lost you
ビーデルさんも、お母さんも、パンちゃんも、みんな泣いている。トランクス君だって涙を滲ませて――。
ヤムチャさんも、クリリンさんも沈んだ顔をしているけれど、僕は涙のこれっぽっちも出なかった。それは悲しくない、とかいうんじゃなくて、たぶん、この中で僕が一番事情を分かっているからだ。ベジータさんはいまはきっと神殿にいて、兄ちゃんのことを聞いている。すべていつか――知ることになるだろう、このみんなも。
なんで、とさっきからぽかぽかとお腹をパンちゃんにたたかれるけど、僕はごめんね、としか言えない。
そんな恨めしそうな目でみないでよ、僕だって、泣きたいんだから。
兄ちゃんが倒れていたのを見たのは偶然だった。たまたまデートが不発に終わったから、ふてくされて兄ちゃんのところで暇をつぶそうかな、とか思って、ふだんはまったく寄り付かないそこに足を運んだ。
そうしたら、額にびっしりと汗を浮かべて倒れている兄ちゃんがいた。
どうしよう、って慌てているうちに、急にパァっと昔聞いた話がよみがえった。
父さんは心臓病で死ぬはずだったこと、未来から来たトランクス君のこと、セルのこと――。
兄ちゃんは、いつもどこか懐かしそうに、さびしそうに、悲しそうに、そんな目をして話してくれた。僕はそんな目を兄ちゃんにさせたくなくて、いつかその話を避けるようになったけど、それでも、僕はその話を忘れることはできなかった。
まさか、と思った。どくん、どくん、と心臓が早鐘を打つ。手が震えて、兄ちゃんをうまく抱きかかえられない。とにかく医務室にいかなきゃ。膝と脇に手を通して抱えあげて、一目散に走る。
真白なベッドに兄ちゃんを寝かせると、まだ苦しそうに胸を押さえて唸っている。こんな苦しそうな兄ちゃんは初めて見るから、何をすればいのかわからない。父さんが発病した時も、兄ちゃんはこんな気持ちだったんだろうか。
「兄ちゃん、しっかりしてよ、にいちゃん…」
鼻の奥がツンとする。ああ、だめだ、涙が出る。そんな、心臓病かもしれないなんて、僕も想像が過ぎる。それでもそれを無視しちゃいけないとどこかでわかっている。頭の深いところから鳴り響く警鐘は、いつだっていやな予感しか知らせてくれない。
胸元をつかむ手に、僕の手を重ねてぎゅっと握る。少しでも楽になるように願う。にいちゃん、にいちゃん、と名前しか呼べない。
かすかに兄ちゃんの唇が動く。何か、だれかを呼んでいる。
「にいちゃ…?」
「…ぴ……さ…おと…さ……」
「にっ…」
そして、その唇の形は。
「い…ない…で…っ」
(ああ)
その時急に、兄ちゃんはさびしいのだとわかってしまった。当たり前のことだけど、兄ちゃんはさびしがっている。たとえビーデルさんだって、パンちゃんだって埋めることはできない、大きな心の穴。ぽっかり空いたそこに、きっと病は付け入ったんだ。
小さい頃の思い出がよみがえる。兄ちゃんはいつも、紫色の道着を好んで着ていた。誇らしげに、いつだって。山吹色の道着も好きだと言っていたけど、それでもよく着ていたのはあの紫色で。ピッコロさんがいなくなってから、そういえば兄ちゃんはあの道着を着ていない。
僕は兄ちゃんの弟なのに、なにもできない。いつだって兄ちゃんより弱くて、守られてばかりで――。
「にいちゃ…ごめんなさい、ごめんなさい…っ」
謝っても、どうにもならないのだと知っていても。兄ちゃんは、笑って許してくれると知っていても、僕はただひたすら、謝った。
返せるものが欲しい、と思った。有体にいえば、なにか兄ちゃんのためにしたかった。
「あれ?」
ぷかぷかと、タバコの煙。白く長く、細い筋は青い空に消える。煙草を吸う人は、たしかブルマさんやヤムチャさんくらいだと思ったのに。
「あ…ベジータさん」
いつの間に、と問えばついさっきだ、と憮然とした表情で返される。なにかがぎっしり入った袋をわたされて、僕はびっくりする。中をおそるおそる見れば、それは林檎だった。
「やつらに配っておけ、あと、ブルマを呼んで来い。いいか、ブルマだけだ」
「あ、はい…」
リビングに戻って、ブルマさんに林檎と、ベジータさんが呼んでいることを告げると、すこしだけ微笑んでブルマさんは頷いた。そして、ポイポイっと、林檎をみんなに配り始めた。
「いいこと、このリンゴは絶対に食べときなさい、おいしいわよー!…チチさん、切ったげて?」
真っ赤な林檎を見て、クリリンさんやチチさん、ビーデルさんはなにか悟ったようだった。声を震わせて、クリリンさんは「悟飯のばかやろう」と呟いた。チチさんは「仕方ねえだなぁ」と言い、ビーデルさんは、ただひたすら俯いて涙を流した。
やっぱり僕は涙も出なかった。ただひたすら、ぼうっとしていた。
――兄ちゃんは今、きっと幸せに笑っている、ただそれだけを信じたかった。
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