呪わしきハムレット8


 



 今は旬のトップアイドル二人がWキャストとあって、“ハムレット”の売れ行きは尋常ではなく、チケッ
トも1分で完売してしまったらしい。
 マスコミにも大々的に取り上げられ、俺や倬弥も高崎や晴沢のオマケみたいなもんだけど、一緒に
記者会見に出たり。倬弥は舞台以外の人前は苦手らしく、終始無口だった。
 これを機にKONの取材も殺到し、今さんの過去の映像や、工藤さん主演の舞台がVTRで流れたり、
あとドキュメント番組の取材もあって、俺もちょこっと紹介されちゃったりして。
 KONの知名度は一気に上がることになる。

 そして公演当日───
 
 やはり高崎や晴沢のファンも多いのか、いつもより年齢層が若いらしい。そして、礼子さん情報によ
ると、傾向としては晴沢や工藤さん、そして倬弥のグループは女性客。俺たちのグループは比較的男
性客が多い傾向にあるらしい。
 ハムレットの舞台はデンマークだけど、アジアンテイストを交えた舞台衣装だ。
 喪服を纏うハムレットは中国王朝の礼服に良く似ている。そして襟元は和服のそれと酷似してい
た。
 さすがアイドルだけに、はっきり言って似合いすぎ。
 そしてヒロインである木村さんは、栗色のゆるパーマがかかったロングヘアのカツラに紫のロングド
レスに肩からはショールがかかっている。これも中国王朝の貴妃の衣装を参考にして作られたらし
い。
 化粧もばっちりで、女としてもかなり上ランクに位置する可愛さと、それから綺麗さもくわわってい
た。
 で、俺はというと真っ青な長衣と金の肩衣、やはり中国王朝貴族の礼服をモデルにしており、地味
なハムレットの衣装とは対照的に派手なものだった。
 うん、我ながらよく似合っている。
 それと俺も今回はロングヘアのカツラをしていて、さらに女性のようにポニーテールのような髪型に
なっている。これでメイクなんかしてしまったら、女になりかねないが、大丈夫。
 ちゃんと男らしいぜ、俺。
 自分の姿にやや自画自賛してしまったけれども、本番前はやっぱり緊張する。
 ああ、でもコレがいいんだよな。
 緊張感と同時にやってくる高揚感が。
 やるだけのことはやったし、不安な要素なんて何一つない。
 あれだけ台詞覚えに窮していた高崎だって、今や驚く程流暢に長い台詞でも言えるようになってい
る。
 それにくわえて、あの演技力だからな。はっきり言って晴沢に負けやしない。
 俺も、あいつには負けられないしな。
 今はここにいない、泉沢倬弥のことを俺は思う。
 晴沢ハムレットは、前日だったので、俺たちよりも先に初回公演を終えていた。会場は大絶賛の嵐
だったらしい。
 さらに前日の公演を見に来ていた人が、今回の公演も見に来ることもあるらしい。それはそうだろ
う。高崎や晴沢が所属するグループのファンなら当然だろうし、あと評論家やウチの根強いファンな
ど、両方のハムレットを見ておきたい人は多いに違いない。
 

 物語は、エルシノア城の見張り兵たちの会話から始まる。
 ある夜、彼らは亡き前王そっくりの亡霊を目撃する。二夜続けてそんな恐ろしいことを体験してしま
った彼らだが、言っても信じて貰えぬと思い、その夜、ホレイショーを呼んで、実際に前王そっくりの亡
霊が歩いている姿を見て貰うことに。
 その夜も亡霊は現れ、ホレイショーもその姿をしかと見た。彼は、呟く。
「ハムレット様にお知らせしなければ───
 そして舞台は暗転。
 直ぐさま戴冠と婚儀のシーンの舞台が素早く用意され、鹿島さんと梁瀬さんは玉座に。そして向いに
控える大臣や腹心。俺は下手の方に控える。
 舞台の照明が、今度は薄明るく炊かれる。
 トランペットのBGMが流れた。
「思えばハムレット王、死して今だその記憶は生々しい。何人も心を悲しみにゆだね、国中暗い額に
喪を分かち合うのが人情であろう。が、それに負けてはならぬ」
 鹿島さんは、梁瀬さんの細長い手をとる。
 ふわりと微笑むガートルード。
 梁瀬さんの女装ぶりも、日に日に色気がかかっており、メイクと中国王朝の皇太后を思わせる衣装
に包まれた今、誰が見ても美しい女優そのもの。
「従って、かつては姉、今は妃、この国の主権を共々担うカートルードだが、それを敢えて妻にしたの
も、心中いわば傷ついた喜びを背負う思いであった。片目は喜びに輝き、片目は愁いに沈む。祝福と
哀惜を等しく秤に掛け、葬儀には歓喜の調べを奏で、婚儀には挽歌をうたう。そのような気持ちであ
った。もちろん一同の忠言を却けたおぼえはない。今回の婚儀は皆快く同意してくれた筈───礼を
言う」
 王の言葉に、重臣一同も深く頭を下げる。
 次ぎに鹿島さん演じるクローディアスは、ノルウェー王子のフォーティンブラスが、ハムレット王の死
を機に、デンマークの領土を我が者にしようと動き出していることを語る。
 肝心なフィーティンブラスの叔父である、ノルウェー王は病床であるが故甥の企みには気づいてい
ない。そこで、ノルウェー王当てにしたためた一書を送り、甥の企みを抑えてもらう依頼を送ることを
述べる。
「さて、レアティーズよ」
 鹿島さんの呼びかけに、俺は立ち上がり敬礼する。
「何か頼みがあるそうだな。筋さえ通ったことならば、何でもかなえてやるぞ。このデンマーク王室と
お前の父親は切っても切れぬ縁があるのだ。何が望みだ、レアティーズ」
「はい、フランスへ戻らせて頂きたいと思います。この戴冠式の為、喜んで帰国はいたしましたが、務
めを果たした今、その思いは再びフランスへと駆られております」
 俺は、はきはきとした口調で答える。
 夢と希望に満ちた若者は、何の曇りもない笑みを浮かべ王に自分の思いを告げる。
 この部分の演技は最初からブレがない。
  王はやや複雑な表情で。
「うむ……しかし父親の許しは得たのか?」と問いかける。
「それがうるそうて、うるそうて。渋る父親の心情など察しもせず、その強情さに折れて承知の判を押
した次第でございます。このうえは、父親からもお願い申し上げます。なにとぞいとまをおやりください
ますよう」
 ボローニアス演じる須藤さんが、深々と頭を下げる。
「うむ、いいだろう。気ままに遊んでこい、レアティーズ。フランスへ戻り青春を謳歌するがいい……と
ころで、ハムレット。甥でもあるが、今は我が子」
 クローディアスの声に、ハムレット演じる高崎。

「…………」


 ……。
 ……。
 ……。
 あれ?
 高崎?
 微動だにせず、椅子に座ったままの高崎に俺は内心訝る。
 まるでフリーズしたみたいに。
 いつものように、さりげなーく王に顔を背ける動作が全然できてない。
 目を見開いたまま、その場に動かない。
 舞台がその瞬間、凍り付く。
 俺も全身の血の気が引くのを感じた。

───こいつ、台詞が飛びやがった!
 
 ベテランの役者でも稀にあるらしいが、舞台に上がった瞬間台詞を忘れるという、あの現象。 
 まさか、今それが奴の身に降りかかるとは思わなかった。
 俺たちが思った以上に、緊張しているってことか。
 やばい……やばい。
 今すぐ台詞を教えてあげたい所だけど、どうすることも出来ない。
「ハムレット?」
 鹿島さんが、台本にはない呼びかけをする。
 それで何とか台詞が呼び起こせないか、あの人なりに配慮したのだろう。
 高崎はその瞬間弾かれたように、顔を背け引きつった笑みを浮かべてようやく台詞を吐いた。
『ただの親戚でもないが、肉親扱いはまっぴらだな』
 クローディアスには聞こえぬよう呟くように言う。
「どうしたのだ?まだ額の暗雲は晴れぬようだが?」
「そのようなことはございますまい。眩しすぎる日光の押し売りに辟易していたところですよ」
いつものような皮肉っぽい口調が出てこない。
 完全に躓いてしまっているな。
 するとガトールード演じる梁瀬さんが立ち上がり、高崎の元に歩み寄る。
 そして高崎の肩に両手を置いて、耳元で何かを囁いたようだった。
 それは多分舞台の上にいる俺たちだけが分かる光景で。
 その言葉を聞いた瞬間、高崎は僅かに目を見開いたけどすぐに元の表情に戻した。
 あ……さっきより落ち着いた顔になっている。
「ハムレット、その暗い喪服を脱ぎ捨てて、デンマーク王に親愛の眼差しを……まだ父上を慕うお前
の気持ちはよく分かります。けれども、いつまでふさいでいても始まりませんよ。生ある者は必ず死
ぬ、そしてあの世で永遠の命を授かる、それが世の常というものではありませんか」
 凛とした梁瀬さんの声。
 中性的なその声は驚く程通る声だ。
 観客から感嘆のため息が洩れる。 
「そう、世の常に違いありません」
 暗く絶望……いや失望に満ちた眼差し。あ、今までよりいい演技かも。虚ろな眼差しをガートルード
に向けるハムレット。
「それならば、何故あなたには世の常とは見えないのですか?」
「見えない……見えようが見えまいが、そのようなことこちらの知ったことではない。この漆黒の上
着、しきたり通り最もらしい喪服、そらぞらしいため息、あふれるほどの涙の泉、しめっぽい憂い顔、そ
の他ありとあらゆる形や表情も、この心の底の真実を表してはおりませぬ。なるほど、そういうものな
らば、目に見える。そうしたお祭り騒ぎなら誰にでもできましょう。この胸の内にあるものは、そのよう
な悲哀が着て見せるよそ行きの見てくれとは異なります」
「ハムレット、そのおまえの父の死を悲しむ、優しい気持ちは誠にのぞましいもの。だが、おまえの父
も父をなくし、その父も父をなくした。こうして生きた者は順繰りに喪に服して父を哀惜し、子としての
務めを果たしてきたのだ。いつまでも悲しみに溺れるのは、神に背く行い。男らしい態度とも言いかね
る。……頼む、ハムレット。その益なき悲しみを大地になげうって、この私を父と思うてはくれぬか」
「ハムレット、この母の願いを無にしないで。ウィッテンバーグへは行かないで!どうかここに」
「できるだけそうしたいと思います、母上」
 無表情にハムレットは答える。
「その優しい返答、嬉しく思うぞ。デンマークにとどまって我が身そのままに気ままに振る舞うがよい。
今夜は祝杯をあげよう。王が乾杯するたびに祝砲を撃つのだ!さあガートルード。ハムレットの素直
な承諾、今の一言で心和む思いだ。心置きなく祝宴にのぞむとしよう。今からデンマーク王が捧げる
杯一つ一つに祝砲を打ち上げ。雲の上に歓びを伝えてくれ。天の王も祝宴に和み地上の歓呼に応え
るだろう、さぁ。奥へ」

 トランペットの吹奏が流れ、ハムレットを残し一同は退場する。
 
 一人残された高崎はその場に立ち尽くし、我が身を抱きしめる。
 唇を噛みしめ、激しく頭を横に振るう。

「ああ、いっそこの穢らわしい体が溶けて、なくなってしまえばいい。せめて自殺が罪でなければ、神
よ、どうすればいい?ああ、この世の営みが一切嫌になった!煩わしく、味気なく、全てが甲斐無し
だ!!あたり一面、むかつくような悪臭。どうなってるんだ。亡くなってまだふた月にもならない。立派
な王だった。あの男とは雪と墨の違い。心から母を愛してた。母だって父を愛してたのに───それ
がよりにもよって、父が亡くなり一月で、あんな叔父に身をゆだねるとは。おお、なんという早業。これ
がどうして許せるものか。いそしそと不義の床に駆けつけるそのあさましさ。よくないぞ、このままでは
済まさぬぞ!!いや待った。こればかりは口が裂けても黙っておらねばならぬ」
 腹の底から叫び、そして最後には感情を抑えた呟きを漏らす。
 ああ、いつも通りの高崎の演技……いや、いつも以上の気迫が漲っている。
 最初はどうなるかと思ったけど、この調子でいけば。
 俺がそう思っている横、耳元で腕を鳴らす音が。
 
「あの野郎……あとでぶっ殺す」

 呟く今さんに、俺は我が事のように背筋に寒気が。
 横で須藤さんがまぁまぁと肩を叩いて諫めているけど、あんまり効き目はない。
 まさか公演途中でブチ切れることはないだろうけど、後が怖いな……俺も巻き添え食らいそうだ。
 終わりのことを思うと、やや凹むけど、今はそんなことを考えている場合じゃない。
 俺は俺の出来る事だけをしなければならない。
 さらに物語は、ハムレットがホレイショーの案内で、父親の亡霊と対面する。
 そしてその亡霊自身の口から、実は父の死はクローディアスによる毒殺だったと告げられる。
 復讐を誓うハムレット。
 
 そして舞台は暗転。

 フランスへ向かうレアティーズは妹とのしばしの別れを名残惜しむシーンだ。
 彼は最終的にはハムレットに立ちはだかる人物だけど、オフィーリアにとっては良き兄であり、ボロ
ーニアスにとっては自慢の息子。
 父も妹も。
 これが今生の別れになるとは、その時には微塵も感じていない。
 俺の中にあるのは、今フランスの旅路への希望だ。
「もう必要な荷物は積み込んだ。では行くよ、オフィーリア。順風で船の都合さえ良ければ。怠けては
いけないよ?」
「怠けるとお思いになって?」
 はにかんだ笑みを浮かべ、小首を傾げる。
 うわ、今まで以上に可愛さ倍増。
 木村さん、本当に可愛いんだな───今回、俺は新たな木村さんの魅力に驚くばかりだった。
「ハムレット様のことだが、その気持ちは一時の浮気、若さ故の気まぐれと思っておけば間違いない。
早咲きのスミレのようなもの……」
 兄、レアティーズの言葉に、オフィーリアはびくんと肩を震わせる。
 そして不安に顔を曇らせながらも、何とか笑って見せて。
「それだけかしら?」
「……もう考えない方がいい。なるほど、ハムレット様はお前を愛しておられるかもしれぬ。その心は
純粋そのもの、お心の内は一点の偽りもないだろう。だが、あの方がデンマーク国民の同意を得なけ
れば何も出来ぬ特別な地位であることを忘れてはならないよ。おお妃選びとてそう。だからお前も分
をわきまえて───
「分かりましたわ、お兄様。けれども、そう仰るご自分こそいい気なもの。手に負えぬ道楽者同然、戯
れ心にあちこち花咲く小道で現をぬかしておいでになって」
「余計な心配だよ」
 俺は苦笑した。
 そこに須藤さん演じるボローニアスが登場し、レアティーズに長いこと説教垂れる。
 そんな父親に半分辟易しながらも、苦笑してから。
「では行ってくるよ、オフィーリア。いいか、さっき言ったこと忘れるんじゃないよ」
「はい、この胸の内、しっかり錠を掛けて鍵はそちらに預けておきます」
 俺は木村さんをぎゅっと抱きしめた。
 女装を本格的にするため、胸も作っているのだけど、本当に女の子を抱きしめている気分になる。
 少しドキドキしながらも、俺は舞台を退場。
 それからは須藤さんと木村さん───ボローニアスが娘に、自分の立場をわきまえるように忠告す
るシーンが続くのだった。
 舞台の袖からは、木村さんに見入っているお客さんの姿がちらっと見える。
 本当に今の木村さんは花のように可憐で、可愛らしい少女を見事に演じていた。
 きっと全員が男という事実を知らなければ、男女の共演だと思う人もいるだろう。
 それぐらいに、今の木村さんは女になりきっていた。

 そして舞台は名台詞のシーン。
 ハムレットには数々の名台詞があるけど、やはり次の言葉が最も有名だろう。 


「生か死か、それが疑問だ……っっ」
To be, or not to be: that is the question.


 直訳してしまうと、有る、あるいは無いこと。それが問題だ。
 という訳になってしまうが、現代では生か死か、それが疑問だと翻訳するのが多い。
 もちろん他にも。
 生きて無くなるか、消えて止まるか、それが疑問だ。
 このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ。
 訳者によって様々な解釈がある。
 故にかの言葉は役者にとっても、訳者にとっても謎めいた名台詞……もしかしたら、じつは迷台詞
なのかもしれない。
 
「不法な運命を耐え忍ぶか、それとも剣をとり、恐ろしい苦難に立ち向かって死んでしまうか……死と
は眠りにすぎぬ。それだけのことだ。眠れば苦しみが消える───いや、眠れば夢を見る。死んで
眠ってただそれだけなら!しかし眠れば人は夢を見る。それは嫌だ……死んで人はどんな夢を見る
のか? それを思うと、辛い人生にも執着してしまう。でなければ、だれが世間の非難に耐えられる
か……権力者の横暴、尊大な者の傲慢、不実な恋の苦しみ、役人の横柄な態度、相手の寛容につ
けこみ、のさばりかえる小人輩の傲慢無礼、おお、誰が好きこのんであんな奴らに従うんだ!?その
気になれば短剣ひと突きでいつまでおさらば出来るのに。 そんなことに耐えるより、死んだほうがま
しだ。人はなぜ不平たらたら、汗水たらして、辛い人生を生きるのか? 死後の世界に不安があるか
らだ。だれもそこから戻ってきたことがないからだ。死の恐怖を体験するより、現在の苦しみのほうが
まし。この判断が人を臆病にしてしまう。そのために確固とした決意が揺らぎ、のるか、そるかの大事
業も実行できずに終わってしまうのだ。決意の生き生きとした血の色が憂鬱の青い顔料で硬く塗りつ
ぶされてしまう。乾坤一擲の大事業もその流れに乗り損ない、行動のきっかけを失うのがオチか
──
しっ……、気をつけろよ。美しきオフィーリア、おお、女神どの。この身の罪の許しも」
 そこで一部から拍手が起きる。
 恐らく長台詞を言えないことを知っている高崎ファンからの、よくがんばった拍手だろう。
 ……ま、そーゆー拍手が出てくること自体どーよ?って気はするけどな。
 それでも再度のオフィーリアの登場で別の方向からも拍手が起きて、会場はやがて大きな拍手と
なる。
「ハムレット様。最近、お体の具合は?」
 懸命に不安を隠しながらも、いつも通りの愛らしい口調で尋ねてくるオフィーリア。
 ハムレットはどこか皮肉な笑みを浮かべ。
「いやご親切なおたずね。おかげで元気なものだ」
 オフィーリアは手に持っている宝石をそっとと差し出した。
 その指先はかすかに震えている。
「いただいたもの、ずっとお返ししようと。お受け取りください」
 ハムレットは肩をすくめ、おかしな冗談を聞いたかのような仕草をする。
「何もやった覚えはないぞ」
「そんな!優しいお言葉をそえてくださったからこそ大切にしてまいりましたのに。その香りが消えた
今は欲しくはありません。どうぞお受け取りを」
 するとハムレットは、オフィーリアの頬を両手で挟み、その顔をのぞき込む。
「くくく……おまえは貞淑か?」
 目を見開いて問いかける。
 どこか狂気じみた表情、ああ……稽古通りだ。
 観客から息を飲む声が聞こえる。
「なぜそんなことを?」
 オフィーリアは今までと様子が違う恋人をどこか恐れながらも、訝しげに問い返す。
「お前が貞淑で美しいのであれば、その二つは互いに付き合いさせぬがいいと思ってな」
「美しさと貞淑は、よい取り合わせではありませんか? 」
「いや、美しさが貞淑な女を不義という奈落に陥れる。昨今、時勢がれっきとした証を見せてくれた。
そう……かつては、お前を愛していた」
 高崎が木村さんの頬を両手に挟み、優しく囁くように言う。
 その仕草はかつて自分を想ってくれたハムレットそのもの。
 オフィーリア演じる木村さんはそっと目を閉じ、その身をゆだねようとするが。
 ハムレットはおかしそうに笑いをこぼしながら、その耳に残酷な言葉を囁く。
「残念ながら、愛してはいなかった」
 オフィーリアは目に涙を浮かべ、首を横に振る
「ヤクザな古木に美徳を接ぎ木しても始まらぬのだ。結局親木と同じ下品な花しか咲かぬ!」
「そ……そのようなこと……」 
「尼寺へ行けっ!なぜ罪深い人間を生みたがる?このハムレット、これでも誠実な人間のつもりだ
が、それでも母が産んでくれなければよかったと思うほど欠点だらけだ。傲慢で、執念深く、野心
満々、想像だけでまだ実行できない罪を抱えている。そんな男が天地を這いずり回って、いったい何
ができる?おれたちはみんな悪党だ。だれも信じてはならぬ!いいから尼寺へ行ってしまえ!!親
父はどこにいる?」
「───家に」
「では戸はぴったり締めておけ。余所で愚かなことをせぬようにな」
 ハムレットはけたたましく笑いながら、オフィーリアを指さす。
 す……凄い。稽古中じゃ、そんな演技全然しなかったのに、今の高崎は狂人を装うハムレットをも
ののみごとに演じている。
 そして今まで以上に捲し立てるかのように早口で、オフィーリアに言い募るのだった。
「もし結婚するなら、持参金代わりにこの呪いの言葉をくれてやろう。おまえが氷のように貞淑で、雪
のように清純でも、人の口に戸は立てられぬ。尼寺へ行け!尼寺へ。どうしても結婚したいなら、阿
呆とするがよい。利口なやつは結婚なんかしないからな。おまえたち女は、顔を塗りたくり、神からさ
ずかった顔を作り変える。尻を振り、甘ったれて、「いけなかったの?」などとぬかす。あああっ!もう
がまんできん!おかげで気が狂った!ええい、結婚など、この世から消えてなくなれ!すでに結婚し
てる者は仕方がない!生かしておいてやる。一組のぞいてはな。さぁっ、行ってしまえ尼寺へ!!」
 ハムレットはそう吐き捨て、高らかに笑いながら舞台を去る。
 オフィーリアは一人。
 オフィーリアは膝を着き、胸の前で手を組む。
 その目からは涙が止めどなく伝う。
「ああ、あれ程気高いご気象だったのにこうもたわいもなく!王子にふさわしい秀でた眉に学者も及
ばぬ深いご教養、武人も恐れをなす鮮やかな剣さばき。この国の運命を担い、そして一国の華と崇め
られ、流行の鏡、礼儀の手本、あらゆる人々の賛辞の的だったハムレット様が、あんなにも惨めな姿
に。私は辛い……なまじあの快い甘い香に酔うていただけに。気高く澄んだ理性の働きは耳をくすぐ
る鐘の音、それも狂うて今この耳にひび割れた音を聞かなくてはいけない。水際だった花のお姿が
狂気の毒気に触れ、みるみるしおれて行くのをただじっと眺めているだけ。ああ、なんと悲しいこと。
昔のハムレット様を見たこの目で今のハムレット様を見なければならないなんて」
 悲しみにうちひしがれるオフィーリアに、どこからともなくすすり泣く声が聞こえた。
 彼女の悲しみが、客の心を動かしているんだ。
 今、この場にいる人たちは誰一人木村さんを男とは思わないだろう。それぐらいにいたいげな少女
を演じきっていた。

 
やがてハムレットはクローディアス王が父を暗殺したという確かな証拠を掴み、母である王妃と会話
しているところを隠れて盗み聞きしていたポローニアスを王と誤って刺殺してしまう。オフィーリアは度
重なる悲しみのあまり狂ってしまう。
 父の訃報を聞いたレアティーズは、群衆と共に玉座に乗り込む。



「極悪非道の王よ、父を返せ!!」



 俺は鹿島さん演じるクローディアスに剣を突き付ける。
 レアティーズは群衆の噂より、父の死は王に原因があることを聞かされていた。
 身内を殺された俺は、怒りを露わに王に詰め寄る。
 「何故、父は死んだ?言いくるめても無駄だ。忠誠心なぞくそくらえ!君臣の誓いなぞ、魔王にくれ
てやる!!この身がどうなろうと覚悟はできている。この世もあの世も知ったことではない。復讐さえ
すればいいのだ。父のために後には引かぬぞ!!」
 しかし王を演じる鹿島さんは冷静な声で。
「だからといって敵味方関係なくなぎ倒して何になる?それで復讐の筋書きが描けるとでも思うの
か」
「では誰が父を───
「レアティーズ、よく聞くのだ。私はお前の父を殺してはおらぬ。いずれ納得してもらえよう」
 その時だった。
 「お兄様?」
 現れたのは、今までの貴妃スタイルのドレスとは異なり、中華風のアレンジをそのままにふわりとし
た白いワンピースを纏った木村さん。
 その目は焦点が定まっておらず、足取りもふらふらとしていた。
 俺はゆっくりと目を見開く。
 一目で変わり果ててしまった妹がそこに立っているのが分かった。
「オフィー……リア」
 声が震える。
 今すぐ抱きしめたい衝動と、妹の様子がおかしい怪訝がいりまじり、俺は立ち尽くすことしかんでき
ない。
「ヘイ・ノン・ニー
 ヘイ・ノン・ニー
 涙の雨に墓石濡れて。
 愛しいお方、さようら」
 木村さんの唇から出てくるその声はボーイソプラノに近い。
 少女らしい歌声とは言い難いが、だけど耳に心地が良い。
 木村さんの手が俺の頬に触れる。
「あなたも歌わなければ駄目よ?「墓石にぬれて」さあ、後に続いて。あなただってご存じでしょう?
あの人が土の下になっていることを。あらこのふし、糸車によく似合うわ。
あら駄目じゃないの。主人の娘を盗んだのは本当に悪い奴。そこの傭い人だったのよ」
「オフィーリア……なんという姿に」
 俺は力なく首を横に振る。
「 ローズマリーの花言葉は、忘れないで。はい。忘れないでね。それからパンジー。ものを想う花よ。
あなたにはおべっかのウイキョウと不義のオダマキ。あなたには後悔のルー。これは恵み草とも言う
のよ。それぞれ意味を考えて飾ってね。悲しい恋のヒナギク。これはわたしの分ね。忠実なスミレもあ
げたいけど、お父さまが死んだとき、みんな枯れてしまった。立派な最期だったって」   
「だれだ、だれがお前をこんな目に会わせた?必ず復讐してやる!」
 オフィーリアの身体を抱きしめ、俺は腹の底から怒声を放つ。
 その腕の中では、愛らしい歌が舞台に響く。



 あの人は何故帰らない?
 あの人は何故帰らない?
 何故戻れるの?亡き人よ。
 いっそ我が身を捨てようか。
 雪のおひげも今はなく。
 麻の白髪は今もない。
 だからもう泣くのはやめて。
 どうぞあの世で幸せに。  

 オフィーリア演じる木村さんは、俺の腕からそっと離れ、無邪気に歌を歌いながら退場する。
 その眼差しはどこまでも闇が続くような虚ろだった。
 会場が水を打ったかのように静まりかえる。
「王よ……誰なのです。妹をあのような目に……父のあの隠密の葬儀といい、その墓には兜と紋章
もなかったというではないか!王よ!答えろ、俺は本当の事が知りたい!!」



 そして俺は、妹を追い詰め父を殺したハムレットに復讐を誓う。
 俺の心は今、復讐心に燃えたぎっていた。
 あの男を殺すことができれば、他は何もいらない。
 ここからが勝負だ。
 俺は高崎を本気で殺す。
 本来ならば、良き君主、良き忠臣となる筈だった二人。
 もしかしたら義兄弟になっていたかもしれない二人。
 だからこそ、俺はハムレットの裏切りが許せない。どんな理由があったにしてもだ!!
 
 そして、程なくして彼はオフィーリアが小川に落ちて溺れ死んだ悲報を耳にすることになる。
 ますます復讐の炎をたぎらせるレアティーズ。
 そのハムレットとは妹の葬儀で再会することになる。



「葬儀はこれだけなのか!?」
 俺は怒りを露わに牧師に問いただす。
 牧師は首を横に振る。
 「死因に不審な点があるため、心安らかに死んだ者と同様の弔いはできない。本来ならば教会墓
地に埋葬されるなどもっての他。祈りの代わりに石や瓦、瀬戸物などが投げつけられるのが落ち。そ
れをこのような乙女にふさわしく花で飾り立て弔っている。いわば格別の計らいですぞ?」
 淡々としたその口調に、俺は拳を握りしめ唇を噛みしめる。
「……くっ、亡骸を埋めろ!その穢れのない身体からスミレの花を咲かせてくれ。おい、情け知らずの
坊主よ、貴様が地獄でのたうち回っている内に、俺の妹は天上で天使になっているだろう!!」
 何もかも呪いたい。
 妹が何をした?
 彼女が何の罪を犯した。
 あの男のせいで……
 あの男のせいで……!!
俺は床に拳をたたき付け、目を見開き、天に向かって嘆き叫んだ。
「ああ、この何倍もの災いが、あいつの頭上に降りかかるがいい!呪っても呪いきれぬ!!あいつの
お陰でお前は狂ってしまった!待て、もう一度この手で抱きしめたい」
 妹の頬に触れた瞬間、怒りから悲哀へ。
 俺はすがるように妹の身体を抱きしめる。
 深い悲しみは、妹と共に、この現世から逃げたい衝動に駆られる。
「さぁ、俺もろとも埋めてくれ!!どんどん土を投げ込んで、あのピーリオンの峰にも、雲の上にそびえ
立つオリンパスの山頂にも劣らぬ程高く積み上げるがいい!」
 そこに現れるのはハムレット。
 彼はゆっくりした足取りで、問いかける。
「何だ、その仰々しい嘆き様は?その泣き言は、空を巡る星も呆れて立ち止まるぞ」
 まるでおかしな喜劇を見ているかのようなあざ笑い。
 俺は信じられぬ目を、そちらへ向ける。
 そこには、今最も憎い相手が、どこか虚ろな目で佇んでいた。
 いや、妹の死を嘆き悲しむレアティーズは、その顔を認めたとたん怒りを爆発させる。
「畜生、悪魔に食われてしまえ!!」
「何をする、この喉の手を離せ。今の俺は何をするか分からぬぞ」
 あくまで無表情のハムレットだが、声は苛立たしげに荒げる。
 王が従者に命じる。
「二人を引き離せ!」
「ハムレット!」
 ガートルードがハムレットの背中にすがる。
 廷臣たちがハムレットとレアティーズを引き離す。距離を置いたハムレットが、その時不意に真摯な
眼差しになった。
 俺は目を見開く。
「オフィーリアを思う心の深さは、兄であるお前に引けをとらぬっ!オフィーリアの為に貴様何が出来
るというのだ!?」
「……っ!」
 今すぐ殺してしまいたい衝動に、俺は思わず剣を手にかけようとするが、クローディアスがそれを諫
める。
「レアティーズ、相手は狂人だ!」
「何をしたいのかはっきり言ったらどうだ?断食したいのか?泣きたいのか?喧嘩を売ろうというの
か。それともその着ている服を引きちぎってしまいたいのか!?そんなことなら俺にだって出来る。妹
の墓穴に飛び込んで、このハムレットに嫌がらせをしようというのか。ならば、さっさと生き埋めになる
がいいさ。そしたら俺も一緒だ。デンマーク中の土を浴びてオッサの高峯も大地のいぼとしか見えぬ
程にな。貴様がそんな大口叩くぐらいなら俺だって負けずにいくらでも喚き立ててくれるわ!!」
 剣を握りしめる俺に対し、ガートルードが前に立ちはだかり涙ながらに訴える。
「お願い……我慢して。全て狂気故」
「レアティーズ、俺はお前を友だと思っていた。その気持ちが何故分からぬか。しかし、そんなことはど
うでもいい。ハーキュリーの力を持ってしても、運命の歯車を変えることはできまい」
 そう言って背を向けるハムレット。
 燃えたぎる怒りの中、しかしあの真摯な眼差しのハムレットには胸を突かれ、複雑な心境に陥るレ
アティーズ。
 その何とも言えない表情を作るのが難しくはあった。これはあくまで俺が考えたレアティーズ像だ
し、誰の指示でもない。
 彼は彼でただ復讐心に駆られているだけではない、と俺は思っている。
 ハムレットを敬愛し、友のように思っていた時があったのだ。
 だから故に、彼の中でも必ず葛藤があったはず。
 その複雑な思いを身体で表現する。
 俺以外には演じる事ができないレアティーズだ。


 レアティーズは王と結託し、ハムレットを剣術大会に招き、それに乗じてハムレットを殺す計画を立
てる。
 レアティーズの剣には毒剣を。
 さらに祝杯の杯には毒の酒。
 卑劣な企みとは分かっていても、彼にとって、復讐を遂げることがすべてだった。
 そしてハムレット自身も、罠であろうと予測はしつつも、レアティーズと勝負することに。


「勝負だな、浅羽」
 舞台袖、高崎が俺に声をかけてきた。
 俺がはっとして顔を上げる。
 いつになく穏やかな顔をした高崎がそこにいた。
 最初はどうなることかと思ったけど、山場を乗り越えさらなる佳境へ向かう彼は不思議と落ち着いて
いるように見えた。
「高崎」
「俺さ、この舞台やろうと思ったの、お前がいたからなんだよな」
「ああ……前に言ってたな」
 お前と演じられたのが楽しかったから、みたいなことをこいつは言っていた。
 だから、この舞台に出ることに決めたって。
「ほんと……あの膨大な台詞はヤダったけどさ。でも、やっぱお前と演じるの楽しいわ」
 そん時、高崎は本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
 無邪気な、そんな笑顔に俺は少しだけどきっとした。
 ったく、魅力的な笑顔浮かべるな。
 さすがアイドルというか。
 少し悔しい気持ちと、どこか嬉しい気持ち、そんな奇妙な感覚に襲われる。
「これで終わりかと思うと寂しいけど、よろしくな」
「ああ」
 俺は、大きく頷いた。
 役者として、嬉しいこと言ってくれるよな。
 お前にはホントハラハラされっぱなしだったけど、でも、お前の本気の演技は俺も引き込まれていつ
も以上の本気を出させてくれる。
 機会があるのならば、また共演したい。
 そして、出来る事ならば───
 今度は台詞覚えを完璧に、な。



 ファンファーレのBGMが流れる。
 舞台にはクローディアス、カートルード、レアティーズにハムレット、そしてハムレットの友人であるホ
レイショーも。さらに廷臣たちが集まり剣術大会は始まった。
「さぁ、二人ともまずは和解を」
 クローディアス王がハムレットとレアティーズの手をとって握手させる。
「許してくれ、レアティーズ。此処にいる皆も知っている通り、僕は精神錯乱の状態にある。お前の父
のことも、子の気持ちとして耐え難いだろう。その気持ちは痛い程によく分かる。名誉を傷つけ、敢え
て憎しみを売るような乱暴を働いたこと。お前の兄弟を傷つけたことも……決して悪意はなかった」
「子としての情愛があるからこそ一途に復讐を望んできましたが、今の言葉で心静まりました。名誉を
回復するまでは、和解はできませんが、友情は友情として素直にお受けましょう」
 不思議と穏やかな心境のレアティーズ。
 あれ程燃えたぎっていた復讐心も、今は青い炎となってゆらめいている。
 彼への復讐が消えたわけではない。だが心が静まったというのは本当だった。
「ありがとう。では心置きなく兄弟同士の試合を」
 嬉しそうに笑みを浮かべるハムレット。
 これが復讐などではなく、本当にただの剣術試合だったら良かったのに、とレアティーズは思ってい
たかもしれない。
 王は声高に命じる。
「オズリック、二人に剣を!」  

 審判と従者たちは試合の準備をする。ハムレットも、そして俺演じるレアティーズも身支度を調える。
 そこに、杯に入った酒を持った従者たちが登場する。
「杯はテーブルに。ハムレットが一本取ったら祝杯をあげ、その杯には真珠を入れることにしよう。デ
ンマーク王四代にわたってこの王冠を飾ってきた真珠にも及ばぬ名宝だ。さ、杯をよこせ。王がハム
レットのために祝杯をあげる」と。  

 ファンファーレの後、俺とハムレットは剣を構える。
 この決闘のシーンは、本格的な剣術指導もあってかなりきつかったけどやり甲斐があった。
 俺は剣を振り上げ、ハムレットは冷静に受け止め打ち払う。
 さらにハムレットは剣を横に凪ぎ、レアティーズの胸元の服を裂く。
「一本!」
 審判の声が響く。
「もう一度!」
 俺がすかさず叫んだ。
「待て。ワインをくれ」
 王はワインを飲む。
「ハムレット、この真珠はおまえのものだ。まずは乾杯を。さ、ハムレットに」  
 王は真珠をワインの中に落とす。
「この一番をすませてから。置いといてください」   
 ハムレット演じる高崎は、俺の目を見たまま言った。
 その眼差しはどこか剣技を楽しんでいるかのよう。
 俺も剣を構え直し、再びハムレットに斬りかかる。

「もう一本!」
 ハムレットが声を上げる。
 あっさりと脇腹の服を裂かれて俺は目を瞠る。
 実力の差は明らかだった。
 さらに挑みかかるが、ことごとくハムレットに討ち取られるレアティーズ。
「うむ、ハムレットが勝ちそうだな」
 王ややもどかしそうに答える。
 ガートルードがその時立ち上がり、ハンカチを手にハムレットに駆け寄った。
「ハムレット、汗を拭いてあげましょう。あなたは子供の頃から汗かきだったものね」
 くすり、と笑ってカートルードはハムレットの額の汗を拭く。
「母上、ありがとうございます」
 束の間、ハムレットは、いつになっても自分に優しく接する母親に、表情を和ませる。
 そしてガートルードはテーブルの上にある杯を両手に取り。
「お前のために乾杯をしましょう」
 そう言って酒を一口、二口飲む。
 その瞬間、クローディアスの顔色が変わり席を立つ。
「ガートルード、それは……っ」
「どうかなさいました?陛下」
「い……いや……何でも」
 首をゆっくり横に振り、彼はよろよろと席につく。
 そして皆には聞こえぬよう呟く。
「“その杯には毒が入っているのに……もう遅い”」
「さ、ハムレット。あなたも乾杯を」
 にっこり笑ってガートルードはハムレットに杯を勧めるが。
「この一番をすませてからにします」
「陛下、次こそは一本入れてみせます」
 宣言する俺に対し、王は力なく。
「……だといいがな」
 ハムレットがレアティーズに言った。
「君の実力はこんなものなのか?手を抜いているようにしか思えない。今度は本気でかかってきてく
れ」
「……分かりました」
 俺は唇を噛んで頷く。
 
 三度目の試合。
 今度はお互いに譲り合うことなく剣を交える。
 俺がレアティーズに斬りかかるとレアティーズはそれを受け止め、さらにお互い距離を置いてからも
う一度斬りかかる。
「引き分けだ!分かれて!」
 審判が叫ぶ。
 一度試合が中断され、後ろを向いたハムレットの隙を突き、レアティーズがハムレットの肩を切り裂
く。
「卑怯な!」  
 かっとしたハムレットは猛然と襲いかかる。つかみあいのうち、偶然二人の剣がとりかわり、その剣
でハムレットはレアティーズを脇腹を刺す。
 その時、王妃が倒れた。
「二人とも血が。大丈夫ですか?」
 ホレイショーがハムレットに駆け寄る。
「母はどうしたというのだ?」
 ハムレットの問いかけに王が引きつった声で答える。
「血を見て気を失った」
「いいえ!……ハムレット、お酒に毒が……毒が……ハムレット、お酒を飲んだら駄目……」
 ガートルードが息子に手を伸ばし、懸命に訴えながら息絶える。
 彼女は最後まで、ハムレットが可愛い息子だったのだ。
「ドアを閉めろ!謀反だ!犯人は誰だ!?」
 ハムレットが怒りと共に叫ぶ。
 そこに審判に抱き起こされたレアティーズが、掠れた声で訴える。
「ハムレット様、犯人はここに……あなたのお命もあとわずかです。貴方が今持っている剣の切先に
毒が塗ってあります。卑劣なたくらみが、我が身の上に───挙げ句の果て王妃様まで毒殺に追い
込んでしまった───全ての元凶は王です。王こそ、罪は全て王にあるのです!!」
 俺は息絶え絶えにハムレットに訴える。
 本当に討つべき相手を。
「切っ先に毒か……ならばもう一度!」
 ハムレットは王を刺す。
「な……何をしている。私を助けぬか…!!」
 王が周囲に命ずるが、周囲は固まったまま動かない。
 ハムレットが杯を持ってゆっくりと歩み寄る。
 この上もなく冷ややかな表情。
 断罪を下す神か天使を思わせる。
 静寂の空間。観客の息を飲む音が聞こえてくる。
「不義、残虐、非道のデンマーク王。この毒を飲め。貴様の真珠だ!!」
───」
 高崎演じるハムレットは、鹿島さん演じる王の顎を掴み上向かせると手に持っている杯を口にあて
た。
 否応なく毒を飲まされ、王は瞬く間に白目を剥いてその場に倒れる。
 俺は掠れた声で王に向かって言い放つ。
「天罰だ。自分で用意した毒なのだから」
 そして俺はふらふらと歩み寄り、こちらに跪くハムレットに笑いかける。
 真摯なハムレットの眼差し。
 ああ、本来の彼がそこにいるのに、レアティーズはどれほど安堵したことか。
 「お互いに許し合いましょう……ハムレット様。レアティーズの死も、父の死もあなたの罪にはならぬ
よう。そして貴方の死もレアティーズの罪にならぬように」
 俺は震えた手でハムレットに向かって手を伸ばす。
 ハムレットは膝を着き、その手をとる。
 俺は安堵した表情を浮かべ、目を閉じる。
 ああ……これで俺の出番は終わりだ。
 あとは高崎がどう演じるか───客人には分からぬよう時々細目を開けて見守る。
「ああ、天はその罪をおゆるしになろう。俺ももうじきお前の後を追う」
 そしてその場に頽れる。
 「……もう駄目だ、ホレイショー。母上……おかわいそうな母上……さようなら。ああ、死の使いが
情け容赦ないく俺を急き立てる。まだ話したいことがあるのに───ホレイショー、せめてお前だけ
は生きて伝えてくれ。事の次第を。何も知らぬ者も納得いくよう、ありのままに」
「何を仰る。私も共に参ります!」
 傍にある杯を手に取ろうとするホレイショーに、ハムレットは立ち上がりその手を振り払う。
 「駄目だ……っ!」
  杯が地面に転がったと同時にハムレットは仰向けに倒れる。
 ホレイショーは跪き、その身体を抱き起こす。ハムレットは震えた身体を起こし
「お前は生きてくれ。頼む、ホレイショー。このままではどんな汚名が残るか知れない。ハムレットのこ
とを思うてくれるのであれば、しばし平和な眠りから遠ざかり、この世の苦しみにも耐え、このハムレッ
トの物語を───

 その時、遠く軍隊の行進の音が聞こえてきた。
 そして砲声が響き渡る。

「あの音は?」
「ノルウェイ王子、フォーティンブラスご一行がおいでになりました」
 廷臣が報告する。
「ああ……ホレイショー。これでお別れだ。フォーティンブラス……次の国王は彼となるだろう。それが
このハムレットの意志だ。フィーティンブラスにもそう伝えて欲しい。そして事の次第も───もう、何
も言わぬ」
 ハムレットはそう告げて、静かに息を引き取った。
 ホレイショーが激しくかぶりをふる。
 そして涙をぽろぽろとこぼしながらハムレットに告げる。
「とうとう散ってしまわれた!お休みなさい、ハムレット様。どうか安らかに」

 そしてハムレットが次のデンマーク国王にフォーティンブラスを指名したこと。そして、今のこの場に
ある惨状の理由も、ありのままに告げる。
 事情を聞いたフォーティンブラスは、両目を閉じハムレットに黙祷を捧げる。

「ハムレットを壇上に。武人に相応しい礼を。もし王になられたら、世に並びなき名君となられたであ
ろう。その最期の門出を弔い、軍鼓を鳴らし、そして礼砲を放って広く世にご逝去を知らしめよう」

 礼砲の音が響き、その後会場に葬送行進曲が流れる。
 
 閉幕。

 葬送行進曲が終わり、しばらく会場は静寂に包まれていた。
 しかし一人がはっと気づいたように拍手をし、その拍手は徐々に、徐々に増えて行く。
 割れんばかりのカーテンコール。
 高崎がよろよろと立ち上がる。
 そして退場していた木村さんをはじめ、他の役者も舞台に集まる。
 俺たちは立ち上がり、一列に並ぶ。
 スポットライトが差し込む。
 幕が再びあがると、スタンディングオーベーションの観客が、大きな大きな拍手と共に歓声を上げて
いた。
 大きな安堵と共に、徐々に徐々に嬉しさが増してくる。
 ああ……やりきった!
 誰がなんと言おうとレアティーズをやりきった!
 俺は天を仰ぐ。
 何とも言えない解放感、というのだろうか。
 今まで肩に憑いていたものが取れたような感じ。
 呪わしかったハムレットだけど、この歓声や拍手を聞いていたら、いい思い出に変わるような気がし
───いや、もう変わっているのかもしれない。

「舞台って気持ちいいなぁ」

 隣に立つ高崎が呟いた。
 その横顔は本当に爽快感に溢れていて、身も心も気持ちがよさそうだった。
「また舞台やりたくなった?」
 俺の問いかけに、高崎は大きく頷く。
「うん。台詞覚えるのは面倒だけど……この気分がまた味わえるのなら」
 彼らしい正直な答えに俺は思わず笑ってしまう。
 きっと高崎はこの舞台で大きな飛躍を遂げたことだろう。
 歌って踊れるだけじゃない、俳優の高崎として。
 いつかこいつ共演したり、あるいは競演したりすることもあるかもしれないな。
 
 会場はいつまでも、いつまでも拍手が続いていた。



 


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呪わしきハムレット9

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