タイトル『An incognito date』
手を優しくひかれて、その車に乗り込む。
ささやかな夜のドライブは
私たちだけの内緒のデート
人目を盗んでそっと飛び出す。
それは何よりも、飛び切り楽しい、飛び切り幸せなそんな―――…
彼がそっと黒革のジャケットを脱ぎ捨て、深くかぶっていた帽子を脱ぎとる。
カーライトに照らされ、私の前にやっと素顔を覗かせた。
「ふぅ、やっと開放された感じがします!」
「毎度ご苦労さま」
赤信号での待ち時間。
彼はいつものように手際よく前髪をようやく纏め上げ、大きくため息をつく。
「そのサングラス、
さんもとってください。もう大丈夫ですよ」
「そうね」
助手席でまとめていた髪を下ろし、ゆるくウェーブのかかった茶の髪をとかしていると
彼にそんなことを言われて、思い出したように私はその手を目のあたりへやった。
こうして私たちが、まるでお忍びであるかのように夜のデートを続けるのにはわけがある。
彼は今期メジャー挑戦か、とマスコミにも騒がれる有名なプロ野球選手。
一方私は最近やっとニュースも読ませてもらえるようになったいわゆる女子アナウンサー。
彼との出会いも私の新人の頃のスポーツコーナーのインタビューだったっけ。
懐かしいなぁ……
「さん、
さん?どうかしたんですか?黙り込んじゃって」
「あ、なんでもないの。ちょっと昔のこと、思い出しちゃっただけだから」
不思議そうにで私の顔を覗いてくる彼に私は慌てて首を振る。
「あ……これ、そうだ!ねぇこの曲かけてもいい?」
ふと、私は彼の車の付属のラックに目がいった。
そこで見たCDはあまりにも懐かしくて、思わず彼にそう問いかけてしまった。
「えぇもちろん。初めてのデートでかけた曲……でしたよね?」
「覚えててくれたんだ、うん、私この曲大好きなの」
優しいメロディーがふわふわと流れていく。
言葉なんて何もないけれど、心地のいい時間。
目を閉じると頭の中を想い出が駆け巡っていくようで、心の奥があたたかくなっていく。
まだあの頃はこんな時間の楽しみ方、知らなかった。
「お互い若かった、ですよね。僕もまだ沈黙が怖かった」
不意に彼が口にする。
驚いてそっと運転をしている彼を見るとそこには大人の男がいて、
私の心は奪われるかのように、どうしようもなく見とれた。
いつも見ているはずなのにどうしてかその横顔に、魅せられた。
「ん?僕の顔に何かついてます?」
「あ、違う違う……私もそうだった。何か話さなくちゃって、話題を探してた」
彼はふっと優しく微笑んで、流れるメロディーに再び耳を傾ける。
信号がやがて青に戻るとまた、車を発進させた。
「さぁ着きました、ここです」
「もしかしてここがその……?」
そういえばつい何日か前、彼は私に連れて行きたい場所があるといっていた。
「えぇ、ここです」
車の扉を開けて優しく手をとってくれる彼。
そこにはとても都会の景色とは思えない世界が広がっていた。
「……綺麗」
色鮮やかな満月に、あたり一面に光る数え切れないほどの星。
同様にそれらは揺れるみなもに映りこみ暗い夜の海をゆらゆらと照らしている。
「本当は堂々とあなたを彼女だと紹介して、当たり前のように繁華街を歩きたい、でも今の僕では……」
小さく彼が呟いた。
見たことのない世界に心を奪われていた私はそんな彼の声に驚いてしまう。
「それで考えたんです。夜にしか出歩けないなら夜にしかいけない場所に連れて行ってあげようって」
それでやっと見つけた穴場なんですよ、と彼は私に耳打ちする。
「こんなに月の近い場所、私知らなかった……今まで見た中で一番綺麗な気がする」
嬉しかった。
ただでさえ忙しい彼には、一緒にいられる時間さえも見つけるのは容易なことではないのに
マスコミに追いかけられ、その目を盗まなければいけない。
その中で私に会う時間を作ってくれる、そして私のことを考えてくれる、私との―――。
「時々しか会えないのは寂しいけど……でも、嬉しい」
「……え?」
水面に揺れる月を見つめていた彼が、私の言葉に振り向く。
「私のこと、いつも考えてくれてるんだって思える」
訪れる静寂の中で、私の声だけが空気を震わす。
「そう言ってもらえると、僕も救われます」
ありがとうございますと、彼は包み込むように私を抱きしめる。
「出来るだけ早く決着はつけたいのですが……」
「いいのよ、これからの人生を左右する大きな決断なんだもの。
ゆっくり考えて進くんの納得のいく道を、選んで」
ゆるゆると私の彼の背中に手をまわす。
「僕、
さんに好きになってもらえて良かった、好きになってよかった……」
「あなたがどんな判断をしても、それがあなたの決断なら私はあなたについていくよ」
水面には月と星と、そして2人の影だけが静かに揺れていた―――。
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061201 一度は書いてみたかった女子アナとの恋模様でした。
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