その頃、前主人である光明の元を去った昆侖は容赦なく吹きつける大雪の中を
あてどもなく歩き続けていた。
暖かく、にぶく輝く照明に囲まれた光の御殿である光明の別荘を去ってからどのぐらい経っただろう。
彼は酷い眠気と体力の限界に襲われ、とうとう力尽きて降り積もった雪の中にくずおれた。
今の女主人から授かった黒長石の剣をしっかりと握り締めて。
彼の体は冷たく凍りつき、その端正な顔立ちは疲れきっていた。
「おやおや、私の警護をする者がこんなところで寝ているとは」
暗い銀世界に、さんさんと輝く日差しがすーっと流れ込み、昆侖の頭上で面白そうな声が響いた。
「満神が言っていた運命を変える者はこんなにもろかったのかい?」
「お前はまだ死ぬ時じゃない。そして、孤独な傾城を救えるのもお前だけだ。」
「私は公爵の側にいられて幸せだ。何も心配するな」
「大丈夫。きっと何もかも上手くいく」
そう言うと、は豪華な白絹の衣からのぞく片手を差し出した。
昆侖は今度ははっきりと目を開けて起き上がり、おそるおそる彼女の手を取った。
「早く目覚めなさい。お前を待っている者がいる」
彼女は天使のようなしっとりとした微笑で告げた。
「様!」
彼はその言葉にガバッと起き上がり、辺りを伺った。
先ほどまで降っていた大雪はすっかりやみ、さんさんとした太陽が彼の顔を照らしていた。
「やっと起きたか。何をやっているんだ?」
「何でもありません」
ベッドの上から細く滑らかな指を額に当て、目を閉じて何千里も離れたところでぶっ倒れていた昆侖に意思を送っていると
観音開きのドアがノックもなしに開けられ、公爵が現れた。
「宮殿の外を散策しよう。今日は暖かく良い日だ」
「何かいいことでもあったの?何だかとても嬉しそうに見えるわ」
彼女は公爵の顔が太陽のように輝いているのを感じて言った。
「わかるか?実はある計画を思いついてな」
彼も彼女の可愛らしい反応に気づいて、嬉しくなった。
「何です?」
はわくわくしながら尋ねた。
「おっと、お前には何も喋れぬ。まだお前を完全に信用したわけではないからな」
彼はよく手入れされた、細く力強い指を彼女の薄紅色の唇に押し当てて言った。
「傾城のようなお前が私を騙すような女か、そうでない女か見極めてから話してやろう」
「女は狡賢い生き物だと私は充分に承知している」
それから彼は彼女を宮殿の外れの森に連れて行き、野生のままの藪地に
腰をおろした。
「初めて会った時から気づいていたが、お前は普通の人間ではないだろう?」
ちょうど公爵は手近にあった咲き誇る野ばらで、彼女の漆黒の髪の毛を飾る花輪を作り上げているところだった。
「さしずめ、正体は狐か、狸かというところか?」
「違います。私はその・・信じてもらえないでしょうが・・あの世の死者。つまり、死神です」
「それは面白い。で、私の死期が近づいているので引き取りに来たということか?」
「違います。あなたに恋をして、冥府の国を飛び出して下界に降りたのです」
「それは残念だな。私は何年も一人の女だけに愛を捧げている。お前の入る隙はない。」
「では私のことはどうお思いなの?」
彼女は溢れそうになる涙をこらえながら、呟いた。
「妹としてかな?お前といると何故か心がやすらぐ。だが、それだけだ。一人の女として
見ていない」
そこで彼は出来上がった花輪を彼女の頭にかぶせてやった。
「傾城への愛は無駄だと思うわ」
しばらくして多少気を落ち着けたは、フーンと顎をそらせて言った。
「何故そう言いきれる?彼女への嫉妬からか?」
公爵は面白そうに聞いた。
「彼女には愛する人がいます」
「光明か?」
「違うわ。これからあなたの行く手を遮ることになる男よ」
「フン、まさかあの奴隷か?」
「そうよ。何でこんな人を好きになったのかしら?」
は腹立だしげに、腹をかかえて横で大笑いしている公爵を眺めやりながら言った。