「……妙な話、聞いたんだけどな」
大学の構内をふたりで歩いていた時だった。立派な並木が深い緑に輝いていたから、夏の盛りのことだったろう。大学3年の夏。
「……ロクに後輩の面倒なんか見たことない俺が君と親しくしてるのは、ご機嫌取りだろうって言う奴がいるんだよ。どっからそんな話が出てくるんだろうな。君があの目白一族の息子だなんて」
夏の熱気に包まれながら、体の芯まで凍り付くような気がした。熱気と寒気でくらくらする。「突拍子もない噂話」を面白がっているらしい内田の顔を見ながら、真駒は顔を引きつらせた。適当に相づちを打って済ませばいいのだ。そうすれば、これまで通り「普通の後輩」として付き合っていられる。
「……誰から聞かれたのか分かりませんが、それは本当の話ですよ」
頭では分かっていても、適当な嘘に逃げることを自分自身が拒んだ。声が震えるだろうかと思ったが、遠くに聞こえる自分の声は、いつもと変わらず淡々としていた。
「……『本当の』ってことは……」
「目白貞多って、ご存知ですか?」
「えーと、俺が子供の頃の人だろう、たしか国会議員の」
「そうです。……あれが、私の父です」
「……君が、目白貞多の、息子?」
その言葉に含まれた疑問を察して、真駒は言葉を継いだ。
「……庶子なんです、貞多の。ですから目白の姓は名乗れません。吉田は母の姓です」
どこから話が漏れるのか、子供の頃から「目白一族の子」という声は真駒につきまとって離れなかった。それほど「目白一族」という名が有名だったということでもある。かつて何人もの大臣を輩出してきた、この国で知らぬ人のない政治家一族。深い学識に裏打ちされた知性と見識、巧みな弁舌と品位を兼ね備えたエリート家系。その末裔のひとりである貞多に惹かれ、ひとりでその子を産んだ母は、かつて政治部記者だったという。
よほど思いがけない話だったのか、ぽかんとした顔で自分を見ている内田を前に、真駒は口を鎖した。知らず知らず握りしめた手が汗で湿っている。
噂はたいてい遠くからじわりじわりと近寄ってきた。遠くで自分を見ながらひそひそ話すクラスメートたちが目に付き出すのがはじまりだ。次第にその距離は縮まってきて、やがて、友人の誰かが直接聞いてくる。「おまえがあの目白一族の子だって本当か?」と。
昔から真駒は嘘をつくのが嫌いだったから、そう聞かれると否定できなかった。「そうだ」と答えると、決まって友人たちは変な顔をした。気味悪そうな、怖そうな、そして珍しい生き物を見るような。そして決まって微妙な距離をとりながら言うのだ。
「なんかお前は普通の奴と違うと思った」
それで特にいじめられたり仲間はずれにされたことはない。しかし、いつも何かが決定的に変わってしまった。やっと親しくなれたと思った人々が、見えない壁を作るようになる。笑いながら、当然のように。
「親がすごいとやっぱ違うよな〜」
「吉田くんは他のバカ連中とは生まれが違うから」
「俺たちみたいな凡人の悩みなんて、吉田には分かんねーだろうな」
悪気なく、無意識に作られた笑顔の壁は分厚く、真駒はいつでもひとり隔てられた。なんの隔ても気兼ねもなく友人関係を深めていく周囲が羨ましかった。
また同じ目に遭いたくないなら、自分が噂を否定すればいい。「吉田真駒」というのは本当の名前だし、数えるほどしか会ったことがない父は自分の存在を公で語ってはいない。噂の真偽を突き止めるのは決して易しくないはずだ。
それでも、嘘をつくのは嫌だった。ただ嘘が嫌いなだけではない。この人に嘘をつくのが嫌だった。本当の友人に、そんな嘘をつくことはできないと思った。それで相手が離れていくことになるとしても。
「……そりゃ、道理で、君には品があると思った」
蝉時雨の中、沈黙はとてつもなく長く感じられたが、実際には一瞬だったのかも知れない。目を輝かせた内田にそう言われて、真駒は面食らった。
「……でも、私は目白の家で暮らしたことは一度もありませんし、父に会ったことも数えるほどで」
「そりゃ、お母さんがそういう生まれにふさわしいようにって育てたんだろうな。でもそれじゃ、吉田はずっとお母さんと2人暮らしか」
話が思いがけない方に曲がってきた。これまで、そんなことを聞かれた試しはなかった。
「はい。生活費はいくらか援助してもらってるようですが」
「でもお父さんとほとんど会えないんじゃなぁ。寂しかっただろう」
「……それより、『目白一族の子』と知られた途端に、みんなが変に距離をおくようになる方が、寂しかったです」
「ああ、そりゃ……そうだろうな、子供はそういうの隠さないしな。けど、そんな理由で遠ざけられたら確かに辛いよな。そうじゃなくても溶け込むのに時間かかるって言ってたのに」
「そうなんです。やっと親しくなれたかなと思った頃に、どこからともなくその話が流れてきて」
「また君の雰囲気が、有名な政治家一族の子なんて言われたらピッタリだからな。みんな近寄りがたくなってしまうんだろう」
「……内田さんは、どうですか?」
この人は、これまでの『友達』とは違う。この人は壁を作らない。それまでのやり取りから真駒はそう思ったが、それでもまだ不安は拭い切れなかった。信じたい気持ちと不安がぶつかり合って、真っ正直な問いかけになった。
「……『どう』?」
「やっぱり近寄りがたいとか、付き合いづらいとか……そう思われますか?」
「う〜ん……」
きっぱり否定してくれることを期待していたのに、相手は真剣に首をひねりはじめた。やっぱりこの人も同じなんだろうか。これまでやんわり自分を隔ててきた人々と─────
「……分からない。初対面の時、最初からそう知っていたら、声をかけなかったかな。いや、それでも素通りできなかったか。今となっては分からないな」
ようやく出てきた返事を聞いて、真駒はあっけにとられた。話が微妙にずれている。
「・・・・・内田さん、私が聞いたのは、そういうことではなくて……」
「分かってる。君があんまりつまらないことを聞くから、ちょっとおどかしてみたくなったんだ」
「・・・・・・・」
内田の「真剣な表情」が、「真面目くさった表情」になっている。どうやら、からかわれていたらしい。真駒は苦笑いする。
「どういう意味ですか」
「俺と君の間で今さら『近寄りがたい』もないだろう。それともエリート様としてかしずいて欲しかったのか、真駒様は?」
「やめて下さいよ!」
「真面目くさった顔」と「苦笑い」が向かい合うと、笑いが吹き出した。笑いにまぎれて涙を拭っていると、いつの間にか内田はまた深刻な顔に戻っていた。今度は芝居ではなさそうだった。
「……でも、それじゃ、君は……大学に残るんじゃないのか? 俺はてっきり君は研究者志望だとばかり……」
「えっ、そのつもりですが、何故?」
「何故って、その、お父さんの後を継ぐんじゃないのか?」
「継ぎません」
「えっ?」
「父は目白の本家筋ではありません。父の本宅には子供がいますし、目白の本家にもちゃんと跡取りがいます。『目白』の名をもたない私が継ぐことはありません。私はこのまま研究を仕事にするつもりです」
「……そうか……」
内田の表情が急に緩んだ。と、感極まったように両肩を掴まれた。この人にしては珍しいことだった。
「それじゃ、これからもずっと一緒に行けるな」
「一緒に、どこまで行くんですか」
挑むように笑いかけ、ちょっと意地の悪い返事をした。真駒にしては珍しいことだった。
「君となら、どこまででも行けそうな気がする」
これにはたまらず笑ってしまった。これでは変な愛の告白ではないか。
「『学会の頂点へ』とか、そういう話ではなかったんですか」
「いや、そんな低次元じゃない気がしたんだ。うまく言えない。悪い。忘れてくれ」
急に照れて手を離し、そっぽを向いた内田を見ながら、真駒は自分の心が躍っているのを感じていた。好きでたまらない学問の、歴史の世界で、この人とどこまでも一緒に行く。これほど幸せな将来が他にあるだろうか。
その時の言葉を、それからわずか1年後、真駒はひるがえすことになった。内田に話しながら練り上げた、人生初の論文が形になってきた頃だった。