリー・ハーンであることは理解しているのに、ここが本当に自分の部屋なのだという確信は持てなかった。
 だって、ついさっきまで、私は。
「……いっ、たぁ……」
 眼球の奥が軋む。まぶたの上から手のひらをかざし、目を労わる。
 思い出せない、こともない。どこまでも続くかに見える深緑、紅い館、青い妖精、勇ましい門番、銀の少女、緋色の吸血鬼、モノクロームの魔法使い。ただ、いつから始まり、いつ終わったのか、その境目が曖昧だった。夢の終わりなんて、大概はそんなものだろうけど。
「……着替えてる、わよね」
 いつも着ているパジャマ。普段着でもなければ、靴も靴下も履いていない。電気を点けようと壁のスイッチに触れかけて、やっぱり目が暗闇に慣れるのを待つ。外は静かで、虫の鳴き声もしない。季節によるところも大きいのだろうけど、こうも無音に過ぎると世界が死んでいるような錯覚を抱く。
 あの、眩いほどの光に満ちた世界と裏腹に。
 この、昏く沈んだ街のなんと陰鬱なこと。
「……かお、あらおうかな」
 独り言も、低くくぐもった響きを帯びている。今、蓮子から電話が来たら「どちら様ですか?」と言われることは明らかである。うがいの徹底を心に留め、私は軋むベッドから降り立った。自然、夜に慣れ始めていた視界の端に、慣れ親しんだテーブルが映る。
 そこに、ハンカチに包まれ、紅いリボンで留められた「何か」が置いてあった。
「あれ」
 確か、眠りに就いた時にはこんなものは置いていなかった。それ以前に、これは私のハンカチじゃない。紅いリボンも、見たことはない。なかった。
 記憶の海をノイズが走る。
「……いいにおい」
 匂いからすると、クッキーか何かの類だろうか。リボンを解くのも躊躇われ、ハンカチの表面にただ触れる。ほのかに感じる熱、出来立てのほやほやのようだ。
 ――紅魔館名物、お手製クッキー。
「……紅魔館」
 きょとん、と目を丸くする。
 夢と現と、境目はどこにあるのだろう。目は何も答えてくれない。答えようもない。
 リボンを解き、四角いクッキーをひとつ摘まむ。ぱり、と小気味よい音を立てて噛み砕かれたお菓子は、まろやかなバターの味がした。



 翌日。
 大学前、正門に続く長い通りで、脇道を通ってきたらしい蓮子と遭遇した。相変わらず、時間ぎりぎりでもないのに帽子を押さえながら息せき切って駆けてきたらしい。
「あ、おはようメリー。早く大学の門を潜らないと死ぬわよ」
「死なないから。おはよう」
 自分でも物凄く冷めた反応だと思うが、実際、夢から覚めて一時間も経っていないのだから、大体こんなものじゃなかろうか。そも、蓮子のテンションの方がひどい。
 彼女は、お気に入りの黒い帽子の位置をずらし、籠もった空気の逃げ場を作る。ふわり、と漂ってくる何らかの花の香りは、昨日の夢に現れた人物を想起させた。
「ふう、どうやら間に合ったようね。危ないところだったわ」
「今日はどうしたの。走ってくるのはいつものことだけれど」
 よくぞ訊いてくれましたと言わんばかりに、ピンと人差し指を立てる。勝ち誇った顔がどこか懐かしく、その大して整ってもいない黒髪をくしゃくしゃにしたくなる。
 まだ眠いのかもしれない。
「メリーは、神海原輝世先生の寝癖占い見てないのね」
「誰」
 しかも何故寝癖を素材に選ぼうとした。
「先生によると、今日の寝癖がこぞって南南東の方角を向いてると、とにかくやばい」
「漠然としてるわね」
 ちなみに、蓮子の寝癖は南南東の方角は向いていない。それ以前に、寝癖の方角なんて自分が動けば簡単に変わるものだろうし。
「特に、学校に遅れたりなんかしたら、行きか帰りに事故に巻き込まれて死ぬ! とまで予言されてるからね。だからこうしてあくせくと走ってきたわけよ」
「おわかり? みたいな顔されてるところ悪いんだけど、事故に遭うとしてもその原因は我武者羅に走ってきたことにあると思う」
「そうね。さっきも柄の悪いあんちゃんに肩がぶつかって因縁つけられたし。危うく新聞に載るところだったわ……、稀代の美少女が成年男子を惨殺したとかで」
「まあ大変。交番はあっちよ」
 私は力強く蓮子の手首を掴んだ。
「あ、冗談だからね?」
「知ってるわ」
 蓮子は今日もいつも通りである。
 大学前の交番を通り過ぎ、適当に挨拶を交わし、正門に辿り着く。年配の警備員さんが立っている他は、華やかでも立派でもない鉄柵があるだけだ。それにしたって、よじ登ろうとすれば登れないこともない。すぐに警報器は鳴るだろうけど。
「蓮子、占いなんて信じてたっけ」
「あんまり。毎朝、新聞だのテレビだので収拾できる占いを掻き集めて、血液型とか干支とか星座とかの結果がどれくらい違うのか検証して笑い話にしたことがある程度には信じてない」
「それはたぶん全然信じてないんじゃないかしら」
 おはようございます、と警備員さんに挨拶する。定年も近いというのに、いつも元気に筋骨隆々で学生たちを見守っている。
「でも、面白いことに、その占いの結果が全て一致する時があるのよ。B型の貴方は人間関係のもつれが深刻になります、みたいな適当なのでも、十社調べて十社の結果が一致したら、これは単なる偶然とも言えないんじゃないかと思うわけよ」
 イチョウの並木は、紅葉も終わり寂しく枯れ枝を晒している。
 私は、蓮子が言わんとしていることを先読みして、おそるおそる口にする。
「……運命?」
「そう。運命」
 うさんくさいでしょう、と付け加える。自分で言っていたら世話はない。
「メリーは、運命を信じる?」
 難しい質問だった。特に、今の私にとっては。
 少し悩んで、無言でイチョウの回廊を歩き、私たちが分かれる分岐点に辿り着いて、ようやく。
 それまで根気強く待っていてくれる友人に、少しだけ感謝しながら。
「私が蓮子と出会えたことは、信じられる唯一の運命だと思うわ」
 蓮子の目を見て答えると、彼女はきょとんと目を丸くしていた。



 結局、お昼休みに会ったときも、夢の話を出すことはなかった。
 真昼間に吸血鬼の話を出せるのはあの世界くらいだろうし、蓮子も食いついてくれるにせよ、心配を掛けたくないというのも確かだった。
 夢の中から、夢で見たものを持ち帰る。
 以前にも、夢か現か判然としないくらい真実味のある夢を見たことはあるけれど、こんなことは初めてだった。食べても十分に美味しかった。今度、それと知らせずに蓮子にも食べさせてあげようと思う。作り方を教わっていなかったのは、ちょっと後悔しているけれど。
「じゃあね」
「またねー」
 用事があるらしい蓮子と別れ、ひとり帰路に着く。夕闇が差し迫り、昏い街が赤く鮮やかに彩られる。何もかもが赤に変われば、色が違うなどといってあれこれ悩む必要もないから、目にも心にも優しい。
「あ、コウモリ」
 視界の端に、一羽のコウモリが留まる。ジグザグに、これといった軌道もなく縦横無尽に飛び回る彼女を見て、不意に微苦笑を浮かべる。コウモリは、瞬く間に道の向こう側に消え、立ち止まった私は目のやり場を失い、何とはなしに夕焼け空を仰いでみた。
 この空のどこかに、一番星が光っている。蓮子なら簡単に見つけられるだろうに、今の私は首が痛くてあまり空を見上げてもいられない。
「いたた……」
 よほど寝相が悪かったのか、夢における無謀さが祟ったのか。
 首を押さえながら、自分の部屋に向かって再び歩き始める。今日の夢は、一体どんなものだろう。昨日の夢と同じ世界なら、きっと楽しいだろうなと思った。いつか、誰かが言っていた言葉の続きを思い出そうにも、今はよく思い出せない。
 もう一度、あの夢を見れるように、クッキーを抱いて眠ろうか。
 そんなことを考えながら、全てが紅く染まっていく街の中を、私はゆっくりと歩いていた。

 

 






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2009年3月9日 藤村流


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