春来6
朝八時半。
いつものように永原さん宅へやってきた俺は、朝食を作り、掃除と洗濯をすませた。
今日のスケジュールは午後から写真撮影らしい。
薄手の黒いタートルネックのセーターに、黒のジーンズというラフな格好をした永原さんが、一階の
スタジオに来るように言った。
スタジオに来るように言った。
そう、この家、スタジオがあるんだ。
いつでも稽古できるように完全防音。
正面は大きな鏡、床はフローリング。
「洋樹、おいで」
そう言って手を差し伸べてくる永原さんに、俺は吸い込まれるように近寄る。
本当に綺麗だよなぁ。
顔も人形みたいに整っていて。
髪の毛なんか窓から差し込んでくる日差しで、黄金色に輝いているんだ。
それでいて微笑すると、ほっとするような温かな笑みを浮かべて。
冷ややかな美形かと思うと、まるで……天使のような柔らかな笑みを浮かべることもできる。
人が魅力だと思う部分をいくつも兼ね備えているような。
俺は永原さんの手をとる。
「そのまま……僕を抱き寄せて」
言われるままに抱き寄せる。
腕の中に収まった永原さんは、たおやかな女性に見えた。
……いや。
実際に俺の腕の中にいるのは、女性そのものだ。
熱っぽい眼差しでこちらを見上げる永原さんは俺に向かって言った。
「トリスタン」、と。
瞬間。
俺は目を見開いて、その体をぐっと抱きしめていた。
トリスタンとは、今度永原さんと今さんが共演する舞台、『トリスタンとイゾルデ』の主役。
その呼び名がキーワードだったかのごとく、俺はトリスタンを演じ始めていた。
「イゾルデ……愛しいイゾルデ!」
台詞はうろ覚えだけど。
イゾルデは物語のもう一人の主役。
だけど俺はもう愛しい人に会えた歓びで一杯になり、イゾルデの額や首筋に口づけるのだった。
イゾルデは俺の頬を両手で挟み、しっとりとした声音で問いかける。
その声は女性そのもの。
何とも言えない艶めかしい、ぞくりとするような声音で。
「僕と成海、どっちがいい?」
と問いかけてきた。
瞬間、俺は冷水を被ったかのような感覚に襲われる。
俺が今さんのトリスタンとイゾルデの自主稽古に加わったことが永原さんの耳に入ったんだ。
誰から聞いた?
来嶋?
それとも工藤さん経由で紺野さんとか?
あるいは今さん本人からかも……ああ、全員あり得るな。
そりゃ隠すつもりはなかったけど、なかったけど……話しづらいよな。
永原さんのライバルに手を貸したようなもんだし。
「ねぇ、洋樹。どっちがいいの?」
くすりと笑って問いかける永原さん。
凄い……何かたまらない色気がある。
やばい、やばい!
近づいてくる顔……うわ、永原さん、唇綺麗だな。
口紅を塗ったみたいに潤っていて。
本当にキスしたくなる、このままだと。
「あ……あの」
「何?」
小首を傾げる永原さん。
その仕草はやっぱりイゾルデだ。
少女のような可愛らしさを残しながらも、王女としての気高さ、そして女としての艶を兼ね備えた存
在。
在。
トリスタンと俺の狭間を彷徨いながら出した俺の答えは。
「も……もちろん永原さんです」
今さんに対しては、両方が師匠ですと言えたのに、この人にはそれが言えなかった。
言えるキャラじゃないのだ。
ウソでも言えやしない。
「うん、いい答えだ」
満足そうに頷いて、俺の額に軽くキスをする永原さん。
う……嬉しいかも。
そうだよ。
最初から師匠は永原さんだもんな、うん。
「じゃあ、湊と僕だったらどっちがいい?」
「え……?」
永原さんはくすくすと笑いながら、問いかける。
「湊や工藤君も師匠なんでしょ?君にとって」
そ、そんなことまで聞いているのか。ホントに誰がしゃべったんだよ。
……というか、何で来嶋だけ?
工藤さんは除外?
「いや……それは何というか言葉のアヤというか」
「僕と湊はどっちがいいのかな?」
にこやかに容赦なく問いかける永原さん。
俺は。
何故か言葉に詰まってしまった。
来嶋には確かにイロイロ教わって貰っている。
あの人がいなきゃ、今頃俺はどうなっていたか。
兄弟みたいになにかと面倒も見てくれるし。
それに……。
『ゆうべは……良かったぞ』
不意にあの時のことを思い出して、俺は顔が熱くなった。
さらに来嶋との濃厚なラブシーンが次々と蘇って。
お、落ち着け俺。
平常心、平常心。
いや……あんなこともあったりしたけど。
あいつの笑顔とか、それに寝顔とか見ていると本当に何ていうんだろうな。
本当に嬉しいなって思うことが多くて。
「……そっか。湊には負けるか」
は!?
お、俺、何も言ってないんですけど!?
何、納得しちゃってんですか。
「そういえば、今日はゲネプロ(※)だね、洋樹」
話をいきなり変えた!?
「あの……」 ※ゲネラールプローベの略 Generalprobe(独)本番と同じ条件で行われる通しの舞台稽古
「湊と一緒に見に行くから……ね?」
……ね?って。
な、何、にやにやと笑っているんだろうか。
何だか俺の心の中、見透かされているようでならない。
そんなに分かりやすい顔していたかな。
「じゃあ、次は本当に僕の自主稽古に付き合って貰うからね。洋樹、台本が台所のテーブルの上に置
いてあるから取ってきてくれる?」
いてあるから取ってきてくれる?」
「は、はい」
まだ笑みを浮かべている永原さんに、俺は顔を熱くしたままスタジオを後にした。
ま、まいったな。
来嶋のこと思い出しただけで、こんなにドキドキするなんて。
最近の俺、かなりおかしいよな。
本当にあの人のこと思うと。
台所にたどり着き、テーブルの上には台本が二冊。
……あ、俺の分もコピーしてくれたんだ。
その本を取ろうとした瞬間だった。
「───」
突然、世界が一転したような感覚が襲った。
な、何だ!?
頭がくらくらする。
あ……あれ?
足がふらつく。
俺は、テーブルに手を着き、辛うじて倒れるのは免れた。
しばらく頭がぐらぐらしたけれども。
少ししたら落ち着きを取り戻した。
「洋樹、どうしたんだ?」
戻ってくるのが遅いと思ったのか、永原さんが心配そうな表情でやってきた。
「す、すいません。すぐに行きます」
俺は台本を持って、何事もなかったかのように永原さんの元に歩み寄った。
突発的な眩暈だ。
稽古とかで疲れた時になる時があったけど……今日は早く寝ないと駄目だな。
本番倒れたら元も子もない。
それにせっかく永原さんと稽古ができるんだ。
そう、伝説の役者との稽古が再び。
そう思うと俺の胸は弾んで、先ほどの眩暈もウソだったかのように吹っ飛んだ。
「じゃあ、始めようか」
手を差し伸べる永原さんに。
「はい!」
俺は大きく頷いて、その手を取ったのであった。
くらしま劇場───
「信長様、この場はお逃げ下さい。私もすぐに参ります故」
ラストの本能寺の変。
周囲は業火の唸りと、兵士達の喧噪が響き渡る中。
鬼刃は静かに笑みを浮かべていた。
信長演じる俺は大きく頷く。
死ぬと分かっていて、命がけで駆けつけてきた鬼刃の熱い思いに、歓喜したい思いだった。
「待っておるぞ」
俺は鬼刃に背を向け、燃えさかる本能寺の中へ。
赤いライトが照らされたお堂の中は、舞台袖へ直通している。
俺は振り返り工藤さんの演技を袖から見守る。
鬼刃演じる工藤さんは両手に刀を持ち、包囲する敵たちを睨み付けた。
かつて鬼と恐れられた男の凄絶な殺気に。
ただ睨まれているだけなのに何人もの兵士が怯んだ。
だが、所詮は多勢に無勢。
無数の刃は容赦なく鬼刃に襲いかかってきた。
鬼刃は、咆哮を上げながら、敵陣の中へ突入した。
暗転
物語は信長が燃えさかる本能寺の中へ。
鬼刃が大勢の兵士の中に果敢に刀を振るう所で物語は終了する。
本日はゲネプロ。
この日は駄目だしも何もなく、本番と全く同じ状態で稽古をする。
劇場入りして三日目。
稽古場から劇場に移ってから、俺もそうだけど、みんなもがぜんテンションが高い。木村さんは、劇
場の舞台に昇ると、「帰ってきたぜ!」と叫んでいたっけ。
場の舞台に昇ると、「帰ってきたぜ!」と叫んでいたっけ。
暗転が明るくなり、先程まで殺気だった鬼刃を演じていた工藤さんが、満面の笑顔をこっちに向け
て刀を持ったまま、親指を立てる。
て刀を持ったまま、親指を立てる。
「超最高」
今さんもパンパンと手を叩き、みんなに向かって叱咤激励を送る。
「おーし!!その調子で本番いくからな。てめぇら今の感覚忘れんじゃねぇぞ!!」
一ヶ月前の今さんからは考えられない言葉だ。
だけど、それだけのものを築き上げてきた自信は俺にもある。
他にもいくつか拍手があった。
スタッフの皆さんや出番はないけど、客席に座って見ているのは、KON所属の役者さんたちやそれ
にスポンサー関係の人や、劇場のスタッフさんとか。
にスポンサー関係の人や、劇場のスタッフさんとか。
それに────
「あ、永原さん……それに来嶋さんも」
舞台の真ん前の席に腰掛け拍手をしている永原さんと来嶋がそこにはいた。
今さんは「何!?」と言わんばかりに目を三角にして永原さんの方を振り返る。
「てめぇ、何しにきやがった!?」
「もちろん弟子の成長を見に来たんだよ。あ、これドバイのお土産のドバイまんじゅう」
そう言って。キヨスクの袋を今さんに手渡す永原さん。
「何がドバイまんじゅうだよ!?その辺に売ってる“ひよこまんじゅう”じゃねぇか!!」
とか言いながら、しっかり受け取っている今さん。
そんな彼を永原さんはせせら笑う。
「なんだ、免税店で似合いもしないネクタイでも買って欲しかったのか?」
「いるか!いっそのこと土産なんか持ってくんな!!」
相変わらずなやり取りをしている二人を見ながら、工藤さんは苦笑する。
「なんか想像できないな。あの二人が舞台するなんて」
そうなんだ。
近い将来、この二人共演の舞台が実現する。
怪物と呼ばれた演劇界の巨匠、高城幸甚が作り出す最後の舞台。
最初、その話を聞いたとき本当に信じられなかった。
伝説の二人が共演だなんて。
特に今さんの舞台なんて、それこそ何年ぶりなのか。
俺もTVやDVDでは見たことがあったけど、生のこの人の舞台はまだ見ていない。
この前、今さん演じるトリスタンの自主稽古に、成り行きで飛び入り参加したけど。
未だにあの鮮烈な演技が目に焼き付いている。
今さん演じるトリスタン。
どっちかというと王様タイプの今さんなのに、演じることによって見事な忠義を誓う騎士に変身する。
勇敢で誇り高く、恋には情熱的。
イゾルデを演じた俺に向けた、あの熱い眼差しを思い出すと未だにどきっとしてしまう。
ああ……いかん、いかん。
来嶋も言っていたけど、きっと今さんがその気になったら、ここにいる俳優・女優みんな撃ち落とせ
るんじゃないかって思う。
るんじゃないかって思う。
ただ、一人のぞいて。
「洋樹の仕上がりも、君が手がけたにしては上出来だね」
ふっと微笑を浮かべる永原さんに、今さんは口を二等辺三角形のようにし、歯ぎしりしながら拳を握
りしめる。
りしめる。
「どこまで上から目線なんだよ!?てめぇは」
……あの二人が共演するのも信じられないけど、トリスタンとイゾルデを演じることがもっと信じられ
ない。あんなに火花を散らしていても、舞台の上では愛し合う二人を演じることができるのだろうか。
ない。あんなに火花を散らしていても、舞台の上では愛し合う二人を演じることができるのだろうか。
いや、きっとこの二人ならやるだろうが、工藤さんの言うとおり、どうも想像ができないのだ。
この二人の舞台、俺も一緒に出られたらなぁ。
脇役でも良いからさ。
この前マネージャーの紺野さんにそれを洩らしたら、「君は他の舞台のオファーが来るかもしれない
から駄目」だって言っていたけど、他の舞台からお声が掛かってくるのかなぁ?俺みたいな名無しの
新人に。
から駄目」だって言っていたけど、他の舞台からお声が掛かってくるのかなぁ?俺みたいな名無しの
新人に。
まぁ、今はこの村岡鬼刃の舞台を成功させることが第一だ。
次の舞台があるかどうかは二の次。
そこに来嶋がこっちに歩み寄ってきたので、俺は舞台から降りた。
『あれ……、相模ひろしじゃない?』
『うわ!?ホントだ。ああ……そっか。永原さんと共演してるもんなぁ』
来嶋の存在に気付いたKONのメンバーが、どよめいた。
そうだ。
もう、この人有名人なんだよなぁ。
永原さんとの舞台では大絶賛を受けていて。
若き名優誕生。
師にも勝るとも劣らぬ名演。
終わらぬ伝説などなど、本当に褒め称える記事が多くて。
そりゃ、褒める人間もいれば貶す人間もいるけどね。
師の域には遠いとか、超えられぬ壁……ってさ。そんなすぐに超えられるような壁だったら、織辺拓
彦は名優とは言われないだろうに。
彦は名優とは言われないだろうに。
沢山の雑誌にも載るようになって、TVにも出るようになっているから、来嶋は、世間にもその顔が
知られつつあった。
知られつつあった。
「おつかれ」
来嶋の労いの一言は、俺に何とも言えない安堵感を与えた。
同時に。
さりげない笑みを浮かべるその表情が、凄く格好良く見えて、俺はどきりと胸を高鳴らせる。
今までだってこの人の仕草一つ一つにはたびたびドキドキさせられていた。
永原さんや工藤さん、それに今さんだって演じている時には凄くときめいたりすることもあるんだけど
……普段の時は、今ほど胸が高鳴ることはない。どきっとすることは、あるよ?特に工藤さんは女の
子みたいに綺麗だし。
……普段の時は、今ほど胸が高鳴ることはない。どきっとすることは、あるよ?特に工藤さんは女の
子みたいに綺麗だし。
だけど演じている時以外で、こんな気持ちが続くのは来嶋だけだ。
最近、本当に最近、それに気付いた。
「……どうだった?俺」
「ああ、今までの成果が出ている、いい演技だったよ」
いい演技。
本当にこの人の口からそんな言葉を聞くのは初めてじゃないけど、何回聞いても嬉しいもんだな。
と、その時だった。
「ちょっと浅羽君!」
可愛らしく弾んだ声。
後ろに手を組んでこちらに近づいてくる女に、俺は顔を引きつらせた。
げ、こいつもいたんだ。
大見麻弥は大きめな目を輝かせながら、じっと来嶋の方を見ていた。
「なんだよ、大見」
「ね!紹介してよ。相模さん」
「……………………」
あたかも前から友達みたいに、俺の肩をぽんと叩く麻弥。
厚かましい女だな。
KONオーディションの時なんか、来嶋のこと見向きもしてなかったくせに。
しかし、麻弥は俺が返事をする前に、来嶋に向かってぺこんと頭を下げ、とびきり可愛らしい笑みを
浮かべる。
浮かべる。
「初めまして。大見麻弥です。浅羽君とは同期なんですぅ」
「ああ、初めまして。相模です」
来嶋もにこりと笑って、麻弥に手を差し出す。
彼女は両手できゅっと来嶋の手を握り、弾んだ声を上げる。
「この前の舞台見ました!お恥ずかしい話ですけど、相模さんのようなスゴイ人がいたなんて、全然
知りませんでした」
知りませんでした」
「ははは、スゴイと言われると照れるな」
褒められて満更でもない笑みを浮かべている来嶋に、俺はむっとする。
んな見え見えのおべっか、真に受けてんじゃねぇよ。
「あたしも早く舞台に立ちたいですけどー、浅羽くんみたいに上手じゃないし」
────思ってもないコト言うな。
「どうやったら相模さんみたいなスゴイ演技が出来るんですかぁ?」
ぎゅうっと両手で来嶋の手をにぎり……う……その手を自分の胸に近づけてやがる。
露骨なお色気攻撃しかけるな。
しかし、来嶋はそんな攻撃をするりとかわすかのように、肩を竦めた。
「どうやってと言われてもな……とりあえず地道にKONで勉強をすることが先決だよ」
どことなく生徒に言い聞かせるような口調になっているあたり、さすが元教師というべきか。
そ、それにしても来嶋の奴、こいつの色気に動じないなんて……けっこう慣れてるのかな。
そりゃそれだけの容姿だと、近づく女も多いだろうけど。
何だろう。
なんか気分が悪い。
大見麻弥は自分の攻撃がかわされ、少し顔を引きつらせていたものの、すぐに取り直したように笑
みを浮かべ治し、少し俯き加減になる。
みを浮かべ治し、少し俯き加減になる。
どこか恥ずかしそうな仕草。
こいつの本性を知らない男だったら、すぐに蹌踉めくに違いない。
「もちろんKONでも頑張るつもりです。でもあたし、相模さん個人に教えて欲しいことがあるんです」
「俺に?」
「どうやったらあんな純朴な目が演じられるんだろうって。誰が見てもまっすぐで綺麗な目を演じられ
るのって相模さんしか見たことがなくて」
るのって相模さんしか見たことがなくて」
「おめーのどす黒い腹の中を掃除しない限りそりゃ無理だ」
来島の代わりに、俺が即答してやった。
瞬間鋭い眼差しがこっちに飛んできたけど、俺もまたそれ以上に鋭い眼差しを彼女に向けた。
「────」
麻弥は目を見開いて、びくりと肩を震わせる。
「湊、帰ろうぜ。俺、腹減って死にそう」
俺は先だって歩いていた。
「あ……ああ。そうだな。じゃあ、大見さん。これからも洋樹のことよろしく」
麻弥に軽く手を挙げてから、来島は俺の後を追う。
そんな女によろしく言わなくてもいいのに。
んとに胸くそ悪いったらありゃしない。
劇場の廊下を歩く俺の歩くペースも自然と速くなる。
多分、麻弥はすんごい目で俺の背中を睨んでいることだろうけど、俺の知ったことじゃない。
何か言いたいことでもあるのなら、いつでも受けて立ってやる。
今度来嶋に近づいたら、ただじゃおかないからな。
そう思った直後、俺は足早階段を降りていた足の動きをぴたりと止める。
え……?
何を俺は。
麻弥が有名な俳優にお近づきになることなんて、今に始まったことじゃない。
それなのに、何俺、大人げなく腹を立てているんだ?
しかも麻弥に聞こえよがしに、下の名前で来嶋のこと呼んで。
自分の行動を思い返して、俺はたちまち顔が熱くなるのを感じた。
「洋樹」
後ろから声を掛けられ、俺はびくっと肩を振るわせる。
……恥ずかしすぎて、来嶋の顔見ることができない。
「お前、永原さんや今さんに挨拶無しで帰るつもりか?」
咎める声と同時に近づいてくる足音。
狼狽えるな、浅羽洋樹。
お前はもう役者なんだから。
冷静になって、平静を装わなきゃ。
「あ……ああ。ごめん。着替えたら挨拶しようと思って」
なに慌ててんだかな、と自分自身に苦笑して見せる。
「お前、この業界生きたかったら、挨拶だけは疎かにするなよ」
何だかな。
こんな時まで先生みたいだな、この人。
俺は内心苦笑する。その苦笑はすこしばかり心に平安をもたらした。
けれども、次の言葉でその平安も終わりを告げる。
「それにお前の同期の子……」
俺の眉がぴくりと上がった。
「大見さんだっけ?あの子の話も最後まで聞かずに」
「あんな女の話なんか聞く必要ない」
いつになく冷淡になっている自分の声に。
誰よりも、俺自身が驚いた。
な、何だよ。
全然、俺、平静が演じられていない。
思わず、自分自身の口を右の手で押さえる。
「洋樹、お前」
来嶋は、何だか驚いたように俺の方を見ていて。
その顔をみた瞬間、俺は本当に恥ずかしくて死にたい気持ちになった。
駄目だ……。
恥ずかしくて堪らないこの想いも。
大見麻弥への憤りも。
でも何よりも今俺の中に渦巻いている感情。
それは嫉妬だ。
来嶋に近づくあの女に、俺は嫉妬したんだ。
今の態度で、その感情が全部、表に出てしまった。
この人に、俺のぐちゃぐちゃした心の中を知られてしまった。
こんな時に。
こんな時に、この人の想いに気づくなんて。
「洋樹……」
「笑いたきゃ笑えよ」
卑屈な笑みを浮かべる。
本当に自分の馬鹿さ加減に呆れる。
いつだって自分はこの人のことを見ていたのだ。
この人のことを思うと、胸が高鳴って。
俺はこの人のことが……
その時。
目の前がぐにゃりと歪んだように見えた。
また眩暈だ。
こんな時に限って。
俺は今にも倒れそうになる体を壁にあずける。
目頭が熱くなる。
何だか情けなくなってきて。
こんな所で泣いたらいけないのに。
それにこんな所で倒れたら。
「馬鹿だ……俺」
極力来嶋の顔を見ないように俯いたら、涙は粒となって床に落ちた。
今まで全然気付かなかった。
自分の気持ちに。
大見麻弥が来嶋に近づいた時、初めて分かった。
相手が他の俳優なら何ともなかったのに。
相手が来嶋だと、どうしようもなく腹が立っている自分がいた。
きっと麻弥じゃない他の女優が来嶋に近づいても、俺は同じ気持ちになるだろう。
「洋樹!」
来嶋が俺の元に駆け寄り、倒れそうになる身体をささえてくれた。
温かいな、肩に触れるこの人の手。
この温もり、失いたくない。
この人の温度をずっと感じていたい。
ああ……
そうだ。
俺に魔性があるのなら。
兄弟すら引き付けてしまう、そんな魔性があるのなら。
麻弥の色気で動じなかったこの人の心を掴むことはできないだろうか。
この人を俺のものに。
ぼんやりした頭の中、俺はじっと来嶋を見つめる。
この人の目だけを見詰める。
他は何もいらない。
今はこの人の温もりだけが欲しい。
「洋樹……」
来嶋は、ゆっくりと目を瞠る。
俺はその頬に手を当て、そっと唇を近づけて来嶋の名前を呼んだ。
「みなと……」
その瞬間、俺はふっと気が遠のくのを感じた。
本当に今にも唇と唇が触れあうか合わないか。
そんな間近な距離だった。
俺……何やってんだろう?
来嶋を誘うなんて。
俺が俺じゃないみたいだ。
もしかして俺はまだリツキを演じようとしていたのか。
いや……それは違う。
それなら相手である来嶋を藤木に見立てている筈だ。
明らかに俺自身が来嶋を誘っていた。
何やってんだ、俺は。
本当に何をやって……。
完全に意識を手放す前に。
来嶋が俺の身体をきつく抱きしめてくれたような気がした。
つづく
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