春来7


 村岡鬼刃の初回公演当日 ────


 舞台の方は大道具さんや照明さんが最終チェックを行い、美術さんや小道具さんも段ボール箱を抱
えながらあちこち走り回っていた。

 俺たちは俺たちで衣装のチェックをしたり、台詞の確認をしたり。

 ざんばらな髪の毛を一つにくくった形のカツラをかぶると、より信長の姿に近づく。

 メイクもややつり目な目をさらに鋭く際立たせるようなアイラインにシャドウ。

 去年の冬、闇討ちにあってから暫く残っていた目の下の痣も、ほとんど消えていた。

 そして当時信長が好んで纏っていた女物の着物。

 工藤さんがこっちを見て感嘆の息をつく。

「本当に浅羽君、その着物似合ってるよね」

「そうですか?」

「うん、それだけ信長の雰囲気が滲み出ているのかな」

「それを言うなら工藤さんもそうでしょ?」

 工藤さんはきちっと整えた髪を一つに結んだ、ちょっとポニーテールに近い髪型だ。

 これで女性の洋服を着たら女にしか見えない。

 だけど演じることで、女性という雰囲気は一掃される。

 内面、この人は本当に男らしい。

 それが全身に滲み出ているから、鬼と呼ばれるこの役を演じることもできるのだ。

 こんな人と共演できるなんて、本当に俺、ラッキーだよな。

 本来だったらKONのぺーぺーに過ぎないのに、ここ二ヶ月で死ぬほど特訓させられて。

 ホント、死ぬかと思ったけど。

 でも、舞台に立てる幸せを考えたら、それは当然の代価であって。

 だからこそ、誰もが見入る世界を作り上げることができるんだ。

 俺は改めて、今この場にいられる幸運に感謝せずにはいられなかった。

 

そして開場直前に行う、ウォーミングアップを兼ねたリハも滞りなく終え、いよいよ本番間近。

 スタッフさんによると、劇場の外は会場待ちの客で並んでいるのだそうだ。

 ああ……本当に本番前なんだなぁ。

 リハを終えたらもう一度メイクやカツラをしなおすので、一度俺はカツラをとりながら控え室のドアを
開ける。

 そこにはメイクさんと喋っている工藤さんの他に。

「よ」

 化粧前(楽屋のメイクする席)に腰掛ける来嶋の姿があった。

 俺はなんだかきまりが悪い気分になりながらも。

「おう」

 と一言答える。

「本番もその調子でやれよ」

「もちろん」

 頷きながらも、俺は何だか気まずい気分が拭えずにいた。

 出来れば暫くこの人とは距離を置きたいというのが本音だ。

 ゲネプロを無事終えた後のことだ。

 俺は、本当にあの時どうかしていたと思う。

 大見麻弥が来嶋に近づいて色目を使ってきたのを見て、ガキみたいに腹を立てている自分がい
て。


『みなと……』



未だに自分自身が信じられない。

来嶋のこと、下の名前で呼んで。

しかも来嶋のこと誘うなんて……

結局俺はあれから翌朝まで目を覚まさなかった。

  で、目が覚めたら覚めたで、何事もなかったように俺に接している来嶋がいた。

『今日、何時の入りだ?』

『え……あ、九時だけど』

 それから来嶋は珍しく朝食を作って俺に出してくれた。

 目玉焼きにほうれん草のバター炒め。

 ソーセージも二本おまけについてた。

 昨日は何にも食べないで寝たから、ご飯も多めによそってくれた。

 腹も減っていたので早速ご飯を頂く俺に、来嶋も向かいに座ってコーヒーを飲む。

 そして。

『身体の調子は大丈夫か?』

 と尋ねてきた。

『あ、ああ……』

『丁度、蔵嶋さんの知り合いの医者がいたからな。少し診て貰った。眩暈の原因は、今まで蓄積され
てきた肉体的な疲労と精神的な疲労が、ちょっとしたきっかけで一気に身体にのしかかってきたのだ
ろうって。睡眠もあまり取っていなかったのも原因の一つ、動いている割にあまり食べていないのも
原因の一つだ』

 来嶋は先生口調で、やや説教じみたように言う。

 その、ちょっとしたきっかけは、あんたのせいだよ、と俺は言いたかったけどさ。

 でも確かにあんまり寝てなかったし、飯も食ってなかったかも。

 お握りひとつとか、カロリーメイトとかで済ませていて。

『今日は十分に寝たし、飯もしっかりと食っておけよ?体調管理も俳優の仕事の一環なんだからな』

『……』

 ま、 何だか昨日のことはうやむやになったけど。

 でも、今の俺にはその方がいいかも。

「あのさ」

 俺は気を取り直して口を開いた。

「何だ?」

「別にリハまで見なくても……開場時間に間に合うように来れば良かったのに」

「なんだ、俺に駄目だしされるのがイヤなのか」

「んなわけねーだろ」

「生徒の行く末を見守るのが、先生の役目ってもんだろうが」

「あんたもう教師じゃないだろ。それにこれからは、永原さんが俺の教師だって言ったのはどこのどい
つだよ」

 最も、永原さんは先生呼ばわりを嫌う。

 そう言う点は、今さんも同じみたいで、先生と呼ぶと叩かれるそうだ。

「もちろん此処にいる俺だ。だけど、俺だってお前に色々伝授してやっているだろうが」

「そりゃそうだけどさ。でも楽屋まで付いてくることないじゃん」

 何か保護者同伴みたいで、恥ずかしいじゃねーか。

 考えてみたら、俺、家族と一緒に行動したことってあんまりなかったな。

 授業参観も運動会も来たこと無かったし。

 永原さんの舞台を一緒に見に行ったのが、最初で最後だったかもしれない。

 珍しく父親と母親と一緒に出かけたことが子供心ながらに嬉しくて。

 そんな嬉しい時に、さらに運命の出会いがあったのだ。

 あの日は俺にとって最高の一日だったんだ。

「両親には知らせたのか?お前の初舞台」」

 気遣うように問いかける来嶋に、俺は化粧台の傍らに置いてあるペットボトルを手にとって一口飲
んでから言った。

「手紙とチケットは送った。まだ、返事は来ていないけどね。あ……でも、従兄弟は来るって言ってい
たな」

 チケットは一応従兄弟の啓次郎宅にも送っていた。

 啓ちゃんは早速、彼女と行くからという返事を携帯にしていた。

 さすがにもう叔母さんと行く年頃じゃないもんな。

「従兄弟とは仲がいいのか?」

「まぁね。母親同士は仲悪いけどさ」

 俺の母と父の妹である叔母は、学生時代からのライバルだったので、ことあるごとに息子同士を競
わせようとする傾向があった。

 俺たちはそんな母親とは関係なく、それなりに仲良くやっていたんだけどね。

「俺が役者になろうか悩んでいたときに、『病院なら、俺が継ぐよ。役者になりたきゃ、なりゃいいじゃ
ねぇか』って、背中を押してくれたのが啓ちゃんでね」

「そうか。少し安心したよ。身内の中に、一人でもお前の味方がいて」

「味方っつうか、向こうは向こうで院長になる野望があったから、まぁ利害が一致したといったらそれ
までなんだけど」

 けれども、どんな理由であれ、従兄弟のあの後押しがなかったら、今の俺はないだろう。

 その時楽屋のドアをノックする音が聞こえ、工藤さんが「どうぞ」と答えた。

 入ってきたのは劇団KONのスタッフの女の子だ。確かもぎり(受付)をやっている娘だったと思うけ
ど。

 その手には大きなバラの花束があった

「うわー、凄いね!誰宛?」

 目を丸くする工藤さんに、女の子は俺の方を見た……って、まさか俺ってこと?

 工藤さんとか、他の舞台を踏んでいる役者さんたちはともかく、舞台が初めての俺に花束くれるヒト
なんかいないだろ。

 俺はいぶかしげに女の子を見ながら尋ねた。

「誰かの間違いじゃないのかな?」

 すると女の子はふるふると首を横に振って。

「確かに浅羽さんにって言ってました。名前はえーと、綾瀬啓次郎(あやせ けいじろう)様と」

「け……啓次郎?じゃあ、啓ちゃんが」

 その名前を聞いて、俺はすぐに納得してしまった。

 昔、風邪を引いたときも、啓ちゃんは花を持ってきてくれたことがあった。

 それから誕生日の時も。

 女みたいだから、花を贈るのは止めてくれ。恥ずかしいと言ったら、従兄弟はきょとんとして。

『でも、俺花もらったら嬉しいけど?』

と、答えたのだ。

 後で分かった話、啓ちゃんは本当に花好きで、おばさんたちに混じってフラワーアレンジメントをして
いたこともあったらしい。

「その人は今どこに?」

「え……それがあの……」

 女の子はドアを指さした。

 何と楽屋の前まで来ているらしい。

「僕のことはかまわないから、入るようにいいなよ。まぁ、むさ苦しいトコだけどさ」

 工藤さんのお言葉に甘え、俺は啓ちゃんに入って貰うよう、女の子に頼んだ。

「よ、久しぶりだな」

 約半年ぶりになるのか。

 入ってきた啓ちゃんは、一段と大人になっていた。

 銀縁の眼鏡の下、目尻がさがった一重の目。

 顔も細面で、さすが俺の従兄弟だけに(!?)顔は整っている。

 俺には三人の従兄弟がいる。

 父の妹の子供は、三人兄弟。

 今年からアメリカへ留学するこの従兄弟は、その中の真ん中で一番優秀だ。

「久しぶり、啓ちゃん。相変わらず花が好きだなぁ。こういうのは彼女にあげないと」

 女の子から花束を受け取りながら、俺は苦笑した。

「駄目駄目。初めて彼女にバラの花あげたら、どうしたと思う?サラダにして食っちまったんだ。あーゆ
ー花より団子な女にはあげるだけ無駄だから」

 啓ちゃんは軽く肩をすくめた。

「そういうお前こそ、ますます」

 啓ちゃんは言いかけて、一度言葉を切った。

「ますます何だよ」

 尋ねる俺に、啓ちゃんはやや気まずそうに頬を掻きながら、ぼそりと言った。

「……ますます、伯母さんに似てきたなって」

「あ、そ」

 背が伸びたとか、男らしくなったとか、そういう言葉を期待していた俺としては、ちょっとがっかりだっ
た。母親に似ていること自体は別に嫌じゃないけど。

 母親は女優並に綺麗なヒトだ。

 参観日には一回も来たことがない母親だったけど、一度だけ学校に用事があって来た時は、みん
なに注目されて少し鼻が高かったっけ。

 それから啓ちゃんは、来嶋の方へ視線をやった。

「どうも。ウチの洋樹がお世話になっているようで」

「とんでもない。むしろこっちがお世話になっているくらいで」

 どこか複雑な笑みを浮かべ、来嶋は啓ちゃんに軽く会釈した。

 らしくない、ぎこちなさが今の彼にはあった。

 無理もないけど。

 俺が来嶋に着いていったのは、俺自身の意志他ならないけど。

 来嶋からしたら、俺を連れ出した後ろめたさというものは、どうしてもついて回るに違いない。

「来嶋さん、あんたとは一度話しておきたいことがあるんだ。後でいいかな?」 

 一瞬啓ちゃんが、すっと目を険しくした……ような気がした。

 あ、あれ?

 啓ちゃん、来嶋と知り合い?

 いや、そんなハズはないと思うけど、何だろうか。来嶋に少し敵意のような目を向けた気がした。

「ええ」

 来嶋は来嶋で、そんな従兄弟の視線をまっすぐに受け止めている。

「あ、あの良かったら、こちらへ」

 楽屋に訪れる客は珍しくないので、ちゃんと応接セットが置かれている。

  しかもちゃんとプライベートが保てるようにスクリーンで囲うように仕切られていた。

 女の子にそっちへ座るように言われ、俺と啓ちゃんはそっちへ移動することにした。

 来嶋は何事もなかったかのように、工藤さんの所へ歩み寄りメイクさんと三人で話をしはじめた。

 啓ちゃんはまだ、そんな来嶋の方を見てぽつりと言った。

「あれが、お前を唆した元教師か」

 ……え。

 啓ちゃんの声がいつになく低い。当人には聞こえないように声を潜めているから、そう聞こえるだけ
と思いたいけど。

 でも、唆したって。

「俺はあの人と出会う前から進路は決めていたし、あの人について行ったのも自分の意志だよ」

 俺の反論に啓ちゃんは答えずにじっとこっちを見ていた。

 何だろう……こう、探るような眼差しは。

 いつもの啓ちゃんじゃない。

「何だよ、啓ちゃんだって、俺が役者になること賛成してくれたじゃないか。今更反対する気なのか」

「だったら楽屋に花なんか持ってこねーよ。俺の中で予想外だったのは、あいつも此処にいたことだ」

「あいつって、啓ちゃん、来嶋のこと知っているのか?」

「別に。だけど、お前を連れ出したのが、学校の教師だったって話は聞いていたからな。どんなヤツか
は調べた」

「調べたって」

「当然だろ。身内なら見ず知らずの大人にお前を任せられるか。俺はな、お前に役者になることは賛
成したけど、男と暮らすことには賛成してない」

「お、男と暮らすって……そ、そんなヒトをホモみたいに」

「じゃあ、聞くけどお前はあいつのことをどう思っている?」

「どうって……」

 俺の中で、こんな時に限ってあの時のことを思い出してしまう。

 来嶋を誘ってしまった自分自身の言葉を。

 

『みなと……』


 うわ……なんか頭が熱くなってきた。

 そ、そうだよな。

 すっかりその認識が抜けていた。

 俺、男好きになったんだ。

 ますます親に顔合わせできねぇ。

 熱くなっていた顔が、だんだん青ざめてくる。

 ああ、お父さん、お母さん。俺ってホント親不孝者だよ。

 こんな息子ですいませんでした。

「俺はお前が心配なんだよ」

「啓ちゃん……」

 不意に温かさを感じた。

 頬に啓ちゃんの掌が触れる。

「本当に、お前はますます……」

 じっとこっちを見詰める啓ちゃん。

 何だろう?

 いつも俺を見ている優しいあの目とは何か違う。

 どこか真剣な。

 それでいて眩しそうに目を細めて。

 啓ちゃん、よく見ると父さんに似ているんだな。

 目尻の下がった一重の目なんか特に。

 この人が、本当は父さんの息子だったら良かったのかもしれない。

 すると、啓ちゃんは我に返ったみたいに、俺から手を離して、咳払いを一つした。

「いや……今はそんな話をしている場合じゃなかったな。本番前なのに。本当はな、お前にただおめ
でとうと言いたかっただけだったんだ」

「啓ちゃん」

「今は何も考えなくていい。とにかく自分が出来る演技を精一杯やれよ」

 啓ちゃんはいつも通りの優しい笑顔に戻っていた。

 俺は少しほっとする。

 何だろう、啓ちゃんが来嶋を見る目は何か違う。

 何だか仇にでも出会ったかのような、そんな鋭さがあって。

 あんな顔、見たことがなかった。

 俺の中の啓ちゃんは、主に優しい笑顔だった。

 何かと俺のこと気に掛けてくれて。

 本当にこの人は医者にぴったりだなって思ったものだ。

 ひとしきりお互いの近況を話してから、俺は啓ちゃんと別れた。

 そして楽屋を後にする従兄弟の後ろ姿を見送りながら、俺は思い出す。

 役者をやるか、医者をやるか迷っていた俺の背中を押してくれた啓ちゃんのことを。


  

   『病院なら、俺が継ぐよ。役者になりたきゃ、なりゃいいじゃねぇか』

 


  それは梅雨の最中、珍しく晴れた日のことだった。

  父の病院浅羽病院の屋上で、俺は火を付けていないタバコを口に挟んだまま、ぼうっと空を見上げ
ていた。

 灰色と白が混ざった雲の隙間からのぞかせる陽に、目を細めていると、一本の手が伸び、タバコを
ひったくってきた。

 従兄弟の啓次郎。

 俺は啓ちゃんと呼んでいる。

 色白なトコは俺と同じで、背は俺より少し高い。目尻が下がった一重の目はどこか優しそうな雰囲
気を醸しだしている。顔からして医者向きだ。

 父の妹の子どもで、俺より2つ年上。

 俺の母親と叔母さんはあんまり仲が良くなくて、ことあるごとに俺と啓ちゃんを張り合わせていたん
だけど、俺たちはまぁフツーの従兄弟として、それなりに仲良くやってきた。

「吸わねーんなら、俺によこせ」

 啓ちゃんはそう言って俺からひったくったタバコを咥えて、火を付けた。

「何だよ、啓ちゃん。俺と間接チューでもしたかったのか」

「あん?だったら、間接じゃないチューもしよっか?」

 わざと煙をこっちに噴かせながら啓ちゃんはにやっと笑う。

「いらねーよ。俺に何か用?」

「用なんかねぇけど、その浮かねー面見てたら、放っておけないだろ?」

「啓ちゃんお医者さんみたいだなぁ」

「一応医者目指してんの」

 今度は空に向かって煙を噴かしながら、啓ちゃんは言った。

「じゃあ、質問変える。病院に何か用でもあったの?」

「ああ、俺来年からアメリカへ行くから、お前の親父さんにご挨拶しとかないと、と思ってな」

「へぇ、アメリカかぁ。アメリカっつったら、ブロードウェイミュージカルがすげーよなぁ」

「…………お前な。医者目指してんなら、もっと別の発想しろよ。最先端医療だとか、バイパス手術の
天才医師がいるとか」

「バイパス手術って何だ?」

「…………」

 啓ちゃんはタバコを指に挟み、しばらく眉をもんだ。

 い、いやだって、別に医大を目指している言っても、今は普通の高校生だし、知らなくて当然だろ?

「確かに知らなくて当然は当然さ。だけど、医者を目指すってんなら、雑学程度にはいろいろな知識を
取り入れたりするもんだろ」

「……ああ」

 そうだ。

 俺だって演劇のことは全く分からないけど、演劇に関する本や雑誌を読んでは勉強して、まだ知ら
なくてもいいような業界用語にまで覚えている。

 啓ちゃんの言いたいことは、そういうことだろう。

 本当に望んで目指しているのなら、片っ端からそれに関する本や資料を集めては、興味をもって勉
強するのが当然なのに。

 俺は大学に受かることしか考えていなかった。

「結局、俺、医者になりたくないんだな」

 俺はその場に座り込み、体育座りの姿勢になった。

 啓ちゃんはそんな俺をちらりとみて、タバコの煙を、空に向かって長く吐いてから言った。

「病院なら、俺が継ぐよ。役者になりたきゃ、なりゃいいじゃねぇか」

 俺は、目を見開いて従兄弟を見上げた。

「啓ちゃん……」

「お前が不本意ながらに、病院継いでもそりゃ構わないけどさ。俺、院長の座狙ってるし、その為なら
可愛いお前のことを陥れることぐらいはやってのけるぜ?」

 あっけらかんとした口調で、穏やかでないことを彼は言った。

 確かに啓ちゃんはおとなしそうな顔をして野心家な所がある。付き合っている女性もどこかの財閥
の令嬢だっていうし。

 今言っていることは冗談のようで、本音なのであろうことは俺にも分かる。

 そして啓ちゃんの方が遙かに病院の跡取りとして向いていることも。

「金持ちの娘と結婚し、将来はここの病院長。これでホステスでも愛人にしたら、財前教授※みたい
だね。啓ちゃん」    ※山崎豊子原作 白い巨塔の主人公

「な、何を言う。俺は麗香さん一筋だ」

 ほほう、麗香さんとやらが金持ちの娘か。

「ホステスじゃなくてもさ、ここの看護婦さん、すごいモーションかけてくるだろ?俺なんか医者になっ
てないのに、何人の看護婦に声かけられたか」

「そりゃお前は面がいいんだよ」

「啓ちゃんだって悪くないだろ?」

「もちろんさ。看護婦さんにああ、熱烈に存在をアピールされると、正直よろめくことだってある。ここの
看護婦の美樹ちゃんなんか可愛いし」

「美樹ちゃんって誰だよ」

「ほら小児科にいるだろ?」

「ああ、山下さんか。……って、啓ちゃん、下の名前で呼ぶような仲なんだ。あぶねー。財前ロードま
っしぐらじゃん」

「いいや!美樹ちゃんとはあくまで女友達だから」

「本当かなぁ?」

「本当だ!」

 お互いの母親同士の思惑は置いておいて、俺と啓ちゃんはやっぱり仲のいい従兄弟だったんだと
思う。

 そりゃ啓ちゃんが自分の野心ために、俺を役者の道に進めたのだっていうのは分かっているけど
ね。少しは俺のためを思ってくれたんじゃないのかな?とも思っている。

 利害が一致していたといえばそれまでなんだけど。

 その日自宅へ戻った俺は、まっすぐ父の書斎を向かい、土下座をした。


「ごめんなさい。俺、やっぱり病院継げません」


 外はこれから起きる波乱を予感させるような大雨だった。

 父親は困ったように俺の方を見て言った。

「だけどね。私の子供はお前しかいないんだよ。分かっているだろう」

「分かっています。ですが、俺以上に立派な後継者がいることも分かっています」

────

「啓ちゃんは、父さんに認められようと思って、俺なんかよりも必死に勉強をしてきた人です」

「……」

「俺以上に、父さんを尊敬しているのも啓ちゃんです、だから病院は啓ちゃんに」

 言いかけたところで、書斎のドアが勢いよく開かれた。

 俺はたちまち真っ青になって後ろを振り返る。

 ああ……やっぱし母親だ。

 話聞いていたんだな。

 いや、一緒に聞いて貰えたのなら丁度いいいといえば、いいんだけど……どうしよ、顔がもう般若
だ。

「そんなの認めないわよ!!」

 雷鳴とどろくかのごとし。

 いいや、実際にその直後本当にタイミング良く雷が落ちたのだ。

 ここからかなり近い。

 多分小学校の避雷針だろう。

 父は目を×にしながら耳を押さえ、俺も堅く目を閉じて肩をすくませた。

「あんたねぇ!今まで曾お祖父さんの代から守り続けていたものを突然、従兄弟に横取りされるの
よ!?悔しいと思わないの!?」

 稲光の光が窓に差し込み、母の般若顔はさらに際立った。

 俺は恐ろしさに戦きながらも、ふるふる首を横に振る。

「いや……俺は別に」

「そんな競争意識がないから、あんたはどんどん駄目になっていくんじゃないの!!あんたはねぇ、コ
コの病院をなんとしても継がなきゃいけないの!!」

「いいじゃん、もう啓ちゃんに継がしておけば。俺が継いでも、啓ちゃん、俺を陥れても院長になるって
いうし。そんなドロドロになる前に、俺が辞退した方が無難だって」

「啓ちゃんがそんなこと言うわけないでしょ!?いい加減なこと言わないで頂戴」

 母は叔母さんとは対抗意識を燃やしているけれども、何かと花やプレゼントをくれる啓ちゃん自身は
結構気に入っている。

 そんな従兄弟にどろどろした野心があるなど毛頭考えたことなどないのであろう。

「言ったよ。啓ちゃんは誰よりも、父さんの後を継ぎたいんじゃないのかな」

 言いながら俺はちらりと父親の方を見た。

 父は父で考え込んでいるのか、難しい顔をしたままうつむいていた。

 多分……父ももう分かっているのだ。

 病院は従兄弟が継いだ方がいいってことぐらい。

「あんた悔しくないの!?啓ちゃんにそれだけ差をつけられて。あんたはいっつも、いっつもそうよ。何
一つ、あの子に勝てたことがないじゃない」

「何言ってるんだ。体育は勝ってるぞ」

「体育で医者になれるわけじゃないでしょ」

「負けている言っても、一、二点の僅差じゃねぇか。大体悔しいのは、俺じゃなくてあんただろ」

「!!」

 母親はこれ以上になく目を見開いて、声にはならない声を上げた。

 それからは辞書は飛んでくるわ、灰皿は飛んでくるわ、母親のヒステリーに俺と親父は逃げ回ること
しかできなかった。

 この人、子供の俺から言うのも何だけど、普段は艶やかな美人奥様だ。

 だけどぶち切れたら手に負えない。

 ありとあらゆるものが飛んでくるし、破壊される。

 いつもテーブルに置いてある陶器の灰皿もこれで何代目になるのか。

 家政婦になだめられながら、部屋を出た母親を見送り、俺と父親は長い安堵のため息をついた。

 俺はぐったりと応接セットのソファに身を投げ出し、父親もどっかりとデスクの席に腰をかけた。

「考えてみたら」

 天井を仰ぎながら、父親はぽつりと言った。

 俺は父親の方を見る。

「お前には親らしいことというのをしたことがなかったな」

「え……でも、俺生んでくれたし、食べさせてくれたじゃん」

「いや……まぁ、そうなんだけどね。私や母さんは何かと忙しくて、全てのことは鈴木さんに任せてい
たから」

 鈴木さんとはウチで長年お手伝いをしているおばさんだ。

 確かに食事も、勉強も、学校で何かあった時も、親よりは鈴木さんの方が多かったかもしれない。

「日曜日は家族で一緒に出掛けたり、夕食は家族団らんというのが当たり前なのに、お前にはそれ
がなかったな、と思ったんだ」

「……」

 そんなもの、テレビドラマだけの光景だ、と俺は思っていた。

 父さんも母さんも忙しかったから。

 それに、俺以外の奴等も、両親共働きだったりすると一人で食事が多かったり、塾行く途中にある
コンビニで食事を済ませるヤツもいたし。

 うん……まぁ、確かにみんながそうだったワケじゃないけど。

 そんな環境におかれたヤツは俺だけじゃなかったから、それが普通だと思っていたから。

 確かに友達の中に、家族でディズニーランドへ行ったとか、動物公園に行ったとかいう話を聞くと羨
ましかったりもしたけどな。

「お前には寂しい思いもさせたな、と考えるとね。進路の時だけ親みたいな顔ををして、なりたくもない
職業に就かせるのはどうなのだろう?と思っていた」

「…………」

 そんな風には俺考えたことなかったけどな。

 それが俺にとっては、当たり前で。

 親なんて週に一度会えたらそれでいい、って思っていたし。

「啓次郎の件は考えておくよ」

「……父さん」

 俺はまじまじと父親の顔を見た。

 もしかしたら、啓ちゃんのこと、ずっと前から考えていたのかも知れないな。

 だって、あの人は常に父さんの背中を追いかけていた。

 院長の座を狙っているという言葉は嘘じゃないとは思うけど、多分啓ちゃんはそれ以上に父さんの
ような名医になりたかったのだ。

 俺には啓ちゃんの気持ちが凄くよく分かる。

 俺だって追いかけていた人がいたから。

 幼い頃出会った名優永原映の背中をずっと見続けていたのだ。

 父親は苦笑しながら言った。

「一つだけお前に謝らなければならない」

「え……」

「私が過労で倒れたことがあっただろう?あれ、実は仮病だった」

「ええ!?……で、でもあんな苦しそうに」

「苦しそうな患者はそれこそ何度もみているからな。見よう見まねの演技だった」

「…………嘘ぉ」

 俺はそれ以上の言葉が出なかった。

 倒れた時の父親は本当に苦しそうで、俺はもう死ぬんじゃないのかって、気が気じゃなかった。

 それに呼吸器もしていたし、看護婦さんも何人も出入りして。

「じゃあ、看護婦さんたちもグルで?」

「まぁね。効果は絶大だっただろう?役者を希望していたお前が、少し間だけだったとはいえ、医者を
目指そうとしたのだから」

 確かに、仮病だなんて疑いもしなかった。

 あれが全部演技だったのだとしたら、看護婦さんもそうだけど、とにかく父親は名演技だった。

 ああ、でも考えてみたら、肝心な母親はあの舞台にはいなかったよな。

 ノリノリで演じそうだけど、オーバーアクションが目立ちそうだ。

 病院ぐるみで一世一代の大芝居。

 それだけ、俺に期待していたんだな。

 お父さん、お母さん、そして協力してくれた看護婦の皆さん。期待に添えなくて本当にごめんなさい。

「やはり役者になるか、洋樹」

 父の言葉に俺は大きく首を縦に振る。

 自分にはもう嘘はつけないから。

 俺はくすりと笑って、冗談交じりに父に言った。

「父さんこそ、引退したら役者にならない?」



 梅雨が明けた初夏の日、俺は家を出て、そして学校を辞めた。


つづく  


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