※この作品は無理矢理描写、性描写、暴力描写を含みます。といっても桃川が書くのでぬるめのはず。
賭けをしよう 3
1日目。
正午を少し過ぎたころ、イヴァンは菊のいる独房へと足を向けた。
昨夜は気分が昂ぶってよく眠れなかったため、若干睡眠不足である。しかし足取りはとても軽かった。
歩きながら考えるのはもちろん、これから行うことの段取りである。
自分が望めばなんだってできるだろう。道具などの準備は常に万全にしておくよう、部下のトーリス達にようく言い聞かせてあるから。
はたして菊はどのようなものを用いるのがふさわしいか。彼にそれほど体力があるようには見えないから、あれもこれも試すことは難しいだろう。
それに、あからさまに身体を損なうものを使うのはなんとなく避けたかった。傷跡くらいならかまわない。むしろ残してやりたいと思うが、体の一部が醜く変形したりするのはいただけなかった。たとえ菊の悲鳴を聞くためであっても。
なんだかんだ制約がついてしまって面倒臭い。そんなことを思う一方で、その制約を愉しむ自分もいた。これはきっと、遊戯は難易度が高いほうが面白いとか、そういう感覚なんだろう。
そんなことを考えているうちに、イヴァンは目的地にたどり着いた。
木製だが分厚く重い扉を開く。古い扉は建て付けが悪いのか、軋んだ音を立てた。
菊は床に座って待っていた。両脚を折りたたんでその上に尻を乗せる、この国ではふつう見られない座り方だった。
「それ、日本では正座っていうんだってね」
世間話でもするような気安さでイヴァンは声を掛ける。菊の顔が歪んだ。
「無駄話をするつもりはありません。さっさと始めたらどうですか」
こちらを射殺さんばかりの視線の鋭さ。
昨日は怯えの方が強かったというのに。どうやらこの一晩で彼はしっかりと覚悟を固めたようだった。「どんな苦痛にも耐え抜く」と。
そうこなくては。この状況はまさにイヴァンの望むとおりの展開であった。腑抜けを甚振ってもなんにも面白くないのだ。
彼と雑談を楽しめなくなったのは、ほんの少し残念だけれども。
「そう言わないでよ。もともと、ここでやるつもりはないしね」
イヴァンとしてはもう少し菊との会話を楽しみたかったのだが、菊が早く始めたいというのなら仕方ない。どちらにしてもイヴァンは愉しめるのだから問題はなかった。
上着の懐から細長い黒布を取り出し、菊の目元に押し当てる。
「な、何を……」
「目隠しだよ。これから違う部屋に連れて行くから一応、ね。道順覚えて脱獄されちゃいけないでしょ?」
理由を説明すれば、菊はあっさりと抵抗の手を止めた。再び背筋をぴんと伸ばした彼の頭部に、イヴァンは回した布を結ぶ。
こうして見下ろすと、本当に彼は小さかった。ロシア人の中でも大柄な自分と、日本人の中でも小柄な菊。自分たち2人の間には大人と子供ほどの体格差がある。
視界を奪われたせいか、菊が全身で警戒感を表しているように見えるのは、気のせいではないだろう。しかし鋭い眼光が目隠しの布に覆われた彼は、なんだか急に弱々しく見えた。
視覚という身を守るための感覚器官を遮断された、今の無防備な菊。そんな彼を何の前触れもなく殴りつけたら、一体どんな表情をするのだろう。
怯えるだろうか、憤るだろうか。いくら覚悟があるとはいっても、何も感じないということはないだろう。
見てみたい。
湧きあがるのは、純粋な好奇心。それを自覚したときには、イヴァンはすでに菊の腹部めがけて拳を振り上げていた。
「――――ッ!?」
ごり、という打音。肋にぶつかった指から痛みが走る。
突然のことで受け身も取れなかったのだろう、背中と頭をしたたかに打ちつけ、菊は床に倒れ伏した。
あらゆる部分が痛むようだが、腹部の損傷が一番大きいらしい。背を丸め苦しげにせき込む日本人の髪を掴み、イヴァンは顔を上げさせた。
「ねえ、驚いた? いきなり殴られてさ」
目隠しのせいで彼の目を見ることができないのが本当に惜しい。しかし彼の受けた衝撃を窺い知ることはできた。おそらく無意識にだろう。菊はイヴァンから遠ざかろうと身じろぎした。
やはり怯えるのか。菊の反応の一端を知ることができ、イヴァンは満足した。
腹部の痛みのために浅い息をつきながら、菊は吐き捨てる。
「こ、こでは何もしないって、……言ったくせに。この、卑怯者ッ!」
「それは君の勝手な解釈でしょ? 確かにここではしないって僕は言ったけど、『何も』しないなんて約束をした覚えはないよ」
こんなのは屁理屈だ。自分で言っておきながらそう思う。だが目の前の日本人は納得してくれたようで、もともと歪んでいた表情をさらに歪ませた。
「あなたの言う……げほっ……とおりですね。私の認識が甘かっ、たようです」
「あ、わかってくれた? うれしいなぁ」
「ええ。もう『賭け』を受けてしまっているのですから。いつ、その……暴行を始められようと、私が文句を言う筋合いはない」
菊は体を起こし、腹部を押さえながら立ち上がる。痛みは消えていないだろうに唇を強く噛みしめるだけで、彼はうめき声のひとつさえ上げなかった。
矜持が高いのか、意地っ張りなのか。もしかしたらその両方なのかもしれない。
「さあ、煮るなり焼くなり好きにしたらいいでしょう。……私は理不尽な暴力に屈するつもりはありません。日本男児の誇りにかけて、決して」
イヴァンが目隠しをした菊の手を引いて連れて行った先は、この建物にひとつだけ設えている懲罰室であった。
この部屋はイヴァンが看守長の任に就く前から刑務所に存在していたもので、決してイヴァンが私的に増設したものではない。言うことを聞かない囚人を懲らしめるため、鞭打ちをはじめとした暴力を用いることもあったと聞いている。
部屋自体はあらかじめあったものであるが、イヴァンはこの部屋にいくつかの私物を増やしていた。
言うまでもなく、それらはいわゆる「拷問器具」である。
縄や鎖、指締め器などの小さなものから大型の拷問台まで。洋の東西を問わないありとあらゆる器具が所狭しと置かれている。
目隠しを外された菊は、それらを見て顔をしかめた。が、ある程度は予想していたのか反応はそれだけで、口を開くことはなかった。
もっと拒絶反応を見せるかと思っていたのに。なんとなくつまらなく感じ、イヴァンは菊が反応を示しそうな、目ぼしいものを探す。視線をさまよわせると、部屋の隅に積まれたいくつかの石の板が目に入った。
「あ、これ見てよ。日本で昔使われてんだって、この石」
これを使えば日本のことを思い出せるんじゃない? 嫌味のような言葉に、菊がちらりと目線を石板の方に向ける。しかしやはり彼は何も言わなかった。
おもしろくない。
淡白すぎる菊の反応に、イヴァンはほんの少しいらついた。
拷問器具を見たら、恐怖や嫌悪感を覚えるのが普通だ。そんな彼が見られると期待していたのに。
まあ実際に甚振られれば、意地っ張りな彼でも何か反応を見せるだろう。そう考え、手近にある縄を手に取った。太く編み込まれたその縄は、ちょっとやそっとのことでは切れそうにない代物だった。
「じゃあ、始めるけど。その前にひとつ教えておくね」
「……なんですか」
「ほら、あそこにね」
言いながら、部屋の一隅を指で示す。
もちろんイヴァン自身は、そこに何がいるのか知っている。なぜなら、そこに彼を立たせたのは自分なのだから。
「君が『賭け』を台無しにするような行動――例えば僕を殺そうとするとか、逃げようとするとか――そんなことをしたら、いつでも撃っていいってトーリスに言ってあるんだ。だから……変な気は起さないほうがいいよ」
そのことをトーリスに命じた時、彼は心底つらそうな顔をしていた。
彼は優しいから、目の前で人が苦しむのを黙って見ているのが耐えられないのだろう。だからこそイヴァンは彼を好んで用いるのだが。
今も、この世の終わりが来たような顔で銃を手にしている。
そんな彼の険しい表情を勘違いしたのか、菊は反撃や逃走を諦めたようだった。
「……わかりました。無駄な足掻きはしません」
ため息をひとつ吐き、イヴァンのなすがままになる菊。それでも向けられる眼差しは相変わらず敵意に満ちていて、それがイヴァンを愉しませた。
菊からの抵抗もないので、程なくして縄は結び終わった。
後ろ手に両手首をくくり、そこから伸ばした縄を首へと巻きつける結び方。疲れた腕を下ろそうとすると喉元が締まってしまうという、苦しみを与えるための拘束術である。
「僕不器用だから、ちょっと加減を間違えてるかも」
縄で縛った菊を座らせ、後ろを向かせる。肩を掴んだまま、もう一方の手でくくられた菊の両手首を下へと引っ張った。
そんなことをすれば当然、菊の喉元へと縄が食い込む。
「う、ぁ……、っく……は」
菊は苦しげに、息を途切れ途切れに吐いた。その息は細くあえかで、彼が苦しんでいることを如実に伝えている。
まるで喘ぎ声のようなその声に、鳥肌が立つほどの興奮を覚えた。やはりこうこなくては。これでこそ遊びがいがあるというものだ。
「ふふ。苦しいよね。腕下ろすとそうなっちゃうから気をつけてね」
掴んでいた手首を解放する。急に大量の空気を肺に取り込むことになり、菊はごほごほとむせ込んだ。
さあ、苦しむところをもっともっと見せてもらおう。彼が反抗的であればあるほど、その姿は甘美なものになるのだ。
息を整える間も許さず、イヴァンは菊を台の上に仰向けに寝かせた。台はちょうど腰が当たる位置で山型になっている。後ろ手に縛られているため腕を自重で押しつぶす形になっている菊は、痛みを緩和するために身じろぎしては縄で首を絞めてしまう、ということを繰り返していた。
思うように呼吸ができず苦しいのだろう。目には涙が浮かんでいた。
「そんなに動くと落ちちゃうよ?」
落ちないように留めてあげるね。言いながらイヴァンは菊の腰のあたりに拘束用の革紐を巻きつける。そして、やはり革でできた袋を菊の頭へとかぶせた。
頭の革袋を、首の位置で縛って口を閉じる。袋には1つ、菊の顎のあたりにそれなりに大きい穴があけられているから、空気が足りなくなることはないだろう。そもそもこの袋はそういう目的でつけられるものではない。
しかし菊にとっては、呼吸を奪うには不十分なこの袋の用途が理解できなかったようだった。
「こんな袋……いったい何のために」
「ふふふ。すぐにわかるよ」
その用途を悟った時の彼はどのような反応をするのだろうか。想像するだけで胸が弾む。逸る心を抑え、できる限りの速さで部屋の隅へと行き、木製の大きな容器を抱えて菊のもとへと戻った。
その容器に入っているのは、大量の水。
注ぎ口の付いた容器を傾け、革袋の穴へと流しこむ。
「ひっ、あ!? み……みず?」
驚く菊の声が革袋越しに聞こえる。それに構わずにイヴァンは水を流し込み続けた。
「止めてほしかったらすぐに言ってよ。じゃないと君、死んじゃうから」
「なにを、……うぁ……ッ!」
そろそろ袋の中にそれなりの量の水が溜まってきた頃なのだろう。菊が狼狽の色の濃い声を上げた。耳の辺りまで水に浸かると、大抵の人間は自分の身に起こっている事態を把握し暴れるのだ。菊もそうだった。
溺死への恐怖に、菊は本格的に暴れ出す。腰を拘束している革紐が軋んだ音を立てた。
「こんな……っ、今すぐ止めて下さいッ! 殺すつもりなんですか!?」
「殺す気はないよ? 君が勝手に死んじゃうことはあるかもしれないけど」
「な……なら、なぜこんなことをっ!」
こちらの真意を問う菊の質問には答えない。教えてしまったらおもしろくないのだ。自分の身をもって気づいてくれなきゃ。
「でもさ、本当に止めていいの? 『賭け』は君の負けってことになるよ」
「――――!」
イヴァンの言葉に、菊の動きがぴたりと止まる。
その様子から、この程度では降参するつもりがないと知れた。
それでいいのだ。こんなところで降参などされてしまったら興醒めもいいところである。
おとなしくなった菊の頭を包む革袋に、イヴァンはさらに水を注ぐ。とにかく流し込む。
そうしながら、ふとイヴァンは、菊の体が細かく震えていることに気付いた。
これも至極見慣れた反応だった。降参すまいと強がったところで、死への恐怖が消えるわけではないのだ。むしろ水が溜まってくることで、その恐怖は一層強くなっているに違いない。
恐怖は確実に菊を追い込んでいる。イヴァンは笑みを深めた。
「あ……が、はっ……ッ」
そのうち、むせ込むような音が革袋の中から聞こえた。ついに水面が鼻や口の位置を超えたのだ。そこでようやくイヴァンは水を注ぐ手を止め、菊の様子を注意深く眺める。
イヴァンの為す行為をおとなしく受け入れていた菊は、再び全身を使って暴れ出した。右も左も関係ない。がむしゃらに上半身や足をばたつかせる菊。そんな暴れ方をしたら、苦しいだけなのに。
無闇に暴れたために手首を下げてしまったのだろう、首に縄が食い込んだ。
「く……ぁっ!? はっ、あ……う」
喉が締まったことで恐慌状態に拍車がかかった。いよいよ激しく暴れ出しては自分の首を絞め、いっそうの苦しみを受けることになる菊。もはや冷静に考えることすらできないようだった。
革紐や縄の軋む音、菊の苦鳴。すべてがイヴァンを興奮させる材料になる。
「はっ、あ、うっ……かは、っあ」
菊は浅い呼吸を繰り返し、暴れに暴れては首を絞め続けた。ただでさえも短い呼吸がより短く速くなっていき――やがて、止まった。
「あれ?」
突然のことに、イヴァンは気の抜けた声を上げる。これは予想外の事態だった。
呼吸音だけではない、あれだけ暴れていた菊の動きもぴたりと止まってしまっている。
まさか死んでしまったのでは。イヴァンは慌てて頭の革袋を剥ぎ取った。乱暴に放り捨てられたその袋から、びしゃっと水がこぼれた。
菊の顔にはしっとりと水分を含んだ黒髪が張り付いている。首元に指を当てると、血管が規則正しく脈打っているのが感じられた。
「……なんだ。気を失っただけかぁ」
そのことに、イヴァンはひどく安堵する。
こんなのではまだまだ遊び足りない。彼ともっと遊びたいのだ。まだ、壊れてしまうには早すぎた。
腰を縛りつけていた革紐を外し、菊を台から下ろす。両手首と首をつなぐ縄も解いてやった。
「ねえ。いつまで寝てるのかな。そろそろ起きてよ」
イヴァンは菊の鳩尾を殴りつけた。気付けとしては随分手荒な方法だった。
衝撃で意識を強制的に取り戻させられ、反射的にむせ込み水を吐きだす菊。とにかく苦しさを少しでも軽減したい。その一心で菊はむせ込み続ける。なぜそのような反応をしているのか、菊自身もあまり理解できていない様子であった。
このまま放っておけばそのうち彼は落ち着きを取り戻すだろうが、そんな時間を与えるつもりはイヴァンには毛頭なかった。
苦痛は次から次へと襲うことで、よりいっそうの苦しみを与えるものだ。これまでの経験からイヴァンはそのことを熟知していた。
次は何がいいだろう。辺りを見回し、すぐに最適なものを棚の上から見つけ出した。これならばさほどひどい傷を負わせることなく、痛みだけを与えられるだろう。
イヴァンはそれを手に取り、菊の眼前に晒した。
「これ、なんだと思う?」
問えば、むせ込んでいた菊が一瞬、きょとんとした表情を見せる。そしてそのまま、驚くほど素直に答えた。
「げほっ……は、はり……?」
「正解。それじゃあこれをどう使うかはわかるかなぁ?」
子供に問いかけるような口調でイヴァンが問う。一見しただけでは普通よりも長いだけの縫い針にしか見えないそれに、菊は首を傾げた。
「…………?」
「わからないみたいだね。じゃ、よく見てて」
これはこうやって使うんだよ。
菊の手首を掴み、持ち上げる。イヴァンはためらいなく、手の平の肉厚な場所へと針を突き刺した。
「……い、っつ……!」
もちろん一か所だけで終わり、なんてことはない。二度。三度、四度五度六度。手の平だけでなく体中のいたるところへと無秩序に針を刺していく。苦痛から逃れようと身をよじる菊をイヴァンは押さえつけた。
「あんまり暴れると変な所に刺さっちゃうよ。……目とかね」
菊を脅すためだけに、わざと眼球へと針先を近づけてそんなことを口にする。そうするつもりなど、全くないというのに。それで菊がぴたりと動きを止めるのだから、愉快で仕方がなかった。
まもなくして、針に赤い液体がまとわりつくようになった。血管を避けて刺すようにしてはいるものの、針をそれなりに深く刺しているからどうしても出血は避けきれない。
「あ、ぅぐ……ッ! やっ、め…………っ、い、ぁ」
針が皮膚へと突き刺さるたびに上がる、菊の押し殺した悲鳴。
それでも決して「やめてほしい」という言葉は出てこなかった。たとえ言いかけてもすんでのところで菊自身が自制しているのだ。
その忍耐力の強さに、イヴァンは素直に感嘆する。
「すごいね。痛みを感じてないわけじゃないのに、ぜんぜん弱音を吐かないなんて。日本人ってみんなそうなの?」
気楽な口調で言いながらも、菊の皮膚を蹂躙する針の動きは止まらない。
そのうち、針の先から伝った血が滴となってイヴァンの指先を染めていった。
菊から流れ出た、赤い赤い血液。それが自分の手に。
赤黒く染まった自分の指に、うっとりと目を細める。不潔だ、などとは微塵も感じなかった。ただ恍惚感だけがそこにあった。
再び菊の手をとり、指先に針を近づける。ぐり、と指と爪の隙間を押し開け、そこに先端をあてがった。
針の先でつんつん、と肉をつつく。そのたびに高鳴る心臓。
「今からここに針を入れるけど、構わないよね」
イヴァンの無邪気な声音と行動に、今度こそ菊の顔色が青ざめた。
「あ、う……や、だ……! やめ、ッ…………!」
言いかけて、はっと口をつぐむ菊。
ここまで来ても音を上げないのか。イヴァンは溜息をついた。少しくらいは弱音を吐いてくれたらいいのに。
「君って本当に意地っ張りだね」
そのまま、溜息交じりの気軽な調子で針の先を押し込む。
懲罰室に、布を裂くような悲鳴が響き渡った。
数十分後。
「あーあ、また気絶しちゃった」
意識を失った菊を前にして、イヴァンはつまらなさそうにつぶやいた。
あのあと。針の他にもいくつかの器具を試し、菊はそのたびにイヴァンの満足のいく反応を見せていた。しかしやはり体力と気力には限界がある。次第に反応は薄くなり、最後の方は怯える様さえ緩慢になってイヴァンの興を殺いだのだ。
血の気が引いた顔色を晒して、菊は床に横たわっていた。
後遺症が残るような器具の使用を避けたため外傷はさほどひどくなかったが、彼が心に負った傷の方は計り知れなかった。
心の傷が、少しでも多ければいいと思う。そして自分がそばにいなくても、自分から受けた行為を思い出せばいいのだ。
「仕方ないから今日は終わりにしようかな。また明日もあるし、焦るあまり殺しちゃったら台無しだもんね」
ぐ、と伸びをする。熱中していたために気付かなかったが、体にはそれなりに疲労が溜まっていた。
イヴァンは部屋の隅の方へと声を掛けた。
「トーリス。本田君をもとの部屋まで運んどいて」
そう一声掛ければ、すぐに部下のトーリスがまろびつつ駆け寄ってくる。彼の顔色は、菊に負けず劣らず真っ青だった。
「ふふっ。君も具合悪そうだね、トーリス」
「……いえ。そんなことはありません。大丈夫です」
「そう? じゃ後の事は任せちゃっていいよね? エドァルドとライヴィスも使っていいから」
よろしくね。それだけ言ってイヴァンはさっさと懲罰室を後にする。
トーリス達3人は、思うところはあるようだがイヴァンの命令にはきちんと従う。そういうふうに躾けてきたのは自分だ。問題ないだろう。
それよりも今のイヴァンの頭を悩ませているのは、菊のことだ。
今日行ってみて、菊は決して苦痛に強くはないということがわかった。調べによると彼はもともと軍人だったわけではなく、徴兵で集められただけの一般市民なのだから当然だろう。それなのに矜持が高くイヴァンに屈しまいと強がるものだから、心は過度な負担を被っているのだ。今日のような勢いでイヴァンが甚振れば、そのうち心が壊れてしまうだろう。
それは避けたい、とイヴァンは思っている。
彼といると自分がいつも以上に興奮していることがわかるのだ。そんな彼を1日や2日で失いたくはなかった。
それでも彼を屈服させてみたい。壊すのではなく、屈服させたいのだ。
ならどうするべきか。
答えの出ない問題に頭を抱えながら、イヴァンは暗い廊下をゆっくりと歩いて行った。
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ジレンマに陥るイヴァンさん。