「お疲れ様でした!」
アキラとケイスケは仕事を終え、休憩所にいる残業組の面々にそう挨拶をして工場の外へと出た。
「今日は買い物をしてから帰らないと」
「あぁ」
「アキラは夕飯なに食べたい?」
「……なんでもいい」
そんな会話をしながら店への道を並んで歩き始める。
「なんか夕日見るの久しぶりな気がするなぁ」
工場は少し高台にあるため、水平線にちょうど夕日が沈んでいくのがよく見える。最近は残業続きで、帰る時間にはすっかり日が落ちていたせいか、ケイスケはそう言いながら道を少し外れると水平線の方を眺めた。
少ししても動きそうにないケイスケを見て、もう行くぞ。と声をかけようとしたアキラだったが、ケイスケのいる方に歩み寄ると、視界に飛び込んできた夕日に、軽く瞳を細めた。
波間も、空も、そして自分達も、見えるもの全てが夕焼けの朱に染まっている。それはあまりにも圧倒的で、言いたかったことも忘れて思わず見入ってしまう。
すると、そんなアキラの横顔を見たケイスケが、突然くすくすと笑い出す。
「……なんだよ」
「あ、ごめんごめん」
人の顔を見て笑い出したことに軽くむっとしながら言葉を返すと、自分のカバンを漁りながらケイスケがちょっと待ってて。と呟く。そして中からハンカチを取り出した。
「アキラ、顔に汚れが残ってる。はい、これ」
「……っ」
二人が働く工場の仕事は、その内容から帰る頃にはいつも油まみれになってしまう。一応出る時にはそれなりに気を使っているのだが、どうやら今日は拭いきれていなかったらしい。
それだっていきなり笑うことはないだろう。と思ったが、買い物に行かなくてはならないことを思い出し大人しくハンカチへと手を伸ばした。
「そこじゃなくて、こっち」
「お、いっ……ケイスケっ」
しばらく無造作にゴシゴシと頬を擦っていたアキラの手に、急にケイスケの手が重なってくる。突然触れ合った手に驚いて視線を向けると、どこかもどかしそうな表情が見えた。
「だって、あんまり擦ると赤くなるよ」
「それくらい別に平気だ」
「でも、なんかもったいない。――あ、もしかしてアキラ、工場の近くだから気にしてるとか?」
「な……っ」
なぜか返された言葉に頬に熱が集まった。それを払うように大きく首を振って反射的にケイスケを睨む。すると、アキラの反応に気がつかなかったらしく不思議そうな表情で首を傾げた。
この工場に転がり込んでまだ一カ月。仕事を覚えることに必死になっている中でも、他の作業員ともそれなりに話をするようになっていた。
もちろん今までなにをしていたかなどは誰も口にしない。これまでの情勢を考えれば当たり前だ。それが互いのためになるということもある。アキラやケイスケにとってもそれは助かることだった。
そのかわりに取り上げられる話題。それが困ったことにアキラとケイスケのことだ。
確かに工場の中で一番若いからからかいやすいのだろう。しかし、その時に仲がいいと言われたのがよっぽど嬉しいようで、ケイスケは最近所構わずひっついてくる。アキラとしてはそれが嫌なわけではないが、それをまた新たな話の種にされるのはあまり面白くない。
「……」
急に黙り込んだアキラを不思議そうに見つめながら、すぐそばでハンカチを持ったまま立ち尽くすケイスケを軽く見て、それから視線を地面に向けた。
「別に……そんなんじゃない」
「それならいいだろ。拭いても、ね?」
「……勝手にしろよ」
きっとこの調子で言い合っていても、いつか自分がおれることになるだろう。そう思って早々に反論することを諦めてケイスケに任せることにする。ぶっきらぼうに返した答えだったがケイスケはふっと笑みを浮かべて、少し開いた距離を縮め汚れを拭き始めた。
それから少しして、はい、落ちたよ。という言葉と共にケイスケが体を離した。ほんの少しだけ名残惜しそうに触れたままだった指が離れると、そこには集まっていた熱だけが微かに残った。
不意に鼓動が強まった気がして、慌てて視線を夕日へと向けた。水平線にかかっていないせいかまだ少し眩しかったが、目を凝らして見るとゆっくりと動いているのがわかる。
「……見てると、わかるもんなんだな」
「え?」
「夕日。こうやってずっと見てると、沈んでいくのがわかる」
「あ、うん。当たり前にあるものだから、こうして足を止めないと、気がつかないかもしれないけど。って……あれ?」
突然驚いたような声が聞こえ、それに驚きつつアキラが隣に視線を向けると、ケイスケは夕日を見たまま難しい表情で黙り込んでいた。
「ケイスケ? どこか痛むのか?」
「あ……、違うんだ。そうじゃなくて……」
再び訪れた沈黙に、もう一度声をかけるかと思うが、あまりにも表情が真剣だったため声が出てこない。
なにがあったんだ。
次の言葉を待つアキラの心が、小さくはあるが動揺に震える。
やはり体調が悪いのではないだろうか。
一度湧き出した不安は、ゆっくりだが確実に自分の心に広がっていて、待っている時間すらもどかしい。
「あ――っ、そっか……」
しばらくしてどこか苦しそうだった表情が、その言葉と共に優しい笑みに変わったのがわかった。さっきまでとの違いに言葉を発せないまま唖然としていると、ケイスケは勢いよくアキラの方へ顔を向けてくる。
「アキラ、俺」
ぶつかった視線にまた頬が熱くなった。しかし、なにがどうなったのかはさっぱりわからないままだ。
「……ケイスケ?」
「あのさ、アキラは覚えてる?」
唐突にふられた質問に、さっきまでの様子のことも含めてやはり訳がわからず、とうとう我慢できなくなってだからなんのことをだと問いかける。
「あ、ごめん。ちゃんと説明しないとわからないか。トシマから出て、二人で公園で話をした時のこと……なんだけど」
「公園で?」
返した言葉にケイスケが頷く。どこか戸惑ったままの思考で、言われた時の記憶を思い出そうと考えを辿らせた。
トシマから出て、公園で……ケイスケと。
忘れない。そう心に決めた通り、トシマでの出来事は昨日のことのように思い出せる。しかし、トシマを出てからはとにかく生きていくだけで精一杯だったためか、なかなか浮かんでこない。
それがわかったのか、ケイスケは軽く頷いて口を開いた。
「記憶のことだよ。孤児院の」
「……記憶」
そう呟いてすぐにハッと顔を上げた。
「お前が思い出そうとして、あの時は結局無理だったやつか?」
にっこりと笑いながら正解。とケイスケは言って、いつの間にか水平線に沈み始めていた夕日の方へと視線を向ける。
「思い出したら、アキラに聞いてほしいって言ったのも覚えてる?」
「あぁ。もしかして……思い出せたのか?」
「まだ少し曖昧な所もあるんだけど、どうして嬉しかったのかはちゃんと思い出せた」
そう言いながらも嬉しそうに頷いてみせたケイスケにつられて、思わず表情が緩んだ。
だってアキラとのことだから、忘れたままなんて嫌なんだ。
確かあの時ケイスケはそう言っていた。
あれから何度か二人でミカサや孤児院でのことを話したりもしたが、ある程度覚えているミカサでのことはともかく、孤児院での記憶はやはり靄がかかったようにどこか曖昧で、出てきたとしても写真のように場面がいくつか浮かんで出てくるのがほとんどだった。
操作された記憶。またその言葉が頭の中を過ぎる。
自分や他人に無関心だったあの頃の自分のことだ、例え記憶を操作されていなくてもその時のことを覚えてはいなかっただろう。しかし、ケイスケは違う。その記憶を嬉しかったことだと言っていた。だから、思い出せないと聞いたあの時はやり切れない気持ちと、怒りにも似た感情が湧いたのを覚えている。
それだけに今こうして嬉しそうな表情をしながら思い出せたと言ったケイスケを見ていると、まるで自分のことのように嬉しかった。そして、それがどんなことだったのか、聞いてみたいと思った。
そう考えながら見つめていた視線の先で、ケイスケは一度大きく深呼吸をする。そしてゆっくりとこっちを振り返り当たり前のようにぶつかった視線を逸らすことなく口を開いた。
「買い物に行くのは少し遅くなっちゃうけど……。アキラ、聞いてくれる?」
アキラが大きく頷きながらわかったと返事をすると、ありがとうと呟くようにケイスケは言って話し始めた。
後編へ
*あとがき*
二人の記憶話前編でした。
後編はケイスケ視点で思い出話。孤児院時代の二人も出てきたりします。
元となった話に出てくる空。それと今回の夕焼け空。昔と変わったアキラの気持ちなんかが、ちょっぴり伏線です。きっと(笑)
ここまで読んでくださってありがとうございました。
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