演劇界の怪老



永原映(ながはら えい)は不機嫌だった。

何年かぶりに、恩師である高城幸甚(たかぎ こうじん)からメールが来た。

劇作家として世界でも名を馳せる人物だが、演出から舞台監督までこなす演劇界の怪物と呼ばれる
この人物は、なんと御年80歳。

さすがに舞台監督の仕事は、弟子にアシストしてもらうようにはなっているものの、まだまだ現役。

この年でメールが打てるのも大したものだ……と思いたいトコだが、大方愛人である若い女が打って
いるに違いない。


『映ちゃんへ 10時にオータニのスカイラウンジへきてネ  


 文章といい、絵文字を使っていることといい、第一こんな物言いはあのジジイはしない。 

 だからこそ、間違いなくかの怪物からのメールであることも確かなのだが。

 で、メールの指示通り、10時にオータニのスカイラウンジへやってきたら、既に心得ている店員に個
室へ案内された。

 そこにいた人間を見て、永原は思わず呻いた。

「う……」

 それは向こうも同じで、こっちを見るなり。

「げ……」

 その男の名は今泰介(いま たいすけ)。

 かつては伊東成海(いとう なるみ)という芸名で、若手の第一線として永原と共に活躍していた
が、撮影中の事故で下半身不随になり、役者を休業することになる。

 地道なリハビリを経て、足は完治したらしいが、彼は役者には戻らずに、自ら劇団を立ち上げた。

現在は若手を指導することに夢中で、当分自身が舞台に出ようなんて気は、さらさらないようだ。

 永原はこの男が嫌いであった。

 子役時代からよく知っているが、何かと横暴で、強引で、傲慢で、不遜で、意見も何かと対立してい
た。

 今もまた永原が嫌いであった。

 子役時代の頃から腐れ縁だが、何かと冷淡で、冷徹、傲慢で、不遜で、意見も何かと対立していた
のだ。

 傲慢と不遜に関しては互いが互いをそう思っているようだ。

永原は個室の壁際を陣取る今の向かいに座り、ふいっと顔を反らす。

今はそんな彼の反応に、びくりと眉つり上げ、彼もまた反対方向に顔を反らした。

「……」

「……」

 空気が重い。

 あんまり会話をしたくはないが、気になることもあるので、今は口を開くことにした。

「……おい、何でてめぇがここにいんだよ」

 すると今まで顔を反らしていた永原が、目だけこっちを見て淡々と尋ね返す。

「それは僕が聞きたいんだけど?そもそも君、こんなトコにいる場合じゃないだろ?洋樹のことちゃん
と指導してくれないと」

「今は敦盛やってから、俺は専門外だ。あのオカマに任せている」

 今の言葉に、永原は僅かに目を剥いた。

「あのオカマって……あいつに指導させているのかっ!?もし洋樹の身に何かあったらどう責任をと
ってくれるだ?」

「知るかよ。自分の身ぐらい自分で守りやがれ」

「君のような野獣とは違うんだよ。洋樹は」

「誰が野獣だ、この野郎!!」

今が右手でテーブルを叩きつけ、席を立ちかけたその時である。

 

「ふぁっふぁっふぁ、相変わらずじゃな。お前たち」


 特徴のある笑いと共に、現れたその小柄な老人。

 丸眼鏡の下鋭く光る眼光。  薄くなった髪をオールバックにし、右手には取っ手が琥珀の杖をついて
いた。

 同じ顔をした背の高い美女二人に挟まれ、両手に花状態。

 高城幸甚。

 演劇界の怪物と呼ばれし男、その人であった。

「げ……じじい」

 今の顔が引きつる。

「高城……せんせい」

 永原の声が掠れる。

 幼い頃より、鬼のごとくこの老人に扱かれた二人は、現在でも頭が上がらない状態だ。

 反抗的な今ですら、幼い頃よりこの老人の怪力に力でねじ伏せられていた程である。

 高城は金歯混じりの歯を見せて、笑みを浮かべながら言った。

「ふん。成海、随分元気そうじゃないか。下半身が使い物にならなくなったと聞いておったが」

「すっげー誤解されることを、でけぇ声で言うな!!、クソジジイ!!」

 今度は両手でテーブルを叩きつけて、今は高城に怒鳴った。

「おお、映。ますます光子に似てきおったな。まったくお前が男であることに、今更ながら落胆が隠せ
んわ」

「本当に今更ですね」

 穏やかに笑みを浮かべながらも、永原はこめかみに米型の血管を浮かせていた。

 光子とは永原の母で、デビューして間もなく、あらゆる賞を総ナメにし、数年後に引退した伝説の女
優、有本光子のことだ。

 この老人、永原が子供の時分から、何かと母親にちょっかいを出しており、その母が死んだ後は、
永原の妻にちょっかいを出すようになっていた。

 この老人の女好きは筋金入りと言っても良い。

 弟子である水森も、妙なトコまでこの老人から受け継いでしまったものだ。

 彼の弟子である水森衛(みずもり まもる)も女好きで、永原が知っているだけでも20股はかけて
いる。

 高城が座る場所がないため、永原は仕方なく今の隣の席へ腰を下ろす。

 老人は美女二人に挟まれご満悦な様子で、席に着く。

「所で横にいる女どもは何だ?」

 今の問いに、待ってましたとばかり高城が頬を紅潮させて答える。

「おお、この娘たちか。今度デビューが決まっている、ミコちゃんとカコちゃんだ」

 彼女達はにこりと笑って二人に一礼する。

 秀麗な男優二人を前に、彼女達は頬を赤らめていたが、その点には気付いていないあたり、この老
人も幸せ者である。

 永原はひそかに嘆息する。

(日本人じゃないな……どこで拾ってきたんだか)

 今も頭痛を押さえるかのごとく、掌を額に着けて大きな溜息を着く。

「んとに水森といい……あんた等似た者師弟だよな。女好きなトコとか」

(ホントは親子なんじゃないかって噂もあるしな)

 まことしやかに囁かれる噂を永原も心の中で呟く。

 女好きもそうだが、仕草や動作、顔もどことなく水森はこの老人によく似ている。

 ただ、この師弟は顔を合わす度に喧嘩をするのだが。

 大体理由は女がらみだ。

「まさかその女どもの舞台に俺たちを出させようってんじゃねぇだろうな」

 今の言葉に高城は胸を反らして、大声で笑う。

「ふぁっふぁっふぁ、彼女たちはあくまで端役じゃ」

「言っておくけどな、俺はまだ舞台に出るつもりなんざ……」

 言いかけた今の喉に、高城は杖の先を突きつける。

「黙れ。お前の都合なぞ、ワシの知ったことか。下半身は使い物になるんじゃろ?」

「だから……その言い方やめろ!!そうじゃなくて、俺は劇団員の育成が忙しくて」

「そんなもの、礼子ちゃんにまかせておけば良いじゃろう?あと、何と言ったかの。あの可愛い子は…
…」

「もしかして工藤のことか?ジジイ、何度も言うがヤツは野郎だぞ」

「またそんな嘘を……儂を騙そうなぞ100年早いわ!」

「はっ……てめぇなんざ、騙そうと思えば五秒で騙せるけどな」

「何か言ったか?」

「べーつに」

 目を反らしながら、皮肉っぽい笑みを浮かべる今に、首を傾げながらも、高城は一度咳払いをして
気を取り直すことにした。

「とにかく!二人には儂の最後の舞台に出て貰う」

──── っ!」

 その言葉に、永原も今も息を飲んだ。

 最後の舞台。

 年を考えれば当然といえば当然のことだ。

 あまりに化け物じみた高城だから、まだまだ現役を続けるのかと思っていたが。

「儂もこの先もう長くはない。舞台はこれを最後にし、あとは自分のためだけに生きようと考えておる」

「先生……」

「ジジイ……」

「故に!!貴様らの事情ナゾ知ったことじゃない。貴様等はまだまだ時間があるからええじゃろうが、
儂の時間はもう限られておる」

「……」

 確かにそうであろう。

 この老人のことだから、あと20年は生きそうな気もするが、普通に考えれば80歳はもう亡くなって
もおかしくはない年だ。

 何度目かの溜息を着き、永原は言った。

「分かりました。先生の最後の餞として、その舞台やらせていただきますよ」

 今も肩をすくめ、大仰に溜息を着いて言った。

「しょうがねぇな。出りゃいいんだろ、出りゃ」

 すると高城はぱっと顔を輝かせ、二人の右手を左手をそれぞれ握って、ブンブン上下に振った。

 その力、老人とは思えない怪力で、握手を終えた後、永原は自らの手をさすり、今は赤くなった手に
ふーっふーっと息をかけた。

 最後の舞台……といいながら、あと20年は現役を続けていそうな気がする二人であった。

「で、俺は何を演じればいいんだ」

「僕はどんな役なんですか?」

「つーか、どっちが主役なんだ?もちろん俺様だよな?」

「コイツの脇役だったら、僕は降ります」

「んだと!?俺だって、てめぇの脇なんざゴメンだ!」

 きっとにらみ合う二人に、高城はまぁまぁと両手を縦に振る。

「二人ともそういきり立つでない。主人公は両方じゃ」

「何だよ、つまんねーな」

 今は軽く口を尖らせ、そんな彼を横目で見て永原は肩をすくませる。

「ヒロインは、そこの二人ですか?」

 くすりと笑って問いかける永原に、双子の女性は同時にぽっと顔を赤らめる。

「いやいや、先程も言うた通り、この二人は脇役……というか殆どエキストラじゃな。まだまだ経験が
浅い故に、まずは舞台に慣れてもらわねばならぬ段階じゃ。ヒロインは、映、お前じゃ」

「………………は?」

「で、ヒロインの相手役が成海、お前じゃ」

「い!?」

 永原と今の顔はこれ以上にない恐怖を見たかのように引きつった。

 そんな二人に、高城は丸めがねの下、目に鋭い輝きをたたえ、にやりと笑った。

「お前達にはトリスタンとイゾルデ※1を演じて貰う」   

「……歌劇でしょう?それは」               ※1 王妃となった イゾルデと 騎士トリスタンの悲恋。

 まだ信じがたい目で、やっとその言葉が出てきた永原に、高城は大きく頷く。

「そうじゃ。ワーグナーの歌劇を舞台化するのじゃ」

「冗談じゃねぇよ!なんでコイツとラブシーンやんなきゃいけないんだ!?」

 机を叩きつける今に、高城はチチチと人差し指を横に振る。

「お前知らんのか。この男の女装がどれほどのものか。まさに、かの伝説の女優、有本光子の生き写
しじゃ!!そこらの女優など裸足で逃げてゆくぞ」

「知るかよ!!とにかく!!コイツのラブシーンだけは絶対ゴメン被るぜ」

「僕だって冗談じゃない」

 本当に嫌であるらしく、二人はらしくもなく顔が真っ青であった。

 そんな彼らに、怪老はさらに笑みを深めて、低い声で問いかける。



「ほう?役者として自信がない、と?」



「あ!?」

 今のただでさえつり上がった眉が、右側だけ更につり上がる。

「何を……」

 いつもクールな永原の眉間にも僅かな皺が刻まれる。

「無理もないな、一人は下半身が使い物にならず」

「……おい」

「一人は大女優のコネでここまできたわけじゃし」

「……おい」

「自信がないのも無理はないじゃろうて」

金歯を見せ、せせら笑う怪老に、二人の心は今、一つになっていた。


今すぐくたばれ!!このクソジイ!!


口には出せない怒気を肌で感じながらも、そんな二人の様子が楽しくて仕方がないかのように、高城
は肩を振るわせて笑声を漏らした。

「心底に憎み合う相手にも、愛を語らうことができるのが役者というもんじゃろ?お前たち今まで何を
無駄に生きてきたんじゃ」

まさにトドメの言葉であった。

永原と今の中で同時に何かがキレる音がした。

「あんだと、クソジジイ!?」

「あなた程無駄には生きていないつもりですが?」

「ほ!!、じゃったら、その証拠を見せい」

「く……」

今は歯ぎしりをして、怪物を睨み付ける。

「ジジイめ……」

ぼそりと悪態を付いて、永原も憎々しげに怪物を睨め付けた。

だが、役者として痛い所を突かれた故に、何も言い返せない二人であった。

 

 


「……」

「……」

 空気が重い。

 あんまり会話をしたくはないが、気になることもあるので、今は口を開くことにした。

「……おい、何でてめぇが着いて来るんだよ」

「着いて来ているんじゃない。君とたまたま一緒の方向だけだ」

 ホテルを出た後、劇団KONまでは徒歩の道のり故に歩いていたら、何故かその後ろを永原が歩い
ていた。

「ドコ行くつもりだ、てめぇは」

「洋樹の様子が気になるから見に行く」

「んだと!?てめぇ、俺様の舞台に茶々入れるのか」

「君の舞台が文句がないくらい完璧なら、僕は何も言わないよ」

「完璧なら練習なんかするか!!てめぇの弟子が一番足を引っ張ってやがるんだからな」

「だったら、洋樹を降ろして、足を引っ張らない優秀なキャストとやらを連れてくればいいじゃないか」

「ああいえばこう言うな、てめぇはよ!!」

 それまでお互い、前を向いて歩いたまま会話をしていたのだが、今の方が堪りかねて立ち止まり、
永原の方に振り返った。

「てめぇ、俺と共演したことを後悔するなよ?」

「安心しろ、既に後悔している」

「違う!!俺が言いたいのはそういうことじゃねぇんだよ!!」

 丸ヒガシ公園の遊歩道の中、胸倉を掴んで今は、永原に顔を突きつけた。

 人通りがないことを見越しての行動であろう。

 永原は別段驚くこともなく、冷静な眼差しで今を見つめていた。

 それまで晴れていた空が不意に雲に隠れ、暗くなった。

 ひやりと冷たい風が頬をかする。

 それまで仇のごとくこちらを睨んでいた今だが、不意に永原の耳元に唇を近づけ囁いた。

「絶対俺に惚れるからな。覚悟しておけよ」

「……なに?」

永原は僅かに目を見開く。

「舞台の俺を知らねぇだろうが。てめぇは」

 にっと挑戦的な笑みを浮かべる今。

 何とも言えない魅力的な笑みだ。

 力強さに溢れた野性的な美。

 鋭い眼差しなのに、澄んだ輝きを放つ瞳に永原は息を飲んだ。

 こんなに間近に、この男の顔を見たことがなかった。

 確かに彼と共演した女優が何人も、彼に恋したという噂は聞いている。

 男である永原ですら、今の勢いに飲まれ、その美に翻弄されそうになってしまう。

 が───

 そんな今に対し、永原は蠱惑的な笑みを浮かべる。

 男には決して演じ得ないと言われている、その艶めかしさに、今は息を飲む。

 永原の白い指先が今の頬に触れる。

 人形のように整った顔をしているのに、体温を感じる。

 指先で軽く頬を撫でられただけで、体が熱くなりそうになる。

 男でありながら何人もの男優を虜にしたと言われる凄絶な美。

「君こそ、僕に溺れるよ?せいぜいもがき苦しむがいいさ」

 悪女を思わせるしっとりとしたその声。

 噂には聞いていたが、本当に女性そのものだ。

 いや、それどころか今までの女優とは比べものにならないぐらい、その声は耳に心地よく、男として
の欲望をくすぐる。

 二人はしばらく食い入るように互いを見つめていた。

 それこそ、唇と唇が重なりそうなぐらい間近な距離。

 永原も、そして今も。

 互いの吐息の温度を感じた。

 


ポォォーン、ポォォーン、ポォォーン  !!



 公園の時計台が11時を知らせるチャイムを鳴らす。

 それが互いに掛けた魔術を解くことになる。

 永原と今は同時に我に返った。

「くっ……」

 今が何とも口惜しそうに永原を突き放す。

「……」

 それは永原も同じで、不覚と言わんばかりに唇をかむ。


 互いが互いに捕らわれた。

 演技と分かっていながらも、一瞬でも惹かれてしまった自分たちが信じがたかった。

 だが、やはり演技なので。

 呪縛が解けたとたん、二人の全身は蒼白になり鳥肌が立ったのであった。

(やっぱり、こいつ嫌いだ……)

 再確認する二人。

 しかし、この次舞台に立つときも恐らく自分は、相手に捕らわれるであろう。

 それが舞台という魔術なのだ。

 共演者同士で恋愛に陥ることがあるが、その魔術にかかったまま本当の恋愛になってしまうことも
あるのだ。

 ただ、それだけは絶対にあり得ないであろう。

 呪縛が解けたとたん、そこにあるのは憎悪と屈辱だけだ。

 彼らは思った。


 やはり、この舞台引き受けるんじゃなかった、と。


 後悔しながら劇団KONへと、約数メートル距離を置いてから、二人は再び歩き出すのであった。


                                                                    

              そしてあの頃の輝きへ続く




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