茂みから這い出してきたのは獣ではなく、人間の男だった。

男は飢えた野良犬のような目を光らせながら、暗闇をかき分け、彼女の側に這ってきた。

男は彼女に目も向けずに、その横においてあった彼女が食べ残した竹の葉にくるんだ鱒に手を伸ばした。



この食物こそ、まさしく彼の胃が要求していたものだった。

彼は竹串に刺さった鱒に半分ほどかぶりつくと、急いで飲み下した。


男は彼女が目を覚まさないのをいいことに二切れ、三切れと彼女に背をむけてどんどん平らげている。



その時だ。菩提樹の大木に背をもたせかけて眠っていた馬がヒヒンといななきを上げた。


男はびっくりして、馬の方を見た。



「お前で三人目だ」


ひんやりとした刃物の感触が男の喉を通過した。


そこには目にも留まらぬ速さで が、黒長石の剣を男の喉に突き当てていた。


「一人目の男は私から馬を盗もうとしたので殺した。二人目の男は私を襲おうとしたので殺した。

三人目は私から食物を盗んだ。さて、どうしようか?」


はカラカラと喉を仰け反らせて笑うと、油断なく男の喉元に切っ先を突きつけゆっくりとその周りを

歩き始めた。




「お願いです、私を殺さないで下さい!」


すると以外にもその大きな男は両手を上げ、怯えた声で答えた。


「お許し下さい!あまりにも腹が空いていましたのでつい、手が出てしまったのです」


の怒りはまだ解けていなかったが、剣を持つ手がいくらか緩められた。


「近頃、このあたりで奴隷の集団逃亡があった。お前もその一人か?」


は男の澄み切った漆黒の目を覗き込み、尋ねた。


「はい」


「名は何と言うの?」


「昆侖です」


「お座り、昆侖」


は男が何かに怯えているということと、悪意がなさそうなのを見取って


剣を鞘に収めた。




「食べるといい。私は先ほど沢山食べたから」


彼女は黒い扇子を懐から取り出すと、その先を燃え落ちた小枝の方へ向けた。



途端に勢いよく小枝から緑の炎が上がり、昆侖は驚いて後ろに飛びさすった。



彼女は少し焦げ目のついた竹串を昆侖に渡すと、自分はカバの木で作ったコップを

側を流れる小川に突っ込み水をすくった。





「食べないの?」


昆侖が目を白黒させてこちらを見ているのを可笑しく思いながら は言った。




彼女は昆侖が鱒をがつがつと口の中へ押し込むのを小気味よさそうに眺めながら、仔細に観察し始めた。


犬を思わせるような深い黒色の清らかな優しい目、見上げるような大きな体に、ぼろをまとい、伸び放題の黒いちぢれ髪は肩に無造作にかかっていた。

首には擦り切れた鈴付きの茶色の首輪を下げており、それが彼が奴隷だという証拠を表していた。



「お前はどこの生まれ?」


ふわっと彼女は地面から浮き上がると、素早く昆侖の隣に移動した。


昆侖はポカンと口を開けて、 の人間離れした技を眺めた。


「そんなに驚くことはないわ。私は普通の人間ではないのだから・・こういうことが出来るのよ」


「お前に言っても信じないだろうが、あの世の者よ」


はそういうと、指で天空を指差した。


昆侖は意味が分からなかったのらしく、それ以上追求してこなかった。


「で、どこの生まれなの?」


彼女は再び話を戻した。


「知りません」


彼女の身に着けていた黒の羽衣が昆侖の鼻をくすぐり、彼はくしゃみをしてから答えた。


「知らない?では家族は?恋人はいないの?」


「いません」


「いつから奴隷になったの?」


「ずっと前からです」


「武術は出来る?」


「はい」


「走るのは速い?」


「はい・・誰にも負けたことがないです」



「前のご主人から逃げてきたのはなぜかしら?」


「逃げてきたのではありません。えーと・・」


よ」


はとっさに思い浮かんだ名前を名乗った。


様。前のご主人様は戦の途中で命を落としました」


「それならちょうどいいわ」


彼女は先ほどからあることを熱心に考えていた。



「お前・・私の護衛になってくれない?」


「はい」


何のためらいもなく昆侖は答えていた。



「なぜ承知したの?」


彼女は奴隷が何の迷いもなく即答したことを不思議に思い、尋ねた。


「それは・・」


昆侖はにやにやと歯をむき出して笑った。


様が気に入ったからです・・それと、美味い食物が食えるから」


「面白いことを言うわね!私を気に入った?まさか・・あははは!」


はそれを聞くと高らかに笑った。


笑いすぎて体が前後に揺れていた。



「天の12神の中で最も忌み嫌われている私をか?あははは!!」


彼女は黒い扇子を口に当ててまだ笑っていた。



「そんなことを言ってくれたのはお前が最初だ。ますます気に入ったわ。昆侖!」


やっと口が利けるようになった は言った。


本気に受け取ってもらえなかった昆侖はしょんぼりしていたが。



「その首輪は取ってしまうがよい」


はうるさいハエを追いやるように、黒い綿で出来たふわふわの扇子を昆侖の首に向けて振り下ろした。


あっと彼が驚く間に緑の火花が飛び散り、首輪は焼け落ちてなくなってしまった。


「ご主人様。私は奴隷なのです」


昆侖は困ったように、頭を地面にこすりつけて言った。


「お前はもう奴隷ではない。護衛よ」


彼女はふわりと空中を瞬間移動すると、素早く昆侖の耳に囁きかけた。



「だから跪かなくてもよい。それから・・今後はそれにふさわしい服装を」


がどぎまぎして、息のつけない昆侖にもう一振り扇を振り下ろすと、今度は


今までの混紡織りぼろ服が消え、代わりに真紅の柔らかな絹服があらわれた。


「うん、お前にはやはり赤が似合うわ」


彼女は自分より頭二つ高い昆侖を立たせると、丈はあっているか、ひだはちゃんとしているかを


肩や腰を叩いて確かめた。



「この剣を渡しておく」


彼女は自分の鞘から黒長石のぴかぴかした剣を抜くと、頭を垂れて次の指示を待っている護衛に


授けた。



「ありがとうございます」


昆侖は恭しく頭をさげ、両手で剣を捧げもつと感激した目で新しい女主人を眺めた。



「それから、あそこに繋いである馬の世話はお前の役目だ」





















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