like a bridge over troubled water
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憎悪はない。
邪念もない。
欲望など、初めから持っていない。
ここに来るまでに遭遇したありとあらゆる事件は、それらを捨てることでしか解決出来なかった。
間違いはない。
唯一絶対の正答だった、と言うつもりはないけれども。
上手くやれば、これ以上の結果をもたらせたかもしれない。
後悔や未練は数知れない。
その中で、最上の幸福を掴み取って来たのだ。
ならば、何を迷うことがある。
何もないだろう。
だったら、走り続けろ。
こんなところで立ち止まっている暇はない。走れ。走れ走れ走れ。
人生の旅は、まだ始まったばかりなのだから。
眠っている間も走れ。
食っている間も走れ。
犯している間も走れ。
愛でている間も走れ。
人間としての営みを成している最中は、常に走っていろ。
ああ、だからといって、焦ることはない。
死へと続く下り列車は、生まれたその瞬間に走り出し、休みこそすれ、その歩みを止めることはないのだから。
身体の中に、妙な管が差し込まれているような感覚だった。
そこから漏れ出た液体が、少しずつ身体を満たしていく。命の水というものがあるのなら、それはきっとこういうものを言うのだろう。
活力が満ちる。
自分は何でも出来る、という危い錯覚に陥りそうになる。
視野狭窄。
ただし、希望に満ちているときは、基本的に前しか見えない。だから、今の状態は比較的好ましい。
背骨に感じる、確かな微熱。
ああ、これは、紛うことなき生気だ――。
「――よし。これで終わり」
しばし、触れられた素肌の余韻に浸る。
あまりに呆とし過ぎたせいで、うつ伏せになった顔を、真正面から覗き込まれていることにも気付けなかった。
「……」
「……感じやすいタイプ?」
小首を傾げるその様が、やけに可愛らしい。
妖怪として酸いも甘いも噛み分けているくせに、年甲斐もなくそういう仕草が出来てしまうのは、正直凄いんじゃないかとレイラは思う。
背筋をめいっぱい活用として、しゃがみこんだ体勢でもって視線を合わせて来る彼女から、一気に身を離す。その際、ずる剥けになった薄いシャツもしっかりと着直す。どこで三女が狙っているか分からない。また、危機は眼前にも立派に構えている。
「あらま。警戒されちゃったかしら」
「ええ、うちには、あなたと同じような嗜好を持った人が、約一名おりますから」
「んー。でも、私だって別に少女趣味って訳でもないんだけどね。あなたがそんなに幸せそうな顔してるからさ、つい見入っちゃっただけよ」
指をぴんと立てて、紅色に染め抜かれた髪の女性は語る。
普段はとある邸宅の門を護っているのだそうだが、レイラがその雄姿を目撃したことはない。本当はただのインチキ気孔術師なのかもしれないが、彼女に身体を診てもらってから随分と体調が良くなったため、いまやその出自を疑う気にもならない。
名を、紅美鈴という。一ヶ月に一度、レイラの身体を診に来るようになって、早一年が経つ。
プリズムリバーにあって、レイラは人一倍身体が弱かった。まして、慣れない場所に無理やり移動させられ、初めの数ヶ月はたった独りで重労働をこなしていたのだ。身体が壊れない方がどうかしている。
「……そんなに、変な顔してました?」
「一介の妖怪が、その貴重な時間を献上する程度には」
至極真剣に、美鈴はレイラを口説く。
愛の告白ではないにしろ、多少、たじろいでしまうのも無理はない。
「……光栄、と思っていいんでしょうか」
「うーん。うちのお嬢様に言われたんなら、そう捉えてもいいんでしょうけどね。まあ、ちょいと太っ腹な社交辞令くらいに思ってくれると、こっちも助かるわ」
ね? と片目を閉じてみせる。
本当、細かな仕草が可愛らしくて仕方ない。たかだか二十年そこらしか生きていない自分にそう思わせるのだから、この女性が放つ優しい雰囲気は、相当長い年月をかけて養われたものなのたろう。
仕事の空き時間にやって来たのか、チャイナ服に白衣を羽織ったままの姿は、はっきり言って異様と言える。だが、この屋敷には多少の異常など容易に吸収できるだけの土壌がある。
彼女、美鈴もまたプリズムリバーにおける異端を理解し――尤も、幻想郷にとってはこれくらいの変異は変異とみなされないのだが――、レイラたちと付き合っている。リリカに言わせれば、『何を考えているのか分からないタイプだから気を付けろ』とのことが、それはリリカの方じゃないかとレイラは思う。
ふと、美鈴が閉め切られた扉を見る。レイラには何も感じられないが、おそらく我慢しきれずにお迎えが来たのだろう。
「色からすると、ルナサちゃんかリリカちゃんのどっちかね。出来るなら、ルナサちゃんの方がいいかなぁ。珈琲も持ってきてくれるし」
リリカについての言及はなし。
ただ、美鈴に限っては、相手が彼女を毛嫌いしているからと言って、彼女が相手を邪険にすることはないだろう。何の根拠もない推論だけれど、なんとなくそんな気はする。
やがて、扉をノックする静かな音。
「終わりましたか、美鈴さん」
「ええ、滞りなく」
静謐な会話。
メルランやリリカには、到底不可能な遣り取りである。
片手で扉を開け、もう片方の手は下に。
トレイは揺らぐことなく宙に留まり、笹舟が川を下るように空気を滑っていく。
「……なんか、見事ね」
「他愛もない一芸ですよ。食い扶ちは賄えません」
柔らかく微笑んでみせる。
確かに、ルナサの言うことは正しい。ジャグリングやマジックは、種と仕掛け、及び鍛え上げられた身体機能によって成されるからこそ、価値があるのだ。
すなわち、幽霊が壁を擦り抜けたり、お盆が宙を泳いだりしたところで、人間でない彼女たちに喝采が与えられることはない。
「いや、でも凄いと思うわよ。何でも、手を触れてないのに楽器を演奏できるんだって?」
「一応は」
珈琲を受け取る美鈴と、やや照れ混じりに言葉を返すルナサ。
だいぶ身体が軽くなったとはいえ、まだ本調子でないレイラは、とりあえずベッドに横たわる。
「レイラ。調子はどう」
妹の様子を見、簡潔に尋ねる。
「うん。昨日よりはかなり良い調子だよ。ただ、今はちょっと眠いかな……」
その場の欲望に忠実に、レイラは大きな欠伸を放つ。直後、姉だけでなくお客にまで醜態を晒してしまったことを理解し、茹蛸のように赤く火照り出すレイラ。
照れ隠しのためか、睡魔を宥めるためか、おそらくはその両方なのだろうが、彼女はそのままベッドにうつ伏せてしまった。やれやれ、とルナサが小さく肩を竦める。
「良い子よね。ま、いつも思うことだけど」
「こう言ってはなんですが……。自慢の、妹ですよ」
誇らしげに。
自分のことではないからこそ、その声に迷いはない。
カップの縁は、適度に温かかった。霊の類は体温が低く設定されているから、外界の熱には鈍感になりやすいのだが、プリズムリバーに至っては隅々まで管理が行き届いている。
これも、自慢の妹がいるおかげなのだろう。美鈴は微笑する。
「良かった」
「……?」
意味を図りかねて、ルナサは不意に問い掛けそうとする。
が、それより先に、美鈴が質問の答えを告げた。
「内心、ちょっと気になっていたのよ。あなたたちが、仲良くやっているのかどうか」
「レイラから、聞いていませんでしたか?」
「聞いてたわよ。だから、改めて言わなくちゃならないほど、切羽詰まっているのかと思って」
「……失礼を承知で申しますが、それは大きなお世話です」
絆を疑われたせいか、ルナサの表情が少し険しいものになる。
美鈴は動じない。こうなることを前提に、話を進めていたからでもあるし。
「うん。だから、ごめんなさいね。あの子が何度もお姉ちゃんのことが好きだ好きだって言ってるのは、本当にそうすることでしか伝えられないくらい、大きな想いを抱いてるからなんでしょうね。そりゃあもう、部外者の私が察するに余りあるくらい」
両腕をいっぱいに広げて、美鈴はその幅を強調する。
どう反応していいか分からず、ルナサは苦笑で返すしかない。
やがて、不自然ではない程度の沈黙が流れる。
美鈴の唇が珈琲の黒を飲み尽くすまで、理想的な静寂は続いた。
誰しも、眠りにつく者の邪魔をしたくはない。
まして、これほど幸せそうに夢を見ている者ならば。
ルナサは美鈴を玄関まで送ったが、もう帰るだけだからと正門までの付き添いは断られた。
彼女も渋々それを承諾し、一月後の再開を祈って別れを告げた。
だが、美鈴は気付いている。
出来得ることなら、美鈴がプリズムリバー邸を訪れなくなれば十全だということに。聡明なルナサなら、気付いていないはずはない。
けれども、あの長女はそれを押し殺し、友人として美鈴との再開を願った。
「本当、良く出来た女の子だこと」
玄関の扉を閉め、小奇麗な門に辿り着いたときに、その邸宅を振り仰ぐ。
――レイラの病は、もはや完全に治ることはない。
そのことは、レイラを始め治療に当たっている美鈴も、他の姉妹も重々承知している。致命的、致死的な病毒ではないにしろ、こうして月一回の灰汁抜きを行なわなければ、身体の免疫力が次第に弱まっていく。行き着く先は、誰にでも等しく訪れる――死、そのものだ。
「……」
陰鬱な未来を想って、不意に顔が強張る。美しい、場所だと思う。左右均等に配置された花壇には、色とりどりの花が植えられている。首を巡らせば、菜園と畑を伺うことも出来る。屋敷の壁も、地区数十年経ったとは思えぬほどの堅牢さを備えている。
彼女たちにとって、ここは安寧の地に他ならない。ここ以外の場所では、全て等しく排斥されてしまうからだ。
だから、せめてここくらいは、彼女たちを受け入れてあげてほしいと願う。
その手助けなら、いくらでもしてあげられるから。
「本当に――ね。残酷なのか、親切なのか分かんないわ……」
溜息を吐く。
美鈴の腰の高さ程度の門を、そっと押し開く。これだけは、乱暴にすると壊れそうな気がする。特に、美鈴ほどの握力をもってすれば。制御法は心得ているのだが、だからこそ、この門がどれくらい華奢なのかは手に取るように分かる。
同じように、今のレイラがどれだけ危いかも。
「――とと。今のはちょっと軽率かな」
門をくぐる。
眼前には、リリカ・プリズムリバーの姿がある。
笑っていない。レイラと居るときは常に緩んでいる表情も、対するものが他者となると――あるいは、美鈴となると、途端にその面差しが険しくなる。
有り体に言えば、不機嫌な様相だった。
……やれやれ、と肩を竦める。これで、昼休み終了までには間に合わなくなった。
それならそれで構わないが、昼食が珈琲一杯だけというのもなかなかに辛いものがある。
白衣の袖をまくる。いいかげん、動くのに邪魔だと思っていたところだ。帽子も着けてしまいたいところだが、この調子ではまだ無理か。
「あら。リリカちゃん、だったかしら」
「……あんたに、ちゃん付けされる筋合いもないけど」
腕組みしたまま、不敵に言葉を返す。
年功序列という言葉を知らないな、と美鈴は思い至る。自分もさして気に留めていないが。
「でも、レイラを治してくれて、ありがとう。それだけはね、言っておかないと……。筋が通らないでしょう?」
ところどころ、鼻につく言い回しである。
が、美鈴は頓着しない。受け流すのは得意なのだ。敵意、好意もその例外ではない。
「どういたしまして。ああ、でもね。実のところ、通すべき筋があるのは私とレイラちゃんの間だけなの。だから、別にあなたから感謝される謂れはないわ。あなただって、どうでもいい相手に挨拶なんてしたくないでしょ」
「……っ! な、何よ! 折角、感謝のひとつでもしてあげようって言うのに……!」
瞬間、リリカの周囲に霧散していた怒気が収束する。
熱いなぁ、と他人事のように天を仰ぐ。夏にはまだ早いが、夕立の季節にはもう突入しているはず。ここらでひとつ、空気の読めない雨雲が頭上を通過してくれないものか。
「感謝は、押し付けるものじゃないわ。あくまで、自分自身を納得させるものと考えなさいな」
「……この、インチキ気孔術師」
憎々しげな口調だった。
はて、なぜ自分が蛇蝎のごとく嫌われねばならないのか、その理由を鑑みて――思いのほか、簡単に思い至った。
その結論をそのままリリカにぶつけたところで、彼女は認めないだろうけど。
ああ、だから、一雨くらい降ってくれてもいいのに。
「リリカちゃ――ああ、いや、あなたは、その……私が来なければそれで満足なの? 現時点じゃあ、私以外は有効な手立てを持っていないっていうのに?」
理屈は、リリカも十分に理解しているのだろう。
だが、どうにもこうにも人間は感情的な生き物で、なかなか上手く噛み合わさってはくれないらしい。
そんなことを、人間でない美鈴は思う。
「ほ、本当は……! 本当は、あんたなんか呼びたくないんだから。絶対、もっと有効な手段があるはずなんだから……。あんたに頼らなくても、レイラの病気が治る方法が、ぜったい……」
もう、祈るような叫びだった。
彼女は、レイラが眠るタイミングを計っていたのだろう。でなければ、何かの気紛れで門前に現れないとも限らない。
――ああ、そうなんだな。
誰も彼も、レイラが好きで好きで仕方ないんだ。
分かっていたことだけれど、美鈴は、その事実を更に深く刻み込む。
「ねえ、なんとか言いなさいよ!」
「……あなたは、本当に」
暗い声しか出せそうになかったので、とっとと雨が降るように祈る。
面倒だ。こういう役割は、もっと口先三寸で生きているような輩にやらせればいいのだ。
自分だと、傷付けながらでなければ、きちんと伝えられそうにない。
「好きなんだね、レイラちゃんのことが」
「な――。い、今更、そんな当たり前のこと、言わないでよ」
恥ずかしがるような、照れるような仕草。一瞬、美鈴から視線を外す。
もう、逃げようとすれば逃げられる状態だ。
しかし、最後まで伝えてこその言葉だと思う。
「だから、あの子が不幸になるのが我慢できない」
「……そうよ。何も、死ななくたって。不治の病なんて、そんなの」
「今すぐに、死ぬ訳じゃないわ。人間、誰しも寿命は来る。終着地点は同じ。それまでは、私が発病させたりなんかしない」
あるとするならば、それが誓いだ。
傲慢にも絆と呼べるものは、それくらい。
「でも――!」
「だから、あの子に何もしてやれないのが、悔しくて仕方ないのね」
とりあえず、リリカが最も触れられたくない傷に触れる。
正確に言えば、こんなものは傷ですらない。単に、リリカが傷だと思い込んでいるだけの話。
リリカは言葉を失っている。
泣いて、逃げ出したいのだろう。肩と、膝が震えている。
畳み掛けるのも心苦しいが、とにかくは、最後まで。
「だから、傷を癒せる術を持っている私のことが――嫌いで嫌いで、仕方ないんだね。リリカちゃんは」
「……っ、だから、ちゃん付けしないでよ……」
宥めすかすような口調が気に入らないのか、慰めの言葉すら撥ね付ける。
それで構わない。美鈴自身は、嫌われたところで痛くも痒くもない。
だが、リリカが他人を憎み、いつかレイラにそれが露見することを思えば、その勘違いを正してあげるのも主治医の務めではないか、と美鈴は考える。
あとは、一月に一回とはいえ、昼食も満足に取れなくなるようでは仕事に差し支える、という個人的な事情も含め。
逃げ出しそうなリリカの正面に立ち、一向に曇る様子がない空を睨み付けながら、ぼんやりと語り掛ける。
「むかし、どっかの誰かが言ってたらしいんだけど」
「……?」
「『死に至る全ての病は、絶望である――』――とかなんとか」
「……それが、どうかしたの」
「私はね、絶望の他に孤独ってのも付け足したいのよ。だって、寂しいじゃない。独りはさ」
「……さっきから、何のこと言ってるのよ」
リリカの目付きが険しくなる。
二度も言うのは面倒だし、詳しく解説出来る自信もないから、美鈴はすれ違い様に肩を叩いた。
ひゃ、と突然の動作に戸惑うリリカの背を、もう片方の手で多少強く叩く。ばしん、と乾いた太鼓を弾くような景気の良い音が鳴る。
「――ッ!」
「自信持ちな。あの子が生きてられるのは、あなたたちがいるからなのよ」
驚愕と鈍痛に動くことすら出来ないリリカをよそに、美鈴は手早く帽子を装着し、震える胃腸を押さえて上空に飛び上がった。数秒後に、足元からリリカの叫び声が聞こえる。
「ちょっと! 話はまだ終わってないでしょう!?」
「んー、でももう駄目」
「なんでよ!」
「おなか空いた」
……へ、という間抜けな顔がいとおしい。
思わずからかいたくなる衝動を堪え、美鈴は再度加速する。
その直前。
「んじゃ、また今度ねー。レイラちゃんによろしくー」
「あ、ちょっと――!」
リリカの叫びも虚しく、美鈴は止まらない。
それほど切羽詰っていたということもあるし、何よりあの場に居続けるのは胸が痛い。
「ま、何とかなるでしょう……」
根拠のない言葉。
自分の激励など、ただ背を押しただけに過ぎない。大切なことは、リリカ自身が気付かなくてはならない。
でも、心配はないと思う。
彼女の側には、いつもレイラが居るのだし。
本当――羨ましい。
その絆が、羨ましい。
憎たらしいくらいに青い空の真下を、一筋の紅い影が横切っていく。
速く、速く。
大空を駆ける紅い点に、リリカは心の中で毒づいた。
手玉に取られたという感覚はあった。しかし、これほどまでに心を揺さぶられるなんて、思いもしなかった。
「……なんか、馬鹿みたいじゃん」
今更になって、潤んできた瞳を拭う。
いっそのこと、大雨でも降って全て台無しにしてくれればいいのに、などと下らないことを思う。
――あの紅髪は、レイラの死を想起させる。
あれが来るたびに、リリカたちは妹の死を連想してしまう。医者が死神と揶揄されるように、救い手は命と同時に破滅の象徴にもなりうる。
レイラも、辛くないはずはないのに――この時期になれば、身体が思うように動かなくなるのに、彼女は何も言わない。
彼女がそんな身体になったとも、元を糺せば、あの日があったから。
騒霊として、姉妹の幻影を投影したその日から。
彼女の歯車は、徐々に軋み始めていたのだろう。
「全く……。気付いているんなら、少しは罵ってくれてもいいのに……」
レイラは、おそらく気付いている。相変わらず、心配を掛けまいとしているのか、何も言うことはないけれど。
リリカにとっては、それが負担だ。
「雨、降らないなあ……」
陰鬱だけれど、空は青い。いや、陰鬱だからこそ、空は青いのか。
……振り返る。もう、家に帰ろう。
変わり映えのしない屋敷の扉が、外向きに傾いた。
「――え?」
リリカは、まだ門の外側にいる。いくらポルターガイストの才能を持っているとはいえ、十数mも離れた場所の扉を開くことはまだ出来ない。
それでも、扉の向こうにいるのはルナサかメルランだと思ったのだ。
治療が終わった後の彼女は、数時間もの眠りにつく。昼も夜も関係なく、ひたすらに眠り続ける。美鈴の治療は強引に生気を注入するものなので、いきなり新品同様と化した身体に驚き、脳が肉体活動の一切合財を停止させてしまうのだ。その後は、またいつも通りの元気な彼女に会えるのだが――。
「……あ、リリカ姉さん」
ふらふらと、頼りない足取りで、レイラがそこに立っていた。
一瞬、脳が沸騰する。なぜ、そんな千鳥足でここまで来たのか。素直に眠っていないのか。ルナサは何をしていたのか。
結局、それらは全てレイラの姿を見ただけで霧散してしまったのだが、どうしようもない疑問だけ、頭の中に残っていた。
リリカは、何もせずに呆と突っ立っているレイラに歩み寄り、その肩に寄り添う。
今にも落ちてしまいそうな目蓋を、そのまま閉じてあげようかと思う。
「……ね、姉さん……。ちょ、ちょっと恥ずかしい……」
いつも近くにいるけれど、いざ触れ合うとすぐに照れる。
こそばゆくとも、心地良いのが不思議で仕方なかった。
「いいのよ、別に。ったく、あなたも疲れてるんだからすぐに休めばいいのに、どうして外に出て来るのよ」
「だって……」
予想はついていた。
焦点の定まらない瞳が、確かにリリカを捉えて、弱々しい笑みの形を作る。
「だって、リリカお姉ちゃんがどこにいるか、分からなかったから……。心配、だったから……」
でも、と最後に付け足して、レイラの額がリリカの肩口に押し付けられる。
睡魔の限界なのだろう、と彼女の肩に手を回したときに、その言葉を聞く。
「良かった……。お姉ちゃんが、いてくれて……」
小さな寝息が聞こえるまでに、そう長い時間は掛からなかった。
力なく項垂れるレイラの身体を、ゆっくりと地面に下げる。少々、服に汚れが着くのはお構いなしに、レイラの頭を膝に乗せ、その身体を横たえる。
長く、透き通った髪を撫でる。枝毛が目立ってしまうのは、時期が時期だからではあるまい。
「久しぶりだなぁ。お姉ちゃん、なんて呼ばれたの……」
懐かしい。
自然と、顔が緩んでいることに気付く。レイラの側にいると、いつもこうだ。
「――あ」
――ああ、そうかもしれない。
当たり前のことだったのに、なぜ気付けなかったのだろう。
目先の悲しみに囚われるあまり、大切なものを見失っていた。
こんなに、すぐ近くにあったというのに。
『良かった……。お姉ちゃんが、いてくれて……』
『自信持ちな。あの子が生きてられるのは、あなたたちがいるからなのよ』
いいのだろうか、と。自分が彼女の側にいていいのかと、思い悩むことがあった。
けれど、それは彼女を不幸にすることで。一生、幸せを分かち合えなくなることで。
失いたくないと、思ってしまった。
不意に、その身体を抱き寄せる。愛しいものを慈しむように、心臓の鼓動が聞こえるくらいに近く、深く抱き締める。
彼女の寝息が、すぐ側で聞こえる。
ごめんなさい、と、離れる道を選びそうになったことを詫び。
ありがとう、と、これからもずっと一緒だからね、と、新たな誓いを立てる。
このときだけは、彼女が眠っていてくれて、本当に良かったと思う。
素面だったら、とてもじゃないけど、恥ずかしすぎて言えやしないだろうから。
「……ふふ、ヘンな顔」
深い眠りに誘われ、なかなか起き出そうとしないレイラを、出来うる限り見守ってあげたい。
空はいずれ夕闇を誘い込み、星の瞬く夜が訪れようとしても。
どうか、幸せそうに眠る彼女の邪魔だけは――。
「……やれやれ」
「よく眠ってるねー」
「まあ、いいけどね。二人とも、幸せそうだから」
「起こすのも気が引けるし、ね」
「まあ、その分の夕食は頂いておきましょう。手伝いを放棄した罰」
「わーい!」
「……いや、本気で喜ばないで」
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SS
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