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『あなたの隣に霊は居る』
初出;「ザ・グレート・展開予測ショーPlus」様のコンテンツ「展開予測掲示板」(2008年10月)

あなたの隣に霊は居る(前編)
あなたの隣に霊は居る(後編)






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あなたの隣に霊は居る(前編)

 戦争なんて、歴史の教科書に出てくるだけだった。
 現代でも世界のどこかで起きていると知ってはいたが、 平和な日本とは関係ないことだと思っていた。

 そんな俺たちにとって衝撃的だったのが、湾岸戦争だ。
 テレビのニュースで伝えられる、リアルタイムの戦争。
 映像の中身が特殊なカメラでのミサイル発射シーンだったことも重なって、 「まるでテレビゲームのようだ!」と騒がれた。

 そして、それから数年後。
 今度はアシュタロス大戦が勃発した。
 アシュタロス戦役と呼ばれることもある、あの大事件だ。お役所による公式名称は『核ジャック事件』らしいが、それでは肝心の部分が含まれていないからな。
 そう、あの事件のメインの部分は、核ジャック云々じゃないんだ。むしろ、コスモなんとかって装置による魔物大量復活こそ、世間の大きな関心を集めていた。
 突然、近所に恐るべき悪魔が出てきたりしたわけだからね。
 それでも、直接の被害を受けたのは一部の人のみ。魔物発生地域――主に大都市――に住んでいなければ、アシュタロス大戦も、遠い世界の話だった。平和ボケした日本人の多くは、ただの野次馬と化していた。

 これまで書物でしか知らなかったような悪魔と、その世界では有名なんだろうけれど一般人には無名なゴーストスイーパーたちとの戦い。
 テレビのニュース映像で、そんな非現実的なバトルが延々流されたから、今度は「まるで特撮番組のようだ!」と騒がれた。

 ......俺が生きてきたのは、そういう時代だった。

 ところで、今、アシュタロス戦役について『メインの部分は、核ジャック云々じゃない』と言ってしまったが、もちろん、核で騒ぐ人達も皆無ではなかった。
 だけど「それは何とかなる」と思ってる人の方が多かった。
 今までだって、世界でたくさんの国が核を持っていたんだ。中には、危険思想の国だってある。それでも誰も核のスイッチは押さなかった。悪魔だって馬鹿じゃない。押さないはずだ。
 ......そう思ってたんだろう。
 ただし。
 俺は......ちょっと違う目で見ていた。
 「これで人類が滅びるなら、それもアリかもしれんな」と。




    あなたの隣に霊は居る(前編)




 深夜一時少し前。
 今頃、日本では昼の真っ最中のはずだが、この国では、もう真夜中。人々が寝静まった時間帯である。
 ラボに荷物を置いた俺は、鍵だけを持って、動物実験棟へと向かう。
 磁気カードで建物の扉を開けて、入り口の小ペースでマスクやゴム手袋、紙製のガウンやキャップ帽などを装備。さらに扉をくぐって、無人の廊下を進む。
 両横にズラリと並んだ動物実験ルーム。その全てのドアに、『BIOHAZARD』の文字と共に、そのためのマーク――テレビゲームで有名になったマーク――が書かれている。一つの丸と尖った三つの円弧とを組み合わせた形のマークだ。
 そして、幾つかのドアには、さらに別のマークも付けられていた。こちらは、三本の直線で均等に区切られたシンプルな円。ただし、笑っている幽霊の絵も下に加えられている。

(最近じゃ......猫も杓子も
 霊能遺伝子群の研究なんだよな)

 これを見るたびに、心の中で苦笑してしまう。
 昔は数えるほどしかなかったんだ。初めて見た時には、俺も純粋な好奇心で目を輝かせたくらいだった。
 ところが、今じゃ、どうだ。
 むしろ、ある部屋の方が多いような気がする。
 なにしろ......俺が使っている部屋にも、そのマークがあるもんな。

 カチッ。ギーッ......。

 持参した鍵でドアを開けて、俺は、実験室に入った。
 入るとすぐに、ムッとするようなケモノ臭が、マスク越しで鼻に届く。匂いのもとは、左側に並んだ小動物用のケージ。
 そして反対側の壁際には、安全キャビネットと呼ばれる筐体――ガラスとフィルターで囲まれた実験作業用の机――があり、そこで一人の男が作業をしていた。
 彼は、チラッと振り返り、俺に声をかける。

「Hi, Nori !(やあ、ノリ!)
 You came here so early !!(もう来たのかい!?)」

 彼は俺の同僚であり、俺と同じくアジア人。だが日本人ではないから、会話のための言語は英語となるし、また、名前の呼びかけも、この国の流儀でファーストネームを省略した形となっていた。

「You think "so early" ?(「早い」かい?)
 I don't think so.(そんなに早くないだろ。)
 How to say...(えーっと......)
 I'll wait here, (ここで待つつもりなんだ、)
 watching the mice.(ネズミの観察しながら。)
 I think it's better.(そのほうがいいと思ってさ。)」
「I see.(わかった。)
 I'm finishing soon.(こっちはもうすぐ終わるよ。)」

 お互い、発音も文法も、きれいな英語ではない。
 それでも意味は通じるし、いや、むしろ発音や文法に気を遣うよりも、思ったことをパッと口にした方がコミュニケーションとしては成立しやすい。
 これではドンドン英会話能力が低下していくと最初は心配したもんだが、今じゃ俺も気にしなくなった。
 言わば『俺英語』。どうせ日本で日本語会話する時だって、口語は『口癖』に溢れてるんだから、それと同じようなものさ。

「Well...(じゃあ......)
 See you !(またな!)」
「Bye !(バーイ!)」

 サンプル回収を終わらせた同僚が、氷箱に突き刺したサンプルチューブや、廃棄物の入った袋と共に、実験室から去っていった。
 今晩の彼の仕事は『十二時のサンプルの回収』で終わりである。『三時のサンプル』からは、俺の仕事なのだ。
 これで部屋に残されたのは、俺一人。
 いや......人間は『俺一人』だが、人間以外のものは、たくさんいる。

「......なあ?」

 俺は、カゴの中のネズミたちに向かって、日本語で話しかけた。


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「......次の回収時刻まで、
 まだ二時間以上ある。
 それまで、ゆっくり話でもしようや」

 もちろん、彼らに人間の言葉は通じない。
 だから、これは独り言のようなものだった。
 最近の俺にとって『日本語』は、『独り言』のための言語になっていた。

「せっかく今まで生き残ったのに、
 君たちの中の十五匹は......
 三時になったら殺されちゃうんだ。
 ......ごめんね」

 ネズミたちに対して、俺は、小さく頭を下げる。
 
「せめて......
 どういう実験に使われ、
 どういう処置をされ、
 どういう目的で殺されるか、
 ......それを説明するよ。
 長い話になるけどね......」


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 末は博士か大臣か。
 ......そんな言葉があるが、『博士』と『大臣』とは全然違うものだ。並べて語ってはいけないと思う。
 『大臣』は職業みたいなものだから、それだけで食べていける。でも『博士』なんて一種の呼称でしかない。医者の呼称としての『博士』は、まあ、食いっぱぐれることは少ないのかもしれないが、研究者の『博士』は、もう全然ダメだ。
 どこかの統計では、博士100人のうち数人以上が最終的には行方不明になるらしい。
 実際、日本で企業に就職しようとしたら、『博士』よりも『修士』のほうが有利な場合も多い。『博士』は専門的過ぎるとみなされるのだろう。『博士』は色々と偏っていると思われているのだろう。

 俺だって名目上は『農学博士』だけれど、農学全般に詳しいわけではない。研究対象がウイルスだったからウイルスのことしか知らないし、それも、自分の専門のウイルス――シベーラウイルス――の知識だけだ。
 有名なウイルスの中では、エボラやインフルエンザといったウイルスは生物学的にシベーラと近いから、研究の参考として論文なども結構チェックしている。だが、エイズウイルスやサーズウイルスなどは不勉強である。

 広く浅く、ではなく。
 広く深く、でもなく。
 俺は、狭く深く、というタイプの研究者だった。
 そして、シベーラは感染したら恐いウイルスなのに、今の日本には存在していない。だからシベーラの専門家では、日本で職を見つけることは難しい。
 それで、俺は、この国にやってきた。


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「......おっと、話が逸れてしまったね。
 俺の『自分語り』なんて意味ないよな。
 君たちには......
 君たちが注射されたシベーラについて
 聞かせてあげないとね......」

 俺は、無言のネズミたちに向かって、語り続ける......。


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 シベーラウイルスは、ヒトにもケモノにも感染するウイルスだ。

 神経細胞を好む性質があるので、感染すると脳へ向かい、そこで増殖する。だが脳内でパンパンに増えた後は口内へ移動し、唾液中に放出される。
 だから感染した動物が他者を噛んだり舐めたりすることで、ウイルスは次の動物へと移動できるわけだ。

 そして、最終的には人間に辿り着く。
 ただし、人間から人間への感染はしない。
 人間でも脳の中で増えるが、人間の脳細胞は、他の動物よりもデリケートらしい。このウイルスが増えると重度の脳炎が発症し、その人間は死に至る。ウイルスが口へと移行する時間的余裕はないし、だから他の人間や動物へも感染しないのだ。

 うん、発病したら100%死んでしまう、恐ろしいウイルスなんだ。
 ただし、『発病したら』であって、『感染したら』でないところが、このウイルスのポイント。
 基本的に普通の筋肉組織中では増えることは出来ず、ただそこを通り過ぎるだけのウイルスなので、ウイルスが脳に到達するまでは、病気の症状は表れないのさ。
 例えば、首を噛まれた場合にはウイルスがすぐに頭に達してしまうからアウトだが、足の先からウイルスが入ってきた場合は、脳に到達するまでに――発病するまでに――、かなりのタイムラグがある。だから、その間に発病を抑えれば、つまり入ってきたウイルスを殺してしまえば、セーフとなる。

 そして、そのために用いられているのが、ワクチンだった。
 ワクチンは、普通は予防目的で感染前に接種されるものだ。だがシベーラのように『感染後』の『発症』を抑えれば良いというのであれば、『感染後』でも有効なシロモノとなるのだった。


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「......もちろん既に
 シベーラのワクチンは存在している。
 でも質の良いワクチンは高価だから、
 先進国の人間向けにしか使われていない」

 シベーラのようにヒトにもケモノにも感染するウイルスは、経済や社会に余裕のある先進国よりも、動物を管轄する法律制度がしっかりしていない途上国のほうが蔓延しやすい。それでも......。

「発展途上国の人々には、
 昔風の粗悪な......
 副作用のあるワクチンが
 接種されているのが現状だ。
 ......だからシベーラの研究者は、
 コスト削減につながるような、
 新しいワクチンを開発しようとしている。
 ......君たちも、
 そうした研究のために犠牲になるんだぜ?」

 相変わらずネズミに語りかける俺。
 だが最初の頃は俺の方を向いていたネズミたちも、今では、全く俺を見ていなかった。
 いや、分かっている。最初から彼らは、俺の話を聞いていたわけじゃない。ただ好奇心や警戒心で、こっちを見ていただけなんだ。
 それでも、サンプル回収時間までの暇つぶしとして。
 俺は、話を続けるのだった。


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 ワクチンのコストダウンというのは、簡単なようで難しい。安全性と有効性とが、両立しにくいからだ。

 一般に使われているウイルスワクチンは、『不活化ワクチン』といって、言わばウイルスの死骸だ。
 ワクチンという言葉は時々『薬』と同義語のように使われる場合もあるが、専門家の目から見れば、ワクチンと薬とは全く別のものである。ワクチンそのものに病気を治したり、病原体をやっつけたりする力はない。
 ワクチンとは生体を刺激して、生体の免疫反応――体の中に入ってきた異物をやっつけようとする力――を利用するものなのだ。
 だから、生きているウイルスではなく、同じ形をした『死骸』でも良いのである。
 『死骸』ならば体の中で増えることはないし、ウイルス本来の活動はできないから、ウイルスそのものが悪さをすることはない。つまり『安全性』が高いわけだ。

 しかし、『体の中で増えない』ということは、『体の中に入ってきた異物』も増えないということだ。投与量が少なければ、異物をやっつけようとする力――生体の免疫反応――も弱くなってしまう。
 これでは『有効性』が低い。それをカバーするためには、たくさん接種しないといけない。もちろん、たくさん接種しても、『死骸』である以上『ウイルス本来の活動はできない』から、その意味では大丈夫なのだが、やはり人間に接種できる量には限界もある。それに、莫大な量のワクチンを製造するには、それだけ大きなコストがかかる。


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「つまり『不活化ワクチン』には、
 安全性が高いというメリットと
 有効性が低いというデメリットがある。
 ......と、ここまではOK?」

 俺が問いかけても、もちろん、ネズミたちは答えてくれなかった。
 ある者はエサをかじり、ある者は熟睡し。
 ともかく、俺への関心など、すっかりなくしているようだった。
 
「ま、いいか」

 それでも、俺は話を続ける。
 途中で止めてしまうのは、どうも性分に合わないから。


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 死骸をワクチンとして使う限り、コストの問題は解決できない。
 そう考えると、昔々に使われていたような『生ワクチン』――生きているウイルス――が再び脚光を浴びることになるのだ。
 ただし、かつて『生ワクチン』が平気で使われていたのは、その危険性がよくわかっていなかったからなんだ。
 『生ワクチン』は生きているウイルスだから、ウイルスそのものの毒性が残っている。もちろん、古典的な方法でウイルスの毒性を少しは下げることも出来るけれど、それで安全なレベルまで下げられるウイルスもあれば、ダメなウイルスもある。
 シベーラは、後者だ。シベーラの古典的『生ワクチン』は、人間に接種するにしては、まだまだ『安全性』が低いと現代では知られている。

 しかし幸いなことに、現代の科学ではウイルスを人工的に改造することも可能になってきた。

 これは、ウイルスが非常に特殊な生物だからである。
 ウイルスは、ある意味では、『生物』の定義を満たしていないのだ。

 生物の定義にも色々あるが、一つの見方としては、単体で独立して存在すること・同じ形態の子孫を作れることが重視されている。
 我々は同じ種族である親から生まれるし、他者と融合することのない『自己』を維持している。食事などでエネルギーを摂取しなければ生きられないが、これだって生物である証。そうして得たエネルギーを活用する器官は体内にあるわけで、これは生物学的には『独立している』とみなされるのだ。
 しかし、ウイルスは違う。
 遺伝子――遺伝情報の書かれた設計図――はあるし、外膜や構造タンパク質――他者と自己との境界となるパーツ――はあるし、複製機構――設計図をコピーする装置――はある。
 だが、設計図から生物としての部品を作る装置は保持していないから、生き続けることも子孫を作ることも出来やしない。それら必須の装置を借りるために、他の生物に感染しなければならないのだ。


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「......だからウイルスっていうのは
 バクテリアとは全く違うものなんだぜ?
 ウイルスは......言わば
 設計図とコピー装置のみを入れたカプセル。
 しかも、その『コピー装置』すら
 宿主動物から借りる場合がある。
 カプセルの中身は、
 ほとんどが『設計図』なのさ」

 だからこそ。
 カプセルを少しだけ開けて、中の『設計図』の一部を人為的に書き換えることも。
 その『設計図』の余白に、適当な別の遺伝子の設計図を書き加えることも。
 科学の発達した現代ならば、不可能ではないのだ。

「そんなわけで、そうした技術が
 新たなワクチン開発にも
 利用されているわけなんだ。
 人工的に遺伝子に手を加えて
 改造したウイルスをワクチンにしよう、
 ......ってことさ」

 ここで俺は、いったん言葉を区切って、ドアの方に目を向けた。
 部屋の中からは見えないが、廊下側には、あの『笑う幽霊の絵を伴ったマーク』が貼ってある。
 それを頭に思い浮かべていたのだ。

「......そして、ここで、例の
 『霊能遺伝子群』が関係してくるわけだ」


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 霊能遺伝子群。
 おカタい日本では、そういう名称になっているが、俺が今いる国では――仕事にも遊び心を忘れないこの国では――、Ghost Sweeper Genes(GSG)と呼ばれている。

 「人間の脳の中には、霊能に関する遺伝子がある」と報告されたのは、ちょうど、あの『アシュタロス大戦』の少し後だったと思う。
 今の時代、得体の知れない新規遺伝子など次々に発見されているし、いちいちニュースにもならないのだが、GSGは別だった。
 マスコミが、ワッと飛びついたのだ。

 昔は幽霊を信じない人々もいたようだが、もはや、幽霊の存在そのものを否定する者は少ない御時世だ。
 幽霊と戦うゴーストスイーパーも、『ウィークエンダー』のネタになるくらい、特殊ではあるがハッキリと認められた一流の職業だ。
 それでも、幽霊や霊障といったものは依然として『よくわからないもの』であり、だから人々は高い報酬を払ってでもゴーストスイーパーを雇ったりするのだろう。
 でも『霊能力』が科学的に解明されるとなれば、状況は一変する。もう『よくわからないもの』ではなくなるのだ。
 もしかすると、一般人の潜在的な霊能力を目覚めさせることも可能になるかもしれない。誰もが霊能力を使える時代が来るかもしれない。

 ......そんな期待感から、マスコミは、霊能遺伝子群の発見というニュースを派手に扱ったようだ。
 だが、しかし。
 世間の人々は、『遺伝子の発見』という言葉の意味を勘違いしている。
 遺伝子の配列を読むことと、遺伝子の機能を知ることとは、全く別物なのだ。

 遺伝子は、設計図に過ぎない。
 遺伝子の発見とは、あくまでも、隠されていた設計図の発見に過ぎない。

 それを組み立てたら、どういうものが出来るのか?
 その完成品には、どんな役割があるのか?
 
 ......それが判明するのは、まだまだ遥か先のことなのだ。
 ほら、埋蔵金の地図を見つけても、埋蔵金そのものを掘り出したことにはならないだろう? その発掘過程だけで幾つものテレビ番組が出来るくらい、時間かかるだろう?
 それと似たようなものだ。
 だが、それでも。
 あたかも『霊能力の科学的解明』が間近であるかのような錯覚を起こし。
 お役所などからの研究費の多くが、これに回されることになる。
 だから。
 多くの生物系の研究者が、研究費稼ぎのために、霊能遺伝子の研究に飛びついた。


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「......でも最初の頃は
 俺には全く関係ない話だった。
 神経細胞学や神経病理学の分野は
 大騒ぎだったらしいけど......
 ウイルス学者の俺にとっては、
 対岸の火事みたいなもんだった」

 ふと、ネズミたちの一匹と目があった。
 もちろん、俺の言葉が理解できるわけじゃないだろう。だが、俺がずっとしゃべっているから騒々しくて、それで、こちらを向いたのかもしれない。

(すまんな。
 この話、もう少しで終わるから)

 と心の中で告げてから。
 俺は再び語り始めた。

「霊能遺伝子群......GSGの研究も
 当時は今ほど活発じゃなかったよ。
 人間だけしか持っていないと思われていたし、
 さすがに人体実験なんて出来ないからね。
 研究自体が難しかったんだ。
 でも......似たような遺伝子が
 動物の脳内にもあると知られてから、
 研究人口が一気に増大したのさ」


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 Ghost Sweeper Gene Homologues(GSGH)。
 人間でいうところの霊能遺伝子群に相当するもの。
 それが他の動物にも存在すると同定されたのは、ヒト霊能遺伝子群の発見の二、三年後だった。

 これはマスコミ的には大ニュースではなかったが、専門家にとっては大きな意味をもっていた。
 特に、ネズミも保持しているとわかって、この分野の研究は活発になったんだ。これで動物実験も容易になったからね。

 そして。
 俺たちも、この分野に首を突っ込み始めた。
 そのキッカケとなったのは、ラボが所持していた実験データだ。

 うちのラボは、もちろん、シベーラウイルスの研究をしているところだ。
 毒性の弱いシベーラウイルスと強いシベーラウイルスとの比較がメインの仕事であり、「弱毒シベーラに感染した動物の脳内では免疫系の遺伝子の幾つかが活発になるが、強毒シベーラに感染した動物の脳内では同じ遺伝子が抑制されている」というデータを報告したことがあった。

 さっき説明したように『免疫』というのは『異物』であるウイルスに抵抗する力なのだから、そりゃあウイルスとしては、その『免疫』(つまり『抵抗する力』)に抵抗したいわけで。
 その『免疫』に打ち勝ってこそ、ウイルスも生き残ることが出来るわけで。
 『生き残る』からこそ、結果的に、ウイルスが動物に与える悪影響も出てきてしまうわけで。

 ......そう考えると、上記の報告は、概念そのものとしては当然のこと。新しい学説でも何でもない。ただ、データとして裏付けたこと、そうした『免疫系の遺伝子の幾つか』を特定したことに意味があった。
 そして。
 この報告を基盤としたワクチン開発こそが、俺の研究テーマに設定されていた。

 免疫系遺伝子が抑制されてしまうなら、それはワクチンの効果を下げることになる。
 では、その『抑制されてしまう免疫系遺伝子』を強制的に活性化させることは出来ないだろうか?

 ......その方法として俺たちが考えたのが「その遺伝子を組み込んだシベーラウイルスを作ってしまおう」ということだった。
 シベーラウイルスの『設計図』に、人工的に『その遺伝子の設計図』を書き加えてしまえばいいのである。
 この『改造シベーラウイルス』をワクチンとして感染させれば、シベーラウイルスが増えるべきところで一緒に『抑制されてしまう免疫系遺伝子』も増えることになるから、後で自然界の強毒シベーラに感染しても、通常よりも高い抵抗力を発揮することが出来る......。


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「......というアイデアだったんだ。
 だから俺たちの『改造シベーラウイルス』は
 ウイルスワクチンでもあるんだけど、
 同時にウイルスベクターとしての役割も......」

 俺は、ふと言葉を止めた。
 さっきのネズミ――俺の方を見ていたネズミ――が、不思議そうな顔をしている。
 いや、ネズミの表情なんて俺にはよく分からないけれど、でも何となく、そんな気がしたんだ。

「......ああ、ごめん、ごめん。
 突然『ウイルスベクター』なんて言っても
 わからないよな、ちゃんと説明しないと。
 『ウイルスベクター』というのは......」

 さきほど説明したように、ウイルスとは『遺伝子という設計図を詰めたカプセル』であり、この設計図を書き換える技術を、既に人類は手に入れている。
 だから、本来のウイルス遺伝子とは違う遺伝子を入れておけば『感染』という形で人体に運び込むことが出来るし、ウイルス増殖を模した形で目的の遺伝子を増やすことも出来る。
 
「......だから『ウイルスベクター』は
 遺伝子治療でも使われる概念なんだぜ。
 ......って
 新しい専門用語を出したら混乱するのであれば、
 『薬のカプセル』を想像してもらったらいいかな?
 この場合『カプセル』がウイルス自体で、
 カプセルの中身である『薬』が遺伝子なんだけど」

 ネズミは、相変わらず同じ顔つきをしている。
 
「......?
 ああ、そうか。
 霊能遺伝子の話から......GSGHから
 話題が逸れたような気がするのかい?
 うん、確かに違う話になっちゃってるね。
 でも、これも必要な説明だったから......。
 まあ、それも終わったから、
 それじゃ霊能遺伝子の話に戻すよ......」


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 『抑制されてしまう免疫系遺伝子』を組み込んだ『改造シベーラウイルス』は、ちゃんと作り出すことが出来た。
 もちろん『免疫系遺伝子』が入っている以上、その『免疫』効果で改造ウイルス自体の増殖が抑えられてしまう場合もあって、バランス調整は難しい。企画した幾つかのウイルスのうち、使えなかったものもあったが、全体としては、まあ、それなりの成果を得られた。

 そして、そんな仕事をやっている過程で。
 俺は時々、自分の研究の論理的背景となる古いデータを、ボーッと眺めていた。すると、ちょっと面白いことに気がついた。

 ......さっき述べたように、俺のいるラボでは、「弱毒シベーラに感染した動物の脳内では免疫系の遺伝子の幾つかが活発になるが、強毒シベーラに感染した動物の脳内では同じ遺伝子が抑制されている」というデータを報告している。
 だが、これは、最初から『免疫系』にターゲットを絞って得られたデータではない。感染した動物の遺伝子を丸ごと調べた中で、免疫関連のデータが興味深かったから、裏打ちする実験などを加えて『一つの論文』としてまとめたものだった。

 だから。
 免疫系以外の遺伝子の変化も、未発表データとしてラボには残っている。
 そのうちの幾つかの遺伝子のデータは、もちろん、他の論文で使うことになっていた。だが、感染によって変動する遺伝子の中には、『何の遺伝子だか全く分からないもの』もあり、それらは、それ以上実験しようがないから、お蔵入りとなっていた。

 ところが、『当時は何の遺伝子だか全く分からなかったもの』を今、見直してみると......。その中に、霊能遺伝子もあったのだ!


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「......というわけで、
 ここでシベーラウイルスの話と
 霊能遺伝子の話が結びつくわけだ」

 聴衆であるネズミに対して、ニッコリ笑いかける俺。
 でも、ネズミは何も態度を変えてくれない。

(もしも俺が『教育番組のお姉さん』で
 このネズミが『トンマな人形』なら、
 ここでグッドなリアクションを
 見せてくれるんだろうけどなあ......)

 と、少し残念に思いつつ。
 俺は話を続ける。


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 マウス霊能遺伝子ホモログNo.9、通称 mGSGH9。
 これは、ヒト霊能遺伝子『GSG9』に相当する遺伝子であるが、GSG9 は、霊能力を活性化する方向に働くらしいと示唆されている遺伝子だ。
 この mGSGH9 が、強毒シベーラに感染したネズミの脳内では減少し、弱毒シベーラに感染すると大きくアップするのだ。
 つまり、免疫系の遺伝子と同じような挙動を示すのである。
 そこで、俺たちは、以下のような仮説を考えてみた。

 ウイルス感染で脳がやられることは、感染したヒトや動物にとっては、大きな危機だ。
 命が脅かされるほどの有事ということで、日頃は眠っていた力――霊能力――まで使おうとするのかもしれない。

 ......という可能性である。
 そうは言っても「霊能力を発揮してウイルスをやっつけるんだ!」では、あまりにも漫画的な話なので、そこまで極端なストーリーを想定しているわけではない。
 単に何らかの補佐的な役割を果たしているだけだろう。実は mGSGH9 は霊能力に関わるだけではなく、免疫系を強める機能があるんじゃないかと、俺たちは思っていた。

 まあ、mGSGH9 が直接働くのであれ、免疫系を補助するのであれ。
 これを強制的に活性化させれば、シベーラウイルスに抵抗する力は上がりそうだ。
 実験手法としては、『抑制されてしまう免疫系遺伝子』の場合と同様、シベーラウイルスに組み込んでしまえばいい。

 もちろん、「もしかすると mGSGH9 の変動には、意味がないのかもしれない」という心配もあった。
 たまたま免疫系遺伝子の制御とスイッチが同じであり、たまたま mGSGH9 も一緒になって変動しているだけかもしれない。mGSGH9 が増えようが減ろうが、ウイルス感染への抵抗力には影響しないかもしれない。
 ......という否定的可能性も、念頭には入れていたのだ。

 だが、それでも、mGSGH9 を組み込んだウイルスを作製する価値はあると思った。
 実際にウイルスを作って、ネズミに注射してやれば、病毒性の変化も、ワクチンとしての効果も、簡単に調べられるからだ。

 それに、ワクチン開発とは別の意味で、『mGSGH9 を組み込んだウイルス』には夢がある。
 ウイルスベクターとしての側面から見た場合の話だ。

 将来もしもシベーラの毒性を何とかゼロに近づけることが出来たら、シベーラの『神経細胞を好む性質』は、ウイルスベクターとして有効活用できる。脳に遺伝子を運ぶツールとして、シベーラを使えるわけだ。
 もちろん遺伝子治療としても利用できるわけだが、霊能遺伝子を組み込んだシベーラウイルスがあれば、『治療』とは別の効果も期待できる。
 霊能遺伝子は、霊能力など持たない普通の人間にもあるけれど、普通はそれが十分働いていないのだろう。しかし人工的に活性化させることで、普通の人々も霊能力を使えるようになるかもしれないのだ!

 ......そんなことが科学的に可能だとしても、どうせ実現するのは、次世代あるいは次々世代の話だと思う。それでも、その礎となるのだと考えれば、なんだかワクワクしてくるのだ。
 そして、そうした『将来』を空想すると、ついつい、あのアシュタロス大戦のニュース映像を思い出してしまう。

 あのときテレビの画面の中では、コスモなんとかって装置で再生された魔物たちと、複数のゴーストスイーパーたちが戦っていた。
 それは、まるで再生怪人軍団と戦う歴代ヒーローのようだった。
 中でも、俺の目に焼き付いていたのは、二人の女性ゴーストスイーパーの姿。一人はガングロ、もう一人はオカッパ頭で、その意味ではどっちも外見的には俺の好みじゃないのに、でも「美しい」と思ってしまった。

 そう。
 そんな美しいスーパーヒーローに......誰もが、なれるかもしれないのだ!

 ある意味では、これは、霊能遺伝子群が発見された頃にマスコミが騒いでいたのと同じかもしれない。
 そう考えると、ちょっと素人チックで恥ずかしい気もするが、でも、俺は、それが間近な話ではないという現実も理解している。

 そんなわけで......。
 遥か彼方の光に向けて。
 まだハッキリとは見えないゴールへ通じる、第一歩として。
 俺は、改造シベーラウイルス『シベーラ-mGSGH9』を作り出したんだ。


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「......というわけで、君たちは、
 その『シベーラ-mGSGH9』を
 接種されたわけだ」

 俺は、フーッと溜め息をついた。
 長い話だったが、ようやく、『今ここ』というところに辿り着いたからだ。

「まあ、厳密に言うと
 君たち全員が同じウイルス
 ......ってわけじゃないんだけどね」

 ネズミたちは、全部で五つのグループに分類されている。
 まず、最初の二つのグループには、二種類の普通のシベーラウイルス――強毒型と弱毒型――をそれぞれ感染させている。普通のウイルス感染も用意しておかないと、比較できないからだ。
 そして、次の二つがメインとなる。『強毒シベーラ-mGSGH9』と『弱毒シベーラ-mGSGH9』のグループだ。
 最後に、感染そのものの対照として、ウイルスではなく同量の生理食塩水を注射したグループも準備してある。

「......これら五つのグループから
 それぞれ三匹ずつ、つまり全部で十五匹を
 三時間おきに実験サンプルとして回収する。
 ......これが、今やっている仕事だ」

 『実験サンプル』という表現をしてしまうと、やや無機的な感じがする。
 だが、違う。
 俺が扱ってるのは、生物だ。
 脳内のウイルス分布位置の相違、脳内のウイルス増殖量の変化、脳内の mGSGH9 の上昇の確認、脳内の免疫遺伝子などへの影響......。
 病原性やワクチン効能を調べる前段階として、そうしたものをチェックするためには、当然、『脳』が必要となってくるわけだ。

「......というわけで、すまんな」

 俺は、椅子から立ち上がった。
 話も一区切りついたし、ちょうど時間も三時になったのだ。
 サンプル回収の時間――つまりネズミたちの『脳』を取り出す時間である。


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『キ......キキキ......』 

 俺の手の中で、一匹のネズミが可愛らしい声で鳴いていた。
 ああ、ネズミ可愛いよ、ネズミ。
 世の中には『ネズミ色』という言葉があるが、それはラット(ドブネズミ)のための言葉だろう。
 でも俺が相手しているのは、マウス(ハツカネズミ)だ。それも、実験用マウスとして一般的に使われているアルビノマウス。だから、彼らは雪のように純白の毛並みを持っていた。
 しかも、マウスはラットよりも小さい。まさに『小動物』だ。小さいってことも、彼らの可愛らしさを増大させていると思う。
 そんな愛くるしいネズミに麻酔薬を嗅がせて、ネズミが意識を失ってから......。

 チョキン。

 俺は、右手で持ったハサミで、ネズミの首を斬り落とした。

 ドロォッ......ポタッ。

 切断面から、血が滴り落ちる。
 安全キャビネットの中にはペーパーシートを敷いてあるが、それでも、あまり汚したくはない。
 俺は、首から先を失ったネズミの体を、傍らのビニールバッグの中に放り込んだ。
 さっきまで生きていたそれは、もはや物言わぬ死体。

「いつのまにか......こんなことも
 平気になっちゃったんだよなあ」

 ふと自嘲する俺。
 昔、大学の実験授業でネズミを扱ったときは、ネズミに注射することすら苦手だった。
 ちょうど当時つきあっていた女の子が『小動物』のようにフワッとした雰囲気だったこともあって、ネズミを見るたびに可愛いカノジョのことを思い出してしまい、注射という行為すら痛々しく感じたものだ。
 その後、卒業研究や大学院でウイルスの研究をするようになってからは、ウイルス自体の構造や機能を調べることが研究テーマだったので、動物に触れる機会はなかった。
 それなのに。
 この国に来て、ワクチン開発ということで動物実験もするようになったから......。

「見ようによっては、これって
 ネズミの大量虐殺にほかならない......」

 これが、今の俺の仕事。
 心を痛めることもなく、俺は、斬り落としたネズミの頭部にハサミを入れる。

 ジョキッ。

 首の断面から顔の先端へとハサミを進めていく。
 頭の上側にタテに切れ目を入れるのだ。

 ジョキッ、ジョキ......。

 この作業を初めてした時には、ネズミの頭蓋骨が柔らかいことに驚いたものだ。ハサミで切れてしまうほど脆いことに驚いたのだ。
 まるでエビの殻のような感じ。俺は、そう思ったのだった。
 そして、まさにエビやカニの殻を剥いて中の身肉を取り出すかのように。

 メリッ、メリリッ。

 頭蓋骨を左右に捲って、俺は、中の『脳』を取り出した。

「食材に喩えるのは不謹慎かもしれない。
 でも......そうやって現実逃避するからこそ、
 可愛いネズミに残酷な仕打ちをすることが、
 可能になっているのかもしれない」

 誰も聞いてはいないのに。
 言い訳じみた言葉を口にして。

 ポンッ......ッ。

 俺は、大事な『脳』をサンプルチューブの中にしまった。
 それを氷箱に突き刺してから、『脳』を抜かれたネズミの頭を、廃棄用ビニールバッグの中に入れる。

「ふうっ......」

 これで、ようやく一匹目が終了。
 同じ作業を、あと十四回、繰り返す。
 それが、今この瞬間の俺の仕事だった。


___________


 口をだらしなく開けたネズミの頭。
 いや、口だけではない。本来は開かないはずの頭の上まで強引に開封された状態だ。
 生きている時は鮮やかな朱色だった瞳も、光を失って、どす黒くなっていた。それは生物学的には血液の消失を示しているのだが、まるで命の輝きの喪失のようにも思えてしまう。

 ドス......ッ。

 最後の十五匹目のそれを、俺は、ビニールバッグの中に入れた。

「十五のボディと十五のヘッド......」

 もう袋もいっぱいだった。
 その口を閉じようと思って、俺が紙テープに手をのばした時。

「......えっ!?」

 紙テープがスーッと横に動く。
 実験用の安全キャビネットの中であり、当然、平らな場所に置いてあったんだ。滑ったりするはずもないのだが......。
 しかも、異常事態はこれで終わりではなかった。

 カタッ......ガタァッ!

 今度は、安全キャビネット全体と、俺が座っている椅子が動いたのだ。

「地震......?」

 だが、振り返ってネズミたちの入っているケージを見てみたが、それが揺れている様子はない。
 地球物理学は俺の専門じゃないが、それでも、素人にだってわかる。
 俺のいるところだけピンポイントで発生するなんて、そんな地震ありえない!
 そして、混乱する俺に追いうちをかけるかのように。

 スー......ッ。

 今度は、ネズミを切るのに使っていたハサミが動き始めた。
 それも......俺の方に向かって!

「ポ......ポルターガイスト......」

 そんな単語が、俺の頭に浮かんでくる。
 だが『ポルターガイスト』なんて、まだ幽霊の存在を疑う人が多かった頃の作り話、しょせんはフィクションにすぎないホラー映画だと俺は思っていた。
 それに、そもそも、ここは動物実験棟。人間が死ぬような場所ではないのだから、幽霊なんて......。

「......!」

 そこまで考えたところで、一つの可能性の思い当たった。
 だから、ゆっくりと首を回して、俺は、ビニールバッグの中を覗き込む。
 そして。

「......!!」

 俺は、それと目が合ってしまった。
 袋の中では......。
 三十の瞳が、赤く光って――失ったはずの輝きを取り戻して――、俺を睨んでいたのだ。


(後編に続く)

     
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____
あなたの隣に霊は居る(後編)

 研究職なんて、いつ食いっぱぐれるか分からない職業だ。
 企業に入社できたり、大きな大学の先生になれた場合は、将来も安泰かもしれない。だが、研究機関や小さな大学のラボの研究員などは、研究費が無くなった時点でスパッと解雇される立場である。

 それでも、俺は研究を続けている。
 最初は、「歴史に名が残るような大きな発見をしてやろう」という野心もあった。
 いつしか、そんな意欲も失って、「どんな論文でも、発表すれば同じ分野の研究者には読んでもらえる。彼らの記憶には名前が残る。それでいいや」という程度に変わっていた。
 ただし、この時点では、まだ『名前を残す』ことには執着していた。どうせ俺は結婚せずに一生を終える――子孫を残すことはない――と思うので、代わりに研究業績を我が子のようなものと認識していたのだ。

 しかし、それも昔の話だ。今じゃ『名前を残したい』という気持ちすら無くなってしまった。
 人間の歴史なんて、地球の長い生物の歴史から見れば、ほんの一瞬。その中で『名前を残す』ことに、どんな意味があろうか。
 もう俺個人の人生の先も見えたような気がして、「いつ死んでもいいや」と感じていた。「いつ人類全体が滅んでも構わない」とすら考えていた。

 それなのに......。
 
 今この瞬間。
 俺は、逃げ回っている。
 ネズミの幽霊の大群に追われて、必死に逃げている。

 初めて感じる、死の恐怖。
 平和な日常の中では感じることがなかった、死の恐怖。

 もう、日頃の厭世観など吹き飛んで。
 ただ、「死にたくない」という一心で。

 動物実験棟の廊下を、俺は走っていた。




    あなたの隣に霊は居る(後編)




「ハッ......ハッ......」

 息を切らすという言葉は、こういう状態を指し示すのだろう。

 そんなことを考えながら、俺は走っていた。
 余裕がない状況なのに――いや余裕がない状況だからこそであろうか――、どうでもいいことが頭に浮かんでくるのだった。

「ハッハッ......ハッ......」

 俺が今、息苦しい理由の一つは、口と鼻とを覆っているマスクだ。
 本当ならば実験ルームから出る際に脱ぎ捨てて、室内のゴミ箱に入れなきゃいけないのだが。
 マスクもガウンもヘアーキャップも、まだ装着したままになっていた。
 ちゃんと外したのは、血に汚れたゴム手袋のみ。

 そんな状態で、俺は走っていた。
 そう、脱がなきゃいけない物も脱げないほど、俺は余裕がなかったんだ。
 なにしろ、俺を追いかけてるのは、よくわからないもの......幽霊なのだから。

 ゾクッ。

 首筋に不快な感覚を覚えて、俺は振り返った。
 ユラユラと半透明で、視覚的には見えにくいのに、でも圧倒的な存在感。
 ネズミたちの霊だ。
 それが、もう、すぐ背後に迫っていたのだ......!

「ぎゃあーッ!!」

 悲鳴と同時に、俺は加速する。
 今までだって最大限の速度で走っていたはずなのに、なぜか、俺はスピードを上げることが出来たのだった。


___________


 ズンッ!!

 風もないのに、強風に背中を押されるような感じがする。
 これがいわゆる『霊圧』とか『霊的プレッシャー』といったものなのだろう。

(......って、新しく何かを
 実感できるのは嬉しいけど。
 でも......
 そんな場合じゃないんだよ、今は!)

 心の中で自分にツッコミを入れながら、俺は、出口を目指して走っていた。
 動物実験棟から出たところで、それだけで助かるというわけではない。それは頭では理解しているが、もう理屈云々ではなかったんだ。
 逃げなかったら、無人の廊下でネズミの悪霊の群れに襲われて死ぬだけだ。そんな最期はゴメンだから、俺は、走る。

(あと十メートル......)

 ドアまでの距離なんて目測できやしないが、自分に言い聞かせるために、適当な数値を挙げてみた。

(あと......五メートル......!)

 これが寝ている間に見ている夢ならば、走っても走っても前へ進まないなんてこともあるかもしれない。
 でも、これは夢や幻ではない。悪夢のような現実。
 出口との距離は、少しずつ縮まっていた。
 ......悪霊の手に撫でられるような感覚を、時々、背中に感じながらも。


___________


 そして、ついに。

「......やたっ!」

 精一杯のばした手が、ドアノブに届きそうになった時。

 バンッ!!

 俺が開けるまでもなく、扉は開いた。


___________


「霊能ウイルスの研究を
 しているアラキさんね?
 ......話は聞いているわ」

 そこに立っていたのは、まさに救いの女神だった。救いの女神と、その従者だった。
 いや、実際には『女神』なんかじゃなくて、『人間』なのだろう。
 でも、彼女――ドアを開けた二人組のうちの女性の方――には、独特の神々しいオーラがあったのだ。その威圧感は霊にも通用するようで、俺だけでなく、俺の背後の悪霊団も動きを止めていた。

「『話は聞いてる』だけじゃなくて
 お金も、もうキチッともらっている。
 美神さんとしては、それが一番大事......」

 傍らの男――救いの女神の従者――が、場違いな軽い口調でつぶやく。
 それにゲンコツでツッコミを入れてから、女性が、名乗りを上げた。彼女は、俺の後ろの幽霊たちを見据えている。

「人工的に霊能力を強化されたせいで
 こんなになっちゃったんだろうけど......。
 でも放っておくわけにはいかないのよ!
 このゴーストスイーパー美神令子が
 ......極楽へ行かせてやるわっ!!」


___________


 キンッ!

 彼女の手の中で、細い棒状の武器――後で知ったが神通棍という名称らしい――が、適度な長さにのびた。
 まるで、それが戦闘開始の合図であったかのように。

『キイッ!!』

 ネズミの幽霊たちが、俺を追い越して、彼女――美神と名乗った女性――に襲いかかる。
 だが、悪霊たちの敵は、美神一人ではなかった。

「ほら、横島クンも!」
「ういっス......!」

 傍らの男――横島と呼ばれた男――も、霊と戦う武器を手にしていたのだ。
 それは、生身の腕に直接つながっているようにも見える、光の剣。後で聞いた話によると、霊波刀という名称のシロモノだった。

「えいっ!」
「うりゃうりゃーッ!」
『ギィ......ギャァッ!?』

 二人のゴーストスイーパーと悪霊たちとの戦い。
 もはや存在も無視されている俺は、目の前で繰り広げられるバトルを、一人の野次馬として傍観するのであった。


___________


 美神という女性は、ひと昔前に流行したゴージャスなボディコン姿で、一方、横島という男は、いかにも安そうなジーンズの上下を着ている。
 二人の外見から、俺は、横島は美神の弟子にすぎない――たいした戦力にならない――という印象を持ってしまったのだが、いやいやどうして。
 横島は、美神に勝るとも劣らないくらい、強かった。

「おーじょーせいやあっ!」

 彼が霊波刀を振るうたびに。
 一つ、また一つ。
 ネズミの悪霊は、その数を減らしていく。
 いや、それだけではない。

 ボシュッ......!

 横島は、光る小さな玉を投げつけて悪霊の群れを一掃するなんて芸当まで、見せてくれたのだ。
 だが、しかし。

「あとからあとから、まったく......」
「きりがないっスね」

 一団が全滅しても、どこからか別のネズミの霊が出現。また悪霊軍団を形成してしまうのだった。

「......こりゃあ
 ネクロマンサーの笛が必要っスよ!?」
「そうね、おキヌちゃんを
 連れてくるべきだったわ。
 おキヌちゃんが霊団に追われた時だって
 それが決め手になったんだし......」

 戦いながらも、二人は言葉を交わしている。
 いや、それだけではない。時々、俺の方に向かってくる幽霊もいるのだが、横島が霊波刀を伸ばして、やっつけてくれていた。

「......おキヌちゃんの事件よりも
 犬の事件の方を思い出しますね、俺は。
 あれも相手がネズミだったから」
「犬の事件......?
 ああ、マーロウのことね。
 そうか、横島クンなんて
 あのネズミに操られたんだから
 ......イヤな思い出よね」
「そうっスよ。
 あいつネクロマンサーのくせに、
 生きている俺のことを......」

 どうやら、昔話をしているようだ。
 何とも余裕な二人である。
 ......と思ったのだが、これはこれで、大きな意味があったらしい。
 美神が、何かに気付いたような顔になったのだ。ハッとした表情のまま、彼女は、俺の方を向く。

「アラキさん......あんた、
 霊能ウイルスを作ってたのよね!?」

 さっきも美神は『霊能ウイルス』という言葉を使っていたが、霊能遺伝子を組み込んだ改造ウイルスを意味しているつもりなのだろう。
 だから、俺は無言で頷いた。

「......で、それを
 ネズミに注射したんでしょう?」

 俺は、再び頷く。

「そのネズミは、もう全部殺しちゃったの?」

 今度は、首を横に振る。

「......なるほどね。
 そのネズミたち、
 今どこにいるわけ?」

 俺は、少し前まで作業していた部屋を――ネズミと話をしていた部屋を――指さした。
 それを見て、美神が横島に目で合図する。

「横島クン?」
「そういうことっスか。
 ......わかりました!」

 どうやら、二人は目と目で通じ合う仲らしい。
 詳細を聞かずに、横島が、その実験ルームへ飛び込んでいく。

 カッ!! シュウゥ......。
 
 あの『光る玉』を使ったのだろう。
 何物をも浄化するかのような光が、廊下まで漏れてきた。
 同時に、俺たちの周囲の悪霊たちもスーッと消えていく。
 そして......。

「......もうOKっス!」

 ヒョイッと廊下に顔を出す横島。
 彼の表情を見るまでもなく。
 全て片付いたのだということが、俺にも理解できた。


___________


「......あちゃ〜〜」

 そんな言葉が、つい口から出てしまう。
 動物実験ルームに戻った俺の目に飛び込んできたのは、カゴの中のネズミたちの、死屍累々だったのだ。
 
「これ......全部あなたが?」

 と尋ねる俺に対して、誇らしげな態度で頷く横島。
 まだ俺がマスクもキャップ帽も付けたままなので、彼には、俺の表情が見えないのだろう。だから横島としては、元凶を倒したという意味で、良いことをしたつもりなのだ。
 だが、俺としては......。
 もちろん助かったという安堵はあったが、それだけではない。大きく落胆していた。実験が台無しになったからである。
 
(こいつらが......犯人だったわけか)

 ネズミたちの五つのグループのうち、生理食塩水や普通のシベーラウイルスを接種されたグループは無傷だった。
 一方、『強毒シベーラ-mGSGH9』と『弱毒シベーラ-mGSGH9』のグループは全滅しているのだ。みんな横島にやられてしまったらしい。
 死んでしまったネズミたちの中には、俺の話につきあってくれたネズミ――あのとき俺の方を見ていたネズミ――も含まれていた。

(そうか......)

 複雑な気持ちになる俺。
 そんな俺の肩を、誰かがポンと叩く。
 美神令子だ。
 彼女は、いつのまにか、俺のすぐ後ろに歩み寄っていたのだ。

「......そう落ち込むこともないわよ。
 命あってのモノダネなんだから。
 これに懲りたなら......もう
 こういう研究はやめることね」

 美神は、少し遠くを眺めるような目をしている。

「そりゃあ、あんたたちに
 悪気がないのはわかってるわ。
 茂流田や須狩とは違うんでしょうけど......」
「悪意がない方が、かえってタチが悪い。
 ......そんなケースもありますからね」

 と口を挟んだ横島に対して、フッと微笑んでから。
 美神は、再び俺の方を向いた。

「人間が霊能力の遺伝子を扱うなんて
 ......そんなの100年早いのよ!」

 何だか仰々しい言い方だが、そう言うだけの資格が美神にはあるのだった。
 霊能遺伝子関連の霊障が多発するようになってから、『これは現在の人間には過ぎたる技術』という判断で、神さまが直々に調査をしているらしい。
 そして美神の知り合いにも神族調査官がおり、そちらから依頼されて、ここへ来たのだ。未発表の俺たちの研究に関して美神が詳しく知っていたのも、『神の目』により見透かされた故だったのだ。

 ......だが、これらは全て、後になってから聞かされた話だ。
 当時の俺には、美神の発言の真意は分からなかった。
 それに、『100年早い』という言葉から、その場の話題は、もっとチンプンカンプンな方向に流れてしまっていた。

「むしろ......100年前に
 すでにカオスのじーさんが
 通り過ぎた道なんじゃないっスか?」
「そうねえ。
 カオスが研究を全部ちゃんと公表してたら、
 もっと科学も発達してたかもしれないわね」
「それが今じゃタダのボケ老人......。
 もう本人も覚えてないことだらけっスからね」

 もはや気楽な雑談タイムなのだ。
 それだけは俺にも理解できた。
 フッと肩の力が抜ける。
 そして、俺は気が付いた。

(俺......
 ガウンとかマスクとか、
 まだ着たままだったな)

 ちょうど実験室に戻ってきたのだ。それ用のゴミ箱は目の前にある。
 そこに捨てようと思って、俺は、まず、息苦しいマスクと、長髪を覆っていたキャップ帽を脱ぎ捨てた。
 ......と、その時。

「ずっと前から愛してましたぁ〜〜ッ!!」


___________


「ビックリした......」

 心臓が早鐘を打つ中で、俺は、か細い声を絞り出す。
 ある意味では、悪霊事件そのものよりも、もっと驚いてしまった。
 俺が素顔を見せたら、横島が突然、飛びかかってきたのだ......!
 美神が引き剥がしてくれなかったら、この男にギュッと抱きしめられた状態が長々と続いたことだろう。考えただけでもゾッとする。

 ポカッ!!

 横島は、美神から鉄拳制裁を食らっているが、すぐに回復。
 何事もなかったかのように、キリッとした表情で、俺に手を差し出した。

「紹介が遅れました。
 ゴーストスイーパーの横島忠夫です。
 アラキノリコさん......ですね?」
「は......はい......」

 反射的に握手に応じてしまう俺。
 だが、すぐに後悔した。
 なんだか、手の握り方がイヤラシイのだ。異性とのスキンシップを悦んでいるのだと思えてしまう。
 ......これだから、男ってやつは!


___________


 だから......俺は男が嫌いなんだ。
 俺は女性として生まれてきたのに、今までカノジョがいた時期はあっても、カレシを作ったことは一度もない。つきあうのは、いつも女性だった。

 いわゆる『レズ』で通してきたんだ。

 たった今この横島という男に抱きつかれたときだって、変な不快感があったくらいだ。
 別の言い方をするならば、それは......ビクッとするような感覚。
 その『ビクッ』は、あくまでも不愉快な『ビクッ』であって。

 べ、別に......。
 「ちょっと気持ち良かったかも」だなんて。
 「男も悪いもんじゃないかも」だなんて。
 ......お、思ってないんだからねっ!?


(あなたの隣に霊は居る・完)

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