like a bridge over troubled water

 

 

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 薄暗闇の中を、ただひたすらに駆けていくイメージ。
 足裏に浸る液体はどちらかというとぬめぬめしていて、水というよりも血に似ていた。
 焦るなかれ。地面には穴が空いている。
 罠ではない。
 自然は常に悪戯を仕掛け、誰かがその穴にはまるのを待っている。
 世界は残酷だ。
 差し伸べられる手など、有りはしない。
 だから、走ろう。
 これは逃走ではない。
 ――闘争だ。

 

 

 身を起こす――までもなく、身体はとうに起き上がっていた。うつらうつらと船を漕ぎ、目が覚めてみれば、椅子に深く腰掛けたままだったことに気付く。
 膝の上には、読みかけの本が一冊。栞が手の中にあるということは、今回もどこまで読んだのか分からないようだ。不意に、額を指で弾く。
「また、やっちゃったか……」
 屋敷の中は、いつも暖かい。
 玄関から屋根まで包み込むような柔らかい雰囲気、という意もあるが、壁の材質が良いのか姉たちが元気にはしゃぎ回っているせいなのか、常に一定以上の熱を帯びているのだった。
 言うまでもなく、この空気は彼女にとって非常に好ましい。
 確かに、好ましいのだが。
「ふぁ、ねむ……」
 欠伸と共に、ぐいと背筋を伸ばす。その際に、目尻から零れた一滴の涙は、大きな欠伸をしたからだと思うことにした。
 決して、あんな夢を見たせいではないと。
 そう――心に決めたとき、視界の端に何かが動くのを捉えた。
 正面には窓、外は薄く曇りがかっていて、硝子は外界ではなく部屋の内側を綺麗に反射している。
 つまり、視界の端に映っているのは――。
「おはよー、レイラ」
 心なし、底意地の悪い挨拶だと思った。
 首を横に向けて、その人物をまじまじと見詰める。何を勘違いしたのか、にやにやとほくそ笑む少女。
「……ずっと、見てたの?」
「うん」
 至極あっさりと、致命的なことを言ってのける。
 まあ、彼女がそこにいたという時点で、自分のこっぱずかしい寝顔が晒されているであろうことは予測がついたけれど。
 なんというか、やっぱり恥ずかしい。
「ね、ね、姉さん……! はっ、恥ずかしいから、こういうことはしないでって言ってるでしょう!?」
「いやぁ、私は恥ずかしくないし」
「私が恥ずかしいんだってば!」
「えー。でもさぁ、里の広場に移動させて、子どもたちの見世物にするよりは恥ずかしくないでしょ」
「物事には限度ってものがあるの!」
 えー、と彼女はまだ不満そうに唇を尖らせていた。
 レイラ・プリズムリバーは、生まれてこのかたリリカ・プリズムリバーに口で勝てたためしがない。
 レイラは自分が引いてあげていると思っているが、実際は単に押しが弱いだけなのだった。
「大体、私の寝顔なんか見て、何か楽しいのよ……」
「うん? そうは言うけど、結構楽しいわよー。なんか幸せそうだし」
「……」
 照れる。
「よだれ垂らして、馬鹿みたいに笑ってるときもあるしー」
「姉さん!」
 怒られた。
 わー、と全然困ってなさそうな悲鳴を上げ、リリカはリビングから去って行く。入れ替わりに、二人の少女が部屋に入って来る。一人は地に足を付け、一人は壁に足を付けて。
 そんな次女の奇行には目も暮れず、レイラは目を擦りながら言葉を交わす。
「あれ、いま何時だっけ……」
「眠いなら、部屋で寝ていた方がいい。昨日も遅かったんだろう?」
 ルナサの言葉に、レイラは背後の柱時計を見上げる。秒針と短針が直角に傾き、そこから三時という意味を汲み取る。意味もなく時計の周囲をふわふわと漂うメルランが、気になって気になって仕方なかったけど。
 窓から差し込んで来る光の量からすれば、夜ではなく昼と考えるべきか。昼食は食べた気もするから、昼寝にしては中途半端な睡眠時間だったということになる。道理で、頭の隅に鈍い痛みがある訳だ。三女が原因のような気もするけど。
「うん、でも、布団干さなきゃ……」
 椅子から立ち上がろうとするレイラの肩を、ルナサの手が押し留める。
 彼女は薄い唇に指を当て、母が見せるような慈愛に満ちた眼差しでレイラを見下ろす。
「それは、午前中に私がやっておいたよ。これでも、レイラには苦労を掛けてると思ってるの。だからせめて、休日くらいはゆっくりと骨を休めてくれない?」
 ――そのために、私たちがいるのだから。
 髪と同じ、金色の瞳。何も変わらない。あのときから、何も。
 ――――ッ。
 ノイズが走る。夜更かしし過ぎだ、と自分に言い聞かせる。
「そうそう。レイラはね、ちょっと肩に力を入れすぎなのよ。そこらへん、姉さんと似てるよね」
「似てる……かな」
 天井から降って来る声に、驚きもなく問い返す。
 それに答えたのは、肩に手を置くルナサだった。
「かもしれないね。だからといって、私を目標にしていると自分の幸せを見失うよ」
「幸せ……って」
 まだ、思考の焦点が定まっていないようだ。ルナサの言わんとすることが、自分の中で上手く消化できない。
 それとも、ただ単にずっと先送りにしていたものを、改めて目の前に突き付けられたせいか。
 明らかに奥手そうな四女のことを、長女と次女はとても不安に思っていた。
「分からない、か。そうか。分からない、かもしれないね」
「や、そういうわけじゃ、ないんだけ、ど……」
 言い切る前に、我ながら説得力がない台詞だな、と省みる。
「レイラは、そういうの興味がないもんねえ……」
「メルランと違ってね」
「……むっ。そのお言葉、とうてい看過できませんな。なんか、男がいないと夜を過ごせない女みたいな言い草じゃない」
「……違うの?」
「違うわよ! なんで動揺すんの!」
 フローリングと天井で、何やら不穏な遣り取りが繰り広げられている。
 未だ人間の枠に収まっているレイラからすると、メルランの体勢は頭に血が上って仕方ないんじゃないかと思わないでもないが、人間ではない彼女たちには重力の縛りなどないため、次女のように人間を惑わすような歩き方をしてみたり、長女のように人間と同じように動き方をしたり、三女のように予告もなく壁をすり抜けたりと、もう何でもありなのだ。
 重力だけで語るなら、彼女たちはまさに自由、と呼んで差し支えない。
 虎の子の自由を羨むかどうかは、個人個人によって違うだろうが。
「ねえ! レイラはどう思うの!」
「……え、私?」
「メルランが、男欲しさに夜な夜な里を徘徊するような人格破綻者か否か」
「ちがーう! わたし、そんな好色家じゃなーい!」
 ただ、気が多い少女だとは思う。柔らかく言えば、恋多き女、といった感じ。
 だが、憤慨しているメルランを見るのも面白いので、すまないとは思いながら、レイラは積極的なフォローを避ける。
「でも、家に恋人を連れて来た数は、メル姉さんが圧倒的に多いよね」
「うむ。確かにそうだった」
「な、なんでそんなことまで覚えてんのよー! いいじゃない、恋する女は綺麗になるんだからー!」
「で、男の数だけ純真だった心が汚れていくんだな……」
「そこ、悲しそうな目をしない! レイラも!」
「あ、もしもし、子ども電話相談室ですか。あのですね、実は、うちの二番目の姉が、男漁りのために夜な夜な人里に躍り出てましてね……」
「リリカ――っ!!」
 リビングの隣りで迫真の演技を見せていたリリカに、メルランが怒気を一直線に突っ込んでいく。勿論、分厚い壁など彼女には何の障害にもならず、勢いのままにリリカへと突っ込んでいく。
 が、その行動すらも予測されていたのか、廊下からはリリカのけたたましい笑い声と、冷静な思考能力を失ったメルランの叫び声が木霊する。
「それと、格好は半裸です、半裸。ぽろりです。あ、わりと胸でかいんですぐに分かると思いますー」
「うあー! それを言うなー!」
「うっさいメル姉! 巨乳は滅びろ!」
「あーもー! 明日から、どんな顔して演奏すりゃいいのよー!」
「あら、牛は牛なりに牛乳でも搾っていればよろしいんじゃなくて? おほほほほほほ!」
「牛って言うなー! それに、牛は牛なりに苦労してんだぞー!」
「黙れ! 持つ者が持たざる者に何を言ったところで愚弄にしかならんわ! メル姉なんか、ワンサイズ小さいシャツのまま一日過ごしてろー!」
「きついから! それ背中がきついから!」
 わー。わー。
 ……煩かった。喧しかった。
 おおよそ一般的な家族が一ヶ月に体験するほどの騒音が、プリズムリバー家にはほぼ一日に凝縮されていた。
 やや躁病の気があるメルランは、切っ掛けを与えると際限なく暴走する。まして、リリカのようにあくどい挑発を繰り返されれば尚更である。リリカも、それを知っての上でやっているのだろうが。
 呆れ顔のルナサ、苦笑いの上に、ほんのわずかな優しさを滲ませているレイラ。
 どんな形であるにしろ、これがプリズムリバーの日常であり、平和であることを理解しているから。
 ルナサは、こんな状況下でも笑っていられるレイラを見、ひとつ溜息を吐いた。
「……平和だな」
 レイラは、笑みを崩さずに答える。
「平和、だね」
 爆音が、玄関の方から響いて来る。
 修理にはどれくらいかかるだろう、と筆算を始めるルナサも、この日常に溶け込んでいる。その不自然に丸まった背中が、例えようもなく微笑ましくて――。

 

 

 


 

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SS
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2005年7月14日 藤村流

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