宮家島という無人島がある。
 元は21世紀の中ごろから続く、数度に渡る海底火山活動により隆起してできた新島だ。
 それに振動波を利用した人工造山技術を施して、現在の形となった。
 海岸線長は約80キロ、最高標高は1015メートル、上空から見るとほぼ円形をしているのが分かる。
 5年前の噴火を最後に火山活動は終息し、以後は周辺の地殻運動も安定した。

 同島を行政区画とする帝都が、広大な土地の有効活用を模索しはじめたのは昨年のことである。
 軍事施設、廃棄物処理場など幾つかの候補が挙がったが、おきゃんな都知事が採択したのは島のサーキット化であった。
「だって、マン島TTレースみたいでイカしてるじゃない。私は無粋なことは大嫌いなの」
 白河法子知事はそううそぶいたと聞くが、行く行くは島の公営ギャンブル場化を目論んでいるという噂もある。
 打算的で抜け目のない知事のことだから充分あり得る話だ。
 何はともあれ、宮家島を利用した第一回エアカーレースが開催されることに決まった。

 これに食い付いてきたのが、政治経済の分野で世界制覇を目論む国際貴族、ティラーノ・グループだった。
 メインスポンサーを買って出た彼らは、市販車ベースの改造エアカーを使ったレースを提案してきた。
 レース開催の主眼が、市販車の技術向上にあることを強調するためである。
 無論、傘下のユナイテッド・モータースにアドバンテージありと踏んでのことだ。
 UMは宣伝効果を上げるため、新開発の全自動ロボカーを投入することを宣言した。
 同社のロボカー技術が、マニュアル操縦のエアカーに優ることを見せつけようという腹なのだ。

 UMに関わらず、ポンタ技研や帝産自動車などの各メーカーも、次代を見越してロボカーの開発に入っている。
 しかし勝利の確信を持てない彼らはUMの後塵を拝することをよしとせず、ロボカーにレーサーを乗せる折衷案を取った。
 AIが苦手とする部分をマニュアル操縦で補おうというのだ。
 彼らは面子を捨ててでも確実に勝つ道を選んだのであろう。
 ここでロボカー合戦に出てUMにしてやられるようなことになれば、将来のシェアは確実に削り取られてしまうのだから。

 などと、他人事のように言っているが、実はこの僕も宮家島レースに出場することになっている。
 その経緯について、少し説明をしなければならないだろう。


 先日のこと、僕とシズカは本庁舎の廊下で都知事の白河法子にバッタリ会った。
 向こうも僕のことを覚えていてくれて、その場で少し立ち話になった。
 その時、このレースのことが話題に上がったのだ。
 聞けば、知事はレースの主催者として、雑踏警備の打ち合わせのために警視庁を訪れたという。
「UMはこのレースに社運を掛けているみたいね」
 なんでも、UMは完全自動のワークスマシンの他にも、20台以上のプライベーターを送り込むそうだ。
 連中にすれば、圧倒的な技術力の差を他社や観衆に見せつける必要があるのだろう。
 また、後ろ盾たるティラーノ・グループの顔に泥を塗ることはできまい。
 それ故の必勝態勢なのだ。

「でも参加台数の半分がUMのエアカーじゃ、ちょっと面白味に欠けるわね」
 知事はそう言うと、僕に意味ありげな視線を送ってきた。
 いやにUMの参加台数を気にするなと訝しんでいると、ふとあることに思い当たった。
 ビッグ・ベンことベンKCの存在だ。
 UM車の1000台斬りを目指している彼のことだから、このレースのことを知ればきっと襲って来るだろう。
 ベンにしてみれば、UMに復讐するのに格好の舞台だし。

「ところで、あなた新しいエアカーを手に入れたそうじゃない。えぇっとぉ……ダイナモータースだっけ?」
 僕は思わずギクリとなった。
 上司にも隠しているビアンカのことを、どうして部外者の都知事が知っているのだ。
 しかも、彼女はかなり核心部分に近いところまで嗅ぎつけているようだ。
 ダイナモータースってのは、どう考えてもニーノ・ダイナの名をもじったものなのだろうから。
 何故そんなでっち上げの社名を口にしたのか知らないが、迂闊に返事ができなくなった。
 都知事はニコニコ笑っているだけで、本心を明かそうとしない。
「面白そうだから、あなたもレースに参加すれば」
 この一言で僕の出場は決定事項となった。
 主催者権限を発動すれば、僕の出場資格などどうにでもなるってことだ。

 どうしてだかは知らないが、この美人の知事はベンの正体や、奴がUM車を狙っている情報を既に掴んでいるようだ。
 その上で、僕にベンを仕留めろと命令しているのだ。
 知事には都の治安を維持し、市民生活の平穏を守る義務がある。
 いつまでもベンに交通機能を掻き回されているわけにはいかない。
「これでも都知事なんだから。私の知らないことなんてあるわけないでしょ」
 都知事は得意そうにニンマリ笑った。
 そういや武蔵野工科大は都立だった。
 都知事である白河法子に隠し事などできるはずがない。
 彼女はニーノ嬢を責め上げて、事態の全てを把握してしまっているのだろう。

「多少ハプニングがあった方がエキセントリックでいいわ。優勝候補が順当に勝つんじゃつまらないとは思わない?
町工場の作った無名のロボカーに負けたとなれば、あのキーヨ・ティラーノがどんな顔をするか。是非見てみたいわ」
 都知事はそう言うとクスクス笑った。
 ダイナモータースなんて架空のメーカー名は、ビアンカが弱小の町工場製であることを強調するための方便だったのか。
 全てはスポンサーであるキーヨ氏に、恥をかかせるためのギミックなのだ。


 キーヨ・ティラーノと言うのは、世界中の主要企業の大半を勢力下に置くティラーノ・グループの総帥の名前だ。
 国際貴族の出身で、世界政府初代主席の座を狙っている野心家でもある。
 世界の政治と経済を牛耳ろうと企む彼が、いよいよ我が帝都に触手を伸ばしてきたのだ。
 宿敵、ミナモンテス・グループが宇宙開発事業の失敗で衰退した今こそが、千載一遇の勝機であると見たのだろう。

 キーヨにとって天佑だったのは、ミナモンテス家が当主の急死に始まる不幸の連鎖に見舞われたことだ。
 ミナモンテス家が当主の突然死で混乱を極めるさなか、同家に絡む疑獄や脱税事件が次々と明るみに出てきた。
 お陰でミナモンテス家の威光は完全に失墜した。
 余りにも不自然な事件事故が続いたため、政敵ティラーノの暗躍が疑われたが、確たる証拠は何もない。
 再興を望むミナモンテス家だったが、後継者たる嫡男が女性問題で失脚したことにより、中央から完全に一掃された。
 今やティラーノの進撃を止める存在は皆無であり、キーヨ・ティラーノはWG主席に最も近い男と目されている。

 そんなキーヨのことを、帝都の女知事はあまり好きではないらしい。
 彼の力をいいように利用はしても、美味しいところは自分が持っていくつもりでいる。
 島の開発をティラーノに無償でさせておきながら、続くカジノ事業には指一本触れさせる気はないのだ。
 そのため宮家島に「名門が無名の町工場に屈した恥辱の地」というレッテルを貼りたがっているのである。
 そうなれば、ティラーノにとって宮家島は鬼門となり、嫌でも撤退せざるを得ない。

「期待してるわよ、ハンサム君。今回はかなり危険な任務みたいだから」
 警察官たる僕の任務は、決して都知事から直に与えられるものではないのだけど。
 いつの間にか彼女の手駒にされてしまってるってのか。
「そうだ、私の懐刀を貸してあげよっか? ジョセフィン」
 白河都知事は背後を振り返り、お付きの名を呼んだ。
 純白のミニスカワンピース制服を着た、可愛らしい看護師が一歩前に出る。
「ナースのジョオ・ウィッチ。警視庁警備部所属のSPだから、あなたとは同業ということになるわね」
 紹介されたジョオ・ウィッチは、ペコリと頭を下げて挨拶してきた。
 なるほど、毒殺を怖れての看護婦帯同かと思っていたら、それがカムフラージュだったとは。

「彼女は射撃の名手なのよ。残念ながらオリンピックには出られないけど」
 女知事は言外に、ジョオがレベル3以上の改造を受けた公認の戦闘サイボーグであると匂わせた。
「人工衛星を利用した照準器を装備してて、飛んでる戦闘機だって3機に2機は墜としちゃうんだから」
 都知事のSPを1人で任されるのだから、実力は推して知るべしというところか。
 実に頼りになりそうだし、素直そうな外見はポイントが高い。
 ここはお言葉に甘えちゃおうかなと思っていると、すかさずインターセプトが入った。

「要らない……わ……」
 それまで興味なさそうに黙っていたシズカがポツリと呟いた。
「クローには……シズカがいるもの……サイボーグにできて……シズカにできないのは……脳卒中くらい……」
 いや、ジョークのつもりなんだろうけど、シュールすぎてまったく笑えない。
 というか、その場に居合わせた全員が凍りついた。
「とにかく……シズカに任せておけば……いい……」



 そう大見得を切ったシズカの前に、とんだ障壁が立ち塞がることになった。
 ECUの代用品としてビアンカの後席に搭乗したシズカだったが、その結果は散々なものであった。
 マシンにも相性があるっていうけど、シズカとビアンカのそれは最悪だったのだ。
 燃料噴射のタイミングが狂ってエンジンは吹けないわ、エアブレーキはまともに働かないわで、試走の結果は最悪だった。
 シズカに搭載されたハルトマン社製の人工知能は、そこらの自動操縦用AIより遙かに高性能だ。
 それにも関わらず、シズカはビアンカを全く制御できなかった。
 これじゃ、解体屋で売ってる中古の制御コンピュータを取り付けた方がまだマシだ。
 なんたってシズカより軽いし。

「君、わざとやってるんじゃないよな」
 ビッグ・ベンに勝てなければニーノ・ダイナの顔は丸潰れになる。
 まさかと思うけど、シズカときたらニーノ嬢をとことん嫌っているからなあ。
「デバイスドライバのバグか……電送信号のレベルの問題……シズカとは相性が……悪い……」
 そんなアキバのショップ店員が、無知な客を煙に巻く時のようなことを言われては身も蓋もない。
 こっちはまったくの門外漢なんだから、理解できるように説明してくれ。

 シズカは無表情のままで、左右の耳に突っ込んだケーブルを盛んに弄っている。
 そんなことで調子が上がるとは思わないが、早く原因を究明してもらわないと。
 予選が始まるまでには、もうそれほど時間が残されていない。
 不調の原因は、本当にどうしようもない相性の問題なのか。
「それと……このコクピット……あの女の臭いがする……」
 それだっ。
 原因はそれに違いない。
 内装に染み付いたニーノ嬢の移り香が、シズカを反発させているのだ。
 頼むからニーノ嬢を敵視するのは止めて、レースに集中してくれ。
 僕は彼女のことなんか何とも思っていないのだから。

「それじゃ……あのナースは……?」
「えっ?」
 ジョオ・ウィッチことジョセフィン嬢の愛らしい顔が頭をよぎった途端、僕の脳内からまたけしからん物質が出たらしい。
 それを観測したのだろう、シズカの目が極端に細められた。
 同時にシンクロ率が急激に下がり、ビアンカのエンジン回転がガクッと落ちる。
「やっぱり……クロー……信用できない……」
 いい加減にしないと怒るぞ。
「勝手に怒ればいい……サトコに言いつける……」
 ああ、本当にもう勘弁して。
 頼むから今は予選に集中させてくれ。


 僕はご機嫌斜めのシズカとビアンカを操って、ようやく予選を走り終えた。
 結果は42台中の15位。
 マシンの不調を考慮すると上出来であった言えよう。
 しかしポールポジションを獲得したUMワークスのロボカーからは大きく離されてしまった。
 ベンが真っ先に狙ってくるのはUMのロボカーだろうから、本戦では必死で食らい付いていかねばならない。

 レースは山頂に造られたサーキットを周回した後、一般道路へと移行する半公道コースだ。
 途中数カ所のチェックポイントが設けられており、それぞれの区間を時間内に通過しないと即失格となる。
 まずは峠道を下る山岳コースで、ここではエンジンパワーよりマシンのトータルバランスが重要視される。
 またブラインドコーナーが連続するので、コーナリングのテクニックと度胸の良さが問われることになる。
 山を下りきってしまうと、海岸線沿いの周回コースに出る。
 ここで物を言うのは絶大なパワーであり、今のビアンカではUMワークスに付いていくのは不可能だ。
 何とか山岳コースを出るまでにケツに食らい付き、後はスリップストリーム効果を期待するしかない。

 予選で見たUMワークスの速さを思い出すと、頭が痛くなってくる。
 プースカをベースにロボット化したマシンは、恐ろしいまでの完成度を誇っていた。
 前後比重のバランスの良さは勿論、機械ならではの冷静さと大胆さを兼ね備えたハンドリングは侮れない。
 おまけにエンジンもレース用のものに積み替えているから、直線では完全に置いていかれてしまうだろう。
 こりゃ、アフラRX9を持ってきても勝てないかもしれない。
 UMがいつの間にこんなロボカーを開発していたのか知らないが、正直たいしたもんだと思う。
 これが解雇された例の男が開発したAIの効果なのだろうか。
 もしそうだとしたら、UMは取り返しの付かない人的損失をしたことになる。
 何にしても、僕は持てる能力の全てを使ってレースに臨まなければならない。


 やがて本戦の開始時刻となり、僕とシズカは15番グリッドに置かれたビアンカに近づいていった。
 メインスタンドには、万を超す観衆が溢れかえっている。
 純粋なレースファン、メカフェチ、レースクイーン目的のカメ小など、それぞれがレースの開始を今や遅しと待っていた。
 完全に仕事モードの僕からすれば羨ましい限りだ。

 僕はレーシングスーツを着ているが、シズカはいつものメイド姿だ。
 場違いなフリフリのミニドレスは、嫌でも他のレーサーたちの目を釘付けにする。
 バカな男たちは、見えそうで見えないスカートの中身にハラハラしっぱなしだ。
「気をつけて……今日は休暇扱いだから……怪我しても労災認定されない……」
 シズカは男たちの熱い視線などお構いなしに、キュートなヒップをフリフリさせて歩く。
 僕としてはレース以外で、あまり目立つようなことはしたくないのだが。
 そんな僕に向け、時ならぬ哄笑が降り注いできた。

「オーッホッホッホッ。あなたね、町工場の作ったポンコツで果敢にチャレンジしてきたドンキホーテというのは」
 耳障りな高笑いに続き、上から目線のセリフが追加される。
 なんだと思って顔を上げると、真っ赤なプースカのボンネットに真紅のレザースーツを着た金髪美女が仁王立ちしていた。
 スレンダーな長身であるが、女性として出て然るべき部位は不必要なまで充分に出ている。
 美人と言えば間違いなく美人なのだが、顔中に溢れかえった高慢さが鼻につく。
 何者かと思っていたら、周囲のレーサー達の呟きが耳に入ってきた。
「コ……コリーン・ティラーノ」
「コリーン様だ」
 なんと、彼女こそティラーノ・グループ総帥、キーヨ・ティラーノの長女だったのだ。

 プロフィールによれば、今年ケンブリッジを卒業したばかりの22歳で、既にグループの一翼を担う役員として君臨している。
 彼女の美貌はハリウッド女優だった母親譲りで、自身もファッション雑誌の表紙を飾るトップモデルとして活躍中だ。
 その傍ら、趣味でエアカーレースを楽しんでいるという、まさに才色兼備のスーパーレディなのだ。
 更には国際貴族に属する身分ときては、もはや地上に対抗馬は見当たらない。
 今回は父上のため、腕に覚えのあるレースで貢献しようとしゃしゃり出てきたのだろうか。
 一説によれば、彼女の能力やグループ内での人望は、嫡男ドン・シーゲル氏を凌駕するという。

「王族なんてのは……大悪党を先祖に持つという証拠……貴族は……先祖が大悪党の手下だった……何よりの証拠……」
 シズカが吐き捨てた途端、コリーン嬢のこめかみに太い血管が浮き上がった。
 ビキビキという音が聞こえてくるようだ。
「なんですの、この無礼な小間使いはっ?」
 コリーン嬢はボンネットから飛び降りると、もの凄い形相でシズカの前に立ちはだかった。

 ズンと突き出された胸の膨らみは、巨乳のシズカより更に一回り大きい爆乳サイズだ。
「シズカは……小間使いじゃ……ない……」
 シズカも絶世の美少女だが、見た目には16、7歳の小娘だ。
 コリーン嬢が全身に纏った色香には及ばない。
 本来ならば、もう5年も経てばコリーン嬢に対抗できるようになるだろうが、残念なことにシズカは年を取らない。
 しかし、たとえお色気じゃコリーン嬢に敵わなくても、気の強さじゃシズカは一歩も引けを取らなかった。

「オッパイ大きい女が偉いのなら……ホルスタインの雌が一番偉いことに……なる……」
 シズカがチェーホフ作の『どん底』じみたセリフを吐くと、レーサーやメカニックたちが大爆笑した。
「な、な、生意気ですわっ。覚えてらっしゃい、後で大恥かかせて差し上げますからっ」
 虚仮にされるのに慣れていらっしゃらないお姫様は、真っ赤になって僕たちを睨み付けてきた。
 やれやれ、僕は全く関係ないのに、余計な厄介ごとを背負い込まされてしまった。

「クロー……ちょっとだけ……やる気出てきた……」
 そいつは有り難いが、もうちょっとだけ早くその気になってもらいたかったな。
 5列目スタートでは、UMのワークスマシンに食らい付くのは相当厳しいんだから。
 おまけに予選時のマシンコンディションじゃ、スタートと同時に何台に抜かれるか分かったもんじゃない。
 混雑する集団に巻き込まれてしまえば、渋滞を抜け出る頃にはUMのロボカーは遙か彼方に消え去っているだろう。
 つか──こいつ、やっぱやる気なかったんじゃないか。
「問題ない……シズカがなんとか……する……」

 頼もしいことを言ってくれたが、ナビゲーターシートに座ったシズカは、まだ本調子に戻っていなかった。
 メーターが示すシンクロ率は、どうにかビアンカを動かせる最低限のレベルだ。
 カッカきて余計な思考ノイズが加わった分、予選の時より状態は悪くなっている。
「こりゃ苦戦は免れそうにないな」
 僕がボソッと呟くと、シズカは不機嫌そうに反論してきた。
「クローは……シグナルに集中して……背後はシズカに任せれば……いい……」

 言っとくけど、ナビゲーターシートを後部銃座として使うのは無しだぞ。
 コクピットに当てず、エンジンだけをぶち抜くのもダメだ。
 銃器類の使用は禁止事項なんだから。
 君は大人しく、あくまで制御用AIに徹してくれ。
 そんな心配をしていると、いよいよスタートの時間が迫ってきた。

 突如、観衆の中にざわめきが起こり、続いて大歓声へと変わった。
 メインスタンドに主催者の白河法子都知事が現れたのだ。
 知事は手を振って声援に応えながら貴賓席へと歩く。
 今日のお召し物は、お気に入りの真っ赤なボディコンスーツである。
 周囲を取り巻くSPの中に、ナースのジョオ・ウィッチの姿は見えない。
 代わりにラテン系らしい長身の紳士が知事の傍らに立っていた。

 男は髪をオールバックに撫でつけ、女たらしっぽい顔ににやけた笑みを湛えている。
 誰かと思って記憶を手繰ると、あるVIPの名前に辿り着いた。
 驚いたことに、あれはティラーノ・グループ総帥、キーヨ・ティラーノその人だ。
 記憶が確かなら、既に50を過ぎているはずだが、見た目には30代後半の精力的な男にしか見えない。
 これが天下に最も近いといわれる男のオーラなのか。

 大会スポンサーの登場というサプライズに、スタンドの観衆は総立ちで歓声を送っている。
 僕から3列前の6番グリッドでは、コリーン嬢が愛車から身を乗り出すようにしてキーヨ氏に手を振っている。
 それに気付いたお父上も、顔を一層にやけさせて愛娘に手を振り返す。
 家庭円満をアピールする演出と言うより、本当に仲のいい親子なんだろう。
 キーヨ氏は隙のない身のこなしで都知事を貴賓席にエスコートすると、もう一度観衆に手を振ってから着席した。
 文句の付けようがない紳士っぷりである。
 ハンサムだから女にモテるし、スケベっぽいから男を敵にせずに済む。
 案外、この辺りの洗練度の差が、質実剛健をモットーとするミナモンテス家を凋落させた理由なのかもしれない。

「みんなぁ〜、楽しんでるぅ〜?」
 主催者の白河法子が観衆に向かって開会の言葉を述べ始めた。
 都のトップとは思えぬはっちゃけぶりであるが、タレント出身の彼女もまた民衆の扱いをよく心得ている1人だ。
 2人に共通しているのは、民衆が自分にどうあって欲しいと思っているのかをよく理解していることだろう。
 美人なのに気取らず、気さくでお洒落な知事は、今のところは都民の誇りなのだ。
「長い挨拶はヌキでイクわよ。人間が勝つかロボットが勝つか、誰よりも私が興奮してるんだもんっ」
 エロティシズム溢れる声色に、観衆は総立ちで拍手する。
「さあ、お願いっ。早くイッてぇ〜っ」
 ものの数秒の開会式が終わり、いよいよクリスマスツリーにレッドシグナルが灯る。
 同時に轟々というエンジンの音が響き始める。
 赤いランプが一つずつ灯っていき、やがてグリーンのランプに切り替わった。
 次の瞬間、第一回宮家島TTレースが開始された。

 僕はこれ以上は無いというタイミングで、ビアンカを発進させることに成功した。
 前列の11番と12番グリッドの間に機首をねじ込み、強引に抜きに掛かる。
 一気に5台を抜き去り、早くも10位に浮上する。
 しかし、ビアンカのエンジンはもたついて吹け上がらない。
 アッと言う間に背後から後続集団が接近してきた。
 まずい、アレに巻き込まれたら、トップを走るUMワークスに引き離されてしまう。

 と思った次の瞬間、シズカがキャノピーをスライドさせた。
 そして中腰になると、お尻をコクピットから突き出した。
 当然のこととして、スカートとペチコートが風に翻る。
 いきなり丸見えになったキュートなヒップに、11位以下の後続車はパニックに陥った。
 スピンに入る者あり、コースアウトする者あり。
 事情を知らない後方のドライバーが大混乱の中に突っ込んでいく。
 危うく集団に飲み込まれ掛けたビアンカは、アクシデントに乗じて第1コーナーへと加速していった。

 シズカは肩越しに振り返り、冷静な目で効果が充分なことを確認する。
 そして何事もなかったような顔でシートに腰を下ろすと、悠然とキャノピーを閉じた。
「これで……しばらくは……大丈夫……」
 恐ろしい女だ。
 シズカはただの白い布きれが秘めている絶大な破壊力を正しく理解しているのだ。
 しかも、それが女の尻に貼り付き、スカートに隠されることによって、本来の威力を倍加させることも。
 事故ったスケベ男どもに同情の余地はないが、アレだけの惨劇を引き起こしといて眉一つ動かさないシズカもどうかと思う。
 せめて薄笑いくらい浮かべて欲しい。
 ホント、絶対に敵に回してはいけないタイプの女だ。

 そうしている間に第1コーナーが近づいてきた。
 僕はエンジン回転を落とさないよう、パーシャル状態を保ったままアウト側からコーナーに突っ込む。
 基本遵守のアウト・イン・アウトのコースラインを描き、ビアンカの機首を出口へと導く。
 加速性能の悪い現状では、突っ込み重視のコーナリングを続けなくてはならない。
 一旦エンジン回転数を下げてしまえば、コーナー脱出時にスピードを回復できないのだ。

 続くS字コーナーをなるたけ直線的に最短コースで駆け抜け、立ち上がりで先行する1台をパスする。
 更にヘアピンの入り口で2台を抜き去る。
 これで7位に浮上だ。
 前方に赤いプースカが小さく見えてきたが、幾つコーナーを抜けてもなかなか距離を縮められない。
 コリーン嬢もなかなかやる。

 長いホームストレッチに入ると、コリーン嬢との差は見る見る開いていった。
 それどころか、さっき追い抜いたレオパルドとクリントンが背後から迫ってきている。
 残念だが、今のビアンカでは世界の一流どころには太刀打ちできない。

 頼む、シズカ。
 早くご機嫌を直してくれ。

 こうしている間にもビッグ・ベンが襲いかかってくるかもしれないのだ。

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