日頃と同じく、彼女の家の前に立つ。
噂では誰かが用があってこの家の扉を叩いても、音沙汰がないとかなんとか。
それでも人の気配がするとかいうから、唯の居留守だろう。
だが、楽しいことが好きな彼女の性格からしても、客人なんて世間話の格好の目標である。
魏の国に来てから暫くたつが、自分の仕事は戦いももちろんだが、同じ西涼出身の女性の世話も頼まれている。
その女性とは幼馴染で、何かと世話を焼いていた。
…いつも眠たそうにする。
というより、固まっていると、数瞬後にはもう眠っていること多数。
この、魏に来てからも何も変わっていなかった。
どこかの部族に攫われて時を過ごしていたらしいが、聞けばゆっくりできる時間があって好都合だった、とのこと。
どんな状況にも動じない大人物か、それとも唯の天然か。
暫く扉の前にたち、思考を巡らせる。
「よ、文姫」
「あー、こんにちわー」
座ってなにかを書いていた文姫は、声に反応してこちらを振り返った。
その脇には大量の書簡。
味気がない茶色の表面には、黒い文字が隙間を見つけるのが億劫になるほど埋まっている。
…一つだけ。
この世が不平等だと感じるなら。
文姫は、文学の才能に恵まれていた。
「ふあ〜あ…」
大きな欠伸を一つ。
毎日満足するまで眠っているというのに、今でも眠りの中にそうな彼女。
もちろん詩を書いているときでも遺憾なくその特性は発揮され、寝ぼけて書簡に間違いを書いてしまうこと多々。
字を消せるわけもなく、山積みになっている書簡はミスで使われていないものもある。
片付けるのは彼の仕事なので、彼自身としては無駄なモノは出して欲しくないのだが。
「そろそろ来る頃だと思ってたよ〜」
「あのな、せめて書簡は片付けてくれ。それか最後まで使え」
「え〜、芸術に異物はないから芸であり術なんだよ?ヘンなトコがあったらそれはもう芸術じゃないよ。文字だよ」
「はいはい」
「武術だって、おかしなトコあったら其処を狙われて終わりでしょ?」
「はいはいはい」
「あ、聞いてないでしょ〜?」
そう言って、にぱっと笑顔を見せる。
辛いことも一瞬で吹き飛ばしてしまうような、表情。
純真なる言葉は受け止めるだけでも心が暖かくなる。
「え〜い」
幼子のごとくおぼつかない足取りで近づいてきて、急に抱きつく。
これも日頃から変わっていないので別に驚く様子はない。
頭一個分もあるだろうか、胸の所にある文姫の頭を撫でた。
重さがないような感触がある。
軽く身体を震えさせ、心地よい仕草をし、上を向いた。
「えへへ…満足満足」
理由は聞いたことがないのだが、文姫は彼に抱きつくのが一種の必須要項となっているらしい。
幼い頃から時々あっている関係だが、抱きつかれる程何かをした覚えはない。
あるとしたら、誘拐の恐怖からいつの間にか誰かを頼っていることなのだろうか。
なにも知らない地で過ごす事を強要された過去。
周りは他人、地面は違う何か。
それに比べたら、イマ現在なんて、取るに足らない一瞬。
「えへへへ…」
「…」
「……あのね、やっぱり一人は寂しいんだよ…?」
突然の独自。
止める要素も、瞬間も逃した。
彼女は下を向いている。
常時相手と視線を合わせるようにして話すのを知っている彼としては、違和感を覚える。
「いつ、誰が来るかわからない。またあいつらかもしれない」
「…文、姫」
「こ、わい、んだ。怖いんだよ…」
木枯らしのように震える彼女を、彼は優しく包み込んだ。
一生付きまとう恐怖だろうが、乗り越えるのは彼女自身。
彼は手伝うことはできても、体験することはできない。
「ありがと、もう大丈夫だよ」
「…」
しかし、弛ませない。
彼女は一旦は驚いた表情になったが、すぐに顔を上げた。
「えへへへへ、仕方がないね。これじゃ、どっちが心配してるのかわからないよ」
声は平坦。
乾いた反射を残し、消えていく。
それが酷く悲しい。
消えるのが悲しいのか、後がなくなるのか悲しいのか。
「う〜ん、最近、あたし運動してないんだ」
蔡文姫は背伸びしながら、呟く。
確かに見る限りではここ最近は何かから逃れるような速度で詩を書いている。
机に向かう時間が増えれば、おのずと身体を動かす時間はなくなってしまう。
「じゃあ外出るか?」
「いいや」
悪戯を考え付いた少年の顔。
しかし、この表情は彼女に似合っている。
天使の振りをした悪魔、という表現に。
「もっと気持ちがいいコトで運動するよ〜」
熱いなにかが唇に当たる。
虚を突かれて呆然としていると、文姫が笑った。
今度こそ天使の笑み。
悪意などない、心の其処から望んでいる願望が染み出ていた。
「今日は、いや…」
再び距離が零になる。
お互いの視線が交錯しないまま、呟く。
「今日こそ、ふたり、で…ね……?」
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