その部屋には、言葉通りに山のように積み上げられた木簡で埋め尽くされていた。
倉庫なのだろうか、だが木簡のせいで判り辛いが天井辺りを見ればそれなりの格調がある。
木簡の渦の中心に、新たなそれを生み出そうと無心に筆を動かしているものが一人。
蔡エン、字を文姫といった。
少女のような体躯だがすでに子を設けている。
やはり少女のような面に浮かぶ悲哀と憂いの色が彼女が流されてきた人生を思い浮かべることができる。
彼女は朝夕もなく、失われた父、蔡ヨウが記した書簡を復元していた。
一段落したら、時間を気にせず眠り、空腹に気がついたら従者が用意していた冷えた飯を食べる。
従者は気の利くもので、何時食べてもよいように、冷えても味の落ちないものを拵え、
この小さな主のために身命を賭すことを仕えた当日から心に誓っていた。
文姫は文姫で、その様なことにまるで気が付かず年中筆を共にした生活を送っていたために、
従者は主のために発奮してしまうのだが。
彼女にとって書は、亡き父との唯一の絆であった。
彼女が生まれた家も、遊んだ庭も、幼馴染も、家族もとうに失っていた。
昔の彼女を知るものはもう無いが、もし今を見ることが適うならばまるで成長していない胸の凹凸以上に、
悲しみを湛えた瞳に驚くであろう。
時の遡る事、十と幾年。 彼女は乱世の中を生きていた。
暴威を持って魔王と呼ばれた男、董卓。
天ではなく王であろうとしたこの魔人は、文姫の父、蔡ヨウの泰然とした態度と器と等しい才を好み、
蔡ヨウに不自由なき生活を約束した。
暴虐の上に立つ安寧を文姫は良くは思わなかったが、父の才が魔王に認められた事を、
自分の事の様に誇らしく感じていたのだ。
だが、漢が滅びようとするのと同じように、董卓にも滅びのときが来る。
董卓がこの世にあった時、法とは彼自身であった。
法が失われた天下は荒れに荒れ、乱世はその色を強くする。
父は董卓の死を悼んだ罪で殺されていた。
董卓は、情けを知らず弱きものを確かに殺し続けた。
だが、蔡ヨウは彼の生き様を理解し、この一代の傑人を世に刻もうとしたのだ。
涙を流すことが咎ならば、何を持って人は慰められるべきか、そう文姫は呟いた。
*
文姫は父亡き後、洛陽の実家にて父の書斎を守っていたが、守るべきものなきこの都が
匈奴と呼ばれる異民族に襲われることを知り数少ない親類のもとを頼った。
その者は父と同じように董卓に仕え、蓄えた財を持って一族全員を守ってくれているとのことだった・・が。
「・・・!?な、なに・・を!」
屋敷の前で文姫は、警護の者に取り囲まれた。
「来たか。久しぶりだな。」
「何の・・つもりです」
「お前の父は董卓の下で、安穏としていたな。 わしは毎日、董卓のご機嫌取りの必死だったよ。
お前くらいはわしの身を保障してもらいたいのだ。匈奴にも幼子が好きな変態もおるだろうて。」
「私を、売るつもりですか。 それよりも私は幼子ではありません!!」
そこは強く否定する。
そのようなことよりも、文姫はこの場に来たことを後悔していた。
「匈奴のとある将と親交があってな、幾らかの財と女達で無事に逃がしてくれると、な。
わしの娘もくれてやるつもりだから寂しくは無いぞ。 娘も孝行ができて本望じゃな。」
己一人生きるために、多くのものを食い潰す。これが乱世というものか。
「死を悼んで父は殺され、私は人を頼って身を奪われる。 何と不条理な世の中か・・・。」
誰もその言葉に答える事はなかった。
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