『春は巡る』








幸福な記憶は、春の中にある。




 大学3年になった春のことだった。
 R大文学部では、3年になってはじめて正式な所属学科が決まる。当初からの志望通り史学科へ進んだ真駒は、学科の新人歓迎会に参加していた。
 多少緊張しながらも楽しそうな同級生たちを、真駒は少し離れたところから眺めていた。クラス仲間でのイベントなどにはちょくちょく顔を出していたし、彼らが嫌いなわけでも嫌われているわけでもない。しかし、どこか溶け込めないものがあるのは確かだった。例えば、楽しそうにバカ騒ぎしているクラスメート達に自分が近づくと、そのはしゃいだ雰囲気がかき消えてしまう。後に残るのはぎこちない笑顔だけだ。
 これは大学に入ってからはじまったことではない。昔からずっとそうだった。理由を聞けば「いい奴だけど、なんか緊張する」「男子じゃなくて大人と話してるみたい」と言われた。「頭がいい上に子供らしくない」ということで、教師たちにも敬遠されがちだった。
 長年そんな経験を積み重ねれば、どう立ち回ればいいのかは嫌でも覚える。楽しげな場には自分から割って入らない。ただ黙って笑っていればいいのだ。そういう控えめな形で場に溶け込めばいい。だからその日も、簡単な自己紹介を済まし、ひととおり学科の先生たちに挨拶した後は、いつものように黙って周囲の話を聞きながら過ごすつもりだった。
 しかし、この日はその予定が狂った。ふと、離れたところに立っていた男と目が合ったのだ。小柄で、どちらかといえば地味な顔立ちだったが、なにか気になるものがあった。
 この場に参加しているということは自己紹介もしていたのだろうが、なにしろ参加者は多かったから、きちんと覚えていない。顔に覚えがないということは先輩だろうと思い、黙って目礼した。
 しかし、相手は目礼に笑顔を返してはこなかった。さりげなく様子をうかがっていると、男はしばらくひとりでテーブルの軽食をつまんでいたが、やがて自分の紙コップを片手に、真駒の方へ向かってきた。相変わらずその顔に笑みは見られなかったが、不安は感じなかった。
「……初めまして」
 表情そのままに、ぼそっと挨拶された。
「……ああ、初めまして。吉田と申します。この度、史学科でお世話になることになりました。どうぞよろしくお願いします」
「あっ……いや、こちらこそ。院生の内田です。よろしく」
 言われてみればたしかに、内田は会場にあふれる4年生たちより年上らしい。
 挨拶だけは交わしたものの、会話はそこで途切れてしまった。間に流れる空気が重い。これでは下手なお見合いだ。
 そこでふと思いついて、片手に持っていた紙コップを掲げてみた。
「それじゃ、お近づきの印に」
 相手はその意味を察した。
「カンパイ」
 おずおずと紙コップ同士を打ち合わせても、乾杯らしい音は出ない。「べこっ」という鈍い音に、ふたりは同時に苦笑いした。
「……気持ちだけはベネチアングラスのつもりだったんだけどな」
「私は銀のカップのつもりで」
「銀のカップに葡萄酒か。そりゃ中世ヨーロッパだな」
 顔を見合わせて笑った。気取ってもう一度コップをぶつけると、また笑った。たしかに涼やかな乾杯の音を聞いたように思った。
 内田とはそんな風に知り合った。





 新人歓迎会の数日後、真駒は内田に学内を案内してもらった。すでに2年も過ごしているのだから、大学内のことなど知っているつもりだったが、何故かこの先輩には惹かれるものがあったので、真駒は喜んでその好意を受けた。
 さまざまな場所を巡った後、内田は林の中へ入って行った。大学ができる前にあったという森の一部が学内に残されたもので、タイルが敷かれた細い遊歩道以外、歩く人は少ない。
 遊歩道から外れ、人の足跡をたどるように土手を登ってゆくと、急に景色が開けた。敷地の端に着いたのだ。そこは崖のようになっていて、数メートルほど下を車道が走っている。大学全体が小高い場所にあるために、そこからはずいぶん遠くまで景色が見渡せた。吹き抜けてゆく春の風が心地よい。
「大学の中とは思えないだろう? 穴場なんだ」
「知りませんでした」
 青空のもと、住宅街の向こうを電車が走ってゆくのが見える。ぼんやり眺めていると、内田に呼ばれた。
「吉田、こっちこっち」
「うわっ」
 思わず声が出た。若葉とともに咲き誇る桜の木の下で、内田が手招きしている。
「ヤマザクラ」
「ああ、構内でここにだけ生えてるんだ。昔、たまたま散歩に来て見つけた。きれいだろう」
「いいですね。風情がある」
「相当年季が入ってるから、大学ができる前からあるのかも知れないな」
「それじゃ、ここの『先住者』ってことですか」
 大真面目にそう言うと笑われた。
「…‥うん、たしかにそのぐらいの風格はあるな。長老格だ」
 慎重に根を避けながら桜に近づくと、地面に座って遠くの景色を眺めた。暖かい日差しのもと、花びらまじりの春風に吹かれながらそうしていると、本当に気持ちが良かった。
 だいぶ経ってから、連れの存在を思い出した。いや、存在そのものを忘れたりはしていない。今、この場所を共に楽しんでいる人がいるという感覚は、より真駒の心を暖かく満たしてくれていた。ただ、「誰かとふたりきりになったら話をしなければならない」という焦りをまったく感じなかったのだ。そんなことは初めてだった。
「……本当に、すごい穴場ですね」
「……ああ。知ってる奴はみんなこっそり来る。人に知られると、酒持ち込んで花見とかされるからな。バカ騒ぎしたうえ、酔った勢いで登られたりして」
「それは嫌だ」
「うん、俺も嫌だ。だから秘密な」
 返事の代わりに笑ってうなずいた。そんな『秘密の場所』をこの人に教えてもらえたことが、心から嬉しかった。
「……今日は、本当はこの桜が見せたかったんだ。ちょうど満開で、ひとりで見るにはもったいなかったから」
「3年生に大学の案内なんて、何かあるだろうなとは思っていました」
 笑って隣の内田を見ると、内田は苦笑いをごまかすように桜を見上げた。それにならって薄紅の空を見上げる。
「俺はソメイヨシノよりこっちの方が好きなんだ。この方が自然でいいと思わないか?」
「そうですね。ソメイヨシノは人が作ったものですから、美しくても、はかない。ヤマザクラの方が自然の強さが感じられていいと思います。長生きですし」
「詳しいな」
「昔から木は好きなんです。人に話したことはありませんが」
「そりゃ奇遇だな。俺もだ」
 視線を真上の桜から隣に移すと、内田が笑顔を向けていた。きっと自分も今、同じように笑っているのだろう。

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「…………変な人ですね、内田さんって」
「なんだよ急に」
「…………」
 いくら馴染んだ気がしても、それはこっちの一方的な思い込みかも知れない。知り合って数日しかたっていない相手にする話ではないだろう。それでもなぜか、真駒は言わずにおれなかった。
「……私は、いつも人に敬遠されるんです。昔から、何度クラス替えがあっても、人が集まる場に出ても、みんな私を避けていく。時間をかけて親しくなっても、私と2人で話すのをみんな嫌がります。緊張すると言うんです。もう少し明るく楽しくならなければと思って、一生懸命冗談を言ってみたりもしたんですが、みんなに『それだけは止めてくれ!』と止められて……」
「そりゃ誰だって止めるだろ。似合わなすぎる」
 笑ってそう返されたので、真駒は少しむっとした。この人なら分かってくれるかも知れないと思ったのに。
「そういう風に生まれついたんだからしょうがない。君も、俺もな」
「……『俺も』?」
「ああ。俺たち、似た者同士だろう?」
 謎がすとんと解けた。あの奇妙な出会いは、つまり自分と内田が互いに「同類がいる」と察知したから起きたのだ。しかし、いったいなぜそんなことが分かるのだろう。ひとことも言葉を交わさないうちから。
「吉田を見た瞬間に思ったんだ。ああ、絶対あれは俺と同じ人種だなって。でなきゃ見ず知らずの奴に声なんてかけない。俺が寄ってくと相手が逃げる」
「無愛想だからじゃないですか?」
 初めて言葉をかわした時の内田を思い出して笑ってしまった。初対面の人間に、あれだけぶすっとした表情で寄ってこられれば、不安になる方が普通だろう。
 笑ってしまってから、失礼だったと恐縮したが、内田は大真面目にうなずいた。
「そうなんだよ。よく人にそう言われるけど、どうにもならない。無理に笑おうとするともっと怖がられる。流行りには疎いし話は下手だし、俺が話すと友達がつまらなそうな顔するのが分かる」
「ああ、分かります。あれ、でも内田さん、話が下手なんてことありませんよ。今日だってこんなに」
「君だってよく話してる。俺は君とこうやって話してて緊張なんかしない。つまり、そういうことなんだろ?」
「どういうことですか?」
「……あれだ、『ウマが合う』ってのは、こういうことなんだろ?」
 頭がその言葉を理解するのにしばらく時間がかかった。それからさらにしばらくしてから、急に熱いものがこみ上げてきた。笑いたいような泣きたいような気持ちを抑えて、どうにか言葉を返すことに成功した。
「……………そうですね、きっと、そうなんでしょう」
 降りかかる花びらの向こうで内田が微笑んでいた。この人の良さが分からない人間の方がどうかしていると思った。





 そうして真駒は内田と親しくなった。それまで長い時間をかけてようやく周囲に溶け込んでいたのが嘘のように、ほんの数日で十年来の親友のように馴染んでしまった。
 一人暮らし同士、よく一緒に食事をした。当然のように互いの部屋を訪ねるようになった。これといった目的もなく一緒に出かけた。大きな公園を散歩し、山歩きに出かけたりもした。
 もちろん、歴史についても時を忘れて熱心に語り合った。真駒が論文のテーマに選ぼうとしているのが近現代ヨーロッパ、とりわけイギリス史で、内田が主な研究テーマにしているのが同じくヨーロッパの、しかも隣のアイルランド史だという偶然もふたりを喜ばせた。
「どうしてまた、イギリス近現代の政治史なんて生臭いもんをやろうと思ったんだ?」
「昔、たまたまチャーチルの著書を読んだんです。それがとても興味深かったので」
「君とあのタヌキ親父じゃ、まるで正反対じゃないか。いや、だから惹かれたのか」
「そう言う内田さんは、どうしてまたアイルランドを?」
「……ガキっぽい理由だから人には言うなよ。子供の頃、なにかで読んだケルト神話の紹介が、妙に心に残ったんだ。ケルトっていったい何だと思って、気がついたらこう」
「良いきっかけじゃないですか」
「イギリスとアイルランドなんて隣なんだから、一緒に行ければいいのにな。ふたりで史跡巡って、資料漁って」
「そりゃ隣といえば隣ですけど、ちょっと物騒じゃないですか? 今のアイルランドは。イギリスだけにしておきましょうよ」
「なに? そりゃ不公平だぞ。俺が君のチャーチル巡礼につき合うんなら、君もこっちに付き合ってもらわないと」
 笑いながら大真面目に語り合った。互いに下宿生で、仕送りも乏しく、アルバイトをしても学費を払うのが精一杯という状態では、とても海外旅行に行ける資金はなかった。それでも歴史を学ぶ人間としては、本で資料で追っていただけの人々が実際に歩き呼吸していた土地を訪ねるのは切実な夢である。ましてその旅に内田と一緒に行けたら、どれだけ楽しいことだろう。他愛もない夢物語はいつまでも終わらなかった。

 互いの研究について意見を交わすのも楽しかった。さすがに先輩らしく、内田の指摘は真駒が見落としていた重要な点を突いていたし、真駒の意見は「斬新な視点だ」と大歓迎されるのが常だった。内田は目を輝かせては何度もプロットを組み直し、そうして完成させた論文は学会で好評を博した。
「吉田にはいろいろ貴重なヒントももらったし、文献探しも手伝ってもらったし、共同研究者として名前を入れた方が良かったかも知れないな。いや、君が共同研究者になってくれたら、この分野の第一人者になるのも夢じゃないかも知れない」
 年の離れた先輩から、真剣にそう言ってもらえるのは面映かった。
「駆け出しの学生がほんの思いつきを述べただけですよ」
 そう言いながらも、先ほどの内田の言葉は耳に残った。この人と一緒にこの世界で生きていく人生は、さぞ素晴らしいに違いない。








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